カール大帝の子ルイ敬虔王{けいけんおう}の後継者をめぐって、その3子が激しく争い、841年フォンテーネの戦いののち、843年ヴェルダン条約が結ばれた。このとき、帝国はイタリア(ロンバルド王国)と中部フランク、東部フランク、西部フランクに3分割された。さらに、ルイの後継者でイタリアと中部フランクを支配していた皇帝ロタールの死後、たび重なる相続の末、中部フランクは分割されて東・西フランクに併合された。これが870年メルセン条約である。この両条約は、それまでたびたびゲルマン社会でみられた分割相続の一例にすぎない。しかし、東西フランクの境界線がドイツ語・フランス語の言語境界線で定められているように、それぞれの地域に住む人びとの民族性の相違・歴史的伝統が考慮されていることは、注目に値(あたい)する。いいかえれば、両条約によるフランクの3分割は比較的自然であり、合理的であって、これを母体として、東フランク(ドイツ)・西フランク(フランス)・イタリア3国の個別的国家形成がはじまった。
王の資格 タキトゥス『ゲルマニア』には「彼ら(ゲルマン人)は、王を家柄にもとづき、将軍を武勇にもとづいて選出する。」とあり、家柄、つまり血統とともに、選挙が重要視されていた。血統の原理と選挙の原理は、もともと互いに対立する性質のものである。王の立場からすれば血統原理がのぞましく、他の封建領主の立場からすれば選挙原理がのぞましかった。じっさいに、王の力が強いときや王国が安定しているときは血統原理が強く作用し、その反対に王の力が弱いときや王国が混乱しているときは選挙原理が強く作用している。カール大帝も、晩年に息子ルイ敬虔王を皇帝にして共同統治をおこなっているが、これも自分が元気なうちに息子の地位を安定させておこうしたからだ。しかし、ノルマン民族の侵入やフランク分裂という事態によって王の力が弱くなると、貴族はもちろん、教会も「選挙による全員一致の決定は神の意志を示したものである」と、選挙原理を支持する立場をとるようになった。もともと独身が原則の聖職者たちは、教皇などの高い地位の人を選挙で選出していたからである。こうして、887年に東フランク(ドイツ)で、888年に西フランク(フランス)で、それぞれカロリング家以外のものが国王に選出されたのである。
主従関係の成立(託身と忠誠の宣誓)
【託身(コメンダチオ】
主君「あなたは、私の家臣であることを望むか?」、臣下「私は、それを望みます。」、
(臣下、両手を差し出す。主君、その両手を自分の両手で包むように握る。2人はキスをする。)
【忠誠の宣誓(オマージュ)】
臣下は、立ったまま聖書に手を置いて、次のように述べて、主君への忠誠を宣誓する。「私は、誠心誠意、フランドル伯様の家臣として忠誠を尽くします。」
このあと、フランドル伯は、自分に忠誠を尽くしたすべての人に知行権を与えた。
(ガルベール=ド=ブルージュ著『フランドル伯・シャルル伯暗殺の歴史』、1127年)
【解説】 フランク王国は、イスラム軍の騎馬隊に対抗するために重装騎兵を組織した。その構成員である騎士こそ、中世の農村・都市を支配した地方の領主であり、さらには王や公・侯・伯・子・男などの貴族にのしあがる階級である(日本では、同じ語でも、中世ヨーロッパの爵位を訳すときには「爵」をつけず、近世以後には「爵」をつける風習がある)。領主である騎士は、領内を支配するため、平野部の交通の要所に城を築く。城は領主の居所・政庁・裁判所であり、敵が攻めてきたときに農民・都市民が逃げ込む避難場所でもある。騎士は農民・都市民から租税を徴収し、農民は騎士によって日常生活上の平和と安全を保護されていた。とはいうものの、大小の戦争がいつでもどこでもおきている。騎士の領主としての地位や支配権も永久に保証されたものではない。そこで、騎士の多くは、他の有力な騎士(国王、貴族クラスの騎士、あるいは自分と同じレベルの騎士)と軍事同盟を結んでこうした危機から逃れようとした。それは、主従関係(封建関係)を結ぶという形が一般的だった。中世ヨーロッパの封建制では、臣下が主君に対して一方的に服従する必要はまったくなかった(双務的主従関係)。双務的主従関係においてもっとも重視されるのは「契約」である。契約では、まず、主君も臣下もお互いに相手を決して裏切らないことを誓う。そして、詳細な契約書が作成される。あとはその契約を忠実にまもるだけで、契約以外のことをする必要はまったくない。たとえば、「2日行程の範囲まで出陣する」という取り決めがあった場合、臣下はどんなに戦闘が激しくなっても、3日目になるとさっさと戦場を抜け出して領地に帰ってもよかった。また、一人の臣下が同時に何人もの主君をもつこともみられた。軍役を例にとれば、1年間の軍役奉仕期間の合計が365日に達するまで、いくらでも主君をもてることになる。これでは、国王を頂点とするピラミッド型の支配組織ができるはずがない。中世ヨーロッパの国王の力は絶対的なものではなく、ときには国王でさえ、他の人物の臣下となることもあった(たとえばイギリス国王は、フランスにもっている領地ではフランス国王の臣下だった)。中世ヨーロッパの封建社会は、あちこちに独立の権力主体である封建領主=騎士が成長し、それらの封建領主がおたがいにごちゃごちゃの契約を結んでいる社会だといえる。
キリスト教と騎士道
実力主義のなかで独立の気風をもつ中世ヨーロッパの騎士は、武勇を重んじるあまり、場合によっては野蛮でさえあった。主君との関係でいえば、双務的な関係だったので、日本の武士道のような主君に対する忠誠という思想は発達しなかった。こうした騎士に思想面で大きな影響を与えたのがキリスト教である。キリスト教は、もともとローマ帝国の迫害をうけた時代には戦争を悪魔的な行為として批判していたが、ローマ帝国に公認されると、戦争そのものは悪いが、異教徒との戦いやキリスト教徒をまもるための戦争は「正義の戦争」であると主張するようになった。さらに11世紀末からはじまる十字軍では、イスラム教徒との戦いがキリスト教徒である騎士の最高の義務と主張する。
キリスト教にもとづく騎士のモラル、それが「騎士道」である。騎士道の特色に、身分の高い女性への奉仕がある。これは、キリストの聖母マリアや多くの聖女に対する崇拝からおこったもので、騎士に任命されるときの誓いのなかに女性への保護が加えられた。日常の軍事訓練として行なわれた馬上武芸試合(トーナメント)では、場合によっては死傷者が出たが、騎士たちは観客として居並ぶ女性たちの前で武芸を競い合った。また、騎士と貴婦人とを題材とする多くのラブロマンスも生まれた。13世紀の詩では、騎士の4つの義務を次のようにいっている。分別のない行為や裏切りをしないこと、女性を尊重すること、毎日ミサに参加すること、金曜日は断食をすること。
中世ヨーロッパの騎士が華々しく活躍するのは、11世紀から13世紀のことである。その後、14世紀にはじまる百年戦争、それに続くばら戦争、そして17世紀の三十年戦争を通して、戦争方法も変化し(鉄砲の登場、一騎うち戦法がすたれた)、騎士は活躍する場を失っていくのである。イングランド(イギリス)では、騎士は地主(ジェントリ)としてその後も力をもち、議会で「シャイァの騎士」として議席を占め、騎士階級を今日に伝えている。