コロブチカ
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1 暑い日だった。
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 暑い日だった。
 この先進国日本じゃ一般家庭の屋内を吹きぬけているに違いないクーラーの
風は、今日も狭っ苦しい穴蔵のようなこのワンルームの学生マンションの部屋
の中には届かなかった。
 自分の存在の密度が熱膨張のために希薄になってゆくような感覚。何もかも
が不在のまま過ぎて行くことに、わたしは耐えられなくなりつつあった。
 夏の日というのは、いや、わたしとそれを取り巻く世の中のことは、全て、
そういうもんなのかもしれない。
 希薄に、何もかもが薄れていく。
 わたしの体を薄く堅く覆う皮膚は汗を薄くまんべんなく放出してじっとりと
湿っていた。まだ何も起こらない。いや、何が起こっているにしろ、世界で起
こっている諸々のことはわたしと位相が異なっているというだけのことに違い
ないのだ。
 そして、三枚縦に並べて敷き布団代わりにしていた座布団は、わたしの汗を
たっぷりと吸い込んでじっとりと湿っていた。何日も何日も前からオート・リ
ピート・モードになったままでかかり続けているCDがすでにイントロの部分
からラストのフェイド・アウトの長さまでおぼえてしまった中島みゆきのベス
トアルバムをたれ流し続けている。概算にしてざっと一週間ぐらいかかる見込
みで計算をさせたまま放ってあるパソコンが計算の途中結果を記録するべくハ
ードディスクにアクセスする小さな金属音が二十秒置きに一回ぐらいの割合で
小さく聞こえる。
 頚の筋肉に力を入れて頭をわずかに動かすと枕の中に詰まっている蕎麦殻が
鈍くざらついた音を立てる。
 ゆっくりと扇風機の首がこちらを向く。ビニル製の透明な袋型容器の中から
半分だけ顔を出したティッシュペーパーが揺れる。ふと、テーブル代わりの家
具調コタツの上に視線をやる。昨夜、コンビニで見かけて買ってみた新商品、
78円の廉価版コーラの空き缶に数匹の蟻が群がっている。とはいえ、どうせ
この部屋には蟻の餌になるような物はほとんどない。どうせ放っておけば居な
くなるのだ。蟻も餌のないところには長居はしない。誰も利益のないことはし
ない。
 テーブルの上は本と紙屑と文房具とその他一口では言い表せないゴミ、小物
類の山。天井の白い凹凸に綿埃がひとつ引っかかっているのが視野の片隅には
いる。扇風機による空気の撹拌につれて震えるが、落ちそうでいて落ちない。
 右のこめかみの少し上辺りに軽い頭痛がする。重い。その重さは首か肩かど
こかその辺りにまで根っこを張っているように感じる。右手で、左頚と肩の付
け根の筋肉を揉む。揉まれた筋肉への振動が直接こめかみに響いてわずかに心
地よい。
 今は何時だろう。心の中で無意識に避けようとしていた問題に立ち返る。
 事務机の上にあったはずが、どこをどう転がって落ちたのやら床で向こう側
を向いて逆立ちをしている黒い目覚まし時計の方に右脚を伸ばす。角の辺りを
つついて裏返し、文字盤が見えるようにする。
 二時半過ぎ。もちろん昼間だ。
 秒針が間欠的な動きで蛍光色の10の文字の上をゆっくりと通過する。
 ティッシュを一枚とって、鼻をかむ。取りあえずのごみ箱代わりにしていた
大学生協のビニール袋はすでに正体を失ったもので一杯になっている。
 わたしはテーブルの下に佇んでいるセブンイレブンのビニール袋を引っぱり
出して鼻をかんだティッシュを突っ込む。そんな風にしてごみ箱代わりになっ
て捨てられるのを待っているビニール袋がいくつもいくつも視界に入ってくる。
 そう言えば今日もゴミの日だったな……。脈絡もなくそういうことを思い付
く。今日もまた、ゴミを捨てそこなってしまった。
 そして、なんの前触れもなく冷蔵庫が身震いをした。
 部屋に満ちて空気の一部と化していたノイズの一つが唐突に失われる。意味
のよく判らない喪失感。
 首を軽くひねりながら上半身を起こす。腰に鈍い痛みが走る。
「もうトシなんだから」冗談めいた彼女の声が脳裏に蘇る。
 伸びをするようにしてテーブルの向こうに置いてある背の高い電話台の上の
留守電にチェックを入れる。伝言を示す赤ランプが一つだけ点いている。わた
しの部屋にある留守電の赤ランプはわたし自身の知らないこの部屋の過去世界
の実相を0、1、2、3、4、5以上、計6個の情報に分断する。
 たとえ重要ではないであろう物であっても、何かを踏まなくては留守電に手
が届くところには行き着けない。
 わたしは情報を摂取しなくては生きて行けない。留守電が守銭奴のように貯
め込んだ情報を音として吐き出させなくてはならない。
 踏みつけるべき場所は少なくともCDの無い場所、本のない場所、その他壊
れ物や堅くて足を傷つける物のない場所だ。そしてそれはわたしの向かうべき
方向になくてはならない。
 条件に適合するように見える場所にそっと足を降ろす。古びきって黄色く変
色した新聞紙の上に。
 乾ききった紙の潰れる音。
 その足を軸にして、バランスを取る。留守電に左手を伸ばす。留守電の再生
ボタンはタッチ式だ。指が触れたか触れないかが感触として伝わってくる前に
電子音がなる。
 数秒のテープを巻き戻すために生じるタイムラグを置いてからノイズが流れ
出す。
 女の声。
 少し舌足らずの甘ったるい感じの声。
 聞き覚えがあるような無いような。そしてその声は、「あ、あたしです」と
いっただけで声だけでこっちが誰か判るはずだとばかりに何も名乗らずに「今、
京都駅に着いたとこでね」と告げ、「留守な様だからまた後から電話するから
ね」と言って唐突に切れていた。直後に安っぽい電子合成音声が「午後一時二
十三分です」と情報を伝えて、テープは回転を止めた。
 時刻からするとわたしが寝ている間のものらしい。
 誰だ? わたしは自慢にはならないがあまり耳のいい方ではない。特に電話
での人の声となると誰の声やらさえ区別できないのだ。もっともこの声が女の
子の声であることぐらいは聞き分けられるのだが。
 なんとはなしに天井の方を見上げながら心当たりを探る。
 とりあえずああいう話し方。そして口調。やはり思い当たらない。
 少なくとも、京都駅に今着いたと言っている以上は、この京都に在住してい
るわけではないだろうし、実家の方、地元の知り合いにはほとんど女の子は含
まれてはいない。今までにも旅先で、ひょんな事から出逢った娘に京都に来る
んなら寄ってみてくれと言ってみたことは何度と無くあるが、今度来ると言っ
てた娘はいなかったと思ったが。
 それはそうだ。もし女の子がやってくる予定があったりしたならば、こんな
風に部屋の中を足の踏み場もないほどの老廃物とがらくたで一杯にしておくは
ずもない。
 どう考えても出そうな結論は、間違い電話かそうじゃなければそれはわたし
のよく知っている女の子ではない……予想外の女の子であるに違いないという
ことぐらいだけだった。
 仮にそうだったとしても、もう一度電話がかかってきたら外で会うことにす
ればよい。
 わたしは、この部屋を片づけることを半ば諦めつつそう考えた。
 何しろ、本が多すぎる。人は本のみにて生きるにあらず。まあ、真実だ。
 わたしは、冬はコタツとなるテーブルの上に不安定そうに積み上がげられた
本の中から読み差しで転がしてあった一冊を拾い上げて元の位置に戻った。
 汗を吸い込んでじんめりとしている座布団の上に腰を下ろしながら、さっき
踏みつけた新聞の日付に目をやる。古い。そしてそれは偶然にも前にここにい
た彼女が最後に読んでいった新聞だった。
 わたしはふと吐息をつく。あれから片付けていないのか。
 散乱しているチラシの端がわたしの吐息を浴びてふるえる。
 少々手垢の付いた設定のコミカルなファンタジーの文庫本を中程からいきな
り開いてみる。悪くはない。ただそれだけだが。そのまま、本棚の側面に寄り
掛かる。二シーンほど、数ページが過ぎ去った辺りで、わたしは、活字から目
を離した。
 安っぽい造りのコンクリの廊下を歩く硬質の音が響く。わたしの部屋の中空
の薄い金属製の扉を通すとどんな音も反響して安っぽく響く。足音は近づいて
くる。水道のメーターを覆う金属製の蓋を踏みつける音。体重はさほど重い人
物ではない。そして停まる。わたしの部屋の前だった。それからしばらくの間
をおいて、部屋の中に向けて遠慮がちなノックの音が響いた。おそらく本人は
そっと叩いているつもりなのだろうが、内側には驚くほど大きく響く。
 わたしはうんざりした声で少し待つようにと最低限の礼儀しか保っていない
声で返事をした。どうせ、新聞の集金人か誰かだ。月末でもあるし。
 とりあえずわたしの今の恰好は変質者の謗りを受けずに社会生活を送りたけ
れば、たとえ外にいるのが宗教の勧誘人であったとしても見せていいようなも
のではなかった。そこら辺に投げ出されて散らかっているズボンの中からまだ
ましそうな物を選んで足を突っ込む。一応Tシャツを着る。それまではなんと
もはやトランクス一丁だったのだ。
 例によって危ない物を踏まないように扉の方に移動する。
 ひじの外側が蚊か何かに喰われているらしく、無性にかゆい。
 はい、只今とか何とか口の中でもごもご言いながらチェーンをしたまま扉を
開ける。
 いない? いや、それは錯覚で、外開きの扉の影になる方に訪問者は立って
いた。薄目の紺色のジーンズに白いワイシャツ(いや、女性の着てるのはブラ
ウスと言うんだったろうか? まあいい。所詮、女性の洋服のことなぞはわた
しにはよく判らないのだ)を着た肩甲骨の下ぐらいまでの髪をまっすぐに伸ば
した若い女だった。見たとこわたしと同年輩、つまり二十歳前後でおまけにか
なりの可愛い顔立ちだった。
 そして、問題なことにわたしには見覚えがなかった。
 否、何となくどこかで会ったような気はするものの、名前もどこで会ったか
も思い出せないと言った方が正確だろう。
 わたしは取り合えず当惑して女が何か言い出すのを待った。
 わたしの反応を見定めるように少しの間をおいて、女は悪戯っぽく笑いなが
ら、「川部さん、お久しぶり」と切り出して頭を軽く下げた。
 わたしは意表を突かれたかたちで少し黙った。何と言っていいのか返答に困
る。
 わたしの困っている顔を見かねたのか、女は片耳だけにぶら下げているイヤ
リングを外して見せてくれて、「憶えてません?」と軽く小首を傾げた。
 蒼い、透き通った長細いスッキリした形にカットされた石のイヤリング。
 そのイヤリングの発する反射する透き通った光線にわたしはようやくのこと
で女のことを思いだすことができた。
 一ヶ月ぐらいだったか前、悪友の蘆田と二人で百万遍をちょっと上がったと
ころにある店に飲みに行った帰り道に会った女だった。そもそもがまっとうな
出会い方ではない。したたかに酔っぱらいきってわたしは更に北の方に帰る蘆
田と別れて東大路をゆっくりと南にある自分の安マンションの一室に帰ろうと
していた。
 女に出逢ったのはそんな酔っぱらいにとっての黄昏時、もう明け方近い時刻
だった。彼女は、わたしの住む安マンションに続く細い裏路地の入り口の脇の
植え込みにもたれるようにして酔いつぶれてぶっ倒れていたのだ。
 わたしはこんな所で死なれちゃ後味が悪いと自分の部屋の入り口のところま
で女をかつぎ込み、水を何杯か飲ませて毛布をかぶせてやり、そのまま自分は
万年床に入って酔いつぶれた。次にわたしが目を覚ましたときにはもう昼過ぎ
で、女の姿はもう無かったのだ。ただそれだけの何とも関係とも言えない関係
だった。
 女に対して口の中でもごもごとうやむやな返事をする。
 ふと、思い出す物があったので、「ちょっと待っててくれませんか」と言い
残して、わたしは部屋の中にとって返した。
 わたしの部屋の突き当たりの一角を一畳分ほどに渡って占拠している巨大な
事務用机の一番上の引き出しの中から、女の忘れ物、蒼い石のイヤリングのも
う片方を取り出した。女の片耳に下がっていたものと同じものだった。
 わたしはそれを女に向かって差し出しながら、きつすぎる口調にならないよ
うに気を付けながら「これですか?」と尋ねた。
 女は一瞬意外そうな顔をしたあと、ふと気がついたように「ありがと」と微
笑んだ。そのあと、少し真顔になって、部屋に上がらしてもらっていいかしら
と尋ねかけてきた。
 わたしは、困惑して、少し待っていてほしい、ととっさに口を滑らせてしま
った。思わずそう言ってしまったあとで、女を部屋に入れるには片付けるべき
ものが異常に多いことを思い出した。
 まいった……。
 とはいえ、今さら話なら外へ行って聞く、と言い直すのもなんだし。
 わたしは女の方に向き直って、片付けるまで少しばかり待ってもらってくれ
 ていてもいいかと尋ねた。女はちょっとばかりの笑みをこぼしながら、そこ
で待っていると答えた。
 わたしは、取り急ぎ、洗濯されるべき物どもを洋服ダンスの中に押し込み、
扇情的な表紙の男性雑誌の束を段ボール箱の中に放り込んだ。
 流しは……洗い物でいっぱいだが、それを片している暇はないようだ。
 部屋中に散らばりきった新聞紙をまとめてゴミ箱代わりのバケツの中に突っ
込む。人間一人が入ることの出来るスペースだけはなんとか空く。
 部屋の中に匂いが少し篭もっている気がして、洗い物のたっぷり詰まった流
しの上にある換気扇の紐を強く引いて強にセットする。使い古されてぺしゃん
こに潰れている上に汗を吸って湿っぽくなっている座布団を、手で軽くはたい
てそのスペースに設置する。
 それ以上の片付けをすることにじんわりとした徒労感を憶える。諦めの境地
に達するのには数瞬で済む。
 わたしは、扉を開いて女を迎え入れた。
 わたしが「まぁ、汚い部屋だけど」と、言い訳のように言うと、彼女は小さ
く笑った。そういえば、女が最初に部屋に入ったときのこの部屋の様子から言
ってもこれが必死に片付けた結果だと言うことは一目で推測できるはずだった。
 座布団の上に腰を落ちつけた女との間が持たなくなったわたしは、「お茶で
も飲むかい」と聞いていた。
 女が幸い頷いてくれたので、しばらくだけ間が持った。
 わたしが狭く片づいていない流しを不器用に使って番茶を入れている間、女
は座布団に座ったまま何もしていないようだった。
 何をしに来たのか、本当に判らない。
 それでも、前の手ひどい失恋の傷がようやく癒えつつあり、人嫌いの仮面を
かぶった寂しさの病に犯されつつあったわたしには、女の奇妙な図々しさがほ
んの少しばかり心地よく感じられたこともまた事実だった。しかし、わたしが、
茶渋の痕が底から消えなくなってしまったティーカップに番茶を入れて出すと、
本格的に女との話題が無くなってしまった。
 わたしは、ここに来た理由についての話について女の方から自発的に口にす
るのを期待してしばらくの沈黙を耐えて待った。女は、ゆっくりと番茶を飲ん
でいた。この女について知っていることは何もないのだ。
 わたしはゆっくりと、失礼にならない程度に控えめに、女の様子を観察した。
 わたしから出来る話と言えば、当たり障りのない世間話ぐらいしかない。そ
れすらも、ここ数カ月間のテレビもラジオもない生活の期間のうちに時代遅れ
になっているのだから。
 間合いの取り方が判っていないのだ。
 そして、わたしが、何度か目に頭をかいたときに、不意に電話が鳴った。
 女の後ろにある電話に、頭越しに手を伸ばして取る。
「はい、もしもし川部ですが」
 わたしがそう答えた途端に確かにあの留守電に入っていた声が答えた。
「あ、居ましたぁ。よかったぁ。今からそっち行くから。んじゃぁね!」
 こちらが声を出す暇もなく続いて回線の切れる音。そしてすでに切れている
ことを示す断続音。
 今のはなんだったんだ? 一体全体。
 少々呆然としている私に、女は何かを言いたそうな視線を送っている。
 わたしは、女にかなりの気まずさを感じていた。
「んっと……」
 とりあえずそう声を発して、何を言うべきかに迷う。
 わたしの困惑の表情を見て取ったのだろう。女は柔らかめの笑みを浮かべる。
「あのさ、あたしの名前。訊かなくていいの?」
 女がそう尋ねて。
「そういえば、まだ教えてもらっていない」
 そう答える。そう答えるしかない。
 女はまだ何も話そうとはしてくれてはいないのだ。
 女は、わたしの返答がとてつもなく間の抜けているものであるという事を受
けてか、くつくつと笑いをこぼす。
「ホント、変な人ね。まったく」
 変であるかどうかはともかく、間抜けであることには自覚がある。
 しかし、どうもその点が女のお気には召したようだった。その笑いをこぼし
ながら、女は続ける。
「あたしはね、舞花。舞う花で舞花。佐野舞花っていうのよ。舞花って呼んで
かまわないわ」
 舞花。だが、他人をいきなりファーストネームで呼ぶ習慣は持ち合わせてい
ない。
「そういう事で、あたしもあなたを良一と呼ばせてもらうから」
 こちらの名前は先刻ご存じというわけだ。

                          (つづくのだろーか)

mailto:不観樹 露生
不観樹露生的
不観樹露生的小説