『あなたは神を信じますか?』


前編 〜ShiHoRi〜


6th. 敵対者には敵対者の事情があるにちがいない



 溶けかけた雪の上に新たな雪が降り積もっている。
 雪は何もかもを覆い隠す、とかいう歌があった。一昨日、祀穂理が現れたと
きとはまるで別の公園。わずかな新雪のコーティングによってこれ程までに景
色が変わる。
 雪片が睫毛に付着する。ゆっくりと溶けて視界を歪ませる。
 南星里公園駐車場と大書されたプレートの上にも新雪が積もっている。
 雨ざらしで薄汚れてしまった部分を全て覆い隠して。
 駐車場を斜めに突っ切って、常緑樹の隙間を潜るように通過して小道に直接
はいる。常緑樹の葉先に積もった雪の小塊がはねて顔にかかる。少し待つ。祀
穂理が透過モードで並木を通り抜けてくる。
「もーっ、なんでこんな所、通らなきゃなんないの?」
 文句を言いながら友絵が、枝の下を潜り抜けてくる。ショートの髪の毛に小
さな枝がからみついている。
「普通じゃない進入路の方がいいと言ったのは友絵だ」
 経路選定の際の友絵の主張を繰り返す。
「いるとすれば広場だろう。行くぞ」
 黒いぼろ切れの脇を抜けて、小道をたどる。一昨日、祀穂理が降ってきた位
置を通過して、小道と広場とを隔てる植え込みが一番薄くなっているところで、
立ち止まる。
「ここを突っ切る」
 植え込みを指さす。
「うん」
「えーっ、またーっ?」
 素直な返事が祀穂理。反抗的なのが友絵。
 植え込みと言っても、小径側こそ結構密に植わっているが、広場側はせいぜ
い身を隠せるぐらいである。それほど問題はない。
「行く」
 根っこから一番通り易そうな位置を推測して枝を一気にかき分けて、突っ込
む。腕に引っかかって、小さな枝が折れる音が聞こえるが気にしない。抵抗が
止む。植え込みの中の小さな空間に到達した。わずかに遅れて祀穂理がすり抜
けてくる。もうちょっと遅れて、友絵が抜けてくる。
 それを横目で見ながら植え込みの隙間から広場を眺める。広場の中央に、グ
レーのスーツを着た男がいる。こちらに背中を向けて、何をするでもなく佇ん
でいる。
「あれか」
 確認するように呟く。あれが雪の中立ち尽くすことが趣味の近所のおっさん
でない限り、あの呼び出をかけたのはあの男だろう。
「友絵、何かあるか?」
 妙な結界とか、妙な場とかがあって出ていった途端にやられたんじゃかなわ
んからな。
「今の所、結界らしいものは見当たらないわね。どうする?」
「なら、出るしかないだろう」
 降り続く雪の中で漫然と待っているなんてことは、体力の消耗を呼ぶだけだ。
無駄でしかない。
 植え込みの影から出る。頭の上に軽く積もった雪と小枝に葉っぱの混合物を
はねのける。
 男の背中側から近づく。男は身動き一つしない。
「おい」
 なんと声をかけようか迷った揚げ句の台詞はこうだった。
 男が振り返る。
 鏡を見ているような錯覚にとらわれる。おんなじ顔。不気味なくらいに。
「やあ、遅かったですね。来ないかとおもってしまいましたよ」
 自分と同じ顔の人間がこんなに気持ち悪いとは。何も言えなくなる。
 身長、体重もほぼ同じに違いない。生き写しという奴だ。
 そのまま続けて男が名乗る。
「わたしはWellbred Maxwell。初めまして、関口亮。ウェルバーと呼んでいた
だければ結構」
 ウェルバー。Maxwellを名乗る男。祀穂理と同じく、悪魔なのか?
「……お父……さん?」
 背中の後ろに隠れていた祀穂理が呆然と呟く。
「祀穂理……、元気だったかい?」
 作り笑い。決して笑っていない笑い。悪魔の笑み?
「お父さん! 生きていたの? あたし、あたし!」
 駆け寄ろうとする祀穂理の肩を掴んでいる。
「離して!」
 どうしても、祀穂理をウェルバーの元に行かせても大丈夫という気にはなれ
ない。掴んだ肩を離さない。
「ウェルブレッド・マクスウェル。本当に祀穂理の父親なのか?」
 時間稼ぎにしかならないであろう問い。
「もちろんです。わたし以外に祀穂理の父親はおりませんよ」
「……そっくり……」
 友絵が小さく呟くのが聴こえる。うるさい。
 気持ち悪い。このウェルバーって奴、見ているだけで吐き気がしてくる。何
かが体の中を支配していく。圧倒的な嫌悪感と……こみ上げてくる、これは、
力だ。こみ上げてくるものを飲み下す。
「なら、お前もマクスウェルの悪魔なんだな」
 判りきったことだが一応訊く。
「そういう事になりますね」
 ウェルバーにある余裕が、心を苛立たせる。なぜだ?
「死んだんじゃなかったのか? 十八年前に」
 ウェルバーは慇懃に自分の胸を指さしてみせる。
「ご覧の通り、死んでいるようには見えませんでしょう?」
「確かにな」
 こみ上げてくるものはどんどん強くなる。違和感と、嫌悪感。
「なら、十八年前のことはなんだったんだ?」
 十八年前のことを訊かないわけにはいかない。が、その問いにはウェルバー
は薄く笑みを見せるだけで答えようとしない。
「祀穂理ちゃん、どういう事?」
 祀穂理の脇に駆け寄った友絵が祀穂理に尋ねる。
「祀穂理、あの時、わたしを倒そうとしたのは、その女の上司だ。なんでそん
な女のそばにいるんだい?」
 ウェルバーがゆっくりと宣告する。
 友絵の顔が蒼白になる。
「何を言っているの、あなた。なぜ? まさか……局長が?」
 友絵が、祀穂理を押さえていた力がゆるむ。祀穂理が肩を掴んでいる手を振
りほどこうとする。
「祀穂理、駄目だ。あれは、祀穂理の父親ではない。あれは……」
 口走っている。論拠のない言葉。しかし、その内容が正しいことに、なぜか
確信が持てる。あれは、真実の祀穂理の父親ではない。
「なんで? りょーちゃん、なんでそんな事いうの?」
 心外な言葉を聞いたというように、詰問する祀穂理。
 感覚としか言いようがない。言葉に詰まる。
「さあ、祀穂理……こっちに来なさい」
 その様子を見てウェルバーが祀穂理に呼びかける。背筋の裏を何かが駆け抜
ける。こいつはぁ!
 もう、耐えきれない。何かが、身体を駆り立てる。両腕が勝手に前に出る。
重心を落としている。身体が反射的に反動に備えている。
「でぇぇぇぇやぁ!」
 呼気と同時に力が迸り出る。抑制を一気に取り払って、決壊したダムの勢い
で攻撃的な世界線がウェルバーに向かって放出される。
 収束とその直後の爆発。
 蒸発した雪のもやでウェルバーの影が霞む。大きく歪む。はっきりとした手
応えの様なものを感じて。やったのか?
「ほーう」
 ウェルバーの声が最初に聞こえた。そして姿が現れる。
「っ」
 ウェルバーは、左手を自分の顔の前に掲げていた。それだけ。何も変化がな
い。全くダメージを与えられていない。
「もう、臨界点を突破しましたか」
 ウェルバーの呟きが静かに響く。
 臨界点? どういう事だ? なんの臨界点だ? それは祀穂理に関わること
なのか?
 疑問は言葉にならない。替わりに体内に力が再充填される。この再充填速度
なら……可能だ。
 漫然と前に出していた両腕を組む。仮想の木刀を握る。掌の中に手応えを感
じる。青眼に構える。
「てぇや!」
 まず一発。上から。予想通りにウェルバーはそれを左腕を上に動かすことに
よって軽く防ぐ。空間の爆砕で視界が歪みまくる。
「てぇやてぇやてぇゃてぇゃてぇゃてぇ!」
 さっきまでの相対位置を基本にわずかに左右に振りながら上段からの攻撃を
繰り返す。少しずつ押していく感覚で。ウェルバーの立つ位置が、わずかずつ
下がっていく。攻撃を防ぐ左腕もだんだんと上がり気味になって。これなら、
いける。
「とぉりゃ!」
 力を、滑らせる。上からの攻撃と見せかけたフェイント。攻撃波を入れない
ポーズだけ。一旦、斜めに振り下ろした両腕を左から胴なぎにする。
 入った!
 そのまま力を絞り出す。連続攻撃で上がりかかった息を振り絞る。爆砕。反
動をそのまま利用して間合いを取り直す。
 歪みまくった空間がゆっくりと復元する。
「これはなかなか……」
 ウェルバーの姿が形をなす。左手で右腕を押さえている。あれは血。しかし
見せているのは余裕の笑み。
 息が上がっている。苦しい。普段の運動不足がこんな所で現れている。
 一撃は確かに与えたけれども、ウェルバーの戦闘能力を奪うまでには全然至
らない。
「関口亮。ここまでやるとは思いませんでしたね」
 この程度で誉め言葉を貰えるとはね。クソッたれ。力の再充填はまだか?
「りょーちゃん、なんで……?」
 友絵に押さえられている祀穂理が呟く。
「祀穂理、来なさい。お前のいるべき場所はそこじゃない」
 違う!
「だめだ、祀穂理! 行っちゃいけない」
 再充填はまだ済んじゃいない、だけど。撃つ!
 ウェルバーの身動き一つ無い防御に弾かれて、派手な雪煙をあげるだけ。無
論全く効果はない。
「なんなんだ、クソぉ」
 口の中で悪態をつく。今の一発で、再充填が更に遠のいた。
「まぁ、所期の目的は果たしたのでよしとしましょうか」
 ウェルバーは、そのまま余裕を見せたまま独り言のように言葉を口にする。
「どういう意味だ?」
 質問は全く無視される。
「関口亮、また会いましょう」
 にこやかな笑み。腹立たしい。
 傷ついているはずの右腕を軽く振る。
「ウェルバー!」
 消える。透明化していく。
「自己転送?」
 友絵の呟き。そしてウェルバーの笑みだけが空中に残る。それが風で吹き消
された後は、跡形もない。
「逃げやがった……」
 呟く。かなり自分でも勝手な言い分であるのは判りながら。膝を着く。膝を
ついて初めて足に力がまるで入らなくなっていることに気がつく。
「りょーちゃん」
 祀穂理が近づいてくる。
「どうして、お父さんにあんな事したの?」
 答えられない。
「確かに亮君らしくなかったわね。あんなに軽々しく行動に出るなんて。とっ
さに情報結界張っておいたから良かったようなものの、あたしがいなかったら
今頃大騒ぎよ」
 友絵。そうか、情報結界を張ってくれていたのか。
「すまない」
 一言いうべきだったろう。我慢できなかったと。
「せっかくお父さんに会えたのに。やっと……会えたのに。どうしてあんな事
したの?」
 肩の所を掴んだまま、うつむく祀穂理。
「あれは、駄目だ。それ以上言いようがない」
 言いようがないのだ。あの生理的嫌悪感。あの反発心。
「そう、ちゃんと説明もしてくんないのね……」
 祀穂理はうつむいたままだ。肩にしがみついている手に少しずつ力が入って
くるのが判る。
「りょーちゃんの、ばかーっ!」
 祀穂理の叫びと同時に、網膜を灼く白光が世界に満ちる。瞳を閉じずにはい
られない。
「なに? これ!」
 友絵の悲鳴。
 両腕で目の前を覆っている。それでさえ通過してくる光。
「祀穂理? 祀穂理っ!」
 まぶたを透過していた光が収まるのが判る。目の前を押さえていた腕を下ろ
して、ゆっくりと目を開ける。
「祀穂……理?」
 祀穂理の姿がない。見渡す。雪が降りしきっている公園、途方に暮れたよう
に呻き声を漏らしている友絵、そして、それだけ。祀穂理が見当たらない。
「祀穂理! どこだ? 返事しろ!」
 まるで返事がない。
「えーぃ、くそ! 祀穂理!」
 いない。祀穂理がいない。
「亮君」
「おーい、祀穂理ーっ!」
 祀穂理がいなくなった。
「亮君!」
「祀穂理ー……」
 祀穂理がいない。祀穂理がいなくなった。
「亮!」
 祀穂理が消えた。護らなくてはならないもの。祀穂理がいなくなった。
「関口亮! しっかりしろ!」
 声に……気付く。祀穂理を捜さなくては。
「あ、あぁ」
 友絵だ。
「もうっ、どうしちゃったの?」
 制服のズボンが……びしょ濡れだ。半分凍りかかって。当たり前だ。雪の上
に座り込んでいるんだから。
 立ち上がる。立ち上がろうとして、足元がよろめく。友絵が腕を掴む。バラ
ンスを取り戻す。足の感覚が半分麻痺しかかっている。
「すまない」
 礼を言う。友絵の顔がすぐ目の前にある。柑橘系の香りが鼻腔をくすぐる。
「いいわよ……。大丈夫?」
 気遣わしげな視線。あぁ、この女でもこんな顔が出来るのか。友絵の頬の産
毛を見つめてしまう。
「大丈夫だ」
 何がどう大丈夫なのかは知らないが、とにかくそう答える。そう応えでもし
ないと、友絵は掴んだ腕を離さないだろうから。少々痛い。
「取りあえず雪宿りのできる所に動きましょ。そうしないと……このままじゃ
風邪引くわよ」
「あぁ」
 同意する。確かに風邪を引くには最適の環境。これ以上濡れない場所に行く
ことに異議はない。が。
 その前に腕を放さないか?
 そう言おうとする前に、友絵は腕を引っ張った。
「ほら! 行くわよ!」

        ***

 なんちゅう力だ。シャワーの熱水流を左腕に当てる。まだ少し痛むような気
がする。
 結局、公園から程近いこのマンションにつくまで、友絵は腕を放してくれは
しなかった。
 もう一回、頭の上から熱い水流をかぶる。ずいぶんと人心地がついた。血流
が回復するのが判る。その分脳へ行く血が減ったせいか、少しふらりとする。
 浴槽に腰掛けてシャワーを止める。
 脱衣所に出て、真新しいバスタオルで身体についた水滴を拭き取る。膚が弾
いた水が残さず吸収される感覚が心地よい。いったん全身をぬぐった後、汗を
かきなおしている額をもう一度拭く。自分の発した汗の匂い。
 脱いだ学生服を着ようとして、気付く。無い。脱いで置いた下着も。手早く
バスタオルを下半身に巻き付ける。扉を少しだけ開いて顔だけ出す。
「友絵。服が無いが」
「そこにちっちゃいタンスがあるでしょ? そこにあるの使っていいから」
 先にシャワーを浴びて、素っ裸に巻き付けたバスタオル一丁という恰好の友
絵が、こちらを振り向かずに指差す。
 そこには確かにタンスがあった。仕方がないので扉を開けてそのタンスの最
上段を開ける。
「………」
 女物の下着の棚だったらしい。無言で閉めて次の棚を開ける。封を切ってい
ないトランクスやらTシャツやらがある。安心して、その下の棚を開ける。ジ
ーンズが入っている。
 ジーパンとトランクスとTシャツに、トレーナーを一枚取り出して脱衣所に
戻る。友絵の方をちらりと見る。クッションの上に背中向きに腰掛けて、何や
らノートパソコンらしきものをいじくっている。さっきから何かを着ようとい
う発想はないようだ。確かに暖房が効きまくっていて風邪を引く心配はないだ
ろうが。
 脱衣所の扉をきっちりと閉じなおして調達してきた服を着る。ジーンズの腰
回りが少し緩い。ベルトは残念ながら無い。仕方がないので、そのままにする。
 脱衣所を出ると、友絵はさっきの恰好のままだった。
「………上がったが」
 声をかける。友絵がちょっとだけ振り向く。友絵が返事をする前に尋ねる。
「服はどうした?」
 友絵は、ノートパソコンの液晶画面に視線を合わせたまま口早に答える。
「あぁ、乾燥機につっこんどいたわよ。放っといたら、どうせそのまま着るつ
もりだったんでしょ? せっかく部屋にまで連れこんどいて風邪引かれたんじ
ゃたまんないわよ。一時間もしたら乾くから」
 何となくないがしろにされているような気がする。
「……何をしている?」
 背中に向かって尋ねてみる。髪の上に巻いたタオルの下にうなじが見える。
「データ検索。さっきの話に関係ありそうなこと引いてるの。少し時間かかる
から、もうちょっと待ってて。あ、冷蔵庫に飲み物あるわよ。勝手に開けて好
きなの飲んでていいから」
 人の家の冷蔵庫を勝手に開けるという習慣は持っていないだけに戸惑う。な
んとは無しに罪悪感を感じつつ冷蔵庫の扉を開く。
「友絵。酒しかないのか?」
 思わず尋ねている。さほど大きくない冷蔵庫の中は、酒らしきものしか入っ
ていなかった。主力は金色の缶のビール。後は日本酒とカクテルらしき色とり
どりのビン。酒じゃないものは……炭酸水。んなもん飲めるか。
「あ、そっか、ビール嫌い?」
 いや、嫌いも何もな。昼間っから、しかも高校生にビールを勧めるか、普通?
「あのな」
 振り返ってよく見る。ノートパソコンの脇にあるのは、確かに冷蔵庫の中に
あるのと同じ色の缶。
 ……どうっしょうもねぇな。飲み物を諦めて冷蔵庫の扉を閉じる。
「友絵、コップ借りるぞ」
 一言断って、洗った食器が雑然と積み重なっている所からビール会社のロゴ
マークの入ったガラスコップを一つ取る。水道の蛇口をひねる。少々水圧が高
いのか、唐突に噴出する。止めるのが間に合わずにコップから水が少し溢れる。
手が濡れる。ま、これくらいなら拭く必要もない。そのまま室内に持って行く
にはこぼれそうなので、その場で少し啜る。そのつもりが、一気に飲み干して
しまう。そうか、こんなに喉が渇いていたのか。もう一杯。今度は普通に注い
で、室内へ持っていく。
 友絵の座っているクッションの脇にある同じ柄のピンクの渦巻きのプリント
された丸いクッションに腰掛ける。何となく手持ち無沙汰。友絵は、真剣にノ
ートパソコンと睨み合って何やら両手で打ち込んでいるし。
 その様子をぼんやりと眺めながら水を飲む。ついつい軽く飲み干してしまう。
これでますます手持ち無沙汰だ。
「ウェルブレッド・マクスウェル……もうちょっと祀穂理ちゃんのお父さんの
話をきちんと聞いておくべきだったわ……」
 友絵が液晶画面に向かって誰に聞かせるでもないように呟いているのを聞き
とがめる。
「ちょっと待て、何か判ったのか?」
 祀穂理があんなにも求めていた父親についての話。
「えぇ……しっかりあったわよ。十八年前なんて言われた時点で思い出すべき
だったわ。この業界じゃかなり有名な事件なんだから。最後の純血のマクスウ
ェルの悪魔と、その喪失」
 喪失……その言葉が重くのしかかる。このまま見つからなかったとき、祀穂
理もまた「喪失」の一語で扱われるのだろうか?
 そんな想起を振り去る。
「十八年前、いったい何が起こったんだ?」
 尋ねる。
「それを今検索してるのよ。十八年前なんてあたしだってまだ三才だし、詳し
い話なんて、この業界、特に訊かれでもしない限り、滅多に他人に話したりは
しないもんだし。このデータベースに入っている情報以上は、今は大したこと
は判らないわ」
 ちょっと不機嫌そうに答える友絵。
 ウェルバーの言っていた言葉が気になる。
 『あの時、わたしを倒そうとしたのはその女の上司だ』
 関係がまた判らなくなってきた。そして、祀穂理がどこに行ったかも。反射
的に攻撃してしまったはいいが、ウェルバーはもしかして本当に祀穂理の父親
なのか?
「取りあえず判ることだけでいい。こっちにはなんの情報もないんだから。な
んだって少しは役に立つ」
 クソッ。なんかイライラする。こんなにも苛つく原因は、祀穂理だ。
 自己分析。
 琴を目の前で失ったことが精神的外傷になっているのは判っている。そして、
祀穂理を琴の再来として見てしまっているという事も。だからなのか? これ
っきり祀穂理が帰ってこなかったら……それは琴の喪失の再現。それだけは避
けなくてはならない。祀穂理のため、そして、自分自身の精神の安定のため。
「もうちょっと待って。もう少しで処理が終わるから」
 空のコップの端を軽く噛む。友絵の額にも……むき出しのままの肩にも汗が
浮かんでいる。もうキーボードは叩いていない。
 覗き込む。真っ黒な画面に、英小文字と数字の羅列。カリカリカリカリと振
動音がして、それが途切れる合間に、画面が上にスクロールする。今動いてい
るのがウィンドウズではないらしいということぐらいは判る。少なくとも友人
の家で多少いじった事がある、程度の知識では何をしているのかよく判らない。
「何してんだ? これ」
 尋ねてみる。
「んー、ちょっとちゃんと説明しろっていわれると面倒臭いんだけどね。ま、
早い話が、データベースの中から関係ありそうな単語をキーワードにして検索
をかけてるのよ」
 それぐらいは理解しているが。
「あたしのマシンは、ほとんどがちょっと昔のフリーウェアで組んであるし、
いまどきDOSで動いているから、ちょっと説明しにくいのよね」
 ドスってぇと。なんか昔あったとかいう奴か?
「亮君は何かマシンは持ってないの?」
「いや、ない」
 欲しくないわけではないのだ。だから大学に入ったら買おうとは考えている。
「そっか。でも理数科でしょ? みんな使ってない?」
「いや、そう言う訳でもないな」
 友人に持っている奴なら何人かいるが、ゲームに使っている奴しか知らない。
実際、コンピューターに触った経験といえば、高二の時の実習と、友人の家で
やったHゲームぐらいなもんだ。
 短い電子音。友絵が振り返る。
「あ、終わったわ」
 友絵の言葉に画面を見る。真っ黒な画面には『何かキーを押して下さい』と
だけそっけなく出ている。
 友絵が両手をキーボードにあわせて何やらカタカタと打ち込むと、水色のバ
ーの下に文章が現れた。ざっと文章が上の方へと流れる。
「ふぅ」
 友絵が軽く溜息をつく。
「どうした?」
「あたしが知っている以上の情報はほとんどなかったみたい。やっぱ、ハーデ
ィーの容量が小さいと駄目よね」
 なんのこっちゃ。ま、今はコンピューターの話をしているわけではない。
「要するに、役に立たなかったと」
 そういう事だ。つまりは。
「そういう風にいうことないじゃない。この子だって頑張ったんだから」
 この子? ……あぁ、ノートパソコンのことか。
「まあ、それはともかくとして、十八年前の話をしてくれるんじゃないのか?」
 話を振る。放っておいたらいつになったら話が始まるやら判らない。
「そうね。取りあえず時刻は十八年前のクリスマスイブの晩、場所は横須賀、
米軍基地の敷地内よ」
「米軍基地……?」
 あぁ、確かそんなものがあったな。
「そ。日本のアメリカ。で、ここからが本筋ね。ウェルブレッド・マクスウェ
ル、つまり祀穂理ちゃんのお父さんは、ずっと昔から調査の対象だったのよ」
 調査の対象。要するに、今、ここで祀穂理の元に友絵がやってきたようなも
のなんだろうか。
「監視されてたのか?」
 ずっと昔からということは、そういう事か?
「んー、ちょっと違うわ。捜索されていたのよ。全然見つからないから」
 見つからないって……
「えーっと、話がちょっと訳ワカメんなっちゃったね。もうちょっと、いや、
ずっと遡って説明するわ。とにかく最初っから話さなくっちゃね。マクスウェ
ルの悪魔ってのは、本来ヨーロッパ原産なのよ。昔は単純に他の非存在と一緒
くたに悪魔って呼ばれていたんだけどね。ま、それはおいといて、科学の分野
でのマクスウェルの悪魔については知ってる?」
 そちらの方なら、SF読みとして知らないわけはない。
「熱力学の第二法則を破る存在。分子の選別を通して、エネルギーそのものは
生み出さないけどエントロピーを減少させる。こんな感じか?」
 友絵がにっこりと笑う。
「合っ格。さすが受験生。よく勉強してるわね。で、その概念を打ち出したジ
ェイムズ・クラーク・マクスウェルについては?」
 そういう名前だったか?
「……たしか、電磁気学の物理学者じゃなかったか?」
 マクスウェル方程式とかいう奴を導いた人物と同一人物だったような記憶が
ある。
「その通りよ。イギリスの偉大な物理学者。で、彼と契約していた二体の悪魔
がMaxwell姓を名乗るマクスウェルの悪魔の起こり。ついでに言えば、祀穂理
ちゃんのおじいさんとおばあさんに当たるわね。つまりはウェルブレッドの両
親という訳」
 ……祀穂理が歳を言いたがらないわけだ。
「で、物理学者マクスウェルの死後、マクスウェルの悪魔の一族は、バラバラ
になったわ。そのままイギリスに残った者、ドイツに行った者、アメリカに渡
った者。でもね、残念ながら、当時は悪魔という存在を人間に対立する物って
考える術者達が多くてね。特にヨーロッパの方では。で、結局何度かあった悪
魔狩りの結果、純血のマクスウェルの悪魔、つまり、元祖マクスウェルの悪魔
夫妻とその子供達は、二〇世紀を待たずして、一人を残して全員消滅したわ。
少なくとも、第一次大戦が終わって、うちの組織が整備されてからの追跡調査
ではね。で、残る一人が……」
「ウェルバー」
「そゆこと。だから、彼が最後の純血のマクスウェルの悪魔。純血のマクスウ
ェルの悪魔の能力は、大変なもんだったという話だわ。少なくとも、ヨーロッ
パで彼らと戦った過去の術者達の記録によると、だけどね。だから、うちの組
織ができて、悪魔も人間も関係無しに構成員にするようになると、スカウトす
るためにも血眼で探したらしいわよ。なにせ、普通の能力者五十人が張った結
界を苦もなく崩壊させたとか、情報結界の内部に物質の転送をしたとか、もう、
普通じゃ考えられない伝説が残ってるんだから。これはもう味方につけなきゃ
嘘よねって感じでしょ」
 いまいちピンと来ないのだが、まぁ、そういう物なのだろう。
「はぁ」
「もっとも、Maxwell姓を名乗ってるマクスウェルの悪魔はまだいて、これが
ちょっとややこしいんだけど、直系だけど純血じゃないマクスウェルの悪魔と
元祖マクスウェルの悪魔夫妻とはなんの血のつながりもないけど、自分に箔を
つけようとMaxwellを名乗っているマクスウェルの悪魔がいるわ」
 友絵の話を遮る。
「ちょっと待って、その、直系だけど純血じゃないってのは?」
 どういう意味かいまいち掴めない。
「つまり、純血じゃないってこと。純血のマクスウェルの悪魔が、他の悪魔と
か人間とかと通婚してできた子供ってことよ。だから、マクスウェルの悪魔の
ハーフとか、クウォーターとか。今いるマクスウェルの悪魔は、みんな八分の
一以下よ。能力の方も、それなりの人間の術者と同レヴェルってぐらいかな。
その分存在が強まっているから、ほとんど人間と変わんないわよ。いいかしら?」
 話が逸れまくっているような気がするが、これも理解しておかなくてはなら
ないことだ。
「あぁ」
「話を戻すわ。唯一消滅が確認されていない純血のマクスウェルの悪魔、つま
りウェルバーは、もちろん最重要スカウトの対象になったわ。でも見つからな
かった。何でかって言うと、彼は、物理学者マクスウェルの死の前にイギリス
を離れたまま行方不明になっていたから。後から考えると、その時既に日本に
来ていたんじゃないかって思えるけど、普通そんなこと考えないでしょ? だ
から、結局見つからないまま、彼はひっそりと住んでいたのよ。日本で」
 迫害と組織の追求を逃れて、あくまで人間のふりをして事件を起こさないよ
うにひっそりと生きているマクスウェルの悪魔。どうも、あのウェルバーとは
イメージが噛み合わない。
「で、やっと十八年前の話になるんだけど、これが曖昧なのよ」
 ……ここまで来て、か?
「当時の関東支部長、南正一……これが今のあたしの上司なんだけど、彼がこ
の事件の担当だったって事は確かなの」
 少し困ったような顔をする友絵。
 南正一……憶えておこう。
「で、事件の詳細なんだけど、詳しいことはほとんど判んないのよ。このデー
タベースには、『ウェルブレッド発見を巡り、BHとの戦闘行為が発生する。結
果として最後の純血のマクスウェルの悪魔ウェルブレッド・マクスウェルの喪
失が確認された』とあるだけ。あと、南正一の奥さん、この人も術者だったん
だけど、その人も死亡したとあるわ。実際、この事件に関しては……」
「ちょっと待った。何だ、そのBHってのは?」
 聞いたことのない言葉。しかも戦闘行為?
「BH、そうね、説明していなかったわね。うちの組織ってのは、世界の現状維
持と非科学現象が世界の実態に影響を与えることを可能な限り避けることを目
的に作られているんだけど、それがいやって言う人とか組織が嫌いな人たちが
いるのよ。で、そういう人たちの互助団体。うちとは違ってちゃんとした組織
じゃないみたいなんだけどね」
 ……互助団体。何か、緊張感薄れる敵組織だな。
「なる」
 ほどを省略する。
「ま、BHに関しちゃ、こんなもんかしら。何か質問はある?」
 まぁ、取りあえず聞くべき事は聞いたって所か。取りあえず現れたのはウェ
ルバー。その敵対互助団体については関わる必要は特に無さそうだし。
「これでいい。で、前の話の続きが聞きたいが」
 友絵に先を促す。所でさっきから気になっているのだが、友絵の熱弁に伴う
ゼスチャー運動によって、バスタオルを挟み込んで止めているところが少しず
つ弛んできている。このままだと落ちるぞ。
「えーっと、どこまで話した?」
「南正一の奥さんが死んだって所まで。ところで、人の風邪の心配より、その
恰好でいるとそっちが風邪を引くんじゃないか?」
 とっとと着替えろという意味を込めて警告する。目の前でバスタオルが落ち
られたらかなわん。いや、見たくないという訳じゃないが、何というかさすが
にまずかろう。
「大丈夫よ。そんなヤワな鍛え方してないわ。で、続きね。ウェルバーの事件
に関しては、どうもおおっぴらにされていないことが多いのよ。でも、それが
局長の、あ、いや、南正一の経歴であまりいい位置を占めていないことだけは
確かだわ。だから余計に正確な話が伝わってこないのよね。上司の過去の古傷
なんて暴き立てても得なんてないし。ま、正直言って、怒らせたらどうなるか
なんて誰もわざわざ知りたいとは思わないわね」
 謎の上司……か。
「で、他には何かあるのか? 十八年前の事件がいったい何なのかがさっぱり
見えてこないんだが」
 というより事件以前のことが判っただけだ。
「うーん、だから言ったじゃない。詳しいことが全然判らないって」
 確かにそうだが……
 腕を組んで毛足の短いカーペットに視点を落とす。
 友絵が肩に軽く手を掛けてくる。
「でも、判るための手段は判ったわよ。こういう時、聞いてみるべき人間が判
るって事も重要な進歩なんだから。焦ることはないわ」
 それもそうかもしれない。
 そう思って顔を上げると、友絵の顔がすぐそばにある。鼻息がかかる。おい、
近すぎるぞ。
 少し押しのけるように友絵の肩を押す。顔が離れる。少し安心する。それか
ら少し迷ってから、さっきから考えていたことを口に出す。
「祀穂理を捜すのを手伝って欲しい。祀穂理がちゃんと見つかったら、そのWH
とやらに入ってもいい。これでどうだろう? 手伝ってもらえるだろうか?」
 友絵が笑みを漏らす。
「もちろんよ。だって、それがあたしのお仕事ですからね」
 ウインク。友絵のこういう所は苦手だが……仕方ない。友絵の協力無しでは
何もできそうにないから。
「Thanks」
 礼を言う。
「ま、おねーさんに任せときなさい。たぶんきっとうまく行くわ……」
 友絵の笑みが、少しやさしい物に感じられる。
「……っくしょ」
 くしゃみ。少し飛沫が顔にかかるのを感じる。……あの表情はくしゃみをこ
らえている物だったのか。
「いっけない。少し湯冷めしたかしら」
 ごまかすようにそう言いながら友絵が立ち上がる。その拍子に、バスタオル
の上端が外れる。
「きゃっ!」
 友絵が落ち掛かるバスタオルを慌てて押さえる。ぎりぎりの所で間に合って、
肝心の所は守られた。
「………」
 何となく頭痛がするような気がして二本指で眉根を押さえる。
「……見えなかったでしょうね?」
 友絵がおそるおそるといった感じで聞いてくる。
「見とらん!」
 そう言って、下を向いたままくるりと背中を向ける。
「ごめんね、ちょっとそっち向いててね」
 友絵が背中から声を掛けてくる。誰が振り向くかってんだ。
 そう考えながら押さえていた眉根を離す。前を見て硬直する。
 向いていた方向、真っ正面にあった化粧台の鏡に……丸映りしている。
 ちょうど下着をさっきの棚から出そうとしているところが。胸から下腹部に
至る一帯が。
 右手で顔を覆う。
 こいつに協力を頼んだのは間違いだったかもしれない。そんな後悔がひしひ
しと湧いてくる。実に理不尽な後悔だが……何でこうなるんだ?
 目を閉じて、頭の中で数を数える。百まで数えて、友絵に声を掛ける。
「もう、いいか?」
「もうちょっと待って」
 そーかそーか。
 とてつもない疲労感を感じる。
「まだか?」
「もー、ちょっ、っと、よ」
 何をしながら話しているんだ? カーペットの上でたたらを踏む音。
 はふぅ。心の中で一人ごちる。
 どこいったんだよ……祀穂理。お陰様でこんな目にあっちまうじゃないか。
「友絵。今からどうする?」
 取りあえず、今からどうするかだな。すぐにでも祀穂理を捜しに出たい気分
でもあるのだが。
「んー、そうね。取りあえず、一回支部の方に顔を出してみるわ。報告を兼ね
て色々とすることがあるし。あ、後でポケベル渡すわ。こっちの準備ができた
らベル入れるから。それでいい?」
「了解」
 ならその間に……
「一人で祀穂理ちゃん探すのは無謀だって事判ってるわよね」
 読まれているか。
「……」
 無言でいると、友絵が厳しい声音で告げる。
「今の亮君、ウェルバーと戦っても絶対勝てないわよ」
「……」
 さらに無言を続ける。
「あたしだって協力する以上、後悔はしたくないわ。だから約束しなさい。単
独行動はしないって」
「……」
 一理あるか……仕方がない。
「判った」
 取りあえず一旦学校に戻るか。祀穂理と一緒にいた時間が一番長いのは、家
と学校。そのどちらかにいる可能性もあるんだから。
「素直でよろしい。あ、もういいわよ」
 振り返ると、白系のトレーナーにジーンズのいつもの姿の友絵。何となくや
っと緊張が解ける。立ち上がる。
「友絵。もう乾いたかな?」
 学生服に着替えなくては。

        ***

「じゃ」
 まだ乾燥機の温もりが残る学生服に付いた埃を軽くはたき落として、長靴の
中に足を突っ込む。中が湿っていて冷たい。立てかけておいた傘を掴む。
 金属製の扉を開けて、コンクリの寒々とした廊下に出る。
「待ちなさいよ、そこまで一緒に行くわ」
「先に行く。また後で」
 友絵の声にそう答えて扉を閉める。閉まる音がやけに響いたような気がする。
 協力するのと妙に一緒にいるのとは違う。絶対に違う。うん。
 少し肩を竦めて、マンションの出口に向かう。高々三階でエレベーターを使
う気にもならずに階段を下りる。二階と三階との中間点の踊り場をまわると下
に人影が見える。
「あれ? 関口君?」
 驚いたような声。幸田さん? 何でこんなところにいるんだ?
「幸田さんか」
 下の方が少し薄暗がりになっていて見にくい。幸田さんが踊り場まで登って
くる。私服?
「どうしたの? こんなところで? あ、もしかして見に来てくれたの?」
 ……どういう意味だ?
 困惑の沈黙を別の意味に取ったらしい。
「そっか……あ、ありがと……」
 ……何がどうなっているんだ? なぜ礼を言われるんだ?
 目元のあたりで何かが光を反射する。……涙? 泣いてやがるのか?
「泣いてんのか?」
 聞いてみる。
「ちょ、ちょっとだけよ。あれ、おかしいな。さっきまで平気だと思ってたの
に……」
 光の反射が筋になる。落ちる。
 何がどうなってんのか説明してくれ。ま、ともかくも泣いてる奴をほってお
くわけにもいくまい。
 なんて言うべきか判らずに、立っている。
 幸田さんがゆっくり近づいて、二の腕にしがみつく。顔を押し付けるのが判
る。静かに泣いている。学生鞄を脇に軽く放り投げて左手を空けて、肩の少し
上に見える幸田さんの頭に手を置く。ポニーテールに向けて放射状に集まる髪
の毛のさりっとした感触。じんわりと暖かさが伝わってくる。
「大丈夫か?」
 これなら無難だよな。まぁ。
「うん……。もう少し、このままでいさせて……」
 彼女に悟られないように天井の蛍光灯を見上げる。涙が染み込んできている
のか、熱い。よく考えたら、幸田さんがしがみついているあたりは、ここに連
れてこられるときに友絵にがっちりと掴まえられていた位置。よくよく今日は
右の二の腕の受難な日である。後でマッサージしておこう。
 エレベーターが三階に着いたことを知らせるチャイム音が聴こえる。友絵が
呼んだんだろうか?
「ほら、今朝、急だったでしょ……」
 少し落ち着いたのか、しかし顔は肩に押し付けたまま、幸田さんがゆっくり
話し出す。幸田さんに注意を戻す。
「あぁ」
 もう、どう言っていいのか全く判らないので、取りあえず相槌だけうつ。
「一昨日出張に出たときはあんなに元気だったのにさ……」
 一昨日というと、あぁ、あの日か。祀穂理が降ってきた日。そういえば、祀
穂理が降ってくる直前まで幸田さんと話していたんだよな。そういや、このマ
ンション、あの時幸田さんが入っていった通りの奥に当たる。なるほど。なん
たる偶然。
「お父さんさ、医学部行くのちょっと反対してたんだ……」
 幸田さんの父親。ふむ。
「でさ、結構言い合ったりとかしてさ……でもどうしても医学部行きたかった
から……」
 またしゃくりあげる。
「お父さんのバカって思ったりもしたけど……でもね、急に死んじゃうなんて
思ってなかったからさ……」
 死んだって……幸田さんの父親がか? 今の状況に少しだけ説明が付く。
「全っ然親孝行してなかったのに……」
 失った痛み。脈絡のない言葉の断片の中に、かつて感じた物と同質の感情を
幸田さんが受け止めているのが見える。
「大丈夫だ……」
 なぜかそんな言葉が口をついて出ている。彼女の頭に置いている手で少しだ
け撫でる。幸田さんが少し離れる。こちらを見上げている。視線を逸らす。
「たとえ何があっても、理由も論拠も何もなくても。大丈夫だ。きっと」
 口に出してから後悔する。なんて強引で脈絡のない言葉。きっと幸田さんの
脈絡の無さが伝染ったに違いない。
 もう一度、幸田さんの顔が肩に押し付けられる。
「ありがと……ホントに……」
 幸田さんの呟き。
 それからしばらく、彼女が泣き止むまでその場でじっとしていた。



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