『あなたは神を信じますか?』


後編 〜Ryo〜


9th. 敗者には敗者の事情っつうものが




 市内では除雪作業が進んでいた。最近は街中の主要道路にはことごとく融雪
装置が張り巡らされているし、そうじゃない道路でも、毎朝除雪車が作業して
まわっているから、昔ながらのスコップとスノーショベルを使った雪かき作業
の量はずいぶんと減った。
 それでも残るものは残る。例えば私道だ。それに、除雪車の入って来れない
路地裏もそうだ。ここのような。
 そこかしこに、手作業による雪かきの跡が残る。
「ここなの?」
 友絵が尋ねる。山から下りたあと、一旦家に寄って着替えてきたので、いつ
もの恰好になっている。いつもながら前が見えそうな気がしないサングラス。
 西野こども公園。そんな文字がかろうじて読みとれる金属製のレリーフが腰
ほどの丈のコンクリ製のいかにも安物な門柱に埋め込まれている。
 門柱の根元付近を蹴る。繋がっている緑色の金網に付着していた雪が振動で
落ちる。
「あぁ。最後のヴィジョンではここだった。間違いない」
 公園の車止めの奥まではさすがに除雪されていない。というより、道の除雪
作業のための恰好の雪の捨て場になったらしい。
 車止めのあたりを足で二、三回、軽く踏み固める。公園全体がビル街の中で
日陰になっているせいか、思ったよりぐちゃぐちゃにはなっていない。
 足に力を入れて踏み込む。よし。ずぼらない。そのまま数歩、中に進む。
 足場は意外としっかりしている。むろん警戒は怠ってはならないのだが。
「祀穂理は、そこからこういう感じで歩いて……」
 そう言いながらさらに進む。公園の中央部を通過して滑り台の近くまで歩く。
「ここに来た」
 友絵が結構平気そうな顔でこっちが付けた足跡を辿ってくる。
「で、そのマッチョマンは?」
 追いついて尋ねる。
 滑り台の脇を指差す。
「そこにいた訳だ」
 ……なにかが引っかかる。匂い。祀穂理の笑顔を連想させる匂い。
 友絵が、指差した方へと新雪を踏みながら進む。
「この辺?」
 そう言いながら友絵は、こちらを振り向く。
「もう少しこっち……だな」
 手で指示する。
「この辺ね」
「あぁ」
 祀穂理が立っていた位置に自分がいて、マッチョマンがいた位置に友絵がい
る。奇妙な感覚。
 友絵が空中を見据えて、真剣な顔でなにかを探っている。黙って聞く。
「なにかしら……これ……なにかの術の痕跡が……残っている。……それは判
るわ。でも、それがなんなのかが判らない……。時間関係の術者っぽい匂いも
するんだけど……」
 友絵が普通の顔に戻る。
「駄目ね。これ以上の情報は残っていないわ。亮君はなにか感じない?」
 尋ね返される。
 匂い。匂いの部位は、脳の中で記憶の部位と直結している。だから、匂いが
人間の記憶にもっとも訴えるのだという話を聞いたことがある。
「祀穂理の匂いがする」
 呟いてみる。呟くことによって、感覚がその匂いへと集中していく。
 何と表現したらいいのか。祀穂理の匂いと言う他はない。
「なぁ、これが、マクスウェルの悪魔の力の痕跡なのか?」
 友絵に尋ねる。
「力の痕跡じゃないわね。あたしには全く感じられないもの。たぶん、マクス
ウェルの悪魔の存在の痕跡じゃないかしら。マクスウェルの悪魔自身と、その
契約者以外は、マクスウェルの悪魔の明滅を繰り返す存在の痕跡を追うことは
できないという風に資料にはあったはずだから」
 なら、これがそうだと信じて動いてみるしかないのか。これが祀穂理の存在
の痕跡だと。
「じゃぁ、この匂いを、辿ってみるしかねぇのか」
 なんつうか、まるで犬の仕事のようだが、仕方あるまい。

        ***

 祀穂理の匂いの痕跡は、中心街の中を、大通りと平行する裏道を真っ直ぐ北
上していた。
 一歩進んでは、感覚を集中させて。また一歩進んでは立ち止まって感覚を集
中させて。匂いという、かなり曖昧な情報を辿ることが如何に困難かがよく判
る。
 三〇分かかって、あの公園から五〇〇メートルも進んでいない。あのマッチ
ョマンの所へ辿り着くまでいったい何時間かかるんだろうか? 想像しただけ
でうんざりする。下手をすると、夜中までかかるかもしれない。
「ね、ねぇ、亮君」
 友絵が声をかけてきて、振り返る。
「ん、どうした?」
 何か、顔が紅潮している。
「この辺に、大きめのデパートかショッピングセンターか何かないかしら?」
 なにか買うものでもあるのか? 少し考える。
「この道を真っ直ぐ行った先にデパートがあるが」
 そう答える。
「じゃぁ、ちょっと行ってきていい?」
 今急いで買わなくてはならないものがあるとは思えない。
「何しに行くんだ? 買い物ならあとででも」
「お手洗いよっ! バカ!」
 何かせっぱ詰まってんなぁ。しかし、バカとは何だバカとは。
「さっきの公園に、公衆トイレがあったが……」
「あのね! 女の子に、あんな汚らしいトイレに行けっていうの?」
 ……トイレに変わりはないと思うのだが。それに他にも選択肢が……
 ま、いっか。
「わかったわかった。ここで待っててやっから、ゆっくりやってこいや」
 投げやりな気分。
「デリカシー欠損症!」
 一言残して、友絵は小走りで去る。
 ……何、怒ってんだ?
 友絵が去っていった先を何となく見送って。溜息。友絵が戻ってくるまでこ
こで待っている必要がある。ま、五分くらいか。
 喉が渇いていることに気がつく。
 さっき見かけたジュースの自販機の所まで行く。取りあえず、コインを二枚
スロットに投入する。
 どうも売り切れが多い。ちゃんと補充してんのか?
 缶コーヒーははじめから飲む気にならないし、炭酸系は好みのが売り切れて
いる。ポカリ系の飲料は嫌いだ。つまりは選択肢が狭い。というよりほとんど
選択の余地がない。
 無炭酸のアップルジュース系清涼飲料のボタンを押す。鈍い衝突音と共に、
取り出し口に缶が出現する。
 金曜日の午後。まだ学校も会社も終わる時間じゃない。
 裏通りは人通りもない。
 自販機の隣りに立っている電柱に背中を少しもたれ掛けさせるようにして、
ジュースの缶のプルトップを開ける。ガスが漏れる音。ゆっくりと戻す。
 口に運ぶ。一気に三口。冷えていて、うまい。身体が水分を求めていたから。
それ以外にうまいと思える要因はないが。
 夕方まで追跡したあとは、友絵は戻らなくてはならなくなる。一応はうちの
臨時家政婦をしているから、夕飯の支度がある。
 さっさとケリをつけちまわねぇと。
 残った飲料をのどの奥に残らず流し込む。親指の第一関節の所でアルミ缶の
横腹を軽くへこましながら。
 息をつく。自販機の脇の缶捨て場に缶を投げ込む。
 ジュースの缶が、潰れる。
 手から缶捨て場への放物線軌道上の頂点で、何の前触れもなく缶が、真空ポ
ンプで中の空気を吸い出したかの様にぺしゃんこに潰れた。
 缶はその場で速度を失って真っ直ぐ路面に落下し、安っぽい金属音を立てた。
「遅かったですねぇ。待ちくたびれましたよ」
 振り向く。自分の中から結界をいつでも張れるように準備しながら。
 友絵がいなくなるのを待っていたという事か。ウェルバー。
「尾行ていたのか?」
 訊く。
「いいえ。何でわざわざ」
 相変わらず、人を小馬鹿にしたような丁寧な口調。
「どうやって、ここにいることをかぎつけた?」
 タイミングがあまりにも良すぎる。
「マクスウェルの悪魔とその契約者は一つの存在ですからね」
 いったい何を今さら…………っ!
「祀穂理から、存在を辿ったのか!」
 思わず叫んでいる。
 こちらが祀穂理の情報を入手できるという事は、祀穂理がいれば、この自分
の情報を入手できるという事でもあった。
 そして、それはすなわち、祀穂理がこいつの手中にあるという事。
 ウェルバーはニヤニヤ笑いをやめない。ムカツク。戦闘的な気分が沸き上が
ってくる。
 ちょうどいいといえばちょうどいい。祀穂理の居場所を吐いてもらおうじゃ
ねぇか。
「祀穂理はどこだ?」
 そう言いながら、自分とウェルバーのまわりを情報結界で包む。
「祀穂理はわたしの娘ですよ。娘が父親と一緒にいるのは、むしろ当然のこと
じゃありませんか?」
 はぐらかすような答え。
 むろん、この段階でウェルバーが言うとは思ってはいなかったが。
「嘘をつくな。貴様、なぜ、ウェルバーの名を騙る? 本物の……祀穂理の父
親のウェルバー・マクスウェルは死んだ筈だ。十八年前の横須賀の埠頭で」
 一種の切り札。知っている情報。いや、記憶している。
「記録では確かにそうなってますねぇ」
 動揺すらしない?
「記録がいつも正しいとは限りませんしね。わたしは、ウェルバー・マクスウ
ェルですし、祀穂理は正真正銘わたしの娘ですよ。真実は一つです」
 ウェルバーは、そう言うと同時に小さな結界を腕にまとわりつかせる。
「だから、君のような男に祀穂理を渡すわけにはいきませんね」
 鏡の中の自分。自分でないものが、自分と同じ顔をしていること。ドッペル
ゲンガー話が、なぜ恐怖に感じられるのかがウェルバーを見ているとよく判る。
「ならば、倒すまで」
 宣告する。重心を下げる。一昨日、ウェルバーと初めて会いまみえた時と比
べても、自分の力をずいぶんとうまく制御できるようになっている。
 左腕に、貼り付けるようにした防御結界。右腕に同調させた攻撃結界。少し
は考えたのだ。力をやみくもに叩きつけることは消耗しか産まない。
「なら、お相手して差し上げましょう」
 ウェルバーの両腕の結界が膨らむ。堅い守りが触れる前から判る。
 改めて、実力の差を感じる。
「怖じ気付きましたか?」
 ウェルバーの顔に、笑みが浮かぶ。その笑みが、意味するものが嘲りだと知
ったとき、なにかが切れる。それは自制心。
 右手を下から上へと振り上げるようにして作用を及ぼす。
 結界の効果範囲が、下に膨らんだカーブを描いてウェルバーへと向かう。
「ほう」
 ウェルバーの結界と衝突する。何も起こらない。
「その程度の攻撃では、わたしの結界を破ることはできませんよ」
 何をしているんだといわんばかりのウェルバーの口調。
 むろん、そんなことは判っている。そのまま自分の結界を下に、ウェルバー
の足元に叩きつける。路面が一気に陥没する。アスファルトが崩壊する。
「いっけぇ!」
 左手の結界をウェルバーの頭上へと投げつける。電気、ガス、上水、下水の
共同溝がこの真下を走っているから。
 作用と反作用。
 左手から出した結界が、ウェルバーの上を覆って、押しつぶす。ウェルバー
の結界自身を破ることはできないが、その反動はウェルバーの足元へと伝わる。
 ウェルバーの足元が大きく崩れる。
「なっ!?」
 共同溝を通っているガス管とおぼしき管を右手の結界で潰す。狙った通り、
ウェルバーが落下した位置とほぼ同じ位置にガスが吹き出していく。
「これで、どうだっ」
 左手の結界でウェルバーの転落した穴を上から塞ぐ。
 右手の結界は、高圧電線を操って。断ち切る。
 火花。ガスに点火するには充分すぎる。あとは、爆発を完全に共同溝内に閉
じ込めておくだけ。
 目を閉じる。二つ出した結界を融合させる。爆圧を、結界の中で必死で押さ
え込む。
 自分の所までは、光も、音も、振動すら届かない。エネルギーの一片たりと
も、この結界の中から出してやるものか。
 爆発がゆっくりと収まるのを、感じる。脂汗が、顎の先から落ちる。
 ウェルバー自体には触れれずとも、ガスの爆発で。これだけで倒せるとは思
っていないが、ダメージを与えられないわけはない。
 間髪を入れずに、そのまま結界の輪を縮める。ウェルバーを結界の中で、そ
のまま一気に押しつぶすぐらいの気持ちで。
「なっ!」
 結界の縮小が、妨げられる。結界が、切り裂かれる。その瞬間に結界の中に
感じていた手応えが消滅する。
「逃げた?」
 呟く。あれだけの攻撃を受けてまだ逃げるだけの余力が……
「逃げたとは。失礼にも程があるというもの」
 頭上から、声。
 見上げる。どこだ?
「ここですよ」
 電柱の上。スーツ姿のウェルバー。全く危なげなく立っている。
「わたしとしたことが……少々油断しましたよ」
 ふわりと降りてくる。
 全く変化した様子がないが、いくらかは、ダメージを与えられたのか?
「スーツが汚れてしまったではありませんか。むろん、高校生の関口くんにク
リーニング代を請求するような大人げない真似はしませんけどね」
 笑い。攻撃をかける前と全く変わっていない。
 ノーダメージ? 嘘だろ?
「いかがです? もう気は済みましたか?」
 バカな、バカな、バカな!
「くそぉぉぉぉ! 死にやがれ潰れやがれ壊れやがれ」
 前の時と同じだ。こちらの攻撃を、ウェルバーは顔色一つ変えずに防ぐ。
 攻撃をやめたら最後、あの力が、こちらを押しつぶす。そうに違いない。
 やがて来るウェルバーの攻撃能力に対する恐怖が冷静な判断力を奪っている
のは判っていたが、どうすることもできなかった。
 こちらが、息をついた瞬間、終わる。そして、永遠に攻撃を続けるという訳
には行かない。その瞬間がだんだん近づいてくるのが判っていながら、狂った
ように結界を叩きつけ続ける。力がだんだん弱まってくる。
「そろそろ鬱陶しくなってきましたねぇ」
 ウェルバーが、面倒臭げに呟く。と、同時に、ウェルバーの身体を防護して
いた結界の一部が鋭く突き出してくる。
 読んでいなかったわけではなかった。しかし。一旦、完全に攻撃を中止して
全ての結界を防御に当てたにも関わらず、ウェルバーの攻撃は結界をやすやす
と突き破った。
 必死に避ける。自分の結界では、ウェルバーの攻撃を防ぎきることはできな
い。それくらいは判っていた。しかし、ここまで無力だなんて。
 頬の汗をぬぐう。ぬるっとした感触と、頬の端からの激痛。
 手を見ると、血。避けたつもりでも喰らっていたって事か。
「もう終わりですか? こんなに脆弱な男に祀穂理を渡すわけにはますますい
きませんよねぇ」
 ダメか。心の中を絶望が支配していく。効果的な攻撃方法がまるでない。
 これが……純血のMaxwellの悪魔の力なのか……
 諦念。それは、誘惑でもある。これは罪に対する罰。そう思えれば……
「祀穂理を……護らなければいけない」
 口の中で呟く。誘惑を断ち切る。まだ、死んではいない。諦めるのは死んで
からでいい。
 両腕の結界を強化し直す。肉薄すれば、接近戦に持ち込めば、何とかならな
いだろうか?
「おや、まだやりますか。それでこそ、日本人」
 ウェルバーが、小馬鹿にした口調で笑う。
「玉砕しか能がない」
 そんな言葉は聞かない。
 地面を蹴る。風を起こす。速度を上げる。一気にウェルバーとの間合いを詰
める。ウェルバーの結界、その一番外殻に結界で強化した右手の手刀を叩き込
む。結界の中に手刀が刺さっていく。引き裂くように、破る。破れる。破るこ
とができる。そのまま結界の中におどり込む。
「祀穂理をっ」
 ウェルバーの顎の下あたりをめがけて、左腕から身体全体で突っ込ませる。
「返せっ」
 右腕の手刀をウェルバーの左胸へと突き立てる。勝てるか?
 そう確信しかけた瞬間。
「おろかな」
 ウェルバーの呟き。同時に、視界が暗転する。
 首筋が、冷たい。冷たくざらついているもの。雪? まぶたを開く。衝撃は
その後で襲ってくる。激痛。体中が、無意識の痙攣を起こす。それがさらに激
痛を呼ぶ。痛みの中、理解する。道路脇の雪山の上にぶっ飛ばされたのだ。マ
クスウェルの悪魔の力で。
 たった一撃かよ。自嘲。
 口を開こうとして、失敗する。肺が、焼けるように熱い。声を出すことすら
できない。目だけを見開く。かろうじて、視界の中に、ウェルバーの姿が入っ
ている。
 身体が動かせない。
 このまま……死ぬのか? 死んでしまうのか?
 祀穂理を護れないまま、死んでしまうのか?
 ゆっくりとウェルバーの姿が大きくなってくる。
 最後の結界を張る。体幹部と、頭だけを覆う結界。最後のあがき。
 まるっきりの無駄かもしれないが、ないよりはまし。
「殺しはしませんよ。関口くん。君にはもう少し役に立ってもらわなくてはな
らないからね」
 どういう意味だ……
「動けるかね」
 動けるわけ、ねぇだろ……
「動けませんよね。そうじゃなきゃ困りますからね。あぁ、後で二度と動けな
いようにしてあげますし」
 ウェルバーの手がゆっくりと空気を撫でる。
 空気が、自分の身体を持ち上げる。縛る。体の自由が完全に奪われる。
 何をするつもりだ……
「せめて、祀穂理に一目会うまでだけは、意識だけは残しておいて差し上げま
すよ。君の敢闘への賛辞としてね」
 どういうつもりなんだ……
 声がでない。体も動かない。防御結界もほとんど消えかかっている。
 ゆっくりと、運ばれようとしているのが判る。が、唐突に停止する。
「ウェルバー・マクスウェル。消滅したくなければ大人しくなさい」
 友絵の声?
「おや、ずいぶん早かったですねぇ。小さい方だったんですか?」
 紳士にあるまじき質問。そーか、これが英国紳士って奴か。
「亮君!」
 こちらに気がついたんだろう。友絵の悲鳴。
 すまない、友絵。時間さえ稼いでいれば、戦闘に友絵が間に合ったろうに。
 要するに各個撃破されちまったってわけだ。それっ位も考えつかなかったの
が愚か。
「ウェルバー。亮君を返しなさい」
 友絵の声には殺気すらこもっている。
「そうですねぇ。わたしも、関口くんを抱えたままあなたと戦えると考えるほ
どの愚かさは持ち合わせておりませんから」
 ウェルバーの返事。
 身体を縛めていた力が解かれる。と同時に、大地に叩きつけられる。
 背中から思いっきり落ちる。一瞬、息が止まる。
「ぐぉっ!」
 声が漏れる。
 自由が回復したはいいが、はっきり言って、行動不能な身体の状態は全く変
わっていない。体中から鈍い痛みが広がる。芋虫のように転がって、ウェルバ
ーから離れる。
 この上、友絵に対する人質にされるような屈辱はごめんだ。
「と、ともえ……」
 唇から、やっとの事で声を出す。せき込む。痰に、血が混じっている。
「亮に何をした?」
 友絵が、退魔師であるということが、今初めて実感できた。実戦経験豊富な
神道系の退魔師。ウェルバーに感じた、ただ強大なだけの力ではなくて、魂を
揺さぶる、荒ぶる神の力。それは神々しささえ感じさせて。
「彼が祀穂理に会いたいというので、一目ぐらいは会わせて差し上げようかと。
目的のついでですからねぇ」
 目的? 関口亮という人間に……この身体に、何らかの利用価値を認めてい
るのか?
「長田友絵さん……別名、父殺しの女神、でしたかな。お引きとり願えません
かねぇ。あなたはただ邪魔なだけなんですよ」
 ウェルバーがふざけているのか真剣なのかさっぱり判らない、いつもの口調
で友絵を挑発する。
 友絵の怒気が一気に膨れ上がる。
「いつまでも勝手なことを!」
 御幣を(そう、びらびら付き御祓い棒と呼ぶと友絵が怒る)自らの前に青眼
に構えて。
「力よ、我に宿りて、眼前の邪を祓いたまわんことを!」
 単純な、言葉。
 凛とした気が、友絵のまわりに集中していく。
 友絵の短い頭髪が、静電気でも帯びたようにゆっくりと逆立つ。
 女神……『父殺しの女神』? ウェルバーの言ったあの異名は。
 友絵の気の余波が、身体に触れる。触れた部分から痛みが和らいでいく。
「破っ」
「ふんっ」
 友絵のかけ声とウェルバーの声が重なる。
 友絵が放った攻撃波を、ウェルバーが受け止める。
「さすがに……女神と呼ばれるだけのことはある……」
 ウェルバーが、初めて真剣な顔を見せている。友絵の攻撃は、ウェルバーを
して全力を挙げなくては防御できないほどのものだったということだ。
「これは関口くんのようにお遊びであしらってあげるという訳にはいきません
ねぇ」
 お遊びかよ。
 そう言われても仕方のない実力の差。
「消滅しなさい。汝は……穢れだ」
 友絵が言い放つ。
 今度は、ウェルバーがしかける。マクスウェルの悪魔特有の分子結界の刃。
 友絵をとり囲むように三方に出現して、一気に襲いかかる。
「破っ」
 友絵の御幣の一閃で消滅する。その間に、ウェルバーは空中から間合いを一
気に詰めている。
「消滅するのはあなたの方です」
 近い間合いからの連続攻撃。友絵の御幣の先の結界が、その全ての攻撃に対
応して動いて衝突する。
「き・え・な・さいっ!」
 大技が、来る。
「友絵っ!」
 友絵にも判っていたのだろう。
「滅っ」
 友絵の叫び。網膜を灼く、閃光。爆音。何が起こったのか、判らない。
 視力が回復しない。物音もしなくなる。
「くっくっくっく」
 唐突にウェルバーの笑いが聞こえる。友絵は? 友絵はどうなったんだ?
「ここまで、手強いとは予想しておりませんでしたよ」
 視界が、ややゆっくりと回復してくる。
 最初に認識できたのが、スーツ姿の男。ウェルバー。
 次に認識できたのが、膝くらいまでのロングの髪の女性のシルエット。友絵
じゃない。
 友絵が、いない。
 そして、ウェルバーがガックリと大地に膝を突きかけて、手近にあった郵便
ポストにもたれ掛かる。
 ロングの髪の女性が、電柱に手をつく。
「祓い……損なったか……」
 友絵の声。
「友絵?」
 こちらを向いてもシルエットで表情がよく見えない。
「亮、無事か?」
 それは間違いなく友絵の声。何が、起こったんだ?
「ウェルバー、まだ戦うか?」
 ウェルバーが苦笑するのが判る。
「仕方……ありませんねぇ。今日の、所は、この程度に、して置いて、あげま
しょうか……」
 ウェルバーの息も切れている。二人が息を整える呼吸音だけが流れる。
「そうですね。長田友絵さん。あなたも、次に会うときには二度と動けないよ
うにしてあげましょう。わたしとめぐり会わないことをお祈りなさい」
 そう言うと、ウェルバーはきびすを返す。スーツが、あちこち破れている。
「貴様も、せいぜい祈るがいい」
 友絵が口から台詞を吐き捨てる。
 ウェルバーが肩越しに手を振って、消える。まだ、そんな力を残していた。
そのことが、驚きだった。
 しばらく、友絵と二人してウェルバーが消えた後を見送っていた。
「ふぅ」
 友絵がため息をつく。緊張感が弛む。
「あっぶなかったわぁ。あいつ、むちゃむちゃに強いんやもん」
 ……関西弁?
「ホント危なかったわよ、もうどーしようかと思っちゃったわ」
 友絵は、ロングになった髪をさも当然のように手で梳きあげる。
「友絵、その髪……」
 尋ねる。
「あぁ、この髪ね。あたし、ちょっと、モードチェンジしてたでしょ。力使う
のに、あのモードになると一気に一メートル近く伸びちゃうのよ。不便でもう
しょーがないわ」
 髪型がロングな以外はまるっきりいつもの友絵。とはいえ、髪型が違うと全
然印象が違う。
 友絵がこちらに向き直る。
「それより、亮君。一言言っていいかしら?
 ん?
「バカっ!」
 ……って?
「バカ?」
 尋ね返している。
「そ、莫迦。何度でも言ってあげるわよ。莫迦。何であたしが帰ってくるの待
ってなかったの? 亮君一人では、絶対にウェルバーに勝てないわ。一回戦っ
たくせに、それが判らなかったのかしら?」
 怒ってる。
「すまない。それに関しては、判断ミスだ」
 それにしても、まだ身体の節々が痛む。
「策を講じたらうまくいくかと思ったんだ」
 所詮はいいわけだが。
「どんな作戦だったのよ?」
 共同溝を使った作戦について、説明する。
「はぁ」
 友絵はため息をついてこめかみを押さえる。
「亮君の結界で押さえられる爆圧が、ウェルバーの結界を破れるわけ無いじゃ
ない。はぁ。せっかく、珍しく今回は大規模破壊も人死にも大して出てないと
思ってたのに……」
 途中からの溜息は……ちょっと待て。今回って事はいつもは何やってんだ?
 視線を感じたのか、友絵は軽く笑ってごまかす。
「ま、この手の不可避な破壊行為に関しては、適当な線で片づくから、心配す
ることはないんだけどね」
 そう言って脳天気な笑みを見せる。いいのか?
 一転、真剣な顔になって。
「今回の戦闘で判ったこと。ウェルバーの次の目的は亮君、君よ」
 確かにそうだ。何の目的があるのか判らないが、あいつに狙われていること
には違いない。
「友絵。力の使い方を教えろ。このままじゃ、奴には勝てない」
 そう、全く、どうあがいても勝てそうな気がしない。逃げ果せることすら出
来るかどうか。
「いいわね。そうじゃなくっちゃ。でもね、取りあえず今は、逃げるわよ」
「え?」
 逃げるっつったって、ウェルバーはもういないのに。
 まだ体力は完全に回復しては居ない。友絵だってそうだろう。
「ウェルバーは、いない。少し、休ませろ」
 友絵が、まだ黒煙をあげている共同溝を指差す。
「莫迦、何考えてんのよ。これだけ派手に物がぶっこわれてんだから、情報結
界解いたらすぐに警察が来るに決まってるでしょうが! 取りあえず、場所移
すわよっ!」
 さすが……、馴れていらっしゃる。

        ***

「で、どう? 調子は?」
 友絵が尋ねてくる。
 視線をあっちにやる。
「何とか……無茶さえしなけりゃ普通に動けるかな」
 擦り傷、切り傷、打ち身、捻挫と、軽傷のオンパレードだった身体は、既に
ほとんど回復している。おそらくは、これもマクスウェルの悪魔の力なんだろ
う。傷口の血がしっかりした瘡蓋になる暇もなく治癒していく。
 後は、疲労の回復だけだ。こればっかりはどうしようもない。
「でも、まいったわよねぇ。ウェルバーのあれには」
 そう言って、隣りに腰掛けてくる。
 だからぁ、そういう恰好で健康な男子高校生の回りをうろつくなっちゅうに。
 ちなみに、友絵はさっきまでシャワーを浴びていて、例によって素っ裸にバ
スタオル一丁である。
 前回ウェルバーと戦った後も、こういうシチュエーション、あったよな。
「あの手の似非紳士気取りって、どうも肌に合わないのよねぇ」
 そう言うと、床にごろっと転がる。
 おいっ、見えても知らんぞっ!
 二度あることは三度あるという例のことわざが真実ならば、もう一回ウェル
バーと戦って生きて帰って来れたら、このマンションの友絵の部屋でもう一回
こういうシチュエーションに陥るということになる。
 はぁ。
「なーに、溜息ついてんのよ」
 おまえのせいだっちゅうに。
「で、髪、どうすんだ?」
 思いっきりのロング。一瞬で伸びただけに傷む時間がないのか、艶光りした
見事なストレートの黒髪である。しかも、これだけ長いのは、見たことがない。
「え、切るわよ。もちろん」
 あっさりとした友絵の返事。
「そうなのか?」
 何となく、こっちの方が気を使ってしまう。髪は女の命とかっていう言葉も
あるくらいだし。
「だって、行動に不便よ、思いっきり。それに、こんな状態でもう一回あれや
ってみなさいよ、地面に引きずっちゃうじゃない」
 た、確かに、この長さからもう一メートル伸びた髪ってのは生活に支障が出
まくりそうだ。
「ま、臨時収入だし」
 へ?
「髪ってね、カツラ屋さんに結構高く売れるのよ〜。この髪、一〇万はもらえ
るし」
 そういうもんなのか?
「今度はどの辺で切ろっかな〜。あ、そうだ、亮君はどんなのがいい?」
 何でそんなもんを訊いて来るんだ?
「前のでいいんじゃねぇのか?」
 下手に女性らしい髪型されると、やりにくいじゃねぇか。
 ただでさえ、態度がこうだっつうのに。
「そっか……、んじゃそうしましょっか」
 そんな風に決めていいのか?
 友絵が、んしょ、とかけ声をかけて起き上がる。
「今から着替えて美容院に行くからそこで待っててね〜」
 待っててって……
「帰っちゃまずいのか?」
「もーっ、ウェルバーいるでしょ。単独行動は、げ・ん・き・ん」
 と、いうことは、美容院にまで着いていく羽目になるのか?
 今さらながら、どうしてこういう目に合うんだろう。



next:contents:previous
mailto:不観樹 露生
不観樹露生的小説
不観樹露生的