『くまたんと三姉妹』
紫藤家には、三人の娘がいる。
両親にとってはいずれも可愛い我が子で、特に父親は己の存在価値のすべてと言ってもいいほどに溺愛している。
それゆえ、娘に近づく悪い虫には容赦がない。若い頃には古武道の師範代もしていたという豪の者であるからして、物理的に容赦がないのだ。
この夏にも長女にモーションをかけた大学生が父親に追いかけられたあげく、逃走に使った車ごと近くの田んぼに突っ込んで車は大破、大学生は全治二ヶ月の大けがをした事件が発生した。その車の正面にくっきりと大きな手形が残っているのは現場検証をした警察官が確認しているが、上からの指示でハンドル操作のミスということになった。
そんな父親がいたのではさぞ息苦しかろうと思われるのだが、意外とそうでもないらしい。
「あら香澄ちゃん。部活じゃなかったの?」
とある日曜日の朝。
長女の歌織(かおり)が洗濯物のカゴを持ってスリッパでぱたぱた歩きながら上の妹に言った。
「試験週間で部活は休み」
その香澄は朝から気ぜわしく立ったり座ったりを繰り返していた。お気に入りのカーディガンを羽織り、どこかにお出かけをするかのよう。
「じゃあ、お勉強しなくていいの?」
「するわよ。もちろん」
ちらちらと時計を見ながら香澄は言った。
「なるほどなるほど」
何事か思い当たるのか、うんうんと歌織はうなずいた。そして天衣無縫な笑顔を香澄に向ける。
「ベッセンのイチゴタルトがあったから出しましょうね。祐介くん、あれ好きだから」
「いやあいつは何でも食べるから……って、お姉ちゃん、なんで祐介が来るって知ってるのよっ?!」
「なんででしょうねー?」
くすくすと笑いながら、歌織は洗濯物を干しに庭にでていった。
「むー……なんで分かったんだろ」
長女と入れ替わりに、三女が居間に入ってきた。
「おはよう、華奈美(かなみ)」
「ん……」
三女の華奈美はパジャマを着たまま、眠そうな顔で座り、ミルクコーヒー(コーヒー1:ミルク4)を飲み始めた。
「だめじゃない、朝寝坊して。また夜更かししたの?」
「ちょっと」
「そんな格好じゃだめよ。もうすぐ祐介が来るから」
華奈美の動きがぴたりと止まった。
「お兄ちゃんが来るの?」
「そうよ。あなたももう中学生なんだから、ちゃんとしなさい」
「うん」
素直にうなずく華奈美。
ぽるるるる……。
呼び出し音が鳴った。
「はいはいはいはいはーいっ」
香澄が無駄にダッシュしながら壁のインターホンに向かう。
小さな液晶画面には祐介の顔が写っていた。
「祐介? 今開けるからね」
がしょん。がしょがしょがしょん。
門の扉にかけられた三重のロックが金属音を響かせてはずれていく。セコムによると通常の泥棒だけでなく、テロリストや振り込め詐欺が相手でも鉄壁の守りを提供してくれるそうだ。
くまたんが感心したようすでそれをながめる。
「おおー、すごいのじゃ」
「すごいというかなんというか。おじさんの趣味らしいんだがな」
「香澄のおじさんはいい人なのじゃー」
「そうか」
脳裏にこの家の主の姿形を思い浮かべる。背は低く、足は短く、体つきはがっしりしている。
動物にたとえるならば、熊。
「……なるほど」
門をくぐり、広い庭を歩いて母屋に到達する。
からからと母屋の玄関の扉を開く。三和土だけで6畳ぐらいある。
「おはようございます」
「おはよう祐介くん」
エプロン姿の歌織がにっこりと祐介に笑いかける。
「おはようなのじゃー」
「おはようくまたん」
くまたんが運動靴を脱ぎ捨てるようにして玄関に上がる。祐介がその靴をそろえた。
「香澄は部屋ですか?」
「ええ。私も後でお茶を持っていくから」
「お菓子も欲しいのじゃー」
「もちろんよ。おいしいのがあるから待っててね」
「がおー」
喜びの声をあげるくまたん。
くまたんと祐介が勝手知ったるなんとやらで廊下を歩いていくのを、歌織は考え深そうにながめていた。
「お母さんはくまたんのおかげで状況が動きそうだと思っているようだけど……」
くまたんはお菓子にひかれてはいたが、だからといって歌織については来ず、祐介と一緒に行った。
「これは意外と複雑になりそうね。私としてはその方がいいんだけど」
香澄と祐介の試験勉強ははじまって10分で挫折した。
くまたんのせいではない。くまたんは熱心に香澄から借りた漫画を読んでおとなしくしていた。
華奈美が自分も参加させてくれとやってきたからである。
「私も試験あるから」
そう言って、勉強道具を持ってきた華奈美の格好に、祐介の視線が釘付けとなる。ぶかぶかのタンクトップの裾から、細い美脚が伸びていたのだ。
「ちょっと華奈美、ちゃんとした格好しなさいって言ったでしょ」
「着替えたもの」
「下っ! はいてない!」
「はいているよ。ニーソックス」
正しくはオーバーニーソックス。水色の縞模様の入ったそれは、素足よりもまだエロティカルに華奈美の足を際だたせる。
「そうじゃなくて、トレーナーの下っ」
「トレーナーの?」
何気ない仕草で、華奈美がトレーナーの裾を持ち上げる。ぎりぎり隠されていたデルタ地帯がその動きによって白日の元にさらされることに――
香澄の手首がしなやかにひるがえった。手にした日本史の参考書が祐介の顔面にたたきつけられる。
「ぐあっ」
視界をふさがれ、仰向けに倒れる祐介。
「お兄ちゃん?」
駆け寄る華奈美。
「大丈夫、お兄ちゃん?」
「うん。いつものことだから」
「いつものことで悪かったわねっ! 華奈美、あなた――あれ?」
しゃがみこんだので分かったのであるが、トレーナーの下に華奈美はちゃんとショートパンツをはいていた。ぎりぎりまで短くカットされているので見えなかっただけである。
「どうしたの、香澄お姉ちゃん?」
「な、なんでもないわよっ」
そうか、その手があったのかと香澄としてはほぞをかむ思いである。だが、こういうのは一度ばれてしまえばもうそれまでだ。華奈美が上に着ているトレーナーはいかにもな安物でやぼったい。インパクトさえなくなれば自分の方が絶対に可愛く見えるはず。
「あ、華奈美ちゃん。そのトレーナーは」
「うん。お兄ちゃんに買ってもらったものよ」
「なんですってっ?!」
くわっ、と顔面夜叉になって祐介にかみつく。
「祐介、あんた私には一度も服なんて買ってくれないのにっ」
「おまえが店で欲しい欲しいっていう服って、1万円とかそんなんじゃないか。華奈美ちゃんのはスーパーで買った500円のだぞ」
「そうなの?」
「うん。でも、このトレーナー、お兄ちゃんが私のために買ってくれたものだから」
そう言ってはにかんだ華奈美が自分の身体を抱きしめるようにする。
なんだか、祐介が華奈美を抱きしめているような錯覚さえひきおこす仕草だ。
「な――」
しまった、その手もあったのかと香澄としては愕然とする。これはもうほぞをかむどころではない。ごまめの歯ぎしりである。ハナから勝負になっていない。
もはや勝負は決したかと思われたその時。
「くまたんのは祐介のお古なのじゃー」
読書を中断したくまたんが、自分のシャツを引っ張って言った。今度は華奈美が絶句する。
「はいはい、お茶の時間ですよ」
そこへティーセットとお菓子をもって歌織がやってきたので、この勝負はとりあえず水入りになったのである。
(続く)