ローマ:トータル・ウォー外伝『鉄の時代』
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
ローブを着た少年や青年がなごやかに挨拶をかわす。声はひかえめで、動作は洗練
されている。
それもそのはず。ここは古き歴史と伝統の都、アテネにある大図書館だ。
建物の中は日がほとんどさしこまず、ひんやりとしている。大事なパピルスの書物を
日光から守るためである。
少年は、ややもすると小走りになりそうになるのをおさえて部屋を見て回った。
そして、小さな一室でようやく目的の人物を見つけた。
「兄様、ここにおられたのですか」
少年は愛する青年に声をかけた。
「ああ」
手にした写本をくるくると巻きながら、青年は少年に笑いかけた。長身なため細身に
見えるが、ローブの下にしなやかで逞しい筋肉質の肉体があるのを少年は知っている。
「また本を読まれていたのですね」
少しすねたような目で青年をにらむ。これがいつもの手だというのに、青年は困った
ような顔で頭をかく。
「ああ、そういえば神殿に呼ばれているのだったな。忘れていたよ」
「はい、ローマ軍は三度サルモンを包囲したそうです。それと、これは船乗りの噂
なんですが、エジプト海軍がロードス島沖に出現したとか」
「そうか……戦乱は絶えることなく続く。まさに鉄の時代だな」
「鉄の?」
青年は巻物のタイトルをみせた。『神統記(テオゴニア)』とある。
「この書物にあるんだ。歴史は〈黄金の時代〉〈白銀の時代〉〈青銅の時代〉と続き、
〈鉄の時代〉で戦乱の中に終末を迎えるとね」
「鉄の時代、ですか。確かに僕たちの時代は鉄と火の時代ですね」
「これが書かれたのは今から500年も前だ。ヘシオドスは神々の時代がもっとも良い
時代で、時代がくだるにつれ悪くなると考えていたようだね」
「黄金、白銀、青銅、鉄……もしも今が鉄の時代だとして、その次には何が来るので
しょう?」
「終末の後の時代か。錫とか、鉛……うーん、ちょっとぴんとこないな」
青年は腕を組んで頭をひねる。
「石……〈大理石の時代〉とかどうですか?」
「なるほど、金属の時代から石の時代か。うまいことを言うね」
意外と鈍いところのある青年に、少年は頬を上気させて指摘した。
「兄様の時代ですよ。ギリシアきっての不敗の名将、マルマロスの時代です」
大理石はギリシア語で『輝く結晶=マルマロン』に由来する。
そしてそれは少年が愛する義兄、青年将軍マルマロスの名前の元ともなっていた。
「私の時代か……それはちょっと勘弁してもらいたいなぁ」
マルマロスはほろ苦い表情になった。彼は若くして幾つもの戦功をあげているが決して
軍人になりたくてなったわけではない。彼の望みはこうして図書館の中で書物を繰ること
なのだ。
だが今は戦時、それもギリシアにとって決して有利ではない戦争のさなかである。
故郷を愛するひとりのギリシア市民として、マルマロスは戦いに行かねばならない。
いつ終わるとも知れない戦いに、マルマロスの心は重く沈む。
「それにしても、サルモンが包囲されたか……」
「今度も兄様が出陣すれば大丈夫ですよ」
西の新興国ローマは、これまで二度サルモンを包囲した。そして二度ともマルマロスが
包囲するローマ軍を打ち破った。最初は4年前。二度目は1年前だ。
「前は再度の攻勢に出るのに3年かかった。それだけの損害を与えることができた。だが、
今度は1年で彼らは戻ってきた。こたびの戦は、そう簡単にはいかないと思う」
巻物を机に置き、マルマロスは静かに思考した。優れた将軍だけが持つ冷徹な知性が
彼我の戦略的環境を分析する。
こうなると、マルマロスはその名前の通り、まるで大理石の彫像になったかのように
周囲に無頓着となる。この4年間、常にそばにいてそれをよく知っている少年は義兄の
思考の妨げにならないように静かに歩いて巻物を書棚に戻した。
「ローマ軍の策源地はいつものようにアポロニアだ。海軍で後方の補給線を叩くか?
いや、ローマ軍は同じ手にはかからないだろう。それに我が国の海軍はエジプトとの
戦いで疲弊している」
あれほど彼が反対したのに、ギリシアの指導者はエジプトとの和平を受け入れようと
しなかった。そのため、ギリシア軍は小アジアとギリシア本土のふたつの戦線を抱え、
疲弊している。
それに比べてローマ軍はどうだ。ダキアとの講和に成功し、後顧の憂いをなくして
ギリシアに全力を投入している。
「戦略的な状況はいつものごとし、か。……ないものをねだっても始まらない」
考えをまとめ、青年は顔をあげた。
ふときがつくと陽が傾いている。かなり長い時間考え事をしていたようだ。ずっと
同じ姿勢をしていたので足の筋肉にこりがある。
みると、少年が入り口に立っていた。邪魔が入らないように番をしていたようだ。
「すまないね」
「兄様、考えはまとまりましたか?」
「ああ。ローマの狙いが我がギリシア野戦軍ではなくサルモンという都市であるのならば、
打つ手はある」
「そうですか」
少年の薔薇色の唇がうれしそうにほころぶ。青年はその唇の柔らかさを確かめたく
なったが場所を考えて自制した。
「屋敷に戻りましょう。父様が心配されてますよ」
「そうだな」
ふたりは図書館を出た。夕焼けに赤く染まる丘を見上げる。
屋敷への道すがら、オリーブ畑のわきで青年が足を止めた。
「兄様、どうしました?」
「今度の戦い、お前はここに残りなさい」
「兄様っ?!」
憤慨と悲しみの混じった抗議の声に、マルマロスは首を振った。
「前の戦いで足を負傷された父上を助ける者が必要だ」
「ですが――」
「頼むよ」
「いやです!」
少年は義兄に駆け寄り、抱きついた。
「僕は兄様と一緒にいます。たとえそれが戦場であっても」
「聞き分けてくれ。愛するお前の命を危険にさらしたくはない」
愛する、と言われて少年の心は喜びにうちふるえたが手は放さなかった。
「僕の命は兄様に救われました。4年前。サルモンの町で。兄様がいなければ僕はあそこで
死んでいたでしょう」
最初のサルモン攻囲戦。戦火に焼かれた村のひとつで、青年は孤児をひろった。
そして父の許しを得て、義弟として、家族の一員として愛し、慈しんだ。
さらに1年前からは、恋人としても――
「だからこそだ。その命を大事に思うのであれば、私の言うことを聞いておくれ」
「今は〈鉄の時代〉だと兄様は言われましたよね」
「ああ」
「ならば、僕が〈鉄の時代〉の申し子として鉄の嵐から兄様を守ります。鏃の名前を持つ、
この僕が」
少年=シウポスは、青年に誓った。強い意志を、その瞳にこめて。
しばらくして。
「わかったよ」
ようやく青年は言った。
「けれど決して無茶はしないように。常に私の目の届く範囲にいるんだよ」
「はいっ」
少年は元気よくうなずいた。
「これが約束だ」
青年将軍は身をかがめ、少年の唇にキスをした。少年も情熱的にそれに応える。
最初の星の光が、天上に輝いていた。
『おしまい』
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