カール戴冠
●シャルル=マーニュ王(カール大帝)の西ローマ皇帝戴冠(800年)
「王はクリスマスの日にミサに列席するため(ローマの)聖ピエトロ寺院におもむいた。彼が祈りをするため祭壇の前にひざまずいたとき、『神によって冠を授けられた、偉大で、平和をもたらすローマ皇帝、気高きカールに、生命と勝利を与えたまえ!』という満場のローマ市民の歓呼がわきおこり、教皇レオ3世が王のそばによってきて、皇帝の冠を彼の頭上においた。歓呼がおさまると、昔からの慣習に従って、カールは教皇の臣従礼を受けた。これ以後、彼は東ローマ皇帝から授けられたパトリキウスの称号をやめて、カエサル=アウグストゥスの称号を受けることになった。」(フランク王国の王室年代記より)
シャルル=マーニュ(カール大帝)が歴史上果たしたことは、(1)ほとんど全てのゲルマン諸民族を一つの帝国、一つの宗教に統合したこと、(2)西ローマ帝国皇帝としてイタリアを支配し、ローマ教皇を保護したこと。これによって、教会も王国も東ローマ(ビザンツ)帝国から完全に独立する体制を整えたこと、(3)農業中心の経済システムによる支配体制をつくり、官僚組織による集権国家を整備したこと、(4)ローマ文化、キリスト教、ゲルマン民族の精神をあわせた文化をうみだしたこと(カロリング=ルネサンス)、などをあげることができる。
西ローマ帝国滅亡(476年)のあとも、ヨーロッパ世界はビザンツ帝国を中心とする秩序を保っていた。まだ、「古代」は終わっていなかった。しかし、7世紀後半から8世紀前半にかけて、イスラム教徒が北アフリカやイベリア半島を支配するようになり、西ヨーロッパは、ビザンツ帝国との政治的なつながりや地中海貿易から遮断され、土地ばかりの陸地に閉じ込められてしまった。農業に依存する経済社会が出現し、封建制度が生まれた。また、孤立したローマ教会も西ヨーロッパ諸国と提携するようになった。こうして、ヨーロッパの中心は、地中海からアルプスをこえたガリアやゲルマニアに移動したのである。20世紀最大の歴史家といわれるアンリ=ピレンヌ(ベルギー、1862−1935年)はいう。「マホメット(ムハンマド)なくして、シャルル=マーニュなし」と。
シャルル=マーニュ(カール大帝)
ピピン3世の子。742年−814年。シャルルはフランス語。ドイツ語でカール、英語でチャールズ、スペイン語でカルロス。フランク王(在位768−814年)、西ローマ皇帝(在位800年−814年)。西ヨーロッパを50年近くにわたって支配する。イングランドの学者アルクィンをまねき、首都アーヘンに宮廷学校をつくる。カール自身、母国語ドイツ=アウストラシア語、ラテン語が得意で、数学、天文学、占星学にも深い興味をもった。こうした文芸・学問興隆を、「カロリング=ルネサンス」という。彼には逸話が多い。生涯通じて女好きで、正式な妻は4人、お妾や私生児も数知れず。晩年は少女を追い回し、教会に逃げ込んだ彼女の腕を折ってしまい、それを後悔するという話もある(少女は、腕を神に直してもらい、聖女扱いされる)。自分の娘たちを可愛がり、死ぬまで一人も結婚させなかった。カールの帝国はヨーロッパ史でも空前絶後の広さをほこるが、その死後、大きく3つに分裂する(フランス、ドイツ、イタリアの原型)。これは、もともとゲルマンの王が、領域内の地方豪族や人民に強い支配権を確立しておらず、法令もその王1代限りとみなされていたからである。
●フランス叙事詩『ローランの歌』のなかで、シャルルマーニュは、異教徒(イスラム教徒)との戦いに明け暮れる200歳をこえる王として実名で登場する。彼のスペイン遠征の帰途、最後尾のしんがり軍にバスク人(スペインの原住民)が襲いかかり、英雄ローランをはじめとする部隊が全滅する(実話をモチーフにしている)。その復讐を終えたシャルル=マーニュの枕元に、天使ガブリエルが神の使いとしてあらわれて、再度、イスラム軍と戦うよう告げる。年老いた王の気は重い。そして、「さても、さても、労苦の多きわが世かな(私の人生は、本当に苦労の多い人生だ)」と、目に涙を浮かべて白い髯をしごきながらいうのであった。