天気は良くなかった。実際、この季節、この辺りの天気はと言えば低気圧と
冬型が交互にやってくる物と相場が決まっている。つまりは好天というのは冬
型がゆるんだ一瞬でしかない。それが昨日だ。今日は低気圧の通過。霙混じり
の冷たい雨。傘を差していなくてはならない分、雪より面倒。今朝の天気予報
によると今晩あたりからまた雪になる。
コンビニ傘のビニルの上を滝のように水流が流れ落ちている。
県庁舎の駐車場の真ん中を突っ切る。
駐車場の端に立っている時計付きモニュメントの指す時刻は七時三十五分。
ジャスト定刻五分前。
昨日より更に歩きにくくなっている。歩道上の雪に剛性という物がなくなっ
ている。黒いゴム長(農業用ブラックシューズ)の底が泥雪を削って滑る。転
びはしないが軽く足をひねる。痛。
雨は降っているし。ったく、ろくなもんじゃねぇ。朝っぱらから。
そんなことは、祀穂理には全く関係ないらしい。
存在の位相とやらを変えているそうで、雨も雪も祀穂理の体を素通りする。
全くもって便利なもんだ。
この街に来るのは初めてだそうで、結局放課後忙しい時間を割いて案内して
やることになった。
案内っつっても、この街にろくに案内するような所はないが。
何でも、悪魔を見ることが出来る能力ってのはかなりの率で遺伝するんだそ
うで、家に残っていた場合、父親や弟に見える可能性は高いらしい。
特定の人間にしか見えない状態が、一番安定しているらしく、存在を無駄に
浪費しないんだそうだ。
十八年間のブランクという物なのか、祀穂理は街を物珍しげに観察し、いち
いち報告しながら目の前を往復する。普通の小学生とかわらんな。もっともそ
んなことを言えるほど小学生の生態に詳しいわけではないが。
車一台分の幅の小路へとはいる。
この近道を抜けると高校の正門の前に出る様になっている。
そして、駅から高校への近道との合流点。聞き覚えのある声がする。
「祀穂理、ちょっと見えないようにしてろ」
声をかける。万が一って事もある。
「え? どうして?」
「知り合い」
それで祀穂理は納得したらしい。不可視度を上げた……らしい。契約してし
まったこちらには必ず見えるらしいので判らないが。
「せーんぱいっ!」
これは相良さん……と。振り向く。見覚えのある傘。
やはり三人組か。品川さん、野田さん、そして相良さんの放送部二年生の三
人をそう呼ぶ。同じ中学から進学してきて、家も近所同士であるということだ。
三人は、こっちと違ってJRで通学している。
「よっ」
傘と学生鞄で両手が塞がっているので、声のみの挨拶。三人を待つ。
「おはようございまーす」
「おはよう……ございます」
長身で明るい野田さんと、小柄で声も小さい品川さん。
三人と合流して歩き出す。
「どした? 今日は早いな」
運動系の部活の朝練でもない限り、八時前に登校するような奴はあまり居な
い。この三人、いつもこんなに早かったか?
「今日は、一本早い電車で来たんです。ね、みゃーこ」
野田さんが、相良さんを肘でつっつく。
「一本早くするとこんな時間になっちゃうんです。ほら、本数少ないから」
そんなもんなのかね。何故か野田さんと品川さんが、顔を見合わせて何やら
笑っている。祀穂理が相良さんを通り抜けて遊んでいる。どうやら見えていな
いと言うのは本当らしい。
「でもひどい雨ですよねぇ」
「確かに」
それぞれ傘を差した四人(祀穂理もいれると五人だが)が並んで歩いている
とけっこうな交通妨害。もっとも、この道はうちの高校へ向かう人間しか通ら
ないからさほど問題はない。
「あぁ、そうだ。合い鍵ある?」
放送室の合い鍵は、正副部長、つまり、野田さんと相良さんが持っている。
「先輩、今日も放送室でお勉強ですか?」
「静かだから」
動物の尻尾状のキーホルダーについている相良さんの合い鍵を受け取る。傘
の間を通過するときに雨で少し濡れる。
「わりぃ。後が良かったかな」
「先輩、みゃーこっ! 信号赤んなっちゃうよ」
少し先を行っている野田さんが、叫ぶ。
「そうですね、放送室の前で渡しても良かったかも」
「放課後にでも返す」
相良さんと二人して、少し小走り。校門前の横断歩道を、点滅の状態で渡り
きることができる。
祀穂理はさっきから相良さんが気になっているのか、やたら相良さんの周り
をうろちょろしている。
「先輩、どうしたんですか?」
祀穂理の様子を気にしていたのを不審がって居るのか?
「いや、何でもない」
二階の渡り廊下の下で、鞄と傘の雨を払う。
「みゃーこ、先行ってるよ!」
先行逃げ切りの二人は、先に校舎に入っていく。
まだ、登校してきている人間はさほど多くないから、校舎はしんとしている。
「先輩、その傘、何か破れてません?」
中央部分が少し破けているのは、昨日の黒服との乱闘のせいだ。
「コンビニ傘だしね」
コンビニで三五〇円で買った傘。傘を置き忘れることが多いから、コンビニ
傘を愛用している。この傘は意外と保っている方だ。
「そういや、なんかあったのか?」
話を換える。
「え? 何でですか?」
言葉が足りなかったか? いつもそうだ。
「一本早い電車だろ?」
さっきはその話を聞きそびれた。
「え? えと、その、なんでも、ない、です」
は? 何か聞いてはいけないことを聞いただろうか?
「ま、いいか」
言いたくないことを無理に言わせるほどのことではない。ただの好奇心。
本当にただの好奇心なのだから。
「んじゃまた」
相良さんにそう告げる。
とっとと放送室に行って今日の課業を始めるとしよう。昨日の騒ぎのお陰で
予定がずいぶんと遅れている。
「え? もう?」
「ん?」
まだ何かあるのか?
「え、いや、えと、なんでもないです。あ、お昼、お弁当持っていきますから」
「サンクス」
後ろ向きに軽く手を振って、校舎に入る。祀穂理が追いかけてくる。
何だったんだ? 相良さん。
***
…。
「りょーちゃん」
……。
「ねーぇ、りょーちゃん?」
………。
「りょーぉちゃんってばぁ!」
…………。
「聞こえてないのぉ? ねぇってばぁ」
……………。
「返事ぐらいしたっていーじゃないさぁ!」
「聞こえている」
もうちょいでこの問題が解けそうだ、黙ってろ。
だから、ここのこいつをこれに代入して、だから……
「そーゆー返事の仕方はないと思うな」
こいつとこいつを移項して、と。よっしゃ、うまく消えて……。
「もーぉ!」
数式の真ん中から、ちっちゃな手がにょきりと出る。
「……おい」
今現在辿っているところが完全にふさがっている。
「対話は人生の基本よ」
……あのな……鼻をつまむのは止めて欲しいもんだが。口で息をしながら鉛
筆の尻でぷくぷくした感じの手をつつく。
「手を引っ込めて、三〇秒ほど待つように」
「あ、……おこった?」
「怒ってないから三〇秒」
手が視界から消える。
「おこってる?」
そう訊く祀穂理の言葉を無視して、代入しかけの数式の整理だけ終わらせる。
これでやっと解が見えるようになった。だがここまでだな。
「怒ってはいない」
鉛筆を置いて、とりあえずさっきの言葉に対する返事をかえす。
「こんな事で怒っていたら、世の中やってられん」
呟く。不条理なことは放置せよ。自分を保ちたければ。
「じゃ、おこってないってことよね。よかったぁ」
何なんだか。
「で、用件は?」
怒ってはいないが、機嫌は良くない。
「ね、あのさぁ。さっきのおねーちゃんのことなんだけど」
さっきの?
「いつの話だ?」
この放送室のスタジオに入って三時間ほど、祀穂理以外の女性の顔は見てい
ないが。
「ほら、今朝の」
そうか、祀穂理から見ればあいつらも年上か。
「あぁ、後輩共のことか?」
そういえば説明していなかった。
「うん、ほら、眼鏡のおねーちゃん」
あの三人の中で眼鏡を掛けているのは野田さんと相良さん。
「髪の長い方か?」
「ううん。短い方のおねーちゃん」
それなら相良さんだよな。
「が、どうした?」
「りょーちゃんの恋人?」
フェイント。何の話かと思えば。
「まさか」
自嘲気味。肩をすくめてみせる。
「そういう話では一切ない」
「なんだ、そーなの?」
「そ」
実際問題、女性にもてる要因なぞ全くないし。ま、そういうもんだ。
「部活の後輩だ。三人とも」
「でも、お弁当つくってもらってるんでしょ?」
「ビジネス、ビジネス。あれはビジネス」
話ってのはこれか?
「こういう話だったら、後で……」
「あのおねーちゃん、りょーちゃんのこと好きなんだよ、きっと」
おいおい。冗談は止してくれ。恋愛あたりの話は鬼門なんだ。鬼門と言うよ
り自らに課した禁忌。
何より非現実的。いかんな。ペースが狂わされている。
「祀穂理。今後一切そういう話は無しだ。いいね」
語調を強める。
「……え…」
祀穂理に視点を合わせる。
「いいね」
「う、うん」
うむ。それでいい。恋愛不用論者であるという訳ではないが、望み無きこと
に労力を使うのは無駄だ。
「このページが終わるまで話しかけないこと」
宣告して再び鉛筆を取る。昼まで、集中。とっとと終わらせんことには。椅
子に腰掛け直す。
チャイム音。タイミングが悪い。
「誰じゃい」
反射的に応えてから気付く。声はスタジオから外に漏れない。そのためのチ
ャイムなのだから。
「隠れてろ」
祀穂理に言い置いて、スタジオの扉を開ける。額に浮いている汗をワイシャ
ツの袖で軽く拭う。
高尾先生だったらまずいな。神経質な顧問教師は、スタジオで受験勉強して
いる生徒がいることをあまりよく思っていない。
「はい、開いてますよー」
言いながら冬の間の内履き用にしているぼろいスニーカーを突っかける。
扉が開く。
「関口君」
ポニーテールのシルエット。暗い廊下に目が慣れる。
幸田さん? 何でまた。
「何か用か?」
「九日、十日」
…………。
「十一日、十二日」
「十三日、十四日」
「十五日、十六日」
「十七日、十八日」
「十九日、二十日」
………………………
百三十日を越えたところで無意味な冗談の応酬は止まった。面白くもなんと
もない。
「で、冗談を言いに来たのか?」
わざわざこんな所まで。実に酔狂な。放送室は、決して部外者に入りやすい
場所ではない。
「んなわけないっしょ」
それはそうだ。人は冗談のみにて生くるにあらず。
「関口君と、守口君、最近ぜんっぜん授業出て来ないでしょ」
そりゃまそうだ。こんなシーズン、わざわざ授業に出る暇人がどこにいると
いうのだ。それよりも過去問を一問でも多く解いておいた方がよっぽど合格確
率の上昇に寄与する。どうせおざなりにしか出席も取っていないし。
「無用だから」
とりあえずこう応えるのが正直なところ。
「無用……って、そういう言い方はないんじゃない?」
「試験範囲外の受験勉強は無用。趣味に割いている時間はない」
教師の顔を見て幸せになれるわけでも無し。いや、むしろ不幸になることの
方が多い。進路指導とは生徒を東京に行かせることと同義ではない筈なのだが。
「で、用は」
少し呆れ顔の幸田さんに重ねて問う。
「伝言よ。七川センセから。ちょっと職員室まで来て欲しいって」
七川は担任。またかよ。実にろくでもねぇ。
「学校まで来てるんだったらホームルームぐらいたまには出てきなさいよね。
まったく。何であたしがこんな伝言しなくちゃなんないのよ」
腰に手を当ててこちらを見上げ下ろす。物理的には見上げているのだが、心
理的には見下ろされているような圧迫感。
それにしても、何で、幸田さんなんだ? 普通この手の連絡は佐間の奴か、
仲山さんがやってくるものだと思っていたが。あぁ、両名は学級委員と副学級
委員だから。
「佐間も……仲山さんも、休みなのか」
確か佐間も国立一本勝負の筈。東京某大学入試専門講義と化している授業は
あいつのためにあるようなもんだと思っていたが。それに、仲山さんは、教師
陣の陰謀により、京都から東京に志望校が変わった筈なので、これまた授業に
出ていてもおかしくはない。
要するに最後まで授業に出そうな男女各一名が学級委員に選出されていたと
言うわけで結果オーライまことに結構な話なのだが。
「別に休みじゃないわ。ナカポンに頼まれたのよ」
左様か。ま、別に裏切り者が休もうがどうしようが関係ない。
「ふーん」
突っかけていたスニーカーの踵を直す。
「な、なによ」
「出る」
幸田さんの肩を小突いて放送室の扉の外に押し出す。
ズボンの左ポケットの中から放送室の鍵を取り出して掛ける。祀穂理なら大
丈夫だろう。廊下のひんやりとした空気が心地よい。
「んじゃ」
後ろに言い置いて目の前の階段を上る。職員室は二階。七川の奴、今度はい
ったい何だって言うんだ?
***
七川の話は予想通りろくでもないものだった。(思い出したくもない)
もうすぐ昼だ。一時間近くの拘束。時間の無駄という以外の何者でもなかっ
た。多少の苛立ちを込めて階段を真ん中から飛び降りる。
「なんだ?」
階段の下。放送室の扉の前に幸田さん。
「あ、もう、関口君。なかなか帰ってこないもんだから……」
待っていたのか?
「まだ用があったのか?」
尋ねる。
「そういう言い方はないでしょうが。渡す物があったのを忘れてたのよ」
「大事な物か?」
「……プリントだけど」
「ドアの所にでも挟んどいてくれりゃよかったのに」
わざわざこんな寒い廊下で待っていることはない。
「こんなにあるんだけど」
幸田さんが鞄の中から引っぱり出したクリアファイルごと手渡すわら半紙の
束。確かにこれは分厚い。なるほど、これはドアの隙間には挟まらんわ。
「二人分?」
土竜(守口のことだ)の分も入っているのか?
「え?」
「あ、そっか、守口君の分も持ってくればよかったね。あたしったらうっかり
してて」
何をやってるんだこの女?
「ま、いいや。土竜、どうせ休みだし」
放送室のロックを解除する。セントラルヒーティングの熱気が外に溢れる。
「おじゃましまーす」
おい。何で入って来るんだ?
「まだ用があるのか?」
「……。放送室の中ってどうなってるのかなって。それにね、まだ大事な言葉
聞いてないし」
…………。そういや、礼を言っていなかった。
「悪り。礼を言う」
これでいいだろ?
電気をつける。祀穂理がなにやらコードと戯れている。
「あれ? 今、誰かいなかった? ちっちゃい女の子」
やばすぎる。祀穂理の奴、ちゃんと姿消してろって言ったのに。
「気のせいだろ。あ、その辺の物勝手にいじるなよ。全校に流れるからな」
一年の時の失敗。コンソールに腰掛けたはずみにスイッチが入って放送室内
の雑談が全学年の教室に流れた。あの時は、三年の先輩が責任をとって反省文
を提出させられた。あんな愚かな失敗を繰り返すわけには行かない。
「気のせいよね。さっきまで、ここ、鍵かかってたんだし」
その論理には基本的に欠陥があるのだが、もちろんあえて否定しない。そう
考えてくれるのならそれで良い。
分厚いプリントの束を緑色のクリアファイルから取り出してクリアファイル
を幸田さんにかえす。
古ぼけた机の脇の椅子に腰掛ける。
プリントの束をめくる。
卒業式? あぁ、そういう行事もあったか。あんまり真面目に参列する気は
ない。講堂の放送室でサボれねぇかな。どうせ親も来れる訳無いし。日程は……
あほちゃうか、これ。後期試験の前々日。こりゃ出席率悪いわ。自分は前期で
受かってるはずだから出れるとして。
ブザーが鳴った。いつもながら愛想のない合図。これがうちの高校のチャイ
ム。もう昼休みか。
がらくたの山やら放送機器の中をうろつく幸田さん。まだ帰らないのか。結
構感覚が鋭いみたいだし、とっとと帰ってもらいたいんだが。祀穂理は、スタ
ジオの方に引っ込んでいる。
ヤベ。そういえば、卒業式の後の放送部のおごり会のこと、すっかり忘れて
いた。予算、適当に取り分けておかないと。
財布の中身と算段していると、幸田さんが尋ねてくる。
「関口君、いつもどこで勉強してるの?」
確かに、放送室の方にはとても勉強できるようなスペースはない。
「そっちのスタジオの中」
放送室の扉が開く。
相良さん。
「先輩、お弁当持ってきたんですけど」
ちょっと息が切れている。
「よ。サンクス」
「あら」
幸田さんと相良さんの目が合う。
なんだ、この沈黙は。
……どう言うべきなんだろうか。
「こっち、うちのクラスの幸田さん。こっち、放送部の後輩の相良さん」
とりあえず、初対面だと思うから、それぞれ紹介する。
また沈黙に突入する。
「どーも初めまして、相模さん」
「相模じゃありません。相良です。先輩。あんまり無関係の人を放送室内にい
れないようにって、この間も高尾さんに言われたばっかりじゃないですか」
「いや、すまない」
「あたしは、関口君にプリントを届けてあげただけなのよ」
幸田さんが言葉を遮る。何となく非友好的な視線の交流。
なんだ? この二人、相性が悪いのだろうか。
祀穂理が二人の周りをグルグルと通り抜けたり廻ったりしながら遊んでいる。
まったく。さっきも幸田さんに気がつかれそうになったというのに。
「ま、それはともかく。幸田さん、用事終わっただろ」
とっとと幸田さんには帰ってもらうに限る。ただでさえ考えにゃならんこと
が多いというのに。女性の喧嘩の仲裁までやってられるか。
「ま、そうね。じゃ、また。関口君。ホームルーム出なさいよ」
幸田さんが相良さんの脇を通って去っていく。大きな音を立てて扉が閉まる。
「なんですか、あの先輩。なんかすごく図々しいって感じ」
相良さんの論評。これは相当カリカリきてるな。
肩をすくめてみせながら、内心で安堵のため息。これで祀穂理がばれるかも
しれない危機が回避された。
「それじゃお昼ご飯にしましょっか、先輩」
「あぁ」
***
相良さんが午後の授業へと去っていくと、放送室内には元の静けさが戻った。
その背を見送りながら、祀穂理が呟くのが聞こえる。
「いわゆる三角関係って奴なのね」
やめろっちゅーに。あくまで恋愛関係に結びつけたいらしい。現実にないも
のを夢想してどうする。愛が不用だなどというちゃちなドラマの悪役的台詞を
吐くつもりは全くないが、こんな不完全で不安定な人間を恋愛対象とする女性
など神よりも存在確率が低い。ま、悪魔は存在したわけだが。
一つ溜息。
何が原因かしらないが、機嫌が悪かったな、相良さん。
午後の始業を告げるブザー音。
さて、本日学校に来た目的。過去問解きが全く進行していないと言う事実が
ここにある。
とっととやって塚田センセに採点に出してしまわないと、スケジュールに致
命的な遅れが出るし、祀穂理に街を案内してやるという約束も果たせない。
スタジオに入るとするか。
「祀穂理、邪魔すんなよ」
声を掛ける。
「えーっ、祀穂理、りょーちゃんの邪魔なんかしないよーっ」
一時間ぐらいは持つかな。
スニーカーを脱いでスタジオの扉を開く。
***
今日は、どうも良くない。吐息。祀穂理が嬉々として入っていったのは、洋
品店。そういう店関連には縁がないから、時間をきめて落ち合うことにしたの
だが。間違い様のないこの位置。駅ビルの改札の前。
辺りを見渡す。祀穂理はまだ帰ってこない。彼女の腕時計のアラームはとう
に鳴っている筈なのに。もう一度腕時計を見る。約束の時間からもう五分経っ
ている。天井からぶら下がっている時計と見比べる。一分と狂っていない。駅
の時計は基本的に正確な筈だし。
まさか迷子とか。迷子になったらかなり困るわな。探せば知り合いが確実に
数人はいる筈の駅構内でまさか呼出を掛けるわけにも行かないし。
柱に寄り掛かり直す。もう少し待つか。
「ちょっとすいません。三分間ほど時間を」
「断る」
顔も見ずに反射的に断る。
「し、失礼しました……」
去っていった方向を見やる。二〇代前半ぐらいの、もさいセーターにジーン
ズの男性。ああ言うろくでもないことで時間と不快感をバーター取引する気は
ない。変な宗教団体の事件が起こった前も後もあの手の連中の出現頻度は一向
に変化しない。
そういえば、一昔前のキリスト教系の宣教師だったか。『アナタハ カミヲ
シンジマスカァ?』とか言うのがあったのを何となく思い出す。神を信じる。
幸せなんだろう。信じている本人は。
自分は信じられない。神も。自分も。だから……
「うるさいっ」
改札口の方で凛とした女性の声。
さっき、こちらに話しかけてきた宗教のジーンズ男が怒鳴りつけられてへっ
ぴり腰で後退している。一喝したのは、ショートカット(シャギーとか言うん
だったろうか)に直線的なサングラス、TシャツにGジャンジーパンの女性。
大学生? いや、OLか? 金色の小さなピアス。
とにかく奇妙に存在感がある女性。意味もなく視線が引きつけられる。
旅装。大きめのボストンバッグと肩から下げたグレーのショルダーバッグ。
改札を抜けたところであの男に例によって『三分間時間を……』とやられたん
だろう。切符をショルダーバッグの前ポケットにしまい直しながらこちらへと
歩いてくる。
怒鳴りつけた気分については判らないこともない。虫の居所がよほど悪けれ
ばやるかもしれない。いや、やらないか。
祀穂理の気配。階段の方か? いや、上だ。そうか、ある程度近ければ自動
的に判ってしまうから……
「きゃ」
ぶつかられる。相手はさっきの女性。よそ見でもしていたのか?
「いえ、失礼」
「いえ」
印象的な何かを残しながら通過し去る。軽く鼻を鳴らす。香水? 柑橘系の
香り。記憶に残る。
駅舎の外まで目で追う。いつ見てもガラガラのタクシー乗り場で、空いてい
るタクシーに乗り込んでいくのを観測する。観光客かな。
再び祀穂理の気配。今度は階段の方。すぐに発見する。今は、普通の人の眼
に見えるようにさせている。一人で子供服売場やらファンシーショップやらに
行っているように見られるのは避けたい。
「りょーちゃん、りょーちゃん、ちょっと買ってほしいものがあるんだけど」
「財布様が許したらな」
甘いよな。我ながら。
祀穂理に手を引っぱられて、ちょっとつんのめるようにして歩く。まさか、
幼女誘拐犯(いや、これぐらいの歳だともう幼女と言わないのか?)に見られ
ると言うことはないだろうな。学らんだし。せいぜい兄妹か。まさかのまさか、
本当に親子に見られてたりはしないだろうな?
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