戦国ファンタジー
灯火が揺らぎ、影が踊った。いや、影が踊ったのではなく疲労で眼が泳いだのだろうか。
財務官の青年は手にした紙を置き、額を強く揉んだ。涙が出るほどの痛みで意識が覚醒する。
青年は丸めていた背中を伸ばした。よほどよくない姿勢のまま固まっていたのか、ばきばきと背筋が鳴る。
「ぐぅぅ」
思わずうめき声が出た。
「ハカン様」
置物のように傍らに控えていた小坊主が青年の名前を呼んだ。
名前を呼んだだけで他には何も言わない。表情にも変化はない。むっつりと不機嫌そうな顔をしている。
「うん。分かっているよ、チンシェン。そろそろ終わりだ」
それでも小坊主が何を言いたいのか、青年=ハカンには伝わったようだった。照れたような顔をしてそばに置かれた湯飲みに手を伸ばす。中に入っている白湯はすっかり冷めてしまっていた。
ちびちびと嘗めるように白湯を口に含み、ハカンは小坊主=チンシェンに問いかけた。
「今は何時頃だろうか?」
「油皿を一度交換しました。もうすぐ二度目になりますから、夜明けまで二刻(約4時間)あまりかと」
「そんなにか! やれやれ、すっかり夜なべしてしまったな」
ハカンは戦場であろうがどこだろうが常に身につけている帳面を広げ、そこに記載された数字を読みあげた。遠征時に動員された兵の数。進軍した先々で戦闘や病気で落伍した兵の数と、落とした城邑に守備隊として残した兵の数。そして傭兵や志願して新たに参加した兵の数。延々と数字を読み上げていく。
「よし、これで現在の兵数を出してくれ」
「二万一千と四百二十三です」
チンシェンが間髪を入れずに答える。ハカンはその答えにうなずいた。おおむね彼が想定していた範囲内の数字だったからだ。
「では次だ。今度は兵糧」
再びハカンが数字を読み上げていく。ときどき間があいたり、言い直したりするのは幾つかの数字に信用がないからだった。
「よし、これでどうだ」
「はい」
チンシェンがやはり即座に数字を出す。だが、数字を口にした後で瞳にわずかに迷いの色が出る。チンシェンが前に出した数字――先だってお屋形様に報告するために出した数字との差異があまりに大きかったからだ。
「そうか。うーん、やはりそうなるか」
ハカンが頭をかいた。今度もおおむね彼の想定していた範囲内の数字だった。だが実際に具体的な数字として突きつけられると心穏やかではいられない。
「しかたがない。お屋形様にお話しするしかないな」
どっこらせとハカンが立ち上がった。
「今からですか?」
お屋形様は寝ているはず。それもここ10日あまり荒野を行軍した後の、久しぶりにまともに屋根のある場所での睡眠だ。邪魔されてうれしいはずはないし、ハカンが口にするのはさらにうれしくない内容のはずだ。
「朝になったらあれやこれで後回しにされるだろうからね。今が一番いいんだ」
ハカンは帳面に新たな数字をあれこれと書き加えるとチンシェンには先に寝ているように言って部屋を出た。
廊下にはひんやりと湿った空気がただよっていた。雨でも降るのかも知れない。だとしたらますますよろしくない。
きしきしと古い板張りの廊下を歩く。さほど進むほどもなく、お屋形様が寝所としている部屋の前まで来た。
他の将軍であれば扉の前にいるはずの不寝番はいない。ここに寝ている男はそのような護衛を必要としない。
「誰だ」
案の定、部屋の中から野太い男の声がした。
「ハカンですお屋形様。ご報告したいことがありまして参上しました」
「ふん、入れ」
部屋の中は暗かった。向かいの壁に付けられた油皿の上で、灯火がじじじじと音を立てて燃えていた。
「不景気な顔をしているな」
さほど広くもない寝台の上であぐらをかいている壮年の男が揶揄するように言った。よく鍛えられた裸の上半身に、薄い夜着を袖を通さずに羽織っている。
ハカンは、男に一礼した。
「夜分失礼します。実は――」
「ああちょっと待て」
男は彼の傍らで寝具にくるまった娘の大きな尻をぺちりと叩いた。
「起きろ」
「んん……」
娘が寝ぼけた声をあげる。娘が寝返りをうった拍子に白い豊かな乳が見えてハカンは顔を赤くした。
「だめですよ旦那様。もう勘弁してくださいまし」
どこか媚びを含んだ娘の声に男が一笑する。
「馬鹿野郎。そうじゃねぇ。今夜はもういいから出て行け」
「はいはい」
娘はするりと寝台から降りると、床に散らばった服をかき集めて両手に抱えた。そして裸のままハカンの脇を通って外に出た。ハカンとしてはできるだけ娘の姿が視界に入らないようにかしこまっているしかない。
「相変わらず女は苦手なみたいだな」
「苦手というか……どう扱えばいいのか分からないだけです」
「馬鹿野郎。それを苦手というんだ」
男は寝台の脇に置かれた素焼きの壺をつかみ、そのまま口をつけて中の酒を飲んだ。ぐびぐびとのどぼとけが動く。
どん、と空になった壺を置くと男の顔から陽気で野趣あふれる雰囲気が消えた。
入れ替わりに冷酷で非情な、軍将としての顔が表に出る。
「さて、それじゃあ聞こうか。――何があった」
「はっ」
ひやりとするものを感じながら、ハカンは口を開いた。
「単刀直入に申し上げます。我が軍はただいま、累卵の危うきにあります」