そっと、玄関のコンクリの上に彼女の体を降ろす。腰のあたりまで下りてか
ら三編みにされている栗色の髪の先がしっぽの様に空にはねている。
一つ溜息。玄関の引き戸に軽く力を加えてやって、動かない事……家に誰も
いない事を再確認する。このご近所はいつものように、息を殺したように静か
だ。子供の体がいくら軽いといっても彼女が出現した位置から家までは一キロ
近くはあった。少々腕が痺れている。
財布の中から鍵を引きずり出す。鍵穴に突っ込む。解錠に少々のこつを必要
とする。一発の蹴りと共に、鍵が回る。やな音。
くそったれに広い家の中の気温は外界と変わらない。彼女を両腕で持ち上げ
て、玄関の敷物の上に降ろす。玄関の戸を閉める。風がなくなる。体感温度が
わずかに上昇する。水気を落としながら脚からゴム長を外す。彼女を見降ろす。
「……琴」
何度見てもそう見える。しかしそうではない事は明きらか。
他人の空似。それ以外の結論はなかった。
しかし……似すぎているのだ。九年前……目の前で落ちていった……助けら
れなかった、琴に。だからそのままにはしておけない。
学生鞄をとりあえず玄関の隅っこにやって、彼女を持ち上げる。
あれから九年が過ぎて、背は伸びたし、毎日髭も剃るようになった。しかし、
彼女は現れた。あのときの姿のままで。
彼女の足先が、廊下に並ぶ本棚に軽く引っかかる。文庫本が数冊落ちる。
そういえば、この家も、琴が死んでから建った物だった。
とりあえず、暗がりに沈むリビングのソファーの上に彼女の体を横たえる。
石油ファンヒーターの電源スイッチを入れる。設定温度は十六度。蛍光灯の紐
を引っ張る。世界に光が快復する。
リビングの壁面一つを占拠している巨大なホワイトボード。
父親の欄。今日の予定は往診。帰宅予定は十一時。食事用意の必要無し。
弟の欄。今日の予定は部活。帰宅予定時刻二二〇〇±三〇。夕食は不要。
母親の欄は、空白。
亮と書かれた欄に、今後の今日の予定を書き込む。
受験勉強。在室。邪魔不用。
来月後半の予定表。二十三日。亮、京都出発。〇九四五雷鳥。
クソったれ。後、一か月もねぇってか。
石油ファンヒーターの熱源部分が温まりつつある。金属の伸縮する音。断続
的に鳴る発火音。点火。オイル臭い風が吹き出す。
リビングの障子を滑らせて閉める。廊下に出る。玄関に置いた鞄を回収して
階段を上る。自室の蛍光灯と石油ファンヒーター、そして炬燵の電源を入れる。
鞄を事務机の上に放り出す。オーバーを脱ぐ。ハンガーにかける。学らんを脱
ぐ。肩が軽くなる。ハンガーにかける。母親の入院以来万年床になりつつある
布団を、気持ち、整える。階段を降りてリビングに戻る。
ソファーに横たわったままの彼女を見降ろす。あんまり考えも無しに、とり
あえず連れて来ちまったけど……まぁいいか。この気温だ。放っとく訳にも行
かなかったろうし。とりあえず保護者らしい人間は回りには見あたらなかった
んだし。
……言い訳だよな。
気になったのだ。琴にあまりにも似すぎている彼女が。
額に手をやる。取り合えず、熱もないし冷たくもない。正常。
顔色も特に悪くはない。
口元に指を当ててみる。呼吸はしている。ゆっくりだが、深い呼吸。どちら
かというと寝息という感じ。まぁ正常だろう。
忘れていた。一応脈。手首をとる。自分の脈と測り比べてみる。……よく判
らんが、取り合えず規則的だからいいということにしておこう。
という事はたぶん……寝ているだけだよな……
目を覚ますのを待って、家の場所を聞いて送ってやらにゃな。
おそらくは家族も心配しているに違いあるまい。つまらんゴタゴタになるの
はごめんだ。余りにも長々と目を覚まさないようなら、警察に届けてやった方
がいいかも知れない。冷静に考えれば小学生……だよな、たぶん。名札とかは
してないけど……の少女を誘拐したという事にでもされかねないのだから。
布団に寝かしてやった方がいいかも知れない。
彼女の頭と足を持って持ち上げる。階段を上る。センベイ化しているけど、
ま、いいよな。足で掛け布団を脇に寄せて敷き布団の上にそっと降ろす。毛布
と掛け布団を掛けてやる。
……どうしたもんやら。
学らんの胸の内ポケから生徒手帳を引っ張り出して、座椅子に腰を降ろす。
炬燵に足を突っ込む。
生徒手帳を開く。
革の表紙から中身を取り出す。
カバーと本体の表紙との隙間に挟み込んだ写真を取り出す。
小学生。小学三年の関口亮と一学年上の沢野琴。お揃いのリュックを背負っ
て、Vサインなんかしていたりする。近場の山の上。関口家と沢野家の二家族
揃ってのハイキング。あのことのほんの十日前の写真。隅の余白。小さな染
み。赤茶けた染み。
あのこと。寒い。魂の芯が凍える。
夕焼けの図書室。開け放たれた窓。窓枠に腰掛ける琴。窓際の会話。
現像されたばかりの写真。鋭利な紙の縁。
裂けた指先。血。
「大丈夫? 結構、血ぃ出てるよ。保険室に行った方が」
「いいってば」
「でも……ねぇ、ちょっと見せてみてよ」
「やめってってば、りょーちゃん」
崩れるバランス。悲鳴。掴む腕。左手は琴の腕に、右手は窓に。
外れる窓。あっけない感触。
杉の木。腹を打つ杉の木の枝。体中を刺す杉の葉。
窓ガラス。朱く光を弾くガラス。
一瞬おいて、溢れ出る赤い液体。
すり抜ける腕。
ずっと下。バウンドする小さな体。赤い夕日紅い夕日朱い夕日。
首を振る。何を考えているんだこんな時に。もうあれは九年も前の事。
写真と、目の前で眠る少女とを見比べる。左の口元、ちっぽけなほくろ。そ
んな些細なところまで、余りにも同一人物でありすぎる。髪の長さと、まぶた
を閉じている事を除いて。
だから琴では有り得ない。だからこそ、彼女は琴ではありえない。
あのとき、たとえ死んでいなかったとしても(そんな事ありえない。目撃者
が一番よく知っている)、九年前、十才だった琴は、今は十九才であるはずだ
から……この少女では絶対にありえない。
結局はトラウマ。左腕の真ん中についた白く太い傷跡と同じで、消えない。
人格形成時に負った塞がらない傷。
両手で頬をはさむように軽く叩く。写真を手帳の裏側にしまい直す。
無性にコーヒーが飲みたくなる。フィルターが切れていた事を思い出す。買
ってくるのを忘れていた。舌打ちする。台所にインスタントコーヒーの瓶を取
りに降りる。インスタントでも無いよりはまし。こんな人間でもいないよりは
まし。
階段を二段ずつ登る気分。愛用のでかマグカップにザラザラとインスタント
な粉を流し込み、電気ポットから投げやりに熱湯を注ぐ。溶け残りのインスタ
ントコーヒーが、液面を回り続ける。そのまま上澄みをすする。えぐみのある
後味が舌の上に残る。舌先に軽い火傷。息を詰めながら飲み込む。
ゆっくりと息を吐きながら座椅子に深く腰掛け直す。
「ん」
声。振り返る。動いている。
「気ぃ、ついたか?」
声を掛けてみる。
「ん……」
肩に手をやって軽くゆすってみる。
「ぅん……」
少しずつ目を覚ましかける気配。
「目ぇ、覚ましたか?」
もう一度声をかける。ゆっくりと見開かれる瞳。淡い、ブルー。空の色。琴
じゃ無い。琴の瞳は吸い込まれるような黒だった。
「おとうさん?」
まだ、寝ぼけているのか?
「生きてるか。ま、良かっ……」
言葉を遮って、起きあがる少女。
「お父さん! お父さん、大丈夫だったの?」
右腕に強くしがみつかれる。意外なほどに強い力。
なにか違うような……
「君の父親ではない」
「うそ! 何でそんな事言うの? あたしのこと、嫌いになった?」
困る。困るしかないだろう。声のトーンまでもが記憶の中の琴と一致する。
「良く見るべきだ。君の父親ではない」
肩を掴んで力をいれすぎないように引き離す。
……これって、泣いているんだよな。えぇーぃ、クソ! パニクりそうな精
神を無理矢理押さえつける。
「少なくとも泣き止んでもらえないかな」
彼女はこちらの顔をじっくりと見つめる。
「……人間!?」
不意に気がついたように。身をこわばらせて、後ずさる。
まるで自分が人間じゃ無いかのような物言い。
「人間だが」
言ってから、おもいっきり間抜けな事を言ってしまった気分になる。
人間じゃなきゃいったい何だってんだ? 幽霊か?
彼女は聞いてはいない。自分の両手を見ながら呟いている。
「契約が……切れちゃってる……どうしよう……」
契約? まぁいい。
「誤解の無いように言っておく。公園で倒れているのを見つけて運んできただ
けだ。害意はない。おびえる必要はない」
いかん、これでは会話になっていない。会話が成立する必要がある。
「公園?」
不思議そうな表情で聞いてくる。
「公園だ」
不自然な沈黙。唇が乾いている。炬燵の上のマグカップを取り上げて一口す
する。ぬるくなって、えぐみが更に際だつ。眉をしかめながら一気に飲み干す。
「……なにか飲むか?」
会話が途切れたのを糊塗するための質問。
「ジュースがいい」
ジュースか。確か冷蔵庫に中元で貰ったはいいが誰も飲まないまま放ってあ
るカルピスがあった筈だ。
「カルピスならあるが」
了解を求める。
「ホットカルピスにして」
?
「ホットカルピス?」
こちらが理解していない事を察して解説してくれる。
「カルピスにね、熱っついお湯入れるの。……だめ?」
製法を理解する。
「判った。なら少し待て」
熱湯自体は、炬燵の脇の電気ポットにある。適当なカップにカルピスの原液
を入れて持ってくればいいだろう。立ち上がる。
「あ、そうだ。おにいちゃん、名前なんていうの?」
名前? あぁ、確かにまだ名乗っていなかった。
「関口。関口、亮」
「ふーん、りょーちゃんね」
何を感心しているのだ。
「その呼び名はやめろ」
ちゃん付けで呼ばれるのは性に合わない。
「亮おじさん?」
「……おじさんと呼ばれる年ではないつもりだが」
「じゃ、りょーちゃんでいいじゃない」
二者択一なのか? どっと疲れを感じる。
「……もういい、好きなように呼べ」
背中を向ける。後ろに向かって言い捨てて、階段に歩を進める。
「うんわかった。りょーちゃんってよぶからね。あ、あたしはね、しほり」
「しおりだな」
背後に復唱を返しながら、階段を降りる。
「し・ほ・り! 『お』じゃなくて『ほ』!」
訂正が入る。むずかしい事で。
「判った、しほりだな」
全く、何をペースに巻き込まれているのだ。
台所、冷蔵庫の中から未開封の瓶入りカルピスを一本取り出す。確か、栓抜
きが必要だったはず。その辺に転がっていた記憶があるが。母親の入院以来散
らかる一方のダイニングテーブルの上。飲まれた後放置されている瓶ビールの
脇。読み散らかされた新聞紙の下にそれはあった。
後はカップ。紺無地のマグカップを食器棚から引っ張り出す。……ここで注
いで持って行く必要はない。二階で注げばいいのだ。
一式を携えて、階段を上る。両手が塞がっているから足で自室の戸を開ける。
「りょーちゃんって、ちょっと無作法よね」
それを見て、いつのまにか布団から抜け出してちゃっかりと炬燵に入り込ん
でいたしほりが感想を述べる。さよか。後ろ足で閉める。マグカップと栓抜き
を炬燵の上に置く。包み紙を開けて、プラスチックの注ぎ口を取り外す。栓を
抜く。王冠が転がり落ちるのをしほりがすかさず受けとめる。そういえば、確
か琴は瓶の王冠を集めていた。注ぎ口を再び装着する。マグカップの中に、白
色の液体を注ぎ込む。自分のでかマグカップには、インスタントコーヒーの粉
を瓶から直接流し込む。
「面白いか?」
しほりが、手元をじいっとのぞきこんでいる。
「べっつに」
その割には、何やら楽しそうだ。
「そうか」
熱湯をマグカップの中に注ぎ入れながら尋ねる。
「漢字ではどう書く?」
割り箸でカップをかき混ぜる。ポットから出たばかりの熱湯の中を、白色の
もやが回る。
「漢字? んーっと、何が?」
説明不足なのは、悪い癖。
十分カルピスが熱湯と均一に混ざっている事を確認。しほりの前に置く。
「名前。あ、熱いぞ」
人の話を聞いているのかいないのか。しほりは、両手を揃えてマグカップに
と伸ばし、包み込むように持とうとして、手を引っ込める。
だから、熱いと言ったのに。自分のコーヒーをかき混ぜる。インスタントの
粉の溶けが悪い。先にカルピスの方をかき混ぜたせい。
「ね、りょーちゃん、紙かなんかある?」
どうやら、熱されすぎているマグカップをすぐにどうこうすることは諦めた
らしい。
「ある」
学生鞄の中からBサイズのレポートパッドを取り出す。表紙と、落書きと数
式の描かれた数頁をめくり上げて、彼女に渡す。
「書くものも、ちょーだい」
「ちょっと待て」
畳の上に転がっているボールペンをしほりに手渡す。
「えっとね、はいっ! こういう字、書くの」
レポートパッドをこちらに向ける。堅めの読み易い字。充分にうまい楷書。
祀穂理。なる。
「確かに、『ほ』だな」
普通、穂を『お』と読んだりはしない。
「ね、でしょ?」
何やら妙にうれしそうな返事。ま、箸が転がっても面白い年頃とやらなんだ
ろう。いや、あれはもう少し歳がいってからか。
「ああ」
コーヒーを一口、なめるようにすする。温度はもう大丈夫だろう。
「おかあさんがつけてくれた名前だもん」
何やらちょっと自慢げに。
「あ、ちょっと貸して」
祀穂理と書いてある後に、流れるような筆記体の英文字を書き加える。
祀穂理・Maxwell
「マクスウェル。マックスウェルなんてよんじゃ駄目よ」
いちいち呼び方にうるさい女の子だ。
なるほど。ハーフか。それなら、その瞳の色にも納得がいく。
「ハーフか」
クウォーターという可能性もあるが。
「うん。お母さんは日本人なの。で、お父さんはね……えっと、イギリスから
来たの」
お父さん……どうやらイギリス人と勘違いされたらしい。
ホットカルピスの入ったマグカップをそっと押しやる。
「もう熱くない」
かなり大きめのマグカップを両手で持ち上げて飲むと、顔が半分以上隠れる。
時計を見ると六時過ぎで、もう外は暗くなっている。そろそろ帰す算段をし
ねぇと。
「さて。家はどこだ? 近くか? もう暗いからな。送る」
コーヒーを、一気に飲み干す。送っていかにゃな。
「うん、ありがとう、りょーちゃん。えっとね、あたしのおうちはね、乙舳の
団地なの」
……乙舳? 聞いたことのない地名。少なくともこの辺の地名ではない……
と思う。
「詳しく」
レポート用紙の余白を自分に向ける。
「乙舳の団地のCの三〇五なの」
そういう風に詳しくされても困る。いちおう、Cの三〇五と書き留める。
……先に、親に連絡した方がいいかもな。これでは辿り着けそうもない。
「電話番号は?」
ボールペンをもう一度手渡しながら。
「え? 電話番号も?」
これを先に聞くべきだったか。
とりあえず親に電話かけてやって……それから……
祀穂理の手元を見る。頭を抱えたい気分になる。………市内局番の桁数が違
う。三桁だ。市内じゃないのか。
「市外局番も」
三桁ってことは……、下手すりゃ、いや下手しなくても県内じゃない。金沢
でも二桁だから、かなりの大都市圏だ。
つうことは、たぶん旅行に来てはぐれたって線だよな。
「え? うん」
いったん最後まで書いてから、左上に市外局番。〇四五って……どこだ?
「なに県だ?」
それが判らん事には話にならない。
「え?」
何を聞かれたのか判らない様子。
「家はなに県だ?」
きょとんとした顔で、逆に聞き返してくる。
「神奈川県だけど……。え、やだ、ひょっとして、ここ、横浜じゃないの?」
……横浜ぁ?
「ここは、……なんだが」
「え? ……って……確か千葉……?」
地図マニアをなめてはいけない。同音異字の千葉の地名を思い出す。
レポート用紙の隅に漢字を書いてやる。
「同じ読みだが、漢字が違う。北陸だ。日本地理ぐらい少しは判るだろ?」
相手はなにせ小学生だ。日本地理が知識の範囲に入っていない可能性も充分
にある。
「北陸って、ゆーとぉ」
紙の余白にえらくデフォルメされた日本地図が描かれる。ま、一応概ね位相
幾何学的には合っている。
「この辺?」
丸っこい感じの指が一ヶ所を指す。
「……それは山陰だ。北陸はこのあたり。で、今居るのが……ここだ」
北陸を大ざっぱに丸で囲い、現在地に小さく×印をつけてやる。
「父親に連れてこられたのか?」
言ってから、後悔する。父親を呼んだときの必死そうな声。ま、言ってしま
ったもんはしかたがない。
「お父さんとデパートまでクリスマスの買い物に出かけたのよ」
「クリスマスぅ?」
冗談はよしてくれ。クリスマスなんてものは一か月も前の話だ。
「そう。その後、お父さんのお友達と会う用事を済ませてから、ホテルでお食
事のはずだったのに……」
なんか涙ぐんでいる。おーい、どうすりゃいいんだ?
「……いろいろあって……」
「ふん」
おとなしく聞いている事にしよう。
「で、気がついたら、ここにいたの」
……おいおい、それだけかぁ?
「一ヶ月もか?」
一ヶ月の間を《いろいろあって》で済まされては、理解できようはずもない。
「一ヶ月って?」
もしかすると今がいつか判っていないのか。
「今は一月。クリスマスは一ヶ月前だ」
案の定驚いたような顔。
「ほんと?」
信じていない顔。
「うそをつく必要はない」
ということは記憶喪失まで追加か。本当に警察にいった方がいいかもな。
「うそっ! なんで? 一か月も経っていたの?」
つめよってくる祀穂理。こら、右腕にしがみつくなっちゅうに。セーターの
袖が延びる。
「ほれ」
左の胸ポケに入っている生徒手帳を左手で引っ張り出すという器用なことを
する。
二ページ目の三年(要するに在学期間中だ)カレンダーを見せる。一月末の
今日の日付まで、しっかりと×印がついている。
「……ねぇ? りょーちゃん?」
見ると祀穂理が、西暦のところを指さしている。
「これって西暦なんだよね? ……もしかして」
「そりゃそうだが」
何を当たり前のことを聞いているのだ。
「この横の「ひらなり」ってなに?」
「ひらなり」? なんだそりゃ? そんなもん、生徒手帳に書いてあったか?
のぞき込む。なんだ、年号じゃねぇか。
「そりゃ、へーせー。平成§年だ」
なに言ってんだ? いくら小学生でも、年号を知らないなんて莫迦な話は……
「ねぇ!」
なんか、目が真剣。少したじろぐ。しかし、いいけど、セーターの袖、離し
てくんないかな。行動が著しく取りにくんだが。
「昭和って、判る?」
ほう。って、昭和だった頃っていえば、小学生の頃だ。祀穂理の年なら物心
つくかつかないかってぐらいのはずで……なんで昭和が判って平成が読めない
んだ?
「そりゃ、一応覚えてはいるが」
「で、今は、一九九@年一月なのよね!」
「あぁ、去年が一九九*年だからな」
顔色が悪い。さっき少し快復したように見えたのに。また元の真っ青な顔色
になっている。
「あたしが……お父…んと買い……クリスマスイブは……一九七……年なの」
えー……っと。からかわれているんだろうか?
いきなり、とゆーのはじょーだん! ってのは、なしだからな、祀穂理。
「七十……何年?」
なにかよく聞き覚えのある年号のように思えて聞き返す。
「七十☆年、昭和五十&年よ」
おいおいおいおいおい。冗談だろ?
「十八年前?」
聞き覚えのあるのも当然。生まれた年。
「んっと……うん。そうなっちゃうのかな……」
……万が一、祀穂理の話していることが本当だとするなら、少なくとも警察
に捕まることだけは無さそうだ。たとえ誘拐でも、十八年あれば時効になって
いるだろう。
……なに愚かしい事、考えてるんだか。
「ちょっとまってろ。電話してくる」
祀穂理の書いたメモを持って階段を下りる。舌打ち。取りあえず、電話だ。
たぶん、彼女は混乱しているだけなのだ。電話して、彼女の家族に連絡さえ
取れれば何かの間違いだということが判るに違いない。
階段の真下にある古びた黒電話の受話器を取る。ダイヤルを回す。
接続の時間がある程度かかってから、繋がる。呼出音。
一回。二回。三回。四回。五回。六……
「はい? どちらさまでしょうか?」
低めの男の声。
「マクスウェルさんのお宅ですか?」
「いえ、うちは御堂ですけど」
「失礼。間違えました」
切る。と言うことは、この電話番号は、間違っているか……半年以上の時間
が過ぎてもう別の人が使うようになっているという事だ。
少なくとも、これで、糸は一本切れた。五回の舌打ち。ろくでもねぇ。
階段を上る。戸を開けた状態で、そのまま言う。
「この電話番号、繋がらなかったぞ」
事実を隠しても仕方あるまい。炬燵の天板を見つめるように、うつむいてい
る祀穂理。
「ということは、やっぱりあれは夢じゃなかったんだわ」
呟き。
「夢?」
何か覚えがあるのか?
「お父さんが……死んじゃうの……あの日、あそこで」
戸柱を軽く爪先でこずく。
「ほど」
なるを略して呟く。
ガキに絶対に見せてはいけないものがある。人の死、なんてもんもそのひと
つだ。絶対に、性格が歪む。例を取るまでもない。
「だから、判ったの」
突拍子もない台詞。
「何が?」
思わず聞き返している。
「あたしには判るの。りょーちゃんはお父さんの生まれ変わりなんだわ」
脈絡のない台詞。
生まれ変わり? なかなか非科学的な。それなら彼女は琴の生まれ変わりな
んだろう。はっ。ばかばかしい。なにを考えているのやら。
「りょーちゃんの生まれたの、いつ? 何月何日何曜日?」
話に辻褄という物がないのか? この娘には。
「昭和五十&年の十二月二十四日だが。曜日までは憶えてない」
何というか。このクリスマスイブの生まれというのは憶えられやすいという
以外にほとんど良いことはないのだが。
「やっぱり……」
何がやっぱりなんだ?
「りょーちゃん、お父さんの死んだのと同じ日に生まれてる……お父さん、あ
れ使ったんだ……」
それは、通常、偶然というのだ。しかし、あれって何だ?
「で、だ。これからどうする?」
そんなことより問題はこれだ。親との連絡は取れそうもないし。
いっそのこと、警察に届けてしまった方がマシかもしれない。
「……どうしよう」
小学生に判断を求めたのが間違いだったか。
「どーしたもんだか」
呟いてみる。頭を掻く。どぉっしょうもねぇな、こりゃ。この脳味噌は徹底
的に世俗のことをするように出来てねぇ。
雰囲気を破ってくれるようにチャイム音。
「はーい! ちょっと出てくる」
さっきから俯いたままの祀穂理にそう言いおいて、もう一回階段を下りる。
玄関のすりガラスの向こうに黒っぽい人影が見える。一人ではない。少なく
とも、三人。
「どちら様ですか?」
一応向こうに声をかけながら、引き戸の錠を開ける。
「関口さんのお宅はこちらですよね」
「そうですが……父は今留守ですよ」
応えながら戸を開ける。背格好も、見分けのつかない黒いスーツ姿の男が三
人。暴力団関係者か? うかつに戸を開けるべきじゃなかったかもしれないな。
嫌な雰囲気を発散している。
「このお宅に、訪問者がおりますでしょう」
こちらが話す前に、向こうから聞いてくる。祀穂理のことか?
「……どちら様ですか?」
もう一回尋ねる。
「このお宅に、訪問者がいるはずですが」
不快感。名も、身分も名乗らない。
暴力に対する恐怖感を、不快感が上回る。
「用件を話す前に、名前を名乗るべきだな。Mr.Black Suit?」
「この家に招かざる来客がいるのは調査済みです」
「こちらの話を……」
「こちらに引き渡していただきたい」
全く聞いていやがらねぇ。
「それで?」
呟くような返答。
「理解してもらえませんでしたか? 残念です」
理解に至る過程を全く辿ろうとしないで、この台詞か?
「残念だから?」
それほど体格がいい相手という訳ではないし、戸の隙間からは一回に一人し
か入って来れないだろう。傘立てに刺さっているコンビニ傘にそっと手を伸ば
す。武器があれば一応は大丈夫な……筈だ。不法侵入の場合は、正当防衛を主
張できる筈だし。
クソッ。ブルってやがる。暴力には馴れていないから。
「実力を執行させていただきます」
来るのかよ。
「不法侵入者ぁ殺した場合でも、正当防衛になるんだけどね」
言葉に震えが入らないように。相手が引き下がってくれればそれにこしたこ
とはない。
「不法侵入者ではないので」
先頭の黒服が右手をゆっくりと上げてこちらに向ける。
何をするつもりだ?
そんなことを考える間もなく、玄関脇の壁にたたきつけられる。背骨の裏側
から焼け付くような痛み。動けない。
何だったんだ? 今のは? 拳法かなんかか?
「りょーちゃん? 何かあったの?」
階段を下りてくる音。祀穂理?
黒服達が玄関の内部に入ってくる。
「出てくるな! 祀穂理。こいつら、お前がねらいだ!」
言いながら立ち上がる。クソッ、背中が痛い。
「Maxwellの悪魔……祀穂理・Maxwell。ご同行願います」
悪魔? マクスウェルの悪魔? たしか熱力学の第二法則を破る存在……?
「あぁっ! あんたらはぁ!」
祀穂理の叫び。
「知っているのか?」
「あの……あの時の……」
呟くように、いや、こちらの声が聞こえていない。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
何かが祀穂理から、黒服達へと飛んでいくのが感じられる。そしてそれが無
力化されたことも。
「無駄ですよ。何のために私達が三人いると考えているんですか」
何がどうなっているんだ?
「こんな小さい娘一人に、大人三人がかりって訳か?」
コンビニ傘を青眼に構える。剣道をやっていたのはもう八年の前の話だ。今
じゃ素振りぐらいしかしてないが。畜生、素振りに使ってる木刀があれば良か
ったのだが。
「妨害対象は排除してもかまわないと言うことになっています」
気に喰わねぇ。
「祀穂理、とっとと逃げろ。いや、一一〇番だ」
体で廊下を塞ぐ。祀穂理の方に黒服達を行かせない体勢。
「だめ。あいつら、情報結界張ってんだもん」
「情報結界?」
「そうですね。だから抵抗は無駄です」
祀穂理に変わって黒服の一人が応える。
「不戦敗は趣味じゃないんでね」
とは言え、こっちから仕掛けられるような状態ではない。
「では仕方ありませんね」
黒服がまたさっきのポーズを取る。大丈夫、今回はちゃんと間合いを取って
ある。普通のリーチでは届かない筈。拳法的ななんかなら、これで少しは……
黒服の手から何かが飛んでくる。コンビニ傘で叩き落とした……つもりが全
く効いていなかったらしい。下腹に真っ直ぐ入る。足を踏ん張ったつもりが力
が全く入っていない。廊下の壁に突いた左手で、倒れることだけ防ぐ。
クソッ。どうなってるんだ。
もう一発。軌道だけは見えるよく判らない物。それが胸板の真っ正面に入る。
呼吸が出来ない。目の前が暗くなる。頬に触れるこれは……床板?
守れるのか? 彼女を……琴を……祀穂理を。前は守れなかった。今度も守
れないのか?
体から力が抜ける。
「りょーちゃん、お願い! あたしと契約するっていって!」
琴の声。祀穂理の声。
「契約……? なんだ……それは?」
遠くなっていく意識の中に、祀穂理の声だけが微かに聞こえて。泣いている?
「とにかく、契約するって言って! このままじゃ、りょーちゃん……」
「今さら契約なんてしたところで……もう終わりですからね」
くそっ、うるせぇ。騒ぐんじゃねぇ。泣くんじゃねぇ。
「判った! とにかく契約する。してやる! だからぁ、泣くんじゃねぇ!」
残った息を搾って叫ぶ。いけねぇ、ホントに最後の息だ。
琴、護れなくてご免な……今度は、こっちの方が先におだぶつだ……
***
まぶたを開けた。見慣れきった自室の天井。夢だったのか? 琴を守りきれ
ずに斃れる夢。頭痛がする。どういう夢だ、ボケたれが。
今何時だ? 視線だけで柱時計を振り仰ぐ。八時。窓の外の暗さから午後と
判断する。なんちゅう頭痛だ、クソッたれ。
心の中でいつまでも悪態を付いていても仕方がねぇよな。
「あ、りょーちゃん。気が付いた?」
この声は。
「祀穂理?」
尋ね返している。夢の中の琴の名。
「良かったぁ。りょーちゃん、復活だね」
これは間違いなく祀穂理。あれは夢ではなかったという事か。少し頚を動か
すと、こちらを覗き込んでいる祀穂理の顔が視界に入る。
「かもしれない」
そんな言葉を返しながら、身体の各所にゆっくりと力を入れて点検する。
右腕、OK。左腕、異常なし。左脚、問題ないようだ。右脚、大丈夫。
「どこか痛むところない?」
頚を左右に曲げてみる。いつもの軽い肩こりがない。
「頭痛……だけだな」
それ以外のことに関して言うならば、意外なほど調子がいいと言うべきかも
しれない。少し勢いをつけて、布団に肘を突いて起き上がる。
黒服にやられたときに着ていた恰好のまま。軽い眩暈。
「あ、少し休んでた方がいーよ。癒したばっかだから」
癒す? 少々貧血気味ってか。たしかにこのまま立ち上がったら立ち眩みが
しそうだ。そのまま掛け布団を押しのけて敷き布団の上にあぐらをかく。
「夢じゃねぇんだな」
呟く。想起する。記憶を順序立てる。論理的に考えて、黒服に一方的にやら
れていたあの状態から現在の状態へと移行できるはずがない。
考えうることは……
一、何らかの偶然の助けによって、誰かが黒服どもを追っ払った。
二、黒服どもがあの後急に気分を変えた。
三……、思いつかん。
要するに、黒服達は、穏便に帰ったか、撃退したかの何れかの筈で、しかも、
どちらもありそうにない。
「何が起こったんだ……?」
もう一度呟く。
祀穂理の方に向き直って、尋ね直す。
「何が起こった。あの後」
我ながら、女子供を相手にするに不向きな強すぎる口調。案の定、祀穂理の
目には少し怯えが見える。
「……ごめんね、りょーちゃん」
謝られるようなことがあっただろうか。
「何がだ?」
困惑。
「訳もちゃんと話さずに契約しろなんて言っちゃって。これって明らかな違反
だよね」
契約? あぁ、そういえばそんなことを最後に言っていたような記憶もある。
「どういう……」
「説明なしの違反契約なんだから、今ならまだ解約できるはずだし、あたしが
使っちゃったりょーちゃんの寿命も二、三秒ほどで大したことないはずだし、
何ならあたしの寿命を代わりにあげちゃってもいいんだし、でも……」
寿命?
「話が飲み込めないんだが」
祀穂理の言葉を遮る。
祀穂理が大きな瞳を数回瞬かせる。その瞳に唐突に理解の色が浮かぶ。
「そっか。りょーちゃん、お父さんの生まれ変わりだけど、そう言うこと全然
知らないんだ」
またそれか? お父さんの生まれ変わり。
「あたしはね、ってゆーかあたしたちは、なんてゆーかな、ん……とね、悪魔
って呼ばれたりするわ」
黒服の台詞が思い出される。たしか……
「マクスウェルの悪魔?」
エントロピー増大の法則を無視できる存在。しかし……
「そーゆーふーにゆー人もいるわ」
いったいどういう事なんだ?
「じゃぁ、人間じゃ……」
「うん」
「……ないんだな」
どう見ても、そこらにいそうな小学三、四年ほどの女の子。でしかないのに。
と言うことは、黒服どもは。
「あの黒服連中は」
「あたしが倒したわ。消しちゃったの。あ、あれも人間じゃないから」
どういう事だ? くそ、さっきから同じ事ばかり考えている。
「あれも悪魔なのか?」
とすればあの妙な技も納得がいかないこともない。
「うんん。あれは人形。退魔師とかゆー連中のおもちゃ」
おもちゃにしては強すぎるような気もするが。いや、この際今まで保持して
いた常識を棚の上にしまっとくのがいいんだろう。頭に入れておくべき事は、
とりあえず退魔師とか言う職種(?)がこの世にあるという事だ。退魔師は祀
穂理のような悪魔にはたぶん天敵なんだろう。何事も無敵という訳には行かな
い物だ。
おやおや、何かこの状況に適応してきたような気がする。
「了解。あの連中は、祀穂理が消したという事ね」
さっきの台詞。
「で、契約ってどういう事だ? 魂を引き替えに、って奴か?」
困ったような顔。
「最初から話すね。あたしの使える力、昔は魔力なんてゆってたし、今の人た
ちは非科学力なんてゆったりもするわ。これ、そこにいるってゆー存在を消費
してるの」
「存在?」
「あたしたち悪魔は、ほとんど存在していないの。だから、力をほとんど使う
ことが出来ない」
そこに……いるように見えるが。
「存在ってのは、居続けている力。何十年も安定して存在している人間と違っ
て、あたしたちの存在は、次の一瞬に自分の存在を送り出して再構成すること
でぎりぎりな分しかないの。だから、あたしは力を使えない」
「それと契約と……」
尋ねかけて気付く。
「そうか、それで」
「そう、だからあたしたちは契約を結ぶの。あたしたちは契約を受けてくれる
人間のために力を使う。その代わり、あたしたちは契約してくれた人の存在を
力の源として使える」
……さっきから、口調が少し変わっている。外見よりも大人びた口調に。
もしかすると、祀穂理は見かけ通りの年齢ではないのではなかろうか。
ま、いーや、どーでも。
祀穂理の方に、笑みを向けてやる。
「OK。だいたいのことは理解した。で、ほかの連中の目に見えない様にして
いることは出来るのか?」
今度は祀穂理が戸惑う番。
「出来るけど……ってゆーかぁ、普通の人の眼には最初っから見えないけど……」
ならいい。
「好都合。んなことのためにいちいち寿命使ってちゃやってらんねぇからな」
「え? どういうこと? 契約なら、解除するよ?」
まだ判ってねぇな。祀穂理。
「解約はしない。安全が確保できるまでここに居ろと言っている」
昔果たせなかった義務のために。
「りょーちゃん!」
腕にしがみついてくる。泣いているのか?
祀穂理ごと、立ち上がる。
「ホットカルピス、飲むか?」
そして自分用にはコーヒーをいれよう。とびきり苦い奴を。