雪は途切れない。昨日から降り出した雪は、延々と飽くこともなく降り続い
ている。放送室を外界から区切っている二重窓の外を上から下にと流れている
グレーのまだら模様。じっと見ているうちに身体が永遠の空間へと浮いていく
ような錯覚の中に囚われていく。
永遠に上昇していけば……永遠に上昇していくことができれば、その先に琴
がいるのかもしれない……守らなくちゃいけなかった、琴。
「先輩? 先輩……? ……先輩!」
不意に横から掛けられている声が現実味を増す。
「……ん、ぁあ……相良さん」
返事を返す。
いかん。ふと思考の渦の中に沈み込んでしまっていた。
「食欲ないんですか?」
相良さんが怪訝そうな顔でこちらを見ている。
弁当箱を見下ろす。考え事ばかりしているせいで、いつもの半分ほどしか摂
食していない。
食欲は……特に無いという訳でもないが……あまり、旺盛という訳でもない。
「いや、そんなことはない」
取りあえず、そう答える。少し笑って見せて、海苔で一口の大きさに軽く巻
かれた混ぜご飯を一かたまり頬張る。咀嚼して無理矢理呑み込む。少し喉に詰
まったような感触をお茶で流し込む。少し胸を叩く。相良さんが笑いながらこ
っちを見ている。
「あわてて食べると消化に悪いんですよ」
相変わらず、美味い。が、食べているのは半分義務だ。体力の維持と、義理。
そして日常への接点。
「あぁ」
曖昧な相づちを打って、時計を見る。
祀穂理が消えてから、丸一日が経っていた。
友絵からも、あれっきり連絡がない。ズボンのポケットに入れっぱなしにし
てある振動式のポケベルは、何のメッセージも伝えてこない。自分で電話を掛
けて、壊れているわけではないと言うことも確認したのだが。
単独での捜索はしないと言ったものの、やはり気になって……否、じっとし
ていられなくなって、祀穂理がこの街で知っている場所、つまり二人で一緒に
動いた場所を一通り探してみた。結果はゼロ。祀穂理の気配すら感じない。通
行人や店員に祀穂理を見かけなかったかと聞いてみるわけにも行かないし、ま
してや警察に届けるわけにも行かない。取りあえず、いつでも祀穂理が帰って
これるようにだけはしておきたいが……。結局、友絵の助けなしに捜索は無理
と言うことか……
「……先輩……何か、あったんですか?」
また思考の中に囚われているのを、相良さんに気遣われてしまう。
「いや、何でもない」
そう答えるしかない。言ったところでしょうが無いのだから。少なくとも事
態の好転には役立たない。
「……。何かあったんですね」
相良さんが眼鏡に軽く手をやって断言する。
なんで。そういうことを確信する? 気が付かないでいて欲しかったことを。
「何でもない」
一回眼を瞑ってから告げる。説得力無いよな。しかしどうしろと。
「先輩が何でもないって言う時って、ゼッタイ大変なときなんですよね。それ
も、一人で背負い込んじゃってる時なんですよね」
少し拗ねたような口調。しかし、視線はしっかりこちらを見据えたまま離れ
ない。
そうか? まぁ、そうかもしれない。言ってもどうにもならないと考えたと
きの口癖かもしれないのだから。
言ってもどうしようもないこと。
昨日、肩にすがりついて泣いた幸田さん……。
今朝、二週間ほどぶりに出た朝のホームルームで、幸田さんが休んでいるこ
とは確認した。おそらくはしばらく学校には出て来れないだろう。少なくとも
彼女の父親の葬式が終わるまでは。ホームルームはいつもの受験訓話だけだっ
たが、女子達は幸田さんのうわさ話をしていた。
いわゆる突然死って奴だよな……。泣きながらの彼女の話では、昨日の朝突
然息を引き取ったらしいが……
彼女も気の毒な話だ。が、既に終わった話だ。だから話すことができた。
こっちの異常事態はまだ続いている。内容は別にしても、相良さんに話すわ
けにはいかない。
「先輩っ!」
黙り込んでいるのを見て、相良さんが、急に詰め寄ってくる。
「あたしじゃ力になれませんか? 先輩が困ってるの、見てたくないんです。
先輩、とっても辛そうだし。お願いですから話してくれませんか? それとも
……あたしじゃ駄目ですか?」
必死な表情。頬が少し紅潮している。
単なるお節介とかそう言うのでないというのが判る。判るからこそ。
食事しながら出きる話じゃない。箸をおいて、右手を差し出して制止する。
「ゴメン」
謝罪の言葉。
「聞かないで欲しい」
彼女は日常なのだから。彼女の作ってくる弁当が現在唯一残っている日常な
のだから。
制止の言葉に相良さんが悲しそうな顔になる。
「感謝している」
彼女が何か言う前に慌てて言う。
「相良さんは、日常だから。だから、何も聞かないで欲しい。お願いだから」
少しつっかえながら、それだけ話す。
頼むから。彼女までが非日常へと来て欲しくない。言ったら彼女は間違いな
く何らかの行動を起こしてしまうだろう。それは、望まないこと。
「……」
黙り込む相良さん。じっとその瞳を見つめる。眼鏡の奥の視線は、いつにな
く強い。
「先輩……。話せるようになったら、話して下さい。いつでもいいですから」
…………強いよな。
「感謝する」
そう一言。一言だけ言うので精一杯だった。
沈黙。少し耐え難いほどの。
そして相良さんがにっこりと笑う。
「お弁当、食べちゃいましょ。あたしのお昼休み、終わっちゃう」
その台詞に救われたような気分になる。
「ありがとう」
口の中で感謝の言葉を呟いた。
***
職員室は静まりかえっていた。一、二年の担当教師は授業中だし、三年生の
担当教師にしても、むろん補習だの進路指導だのと、そうそう職員室内にじっ
としていられるはずもない。ゆえに、職員室が閑散として静かであることにな
んの不思議もない。
「そうねぇ。関口くん。少しうっかりさんな間違いが多いみたいな感じよねぇ。
もうちょっぴり、気をつけなくっちゃいけないわよ」
月岡先生のコメント。コメントの内容はともかく、この口調を聴いていると
この先生が二十歳をとっくに過ぎているということがいつも信じられなくなる。
もうだいぶん馴れたが。
「はい」
そう呟いて、過去問を解いたノートを受け取る。今朝提出した分は昨夜の結
果。机の下から抜けて祀穂理がいつもの笑顔を見せてくれるのを望みながら。
窓から友絵がふらりとあの日のように現れるのを待ちながら。そんなことで頭
の中が一杯だったにしてはまぁ良くできてる方じゃないだろうか。ぽかミスの
一つや二つ、あってなんの不思議もない。
ノートを仕舞おうと学生鞄の金属の止め金を開ける。
「そういえば、関口くんのお母さん、入院なさってるんですって?」
月岡先生が話題をふってくる。
「はぁ」
別に嘘じゃないのでそう答える。辞書やら参考書やらではちきれそうな鞄に
無理矢理指先をこじいれてスペースを空ける。ノートを突っ込む。
「なにかと大変でしょ。家事とかはどうしてるの?」
スローモーな話し方ながら心配しているのが伝わってくる。鞄の止め金をぐ
いっと引っ張って止める。顔を上げる。
「うちの家族、入院には馴れてますから。それに、今回の入院はそれほど酷く
はないんで」
気遣わせないように。軽い調子で頭をかいてみせる。
「そうなんだ。なんか関口くん、今日はとくべつに暗いからどうしたのかなぁ
って思ったんだけど」
そんなに読まれやすい顔色をしているだろうか?
「照明のせいですよ。きっと」
口早にごまかして天井の蛍光灯を指差す。月岡先生の童顔が指差す通りに素
直に真っ直ぐ上を向く。幼稚園児相手にあっち向いてホイをやってるみたいな
気分になる。
振動。ズボンの左ポケットを押さえる。
「蛍光灯だもんねぇ」
月岡先生が顔をこちらに向けてきょとんとした顔になる。
「あれ? どうしたの?」
間違いなく友絵のポケベル。一日遅いぞ。
「いえ。ちょっと」
まだ振動を続けるポケットの中のポケベルをズボンの上から押さえる。しか
しタイミングが悪い。機能もよく知らないから、止め方が判らない。一応校内
ではポケベルの電源を切ることという規則があったりするから、うっかり出す
わけにもいかない。
困っていると、月岡先生がなにか納得したようににっこりと笑う。
ちょっと恥ずかしそうに続ける。
「関口くん、おトイレ我慢しすぎると体に毒なのよ。知ってました?」
…………はぁ? なんのこっちゃ。
そう考えて自分のポーズを見る。左手で腰の前あたりを押さえている。気が
ついて硬直する。
要するに、トイレを我慢していると勘違いされたわけだ。
「……あ、……ぎ、が……」
絶句。振動は続いている。押さえておかないといけないし。ま、この際ちょ
うどいいか。極めて情けないが。
「失礼します」
まだ何か言いたそうな月岡先生を残して鞄をひっ掴んで立つ。職員室の戸を
やや乱暴に開けて礼をして閉じる。そのまま職員室の脇の男子便所に突入する。
先客はいない。
力を開放する。便所の扉が開かないように局所的な気圧差を作って封鎖する。
これでしばらくは大丈夫なはずだ。確かに便利な力。そしてこの力が残ってい
るということが、同時に祀穂理がまだ生きているということを意味している。
左ポケットからポケベルを取り出す。既に振動は止まっている。液晶画面を
覗き込む。
《コンヤイク トモエ》
……今夜行く。友絵?
膝から力が抜ける。少しよろめきそうになってかろうじて押さえる。便所の
床に膝をつく事態だけは避ける。
友絵が今夜来る。おそらくは家だろう。
友絵がやっと来る。やっと……来てくれる。
これで祀穂理を捜すことができる。
***
例によって例の如く、うまくもないコンビニの弁当を半ば無理矢理詰め込ん
だ胃のあたりをさする。まだ胃の中にもたれている。
時計を見る。午後八時半。
どうにもやってられない。放課後の捜索も、まるっきりの無駄足に終わった
し。今夜は友絵が来るらしいし。自分が行動の主導権を握れない、待つという
行為は心臓の上にじわりと重い感覚をもたらす。
事務机に頬杖をつく。肘に当たる金属の冷たさが心地よい。肘から体温が金
属分子に伝わっていくのが感じられる。祀穂理と契約するまでは感じられなか
った感覚。確かに彼女はマクスウェルの悪魔。
言い訳のように開かれたノート。証明の前提条件を完全に勘違いしていたこ
とに気がついて全部消した痕。ノートのページの継ぎ目に灰色のまだら模様。
消し滓。手に残るこの力は祀穂理が残した痕……消え残った鉛筆の文字。
鉛筆の尻で顎の上をなぞる。歯茎の感触。
気力が湧いてこない。もう一度解き直すための気力。
一つ伸びをする。絨毯に足が付く。そのまま体を反らせる。椅子が傾く。ふ
っと足先にかかっていた抵抗がなくなる。バランス。そのまま傾き続けて、膝
が引き出しの裏に当たる。膝で身体を支える。視界は天井。天井の板目につい
た引っかき傷が目にはいる。友絵と祀穂理の戦闘の痕跡。
目を閉じる。そんなことばかり考えていても仕方がないのに。
「莫迦め」
自嘲する。苛ついて。
階下から玄関の扉ががらがらと開かれる音がする。友絵か?
唐突さに驚いて身じろぎする。バランスが崩れる。椅子ごと倒れそうになる。
とっさに床に腕を突いて支える。
「りょーっ! しょーっ!」
父親が呼ぶ声。
そうか、父親か。確かに友絵がこの家の鍵を持っている訳は無いから、玄関
から入ってくるはずもない。
「はーい!」
一応階下に向けて返事をする。腕で床を押して椅子ごと起き上がる。
椅子から立ち上がって。階段の踊り場に出る。弟の部屋は暗い。もう寝てし
まったんだろう。
半畳の狭い踊り場に顔だけ出す。柱に腕を突いて身体を支えて。
階段の下の廊下の電灯がつく。父親の姿が階下に見える。こんな早い時間に
帰宅してくるとは珍しい。
「すまんな、勉強中だったか?」
「うん、まぁ」
あまり勉強中という感じでもなかったが、取りあえず無難にそう答えておく。
「彰はどうした?」
「もう寝てる。なんか疲れたとさ」
中三になっているはずなのに、まだ部活三昧してやがる。とても受験生とは
思えん。ま、弟の成績なら今さら勉強なぞしなくても、県下のどの高校でも余
裕だろうから別にかまわないのだろうが。実際自分も、高校受験の時にそんな
に真面目に勉強した記憶はないし。
「そうか。ま、お前だけでもいいからちょっと降りて来てくれ。話がある」
話? 母親の病気の関係か?
「んー、判った」
一旦身体を引いてから踊り場に出る。階段を一段づつ跳ばしながら降りる。
「なに?」
尋ねながら最後の三段を跳ばして飛び下りる。両足で着地。
「もう少し階段静かに降りろよな」
いつもの小言を無視して、父親の方を向く。父親の肩越し、半分開いた玄関
の戸の後ろに女性っぽい人影が見える。
ゲ、客がいたのか。
「父さん、お客さん?」
父親は特になにも答えずに後ろを振り向いて、玄関の方に向かう。
仕方がないので、父親の後ろについて行く。シルエットは明らかに女性。シ
ョートカットだが、体の線は柔らかい感じ。
玄関まで辿り着いたところで父親が人影に声を掛ける。
「長田さん、そんなところにいないで入って下さい」
長田…………って、友絵か? まさか。
混乱しているうちに人影は玄関の戸の陰から姿を現す。冷たい外気と共に記
憶にある柑橘系の香りが鼻腔を刺激する。いつもの恰好ではなくスーツにタイ
トスカートといういかにも女性らしい服装で(もちろんサングラスは無しだ)、
しかも物腰お淑やか大人の女性風の猫をかぶっているが、間違いなく友絵。
何で父親が友絵と一緒にいるんだ?
「長田友絵さんだ。大学時代の父さんの先生からの紹介でね。彼女に母さんの
退院までうちで家事をしていただくことになった」
友絵が玄関の戸を後ろ手に閉めながら軽く会釈する。
どういう事なんだ?
混乱しているこちらをちらりと見て、父親は友絵に紹介する。
「長田さん、これが長男の亮。高三です。ちょっと取っつきが悪い奴ですがよ
ろしく頼みます」
な、な、なんでだ? なにが起こったんだ?
「初めまして、亮君。しばらくの間、よろしく」
父親に見えないようにこっそりとウインクしてきやがる。
おいおいおいおい。この女はぁっ! 初めて会ったときの、凛として人を寄
せ付けない顔。だんだん見えてきた強引で少々わがままな人なつっこい顔。そ
して、いかにも母性って感じのお淑やかな顔。
女ってのは、いくつの性格をストックしてるんだ?
「おい」
父親の肘がつつく。状況を呑み込みきれないでいる。あぁ、少なくとも、父
親にとって、友絵とは初対面ということになっているはずだから。
「ども。初めまして、長田さん」
動転を父親に気取られないように初対面の挨拶をする。
父親の前では間違っても友絵と呼んでしまわないように気をつけねぇと。
「そうですね。亮の部屋の隣が空いてるから、長田さんにはその部屋を使って
いただきましょうか」
ちょっと待てよ。あの部屋は……
「そう言う訳で、亮。長田さんの荷物を運んであげなさい。車の中にあるから。
その後、家の中を案内してあげて」
父親は、友絵に聞こえるように告げた後、悪戯っぽく小さくつけ加える。
「襲うなよ」
……えーい、だからなんでこうなるんだ?
「莫迦言わんといて」
友絵に聞こえないように小さく反撃しておく。父親の戯れ言にいちいち反応
していられっかってんだ。
「夕飯、一応コンビニ弁当。テーブルの上にあるから」
父親をこの場から去らせるべく言った言葉は、友絵に遮られる。
「あ、あたし、なにか作りましょうか?」
友絵の方を睨む。とっとと何がどうなってこうなったのかの経緯を訊きたか
ったのだが。
「いえ、そういう事は明日の朝からお願いします。ほら、亮。長田さんを案内
しなさい」
父親のフォローが入る。
「父さんは食事してて。どうせまだなんでしょ、夕飯。その間に取りあえず長
田さん案内しとくから。荷物は車の中だよね。あ、長田さん、食事は……」
しまった。今度はこっちがいらない気を回してしまった。
「ご心配なく。関口先生をお待ちしている間に軽く済ませておりますから」
にこやかで人当たりの良い態度。うーむ。大人。
ま、このフォローで心置きなく友絵に対せるってわけだ。
「それでは、わたしは失礼します。それじゃ、亮、頼んだぞ」
そう言って父親がダイニングキッチンに入っていく。父親の姿が消えた途端
に、友絵が、それまで保っていた緊張感を緩めるのが目に見えて判る。
「亮君、そんじゃ、荷物取りに行きましょっか? 持ってくれるんでしょ?」
はふぅ。ま、こっちの友絵の方がやりやすいと言えばやりやすい。
こちらも長々と下手な敬語を使う必要がないから。
「あぁ」
短くそう答える。
雪の駐車場から荷物を取り出すために、玄関の三和土に降りて長靴を履く。
どうせ駐車場は融雪装置のせいで水浸しになっているから、見栄えよりも水密
性と保温性を最重視した長靴でないといけない。学校の帰りに少々入った雪の
湿り気がまだ少し長靴の靴底のクッションに残っている。
「……」
友絵が少し困ったように靴を見ている。友絵のものであろう見覚えのない靴
はいわゆるショートブーツ。なるほど。駐車場から玄関までの数メートル歩く
だけで中まで雪が凍みてしまったんだろう。履き直したくない気分は良く判る。
「友絵。足、何センチだ?」
「え? 二十三センチだけど」
二十三センチ。なら入るな。下駄箱の最下段に上半分を折り曲げるようにし
て詰め込まれている母親の長靴を引っぱり出す。確か母親の靴のサイズは二十
四センチだったはず。
「これ使え。少し大きいかも知れんが」
揃えて置いてやる。
「んー、ダンケ」
ダンケ。ドイツ語のありがとうだったか。そういえば友絵は大学でドイツ語
を取っていると言っていたか。
少しだけ肩を竦めて、玄関の戸を開ける。庇の下の空間を残して雪が虚空に
充填されている。コートが必要か?
「荷物の量は?」
一往復で済む量だったら、わざわざコートを取ってくるのも面倒。
「大したことないわ。男の子だったら一回で運べるわよ。あたしじゃちょっと
無理かもだけどね」
ふむ。なら、いいか。小さい荷物は友絵に持たせりゃ良いだろうし。
雪の中を少し小走りに玄関から出る。壁の外をぐるりと迂回するかたちで駐
車場の父親のワゴン車に辿り着く。
かなり外気温は低い。融雪装置の吐き出す井戸水から、もうもうと水蒸気が
立ち上っている。後部座席のスライド式のドアを開く。ドアにへばりつくよう
に積もった雪が足元に落ちて足元の水に漬かる。一部が制服のズボンの膝にか
かるのを手で払う。
後部座席を埋めている鞄を見て後悔。この荷物の大きさのどこが『一回で運
べる量』なんだ?
「友絵。これを持てと?」
だいたい、この荷物を車に積むときはどうやって運んだんだ?
降っている雪の中に突っ込むのを躊躇っていたのか、やや遅れてきた友絵の
方を振り向いて尋ねる。
「持てるでしょ? 男の子なんだから」
こちらが持てるということを全く疑っていない反論。男性の筋力に過大な期
待を抱いてないか? その自信ありげな口調の論拠を尋ねてみたくなったが、
ろくな答えが返ってくるような気がしなくてやめる。
あぁ、あぁ、判りましたよ。持ちゃいいんでしょ、持ちゃ。
諦めて、上半身を後部座席に突っ込む。確かに荷物全体の数はさほど多くは
ない。大型のバッグが三つに、特大サイズのバッグが一つ。後は小さなショル
ダーバッグ。おそらくはここに昨日使っていたノートパソコンが入っているん
だろう。取りあえず、右手に特大サイズと大型一つ、左手に大型二つ抱えるこ
とができれば一回で持っていける。ショルダーバッグは友絵に持たせればいい。
一番手前にある大型のバッグの持ち手に指をかける。持ち上げる。見かけに
比べて意外と軽く、少し拍子抜ける。軽い荷物が多いのだろうか?
「ちょっと友絵、持て」
取りあえず、車から降ろす作業は荷物を持ったままでは不可能。今の軽めの
荷物を友絵にひとまず持たせる。地面がこうまで水に浸かってなければもう少
し作業が楽なのだが。友絵も大型バッグ二つぐらいまでは持てるだろう。
次の荷物にかかる。次の大型バッグは……。さっきのバッグと同じくらいの
重さを予期していたら、今度は異常に重たい。革ひもが指に食い込む。ずしり
とした重量感。
「これ、中身なんだ?」
友絵に尋ねる。
「本よ」
……本。納得する。このバッグ一杯、全部本ならそりゃこの重さになる。
「まさか……他にも本だけのバッグはないだろうな」
悪い予感が外れることを祈りながら友絵に訊く。
「あと一つだけよ。そのグレーの荷物。他は服とかだから軽い軽い。でしょ?」
グレーって、特大型じゃねぇか。果たして持ち上げられるのか? その疑問
を先送りして、ショルダーバッグと軽い(これは確かに軽かった)大型バッグ
を友絵に持たせる。
残り……これは一気にやるしかないか。
本入りの大型鞄と特大鞄を座席の上を引きずって引っぱり出す。特大鞄を右
にして二つの鞄の取っ手を掴む。少し呼吸を調節して、一気に持ち上げる。革
ひもの取っ手が指にぎりぎりと食い込むのを無視する。両手を肩につける。足
で座席の下部を押して反動で立ち上がる。一瞬蹌踉めくが、すぐに安定する。
「友絵。そのでかい鞄、両手に一つずつ渡してくれ」
友絵が、鞄の持ち手を両肩にそれぞれ押し付けるようにして手渡す。
「さっすが男の子よねー」
その口調が何となく気にくわなくて、ついぶっきらぼうな口調になる。
「後、車のドア閉めて」
少し強すぎるぐらいの勢いでスライドドアが閉まる。室内灯が消灯するのを
確認する。急いだつもりだが、ずいぶんと雪を被っちまった。外で待っていた
友絵はなおさら。
「これで全部だよな」
これで全部じゃないとか言ったら、怒るぞ。
「えぇ、これで全部。んじゃ行きましょ」
そう答えて、友絵はとっとと一人で駐車場から家に入って、玄関の戸を開け
っ放しにして待っている。
その後ろ姿を見ながら、一歩ずつ踏みしめて安定を保ちながら歩く。うっか
り蹌踉めいたらそのまま転びそうだ。
よく考えたら、彰の奴をたたき起こして持たせりゃよかった。体育系の部活
をやっている弟の方がよほど体力がある。
心の中で愚痴をこぼす。玄関がやたら遠いような気分になる。
……ちょっと待てよ。この荷物、二階のあの部屋まで持っていくんだよな。
階段をこの荷物持って上るのか? 気が付かなきゃよかった。うんざりした気
分がさらに強まる。
やっと玄関にはいる。軽く頭を振って髪の上に積もった雪を落とそうとする
が落ちない。
「はい、ご苦労様」
友絵の声がして、真っ白な布地に目の前がふさがれる。タオルじゃない。大
きめのハンカチ? 暖かい。玄関灯の光の中、ほっそりした指先のシルエット
が目の前の布地のスクリーン上を動きまわる。心地よい。
濡れたハンカチが取り去られる。後ろで玄関の戸の閉まる音。空気が外界か
ら遮断される。風が止む。体感温度が上がる。
身体を回して友絵の方を振り向く。
「んじゃ、友絵。案内する」
そう告げて、左足と玄関の靴押さえで右の長靴を押さえて、長靴から右足を
ひっこぬく。既に手の指先の血行は完全に止まって感覚が失われている。さっ
さと荷物を下ろしたい。右脚を後ろに下げて玄関の上に乗せて重心を移す。左
足を振って、長靴を振り落とす。両手がふさがっている時の靴の脱ぎ方。
廊下の先、ダイニングキッチンには明かりが点っている。階段の脇の障子戸
の隙間からテレビのものらしい、ニュースっぽい音声がここまで届く。父親は
まだ夕食を喰っている。友絵は、廊下に一列に並べた本棚を埋めている文庫本
を眺めている。
「二階だ」
判ってるだろうけどな。階段に向けて顎をしゃくる。
「ふーん」
友絵の気のないような返事を聴きながら、階段を上る。足元の階段が体重と
荷物の重みを受けて重たい軋みをあげる。友絵の顔がある。踊り場で一旦体を
整え直して、降りてきたときに少しだけ開けっ放してあった自室の扉を足で押
し開ける。室内の暖かい空気が流れ出てくる。頬に暖気があたって初めてどれ
だけ凍えていたかが判る。つけっぱなしだった石油ファンヒーターの匂い。
友絵がホッとしたような息をつくのが判る。
「ふぅ、寒かったわ」
「戸、閉めてくれ」
友絵に扉を閉めさせる。一旦下がった室温を上げるには時間がかかってしま
うのだ。
自室の奥のふすまを足の爪先を使って開ける。隣の部屋の一番奥まで行って
文字どおり肩の荷を降ろす。友絵が電灯をつけようとして、蛍光灯から下がっ
ている紐を引っ張る。点かない。当然だ。
「そっちの壁のスイッチが入っていない」
肩を回しながらそう言うと、友絵は少し照れ笑いでごまかしながらスイッチ
を入れる。五本の蛍光灯がややバラバラのタイミングで点灯する。
「取りあえず、ここがしばらくあたしのお部屋ってわけね」
友絵がぐるりと部屋の中を見渡す。
「壊すなよ」
少し痺れた指先を軽くマッサージしながら、以前のことを思い返して皮肉。
「大丈夫よ。誰かさんが襲ってきたりしない限り」
襲撃か。ありうるだろうか? いや、祀穂理がいない今、襲われる可能性は
かなり低いだろう。友絵を狙う奴が現れたりしない限り。
「襲われるあてがあるのか?」
尋ねる。肩の筋肉を揉みほぐす。
友絵がやや拍子抜けしたような感じで軽く額に手を当てて、少し吐息をつく。
「……ま、いいわ。それより、まだ家の中、案内してくれるんじゃないの?」
***
気を入れない感覚で数式を展開していた手を、ふと休める。
階段を上る音がする。反射的に軽く身を竦める。最近やや太り気味の父親が
階段を上ってくる音ではない。それほどの重量感のない足音。
ノックの音がした。
返事をしながら振り返る。友絵だろう。うちの家族連中はこの部屋にはいる
のにノックなぞしない。
過去問集のページの間に鉛筆を置いて、椅子から立ち上がる。
「やっほー。今、いい?」
友絵が扉を開く。手に持っているのは木製のお盆にティーポットと二人分の
ティーカップ、フルーツのゼリー。
「うちの父親との話は終わったのか」
マイペースに炬燵の上にお茶セットを展開する友絵に尋ねる。
友絵はちょっと大げさに手のひらを上に向けて肩を竦めてみせる。
「終わったわよ。あたしと話していたら電話がかかってきてね。お父上は今か
らまたお仕事だそうで。もう病院の方に着かれたんじゃないかしら」
さっきしたエンジン音はそれか。うちから父親の病院までは大した距離はな
い。確かに、もう着いているだろう。
「驚かないのね」
「べつに。よくあることだ」
突然電話がかかってきて呼び出される父親という図は生まれたときから馴染
みになってしまったものだ。別段珍しくもない。
「ふーん、やっぱ、お医者さんって大変よねぇ。で、紅茶持ってきたんだけど、
飲むでしょ?」
断る理由はない。それに、友絵には尋ねるべき事がある。
「あぁ」
そう答えて、座椅子に腰掛けて炬燵の中にあぐらを組んだ足を突っ込む。
友絵も、向かい側の座椅子に腰掛ける。友絵が、ティーポットからティーカ
ップに紅茶を注ぐ。ティーポットの上の蓋の隙間から、日東の黄色いティーパ
ックの袋がぶら下がっている。
安い紅茶の香りが広がる。友絵が、ティーカップを目の前に置く。
「亮君は砂糖はいくつ入れるの?」
「入れない」
「そうなんだ。じゃ、レモンは?」
「いらない。茶にもコーヒーにも何も入れない」
「ふーん、そうなんだ。なかなか渋いじゃない」
そう言いながら、ティーカップをこちらに差し出す。
「友絵。これは、いったいどういう事なんだ?」
尋ねてから、紅茶を一口啜って口の中を湿す。
普段、紅茶はあまり飲まんのだが、この紅茶は明らかにうまい。入れ方の問
題なのか?
「ぶっちゃけて言っちゃえば、これ、上司の指示なのよね」
友絵の上司。
「上司というと例の人物か?」
十八年前、ウェルバー喪失に関わったとされる退魔師。南正一。
「そう。なんだかんだ言って、彼がマクスウェルの悪魔に関しては一番の専門
家だしね」
確かにそうかもしれないが。彼が、祀穂理の父親を殺したのだとしたら……
どうすればいいのだろう? 祀穂理は……どうするだろう。
「ほら、それに純血のマクスウェルの悪魔とかって、うちの組織にとって、結
構大きい問題だってのは話したわよね。だから、あたしの一存でどうこうでき
るってもんじゃなくなっててね」
つまりは、組織として保持しているマニュアルの中には存在しない事態とい
うことか。
「で、今日までかかったと」
それならそうと連絡をくれれば良かったのに。
「一応上司の方に報告したのよ。そしたら、緊急の幹部会議とやらに呼び出さ
れるやら、なんやらかんやらと、うっとーしい事務手続きがあってさ。ま、う
ちの組織の方針が固まるまで半分軟禁状態されててさ。ちょっとばかり事態を
甘く見てたわ」
なるほど。
「で?」
話の先を促す。
「結局、うちとしては、亮君に協力して祀穂理ちゃんを捜すっていうことにな
ったわ。消滅したはずのウェルバーがなんで現れたのかとか、色々不審な点は
ありすぎるしね。放置しとくには大問題に発展する徴候が見えすぎるわ」
ふむ。組織力が祀穂理捜索に使えるんなら結構なことだ。
「で、まぁ、亮君と顔がつながっているのは、あたししかいないし、この事件
は元々あたしの担当だったわけだし。どうせ亮君と一緒に居るんだったら、こ
ういう形のほうがより自然だろうっていうわけで、うちの上司の人脈を通して
手配してもらっていたのよ。ま、ついでにいいアルバイトにもなるし、そう言
う訳で……」
そんな言い訳ともつかないことをいいながら友絵は自分用の紅茶に砂糖を二
つも入れる。
しかし、国際退魔協会……WHってのはどういう組織なんだ? 大規模なのか
零細なのか話を聞いている限りではさっぱり判らん。
「連絡遅れてゴメンね」
友絵が両手を合わせている。
少し、溜息をつく。
「ホントは……ちょっとビックリさせようかなって思ってさ」
ふぅ。そういう事かよ。
「ま、いいけど」
心の中にはまだしっくり来ないものがあるけれども、許さざるを得ない。
「………しかし、友絵がホームヘルパーねぇ」
砂糖二つ入りの紅茶を平然と口に運んでいる友絵を見ながら、口の中で呟く。
そもそもあまり家事ができるようには見えんのだが。ま、少なくとも毎日ホカ
弁を買ってくる必要がなくなっただけいいとするか。自分で料理するよりはま
しなものがでてくるのは間違いないだろうし。
「ま、よろしく頼む」
そう言う。話を打ち切る。紅茶の残りを飲み干す。まだ何となく口さびしい
気分。見計らったように、友絵がティーポットに手をかける。
「もう一杯、飲む?」
「あぁ、頼む」
友絵が中腰になって目の前のティーカップに紅茶を注ぎ入れる。ティーパッ
クを入れっぱなしだったのか、少々濃すぎる。最後の一滴が、ティーカップの
中に波紋を描く。要するにポットを空にしたかった訳か。
腰掛けなおした友絵が、少し顔をしかめる。手を炬燵の下に持っていく。
「なんかお尻の下がごつごつすると思ったら……なにこれ?」
友絵が座布団の下からノベルズを引っぱり出す。表紙に見覚えがある。奇妙
な形の軍艦とレシプロ機。
「ん、ろくでもない架空戦記」
二週間ほど前に買ってきたんだが、あまりのろくでもなさに途中で読むのを
放り出した本だ。
「『怒涛の超弩級戦艦空母大和改二型、発艦せよ』ねぇ……確かに、あまりま
ともそうな本じゃないわね」
いちいち題名を読まんでもいいっちゅうに。
「もしかして面白かった? どんな内容?」
わざわざ訊くか? 題名から想像できるだろうに。
「戦艦大和と武蔵で空母信濃をサンドイッチにした三胴戦艦空母が太平洋戦争
を傍若無人に引っかき回すというただそれだけ。キャラの書き込みはワンパタ
ーンだし、最低限の歴史的事実も無視してる。おまけにこれ、シリーズの第一
巻。一発ネタの冗談ならともかく、シリーズものの第一巻っつうことはこれが
続くって事で、いろいろとオチが付いていないことも多い。ま、読むだけ時間
の損だな」
冷静な評価。はっきり一言でクズ架空戦記といって過言ではない。
「……そういう架空戦記ばっかり読んでるヒト、あたし、うちのサークルに一
人知ってるわ。クズだクズだって言いながら読んでるの。あの先輩ぐらいだと
思ったんだけどなぁ、そーゆー人。もしかして、北陸ってそういうヒト多いの
かしら」
友絵がとても楽しそうに笑う。
そーかそーか。そういう人もいるのか。ま、世の中広いからそういう人の一
人や二人いてもおかしくない。
がちゃりと音がして、部屋の扉が開く。
「なんか、女の声がすると思ったら……」
扉の隙間から、パジャマ姿の弟の彰がするりと入ってくる。
「彰、起きたのか?」
間抜けな質問。起きていることぐらい見れば判る。彰はあっさりと質問を無
視する。
「で、この女性だが……」
彰が友絵の方を見ていう。
「……兄貴の彼女か?」
「彰、そういう事をいう奴には」
「違うのか? いや、そうじゃないだろうと思ったが、一応念のためにな」
こいつわぁ。昔っからこうだ。兄を兄とも思っていないところがある。
「るさい」
「兄貴もいい加減愛しの琴ちゃんから卒業しろよな」
感情の温度が一〇度ほど下がる。
「るさいと言ってるだろう」
これ以上、余計なことを言われたら切れる。もっとも、彰はその辺の呼吸を
よく判っている。
「悪り。で、この人は?」
簡単に表向きの事情を説明する。
「ふーん。初めまして。俺は彰。この家の次男。中三だ。ま、よろしく。うま
い飯作ってくれるんなら文句はいわねぇ。少なくとも兄貴の不気味料理よりも
うまい飯ならな」
まったく、いつもながら無礼な奴だ。まだ、この間のニンジン料理の恨みを
引きずってやがる。
「不気味料理たぁなんだ。あれはちょっと失敗しただけだろうが」
「喰えるか、あんなもん」
友絵の前で兄弟喧嘩になるのはさすがにまずかろう。
険悪な雰囲気を感じとったのか、友絵が猫を被っている声で仲裁を入れる。
「彰君もお茶、いかがです?」