不良少年
親父の一言がとどめとなった。
「この不良息子がぁっ!」
発端は不明。まぁ、たいしたことじゃない。
経緯は説明したくない。まぁ、いつものことだ。
よって結果だけを述べると、俺はお決まりの台詞で家(ユニット)を追ン出てい
た。
不良。
自覚はある。ないよりましだ。そうだろ?
この月面都市は建設が開始されて三〇年になるが、まだ第一期工事が終わってい
ない。そこに一〇〇〇の人が住む。ほとんどが都市建設のための作業員だ。幼児は
別として、文字通り子供から大人まで何らかの仕事に携わっている。工期はすでに
一〇年単位で遅れているし、赤字も膨らんでいる。それに反比例するように、地球
にいる連中が送ってくる資材や人、金は目減りしている。どうやらまた人類は宇宙
開発に疑念を抱き始めたようで、『月の事は月の連中にやらせよう』などという意
見がグローバル・ガバメント・ネットで大勢を占める始末だ。冗談ではない。月人
(ルナリアン)が自力で生存できるようならとっくに月面都市ぐらい作り上げてい
る。そのあたりの常識はネットで適当な事を言っていればいい批評家どもではなく
予算や資源の配分を行う行政官レベルになると“少しは”分かってきているらしい。
彼らは月の住人(今のところ不法滞在者以上の待遇を月から受けていない)が生存
するために必要な様々な資源――特に生物資源――を地球から送り出してきている
し、工事に必要な工作機械やその部品なども古いヤツが摩耗してガタが来た“ちょ
っと後”に送ってきてくれる。今の地球の経済状態だと、それが精一杯なんだそう
だ。
なもんで、俺たちは補給が足りない分を朝から晩まで――月だとこれがまたやた
らと長い!――働いて、あれこれ知恵を絞って自分達が住む愛しの我が家を何とか
まともなものにしようと努力している。
もしかしたら、この全てが無駄に終わるんじゃないかと不安に怯えながら。
「ナニ難しい顔してんのよ、陽太」
アンナが俺の足を踏みつけた。六分の一Gでは痛くもなんともないが、彼女が不
機嫌であるというその事実は危険信号となって俺を思考の迷路から追い出した。
ちなみに、陽太というのは俺の名前だ。姉ちゃんの名前は美月で、親父とお袋の
センスというものがうかがえる。まぁ、わざわざ苦労すること間違いなしの月面作
業員を仕事に選んだ時点で、うちの両親の人となりがうかがえるが、付き合わされ
る子供はたまったもんじゃない。俺も姉ちゃんぐらい頭が良ければ地球の学校へ留
学させてもらえたかもしれないが、残念なことに俺は頑健なだけがとりえで、頭の
方は人並みでしかなかった。
「陽太!」
アンナが怖い声を出して、俺の頬をつねりあげた。六分の一Gでもこちらの痛み
は地球と一緒……のはずだ。
「なんだよ、痛いじゃないか」
「なんだよ、はこっちの台詞よ。だいたいあなた、人をこっそり呼びだしておいて、
その態度はないんじゃないの。パパとママが仕掛けたセンサーに見つからないよう
に抜け出してくるのに、あたしがどれだけ苦労したと思ってるの?」
「うるさいな」
「うるさいですって! いい、陽太。一度はっきりと言わせてもらいますけどね…
…」
アンナが俺を下からねめ上げて早口であれこれとまくしたてる。彼女には悪いと
思っているが、実はこうやって怒っているアンナの顔を見るのは俺の楽しみの一つ
である。整った顔立ちのアンナは、美人ではあるが普段は人形のような冷たい感じ
のする少女だ。その彼女が怒ると頭のてっぺんから指の先までが躍動感にあふれ、
見違えるほど生き生きとする。
周囲に広がる荒涼とした死の世界を見慣れている目に、それがどれほどの潤いと
なっているか。
もちろん、彼女にそんな事は言わない。
しばらくアンナの怒った顔を堪能した後で、俺はいつものように事態の収拾をは
かった。片手でアンナの細い腰を抱き寄せ、もう片方の手で頤(おとがい)をつま
んで固定し、唇を重ねる。いわゆる“鳥がついばむような”――もちろん本物は見
たことなんかない――軽いキスだ。
いつもの手はいつものように効果を表した。アンナが白い肌を真っ赤に上気させ
て押し黙る。俺はもう一度、今度はゆっくりとキスをしてやる。
唇を離すと、アンナが恨みがましい目でこっちを見た。
「またごまかそうとしているでしょ、陽太。ずるいよ。いつもこうなんだから」
もちろん、俺は答えたりしない。代わりにアンナを抱く腕に力をこめる。
「この不良」
自覚してるって。
アンナが俺の腕の中で幸せそうにため息をついた時。
ズン、と低い振動が周囲の構造材を軋ませた。
月震というものがある。これは地震とはちょっと違うものだそうだ。まだ中がホ
ットな星である地球だと、地殻の浮き沈みが引き起こす歪みが地震となって解放さ
れるが、月にそんな物はない。ここは芯までクールな星なんだ。だけど僅かではあ
るが月を歪ませる力が外から加わっている。地球の引力だ。それが潮汐力――海の
満ち引きなんて、月(ここ)からじゃ見えやしないが――となって、月の表(こっ
ち)側と裏(あっち)側とを引っ張る。月は地球より小さいから潮汐力もぐっと小
さいんだが、歪みは歪みだ。どこかで帳尻を合わせないといけない。それが月震と
なる。そのほとんどはマグニチュードで1から3の、本当にささやかな代物だ。た
まにある大きな物でもちょっと揺れておしまいである。
だが。
何か嫌な予感がすると同時に、さっきの揺れとは桁違いの強い揺れが襲ってきた。
足が床面から浮くほどの震動。驚いたアンナが小さな悲鳴をあげて俺にしがみつい
てくる。
明かりが消えた。ぶんぶんうるさく鳴っていた空調も二、三度せき込むような音
をたてた後で止まった。一陣の風が舞い、すぐに止んだ。
非常灯のオレンジ色の明かりの下で、俺とアンナは互いの鼓動と息づかいだけを
聞いていた。
茫然としていた時間は――正直に認めよう――アンナの方が短かった。すぐにス
レート(個人携帯端末)を取り出し、指を滑らせる。
「だめ、ネットワークにつながらない」
「震動の直前に何かメッセージが入ってないか?」
そう言いながら俺も自分のスレートを掌に開く。スタンドアロンを示すネットワ
ーク切れのマークが明滅している。メッセージは――ない。それもそうだ。
「無駄よ。パパたちに見つからないように切ってたもの」
「俺もだ」
最後の手段で、スレートからケーブルを引っ張り出し、壁についているジャック
に差し込み、ピンを打つ。反応なし。この区画からつながっている範囲内に生きて
いるコンピュータは一台もないってわけだ。
俺はスレート上にマップを引っ張り出した。自分たちのいる位置を確認する。
俺とアンナがいるのは、シティの外殻にある発電プラントの一つだ。もっとも、
今はまだ建物だけで中身がない。シティが本格的に活動を開始したら、ここに核融
合発電プラントが運び込まれる予定だ。燃料は月で採れるヘリウム3で、この採掘
が月の主要産業の一つになるという、やはり予定だそうだ。
つまりは最先端の技術で作り出された何の役にも立たないがらんどう。いや、役
には立っているか。不良少年が一人、こうして地球生まれのお嬢さんを連れ込んで
いちゃいちゃしているわけだから。
アンナと俺は床に並んで座り、何とかネットワークに接続しようとやってみた。
本来なら、ライフラインは正・副・予備と三系統が確保されているべきなのだが、
建設途中の悲しさで、ラインは一本しかない。そいつが何かのはずみで切れてしま
えばおしまいだ。
「だめだな」
「ねぇ、どうする?」
「とりあえず歩いて戻ってみよう」
それが可能だとはこれっぽっちも思っていなかったが、他にする事もない。
案の定、発電プラントからシティ主要部へと繋がる通路には隔壁が降りていた。
作業用通路も、荷物の運送パイプも、すべて遮断されていた。
「事故かしら」
「さあな」
シティの外殻は微少隕石の衝突や放射線に対する防御を備えているから、月震ご
ときでどうこうなる代物じゃない。だが、それは完成しての話だ。今のここは建設
途中にある。何か危険物を運搬する作業中に月震が重なり、結果として事故になっ
た可能性だってあるだろう。
「今日の作業スケジュールを調べてみるわ。何か分かるかもしれない」
アンナがスレートを操作する。俺もそうした。だが、作業スケジュールを調べる
ためじゃない。もっと大事な事を調べるためだ。事故の原因など、事故が起こって
しまった後で調べたところで何の役にも立たない。
それよりも俺の頭を一杯にしていたのは、生まれて初めてシティの外に出て対面
した月面の光景だった。灰色と黒。絶対的なコントラストが、ここが生きる者の居
ていい場所ではない事を標榜していた。まだ子供の俺は親父の手をしっかりと握っ
て震えていた。
「アンナ、大事な話がある」
俺は一つの決意を胸に言った。
子供の時の俺は一人遊びが好きなガキだった。正確には、一人遊びぐらいしかす
る事がなかったと言っていい。出来のいい姉ちゃんは勉強ばかりしていたし、他に
年の近い子供はいなかった。コンピュータ相手のゲームやチャットに飽きると、俺
は探険をした。広くてあちこち工事中のシティは、子供の探険にはうってつけだっ
た。ホロビジョンの子供向け番組『ムーン・レンジャー』のメンバーになったつも
りで俺は通路の暗がりをのぞいて歩いた。
親父はもちろんいい顔をしなかった。何度も禁止し、俺が工事中の区画まで『遠
征』するとお仕置きをした。そしてもちろん俺は親父の命令に従わなかった。大人
と一緒でないからこそ、探険は冒険になり得るのだ。たとえ現実には何も起こらな
かったとしても、一人っきりで想像を働かせれば十分にドキドキできた。このドキ
ドキ感だけは、どんなコンピュータのゲームでも味わえなかった。
やがてそれなりに悪知恵が回るようになった俺は、冒険に必要な要素を追加する
事にした。
「わ、暗い」
俺の肘をつかんでいたアンナが言った。このあたりには非常灯もない。おそらく、
実際には何か機械が詰まる予定なんだろう。
「こっちだ」
俺は先に進んだ。子供の頃はもっと広く感じたものだが、今はそうでもない。そ
んな物かも知れないが何となく騙された気分になる。
「ここだ。このパネルを外す。ちょっと支えていてくれ」
「うん」
俺は今になっても何に使うのかさっぱり分からないパネルを外して、中に首を突
っ込んだ。
そこは昔のままだった。
『秘密基地』。
当時の俺はそう命名していた。誰にも見つからず、誰にも邪魔されない自分だけ
の場所。この狭い区画に閉じこもり、俺はあれやこれやと子供らしい妄想にふけっ
たものだった。ここには想像力を喚起するための道具がそろっていた。工事現場か
らちょろまかしてきた工具はムーン・レンジャーの秘密装備だった。まずい非常用
レーションも、ここで食べれば大人の味わいがした。持ち込んだ小さなライトの明
かりの下で、俺は極秘作戦の計画を練った。
そして当然、宇宙服があった。
「あった」
俺は黄色い宇宙服を引っ張り出し、素早く点検した。大丈夫、使える。
「こいつを使え」
「でも……」
「こいつは俺には使えない。お前でないと無理なんだ」
事実だった。月で生まれ、月で育った俺の今の身長は2メートル近い。いくらあ
る程度サイズの融通が利くとはいえ、子供用の宇宙服には収まらない。だが、地球
で生まれ育ったアンナなら着る事ができる。
「シティで何かあったのは間違いない。だけど、ここにいても救助が来る可能性は
低い。俺もお前も、スレートを切ってこっそり入ったからな」
だから、こちらから救助を求める必要がある。俺はそう言ってアンナを説得した。
「分かったわ。でも、どうやって外に出るの?」
「隔壁を上げる」
「なんですって?!」
アンナが大声をあげた。
通路に隔壁が降りている。それはつまり、隔壁で遮断しなければいけない何かが
あるという事だ。そして事故の直後に発生した風。この二つから容易に隔壁の向こ
うがどうなっているかが想像できる。
通路の気密が破られている。すなわち、隔壁の向こう側は真空状態。
「手動で操作する。ちょっとだけ開けて、お前が通ったらすぐに閉める」
「危険よ!」
「大丈夫だ。何も全開にしようっていうんじゃない。お前一人が通り抜けられるく
らいの隙間をあけて閉めるだけだからな」
「陽太……」
アンナが俺の首を掴んでぐいっと引き寄せると激しくキスをしてきた。
「絶対に救助の人を呼んでくるから。待っててね」
「待ってる」
俺は言った。
ガシュン。
重い音をたてて隔壁が閉じた。空気が漏れる時の耳障りな甲高い音も激しい風も
すぐに消えた。
アンナは行った。吹き出す空気に背中を押されるように真空の通路に転がり出て
いった。
俺は座ったまま壁に背をもたれさせ、安堵のため息をついた。乾いた笑いが喉か
ら押し出される。
「ふっ……ふはははははっ……ははははっ」
バカな女だ。
俺は思った。俺の嘘にころりとだまされやがって。
救助を求める? 外がどうなっているのか分からない状態でか?
救助が必要なのは、シティの方かも知れないのに。
ここは月。死の星だ。人がしでかしたほんのちょっとの愚かな行為でも、月は容
赦なく処罰を下す。俺が想定したのは最悪のシミュレーション。シティが壊滅した
という物だ。
もちろん月にはシティ以外にも研究施設や工場などがたくさんあるから、いずれ
救助は来る。問題は、いつ来るかだ。
そう。俺がアンナを外に追い出したのは彼女に救助を呼んでもらうためじゃない。
この建物の中に残されている空気を、彼女に汚染されたくなかったから。単純な
計算だ。二人が一人になれば二倍の時間、俺はここで生きていくことができる。
言っただろ?
俺は不良だってな。
俺はスレートのシミュレーションを起動した。シティのサーバを使っていないの
で粗い結果しかでないが、今の俺には十分だ。
「約一二〇時間か」
この発電プラントの空気が汚染されて呼吸できなくなるまで、約五地球日。それ
くらいなら、『秘密基地』に蓄えた水と食料で十分保つ。その五地球日の間に救助
が来るかどうかは賭けだが、それほど分が悪いものじゃない。救助隊はまず気密が
保たれている場所から捜索を開始するだろうから。
後は空気の汚染を最小限にするために無駄な活動を控え、大人しく寝ているだけ
だ。俺は少しでも居心地の良さそうな場所へ行くため立ち上がった。
あれこれ考えて、俺は建物の中心にある円筒形の部屋の上部デッキに陣取る事に
した。高さだけでも三〇メートルはあるこの空間には、核融合炉が鎮座する予定だ。
地球生まれの大人達とは違って、俺は広い空間があまり好きじゃない。居住区にあ
る地球の風景を投影した公園にいたっては、恐怖を感じるほどだ。壁も天井もない
むき出しの空間なんか異常としか思えない。医者のウィリアムスンは軽度の広場恐
怖症だと診断しやがったが、この感覚は月で生まれ育った人間には多かれ少なかれ
共通するものだ。地球から送られてきた姉ちゃんのメールにもそう書いてあった。
いずれにせよ、長期戦を覚悟で俺は床に『秘密基地』から持ち出した毛布を敷く
と横になった。退屈を紛らわせるためにスレートにゲームを起動させる。だが、す
ぐに停止させた。集中できない。変わりに保存しておいたホロビジョンを見ようと
リストを表示させる。その中に『ムーン・レンジャー』の名前があった。
ムーン・レンジャーだったらこんな場合、どうするだろう?
考えなくてもいい問いが頭にはりついて離れなかった。
少なくとも、一四才の女の子を一人で月面に放り出すような事じゃないのは確か
だ。だいたい、アンナは月生まれでも月育ちでもない。両親の仕事の都合で月に来
る事になっただけの地球人だ。月面に一人で出た事だってない。宇宙服に何かあっ
た時に応急できるかどうかだって怪しい。そういえば、宇宙服には予備の酸素ボン
ベが腰についているが一人で交換できるだろうか。だいたい、最初に会った時から
して、低い重力に適合できずに通路で俺の腹に頭から体当たりしてきやがったから
な、あいつは。それでいて謝りもしない。
「ヨータ? 変な名前ね」
ツン、と澄ました顔でそう言いやがった。俺の方も頭に来て言い返し、それから
一ヶ月は通路で出会っても互いに顔をそむけあったものだ。その二人の関係が変わ
ったのはいつだったろうか? お堅いだけだと思っていた少女のあどけない笑顔を
向けられ、どぎまぎしたのは?
「……なんてこった」
俺は時間を確認した。まだ三〇分も経過していない。なのに俺はもう――
それ以上、考えたくなかった。俺は立ち上がり、広い建物の中をうろうろと歩き
回った。
気が付くと、俺は隔壁の下りた通路に向かっていた。別に目的があったわけじゃ
ない。ただ、自分に納得させる必要があった。俺にはもう、他に方法が残されてい
ないのだと。
そして、隔壁に手を触れた時。
かすかに、笛の音が聞こえた。甲高い、女がむせび泣くような音が。
俺は凍り付いた。オカルト的な恐怖にかられたわけじゃない。ここで。今。音が
聞こえる理由は一つしかなかったからだ。
俺は隔壁にはりついた。間違いない。音は隔壁と床の間から聞こえる。
背筋に冷や汗が吹き出た。気密が破れている。二度目に閉めた時に、隔壁が何か
小さいものを噛んだのだ。出来たのはごくわずかな隙間だろう。しかし、空気が抜
け出るにはそれで十分なのだ。
俺はあわてて『秘密基地』にとって返して充填材を探した。だが、どうでもいい
ような工具はあっても充填材はなかった。理由は簡単である。充填材はシティのど
こにでも存在するありふれた物だったからだ。わざわざ『秘密基地』に隠す価値を
子供の俺は認めなかったのだ。その、どこにでもある充填材がこの建物にはなかっ
た。
「なるほどな。よくできている」
さんざん探し回ったあげく、汗をぬぐって俺は言った。寒さで指の先が痺れる。
空気が薄くなっているのはもう明らかだった。
神か悪魔か知らないが、女の子を裏切るような卑劣感には相応しい報いというも
のだ。 俺は自分でも驚くほどに冷静だった。腹をくくったと言えば聞こえはいい
が、ようは諦めてしまったわけである。
息が苦しくなってきた。そして強い眠気が襲ってきた。
床に座り、時間を確認する。あれから四時間が経過していた。この分だと、後一
時間もしないうちに空気のほとんどが流出してしまうだろう。俺の命もそれまでだ。
一方で、アンナに着せた宇宙服の酸素は活動状態で約六時間、予備タンクでさら
に二時間もつ。その八時間以内に救助されなければ、アンナも死ぬ事になる。すべ
てが凍りついた月面で。
「くっ」
俺はだんっ、と壁を殴りつけた。今更何を言ったところで自分のした事が変わる
わけでもなく、誰が聞くでもない。
それでも。ああ、それでも。
「ごめんな」
そう言って俺は、全身を包む眠気に身を委ねた。
俺は自分のベッドの上で目を覚ました。
「夢……?」
一瞬だけ自分の理性と記憶を疑ったが、腕に刺さった点滴のチューブと、俺の横
で、ベッドに腕と頭を預けて眠るアンナを見て、何事が起こったのか悟った。
「助かったのか」
なんとも竜頭蛇尾な結末である。俺はしばらくの間、どんな表情をすればいいの
か分からないでいた。結局、選んだのは苦笑いだった。俺の覚悟も、後悔も、諦め
も、何の意味もなかったわけだ。ただ月の女神がもたらした運命が、俺を生かすと
決めただけ。とんだ茶番だ。
俺は上体を起こすと点滴の針を引き抜き、こっそりとベッドを抜け出そうとした。
「ん……」
しかし、アンナが目を覚ます方が早かった。ブルーの瞳が俺を見つめる。
「陽太……」
俺は顔をそむけた。今更、どの面を下げて恋人でございなどと言える?
「陽太!」
ぐぎっ。
無理矢理にアンナの方に向けられた首が嫌な音を立てた。地球育ちのアンナの筋
力は俺よりも強い。
「大丈夫? あたしが分かる? ねぇ、なんとか言って!」
「痛っ、痛い、痛い。分かる。分かるから手ぇ離してくれ」
離れなかった。アンナは俺の背中に手を回すときつく抱きしめてきた。
「良かった。救助された時、あそこ、ほとんど空気がなかったって聞いていたから。
すごく心配したのよ。気密が破れたのはすぐ分かったから」
「なんで……ああそうか」
隔壁の下から流出した空気はすぐに水蒸気が氷となって白い煙となる。内側にい
た俺には分からなくても、外側にいたアンナにはすぐに分かったのだろう。
「助けて……くれたんだな……」
俺は見殺しにしようとしていたのに。
「違うよ。陽太が助けてくれたんじゃない」
「俺が?」
「ほら、前にこの宇宙服を着て外に出た事があったじゃない」
記憶にない。
「環境適応訓練で。二人一組で月面に出て。あたし、全然何も分からないからおた
おたしちゃって。着てる宇宙服も同じ子供用の黄色で。パートナーが陽太」
「ああ」
精神の疲れる訓練だった。気に入らない地球生まれの女を相手にしないといけな
いので、さらに気乗りのしない訓練だった。ろくに立って歩くこともできず、転ぶ
わ騒ぐわ機材は放り投げるわ、そのくせバカ力だけはあるわ。俺はまともな訓練を
諦め、必要最低限の事だけを伝えることにした。
「よく分かった。お前は何もしなくていい。被害が広がるだけだ」
「したくてしているんじゃないわよ」
「いいから。これから本当に大事な事だけを説明する。一度しか言わん」
俺は黄色い宇宙服の左肩を指さした。
「非常用レーザー通信機だ。遭難した時にこいつを使う」
「それで? どこにアンテナ向けるのよ?」
レーザーは強い指向性を持つ光だ。普通の光のように遠くにいくにつれ拡散する
ことなく、遠くまで届く。一方で、障害物があれば役には立たない。
「あそこだ」
灰色と黒の月面。光と闇の宇宙。どっちもどっちだ。だが、その宇宙に一つの宝
石が輝いている。
青い星。母なる地球(ガイア)。
四〇億年の時と、三八万キロメートルの虚空を越えて、地球は常にそこにあった。
月の地球への公転周期と自転周期は一緒。よって、常に月は同じ面を地球に向けて
来た。
「後は機械がやってくれる。地球の通信局にピンポイントでSOS信号を発振する。
そうすれば、一番手近なレスキュー隊が駆けつけてくるって寸法だ。おい、聞いて
いるのか?」
聞いてなかった。アンナは吸い寄せられるような視線を地球へひたと向けていた。
そしてしばらく拳を握ってふるふるさせ、やおら俺に向き直って言った。
「綺麗! すっごく綺麗!」
紅潮した満面の笑顔。冷たい女だと思っていた少女のいきなりな不意打ち。
この荒涼とした月の上で。全身で生きている事を示す。地球生まれの少女。
正直、その訓練の前後の事はあまり覚えていない。
覚えているのは、地球光の下で踊る少女の姿。
「だから、陽太に教えられた通りに通信機を地球に向けたの。そしたらすぐに応答
が返ってきたわ。シティで大きな爆発事故があったから、近寄らない方がいい。そ
して月じゅうから救援が向かっているって」
事故は、老朽化した酸素精製工場が地震でいかれてしまい、爆発したのが原因だ
った。酸素精製工場は俺とアンナがいた発電所とシティの間を結ぶライン上にあり、
それで通路が吹き飛ばされたのだ。シティのほとんどは衝撃で隔壁が落ち、分断さ
れた。危機管理センターは電気が途中で断線して何の役にも立たなかった。
シティの通信施設が復旧するまでの間、アンナは貴重な中継点の役割を果たした
のだ。
「あたしに勲章をくれるっていう噂もあるのよ」
アンナはいたずらっぽく笑った。
「でもね。それ以上にすごい報酬があるの。分かる?」
「いいや」
「パパがね。陽太との事、認めてやってもいいって!」
アンナの父親はこのシティの仮の行政長官だ。仮とはいえ、トップである事は間
違いなく、彼としては愛娘にちょっかいをかけてくる一作業員の息子(俺の事だ)
を苦々しく思っていたはずだが、どういう風の吹き回しだろうか。
「ほら、命がけで娘を助けようとしたっていうのが効果的だったんじゃない?」
「冗談じゃない!」
俺の声は叫びに近かった。真実はまるっきり逆だし、最初の計画だってそんな話
ではなかった。
「アンナ、何かお前、いらない事を吹き込んだんじゃないのか?」
「事実を言っただけよ。……そりゃ、ちょっとは脚色したけど」
つまりほとんどデタラメを並べたわけだ。こいつは後で口裏を合わせるのに苦労
しそうだ。
待てよ。
俺は考えた。
彼女が『脚色』したのは本当にそれだけだろうか?
自分のベッドを――病院のベッドはけが人で満杯だった――抜けだし、アンナの
目を盗んで月面に出るのに二日かかった。
目的地は発電プラント。そこの通路につながった隔壁。
スレートからケーブルをのばし、隔壁を手動で操作する。
低い震動を響かせて隔壁が上がった。
そして隔壁と床の間には。
工具が一つ、落ちていた。宇宙服に備え付けの工具の一つが。これが、隔壁と床
の間に隙間を生じさせ、空気が漏れる原因になったのだ。
証拠はない。この工具はアンナが外に出る時に偶然落ちたのかもしれない。
だが。ひょっとすると。
それもまた、アンナらしいと思えた。
スレートが鳴った。アンナが俺を捜している。俺はすぐ戻ると答え、宇宙服のポ
ケットに工具をしまった。
真実がどうかは分からない。真実があるとしても、俺がそうだったように人の心
は簡単にうつろう。今の俺はアンナを愛しいと思うし、アンナにしても同様だろう。
月の不良少年にはそれで十分だ。
俺は、アンナの待つシティへと歩いていった。
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