『転校生』

 注意:これは『龍の守護者』シリーズの第4話です。先に、シリーズ第3話の『北の国の少女』をお読みになってから読まれると、より楽しむ事ができます。


「ソフィア・プラグノヴァである。見知りおけ!」
 命令形かい。
 おれは軽い頭痛を覚えながら黒板の前で胸をはる少女を見た。どうでもいい
がソフィア、黒板に書いた名前の「ソ」が「ン」になってるぞ。
「えー、それではプラグノヴァさんの席は……」
「あそこだ」
 担任の伊藤先生をさえぎって、びしっ、とソフィアが窓際に座る相沢を指さ
した。相沢がびっくりした顔で、「え? おれ?」とか言っている。ソフィア
はつかつかと相沢の目の前まで来ると腰に手をあてて言った。
「どくがよい。そこが私の席だ」
「あー、だそうですよ相沢君」
 伊藤先生がいつものようにやる気のない声で言った。いや本当にやる気がな
いのだろう。もう帰り支度までしている。
「あ。あの、で、おれはどこに行けば」
 相沢、お前も少しは抗弁ぐらいしろよ。覇気がないんだからまったく。
 ソフィアはぎろりと相沢を睨んだ。
「そのぐらい自分で考えろ。男であろうが」
「……はぁ」
 こうして相沢は荷物をまとめると一番後ろに机と椅子を持ってきて移動して
いった。
「どういうつもりだソフィア」
 相沢の右隣の席の男子。すなわちおれは泰然と着席したソフィアに小声で
(かつロシア語で)言った。ソフィアは相変わらずのよく通る澄んだ声で(し
かも日本語で)答えた。
「決まっている。ユウキの隣りに座りたかったからだ」
 そしてにっこりと、夏の日差しを思わせる笑顔をみせた。

「え? 11才? 本当に?」
「うむ。それがどうかしたか?」
「う、ううん。すっごく……その……大人びてるから。もっと年上かと思った」
「そうか?」
 子供扱いされるのが嫌いなソフィアはうれしそうに笑った。日向(ひむかい)
はごまかすようにあははー、と笑ったが唇の端が微妙にひきつっていた。確か
にソフィアは背は低いが実にメリハリのきいた体つきをしているからなぁ。ス
レンダーな(政治的婉曲表現)日向にしてみればうらやましい限りだろう。
「ソフィアちゃん、さっそく人気者だな」
 田所が机に頬杖をついて言った。おれは田所の机に腰をかけてうなずいた。
休み時間になるなり、ソフィアの席の回りにはうちのクラスの半数近くが群が
り、隣のおれは田所のところへ避難してきたのだ。
「うちの学校じゃあ外人なんざ珍しくもないだろうに」
「しかし美人になるぞ、あれは」
「性格は夜叉だぞ」
「というか物怖じしないよな。あれじゃあ紫苑ちゃんもたいへんだろう」
「うむ」
 おれは胃のあたりを撫でながら言った。
「おかげで屋敷の中がぴりぴりしてて実に居づらい」
「今朝もなぁ……」

「ほら、こっちのパンも食べるのだ、ユウキ」
 黒パンに1センチ近くバターを塗ってソフィアがおれに差し出した。
「ソフィアちゃん」
「なんだ使用人?」
 ぴく。
 紫苑の細い眉がわずかに動いた。
「ソフィアちゃんの席はあっちです。勝手に有樹様の隣に移動しないでくださ
い」
「あっちだと?」
 広いテーブルのはるかかなた。おれとは対角線上の位置にソフィアの席はあ
った。ちなみにおれの真向かいにはいつものように田所がいる。だが、食欲旺
盛な奴にしては珍しい事にペースが遅く、やや気がかりな様子でこちらをうか
がっている。
 それでも三杯目だが。
「ふん。レベルの低い嫌がらせだな、使用人」
 ぴくぴく。
「それに、有樹様は朝は和食と決まっているのです。勝手にパンなど持ち出さ
ないでください」
「ピロシキもあるぞ。その目は節穴か使用人」
「ですからっ!」
 紫苑の声のオクターブが上がる。おれの前ではいつも冷静沈着な紫苑にして
は珍しい。
「まあまあ二人とも落ち着いて」
「そうだな、早く食べないと遅刻するぞユウキ」
 そういってずずいとバタ付き黒パンを近づけるソフィア。どうにもこう、形
だけでも一口かじらないと事態は進行しそうにない。しょうがなしにおれが口
を開くと、
 どごっ!
 黒パンが猛烈な勢いでおれの口の中に押し込まれた。
「ぐっ」
 圧縮された黒パンで口が破裂しそうになる。飲み込もうにも舌すら動かせな
い。
「有樹様っ?!」
「どうした、喉につまったか。ほら」
 顎をつかまれ上を向かされたおれの口の上から、ポッドから直接熱い紅茶が
注がれた。
「んぐぐぐぐ……んぐっ」
 紅茶で唇を火傷しながらそれでもなんとかおれは黒パンを飲み込む事ができ
た。
「よし、食べたな。では行くぞユウキ」
 おれの腕をつかんでソフィアが走り出す。おれはずるずると引きずられなが
らちらりと後ろをみた。
 いつものごとく、整った顔に何の表情も見せずに紫苑がおれを見ていた。
 だが、その背後にどろどろと黒い“何か”がわき上がっていた。

「いやあ、紫苑ちゃんの前であそこまでやれる勇気はたいしたもんだ」
「まったくだ」
 おれとしてはいつ紫苑のスカートから鴛鴦鉞が飛び出してくるかひやひやも
のであった。
「そもそもどういった経緯でソフィアちゃんがお前の屋敷に住む事になったん
だ」
「おれの叔父貴がソフィアの親父さんと親しくてな。その親父さんがソフィア
と来日して、それでまあいろいろあってソフィアがうちに来る事になったんだ」
「その親父さんって何してる人?」
「ロシア戦略ロケット軍の中将」
「うわ。核のボタンを握ってるヒトですか」
 かてて加えてロシアの協会のメンバーでもある。協会の中でも穏健派の筆頭
で、魔術の腕も立つ。今回手助けして恩を売れたおかげでロシアの協会相手に
抑えが効くようになったのはたいへんありがたい。何と言ってもロシア人は極
端に走る傾向がある。先だってAK47で武装した元スペツナズ一個小隊の死
体が屋敷に散乱する羽目になった時は、インテリヤクザの西条が「先代の時も
いろいろありましたが、ここまではなかったかと」と評するほど後始末に大わ
らわであった。おれの方もかなり気分がくさくさして一週間学校を休んで部屋
に引きこもり、紫苑や田所に心配をかけた。
「おい」
 ぱこん。
 背中を丸めたノートで叩かれた。
「いろいろ厄介事があるようだからこれ以上は突っ込まんが、そういう顔はあ
んまり紫苑ちゃんに見せるなよ」
「……悪い」
「おれに謝る事はないって。そうだ、春休みにはうちの田舎に来いよ。もう山
しかなくて他になーんにもない所だがな。一週間ぐらいいると、脳味噌がから
っぽになっていいぞぉ」
「ああ」
 田所はおれが抱えている物について何も聞かない。ただそばにいてバカな話
をするだけだ。それをおれがどれだけありがたく思っているか。こいつに伝え
られる日が来るといいのだが。
「ユウキ!」
 人混みの中から抜け出して、ソフィアがおれの腕にとりすがった。
 ふにゅ。
 これで11才というのはホモ・サピエンスとして何か間違っているのではな
いかと思えるほどに豊かな膨らみが腕に当たる。胸囲そのものはたいした事が
ないのだが、トップとアンダーの差が異様に大きいのである。HLVかと見ま
がうほどだ。さすがロケット大国、ロシア。
「学園内を案内せよ」
「何もおれじゃなくてもいいだろ」
 それまでソフィアを取り巻いていたクラスの男連中がうんうんとうなずいて
いる。
「私はユウキがいいのだ」
 そう言ってソフィアはぎゅっ、と腕に力をこめた。
 ふにゅにゅにゅ。
 うわああ。
「わかった。わかったからしがみつくなっ」
 おれは顔を赤くして怒鳴った。
「なぜだ?」
 ふにゅにゅん。
「なぜって……どうしてもだっ!」
 ロシア人は人と接する距離というものをなんだと思っているのだ。以前もひ
げ面のごつい親父にキスされたし。
「では早く案内するがよい」
「お──そうだ。田所、お前も一緒に……」
 席を見る。いない。
 おれは周囲を見回した。
 教室から田所の姿は消えていた。

「ここが図書館。蔵書はおよそ800万。ロシア語の雑誌なんかも入れている
から使うといい。ただ、どこに何があるかはまず分からないから司書の人に手
伝ってもらえ」
「ふうん。日本人はトルストイやドストエフスキーを好むと聞いているが、こ
こにもあるのか?」
「いつの話だいつの。あるだろうがおれは読んだ事はないぞ。『戦争と平和』
なら、紫苑に付き合わされてやたらと長い映画を見せられたけどな」
 半分は寝ていたので内容はよく分かっていないが。
「使用人と映画を見に行ったのか?」
「ソフィア」
 おれは真面目な顔で言った。
「紫苑は確かに使用人だ。けれど、おれの大事な家族でもあるんだ。彼女を使
用人と呼ぶのはいいが侮蔑する意味で使うんじゃない」
「侮蔑などしていない。だが、ユウキはテンリョウ家の主であろう。主人と使
用人との間にはそれなりの距離があってしかるべきだ。今のユウキとシオンは
まるで……」
 そこでソフィアは唇を尖らせた。
「もういい。私は戻る」
 そう言っておれの腕を放し、ソフィアはすたすたと図書館を出ていった。
 ふぅ。
 ため息がおれの口からではなく、おれの背後から聞こえた。
「わ、田所。いつの間に」
「そんな事はどうでもいい。それより、今の台詞をどうして紫苑ちゃんの前で
言わないんだ、お前さんは」
「今の台詞って……おい、人の話を盗み聞きしていたのか」
「いや、たまたま通りかかったら聞こえただけだ」
 嘘をつけ。
「お前と紫苑ちゃんを見ていたらじれったいというかなんというか。10年前
の少女漫画でもまだ進展は早いぞ。好きなんだろ? 紫苑ちゃんの事が。なら
そう言ってあげろよ」
「む……だけど……な……」
 『使用人』
 ソフィアのその言葉が頭から離れない。そうだ。紫苑はおれに仕えている。
天梁の主に。それが彼女の務めだから。
 もしおれが好きだと言って彼女を求めたら。紫苑は決して拒まないだろう。
だが、それはおれが好きだからか? それともおれが主だからか?
 それに何より。
 おれは本当に紫苑が好きなのか?
 美しい女の子に献身的に尽くしてもらって喜ばない男はいないだろう。その
喜びを、おれは恋だの愛だのと勘違いしているのではないか。
 ぞくり、と背筋が震えた。
 おれは──
 ごっ。箱の角でおれはこめかみを殴られた。かなり痛い。
「何をする田所」
「お前は難しく考えすぎなんだって。青少年たるもの、もっと本能に忠実に生
きるべきだとは思わないか?」
「その結果がお前のような生き様ならごめんこうむる」
「おいおい、そりゃないだろ」
「ならばその手に持っている物はなんだ」
「ロシア語会話入門のビデオ。これから借りる」
「なにゆえに」
「そりゃソフィアちゃんと仲良くなるためだって」
「おまえ、加藤と付き合ってるんじゃなかったのか」
「5人も6人も一緒だろう」
「5人?! おいこら──」
 その時、図書館の静寂を破って小さく女の子の悲鳴が聞こえた。
「ソフィアっ?!」

「む、ここはどこだ?」
 私は左右を見回した。図書館から駆けだして食堂の脇を回って……むぅ、分
からん。
 分からないが校舎の裏にある庭のどこかであるのは間違いないようだ。
 後ろを見る。ユウキが追ってきていないか少しばかり期待して見たのだが影
も形もない。なんという不人情な男だ。
「そんなにシオンがいいのか」
 口に出すとさらに不愉快な気分になった。古くはモスクワ大公国から魔導の
血筋を伝えてきたプラグノフ家の自分が、なぜに使用人ごときと張り合わねば
ならないのか。
 いや、そうではない。
 父も(母や私にばれていないと思っているようだが)召使いに戯れに手を出
したりとかしている。男、特に高貴な血筋に生まれた特別な男というものはそ
れでよい。女遊びの一つもできない男にろくな者はいないと母も言っていた。
ユウキがシオンを、その、どうにかして(具体的にどういう事をするのかはよ
くわからないのだが)いてもそれは男のカイショーという物であろう。
 だがシオンがユウキに向けるあの目。あの表情。あの仕草。
 それら全てが物語っている、ユウキに対する絶対的な何か。
 それがもう無性に腹立たしい。いらいらする。
「まったく、もうっ!」
 自分でもはっきり言葉にできないもやもやした思い。私はそばに生えていた
木をがつん、と蹴飛ばした。
 がさり。
 後ろから聞こえた足音に、私は振り返った。よもやユウキかと思ったのだが、
知らない男だった。
「ようお嬢ちゃん。こんなところで何をしてるんだい」
 男はにやにや笑いながら近づいてきた。品の無い笑いだ。この学校は日本で
も有数の名門校だそうだが、こんな男を入学させるようでは程度が知れる。
「別に」
 私はそう言って立ち去ろうとした。その私の腕を男が掴もうとする。
「慮外者! さわるでないっ!」
 私はその手をぱしん、と払いのけた。
「いてっ。何しやがる!」
「汚い手で私に触るでない! 早々に立ち去れ!」
「なんだとこのチビ!」
 男がおどりかかってくる。
「馬鹿者がっ!」
 図体はでかいが隙だらけである。私は男の腕をかいくぐって内懐にもぐりこ
むと、かためた拳を男の鳩尾に叩き込んだ。
「ぐええっ」
 男が腹を押さえてのたうちまわる。ふん、当然の報いだ。
「どうやら最低限の護身術ぐらいは身につけているようだな」
 フランス語? 木の上か?
「誰だ?!」
 私は梢を透かして頭上を見上げた。
 木の上に男が一人立っていた。何のつもりか蝶をかたどった仮面をつけて顔
を隠している。
「協会の者か?」
「いかにも。我が名はパピヨン」
「蝶々が何の用だ。春ならまだ先だぞ」
「天梁の遺産が欲しい」
「それならユウキに言う事だな」
「もちろん彼に頼むとも。だが手みやげの一つも持参せねば彼とて素直に遺産
を渡しはすまい」
「手みやげだと?」
「あなただ、マドモアゼル」
「笑えない冗談だな。それよりこのままだと首が凝ってかなわん。降りてくる
がよい」
「凝っているのは首だけかな?」
「なに? う……」
 身体が──動かない? 全身の力をこめても、指一本動かす事ができなかっ
た。
「なにをした?」
「言ったであろう、我が名はパピヨンだと。顔と声帯は動かせるだろう。天梁
有樹を呼びたまえ」
「そしてお前の鱗粉が充満したここへ誘い込めと? ごめんこうむる」
「ふむ、なかなか早熟なお嬢様だ。では」
 しゃっ。パピヨンが手を動かした。
 ずばっ。私の服がまっぷたつに裂かれた。
「くっ──!」
 しゃっ。しゃっ。しゃっ。
 ばしゅっ。ずばっ。じゃっ。
 お気に入りの服がずたずたに切り裂かれて細切れの布に変わっていく。
「さあどうした。このままでは衣服だけでは済まぬぞ。早く天梁有樹を呼ぶの
だ」
「ごめん──こうむる!」
「ふむ。これでは私が女性の服を切り裂いて楽しむ変質者のようではないか。
しかたがあるまい」
 ばっ。
 パピヨンの背中が割れ、蝶の羽が広がった。
 ぶぅん、と羽が振動する。すぐに振動は音波となった。
『助けて! ユウキ!』
 悲鳴。女の──私の声か?!
「貴様っ!」
 かっと顔に血が昇った。
 服を切り裂いたのには意味などなく。最初から私をからかっていたのか。
 たったったった。背後から足音が聞こえた。
 足音……まさか。
「来るな! ユウキ!」
 私は声の限りに叫んだ。

 裏庭に駆けつけたおれが見たのはソフィアの白い背中だった。洋服がボロボ
ロに切り裂かれている。そして木の上に立つ何やらキザな仮面をした男。
「来るな! ユウキ!」
 ソフィアが叫んだ。男がそれに応えるように腕を動かした。
 ぱさり。ソフィアの豊かな金髪が一房、断ち切られて地面に落ちた。
「雷龍!」
 おれはすかさず叫んだ。宝貝発動。右手から雷が男めがけて奔る。
 ばばっ。
 雷光が、男の周囲で拡散して消えた。
「無粋な真似をする」
「無粋だと? じゃあお前がやっているのは粋だとでもいうのか、この下衆野
郎!」
「日本人は子供に寛容だというがそのようだな。私は君に代わってこの子にお
仕置きをしていただけだよ」
「おれに代わってだと?」
「そうだ。天梁の遺産を狙って図々しくも君の館に入り込んだ子供をね」
 びくっ。ソフィアの背中がわずかに震えた。
「ちが──」
「違うと言えるのか? ソフィア・プラグノヴァ? 本心から? 天梁の遺産
には興味のかけらもないと」
「わ、私は……」
「言えまい。魔法にたずさわる者であれば誰もが欲しいと願う天梁の遺産だ。
自分の愛らしさを利用してその秘密の一端でも手にしようと。わずかなりとも
考えなかったとは、言わさぬぞ」
「それがどうした」
 おれはぎりぎりと歯がみしながら言った。
「なに?」
「ああ、確かにソフィアは天梁の遺産に興味を持ってる。おれに近づいたのも
下心がなかったわけじゃないだろう。だがそれだけの子供ならさっさと屋敷か
ら放り出しているさ」
「ほう。では君は彼女が本気で君を慕っていると、そう考えているわけか。ふ
ふふ。滑稽な。黄色い猿ごときが自惚れるにもほどがある」
「言いたい事はそれだけか?」
「怒ったかね? だがいくら怒ろうとも君は私に指一本触れる事は出来んよ。
私に誘い出されてここに来た時に、すでに君の敗北は決まっていたのだよ」
「言・い・た・い・事・は・そ・れ・だ・け・か?」
 おれは握りしめていた左手を開いた。仮面の男の顎がわずかに上がった。
「なに? まさか?」
 ぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅ。
 おれの掌で風龍が渦を巻いていた。その渦の中心に、微細な粉が凝集されて
いる。
「ご丁寧にお前がここいら一帯にまいていた粉だよ。他人の事をどうこう言う
前に、まず自分で出したゴミは自分で片づけてもらおうか──風龍!」
 ごうっ。
 螺旋を描きながら風龍が仮面の男に躍りかかった。凝集した粉が槍となって
男を貫く。
「がっ!」
「説教たれるならそのキザな仮面を外してから来やがれ蛙食い!」
 雷龍が天から雷を呼び、男を立っていた木ごと青白い閃光に包んだ。
 おれはソフィアを抱きかかえると風龍に乗って素早くその場から遁走した。
 外界から切り離された繭の中でおれは自分の上着を脱ぎ、ソフィアの白い小
さな肩にかけてやる。
「あ……」
 ソフィアが顔を真っ赤にしておれの服を自分の裸身に巻き付けた。
「ごめんな、ソフィア。遅くなって」
「いや、いい……ううん。そうじゃない」
 こちらに向き直ったソフィアがとん、とおれの胸に頭を預けた。
「至誠、天に通ず──」
 ソフィアの小さなつぶやきは、よく聞き取れなかった。
「え?」
「寒いぞユウキ」
「と、言われてもな」
「もっとしっかりと私を抱きしめろ」
「あ、うん」
 おれは言われるがまま、腕に力を入れた。白い柔らかな肢体がおれの腕の中
で熱く息づく。ソフィアがそっと背伸びをした。
「ユウキ……」
「ソ、ソフィア……」
 ソフィアの唇が俺の唇に近づき──
 その時、風龍が俺とソフィアを地面へと降ろした。
「お帰りなさいませ、有樹様」
 どごーん、と心臓が喉から飛び出そうになった。
 そうだ、緊急避難時には屋敷に戻るように風龍はセッティングされていたん
だ。
 俺はぎしぎしと首を動かして紫苑の方を向いた。庭の掃除をしていたのだろ
う。箒を持った紫苑が立っていた。
「た……ただいま……」
「どうかなさいましたか? 風龍でご帰還になられるとは」
「えっと……その……」
 いつも通りの紫苑。
 まったくもっていつも通り。
 けど紫苑さん。箒の柄がぴしぴし音を立ててるんですが。
「ユウキ、もっと強く抱くのだ」
 できるかあっ。
 べきっ。
 ついに箒の柄が粉砕され、庭に壊れた箒が転がった。
「あら。片づけないと。失礼します」
 すたたたたたたたー。
 猛烈な勢いで紫苑が『歩いて』屋敷の方へと去っていった。
 そして俺はというと、ぎゅーっ、とソフィアにしがみつかれたまま、途方に
くれていたのであった。
 田所よ。
 本能に忠実に生きるのはやはりどこか問題があるとおれは思うぞ。

 その日の夕食はボルシチだった。

【おしまい】

 next story『母来る』

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