少々焦げ過ぎたトーストに、マーガリンを擦り付ける。ゆっくりとマーガリ
ンが溶けて焦げ目の中に染み込んでいくのを確認して、口を開ける。一口目に
いかに大きく頬張るかが、食パンを美味しく食べるこつだ。
かぶりつこうとした瞬間に、電話のベルが鳴った。
くそ……誰だ、んな朝っぱらから。っ。面倒な。
祀穂理が、ホットカルピスの入ったマグカップを両手で顔の前に抱えたまま
こっちを見ている。祀穂理が電話に出るわけにはいかないし。
摂食を中断して立つ。椅子を引く。受話器を取る人間がいない以上仕方ある
まい。父親はまだ寝ているし、弟はとうに部活に行ったあとだ。
「はい、関口ですが」
口調が不機嫌になることは勘弁してもらおう。
女性の声。
「おはよう。亮君。朝早く、悪いわね。誰か、判る?」
…………。
「友絵か」
その台詞で、祀穂理がこちらを睨む。ったく、起きてからさっきちゃんと話
したろうが。
「ご名答」
ご名答? ご名答も何も、そういう事を言う奴に友絵以外の心当たりはない。
「で?」
とっとと用件を言え。
「あのさ、亮君、今日、学校あるんでしょ?」
何を下らないことを聞くかと思えば。
「校舎はいつでも存在している。取り壊されていない限り」
混ぜ返す。
「終わるの何時かな。ちょっと、話があるんだけど。祀穂理ちゃんも交えて」
なるほど、ね。冗談は通用していないと言うわけだ。
「終わるのが何時かはまだ不明。終わったら連絡する、それでいいか?」
正確には終わらせるのが何時かが不明なのだが。より正確には、友絵に会お
うという気になるのが何時か、か。ま、いいけど。
「そうね……いいわ、それで。携帯の番号を言うから」
これで、こちらから連絡が可能になる。
「メモの用意はいい?」
僅かな間をおいて友絵が尋ねてくる。
「ああ」
手早く、電話台の脇のメモ帳に友絵の言う番号を書き記す。復唱、確認を終
えて、メモ帳のそのページを引きちぎってズボンの右ポケットに突っ込む。
「それじゃ、また」
「あぁ」
電話が切れる。
「亮。電話か?」
振り返ると父親。パジャマ姿だ。いつの間に。祀穂理の方に一瞬だけ視線を
走らせる。そっとマグカップを置いて、こちらを窺っている。見えないように
しているんだろう、たぶん。家族に見えたらやばいという事はきちんと言って
あるし。
「ん。知り合い」
とりあえず、電話について嘘は言っていない。
「そうか」
それだけの返事。父親は洗面所へと去る。急いで冷めかけたトーストを四つ
折りにして口の中に詰め込む。くそっ。マーガリンが冷えてあまりうまいもの
ではなくなっている。喉に詰まりかかるのを冷たい牛乳で飲み下す。
「祀穂理。行くぞ」
洗面所にいる父親に声が届かないように気を付けながら声をかける。
「え?」
「すぐに行くんだ」
反論を許さない口調で。祀穂理との会話を父親に聞かれるわけにはいかない。
台所の引き戸を開け、廊下を突っ切り、階段を二段跳ばしでよじ登り、自室か
ら学生鞄と学生服とコートをひっ掴み、階段を駆け下りながら着用する。祀穂
理がようやく台所から出てくるのを確認して音が立つように玄関の引き戸を開
ける。屋外の寒気が吹き込む。昨夜、軽くちらついていた雪が、路面をうっす
らと覆っている。
「いってきます」
一応、洗面所の父親に聞こえるように大音声で。
「おぅ」
父親の返事が聞こえる。それには取り合わずに大きな音を立てて戸を閉める。
弟と新聞配達員の足跡だけが玄関前にうっすらと積もった雪に残っている。
「なんなのよぉ」
祀穂理が少しふくれっ面で戸の中を通り抜けて出てくるのを確認する。振り
向かないまま、祀穂理が追いつける速度で学校へ直で向かう大通りに抜ける裏
道を歩き出す。コートのポケットから薄い革の手袋を取り出して装着する。薄
雪の下の路面は凍っている。
思案する。
親との対立要因を祀穂理には話しておかなくてはならないだろうか?
「ねぇ、どーしたの? なんなの?」
祀穂理が走って前に回り込んでくる。
「転ぶなよ」
凍った舗道の上、祀穂理の走り方に何となく危ういものを感じてそんなこと
を口走ってしまう。
「失礼ね。祀穂理、そんなにドジじゃないわ」
祀穂理がふくれる。予想通りの応えが返ってくる事への安心感。
「すまない」
たった一言の詫びで祀穂理の機嫌は直る。
「うん、許したげる。りょーちゃん、祀穂理のこと、好きだから」
そうなのか? ま、いいけど。
「寒くないのか?」
さっきから気になっていたことを尋ねる。祀穂理は、出現したときに着てい
た、いかにも女の子ものという感じの赤いコートを着ている。手袋はしてない。
「うん。だいじょーぶ」
そういう手が少し赤らんでいる。昨日のうちに手袋ぐらい買ってやるべきだ
ったか。ちょっと立ち止まって自分の両手から手袋を外し、祀穂理に渡す。
「してろ」
祀穂理は、こちらの顔と手袋とを交互に見る。ふん。歩き出す。
「うん」
背中に祀穂理の返事が届く。
しばらく黙って歩く。祀穂理が何がおかしいのか笑いながら後を着いて来る。
守るべきものがあるのは幸福なことなのかもしれない。そんなことを考えて
いたりする。なんとは無しに父親との関係についてうやむやにしてしまったよ
うな気もするが。
「ねぇ、りょーちゃん?」
祀穂理が脇から声をかけてくる。
「ん?」
「さっきの電話さぁ……友絵とかゆー、昨日の退魔師からなんでしょ?」
「あぁ」
取り立てて隠すような理由もない。いや、祀穂理には話さなくてはならない
ことだ。
「何だったの?」
「話し合いたい、だそうだ」
友絵の申し出を受けてもいいかなと考えている。とりあえず話し合いに入る
という点までは問題あるまい。無論、祀穂理の同意が必要なのは言うまでもな
いことだが。
「なんかやだな」
あっさりとした拒否反応。
「理由は?」
「……………なんか、やなんだもん」
それでは理由にならない。
「退魔師だから、か?」
祀穂理の父親を消滅させたのは退魔師。しかし、だからといって……
「んーっと、それもあるの。それもあるんだけど………」
口ごもる。何故か暗い表情。昨夜の〈いやな感じ〉だろうか?
「どうした?」
尋ねる。
「りょーちゃん。友絵って、信用できると思う?」
訊き返されてしまった。
「信用はできない。だけど、あえて敵対はしたくないと考えている」
正直なところ、あの応対をしつつ、裏で何か謀っているような陰険な人間に
は見えないのだが。
祀穂理は少しうつむいて何かを考えている。
「……何で?」
理由を問われると……いや、祀穂理は理由を求めているのだろう。友絵とい
う退魔師を敵以外のものとして認識できるだけの。
「祀穂理……友絵に勝てるか?」
昨日の戦闘もかなり判断に影響を与えている。
「……勝てない、事も……ないかもしんないけど……」
自信はないということだろう。いや、まず勝てない。持っている力は祀穂理
の方が上かもしれないが、テクニックが違いすぎる。力を攻防の直接的な現象
として具体化するテクニックが。
「勝ったとして、祀穂理は友絵を消滅させられるか?」
それは考えたくない。
案の定、祀穂理は押し黙ってしまう。やはり……人間を消滅させることは心
理的にできない、というか、考えたこともなかったのだろう。
「そういう事をする祀穂理を見たくはない。つまり、だ。勝つのはおぼつかな
い。そして、勝ってもとどめはとても刺せない。何回も戦う羽目になる。何回
も戦っているうちに……負ける。負けると……」
祀穂理が、顔を上げる。
「祀穂理が傷つく。護るつもりではいるが、死んだらそれ以上は護り抜けない」
誰が死んだらという主語は意図的に省略する。
あの力。そして、友絵が組織に所属している以上、友絵を敵に回すと言うこ
とは、組織を敵に回すということ。友絵以上の力を持ち、話し合いなどという
平和的手段を取ろうとしない担当者がこちらにまわった場合、護り抜くことは
ほぼ不可能だ。それは火を見るより明らか。
「だから、話し合うべきだ。最悪の事態を避けるために」
祀穂理を護るためには友絵との対話が必要だということだ。
「…………わかった。友絵んとこに行ってもいいわよ」
一応は納得……してくれたようだ。
「よし。なら、とりあえず、学校に着いたら連絡を取る」
結論は早い方が良い。
そう言うと、祀穂理が慌てたように口を挟む。
「あ、ちょっと待って。話し合うのはいいの。でもね、一つだけ、条件がある
の。いい?」
条件? 何を今さら。祀穂理のいうことなら何でも聞こうというのに。
「あぁ、別にいいが。で、条件というのは?」
祀穂理が、前に回り込む。必然的に、足を止めざるを得なくなる。祀穂理は、
右手の人差し指を目の前に立てる。
「りょーちゃんがりょーちゃんであるってこと。忘れないでね。これが条件よ」
なんのこっちゃ。ま、何だ。そんなことか。
「自分が自分であることを忘れない……か。そういう事なら自信がある」
呟いてみせる。
何があっても、自分自身を見失うことだけはないだろう。たとえ、大切な何
かを失ったとしても。
琴を護れなかった過去の自分を憎むことさえ忘れなければいいのだから。そ
れは自己嫌悪なんてものじゃなくて。もっと強い自己憎悪とでもいうべきもの。
だから……忘れるわけがない。忘れることができるはずがない。一生。
***
また雪がちらつきだした。昼から雪がひどくなるという予報だった。昨日と
同じ通学路だというのに、祀穂理にはまだ発見があるらしい。あっちに行った
りそっちに行ったりうろうろとしては、帰ってきて『しんはっけん』の報告と
実に忙しい。祀穂理のいない十八年の間に、そんなにも世界は変わったろうか。
手を天に翳す。小さな雪のかけらが指の腹につき、ほんのひとときのためら
いの後で水滴に変わる。雪はちらつく程度。傘を差すまでもない。
学校の正門前につづく近道に入るのも、昨日とほぼ同じ時刻。見慣れた傘と
コートの組み合わせを見つける。声をかけようとして気付く。
「………あれ?」
後輩共……じゃない。相良さんだけだ。珍しく今日は一人のようだ。何突っ
立ってるんだ?
「おぅ。どした?」
背中に声をかける。驚いたように飛び上がって振り返る。何もそこまで驚く
こともあるまいに。
「あ、先輩、おはようございます!」
元気いいよな。
毎朝何しに来てんだ? こんな朝っぱらから。こっちのように親と顔を合わ
せていたくないとかいうような理由があるわけじゃなかろうに。
「どした? ボォッとしてたようだが。何か珍しいものでもあったか?」
このくそ寒いのに、道端に立ちっぱなしているとは奇特な事だ。
「え、いぇ、その、べつに、大した、ことはないんです」
何を焦ってるんだか。
寒さのせいか、頬が赤い。
なんのこっちゃ。ま、大したことじゃないと言っているんだし、取り立てて
詮索するようなことでもないが。
相良さんの左肩から注意深く距離を取りながら、歩行を再開する。こちらに
気付いた祀穂理が戻ってくる。左手にじゃれついてくる。姿はきちんと消して
いるらしく、相良さんに気付かれた様子はない。
「先輩、受験勉強のはかどり具合はどうですか?」
相良さんが話題を振ってくる。あまり考えたくないこと。
「まぁ、ボチボチだな」
ここ二日ほど、諸々の騒ぎのおかげで予定が狂いっぱなしだなんて事を言っ
てみても仕方あるまい。
「大変ですよね」
「んー。ま、後一ヶ月ちょっとだからな。相良さんも、来年だろ。ひと事じゃ
ないぞ。あれ? そういや、相良さんはもう志望校決めたのか?」
話題を無理にねじ曲げる。
「あたし? ……あたしは……別にまだ……。あ、そうそう、先輩。第一志望、
うまくいくといいですね」
無理にねじ曲げた話題を無理に返される。なんだ? どういう関連性がある
のかよく判らない反応。
「ん? あぁ、まぁな」
とりあえず、親元を離れるという大目的を達成しなくてはな。そのためにも、
前期の京都に全力を尽くさなくてはならない。ならない……筈なんだが。
ふと思わず、祀穂理の方を見てしまう。
「どうかしましたか?」
「あぁ、いや、なんでもない」
祀穂理やら友絵やら、一般常識の枠から外れた存在達によって受験勉強の時
間が脅かされていることについてなど……、言ってみても仕方のないことだ。
「今日のお弁当はちょっと気合い入れて作ってきましたから」
いつの間にかそういう話題に変わっている。
「おぅ、いつも悪いな」
そんなふうに答えている間に、校門前の信号を渡り終えている。
「そういえば、手袋、しないんですか?」
いつもの手袋は祀穂理がしているのだが、相良さんには当然見えなくなって
いる。
「そういえばそうだな」
左手から鞄を右手に持ちかえる。左手の指を屈伸する。血行も途絶えて感覚
が麻痺しかかっている指先。ま、校舎に入りゃ暖められる。
「先輩?」
不審がっている。何にせよ、不審がられる事は良くないことだ。
「いや、何でもない」
冷え切った指先で自分の顎をなでる。本当に冷え切っている。
「今日はどうされるんですか?」
二階同士を結ぶ渡り廊下の下に入る。肩と頭に軽く付いた雪片を払い落とし
ながら、相良さんが尋ねる。
「取りあえず職員室」
一歩先に立って、鉄製の重たい扉を開けながら答える。無人の廊下が現れる。
薄暗い冬の廊下。
「月岡先生に少々用事がある」
相良さんの無言の問いかけに答える。今日の予定を決めてしまわないと、友
絵に連絡を取れない。月岡先生にやってもらっている英語の過去問の添削を返
してもらって、今日の学校の用事は終わりだ。
風がない分だけ、外より暖かい。温度は変わらない。相良さんと、祀穂理が
入ったのを確認して扉を支えていた手を離す。重量を感じさせる動きで扉がゆ
っくりと揺らぐ。
「じゃあ、放送室の鍵はどうします?」
………返し損なう可能性も高い。
「いや、いい。高尾さんの机から勝手に借りる」
緑色の足ふきマットに靴底を擦り付けながら、断る。
「え? あ、そうですか」
祀穂理は、廊下のリノリウムが剥がれかかっている場所を見つけて、しゃが
み込んで観察している。
「そういや、他の二人はどした?」
たいてい一緒に登校してくるものだと思っていたのだが。
「え、ちょっとありまして」
そう言って目をそらす。
喧嘩でもしたのか? 珍しい。
金属扉がようやく閉じる音が、低く響く。
訊くべきではない。おそらく。
「そか」
相槌を軽く打って、話にけりを付ける。
放送室の前をそのまま通り過ぎて、階段を登る。昨日のことを憶えているの
か、祀穂理は放送室に勝手に入っていって待っている。
………よく考えてみれば、祀穂理がいれば、鍵をわざわざ借りる必要もなか
ったか。愚か。これで高尾さんに会う理由はなくなった。
「そか」
思わず呟いている。
「どうかしたんですか?」
相良さんに聞こえていたか。
「いや、なんでもない」
そうごまかして、階段のラスト三段を跳ばして登り切る。
「んじゃまた」
二年の教室は三階。職員室は二階。
「それじゃ、先輩。またお昼に」
そのまま相良さんが去ろうとする。
いけない。忘れていた。
「あぁ、そうだ。待つように」
相良さんを呼び止める。
「何ですか?」
階段の一段目に左足をかけて登ろうとしている姿勢のまま振り返って。
「いや、今日は昼にはいない可能性がある。昼休みに来たときにいなかったら、
帰ったと考えてもらいたい」
「えーっ! そんなぁーっ!」
何もそんな大声出さんでも。って、詰め寄ってくる。
「いや、ちょっとした用事が入る可能性があるから」
両腕で相良さんの攻撃をブロックする。少し弱まる。
「何の用事なんですか?」
上目遣いに尋ねる。
言えるわけがない。悪魔の少女を護るために退魔師に会いに行くなんて事。
「知り合い関係のちょっとしたごたごた。大した問題じゃない」
それほど嘘を言っているわけでもない。自らの現実を大事にするのならば大
した問題じゃないのは確か。
「……お弁当」
「え?」
思わず訊き返している。
「お弁当、どうしましょう?」
少し考える。彼女が作った弁当を無駄にするのは不経済である。確かに。
「……昼前に去ることになったら、弁当受けとりに行く。まずいか?」
…………。無言のままこちらの目を覗き込む相良さん。
「うん、判りました。じゃ、教室に来て下さい」
これでいいらしい。
「あぁ、んじゃまた」
軽く手を振って、職員室方面へと針路を向ける。
コートだけ、職員室前のソファーの上に脱いで放り投げる。
「しつれーします」
職員室の入り口の戸を開いて軽く一礼する。後ろ手に戸を閉じる。暖房が効
いている。今さらながらに指先が凍えきっていることに気がつく。
職員室の中はまだそれほど多くはない。一部の先生が来ているだけだ。一昨
年の春から職員室内が禁煙になったので、嫌いな煙草の匂いはしない。昔は酷
いものだったが。
入り口にほど近い月岡先生の机には先生の来ている痕跡はない。まだ出勤し
てきていないらしい。軽く舌打ち。ま、いい。
隣の戸棚から、来客用のコップを一つ取り出してインスタントコーヒーの粉
をザラザラと注ぎ込む。電気ポットの頭を軽くひねってロックを解除し、お湯
を入れる。溶けきらない粉が液面を回転する。
月岡先生の机の脇から、片手でパイプ椅子を引っぱり出して右脚の助けをか
りて椅子にする。座る。
一息ついて、コーヒーカップを持ち直して一口啜る。熱い。カフェインが吸
収される感覚。そして指先へと血が戻ってくる感覚。
「関口ぃ、どした?」
加藤先生。数学教師だ。一年の時の担任だった。
「月岡先生待ってんです」
もう一口コーヒーを啜って答える。今の担任の七川に比べると十倍ましな教
師だ。
「過去問の添削か? 後一ヶ月だからな、頑張れよ! 人間、努力、ファイト
だ! 先生は関口を応援しているぞ」
無意味にガッツポーズを作って激励してくれる。三〇代後半にしてこの熱血
ポーズさえなけりゃもう少し得点が上がるのだが。ま、自分が京都を受けるこ
とに関して最初から賛成してくれた数少ない教師の一人だ。
「先生もコーヒー、飲みますか?」
一応尋ねる。
「いや、先生は自分で入れよう」
なにかとオーバーアクションにコーヒーの粉とお湯を「ガッツ」という文字
の入ったマグカップに注ぎ込む。
それを見ながらもう一口飲む。ようやく味が判る温度になっている。やはり
あまりうまくない。コーヒーはやはりレギュラーが一番だ。
「コーヒーメーカーがあればな」
もっとも、コーヒーメーカーを持ち歩くわけには行くまい。大学に合格した
ら、下宿にはコーヒーメーカーを置こう。
「あら、加藤せんせいに関口くん。おはようございます。はやいのね」
ややスローモーな声が職員室の入り口から聞こえて振り返る。振り返る前か
ら判っていたことだ。月岡先生。若いのにこの気の遠くなるような話し方。き
っと長生きするにちがいない。
「あ、月岡先生、過去問の添削ノートは」
月岡先生は、下手すると生徒に見える……というよりほとんど中学生に間違
われても仕方がない外見である。まず、身長がない。出るべき所も全く出てな
い。アクセサリーの類は全く付けておらず、そして童顔である。
一部の男子生徒に熱狂的なファンがいるという噂であるが……ま、そんなこ
とはどうでもいい。必要なことは、英語教師としてきちんと果たしてくれてい
るのだから。だからこそ敬意を払っているのだ。
「せんせい、昨日はほんの少し忙しかったもんでぇ、家にもってかえって丸つ
けしてたのよ」
そういいながら、机の上にちょっと大きめの(ということは小柄な月岡先生
にするとかなり大きめの)バッグを置いて、添削ノートを取り出す。
「ありがとうございます」
ノートを受け取って礼を言う。月岡先生も京都の大学出身で、同窓生を増や
すべく協力してくれている。
その間に、加藤先生が月岡先生の分のコーヒーを入れている。
「月岡先生は、ミルクに砂糖三つでいいんですね」
「えぇ」
ちょっと砂糖三つはなんぼなんでも多すぎるような気もするが、個人の好み
だ。文句をつける筋合いではない。
ノートに記された添削内容にざっと目を通す。思った通りに修正だらけ。英
語が最大のネックだから。
「だいぶん良くなってきたわよ」
月岡先生が、講評される。
「先生のおかげです」
確かに、この添削を始めたときに比べてずいぶんと英語力は付いているよう
な気がする。後は、最後の追い込みをどれだけできるかだが……
ミスの内容について、コーヒーを飲みながら幾つかの質問をした後に、職員
室を辞去する。
ようやく登校してきた生徒の数が増えてきた階段を降り、放送室の扉を押す。
「あれ?」
鍵がかかっている筈の扉はすんなりと開く。祀穂理が開けたわけではないだ
ろうし。
「あ、先輩?」
相良さん?
「どした?」
何か用があって朝早く来ていたのではなかったのか? 取りあえずパイプ椅
子の上に学生鞄を置く。背中に背負ってたコートも椅子の背にかける。祀穂理
の姿が見えないが……いた。スタジオの中からこちらを見ている。
「どうですか? お昼は」
「まだ不明」
相良さんの質問に短く答える。椅子の上の鞄を手に取り直す。スタジオの扉
を開けて、中に鞄を放り込んでいるのを相良さんに見せる。
「さて、電話かけに行くか」
祀穂理に聞こえるように独り言。そして、スタジオの扉を閉じる。祀穂理が
スタジオの扉を通り抜けて出てくるのを待って放送室を出る。暖房の効いた室
内から出てくると廊下はさすがに寒い。
一階、事務室の前に校舎内で唯一生徒が無断で使用できる緑電話がある。
祀穂理が付いて来るのはいいとして、……相良さん、何で付いて来るんだ?
「先輩、どこに電話するんですか?」
「知り合い」
それだけ言って肩をすくめてみせる。これ以上話す気がないという意志表示。
相良さんに、それ以上のことをいっても話が混乱するばかりだ。
生徒手帳を開く。アドレスメモの部分を見ようとして思い出す。ここにはま
だ書き写していない。ズボンの右ポケットから今朝メモった紙切れを取り出す。
生徒手帳のカード入れに突っ込んであるテレカを緑電話のテレカ口に挟んで左
手で受話器を取る。どこかの会社の広告が印刷されたテレカが本体の中に吸い
込まれる。受話器から待機音が流れる。左肩で受話器を固定して、メモを左手
に持ちかえる。右手でメモに書かれた数値を手早く打ち込む。
発信音。数回のコール。
「長田だが」
女の声。今朝の電話と口調は違うが、明らかに友絵だ。
「友絵か。関口だ」
こちらの名を告げる。
「あ、亮君ね。どう? いつ頃になったら空くかしら、予定?」
いきなり変わる口調。
「そちらの都合は?」
一応訊いておこう。なるべくなら早いに越したことはない。
「んー。いつでもいいわよ。あたしは亮君と祀穂理ちゃんの件で出張してきて
る訳だし。君たちのことが最優先するから」
ふむ。ならば。
「……なら、九時に」
学校からほど遠い、帰宅路の途中にある喫茶店の場所と名前を告げる。九時
なら開いているはずだ。
「ここでどうだ?」
「……いいわ。たぶん判ると思うし」
表通りではないにしろ、結構判りやすい場所にあるから大丈夫だろう。
「了解。じゃ、九時に喫茶モノリスで」
そう告げて受話器を置く。耳障りな警告音と共に吐き出されたテレカをもぎ
り取る。生徒手帳のカード入れに差し込み、学生服の内ポケにしまう。後は放
送室に帰って荷物を取って移動するだけだ。今から行っていてもそれほど待ち
はしないはず。
「……今の人、女の人なんですね」
針路をふさいだ相良さんがこちらを少し上目遣いで見ながら訊く。
「ん、そうだが。それが何か?」
なんなんだか。立ち止まらずを得ない。
「いえ、べつにいいんですけど! べつに……先輩のことですし」
いったい何が言いたいんだ?
「あ、それから昼食のことだが」
「要らないんですね。いーですよ、それで」
唐突にそっぽを向いてしまう。
……話を最後まで聞かないやっちゃなぁ。
「用事はできる限り早くすませて戻って来るつもりだが」
そういう意表を突かれたような目で見ないでもらいたいもんだ。
「……そうなんですか?」
どういう早とちりをしていたんだ?
「そうだが」
「……その、デート、じゃ……ないんですか?」
おい! ちょっと待て! 根本的に勘違いしているぞ!
「あのな……これは野暮用だ。とっとと終わらせて、過去問の続きせにゃなら
んのだから。そういう勘違いは無しだ。いいな」
言葉を選びながら説明する。どうしてこんな苦労が間に挟まってくるんだ?
受験生なのに。
「えぇ!」
取りあえず納得……かどうかは知らんが少なくとも説得はされたようだ。
「ま、最悪、放課後までには戻ってこれる観測だから、もし昼いなかったら弁
当をスタジオの中かどっか目立つ所においといてくれるとうれしい。食料品を
無駄にすることは本意じゃない」
「はいっ」
これで、弁当問題は解決した、と。後は本題を解決しなくては……なんで本
題解決には一歩の前進もないのに、こんなに疲れてるんだろう?
***
喫茶モノリスの店内は狭い。窓際の席で社会人か大学生とおぼしき一人の若
い男がティーカップを前に文庫本を読んでいるほかには、客はいない。祀穂理
は姿を完全に現して、どう考えても大きすぎるパフェをスプーンで突き崩して
いる。最初に頼んだブレンドコーヒーは既に空になっている。ここのコーヒー
はうまい。今朝飲んだインスタントコーヒーの後味を完全に洗い流してくれた。
そして……約束の時刻はもう五分も過ぎていた。
この、実にうまいコーヒーをもう一杯注文するべきかどうかを真剣に検討し
なくてはならないのだろうか。喫茶店のコーヒー一杯は古本文庫本二冊分の値
段はするのだが。
制服の男子高校生とどう見ても小学生の女の子の組み合わせは、平日午前中
のこの時間帯だけにやけに目立つような気がする。実際はそんなに注目などさ
れるわけもないのに、どこからか視線を感じて落ち着かなくなる。
「どうしたの、りょーちゃん?」
祀穂理がそんなこちらの態度を察する。
「いや、なんでもない」
いや、この落ち着かなさは不安感からくるものか。早く来い。友絵。
窓際の男が、椅子にかけた上着からポケットティッシュを取り出して結露し
た窓ガラスを拭く。二人で占拠している奥の四人掛けのテーブルからでも、外
の天気が本格的な雪に変わり始めているのが判る。
からんころんと気分のいい軽い鈴の音がした。この喫茶店の戸口には鈴が取
り付けられている。よくある電子チャイムの画一的な音なんかに比べれば余程
風情がある。
やっと友絵がやって来たのかと思って、入り口の方に視線をやる。マスター
と顔馴染みらしい黒いコートの初老の男性がカウンターに向かって何か話しな
がら肩に積もった雪を払っている。
そんなに雪がひどくなっているのか。再認識する。道理で朝よりも少しだけ
寒さが和らいだはずだ。雪が本格的に降っているときの方が、雪の降る前より
気持ち暖かい。クリスマスツリーの雪は綿だから。何かを無邪気に信じていた
あの頃。琴の言葉。
「退魔師、遅いね」
祀穂理の言葉に我に返る。
「あぁ、時間に正確ではないな」
腕時計を見る。なんだかんだしている内に既に更に五分が経過している。す
なわち九時十分。時間に正確に。約束には遅れずに行きましょう。五分前には
約束の場所に着いていられるように動きましょう。
小学校の時、琴が言ったことだ。今思えば琴の父親がいつも言っていたこと
の受け売りだったのだが。
再び鈴の音。視線を走らせる。緑色……というより空豆色のコート。女だ。
しかし友絵ではない。
空豆色のコートを着た女が真っ直ぐに文庫本を読んでいた男の方に駆け寄っ
ていく。
「ゴメンゴメン、ほら、この雪でバスが遅れちゃって。待ってたでしょ」
女の言葉に男はゆっくりと笑って答える。
「ああ、ほんの……ホントにほんの少しだけな」
恋人同士か。待ち合わせでもしていたのか。何となくあまやかな雰囲気に、
視線を逸らす。それに引き替えこっちの待ち合わせと来たら。
……色気のかけらもねぇ。
少しため息をつく。
「どうした少年。悩みごとがあるならおねーさんに相談してみなさい」
っ!!
「と、友絵?」
振り返る。友絵がいる。昨日と大して変わらない服装。Gジャンにトレーナ
ー、ジーンズ。ベルトに刺さった御祓い棒がGジャンの奥に見える。どうして
寒くないんだ、これで? きっと退魔師という連中は冷覚神経がいかれている
に違いない。
「ごめーん、電車がモロ混みで」
元は雪だったに違いない水滴のついたサングラスを外しながらの言い訳。
電車が混んでいても、遅れはしないはずだが。
冷たい視線に、軽く頭を掻く友絵。
「そっか、ときメモはやってないんだ」
ときメモ? なんだそりゃ?
「ま、いいわ」
自己完結してんじゃない、おい。
「で、座らないのか?」
友絵にそう勧めて、祀穂理の隣の空き席に移動する。友絵が祀穂理の向かい
に腰掛ける。友絵がエスプレッソコーヒーを注文する。それに併せてブレンド
コーヒーのお代わりを注文する。木をふんだんに使った渋目の内装を見渡す。
「へぇ、モノリスねぇ。割といい店じゃない、ここ。よく来るの?」
「こういう金のかかるところには滅多に入らない」
そんな金があったら、古本屋に行く。金額分の形が残る使用法。
「ふーん、そか。ま、高校生だもんね」
納得したように。
「残り二ヶ月だがな」
この女、こっちが受験生だって事ホントに判ってんのか?
「そーいえばそーだったわね」
緊張感のない口調。こっちが何か口を挟もうとする直前に友絵が続ける。
「忙しいとこ出てきてもらったお詫びっていうのもなんだけど、ここの代金、
おねーさんが奢ったげる」
ウインク。皮肉を言うタイミングを逸してしまった。何となく丸め込まれて
いるような気がする。
マスターがブレンドとエスプレッソを持ってくる。心地よい香り。
友絵が、エスプレッソのカップを口に運ぶのを眺める。
「今日こそは平和的にお願いするわね。祀・穂・理ちゃん」
友絵のからかうような口調。
祀穂理が友絵をすごい形相で睨む。取りあえず、この二人を会話させておい
て、また祀穂理が逆上するという結末になるのだけはごめんだ。ここは自宅で
はない。
「祀穂理」
彼女の行動を制するための声。そして友絵に向けて続ける。
「挑発はやめてもらいたい。平和的にやりたいのなら」
友絵が、笑みを漏らす。
「ごめんなさい、祀穂理ちゃん」
カップを置いて、手を差し出す。その手を、まだ少しふくれっ面の祀穂理が
握り返す。シェイクハンド。一応友好関係の樹立ということにしておこう。
「話し合いを始めよう」
***
「例のうちのスタッフだけどね。死んだわ。今朝早く」
友絵はそう口を開いた。
「死因は?」
思わず訊き返している。死者が出ている。自分に関わり合いのあるところで。
たとえそれが名も顔も知らない人間であっても。
「衰弱死。意識を取り戻さないまま安定していたんだけど……今朝がた容態が
急変して、治療の甲斐なく息を引き取ったそうだわ」
……それは。
「……どんな奴だったんだ?」
それを聞いておくのは義務のような気がする。
「古参の非常勤スタッフで、温厚な人だったみたいよ。あたしも話したことは
ないんだけどね。奥さんと娘さんが一人いてね……」
そこで、ふと口をつぐんでこちらを見る。
「見ているこっちが辛くなるくらい。あの娘の気持ちよく判るもの……」
しんみりしすぎている雰囲気。友絵自身、見ている方がつらくなるような顔
をしている。溜息一つ。
手を挙げて遮る。わざと乱暴な口調で。
「OK。判った。その話はここまでだ。そいつの葬式の……いや、墓に入って
からでいい。墓に案内しろ。以上」
死んだスタッフに関してこれ以上の情報はないだろうし、それを聞く意味も
ない。
「……友絵」
そのはなしが終わるのを待ちかまえていたように、祀穂理が口を開く。
「なんで退魔師はあたし達が嫌いなの?」
友絵の方をじっと見据える。友絵は少し困ったような顔をする。
「別にあたし達は、マクスウェルの悪魔を嫌っているわけではないわ。それに、
退魔師だって人間よ。いろんな考え方を持ってるのがいるわ。だからひとまと
めには言えないけど、少なくとも」
友絵は一旦言葉を切る。そして少し照れたように続ける。
「少なくとも、あたしは祀穂理ちゃんのこと、嫌いじゃないわ」
祀穂理が、大きな瞳を瞬かせる。そしてゆっくりとこちらを向く。
「ね、信じてもいいのかな?」
そう尋ねるということは、なかば信じたいと感じているという事だ。
「嘘をついちゃあ、いないだろう」
そう答える。
「……わかったわ。うん、友絵のことはちょっとだけ信用してあげる。ちょっ
とだけだからね。だから……」
「だから?」
祀穂理が口ごもっているのを見て、友絵が助け船を出す。
「昨日の夜は、その……ごめんなさい」
ぷっ。か・かわいい。かわいすぎる。
その感想は、友絵も同様だったらしく、笑みがこぼれそうになる。
「いいわよ。全然気にしてないから」
うーむ。ま、雰囲気は一応なごんだということで、これでいいんだろう。
***
「で、どうかしら、亮君。うちの組織に入る気は?」
友絵の仕事。退魔師として、世界の非科学現象を消去してまわる組織。
「今の所、ない」
それが結論だった。実際、その国際退魔協会に入るメリットが特に思い当た
らない。ややこしい任務とかもあるようだし。
「そっか……」
明らかに落ち込む。
「協力関係というだけなのはまずいのか?」
尋ねてみる。
「別にかまわないんだけど……あ、そうそう、お給料、かなりいいわよ」
そりゃま、死ぬ可能性すらある仕事。報酬がある程度以上なけりゃやってら
んないだろう。
「祀穂理を危険にさらすつもりはない」
結局はそういう事なんだよな。ふと尋ねてみたくなる。
「友絵はどうして組織に入ったんだ?」
「え、あたし? あたしは家庭の事情。あんまり聞かないで」
聞かれたくない事情なら、訊くべきではない。
「ま、いいや」
深く追求はしない。
「ねぇ、友絵」
祀穂理が口を挟む。
「友絵は、たくさん、他の退魔師のこと知ってるよね?」
「えぇ、一応それなりに知ってるけど」
それはそういう組織の一員である以上、当然といや当然。
「あたしね、お父さんを殺した退魔師を知りたいの。調べらんないかな?」
祀穂理、それは……復讐なのか? それとも……
「うーん、それって確か十八年前って話よね。難しいかもしれないけど、調べ
てみてあげてもいいわ」
「じゃあ!」
祀穂理の顔が一気にほころぶ。
友絵が、人差し指を自分の顔の前に立てて、続ける。
「ただし、約束して欲しいことがあるの」
「え?」
「敵討ちを絶対にしないということ。あたしの仕事はね、祀穂理ちゃんの力み
たいな非科学的な現象をできるだけ起こらないようにするって事なの。祀穂理
ちゃんが、あたしがあげた情報で事件を起こすってのは、とてもまずいわ」
友絵の立場からすれば、自分の提供する情報がもめ事の種になるのは確かに
まずかろう。道理だ。ただし、祀穂理がそれを理解するかどうかは別だ。
予想通り、祀穂理は困惑の視線を友絵に向けている。
「それに、祀穂理ちゃんが返り討ちにあっても誰も喜ばないわ」
友絵に感謝の念。それはまさに祀穂理に言いたいことであるから。
「あたし、お父さんを殺した退魔師に……」
どうすればいいか判らないのだろう。祀穂理の肩にそっと手を回してやる。
「友絵。祀穂理の父親を殺した退魔師に関する情報が入り次第連絡が欲しい。
それは祀穂理を護るために必要な情報だ」
黙ってしまった祀穂理の代わりに口を出す。
「祀穂理ちゃんのお父さんを狙った相手が、今度は祀穂理ちゃんを狙うってい
うの?」
友絵が、質問というよりも確認のような口調で問う。
「その可能性は全く否定できない。いや、祀穂理が彼らのターゲットであった
可能性すらある。どうだ?」
祀穂理の話していたことが真実なら、祀穂理の父親は死ぬ寸前に祀穂理を十
八年後、つまり現在に跳ばしたという事だ。祀穂理の父親がそいつの手から祀
穂理を護るためにそれをしたのだとしたら……。その退魔師の目的が祀穂理で
あった可能性も否定できない。そう、そいつは今も諦めていないかもしれない
のだ。それが個人でなく組織であった場合はなおさら諦めはしないだろう。
友絵も理解しているはずだ。
「そうね。亮君がいるからある意味安心できるって話もあるしね。それじゃ、
判り次第連絡するわ。これでいい?」
「感謝する」
端的に感謝の念を述べる。実際感謝しなくてはなるまい。友絵に手渡せる見
返りは感謝の念だけなのだから。
「それで、もう少し詳しい話が欲しいわね。十八年前って、いってたわね?」
友絵が、祀穂理に尋ねたときにそれは起こった。最初は目の錯覚と考えた。
友絵の顔が急にぼやけて揺らぐ。
「祀穂理!」
小声で警告を発してとっさに周りを見渡す。視界のその他の部分は正常。
「友絵?」
友絵の方に視点を戻す。
友絵が顔の位置をずらす。空間のゆがみは、元の方向に残ったまま。何が起
こっているんだ?
「転送だわ……」
祀穂理が呟く。自分の視点を数十センチ程動かすと、そのゆがみはテーブル
の中央上空にあるのが判る。そこを通すと向こうの景色が歪んで見える。
「……転送!?」
祀穂理の呟きを聞きとがめた友絵が驚きの声を上げる。
ゆがみの中心がだんだんと暗くなる。室温が下がる感覚。
暗がりの中から何かがゆっくりと完成していく。それはなんの変哲もない紙
切れ。しかしそれは空中から忽然と現れた。もはや、紙切れ以外になんの異常
も見えない。
友絵があらためて身構え直して呟く。
「何!? 今の……すごい力……」
「……お父さんの力だわ……」
呆然としたように祀穂理が呟くのを聞き逃さない。
「父親? 祀穂理ちゃんの父親って……」
友絵が聞きとがめる。
その瞬間に支えを失ったようにテーブルの上に、その紙は落ちる。しばらく
観察する。それ以上は何も起こらない様だった。
注意深く紙に手を伸ばす。表返す。
祀穂理・Maxwell 関口 亮 長田 友絵
三人をご招待申し上げます。
例の公園にてお待ちしております。必ずいらっしゃいますね。
そこには奇妙な書体でそう記されていた。それだけだった。他には何も書か
れていない。よく見るとどこにでもある便箋だということが判った。
「……例の公園って?」
祀穂理が尋ねる。
「最初に祀穂理を見つけた場所。あそこだろう」
断言してもいい。あそこだ。……あぁ、そうか、祀穂理は公園に自分が出現
したときのことを憶えていないのか。
「南星里公園だったっけ?」
友絵が訊き返す。
「あぁ」
友絵は知っていて当然だろう。どうやってか世界を見張っている組織の一員
なんだから。
「で、どうするの?」
友絵が尋ねる。
「雪が酷いからな。とっとと行った方がいいだろう」
いい加減相手を待たせるわけにもいくまい。
「そうじゃなくて! これが罠だって可能性は考えないの?」
友絵が少し立ち上がって、テーブルの上の紙をパンと叩く。紙とテーブルの
隙間に少し空気が入り、紙がふわりとテーブル上を移動しようとする。それを
取り上げて席を立つ。
「行ってみないと始まらない」
それに、仮に行かなかったとしても友絵は行くのだろう。一人ででも。彼女
にとってはそれが仕事だから。だが祀穂理を護るのは、関口亮でなくてはなら
ない。
「祀穂理は……」
「りょーちゃん、置いてくなんて言わないよね」
先読みした祀穂理の台詞。友絵の方に向き直り、肩をすくめてみせる。
「というわけだ。友絵も行くんだろ?」
「あたしは仕事だから……っ!」
結局全員行くことになるんだから。
まだ見もしない罠の可能性など、考えたところで無意味だ。
「なら行くぞ」
振り返る必要はもう無い。喫茶モノリスの伝票をひっ掴んだ。