Kissのレッスン
その日。
学校から帰ってきてからというもの、太一はずっと不機嫌だった。
いや、不機嫌というのは正しくないかもしれない。ちゃんとご飯も食べたし、TV
だっていつものように見ていた。勉強は……してないけど、それもいつものことだ。
でも、ヒカリには分かっていた。
兄が、鬱々として何か悩んでいることを。
自分の方から何か口にするのははばかられた。太一が中学校にあがってからという
もの、兄とヒカリの間の距離は少しずつ離れていた。学校が変われば生活のリズムも
変わる。知らない友だちだって大勢いる。
ヒカリにとってそれは寂しいことであったが、しかたのないことだと自分に言い聞
かせてもいた。
けれども、子供部屋で何かするでもなく机に頬杖をついていた兄の唇が、音になら
ない声を発した時。
その唇の動きを読んだ時。
ヒカリは衝動的に口を開いていた。
「空さんと、何かあったの?」
太一がぎょっとした表情でヒカリを見た。顔を真っ赤にしてわたわたと支離滅裂な
ことを口にする。結局のところ、中学校にあがったからといって太一の本質は変わっ
ていないのだ。ヒカリはなんとなくほっとするものを感じた。
「……なんでわかった?」
ようやく落ち着いた太一が、顔を赤くしたままヒカリにたずねた。
「空さんの名前、呼んでたから」
「そっか……」
「またケンカしたの?」
たしか先週仲直りしたばかりだというのに。
「いや、ケンカってわけじゃなくて。その、だな……」
太一は部屋の中をきょときょとと見回した。もちろん、ヒカリと自分しかいないの
だがついつい小声になる。
「今日、その、えーと……空と……キス……」
コトリ。
何かがヒカリの胸で動いた。ヒカリがずっと自分の心の奥底に封じていた思いが。
だが、ヒカリはすぐにその思いを無意識にうち消した。
「空さんと……キス……したの?」
「いや、だから。その……失敗しちゃって……」
コト。
コトリ。
再び、ヒカリの心の奥底で何かが蠢いた。
「最初、二人とも目を開けてたら、空のやつが『こわい』って嫌がってさ。それで目
を閉じてキスしようとしたら、鼻にキスしちゃって。それで空が怒っちまって」
そこまで早口で言って、太一は、はぁ〜っと大きなため息をついた。
「それで、ケンカになったの?」
「その後、最後のチャンスをもらったんだけど、緊張しちゃってつい勢いがついて、
おでこをぶつけちゃって……」
つまりキスを求める乙女にヘッドバットを食らわせたわけである。
これでケンカにならない方がどうかしている。
さすがに、ヒカリもどう言って慰めたらいいものか分からなかった。
「おれたち、もうダメかも……」
がっくりと肩を落とす太一。普段が元気すぎるほど元気なだけに、落ち込むとまる
で精気がない。
「そんなことないよ! お兄ちゃんに悪気があったわけじゃないし、空さんだって分
かってくれるよ、きっと」
「そうかな?」
「そうだよ」
「……でも、当分キスはさせてもらえないだろうな」
ズキン。
何気ない太一の言葉が、ヒカリの胸を貫いた。
もはや自分でもごまかしきれない強い思いが、心の傷口から吹き出した。
絶対に気づいてはいけないはずの。
絶対に抱いてはいけないはずの。
でも、もう気づいてしまった。
でも、もう抱いてしまった。
「……ヒカリ?」
黙りこくったヒカリに、太一が声をかけた。ヒカリは何か意を決した様子で太一を
見つめ、わずかに震える声で言った。
「じゃあ、お兄ちゃん。練習──しよう」
「れ、練習って、おい、ヒカリ」
風呂あがりの、ボディシャンプーの香りがする妹の身体が近づいてくる。体温と息
づかいまで感じられるほど近くに。
「キスの、練習しよ。失敗しないように」
「おい、待てよヒカリ。お前、なんかヘンだぞ」
のけぞるように後ずさる太一。
「お兄ちゃん、あたしじゃ、ダメ?」
ヒカリが瞳を潤ませて太一に問いかけた。上目遣いの視線に、太一の理性がぐらつ
く。
「え、ダメじゃない……いや、やっぱりダメだ!」
太一はヒカリの肩をつかんで、自分から引き離した。
「キ、キスって、練習とか、そーゆーのでするんじゃダメだ。す、好きな人とだな……」
「あたし、お兄ちゃんが好き」
ヒカリの告白に、太一の手から力が抜ける。するり、とヒカリが太一の胸の中に飛
び込む。
暖かく、柔らかい身体が太一の腕の中にすっぽりと収まる。
「ヒ……ヒカリ……」
「あたし、お兄ちゃんが好き。お兄ちゃんとキスしたい。お兄ちゃん以外の誰ともキ
スしたくない」
「ヒカリ、お前……」
太一の目の前に、ヒカリの真剣な顔があった。大きな瞳いっぱいに、兄の、太一の
顔だけを映して。
二人の、ふれあっている部分からトクトクと互いの鼓動の音が伝わってきた。
「お兄ちゃん、胸がドキドキいってる」
「お前だって」
太一は、手をそっとヒカリの頬にそえた。きめ細かい、滑らかな肌の感触。
そして。
自然に、ごく自然に。上手にやらなきゃとか、手順を踏まなきゃという考えが意識
に登ることすらなく。
太一の唇が。
ヒカリの唇の上に重なっていた。
「ん……」
「ふ……」
そしてすぐに離れた。小鳥がついばむような軽いキス。
見つめ合う太一とヒカリ。二人とも、顔がかっかと火照っている。
「お兄ちゃん……」
ヒカリが恥ずかしそうに顔をふせ、太一の胸に頬を押しつけた。
心の中いっぱいに広がる幸福感と、そして──空に対する罪悪感。
「ヒカリ、あのな……」
その口調から、ヒカリにはすぐに分かった。太一がキスした事を謝ろうとしている
ことが。
ヒカリの心から、罪悪感が吹き飛んだ。
これだけは譲れない。
たとえ、相手が空であっても。そして、兄であっても。
ヒカリは顔をあげ、太一の首に両手を巻き付けた。
今度はヒカリからキスをする。半ば開いた口と口が重なりあい、誰に教えられたの
でもない本能的な動きでヒカリは舌を兄の口の中に差し出す。
ヒカリの舌と太一の舌が、触れ合い、離れ、そしてまた触れ合い、今度は離れまい
と絡みあう。それは数多の言葉を費やしたよりも雄弁に、二人の気持ちを表現してい
た。
太一の腕が、ヒカリの背中に回される。そして太一はしっかりと妹の、ヒカリの身
体を抱きしめていた。まだ第二次性徴もろくに出ていない、だが男の子の身体とは確
実に違う肢体を。
どれだけそうしていたろう。
キスでの息継ぎを知らない二人だから、そんなに長い時間でなかったのは確かだ。
だが、太一とヒカリは唇が離れるまでの間に、まるで無限の時間が流れたような気
がした。
そして、自分たちの関係が決定的に変わってしまったことに二人ともが気づいてい
た。
もう、仲の良い兄妹の関係には戻れない。いや、戻りたくない。
「ヒカリ……おれ、頭悪いからよくわからないけど……しちゃいけないことだって分
かってるけど。でも……」
太一は口をつぐんだ。そして、ゆっくりと言葉を押し出す。
「おまえが、好きだ」
「妹として?」
「え? いや、妹としても好きだけど、その……」
ヒカリはくすっと笑った。それは子供の笑みではなく、女の笑み。
「じゃあ、証明してみせて」
「しょ、証明って……」
「ん!」
目を閉じ、唇を突き出す仕種をするヒカリ。
太一は苦笑して目を閉じ。そして──
ゴン!!
すさまじい音をたてて二人のおでこがぶつかった。
(とりあえず……END)
HomePageに戻る