ゲルマン諸王朝の興亡
タキトゥス『ゲルマニア』
「彼らは、王を家柄にもとづき、将軍を武勇にもとづいて選出する。…将軍の地位は、権勢よりも人々の模範になる人物が選ばれる。…小さなことは首長たちが、大きなことは人民全体で決める。…予期しない緊急の事態がおこらない限り、彼らは一定の時期すなわち新月あるいは満月のときに集会を開く。…(集会では)王、首長たちが年齢、未分、戦功に応じて語る。それは、命令的なものではなく、相手を説得するような口調である。人々はもしその意見が気にいらなければ、ざわめきによって拒否する。…もし気にいれば、フラメイア(敵に投げつける槍状の武器)を打ち鳴らす。…戦争の際は、戦士の戦うそばで母・妻・子も声援したり、傷の手当てをする。…彼らは、農業社会ではもっとも重要でよろこびの季節である収穫期、「秋」の名を知らない。
【解説】 「するどい空色(青色)の眼、黄赤色の頭髪、長大(な身体)」を特徴とするゲルマン人は、人種的には北方系コーカソイドに属する。中部ドイツの「戦斧民」とよばれるものが北上して「巨石民」と融合して、新石器時代末期にバルト海沿岸に居住した人々ではないかといわれている。彼らのうちの一部(東西ゲルマン人)は前4世紀−前3世紀に南進運動を続け、ゲルマニアに住むようになり、ケルト人やスラブ人を圧迫し、前2世紀末よりしばしばローマ軍と衝突するにいたった。こうして、ローマ人の著作(前1世紀のカエサル『ガリア戦記』、後1世紀のタキトゥス『ゲルマニア』など)にゲルマン人があらわれるようになる。それらによると、古ゲルマン社会は、基本的に牧畜経済社会であり、農業は存在したものの、あくまでも副次的なものだった。ゲルマニアには50余りの氏族国家(キヴィタス)が存在したが、それぞれのキヴィタスは土地を中心に経済的に結合した集団ではなく、軍事上の人的結合集団であった。キヴィタスには王制をとるものや首長の合議制にもとづくものがあったが、人民の集会(民会)が最高議決機関であった。キヴィタスにはガウ、フンデントシャフトとよばれる下部組織もあり、前者は下級の行政機関、後者は下級の軍隊・裁判の単位だと思われる。こうした50余りのキヴィタスは、民族大移動期(4世紀−6世紀)に、わずか10余りの種族王国(シュタム)に統合されていく。そして、軍事的に優れた人物が、王になる資格(=家柄)をもつようになっていったと思われる。(『世界歴史事典』、平凡社参照)
レックス(REX)たちの夢と野望
●西ゴート族のアラリック、アタウルフ、ワリア
378年、アドリアノープルの海戦でローマ帝国と戦い、皇帝ウァレンスを戦死させた西ゴート族は、アラリック(370年頃−410年)のとき、410年にローマを一時占領するがその直後死去する。彼の義弟アタウルフは、アルプスをこえてガリアを征服。ローマ皇帝テオドシウスの娘ガラ=プラキディア(ローマ占領時に連れ去られていた)と結婚するが、415年、家来に殺される。その後継者ワリアは、3年後、南フランスのトゥールーズを首都に西ゴート王国を樹立する。ゲルマン民族がローマ帝国領内につくった最初の王国である。プラキディアは、その後、西ローマ皇帝コンスタンティウス3世と結婚し、生まれた息子を皇帝の位につけ、みずから摂政もつとめた。
●フン族のアッティラ
フン族は、中央アジアに住んでいたトルコ系遊牧民である。秦の始皇帝以後の中国と戦った匈奴の子孫とする説もある。5世紀前半、アッティラのとき、ハンガリーを中心に、ライン河畔のドイツからカスピ海、中国国境にいたる広大な地域を支配した(フン帝国)。『ローマ帝国衰亡史』の著書ギボンは、彼を「狩猟、羊飼などをして暮らす蛮族側の最高唯一の王者」といっている。さらにゲルマン民族の東ゴート、ゲピード、アラマン、フランクなどを従えて東西ローマ帝国をおびやかすが、451年、西ローマ帝国・西ゴート王国の連合軍とカタラウヌム平原で戦い、敗北。453年、何人目かの嫁との婚礼の夜、泥酔して大量の鼻血を出して死んだ。
●西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケル
ゲルマン出身。どの部族出身かは不明。30歳の頃にローマ軍の軍隊に入り、傭兵隊長とる。476年、皇帝ロムルスを退位させ、西ローマ帝国を滅亡に導く。彼はイタリアに住むゲルマン人に対しては王(レックス)を名乗ったが、東ローマ皇帝を宗主国とあおぎ、478年、皇帝ゼノンから「総督」(パトリキウス)の称号を授けられた。彼もまた、他のゲルマン民族の王と同じく、ゲルマンの王であることよりもローマ帝国における名誉職をのぞんだ。彼のイタリア支配も西ローマ帝国の諸制度をほぼ継承していた。やがて東ゴート王テオドリックと戦い、494年、暗殺される。
●東ゴート族のテオドリック大王
456年−526年。東ゴート王。大移動期のゲルマン王のなかでも優れた人物で、ドイツ叙事詩『ニーベルンゲンの歌』に登場する英雄「ベルンのディートリッヒ」のモデルである。幼年期を人質として東ローマ帝国の都コンスタンティノープルで過ごす。484年、東ローマ皇帝ゼノンから「執政官」(統領、コンスル)に任命され、オドアケル暗殺後は「パトリキウスおよび東ゴート人の王」に任命される。ラヴェンナに首都を築き、甥アラマリッヒの後見人として西ゴート王国をも支配した。学問、芸術を保護し、ローマ人を重要な高官に取り立て、イタリアに繁栄と平和をもたらした。大王の死後、王国の勢力は急速に衰え、東ローマ帝国による攻撃の末、552年に滅亡した。
●フランク族のクローヴィス
15歳のとき、父のあとを継いでフランク族の首長となる。ローマ総督の軍を破って中部ガリアを支配する。フランク人の男女約3000人とともにカトリック教徒になる。507年、ガリア支配をめぐって西ゴート王国と戦って勝利をおさめ(ヴイエの戦い)、東ローマ帝国からパトリキウスとコンスルの称号を授けられ、首都をパリにおく。300年後、フランク王国が西ヨーロッパを統一する。