注意:これは『龍の守護者』シリーズの第6話です。先に、第5話の『母来る』をお読みになってから読まれると、より楽しむ事ができます。
丸い。 丸い、卵。 体液の中に浮かぶ、卵。 受精しなければ、捨てられる。 それがさだめ。 卵はそれを知らない。 卵は待ち続けるだけ。 受精の時を。 あるいは、 排卵の時を。 それはいつなのか? それとも── いつ『だった』のか? おれは目覚めた。 ねっとりとした汗で、パジャマが肌にはりついている。むろん、暑いせいも ある。エアコンは嫌いだから室内の温度はやや不快なまでに上昇している。だ が、この汗のほとんどは──恐怖のためだ。 「またあの夢か」 子どもの頃は怖い夢をみたら母さんの布団にもぐりこんで一緒に寝た。この 年ではさすがにそんな恥ずかしい真似はできない。母さんの方は喜んで迎えて くれるだろうが……あの女性(ひと)はスキンシップというものを軽々しく考 えすぎだとおれは思う。 頭を一つ振る。 外はまだ暗い。雷龍を呼びだして宙に浮かべ、灯りがわりにする。青白い光 の下で枕元の時計を見た。午前3時半。 いくら夏といっても夜明けはまだ先だ。起きるのには早すぎる。紫苑か、あ るいは彼女の隙をついてソフィアが部屋に入ってくるまでもう一眠りできる。 だが、とても眠る気にはならなかった。あんな夢をみた後では。 寝室は夏の湿気がこもった暑気で満ちている。俺はベッドから下りると、素 足のままぺたぺたと寝室を横断し、壁の柱に彫られた細工に手を触れた。 ぎい。細工が回転して柱に穴が開いた。手を突っ込む。瓶を引っ張り出す。 取り出したのはウィスキー。別に高級酒というわけではない。紫苑に隠れて 飲む寝酒用なので、自分の小遣いで買っている。 正直、酒の善し悪しはあまり分からない。田所の方がこういう贅沢には慣れ ている。俺は酔えればそれでいい。 軽くウィスキーの瓶を揺する。軽い。半月前に買ったばかりなのだが。グラ スも何もないから、瓶の口を開けてそのままラッパ飲み。 生ぬるい液体が喉を焼きながら胃の腑に落ちていく。 「ごほっ、ごほっ」 せき込みながら思う。死んだ叔父もまた、こうして悪夢と共に目覚める日々 を送ったのだろうかと。瓶のラベルに描かれた、グラスと麦を持った髭の外人 をながめる。とりあえずこれを叔父だと仮定して話しかける。 「どうしておれを、子どもの時に引き取らなかったんだ?」 おじの女性遍歴については本人が吹聴していた法螺以外に証拠はない。とも かく事実として残っているのは、叔父は一度も結婚しておらず、認知した子供 も一人もいないという事だけだ。だから、妹の息子であるおれが養子となって 叔父の死後、天梁となった。 「あんたはおれを鍛えたが、遺産については何一つ教えなかった」 魔術と戦闘技術に関しては、子どもの頃からかなりムチャな鍛え方をされた。 肉体の鍛錬という意味では、もしかしたらおれより過酷な修行をさせられてい る子どももいるかも知れない。だが実戦に即しているという意味では、叔父に よる修行は常軌を逸していた。 「今さら恨む筋合いでもないがな」 おれが初めて人を殺したのは9才の時だ。 場所はアフリカ中部の国。民族紛争で内戦中のその国で、おれはナイフで兵 士を殺した。どっちの側だったのかはいまだに知らない。だが、その兵士はま だ若く──15才くらいだった。歯をむき出しにし、苦悶の表情を浮かべたそ の死に顔は今でも覚えている。 それから何人、何十人、何百人殺したか。もう数える気にもなれない。 一人殺すたびに、人を殺す時の心の痛みが消えていく。 今ではもう、何も感じない。 「地獄で待ってろ。おれもいずれ行く」 そう叔父に別れを告げてから瓶をしまい、細工を戻してふらふらとベッドへ と戻る。寝室一つとっても広く、豪華だ。建て売り一戸建て住宅の六畳部屋を 兄と二人で共用していた時代と比べると、天と地ほどの差がある。少なくとも 世間的にはそうだろう。そして美しい女性にかしずかれ、一つ屋根の下で暮ら している。 おれはサイドテーブルを見た。古風な鈴が一つ。これを鳴らせばその女性は すぐさまこの部屋に来る。そして。 そう、おれはどんな破廉恥な望みであろうが、その女性に命じる事ができる。 鈴を手に取り、苦笑。 破廉恥といっても、おれには何をどうすりゃいいのか、そういう知識がから っきしない。紫苑が知っているか知らないかは謎だったのだが、昨日判明した。 紫苑も知らない。 昨日遊びにやってきた母さんと紫苑と、そしてどこにでも顔を出すソフィア の女性陣3人組が、食事の後で何やら研修をしていた。すぐに部屋から追い出 されたので詳細は不明だが、どうもそういうコトの基礎講座から始めていた。 (いい? この人形を有樹だとするわね。まずこの獲物を自分のテリトリーに おびき寄せる方法なんだけど……) ……なんかこー、微妙に不安な気持ちになるな。 そういうバカな事を考えているうちに、悪夢は闇の中に溶けてゆき、わずか に残った恐怖だけが心臓の隅にうずくまっているだけとなった。 そこでそのまま寝てしまえばよかったのだ。だが、おれはつい時計を見てし まった。時間の感覚が、焦燥感とそして恐怖を蘇らせた。 間に合うのか。 間に合わないのか。 それとも、間に合わなかったのか。 三つに一つ。三択である。確率33.3%。 後の二つなら、おれはためらう必要がなくなる。鈴を鳴らす。そして紫苑に ……えーと。 ……と、とりあえず抱きしめる! 後はなるようになるだろう。 ……たぶん。 いっそそうであってくれたらと願っている自分に気がつき、おれの笑みはよ り深く暗くなる。 バカか、おれは。 それが明らかになった時。その時こそ、おれは本気を出さなくてはいけなく なる。この屋敷も、協会の定めた魔術師の七法も、そして家族も友人も学校も、 何もかもをかなぐり捨てて。 バカだ、おれは。 そんな事をしてなんになる。いっそ天梁の名と共に滅び、遺産をもっと相応 しい誰かにくれてやればいいのだ。どうせ死ぬのなら、静かに、従容と滅びを 受け入れればいいのだ。こんな血塗られた世の中に、何の未練があるというの だ。 未練? そうだ、未練だ。 あるのか? そうだ、あるのだ。それもたっぷり。 そう考えた時、おれの身体がぶるり、と震えた。手にした鈴が、チリリン、 と鳴る。 その音は夜の静寂(しじま)の中で意外なほどに大きく聞こえた。おれは思 わず両手で鈴の震えを止めた。そのままそっと元の位置に戻す。 それからおそるおそる寝室の扉を見る。 むろん扉は閉まったままだ。 おれはため息をついた。 闇の中で一人で考え事をしているとろくな事にならない。おれはいっそ瓶を 空にするつもりでもう一度柱に向き直った。 ぎぃ。 扉が開いた。 紫苑がそこに、立っていた。 「有樹様、お呼びでしょうか?」 顔はいつものように無表情。だが声がわずかに震えていた。当たり前だが今 まで寝ていたのだろう、ちょっと大きめの男物のパジャマを着ている。 そのまま、阿呆のようにおれは立ちつくし。 紫苑は我慢強くおれの返答を待ち続けていた。 不意打ちをくらった気分だった。深夜に、おれの寝室を訪れる紫苑。何度か 妄想したが決して実現する事がなかったその出来事は。 実際に起こってみると実に当惑させられるものであった。 「あー……」 口を開き、そして何を言っていいのか分からずに口をつぐむ。 これを三度繰り返した。 紫苑はまだじっと扉のむこう、5cmのところに立っている。 おれは紫苑をうらんだ。もし、紫苑がもう一歩踏み込み、部屋の中に入って きてくれていれば。おれも決断のしようがあったのに。 紫苑はぎりぎりのラインで、部屋の外にいる。 「あー……」 四度目に口を開き、さすがに馬鹿馬鹿しくなった。おれはとにかく何かする 事はないかと思い、サイドテーブルにある鐘を指さした。 「聞こえた?」 「はい」 そんなバカな。たとえ紫苑が部屋の外の廊下にいたとしても聞こえたはずが ない。 だが紫苑が聞こえたというからには、聞こえたのだ。常識より何よりおれは 紫苑を信用する。 「どんな御用でしょうか」 「えと、いや、その、用、用は。えと、その、」 何を言っていいのか分からなくなり、おれはとりあえず紫苑が来る前に向か っていた壁の柱を指さした。 紫苑の目がわずかにきつくなる。 「有樹様」 「はい」 「寝酒もほどほどにされないとお身体に障ります」 ばれてるし。 「うん」 おれはうなずいた。 「眠れないのでしょうか?」 「いや、寝てた。寝てたよ。その……」 おれは言いよどんだ。怖い夢をみたから目が覚めただなんて。そんな子ども みたいな。 「少しお待ちください。シーツを仕替えますので」 「あ、うん。頼むよ」 事務的な口調で紫苑が言った。 それはもう、どこからどこまでもいつもの紫苑で。 おれはコンピュータ・ゲームで選択肢を間違えてフラグ立てに失敗したよう な気分だった。いわゆる好感度が上昇せずに、現状維持のままという奴である。 いや……? 何かさっきから感じていた違和感。 そう。 そうだ。 いつもの紫苑と、一つだけ違う。 今の紫苑はメイド服ではない。ぶかぶかの男物のパジャマを着ている。 まあ、露出度という点では、いつもと変わらないのだが。 色気も素っ気もない、男物のパジャマ……男物? 「あ」 おれの声は自分でも分かるくらいすっとんきょうなものだった。替えのシー ツを取りにきびすを返した紫苑がけげんそうに振り向く。 「なんでしょうか、有樹様」 「それ」 「それ?」 「パジャマ」 「パジャマ?」 「おれのだ」 「──!!!!!!!!!!」 紫苑の露出している肌。つまり首から上と手がぼん、と真っ赤になった。 この春まで着ていたパジャマだから、よく覚えている。 紫苑が着ているのはおれが冬の間着ていたパジャマだ。 紫苑は完全に硬直している。 いつもの無表情が崩れ、生の感情が顔に顕れている。 いわゆる、「穴があったら入りたい」という顔である。 「こ、これはっ、そのっ」 声が裏返っている。それでもきれいな声だと思うのはあばたもエクボな心境 からであろうか。 「いや別に責めてるわけじゃないから」 意外と物持ちがいいのだな、と思いながらおれは言った。ちょっと夏向きで はないが、肌触りもいいし…… 「……肌触り?」 内心の疑問が、ふ、と口をついて出た。紫苑がびく、と震えた。一歩、二歩。 後ろへ下がる。 「き、着替えてまいります」 きびすを返した紫苑をおれは思わず呼び止めた。 「紫苑、待って」 ぴたり。紫苑の足が止まる。おれは誘蛾灯に誘われる虫のように紫苑に近づ いた。 どくどくどくどく。 静まれ鼓動。 震える手で紫苑の腕をつかみ、こちらを向かせる。 「どうして……」 「どうして? どうして?!」 「紫苑?」 「どうしてと、そうご下問なさいますか!」 激昂した紫苑の大きな黒い瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。 「それは私が聞きたいです! なぜ有樹様は……」 どん、紫苑がおれの胸の中に飛び込んできた。ふわりと黒い髪が広がり、シ ャンプーのにおいが鼻をくすぐる。おれは反射的に紫苑を抱きとめていた。 細くて、小さくて、柔らかい。 これは困った。怒られているみたいなのだが、すごく気持ちがいい。 「……使用人でいいと、思ってました」 「紫苑……」 「使用人でいいと、そばでお仕えするだけでいいと、そう思ってました」 「おれも、だ」 「え?」 「おれも、いつも紫苑がそばにいてくれればそれでいいと、そう思っていた」 「バカでした」 「バカだった」 互いの身体に回した腕にぎゅっ、と力が入る。 「そばにいればいるほど、思いがつのるのに」 「抱きしめたいと、気持ちばかりが焦るのに」 はふ、と紫苑が吐息をもらす。 「拒まれたその後でも、使用人としてお仕えできるか自信がなくて」 「おれが主人だから、本当は嫌でも紫苑は拒まないんじゃないかと」 おれは紫苑の髪に顔をうずめた。 「臆病でした」 「臆病だった」 互いの手が重なりあう。 互いの指がからみあう。 「有樹様、私はあなたを、」 「紫苑、おれはきみを、」 互いの顔が近づく。 互いの息が感じられるほどに。 そして。 ぶおおお。ぶお、ぶおおおお。 おれの頭の中で。精神の底で。頭蓋を震わせ脳髄を共鳴させ、終末のラッパ、 ギャラルホルンが鳴り響いた。 いや、おれだけにではない。 地球上に住む60億だかの全人類の頭の中で、このラッパが鳴り響いたはず だ。 “守護者よ、汝が務めを果たせ” 続いて、頭の中で、ぞっとするほどに威圧感にあふれた声が、おれに命令を 下した。 常人であれば、もし今便座に座って力んでいる途中だったとしても、即座に 命令を実行するためにケツも拭かずにトイレを飛び出すだろう。むちゃくちゃ な強制力である。 まさかおれ以外の人間にも同じ真似をしてるんじゃないだろうな。 “守護者よ、汝が務めを果たせ” ずん、と重みを増した声がおれの精神をひきつぶしにかかる。 「有樹…ちゃん……」 弱々しい声に、おれはどきりとした。紫苑が必死におれにすがりついている。 まさか──紫苑も? 「紫苑、紫苑!」 「何が…あっても……ぜったい……私は有樹ちゃんの……だから……」 「紫苑、だめだ! 紫苑!」 ぎゅっ、と強く紫苑を抱きしめようとする。そのおれの動きを、強い力で紫 苑がふりほどく。 「守護者よ、じゃれている場合ではないぞ」 その声も、その仕草も、その表情も。 すべてが紫苑のもので。 そしてどうしようもなく異質なものだった。 頭の中が一瞬真っ白になった。 “守護者よ、汝が務めを果たせ” 「うるせえええええっ!!」 おれは怒鳴った。紫苑の、紫苑だったモノのパジャマの襟を掴んで荒々しく 引きよせる。 「守護者よ、何をする」 「てめぇ。龍皇か」 「当然だ。そして汝は守護者だ。我を守るのが汝のさだめだ」 「紫苑はどうした!」 「何をとちくるっておる。我が紫苑だ。我と紫苑は融合し、一つとなった」 「出て行け。紫苑を返せ」 「それが無理な事ぐらい分からぬ汝でもあるまい。終末の喇叭は吹き鳴らされ た。時が来たのだ。遺産を受け継ぎし者よ」 「出ていかないのなら──」 「聞き分けのないことを言わないでください、有樹様」 「──っ!」 パジャマを掴んでいた手から力が抜ける。龍皇はふん、と鼻で笑って後ろに 下がった。 「融合しているといっただろう。紫苑の事はすべて把握している。あきらめて さだめを受け入れろ。我だけでは力が足りぬゆえ、守護者たる汝がいるのだ」 呆然と立ちつくすおれの頭の中に、再びあの声が鳴り響いた。 “守護者よ、汝が務めを果たせ” 不意打ちだった。おれはがくん、と膝をついた。そのまま、龍皇に拝跪する。 「そうだ。それでいい」 満足そうに龍皇は言った。おれはもう、何がなんだか分からなくなった。こ んな事になるために、おれは天梁の遺産を守り、何十人も人を殺してきたのか。 一番大事な女性を奪われるために? いっそおれも。人格をアップデートされてしまえば、楽になれるのだろうか。 「時は一刻を争う。む──?」 ごうっ。 すさまじい気の圧力が廊下を駆け抜けてきた。びきびきと、壁や床がひび割 れ、天井の明かりがはじけ飛ぶ。 龍皇は片手でその気圧を受け止めた。その足元は小ゆるぎもしない。唇のは しを曲げてにやりと笑う。 「ほう。なかなかどうして、やつらも打つ手が早い。守護者よ、最初の戦いだ」 おれは龍皇の命じるがまま、立ち上がり、気が飛んできた方向を向いた。 白い肌。黄金色の髪。小柄な肢体を年齢には不相応なほどの豪華なネグリジ ェに包んで立つその少女は。 「な?!」 少女は無表情なまま、指をおれに向けた。今度は凝集された高圧の気が、高 速の弾丸となって飛来する。おれは半ば無意識の動きで風龍を呼びだし、盾と した。 びきっ。 風龍の陣がひび割れ、 きぃぃぃん。 砕け散る。 「ぐあっ」 気弾がおれの右肩を射抜いた。血と骨の破片が肩の後ろから噴き出す。後ろ によろけながらもなんとか踏みとどまった。風龍の盾がなければ、右腕一本持 っていかれたところだ。 「何を無様を演じておる。あの程度の敵、さっさと片づけよ」 「敵って──あれは、」 そう、あれは。 「あれはソフィアだ!」 無表情なまま、ぶつぶつとアラム語か何かあっち系の言葉で祝詞を唱えるソ フィア。紫苑と同じだ。アップデートされている。 「だが今は敵だ」 冷たい、吐き捨てるような口調で龍皇が言った。 「来るぞ」 ぶわっ。ソフィアの背中に白い羽根が広がった。そうして一つ羽ばたくと宙 に浮かび、滑るように廊下を飛んで来た。 「ソフィア! 目を覚ませっ!」 おれは一直線に龍皇へと突っ込むソフィアにタックルした。 「邪魔をするなニンゲン」 ソフィアが、いやソフィアに上書きされたモノがおれにそう言うと、白い光 を右手にまとわりつかせておれに触れようとする。その細い手首を左手で掴ん で止める。 ぎりぎりぎりぎりぎり。 「くっ……」 細い腕なのにすさまじい膂力。限界まで筋力を使っているのだ。いや、限界 以上に── ぽきん。 いやな音と感触がして、ソフィアの腕の骨が折れた。白い光が消える。痛み は感じないのかソフィアは無表情なまま。だがその顔に、一瞬だけ苦悩の色が 浮かんだ。桜色の唇が開かれる。 「有樹、逃げろ──」 そこで再び能面となり、ソフィアは口を閉ざす。 「ソフィア?!」 ばっ、と白い羽根をまき散らしてソフィアが後ろに飛びすさる。 「雑魚を相手にしている時間はない。死ね」 龍皇が片腕を差し上げる。その手に五色に輝く光の玉が現れる。 「『神の雷』最大出力」 ソフィアが無事な左手で、空中にダビデの星を描く。 だめだ。 力の差は歴然としている。 龍皇の一撃でソフィアは消し炭も残らず吹き飛ぶだろう。 だが龍皇を止めればソフィアが喚ぶ雷で紫苑が死ぬ。 何も── おれは何もできないのか──? 惚れた女も、慕ってくれる少女も、守ることができないのか? “守護者よ、汝が務めを果たせ” 頭の中で声が鳴り響く。 「ふざけるんじゃ……」 おれが、 おれがこの手で奪った命は。 人の命を奪ってまであさましく生き延びてきたのは。 こんな奴らの思うがままにさせるためじゃ──ないっ! 「ふざけるんじゃねぇっ! 雷龍!」 おれは雷龍を疾く喚び、廊下に叩きつけた。そして、 「むんっ!」 宝貝を、砕く。閃光と雷鳴が轟き渡る。幾筋もの稲光が、雷龍が砕けた場所 から放射状に伸びて触れるものすべてを焼き尽くす。 がごっ! ついに強度を失った廊下に穴が開き床が崩れた。おれも、龍皇も、 ソフィアも、その崩れる廊下に巻き込まれて階下へと落ちていく。 「なに?!」 「こ、この慮外者!」 屋敷の一角が崩れ、がらがらと音をたてて倒壊してゆく。もうもうとわきあ がった煙がすべてを覆い隠す。 ぴしゃあああん。 埃の雲の間から、宝貝の縛めから解き放たれた雷龍が青白い閃光をあげる龍 の姿となって天へと昇っていく。 「今までありがとよ。……さて」 おれは左腕一本で苦労しながら自分の上に折り重なった瓦礫を押しのけて立 ち上がった。全身がずきずきと痛む。ソフィアにやられた以外は骨こそ折れて いないが、打ち傷や切り傷は無数にある。 純白の羽根が、空から舞い降りてきた。 「ソフィアは逃げてくれたか」 「守護者よ、どういうつもりだ」 冷たい声で龍皇が言う。パジャマはぼろぼろになっているが、その滑らかな 肌には傷一つない。その点に関してだけ、おれは龍皇に感謝する事にした。 「腹をくくったまでだ」 「龍の守護者たるを放棄するというのか」 「そうだ」 即答した。 「お前らにも、奴らにも、好きにはさせない。ようやく分かったよ。もう人間 にはな、導いてくれる神など必要ないんだ。おれ達は自分の力で立てる。自分 の意志で歩ける。一万年前とは、違う」 「猿の眷属がほざくものよ。それは我と戦うという意味か。汝に戦えるのか? この肉体と、この心は汝の思い人でもあるのだぞ」 「ああ、戦う」 「ならば、死ね」 龍皇がおれに向けて腕を伸ばした。その拍子に、小さい、丸い物がぼろぼろ になったパジャマのポケットから転がり落ち、ちん、と音を立てた。 それは跳ね転がりながら、おれの足元まできた。 「……指輪?」 「ぐうっ!」 「?──紫苑?!」 龍皇が、いや紫苑がうずくまり、何かを必死にこらえていた。 「紫苑!」 おれは叫んで残骸をはねとばしながら紫苑に近づいた。 「触るなっ!」 衝撃波がおれを突き飛ばした。ずだん、と仰向けに屋敷の残骸の上に叩きつ けられる。 尖った建材がおれの肩胛骨を砕いて背中を貫いた。血が気管にあふれだす。 「ぐはっ」 「くっ、くそっ。同調は完璧なはずだ……なぜあらがうっ」 龍皇が顔を押さえながらよろよろと立ち上がった。 「遺産の継承者よ。今宵は我がひこう。だが汝が守護者にならぬというのなら 遺産は必ず我がもらいうける」 「待…て……紫苑を……返せ……」 おれがかろうじて声を絞り出すと、龍皇の顔にわずかに動揺が映った。だが すぐに龍皇は宙に駆け上がり、雷龍が喚んだであろう雲の中へと消えていった。 「く……寝てる場合じゃ…ない……」 「いいえ。今は寝る時よ、有樹」 優しい声がおれの背後から聞こえた。 「ぼろぼろじゃない。すぐに癒さないと……」 その言葉と同時におれの意識は急速に混濁していった。 暗闇に落ちながらも、おれの左手はしっかりと。 紫苑のパジャマから落ちた指輪を握っていた。 おれには約束がある。 その証がある。 ならばそれを果たす。 悪夢などに、邪魔は、させない。 to be continued...『天梁の遺産』