新雪の中に道をつけながら歩く。振り返る。友絵が少しよたつきながらつい
てきている。借り物だとかいう、ちょっと派手なカラーリングのスノーウェア
が意外と似合っているだけに、かえって情けない。
「りょ、亮く〜ん……まだ〜?」
「もう少し先」
市内からバスで十五分。そこから歩いて三十分。
友絵のリクエスト通り、市街全域を眺望できる場所で、人目に付かないとこ
ろといったら、こういうところしかないのは自明の理。
平野部の南端を形成する低山。昔、親が健康だった頃、琴が生きていた頃に
よくこのあたりまで二家族そろってピクニックに来たものだった。もちろん、
冬にではなかったが。
太ももで雪をかき分けて、友絵が歩きやすいように踏み固めて道にする作業
に集中する。何も考えずにガンガンと道をつける。
ふと気が付くと、後ろの友絵の姿が見えなくなっている。
道をつける必要がない分、あっちの方がずいぶん楽なはずなんだがな。
「りょ、りょ〜く〜ん」
へろへろな呼び声が雪に埋もれた木立の向こうから聞こえてくる。
友絵の体力のことを考えたら、いい加減休憩にした方がいいのかもしれない。
休憩できるように雪を広場状に踏み固めながら、友絵の姿が道の向こうから
現れるのを待つ。
じれったい速度で友絵がひょろりらと辿り着く。すっかり息を切らしている。
「亮君て、意外と、体力、あるのね」
友絵が体力無さ過ぎるのではなかろうか? だいたい友絵用の荷物もほとん
どこっちが担いでいるのだ。ナップザックの中から友絵用の保温ポットを取り
出して差し出す。例えばこんなものまで。
友絵は新雪を尻で押しつぶして椅子にして腰掛けてポットを受け取る。
「ねぇ、その展望広場とかいう所まで、まだまだかかるの?」
手袋を外して、ポットの蓋に熱い麦茶を注ぎながら、友絵が訊いてくる。
一人なら、後五分もあれば着くだろう。しかし……友絵の速度を考えたら。
「一〇分かな」
少し多めに見積もって、そう答える。
「えーっ!」
オーバーなリアクション。
そのはずみに麦茶が少しこぼれて雪に軽く穴を開ける。
「アチ、アチャチャ」
麦茶はポットの蓋を持つ手にもかかっていたらしい。そりゃ、熱いだろう。
魔法瓶の中に入っていたんだから。
「雪で冷やせ」
手元から新雪をひとかたまり握って渡す。
んとに世話の焼ける。どっちが年上だっていうんだ。
手の甲に新雪を当てているのを見る。はぁ、やってらんない。
「んじゃ、行くか」
友絵が茶を飲み終わる頃合を見計らって、声をかける。
少し勢いをつけて立ち上がる。少しだけ、足元が沈む。
「え、もう?」
情けねぇ顔してんじゃねぇよ。
「判った。休憩、もう三分な」
***
展望広場からの市街の眺望は意外な程良かった。昨日の雪を降らせていた強
い冬型はすっかり弛んで、少しの細かい雲を残して、スッキリした青空が広が
っている。この山の麓から日本海まで広がる平野の全貌がしっかりと見える。
「うーん、いい眺めよねぇ」
さっきまですっかりへばっていた友絵がそんなことも忘れたかの様に隣で大
きな伸びをする。組んだ腕を上に伸ばし、背筋を大きく反らして。そういうポ
ーズをすると、スノーウェアの上からさえ、胸が結構あるのがよく判ってしま
う。一昨日の事を思い出して、あわてて視線を眺望へと逸らす。
「で、こんな場所でいいのか?」
思考を本来の目的に戻して、尋ねる。これだけ苦労して(主に友絵を連れて
くるための苦労だが)登ってきて、ここじゃ駄目なんて事になったらかなわん。
「えぇ。望む限り最良の場所と言っていいわね」
そう答えて、友絵がこちらに向き直る。
お気楽な笑みから、会心の笑みへと友絵の顔が真剣モードに移行する。
「そろそろ始めるわ。準備はいい?」
空気が張る。心の中の緊張感を保つ。
「あぁ。ところで、結局何をするつもりなんだ?」
こんな所からどうやって祀穂理を探すのか? それが今一よく判らない。
「そうね。まず、その説明から始める必要があるわね」
「簡単に頼む」
説明が長引きそうなことを予想して、あらかじめ釘を刺す。
「安心して。それほど長引かせるつもりはないわ。亮君、人間とMaxwellの悪魔
との契約ってのは、普通の魂の授受の契約じゃないの。判るかしら」
普通の魂の授受の契約って……それって普通なのか?
「どういう事だ?」
そういう風に尋ねる以外、尋ねようもない。
「Maxwellの悪魔は、存在を持たない。本当はちょっとだけ持ってるんだけど、
強力なMaxwellの魔術を用いるには到底足りる量ではない。いいかな」
この辺は祀穂理と契約したときに聞いたような記憶がある。
「あぁ」
「ゆえに、Maxwellの悪魔は人間と契約する。それも特別な方法で。その契約に
よると、Maxwellの悪魔は人間にもMaxwellの魔術を使える方法を提供する替わ
りに、人間の持っている、きわめて大きい存在を自らの魔力源として自由にす
ることができるの。この辺は?」
祀穂理の言っていたことと符節はあっている。
「だからこう、結界やらが張れたりするわけだな」
「そう。で、これがどういう事かというと、互いに契約した人間とMaxwellの悪
魔は、お互いに持てるものを共有化することによって互いに相手の存在形態に
近づいている。ということ。そして、何より大きいのは、互いの存在の間にあ
る障壁を完全になくしてしまっているという点ね」
存在の間にある障壁?
「言うなれば、存在の同一化。つまりは、もともとの祀穂理ちゃんの存在と亮
君の存在を加えたもの、それが今の二人よ。判りやすく言えば、二人は同一の
存在になったってわけね」
「つまり、この身体が、今も祀穂理とつながっていると」
全然実感はしないが、そういうもんなのか?
「そういう事ね。どう? 祀穂理ちゃん捜索の方法、何となく想像が付いたん
じゃないかしら」
つまりは、この身体と祀穂理の身体がよくわからん方法で連絡があることを
利用して探そうというのだろう。
「何となくな」
友絵が少し笑う。
「何となくでいいわ。あたしだって完全に理解している訳じゃないし、この世
界、判ってないことの方がずっと多いんだから。要はイメージの問題」
右手の人差し指を立てる。
「具体的にはどうする」
今必要なことは、理論ではなくて実践。
「共鳴を利用するわ。イメージとしては、存在の根っこまで戻って、祀穂理ち
ゃんの側で浮上すると言った感じかしら」
あまり具体的ではないが。怪訝そうな顔になったのが伝わったのか、友絵が
つけ加える。
「具体的にどうするかは、順番に指示するわ。じゃ、始めるわよ」
始めるったって……
友絵が肩をつかむ。つまりはそれくらいの距離で向かい合わせに立たされる。
「どうすればいい?」
「あたしがサポートしてるから。手、貸して」
右手を差し出す。
「もう片方も、ほら」
左手も引っ張られる。向かい合って、胸の高さで両手を繋いだ恰好になる。
友絵が、ふと気がついたように言う。
「手袋、やっぱり外した方がいいわね」
そう言って、友絵は、自分のブルーの手袋を白い雪の上に落とす。それにな
らう。雪の上に、浅く埋まる手袋。
友絵が、両手をとって、ゆっくりと握ってくる。友絵の手の感触がダイレク
トに伝わってくる。冷たい手。小さい。こんなに小さい。
「あたしに呼吸を合わせて。目を閉じて。自分の中を探るようにゆっくりと」
友絵の呼吸が判る。まぶたを閉じる。
呼吸に合わせて……吸う。吐く。
吸う。吐く。
吸う。吐く。
徐々に感覚が失われていく。
吸う。吐く。
吸う。吐く。吸う。
「さっきのことを思い出して。ここに登ってくる間のこと。できるだけ、克明
に思い出していくの。そこからだんだんと時間を過去に遡って……」
ヴィジュアリックな記憶。
友絵が後ろからやってくる。雪をかき分ける速度よりも遅い速度で。
冬枯れの樹。雪面で反射する木漏れ日。静けさの中、鳥の声だけが妙によく
聞こえる。友絵が着ているのは母親のスノーウェア。その水色のスノーウェア
が木々の隙間から見えかくれする。
その前のシーン。
友絵がバスの隣の席に座っている。
「亮君、ちょっと小銭持ってない? あたし、おっきいのしかなくてさ」
友絵がスノーウェアの脇のポケットから財布を取り出して小銭入れを見せて
くる。柑橘系の香り。友絵の香り。友絵の耳には金色のピアスが光っている。
直径三ミリほどの金色の球形の金属は、熱しすぎたハンダごてで溶かしたハン
ダの小さな金属滴を連想させて。
「両替してこい」
その前のシーン。
学校。校門前を見やる。融雪パイプから数センチの高さの小さな水のアーチ。
不揃いな水のアーチの行列。学校の正面玄関脇の自動販売機にもたれ掛かって
友絵を待つ。二時間目の授業中。生徒の姿はない。無数の生徒の足の下に踏み
つけられて泥水混じりの汚いシャーベットとなった雪の覆う正門までの約六〇
メートル。友絵に貸した母親のスノーウェアの明るい水色が校門の方へと向か
って歩いてくるのが見える。
その前のシーン。
放送室。目の前で、相良さんが頬杖をついている。
「悪い。今日はちょっと用事があるんで、午前中で帰る。せっかくの弁当が無
駄になったかもしれないが……」
弁解を続けている。こんな時しか饒舌になれない自分に嫌悪感を抱きながら。
「先輩。持ってってください」
相良さんがだんだん見慣れてきた弁当箱を差し出してくる。口をつぐむ。
「サンクス」
受け取る。友絵との祀穂理探索の途中ででも頂くことにしよう。
「来週も、要ります?」
友絵には、あえて弁当を作らないようには言ってある。
「あぁ、お願いしよう」
その前のシーン。
一人で歩いている登校ルート。祀穂理がちょろちょろと今にも出て着そうな
気がして振り返る。何もない。電線に雀が数羽とまっている他は。大型トレー
ラーがディーゼルの黒煙を吹き上げている他は。
その前のシーン。
母親のスノーウェア一式を引っぱり出している。友絵に突きつける。
「これでも着てこい」
友絵が不服そうな顔をする。
「えーっ、何かぼっさいわねぇ。何なら買ってこようかな」
確かに、ここ十年ほど母親が愛用している品だからな。が、仕方がない。
「この時間からやっているスポーツ用品店などない」
その前のシーン。
なにか硬いものがこめかみに押し付けられて目が覚める。
「グーテンモーゲン」
友絵の声。まぶたを開ける。うっとうしい菜箸を避ける。
先に卵らしきものがついた菜箸。そして、ジーンズにワイシャツの軽装に何
やらアニメ絵らしきものがプリントされたエプロン。
「ん。何時だ」
「もう朝御飯できてるわよ」
その前のシーン
友絵の寝息が聞こえる。人の寝息が聞こえるところで寝るなんて修学旅行以
来。いや、入院以来か。
暗闇の中でぼんやりと浮かび上がっている天井の蛍光灯。
その前のシーン
友絵の前で、彰と喧嘩を始めるわけにはいかない。
その前のシーン
駅前。ここにもやはり祀穂理はいない。
その前のシーン
友絵からのポケベル。
その前のシーン》
ちょっと怒っている相良さん。心配してくれているのが判る。お弁当。
その前のシーン》
祀穂理のいない通学路。やがて針路上に相良さんが現れる。
その前のシーン》
一度尋ねたマンション。友絵に引っぱり込まれた部屋ではなく、幸田さんの
一家が入っている部屋。郵便受けから探り出した部屋番号。扉に忌中の二文字
が書かれたシールが貼ってある。
《その前のシーン》
南星里公園。ウェルバーが現れたときの痕跡は何も残っていない。
降り続く雪。朝だというのに、暗い空。
《その前のシーン》
祀穂理のいない夜。布団に潜り込んで、無理矢理に眠る。
《その前のシーン》
コンビニ。祀穂理はここにもいない。
《その前のシーン》
学校。祀穂理がどうなったかが気になる。
「先輩、どうかしたんですか?」
《その前のシーン》
幸田さん。何で泣いている?
「ありがと……ホントに……」
《その前のシーン》
友絵。
「取りあえず雪宿りのできる所に動きましょ。そうしないと……このままじゃ
風邪引くわよ」
腕をつかまれる。
《その前のシーン》
「そう、ちゃんと説明もしてくんないのね……」
祀穂理はうつむいたままだ。肩にしがみついている手に少しずつ力が入って
くるのが判る。
「りょーちゃんの、ばかーっ!」
祀穂理の叫びと同時に、網膜を灼く白光が世界に満ちる。瞳を閉じずにはい
られない。
「亮君!」
友絵の声。何も考えていない。ただ白光の中に飛び込んでいる。
「祀穂理っ!」
叫びながら。
***
ゆっくりと落下している。喪失感。前にもこんな感覚を味わったことがある。
あれは……
不意に周囲が明るくなる。朱色に染まり上がった世界。落下感覚はまだ続い
ている。指先に硬い感覚。窓枠。
そして、目の前にあるのは杉の樹。校庭の杉の樹の枝。そして指先で幽かに
捕らえているのは、
琴
だった。
「琴! 琴ォ!」
叫んでいる。
全てがスローモーションで落下している。これは、あの時の記憶?
琴が腕を伸ばす。
ぼくは必死に琴の指先を掴もうとしている。どうしてこんなに近いのに琴の
身体に手が届かないのだろう?
考えかけて気付く。ぼくはまだ高校生じゃないから手はあんなに長くないし、
力もそんなに強くない。
このままじゃ、琴が死んじゃう。ちょっといじわるなところもあるけど、ホ
ントはすごくやさしくて、かわいい琴。そんなのやだよ。
このままでは琴が死ぬ。夕陽の中。あのコンクリで固められた地面に三回バ
ウンドして、夕陽の方向を見つめながら。こちらを見つめながら。それは歓迎
すべき事態じゃない。
高校生のぼくなら。
途端に自分の手が伸びる。ゆっくりと伸びる。ぽっちゃりした子供の腕から
脂肪を押しのけるようにして筋肉がくっきりと膨らむ。琴の指先までしか届か
なかった腕が、一気に伸びる。この身体なら、琴を護ることができる。琴の腕
を掴んで、引っ張りあげ、自分が下になる。大地にぶつかる前に琴とコンクリ
の間に自分を入れてクッションにすれば。おそらくは琴は助かる。
……自分は助からなくても。
琴の腕に向かって手を伸ばす。琴の二の腕、肘の上を掴む。そして……
そして……
琴の腕は手の中をすり抜けた。
自分の身体が杉の木に叩きつけられるのが判る。腹部が枝で強打されて、息
が詰まる。
そして琴は。あの時と同じように朱く染まった校庭を、さらに血で紅く染め
ていた。
護れなかった。まもれなかった。マモレナカッタ。
肺の中から、唇から、なにかが飛び出していく。
叫んでいる。自分で自分の耳をふさぎながら。
自分を非難する悲鳴を。
絶叫。
気を失うまで。何もかもがなくなるまでの絶叫。
***
気がつくと暗闇に一人いた。
祀穂理の声。それだけが聞こえる。
「りょーちゃん、ゴメンね。あたし、お父さんをさがさなくっちゃいけない」
自分の身体の感覚すらない。
「祀穂理、どこにいる?」
思わず口にしようとして……声が出ないことに気が付く。
「りょーちゃんと一緒にいるのは楽しかったよ。でも、お父さんをさがさなく
っちゃいけないの」
これが……友絵の言うところの祀穂理の側の存在?
祀穂理は何をしているんだ?
「お母さんが死んでから……百年も経っちゃった。お母さんはあたしを産んで
すぐに死んじゃったんだ。だから、あたしにはお父さんしか残ってないの。だ
から、お父さんをさがさなくっちゃいけないの」
ゆっくりと明るくなる。そこにいるのは自分。いや、ウェルバー。見上げて
いる。祀穂理の視点なのか?
「祀穂理。このリボンはな、お父さんがお母さんに初めて贈った贈り物だ。お
母さんはな、祀穂理にこれを持っていてほしいと言っていた。いつだって、こ
のリボンがあれば、お母さんが祀穂理を見ていてくれる」
黒い布。小さな目立たないリボン。祀穂理が後ろ髪をまとめるのに使ってい
たリボン。
そして、唐突に場面が変わる。
街灯の光の中、潮の香りの中、スーツを切り裂かれ、血塗れのウェルバー。
「お父さん! なに? その傷! 早く癒さないと!」
ウェルバーは弱々しく首を横に振る。
「祀穂理……」
「どうしたの? ねぇ!」
ウェルバーの口からゆっくりと言葉が漏れる。
「もうすぐ、退魔師がやってくる。大山さんは、もういない。お父さんの力は
もう限界だ。退魔師がやってきたら、祀穂理を護ってあげることができなくな
る。だから……」
「ちょっと、お父さん? 退魔師って……」
祀穂理の言葉には頓着せず、言葉を継ぐ。
「おまえだけでも逃げなさい」
「あたしだって、お父さんを癒すことぐらいなら」
「お父さんは、たとえ死んでも生まれ変わって迎えに行く。待ってなさい」
ウェルバーの身体から、結界が広がる。
「お父さん!」
「祀穂理、クリスマスプレゼントをあげることができなくて、ゴメンな……」
結界が周囲を包み込み、身体を浮き上がらせる。
「お父さん!」
祀穂理はもう、呼ぶことしかできなくなっている。
「さようなら」
「おとうさぁぁぁぁぁぁんっ!」
絶叫。
気を失うまで。何もかもがなくなるまでの絶叫。
***
見える。これも祀穂理の見たもの? 降りしきる雪の中を走っている。街の
中。視点がやや低いので一瞬戸惑ったが、すぐに判る。市内。南星里公園から
そんなに離れてはいない。
これは、あの直後か。
「お父さん!」
祀穂理が口の中で小さく叫ぶ。その瞬間に景色が変わる。
空間転移?
そして、ビルと家に囲まれた路地裏の小さな公園。雪に埋もれた児童公園。
人影。
「お父さん!」
歓喜の声と共に駆け寄っていく。
人影が振り向く。ウェルバーじゃ、ない?
ランニングシャツと短パンの筋肉質の男。雪が筋肉に触れる直前に消えるの
が見える。二〇代後半か?
「そんな……お父さんじゃ、ない……」
祀穂理が息を切らす。
「人違いですかな」
体格に似合ったぶっとい声。似合わない丁寧な口調。
「ごめんなさい、ここに、灰色のスーツを着た、やせ気味の男の人来ませんで
した?」
祀穂理が、息を整えながら、男に尋ねる。
「いえ。彼はこちらに見えてはおりませんよ」
彼? まるで知り合いでもあるかのような口振り。
しかし、祀穂理は気付かない。
「すいません、じゃぁ」
そう言い置いてきびすを返す。
「お待ちなさい、お嬢さん」
後ろから、男の声が追う。
「君の父親を殺そうとした人間、その真相を君は知りたいんじゃありませんか?
Maxwellの悪魔のお嬢ちゃん」
男の声。視界がゆっくりと動く。
「何でそんなことが?」
そう言いかけて、祀穂理も、気がついたらしかった。男には、祀穂理の姿が
見えているのだ。
「あなた、何者?」
祀穂理の問いに、男は慇懃な笑みを返す。
「わたしは何でも知っていますよ。例えば、君の父親とそのそっくりさんの人
間の少年、そして君の父親の名前を騙るもう一人のMaxwellの悪魔についてとか」
もう一人? じゃあ、南星里公園に現れたウェルバーは祀穂理の父親じゃな
いのか?
「じゃぁ、あれはやっぱりお父さんじゃないの?」
祀穂理も感じていたのか、違和感を。あのウェルバーは明らかにこの世のも
のではなかった。しかし……この男は?
「ついていらっしゃい……君の疑問の答えは、全て私が持っている」
男の目が覗き込んでくる。おかしい。これはなにかの術なのか?
「祀穂理! 行くな!」
叫ぼうとして、気付く。祀穂理には、届かない。これは過去の映像。
「はい……」
祀穂理の声にいつの間にか精気がなくなっている。人形のような声。
「それでは、こちらですから。ついていらっしゃい」
りょーちゃん、お父さんの話を聞いたら、すぐに帰るから、まっててね。
声じゃない祀穂理の呼びかけを感じた。
そして映像はそこで途切れた。
***
時間が巻き戻る。祀穂理の時間が。祀穂理から、存在の根っこを通って関口
亮へと戻るための第一段階。ウェルバーからの呼出。友絵との会談。学校。通
学路での会話。朝食。友絵の来た夜。駅でのショッピング。学校。通学路。契
約の確認。黒服達との戦い。関口亮との出会い。南星里公園。そして……横須
賀。十八年前。絶叫。
絶叫。大切なものを失った喪失感。
お父さん、どうして?
琴、なぜ?
そして、埠頭で祀穂理を送り出す血塗れのウェルバーは枝の上から見下ろし
た動かない琴に変化して。
時間が順行する。スキップしていく。
沢野琴の葬式。初めて経験する葬式。琴のお母さんの顔。
「亮君よ、亮君のせいで!」
振り乱した髪。涙で流れて溶け落ちた化粧。琴のお父さんが止めるまで、抵
抗はしない。できなかった。
そう、自分のせい。何もかも自分のせい。琴を護れなかったのは自分の責任。
気がつくとお隣は、空き家になっていた。
自分の左腕の怪我が落ち着いて、学校へと行けるようになる。
クラスメイトの。先生達の。刺さるような視線。
何もかも、琴を護れなかったせい。
転校。知らない子ばかりの新しい小学校にも、どこからか伝わってくるうわ
さ話。あの視線。
護れなかったのは、罪。この視線は、罰。
なぜなら、琴を護ることは義務だったのだから。
卒業。中学受験。国立の中学校。誰も知らない。
ここまでは噂は届いていない。
けれども罰はなければならない。永遠に。愛されてはいけない。他人を憎ん
ではいけない。愛せよ。されど愛されるな。
憎むべきは自分。琴を護れなかった自分。他人に賞賛される資格などあろう
はずもない。ましてや愛されるなど。
この頃から……自らを呼ぶのをやめた。自らを呼ぶことを、自らに禁じた。
次々と入退院を繰り返す家族。
替わりに……物語が入り込んできた。小説の中の主人公は、自分を主張して
いた。自然な欲求を、物語に向けた。物語は現実でなければない程良かった。
何度でもやり直しを要求できる世界。タイムマシン。琴を護ることができれば
と言う妄想。物語は現実でないほど、現実を要求した。
サイエンス・フィクション。
そして、誰にも言わないまま、物語を書くようになった。
高校入試。公立の高校。進学校。砂漠のような、自由で、乾ききって、人間
関係の希薄な校風と聞いて選んだ高校。
そして、評価は成績のみでつけられた。現実の法則を理解するほどに、成績
は上がった。優等生などと言う奴もいた。
それくらいのことでは、罪は償われない。琴を護れなかった罪は。
放送部。機械いじりと物書きの双方に自己の表出を求めた。
話すべき事はますます少なくなった。
一度倒れたのはこの頃だ。一ヶ月の入院を終えて学校にでてくるといつの間
にか先輩と呼ばれる身分になっていた。
自分の書いた物語から起こしたラジオドラマで、放送部は賞を取った。
学年の首席こそは取らなかったものの、成績は全く悪くはなかった。そこで
干渉が起こった。志望校に関する教師との対立。
まったくもって、自分を憎んでいた。だから、自分は、罰せられなければな
らなかった。琴を護れなかった罪は……
そして、祀穂理が降ってきた。
祀穂理。琴。二人を同一視していることは判っていた。しかしそうなのだ。
祀穂理を護らなくてはならない。今度こそ、護らなくてはならない。それこ
そが、贖罪。
そして光を突き抜ける。青空と太陽の光。雪面で反射した光。白い光。
***
ゆっくりと正常な感覚が戻る。身体が横になっている。やけに柔らかい枕。
目を開ける。目の前に横向きの友絵の顔。
「と……ともえ……?」
いったいどういう体勢になっているんだ?
「あ、気がついた? お帰り」
友絵の笑顔。複雑な瞳。
「あぁ」
二、三回、瞬き。
頭の後ろの枕に手をやる。手がすごく重く感じる。
「ん?」
スノーウェアの感触。中に入っているのは……
「きゃっ、もうどこ触ってんのよ」
友絵の……腹?
これはもしかして、友絵に膝枕されているのか?
あわてて起き上がろうと、地面に肘を突こうとする。
「暴れないで。衰弱してるんだから」
友絵が困ったように言う。友絵のいう通り、体が重くてほとんど動かない。
「いいって」
頭だけでもずらそうとするのを、友絵の手が押さえる。
ハンカチが頬に当てられる。
「涙、拭いたげるわよ」
泣いて……いたのか。女に泣いているところを見られるなんて。最低。
まぶたが何となく腫れぼったく感じていたのはそのせいか。
ハンカチが、目元までの顔を拭き取るのを感じながら、放置する。不可抗力。
「祀穂理はこの街にいる。最後にいた場所も、判った」
目を閉じて、そのまま続けようとするのを友絵が遮る。
「もう少し、このまま休んでなさい。話はあとで聞くわ。今の亮君には、休む
事が必要よ」
友絵の声が、やさしい。
「あぁ」
同意。これも不可抗力。
「お弁当、持ってきたのよね。ゆっくり休んで、それ食べたら、帰りましょう」