龍の守護者外伝2『記憶』

 注意:これは『龍の守護者』シリーズの外伝です。先に本編のシリーズをお読みになってから読まれると、より楽しむ事ができます。


「お前の大切な物を奪ってやる」
 どうだろうか。
 下半身を失い、はみでた腸と血反吐の中に沈みながらこの大言壮語。命乞い
ならともかくこの期に及んで脅迫ときた。
 むろん命乞いをしても助けてはやらないが。
 俺は容赦なく恨み言をくだくだ言いつのる頭を吹き飛ばした。
 脳髄やら骨やらが混じった肉片が周囲に飛び散る。
“忘れるな……”
 意外としつこい。
「あいにくだがそんな贅沢な物はない」
 大切な物など何もない。
 自分の命すら、俺にはどうでもいい。
“いつか……必ず……”
 そこまで言って魔術師は死んだ。
 空には白い月が浮かび、さえざえと光が降り注いでいた。

「有樹様、朝です」
 きれいだが冷たい声が俺を覚醒させた。
「……ん」
 俺は身体を起こした。久しぶりに静かな朝だ。
(……?)
 いや、朝はいつも静かなはずだ。
「どうかなさいましたか」
 紫苑はじっと俺を見ている。その顔にはどんな表情も浮かんでいない。
 俺は軽く頭を振った。どうも、何か違和感のような物が残っている。右手が
額をもむ。
(いつもの朝だ)
 そうだ。いつもの朝だ。
「有樹様?」
「いや、いい」

 高価な食器にいろいろな食材が並んでいるが、今朝はあまり食欲はない。
 俺はトーストだけかじりながら紅茶を飲む。
「……」
 俺のかたわらには紫苑が立っている。
 広い食堂。大きなテーブル。俺と紫苑のふたりだけ。
 いつものことだ。
 だというのに、なんでこう、息苦しく感じるのか。
「紫苑」
「はい、有樹様」
「うん。今朝は、その……」
 そこで言いよどむ。右手が軽く振って言葉を取り消した。
 どうもおかしい。
 普段はもっとにぎやかだなんて、どうして考えてしまうのか。
 この屋敷にいるのは俺と紫苑のふたりだけ。
 ずっと、俺と紫苑だけなのに。

「ふたりともおらぬ」
 金髪の少女はずかずかと食堂に入って来て言った。
「おのれ紫苑め。夏祭りの件で調子に乗ったか。抜け駆けしおって」
 少女の名前はソフィア。ロシア人の魔術師である。
「それならいいんだがなぁ」
 おひつからご飯をよそいながら田所は難しい顔をした。今朝の食事当番は田所
である。有樹の食事を紫苑とソフィアのどちらが作るかで幾度かもめた後、結果
としてこの屋敷に住む4人が交代で朝食を作る事に決まったのだ。
「よくないっ」
「いやそういう意味ではなくてだな」
 いきりたつソフィアに大盛りの茶碗を差し出す。ソフィアは礼を言って――
なんだかんだ言って良家の子女なのだ――器用に箸を使って海苔と焼き魚でご飯
を食べる。
 ぱくぱくぱくぱく。育ち盛りなのだろう。この一年でソフィアはだいぶ背が
伸びた。そしてそれ以上に胸も成長している。
「思い出すな」
「何をだ?」
 ソフィアがほっぺたにご飯粒をつけて問う。
「いや、俺が最初にここで朝飯を食べた時の事を」
 あの時は自分がソフィアのように旺盛な食欲をみせた。
「ふむ……そういえば田所は遺産の事も有樹が魔術師である事も知らなかった
のであったな」
「まあな」
「しかしヘンだとは思わなかったのか?」
「そりゃもう。郊外とはいえこんなどでかい屋敷に同じ年頃のメイドさんとふ
たりっきりで暮らしているんだ。どう考えてもワケありなのは分かってたよ」
 というか、どこのエロゲーかと。
「好奇心か?」
「そうだな。むしろ危機感とでも言うべきだろうか」
「危機感?」

 そのクラスメイトはどうにも変わっていた。
 名前は天梁有樹。
 成績は中の下。運動はそこそこできる。
 あまり目立ちたがらないおとなしい奴だが、そういうのはごまんといる。
 田所の気をひいたのはそういう表面的なキャラクターではなかった。彼には
天梁の一挙手一投足が、出来の悪い映画やドラマのようにみえたのだ。テレビ
ドラマでアイドル出身の大根役者が、ごく普通の高校生を演じているかのような。
 興味を持ったのでちょっと付き合う事にした。
 天梁は迷惑そうだったが、付き合いを断ち切るような真似はしなかった。
まるでそうすると自分が演ずるべき役からはずれてしまうかのように。
 そういうわけで、しばらくして田所は帰宅するそいつにむりやりひっついて、
そいつの家を訪問する事にした。
 でかい屋敷だった。だが、田所の本家だって資産家という点では負けては
いない。
「おいおい天梁。これがお前のモンだっていうのか?」
「叔父から相続した」
 天梁有樹はそっけなく答えた。
「これだけでかいと、使用人だけでもバカにならんだろう」
「いや。ここには俺と、後ひとりしかいない」
「ひとり?」
 その“ひとり”が、門の前で主の帰宅を待っていた。
「お帰りなさいませ、有樹様」
「ただいま、紫苑」
 田所は呆けたように紫苑と呼ばれたメイドを見ていた。若い――というか
同年代にしか見えない。そして、美人――Aランク。スレンダーなのが
好きならA+。
 しかし、田所の背中をぞくりと冷たい物が走ったのはなぜか。
 彼は田舎の中学時代、反抗期で悪い事もしている。田舎だけに血をみる
ようなケンカも経験があるし、ちょっとやそっとではびくついたりはしない
という自信があった。
 彼を恐怖させたのは、そういう目に見える肉体的な不安ではなかった。
 それどころか、それ自体は決して不安を感じる物ではない。
 紫苑に話しかける有樹は、学校で身にまとっているあらゆる虚飾をはぎ
とったひとりの少年であった。有樹がこの美しいメイドに心を惹かれている
のはすぐに分かった。
 有樹の世話をする紫苑は、無表情と冷たい声にすべてを隠そうとしていたが、
何気ない視線や仕草が、少女の恋心を言葉以上に雄弁に物語っていた。
 そうだ。不器用であるがこのふたりは互いに想いを寄せ合っている。
 ならばなぜ。
 田所は思った。
 なぜ、この屋敷から。このふたりから。
 腐臭が漂っているのか。
 熟しすぎて腐りゆく、果実の甘いにおいが――

「有樹様、学校へは――?」
「休む」
 有樹様はけだるげにソファに座り込んでそう言われた。さっきから右手が頭を
撫でている。
「わかりました」
 朝食を片づけながら私は答えた。半分以上の皿が手もつけておられない。
 有樹様は最近お痩せになられた。だからといってそれはひ弱になったという
意味ではない。目には力があり、言葉には意志があり、動きには無駄がない。
 抜き身の日本刀のような印象が今の有樹様にはある。戦国時代に粗製濫造
された力任せに叩き斬る数打物ではなく、江戸中期以降に打たれた銘ある
新刀のような。
 切れ味が悪いわけでもなければ、見た目が悪いわけでもない。けれども
もとより戦の道具ではすでにない。
 有樹様もそうだ。
 戦う力を持つという事と、実際に戦う事の間には大きな差がある。先代様が
亡くなられてからずっと、有樹様は遺産を守って戦い続け、殺し続けている。
ひとり殺すたび、命を奪うたび、有樹様の瞳から何かが抜け落ちていくのが
分かる。子どもの頃、あんなにもきれいだった瞳が、ガラス玉のような光を
放つようになっていく。
 できるならば、私が有樹様の代わりに殺したい。
 有樹様のためなら、何人でも殺す。誰であろうと解体する。逃げようが命乞いを
しようが殺戮する。私が汚れることで、有樹様が救われるのであればいかなる
汚泥も厭うつもりはない。
 なのに、有樹様は私が殺し合いをするのを好まれない。
 代わりに――
 今の私にできることは何かないだろうか。じっと有樹様の横顔を見る。

 ……あ。

 あった。
 いやでも。はしたないと思われないだろうか。
 ううん。決してそんな事はない。やましい気持ちなんかこれっぽっちもないの
だから。
 そう。これはメイドとしての仕事。決してそれ以上でもそれ以下でもない。
 意を決し、私はぼんやりと視線をさまよわせる有樹様に歩み寄った。
「有樹様、よろしいでしょうか?」
 冷静に。冷静に。
 血流を制御して。鼓動を平常に保つ。
「なんだい?」
「お耳を、掃除させていただいてもよろしいでしょうか」
「…………え?」

 そして俺は、紫苑の太ももの上に頭をのっけている。
 紫苑は決してふくよかな方ではない。
 低反発枕のように頭にフィットする機能があるわけでもない。
 だから、足の上に頭をのせたとしても、そんなに危険はないはずだ。
 ユークリッド幾何学からいってもそのはずだ。
 大丈夫。問題ない。
 だというのに、
 俺のその予想は完全にはずれた。

 なんて――気持ちいい。

 これなら対人地雷の上に横になった方がまだましである。対人地雷の対処方法は
知っている。
 けれど、太ももに抵抗する方法は知らない。
 分析してみよう。
 柔らかい。
 弾力があって、決してふかふかではないが、どんな高級な枕よりも俺の頭に
フィットしている。
 その上、紫苑の指が優しくちょこちょこと耳をくすぐってくるのだ。
 ちょっとでも気を緩めたら終わりだ。
 このまま紫苑の太ももを抱きしめてほおずりをしてしまいそうになる。
 平常心。平常心。
 呼吸を整えろ。理性を保て。
「有樹様」
「ん?」
「反対側を」
 くるりん、と紫苑の手で俺の身体は半回転した。
「!」
 ぼふ、と顔が紫苑の下腹部に衝突した。
「ひゃんっ」
 紫苑がすっとんきょうな声を出した。
「わ、悪いっ」
 俺は身体を離そうとする。だが、俺の右腕は紫苑の身体を抱き寄せて離さない。
「あ……これは、その……」
「有樹……様」
 じっと俺を見つめる紫苑。
 そのまぶたがそっと閉じる。
 俺は――紫苑に――

「くそっ、死霊術か!」
 一晩で朽ちた樹木の根元を調べたソフィアが舌打ちした。
「やばいのか?」
 ソフィアの代わりに根元をスコップで掘り返した田所が聞く。
「この屋敷を建て直した時に、庭の木々をそのままにしておいたのが仇になったな。
今の屋敷は霊的な防護では前の屋敷にとうてい及ばない。ここの呪詛はここで
ずっと霊的な防護が弱くなるのを待ちかまえていたんだ」
「誰がやったんだ?」
「わからん。だが、そいつは自分が殺された時にここで再生するつもりだった
んだろう」
「ゾンビか?」
「屍鬼――いや、吸血鬼だな。馬鹿な事を」
「よくわからんが、再生するならここでなくともいいだろうに」
「自力で吸血鬼になる術は、死ぬ場所でないと効果がない。だが――くそっ、
中途半端に成功しおって!」
「どういうことだ」
「死者の分際で現世に蘇るのにもっとも必要なのは、術でも魔力でもない。
怨念のような強い執着心だ。だから不完全に復活したりしたら、もっとも強い
想いだけしか残らない」
「あー、あれか? 幽霊が自分を殺した相手を呪うようなもんか?」
「そうだ! こやつめ、憎しみだけが残念しておる。私とそなたが無事で
あったのも当然だ。こやつが死んだ時、この屋敷には有樹と紫苑しかいなかった
のだからな」
 枯れた木から屋敷を見上げる。
 二階――開いた窓は有樹の寝室だ。
 ソフィアはぎりぎりと歯がみした。
「探れっ! 風龍!」
 ソフィアが屋敷の中に風を流す。
 静かな、頬を撫でたとしても気づかない空気の流れ。
 くるりくるり。
「どこだ。どこに隠れた――いや、隠した」
 もしも有樹と紫苑が囚われているとしたら、その痕跡は必ず天梁の屋敷の
どこかにある。
「風の淀むところ――空間が歪む場所――」
 風龍ならば、それを探知できる。
 風龍とソフィアの意識はしだいに屋敷の中の奥まったところへと踏み込んで
いった。
「上――? 屋根裏部屋か?」
 再建された天梁の屋敷はその前の屋敷とまったく同じ構造になっている。
広大な屋敷を大勢の使用人で維持していた時代の建物だ。屋敷は接客などの
公に属するエリアと主人やその家族が住む住居としてのエリア、そしてそれらに
奉仕する厨房や使用人の住むエリアとに三分割される。そして前のふたつと
最後のエリアとは、意図的につながりがわかりにくくしてある。
 泥を落とす手間さえ惜しみ、ソフィアと田所は屋敷に入ると急な階段を
駆け上がった。屋根裏部屋は確か物置になっていた。かつてここは天梁家が
代々ため込んできた無数のがらくたで埋まっていたが、屋敷崩壊と再建によって
がらくたは一掃されてしまい、むやみに広い吹き抜けになっている。
「何もないぞ」
「だが、風龍はここだという。ならばここだ」
 ソフィアは精神を集中した。わずかに空間が歪んでいる形跡が感じられる。
だが、どういう術なのか詳しい事は分からない。
「私に破れるのか」
 潜在力はともかく、ソフィアの魔術の腕前はそれ相応でしかない。呪いが
あるとしても解呪できるとは限らない。
 それでも。
 きっと。
(私――なんだ)
 有樹と紫苑。
 お似合い――とか
 相思相愛――とかではなく
 このふたりは、互いを補完している。
 有樹が抱える虚無を。
 紫苑が背負う重荷を。
 互いが互いを支えあい、満たす事ができる、ふたりはそんな関係なのだ。

 そこには、他の人間は必要ではない。

 今度のように遺産が解放されるような事がなければ、ふたりはこの屋敷の中で
一生を終えただろう。いや遺産が解放された今こそ、ふたりにとってそうあるのが
もっとも自然な形なのだ。
 静かに。
 朽ち果てるまで。
 それはそれで幸せなのかも知れないし、他人がどうこう言うのはいらぬ
お節介かも知れない。
 だが田所はそうは思わなかったし、ソフィアも同意するつもりは毛頭ない。
 探索を始める前に、ソフィアはその点で田所と会話をしている。
「私はむろん有樹が好きだからだが――田所よ。なぜお前はそんな事をする」
「俺も天梁が好きだからだよ。――あ、言っておくがヘンな意味は毛頭ないぞ?」
「安心しろ。お前の守備範囲の広さは知っているが、そこに同性は含まれないのも
承知している」
「俺は天梁も紫苑ちゃんも好きだからな。ふたりに、もっともっと幸せになって
もらいたいと思う理由は、俺としてはそれで十分だ。だから引っかき回し役を
こなしてきたんだが――根本的にふたりの関係を何とかできるのは、おそらく
ただひとり。ソフィアちゃんだけなんだ。だから、頼むよ」
「任せろ」
 そして今、自分はここにいる。
 自分がまだ子どもなのは承知している。
 自分がまだ未熟なのも分かっている。
 かといって立ち止まるつもりは毛頭ない。
 成長するまで待つなんて冗談ではない。
 何かをなすなら、何かを手に入れるなら、ただ是、前進あるのみ。幸せの青い鳥を
捜したチルチルとミチルは冒険の果てに青い鳥が最初からすぐそばにいたと気づく。
 ならば彼らの冒険は無駄だったのか?
 そんなはずはない。
 青い鳥を見つける事ができたのは、ふたりが一所懸命に青い鳥を捜した結果だ。
ただ座して待って憧れていて、それで幸せを掴んだのではない。
 結局一巡りして元に戻るのだとしても、徒労に終わるのだとしても、そんな
結果論は足踏みをする理由になりはしない。
 だから――
 目には見えぬ入り口を、閉ざされた扉をイメージする。ふたりが封じられた空間を。
 強く、強くイメージする。魔術を介せば、強い心象は現実へとつながる。
 その扉を自分ならばどうするか。
 押すか?
 引くか?
 叩くか?
 そんなもので扉は開かない。中にいるふたりに届きはしない。
 ふたりだけで満たされていると。
 お前など、いらないと。
 そちらが拒絶するというのなら。
「私は――」
 手の中の風龍がゆっくり、ゆっくりと口を開く。
「そんな扉――」
 中にこめられたのは魔力にあらず。
 ソフィアの思い。ソフィアの心。
「ぶっこわーっすっ!!!」
 堂々たる宣言と共に、
 閉ざされた扉が、割れ――否、はじけ飛んだ!

「な――?」
 扉の向こうにふたりを見つけ、ソフィアは絶句した。
 幸せそうに互いに寄り添う有樹と紫苑。
 だが、ふたりの身体は腐臭が漂う汚泥に半ば埋まり、顔は病的なまでに白い。
一見して分かるほどに衰弱している。
 だが、問題の死霊術をかけた魔術師の姿がない。
「くそっ、術をかけた本人はどこだ?」
 ソフィアの言葉に有樹の右腕がぴくり、と動いた。
 ふたりが身じろぎをした。のろのろとした動作でまぶたを重そうにあげ、
封鎖空間に侵入してきたソフィアを見る。その表情に変化はない。
「誰……?」
 紫苑が有樹をかばうようにして立ち上がった。有樹はもはや自力では立ち
上がれないのだろう。ぐったりと汚泥に半身をひたしている。
「紫苑、私だ」
「あなたは……協会の魔術師ね」
「私だ、ソフィアだ」
「有樹様には、指一本触れさせません」
 紫苑は立っているのがやっとという風情。それでも背筋が総毛立つような
気迫が、鬼魄がかげろうのように立ち上っている。
「何を呆けておる! 有樹を見よ! 死霊の呪いで死にそうになっておる
ではないか!」
 ソフィアがそう叫んでも、紫苑の様子は変わらない。
「くっ……どけいっ! 今は有樹の処置が先だ」
 ソフィアはカタールを取りだして握った。篭手の部分が膨らみ、
アラビア文字が刻まれている。
 汚泥を跳ねとばしながら有樹に近づく。
「有樹、起きろ!」
 一条の光がソフィアの視野の端に写った。
 意識よりも肉体の方が先に反応していた。後ろにとびすさる。
 それで十分なはず。
 だのに――
 く、く、くん。
 光る刃は予想をはるかに上回る距離を追ってくる。必殺の――首を断ち切る
軌跡が無慈悲にソフィアの細い頸をかききらんと迫る。
 ソフィアは光る刃に左の掌を向けた。
 ぎぎぎぎぎぃぃぃぃぃ。
 耳障りな音を立てて、刃の動きがそらされる。
 ばしゃばしゃばしゃ。
 それでも態勢を崩し、後ろに数歩下がりながら、ソフィアはカタールを
構えなおした。
 その彼女の前に、紫苑が立ちふさがる。両手には鴛鴦鉞。だが、構えるだけの
力もないのだろう、だらりと両腕は下がったままだ。
 息は荒い……というか、ひゅーひゅーという小さな笛の音のような音を
たてているに過ぎない。こんな呼吸で、今のような立ち回りに必要な酸素が
得られようはずがない。
「馬鹿者! 状況が分かっておらんのかっ! このままでは有樹は死ぬぞっ!」
 むろん、分かっているはずもない。今の紫苑は知性はあれども理性はなく、
死してなお残る呪縛に完全に囚われている。しかもその呪縛を動かす魔力の
供給源になっているのが有樹自身だ。
 紫苑の瞳が黄色い輝きを放った。
(来る――?!)
 紫苑のあの様子なら、次の一撃を防げば二の矢はない。ソフィアは腰を
落として身構えた。とにかく避ける。それだけだ。
 びょおぉぉぉう。
 スカートを翻し、紫苑が迫る。両手の鴛鴦鉞が大きく広げられる。
(え? この、構えは?)
 考える暇もなく、ソフィアはカタールを突きだしていた。貫きに特化した
武器であるカタールの突きは、生半な鎧など簡単に貫通する。
 ぎん、ぎん、ぎぃん。
 鴛鴦鉞がカタールを弾く。ソフィアがさらに踏み込む。死角から迫るもう
片手の鴛鴦鉞を、左手の風龍による防護円で食い止める。引き戻したカタールを
立て、次の攻撃を防ぐ。さらに次の、そのまた次の、終わりのないラッシュが
ソフィアを四方八方から包み込む。
(な……こ、こんな……)
 大きく、小さく、繰り返す円の動き。変幻自在にきらめく刃。紫苑が持つ
最強で必殺の技。
 魔術で強化されたカタールが、青白い火花を散らす。風龍の守りはほぼ
マックス。120ミリ滑腔砲の直撃だって弾くレベルだ。だというのに、
ソフィアは防戦一方。
(これが……これが……紫苑の本当の……力?)
 世界中の魔術師から狙われる天梁の一族を常に影から支えた従者の、その
最後にて最強のひとり。
 ソフィアがまだ生きている理由はただひとつ。この技を知っているから。
天梁の家に居候するようになって紫苑と何度も組み手をし、この技を実際に
見た事があるから。そして、その記憶を紫苑が失っているから。
 だが、この技はたとえ体調万全であっても1分と続けられるものではない。
「や、やめよっ! 紫苑っ! いくらそなたでも――」
 紫苑は止まらない。立つことすらおぼつかない肉体を極限まで行使して
死の舞踏(ダンスマカブル)を踊りつつける。
 ソフィアは理解した。紫苑は死ぬつもりだ。この戦いでソフィアを殺す。
後の事は考えてもいない。そもそも生き残るつもりがない。
 目の前にいるのは死兵――ならば、自分も――
 ソフィアは覚悟を決めようとした。だが、そう思えば思うほどに、怖くなる。
心が萎える。そもそも、死を覚悟してどうこうなるような実力差ではない。
模擬戦ですら、一度も勝った事がないのだ。
 死ぬのは、怖い。
 殺されるのは、嫌。
 じゃあ、どうすれば、いい――?
 自分にはまだ力がない。
 有樹も、紫苑も助けられない。
 ぽろり。
 ソフィアの瞳から、一筋の涙がこぼれた。
 悔し涙。
 悔しくて悔しくて――でも決して諦めるつもりなどはない。
 力が足りないのなら。
「……けて」
 荒れ狂う刃をかわしながら、ソフィアの唇が動いた。
「たすけ……て」
 命乞いではない。
 これは取り引きだ。
 力が足りないのだから、力を貸せ。その代わりに――

 自分が、有樹を、紫苑を、ふたりを――

「大好きなんだからっ!! 助けてっ!!!」

 とくん――

 閉ざされた呪いの空間で、小さく、だが力強く、鼓動が響いた。
「し……おん……」
 有樹の唇が、かすれたとぎれとぎれの声を発した。周囲では鋼が暴虐な
ヘビーメタルをがなりたてている。その騒音の中、聞こえるはずのない声は、
だが、確かに聞こえた。
 紫苑の動きが、わずかに鈍る。
「や……め……ろ……紫苑……」
 動かぬはずの身体を動かし、開かぬはずの目を開き、有樹が立ち上がろうと
する。左腕一本で身体を支え、汚泥から身を起こす。
「ヤツは俺に寄生……してる」
 鴛鴦鉞の動きが止まる。だが、それは回り続けていたコマが止まるに等しい。
紫苑がそのまま朽ち木のように倒れる。受け身も何もない、やばい倒れ方だ。
鴛鴦鉞で自らを傷つけなかったのはほとんど僥倖でしかない。
「紫苑っ……く……」
 紫苑のそんな様子が、有樹の身体から最後の力を引き出した。左手で右腕を
掴み、引きちぎらんばかりに引っ張る。
「貴様の術はもう破れた! 俺から――離れろっ!」
 ぐわっ。
 有樹の右腕が持ち上がり、びちびちと音を立てて変形する。凶暴な槍の姿に。
その槍の穂先がぐるん、と向きを変えて有樹の心臓へ――
 ざんっ。
 倒れたまま紫苑が投擲した鴛鴦鉞が、回転しながら槍の穂先を斬り飛ばした。
だが、槍は今度は長い爪となって心臓をえぐろうとする。
 ソフィアがカタールのピンを引き抜き、ぐっ、と握った。
「灰は灰に、塵は塵に! 消滅せよ、ヴァンパイアッ!!」
 カタールに仕込まれたバネがはじけ、刃の部分が発射された。
 それは狙い違わず有樹の右腕に憑依していたヴァンパイアを貫き通した。
 苦悶の悲鳴をあげて死霊術師は二度目の、そして完全な死を迎えた。

 ちゃぽん――
「ふぅ」
 だだっぴろい湯船につかり、俺はため息をついた。湯の熱さがじわじわと
身体を温める。
「やれやれ……今日は疲れた」
 あれから10日あまり。今日は久しぶりに学校へ行った。俺とソフィアが
休むのは毎度の事なので、クラスメイトも馴れたものである。文芸部の堀越が
今度は何と戦ったのかと聞いてきたので、「己自身」だと答えたら、定番で
安直すぎると怒られた。
「有樹様、湯加減はどうですか?」
 浴室の磨りガラスの向こうから紫苑の声が聞こえた。紫苑は俺よりも回復が
早く、3日目にはもう仕事に戻っている。
「ん、ちょうどいい」
「そうですか。では失礼します」
 へ?
 からり。
 戸を開けて紫苑が入ってきた。タオルは巻いているが――すらりとした手足は
むきだしである。
「な、な、なんだ?」
 俺は思わず湯船の中に沈んだ。
「お背中を――その、お、お、お流し、します」
 紫苑の語尾がしだいに小さくなる。見れば顔は真っ赤だ。
 黙っていると両手をもじもじと所在なげに組んで俺を見つめている。
 恥ずかしいならやらないで欲しい。少なくとも俺は死ぬほど恥ずかしい。
「いや、いい。大丈夫、自分でできるから、その……」
 そこまで言って、口をつぐむ。こんなのは紫苑らしくない。らしくないのに、
しているのは――なぜだ?
 紫苑を見る。顔を見ているつもりが、ついつい視線は下の方にずれる。
タオルの下から伸びる白い太ももに――太もも――はて、何かあったような――
「あ」
「あの……有樹、様?」
「耳掃除」
「っ!」
 紫苑が唇をかむ。表情が硬い。
 気にしてるのだ。囚われていた時の事を。あの時に、あれだけ幸せだった
気持ちのすべてが、実は罠であった事を。
「紫苑が気にする事じゃない」
 それがいかにも空虚な言葉であると知りながら俺は口にする。
「ですが……」
「術にかかったのは俺が未熟だったからだ。紫苑はそれに引きずられた――
それだけだ」
「ですが……」
「ああっ! もうっ!」
 ざばっ。
 立ち上がった俺はびたびたとタイルの上を歩いて紫苑に近づく。紫苑が目を
丸くする。
 俺は有無を言わせず紫苑を抱きしめた。
「俺がもし道を間違えたら――」
「はい」
「俺がもし欲や野望や怨念や、とにかく何かにとりつかれたら――」
「はい」
「俺は最悪の人間になっちまうだろう」
「……」
「俺が最低で最悪で、どうしようもない人間になっても――」
「……」
「紫苑は俺のそばにいるんだ。すべての人間が俺から離れていっても、紫苑だけは
俺を裏切らないでくれ。そして一緒に地獄へおちよう」
「はい、誓います」
 みじんのためらいも、いささかの逡巡もなく、紫苑はそう言った。
「約束だぞ」
「約束です」
 がららららっ――びしゃんっ!
 浴室の戸がものすごい勢いでスライドした。
「有樹っ! 紫苑っ! 何をしておるっ!」
 がぉーっ、とかみつかんばかりの勢いでソフィアが叫んだ。
「ソフィアっ?!」
 俺をにらんだソフィアの顔がすぐさまゆでたこのように真っ赤になった。
手で顔を隠す。
「ば、馬鹿者っ! しまえっ!」
「え? あ? わ?」
 俺はあわてて自分の物を隠そうとそばにあったタオルを引っ張った。
 タオル?
 はらり。
 紫苑の身体を申し訳程度におおっていた布地がほどけて俺の手におさまった。
「あ――きゃっ」
「わわっ、ご、ごめんっ」
「こらっ! 勝手に何をっ! ええいっ! とにかく服を着ろーっ!!」
 うろたえ騒ぐ俺たちを、窓の外に浮かぶ緑色の月が、柔らかな光で照らしていた。

(おしまい)


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