龍の守護者外伝:夏祭り
もう二十日あまり熱帯夜が続いている。今日もまた、寝苦しい夜になるだろう。
西の空で粘っていた太陽が沈み、それでも陽光がなくなった分だけ過ごしやすくなった通りに、仕事帰りの人々があふれでる。夏休みということで、私服の少年少女の姿も多い。
中には、夏らしく浴衣を着た少女もいる。今夜は近くの神社で夏祭りがあるのだ。
浴衣を着た少女たちの一人が、くすくすと笑いながら隣を歩く友達に話しかけた。
「ね、あれ見て」
「……すごっ」
「どういうのかしらねー。ヘンタイさん?」
「ヘンタイならもっと普通っぽいって。バツゲームとか」
「あ、それありうる」
少女たちがきゃらきゃらと笑いながら通り過ぎる。
彼女らほどあからさまでないにしても、通り過ぎる人のうち3割ほどは一瞬ぎょっとした表情で『それ』を見、あわてて目をそらす。
妙な物には無関心をきめこむ。それが現代日本人の処世術である。
実際、それは妙ちきりんな存在だった。
鳥打ち帽を目深にかぶり。
夜だというのに黒いサングラスをかけ。
くるぶし丈のマキシ・コートもやはり黒。
マトリックスのエージェント・スミスだってもうちょっとおしゃれには気をつかうだろう。
空は暗くなってきたとはいえ、人通りのある街路は十二分に明るい。このファッションの主がわざと目立とうとしているのであれば、その目的は完璧に達成できたと言える。
だが悲しいかな、本人の心づもりとしてはその逆なのである。
できるだけ目立たないように。
見つからないように。
彼女なりに考えての事なのである。服装のセンス以前に何か人として間違っているような気もするが、彼女の名誉のために申し添えれば普段の服装よりは確かに目立たないと言えなくもないのである。
何しろ普段の格好はといえば、黒のツーパーツ・ドレスに白のエプロンという、完全無欠のメイドさんだからである。
彼女の名前は紫苑(しおん)という。物心のついた頃から天梁家のメイドして育てられた、純粋培養のメイドさんである。芳紀まさに18才。ほっそりと小柄ながら引き締まった肢体から生み出される戦闘力は、土俵という枠さえなければ朝青龍ですら素手でKOするだろう。おそらく、世界中のメイドの間で重量別対抗試合があれば6位入賞は間違いなしである。
その紫苑が奇天烈な格好をしていったい何をしているかというと――
話は、今日の朝までさかのぼる。
「今夜はよく晴れそうだ。楽しみだな、有樹」
朝食が終わった後のゆったりとした時間。
窓の外を見て何事か呪文を唱えていたソフィアが片腕の少年にそう話しかけるのを聞いて、紫苑は思わず足を止めた。
今日、ではなく。
今夜?
まずい。それはまずい。
「何がだ?」
さりげなさを装った有樹の声。むろん、有樹もソフィアの言葉の裏にあるものに勘づいているのだろう。
「祭りがあるのだろう? この近くの神社で」
「ああ……そうだったっけ?」
「昨日、坂井ちゃんに確認した。間違いない」
そして常に覇道を歩むソフィアは臆することなく次の台詞を言った。
「一緒に行こう」
いつも静謐な紫苑の瞳がわずかに曇った。
なぜ。なぜあの子はこうも簡単に口にできるのだろう。好き。一緒にいたい。抱きしめたい。キスをしたい。信じられないくらいに開けっぴろげで、行動的だ。
「ん……んんー」
有樹が困った顔をして口を濁す。
紫苑は有樹を、その美徳も欠点もすべて含めて愛しているが、女の子に対するこの優柔不断な態度だけは何とかならないものかと常々思っている。
二人きりの時はそれでも良かった。紫苑は有樹の不器用なアプローチを楽しみながら、少しずつ互いの距離が近づいていくのをわずかな畏れと共に受け入れていた。
ところがロシアからやってきた少女がすべてを変えた。
同性の紫苑から見ても、ソフィアは魅力的な少女だった。それはきれいな顔をしているとか、胸が大きいとかいった外見的な要素だけではない。むろん、11才であんな胸をしているのは何かオカルト的な手管を使っているに違いないと紫苑は考えているが。
ソフィアを嫌うのは難しい。恋敵であるはずの紫苑ですら、ソフィアをうとましく思っても憎む事はできない。ましてや基本的に女の子に優しい有樹である。ソフィアのアプローチに率直に「否」とは決して言えないだろう。
案の定、有樹は紅茶を飲むふりをしたりして何とか答えをはぐらかそうとしている。その困った様子に紫苑の胸がどきどきする。
ちらり。
有樹が目を紫苑に向けた。助けを乞う目だ。
しかたがないなぁ、という思いとちょっとした優越感を覚えながら紫苑は口を開いた。
「有樹さま。申し訳ありませんが今夜お時間をいただけませんでしょうか」
「何だ紫苑。私の方が先約だぞ」
それなら私の方がずっとずーっと先約だ。それにまだ有樹さまはソフィアと『約』束はしていない。紫苑はそれらの思いをいつもの無表情に隠して言葉を続けた。
「葛城の老公とのお約束の日時が迫っています」
「ああそうだな。うんそうだ。悪いなソフィア、ちょっと家の用事で今夜はだめなんだ」
ほっとしたように有樹が言う。
「むぅ」
ソフィアが頬を膨らませる。
「お楽しみをおじゃまして申し訳ありません」
ちくりと皮肉をまじえて言いながら、紫苑はほっ、と安堵の思いを抱いていた。
「さっきは助かったよ、紫苑」
その後、廊下で有樹が紫苑を呼び止めた。そばには誰もいない。
「なんでしょうか有樹さま」
「え、えーと……だから、その……」
しどろもどろになる有樹。そう、二人っきりの時はこうしたやりとりの一つ一つがとても心地よい。
「では、私は仕事がありますのでこれで」
「あ――」
「夜までにはすべての仕事を終わらせないといけませんから」
口元にほんのかすかな笑みを浮かべて紫苑は言った。
むろん、長い付き合いの有樹はすぐにその笑みと言葉の意味を察した。
「うん。いつもありがとう」
そして――これは月から帰って来てからの好ましい変化なのだが――有樹はそっと手を伸ばして紫苑の手をつかんだ。このまま少し力を入れてくれれば、紫苑は有樹に身体をもたれかかる事ができる。
有樹はどうするだろうか。紫苑はわくわくしながらその時を待っていた。
そこへ――
「あ、いたいた。有樹、電話だぞ」
ソフィアが出現した。
さっ、とすばやく有樹の手が引っ込む。紫苑の不機嫌メーターの針が大きく動いた。むろん表情には出ない。
出さないのではない。
出ないのだ。
「電話って、誰から?」
ソフィアが自分の携帯電話を有樹に押しつける。
「葛城の爺さまだ」
「えっ?!」
「ほら」
有樹はあわてて携帯電話をつかむ。
「天梁です――あ、ご老公。はい」
紫苑は聴覚に全神経を集中した。
『ソフィアちゃんから聞いたぞ有樹よ』
日本における協会の元締めである葛城の老人は高齢に似合わぬ張りのある声で言った。
『男が女の子との逢い引きの約束を反故にしてはいかんぞ。わしの方の依頼はまだ余裕があるはずだぞ。今夜ぐらいはソフィアちゃんに時間を割いてやれ。それが男の甲斐性というものだ』
紫苑はソフィアに視線を向けた。ソフィアがその視線に気が付き、Vサインを出す。葛城の老公に何を吹き込んだかは知らないがかなり事実を脚色して伝えたに違いない。
これだからこの少女の行動力は侮れないのだ。
何度か頭を下げた後、有樹は電話を切った。ため息をつく。
「決まりだな」
ソフィアが携帯電話を受け取りながら勝ち誇って言う。
「あのな、どういうつもりだ。たかが町内の夏祭りで葛城の老公に直談判するなんて」
「すまぬ。今夜はどうしても有樹と一緒にいたかったのだ」
「あう……」
めらめらめらめら。
燃え上がる嫉妬の炎。これだ。ストレートに強気の発言をしているくせに、どことなくはかなげな、訴えかける瞳と声。反則だ。絶対に反則だ。紫苑は我知らずぎゅっと拳を握りながら思った。
「……」
有樹が再び目を紫苑に向けた。
だが此度の顔色は先ほどとは似て非なる物だった。助けを乞うものではない。
許しを求めるものだった。
紫苑の頭の中が真っ白になった。
どういうことです?
さっきまで、有樹さまは私と――なのに――
疑問符だけがぐるぐると回る。
むろん、ここで駄々をこねる事は簡単だ。別に口を開く必要すらない。怖い顔の一つもしてやればいい。
そうしろ。内心の声がささやく。ソフィアに情けをかける必要などどこにもない。それにここで有樹を叱らなくていつ叱るというのだ。
だが、紫苑の表情はいつものごとく静かで、唇から出る言葉はいつも以上に冷たかった。
「わかりました。今夜は私一人で仕事させていただきます」
「あ――」
有樹が何か言おうとするのを振り切って、紫苑はきびすを返した。
夕方。
玄関ホールでソフィアは有樹に声をかけた。意表をついて浴衣を着るとかいろいろと作戦は考えたのだが、結局はいつもの夏用のシャツにショートパンツである。
「出かけるぞ、有樹」
「あ、うん……」
「何をきょろきょろしている」
むろん、紫苑を探しているのであろうな。ソフィアは何もかもお見通しだという顔で思った。が、肉食獣である、もとい、肉食人種であるソフィアは武士の情けとかそういう心情はかけらも持ち合わせていなかった。どうしても欲しければ奪ってでも自分の物にするべきなのである。紫苑はそうしなかった。
今回は自分の勝ちだ。
ソフィアはそのことに満足していた。
「さあいこう」
ぎゅ、と有樹の左腕を抱き寄せた。さりげなく自慢の胸にぐい、と押しつける。有樹がうれしいような恥ずかしいようなそんな表情をみせる。昔は大慌てで引き離そうとしたものだが、最近の有樹はこうした『攻撃』を甘んじて受けるようになっている。
屋敷の外に出る。夕闇が迫っている。
日本の夏は蒸し蒸しと暑い。すぐに汗が出る。
「ところで今日の祭りは何の神様を祭るんだ?」
「弁天様だよ。弁才天とも言う。元はインドの神様だけど、日本では七福神のひとりとして信仰されてきた」
「ふぅん」
神社の境内には、夜店が並んでいた。甘かったり芳ばしかったりする匂いに、にぎやかな囃子の音。日没間もないこともあって、子供達の姿も多く見られる。
むろん、ソフィアは自分を「子供」には分類していない。
だが。
「あれはなんだ?」
「こっちでは何をするのだ?」
有樹の手を引いてはしゃぎ回るソフィアは、どう見ても祭りに浮かれている子供だった。
金魚に逃げられて悔しがり、わたあめをおっかなびっくりでなめ、夜店のあんちゃんのかけ声にもいちいち反応してはしゃぎ回る。
いつもこんな風だったらかわいいのにな。
有樹はほほえましい思いで傍らのソフィアを見て、思わずどきりとする。
汗でシャツの薄い布地がソフィアの白い肌にはりついていた。
「どうした?」
ソフィアの問う声は意外なほどに近く。有樹とソフィアは互いの瞳をのぞきこむ事になった。
「あ――」
「え――」
やはり己にやましいところがあるせいで、先に視線をそらしたのは有樹の方だった。だが、ソフィアもまた、有樹が見ていた物に気がつき、顔を赤く染める。
どきどきどきどき。
馬鹿者。なぜそのように盗み見るようなまねをするのだ。そんなことをするからこっちまで恥ずかしくなってしまうではないか。
実は恥ずかしいと同じくらいうれしいのだが、あえてソフィアはそう決めつけた。
そしてちらりと有樹を見る。
有樹は、時計を見ていた。
「?」
おかしい。さっきから有樹はやけに時間を気にしている。
「ソフィア」
「なんだ?」
「そろそろ……帰ろうか」
「まだそんな時間ではないだろう」
そこでソフィアは町内会のしおりを思い出した。時間といえば。
「そうだ。花火が上がるのだったな。それを見てから帰ろう」
「う」
有樹がうめき声をあげた。
「どうした?」
「いや、その……」
有樹の反応がどうにも不明瞭なとき。
ほぼ間違いなく紫苑が関係している。ソフィアは経験則からそう答えを導き出した。ちなみにこれは逆の場合にも当てはまるという事を、ソフィアは知らないでいる。
さて、ソフィアと有樹が風雲急を告げていた頃。
紫苑は何をしていたかというと――
「どう?」
「けんかしてるみたい」
紫苑は仮面ライダー555のお面をかぶって変装し、夜店の陰に隠れていた。代わりに、今年小学校にあがった由香ちゃんという女の子がリンゴアメ(報酬)をなめながらソフィアと有樹の様子をうかがっていた。
「女の子がおこってる。男の子があやまってる」
それはいつものことだと紫苑は思った。逆はまずありえない。
「あ!」
由香ちゃんは思わずリンゴアメのついた棒を取り落としそうになった。
「どうしたの?」
「男の子が女の子を抱きしめてる」
「?!」
仮面ライダー555のお面をかぶったまま、思わず身を乗り出した。
その時、今度こそリンゴアメを取り落として由香ちゃんが叫んだ。
「お姉ちゃん、見ちゃだめっ!」
だが紫苑は見た。見てしまった。
ソフィアの小柄な身体を抱きしめた有樹が、その唇に――
仮面ライダーがふらふらと夜道を歩いている。
むろん、本物ではない。仮面ライダーならバイクに乗っているはずだからである。
いやニセ仮面ライダーも、ちゃんとバイクに乗っていたが。
ふらふらと歩いているのはライダーのお面をかぶった紫苑であった。
紫苑の脳裏にはさっき見た光景が焼き付けを起こしたディスプレイのようにしつこくこびりついている。
有樹とソフィアはキスを、していた。
ただキスをしていたのではない。
汗で額にはりついた柔らかい金髪をすいて、優しく頬をなでておとがいをつまみ、そっと上向かせて。
身体をかがめて、唇を重ねる。
あれはどう見ても、有樹が、ソフィアに、キスをしていた。逆ではない。
何を――
何をやって――
何をやっているんだろう――
何をやっているんだろう――私は。
『今夜は私一人で仕事させていただきます』
自分からそう言ったのだから、そうしていれば良かったのだ。
そうするつもりだったのだ。のぞきなど、するつもりはなかったのだ。
だのに、どうしても。
どうしても。
ぱぱぁー!
クラクションが鳴り、黒いベンツが紫苑にぶつかる寸前で急停車した。
「何やっとんじゃぼけぇっ!」
運転席から男が怒鳴る。気づかないうちに紫苑は横断歩道をわたっていた。信号は赤。
「なんか言ったらんかいっ、こらぁっ!」
日本の交通法規はたいへん交通弱者に優しい。歩行者が赤信号をわたって車にひかれても、100%歩行者の方が悪いということにはならない。
つまり、この場合、ちょびっとは向こうも悪い。
紫苑はのろのろとベンツに向き直りながら頭の一部でそう考えていた。むろん、大脳の残りの部分はさっき見たキスシーンをエンドレスで流し続けている。
さすがにこの頃になると、ベンツの男も少しは目の前の仮面ライダーを薄気味悪く思っていた。彼は古き良きライダーのファンであり、子供が見ているので一緒に見てはいるものの、平成ライダーは邪道だと確信しているひとりであったからだ。
「ええからはよどかんかい」
男は間違っていた。
『どく』のは自分であるべきだったのだ。それも全速力で。平成ライダーに道理は通用しない。
仮面ライダー555が、無言で両手に鴛鴦鉞を構えた。
有樹とソフィアが屋敷を出た時、紫苑は仕事をしていた。
仕事をすると宣言していたからには仕事をするべきである。幼い頃から厳しくしつけられてきたので紫苑は潔癖性である。
頑固ともいう。
意固地といった方がいいかも知れない。
執務室の100インチの液晶ディスプレイに開いた無数のウィンドウに素早く目を通しながら情報を把握する。葛城の老公から依頼されている仕事は、文部科学省に提出する、魔術学を学校で教えるためのプログラムの原案の作成だった。
魔術がこの世に存在することが万民に明らかになった以上、社会不安を抑えるには魔術がどんな物で何ができて何ができないのか国民すべてが知る必要がある。世界中の協会は、そのためにてんてこまいをしている。
今の魔術に対する一般の認識は魔女狩りの時代に近い。「あいつは魔術を使ってずるいことをしている」「あいつは魔術を使って呪いをかけている」人々はそのような疑心暗鬼にかられている。ちょっとした身の不幸が、他人の幸運が、魔術というキーワードに反応して過剰な敵意に結びついている。
考えてみるがいい。魔術がない時代においてすら、人々は朝のテレビ番組でその日の占いをながめ、血液型で性格や行動が規定されると考えていたのだ。魔術が本当に存在する事が明らかになった以上、魔術の理論体系を正しく人々に啓蒙しなくてはいけない。
魔術は万能ではなく、技術の方が優れている部分がはるかに多いのだと。
移動するのであれば、箒で空を飛ぶよりは車を使った方がいい。
会話をするのであれば、使い魔を送るよりは携帯電話を使った方がいい。
だが、それでもなお、魔術には科学では補えない力がある。
たとえば人の心(認識)を操作する魔術。これは悪用すればとんでもない事がいろいろできる。
協会にとって頭の痛いことに、現代の魔術師の多くは認識魔術をいろいろと悪用して財力や権力を手にしている。むろん、それを取り締まる法がない以上(あきれたことに現代においても一部の国や地域では魔法や呪いを禁じる法律が存在していたが)罪には問われないが、このままにしておいては社会不安が増大する。そして社会不安は『持てる者』にとってはありがたくない。協会としては自分たちの財産と身の安全のためにも、正しい魔術についての知識を人々に伝えなくてはいけない。
むろんそれは教育現場だけでなく、さまざまな形で行わなくてはいけない。日本では公安が新しく魔術第1課を編成して魔術の悪用を取り締まる体制を整え、次の臨時国会では魔術犯罪に対応した法整備を行なうことになっている。
とにかくそういうわけなので、今まで裏の世界に潜んでいた協会は突如として表の世界の認知を受けると同時に相応の責務を果たすことを求められるようになったのである。
一言で言えばてんてこ舞いなのである。世界でもっとも知名度が高い魔術師となってしまった有樹とソフィアなど、本来ならば朝から晩まで仕事に追いまくられてしかるべきなのだ。祭り見物に行くなど言語道断である。
それも一緒に。ふたりっきりでっ。
がちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃ。
思わず精神が高ぶり、メカニカルキーボードを叩く紫苑の指に力がこもる。
甲高いエラーの表示が警告音と共に画面に現れた。
ばきっ。
荷重300kgに耐える特注のキーボードが粉砕されていた。
これでみっつめだ。
無言でキーボードを交換しようとして、紫苑の腕が止まった。
大きくため息をつく。
紫苑は仕事をすると決めていた。
だが、さっきから彼女がしているのは仕事ではない。破壊活動もそうだが、それを抜きにしてもプログラムの作成はちっとも進んでいない。書いては消し、書いては消しを繰り返している。考えがまとまらないせいで、考えがまとまらないのは頭の中で楽しそうに祭りを見物している有樹とソフィアの姿(想像図)が浮かんでいるからだ。
ならば、他の仕事をするべきか?
紫苑はしばらく考えて首を左右に振った。他の仕事も同じことだろう。
ちょっとだけ。
そうだ、ちょっとだけなら。
ほんの少し、ふたりの様子をうかがうだけなら。
むろん、邪魔をしたり、そういう意地悪をするつもりはないけれども。
ひょっとしたら。
そう、ひょっとしたら自分にもチャンスが……
「こんなところで何をしている?」
ベンツを解体した紫苑が重い足を引きずって再び帰路についた時、背後から聞き慣れた声がした。
ソフィアがいた。
思わず鴛鴦鉞を隠す。
「あ、あのお買い物に」
「買い物というのはそのお面か?」
「あ……」
「その様子だと後を付けてきたな。このストーカー女め」
一言もない。だが、紫苑はふつふつと怒りがわいてくるのを感じていた。
キスしていたくせに。キスしていたくせに。キスしていたくせに。
「ならば何をしている」
なぜだか知らねど、ソフィアは怒ったような口調で言った。
「?」
「早く行かぬか。もうすぐ花火が始まるぞ」
「!」
「どうして……」
「有樹は忘れていなかったぞ。9年前の約束を。紫苑は忘れたのか?」
「忘れるわけない!」
大声で言ってから、紫苑はもう一度、小さくつぶやいた。
「忘れられるわけ……ない」
「紫苑はずるい」
「え?」
「言葉にしないのに。態度にも表さないのに。有樹を縛っている」
「それは……」
違うと言いたかった。
けれども、本当に違うのだろうか?
「有樹の心の一部は常に紫苑と共にある。それがどんなに悔しいか分かるか?」
「私だって!」
紫苑は言った。
「ソフィアがうらやましい。どうしてそんなに正直になれるの? 有樹さまの心にソフィアがどんどん入っていくのを私がどんな気持ちで見ているか分かる?」
紫苑とソフィアはむぅ〜、とにらみ合った。正しくは仮面ライダーとソフィアであるが。
「とにかく。今夜は引き分けにしといてやる。さっさと行け、目ざわりだ」
「引き分け?」
「有樹はな、おまえが来なくても9年前の約束を守ると言っている。ちなみにあと30秒だ」
ばっ。
何も言わずに紫苑が駆けだした。変装に使っていたコートだの何だのが路上に散らばる。ソフィアは音の壁を破るんじゃないかという勢いの紫苑をつまらなそうに見送ると、変装道具の中から仮面ライダーのお面だけを拾い上げてかぶった。
「ふん!」
ソフィアはいまいましげに鼻を鳴らした。
走る。
走る。
走る。
鍛え上げた健脚の限界に挑戦するようなスピードで、紫苑は走った。すぐに神社に到着。だが人混みが多いここの参道を突破していたのでは時間ロスになる。
口の中で呪文を唱える。紫苑の魔術はそのほとんどが肉体強化系だ。だが、肉体強化の魔術には危険が大きい。たとえば強化された筋肉に骨がへし折られる。素早く動けるようになっても思考がついていかずにすっころぶ。
強化された肉体を使いこなすには、もともとの肉体を限界まで鍛錬しておく必要があるのだ。これには魔術の訓練どころではない素質と努力が求められる。紫苑には素質があった。さらには努力する理由もあった。
呪文が完成した。
ぶわっ。
紫苑の身体が跳躍した。鳥居を蹴り、さらに高く飛翔する。参道の上を飛び越え、社殿の屋根を蹴り、裏の森の中へ。
ばきばきばきばき。木の枝を掴みながら減速し、着地。
そこに、ごく当たり前のように。
有樹がいた。
「有樹、さま――」
さすがに息が上がった紫苑の唇に、有樹の指が当てられる。ふつうにやればかっこいい仕草であるが、鼻につめたティッシュのせいで今ひとつさまにならない。
「今は、ここでは、違うだろ?」
「ゆう……ちゃん」
「うん」
「私、来たよ」
「うん」
ちょっと待て。すでに30秒はとっくに過ぎたはずだ。
「今何時?」
「8時3分前」
いぶかしげな顔をして有樹が答えた。
だまされた。
花火が始まるのは8時ちょうどだ。
「覚えていて、くれたんだ」
「忘れるわけないだろう」
9年前。まだ出会って間もない有樹と紫苑は、こっそりと屋敷を抜け出してこの祭り見物に来た。そこで有樹が紫苑に贈ったのは、小さな指輪と、ひとつの約束。
「ゆうちゃん」
「うん」
「ソフィアとキスしてたでしょ」
「ぶっ」
有樹がむせた。
「あ、あれは」
「それはいいの」
「え?」
「そっちじゃなくてね。朝、私との約束があるのに、ソフィアと祭り見物に行く約束したでしょ」
「う、うん」
「私、怒ってるんだからね」
「うん」
「すごく、怒ってるんだからね」
「うん」
「だから、ゆうちゃん。私にすごく優しくしてくれなきゃだめなんだよ」
「どうすればいいのかな?」
どうしてもらいたいのだろう?
「とにかく! 優しくしてっ!」
「うん。じゃあ……」
有樹がおずおずと手をのばし、紫苑の手をつかんだ。そっと持ち上げる。
「はい」
有樹の手にあるのは小さな指輪。残念だが子供のおもちゃだから指には入らない。だからそれを紫苑の掌にのせる。
龍皇が紫苑にダウンロードした晩に紫苑がなくした指輪。
「あ……」
「いつ返そうかと悩んでたんだけど、今夜が一番いいような気がして」
「ありがとう」
きゅ、と紫苑は手にした指輪を握る。暖かい思いが、懐かしい気持ちが、胸の中いっぱいに広がっていく。
9年前。ふたりは8才と9才。どちらも子供だった。
その子供に、大人たちは天梁の遺産を背負わせようとしていた。おそらく、彼らはラグナロクが近いことを知っていたのだろう。そして、自分たちではそれを乗り切れないことも。
だから、ふたりの子供を選んだ。遺産を背負える子供を。その子供たちが、遺産を支える力をもちながら、なおかつ遺産を捨て去るだけの強さを持てることを期待して。
そして9年前。
苛烈な訓練を抜け出して有樹は紫苑に言った。
『ぼくはいさんなんかほしくない。でも……しおんにはずっとそばにいてほしい』
『私もゆうちゃんがいてくれたらほかに何もいらない』
そして、遺産を捨てることができたら。
その時は、主人と従者でなく。
そして今。
約束の時。
有樹は紫苑の手をつかんだまま言った。
「俺は天梁の名前を捨てる。魔術も、屋敷も、何もかも捨てる。それでも紫苑は俺と一緒にいてくれるか?」
「もちろん。ゆうちゃんが望む限り私はずっとゆうちゃんのそばにいる」
ぱぱっ。
夜空に、丸い花火が上がった。
どーん。
その明かりに照らされながら、有樹は紫苑を抱き寄せ、紫苑もまた有樹にもたれかかった。花火に青白く照らし出されたふたりの顔が近づいてゆき――
「そこまでだ」
仮面ライダーが、茂みの中から顔を出した。
「ソフィアっ?!」
「屋敷に帰ったんじゃ?」
「こんな事じゃないかと思って隠れていた」
がさごそと茂みから抜け出てきてソフィアは有樹に言った。
「魔術も屋敷も天梁の名前も捨てていいが、私を捨てることはできんぞ」
「ソフィアは関係ないでしょ」
「あるのだ。私も約束したからな。有樹と。共にあることを」
「ゆうちゃん!」
怒る紫苑に有樹がもごもごと弁解したが。
それは打ち上げられた花火の音にうち消された。
紫苑はため息をついた。
ソフィアもため息をついた。
「帰りましょ」
「そうだな」
ふたりの少女は、合意に達してがさがさと茂みの中に分け入っていった。
「え? え?」
打ち上げられる花火をバックに、有樹はおろおろとそれを見送っていた。
暑い夏の夜の物語である。
(おしまい)