■船戦
冷たく辛い飛沫が、舳先で弾けた。
見間違いではない。少しずつ浪が大きくなっている。
戦いが始まって既に二刻あまり。潮が味方をしてくれる時間は残り少ない。
船首に仁王立ちに立つ鎧武者は、顔にかかった水滴を、布でぬぐいもせず、でかい舌でぺろりとなめた。
「しょっぱいな」
鎧武者はそう言うと、それがさもおかしい冗談であるかのようにがははと笑った。彼は左手に七尺(約2メートル)もの弓を手にしていた。右腰の箙(えびら)から無造作に一本の矢を引き抜き、弓を構える。
ぎりぎりぎりぎり。
これ以上やれば弦が切れるというところまで鎧武者は弓をひいた。恐るべき強力(ごうりき)である。そして、放つ。
ひょう──
飛ぶ、飛ぶ。気まぐれな風など切り裂いて飛んでいく。かなたに見える船の列へと低伸する放物線を描いてまっすぐに。そこには、この時代の敵味方識別信号である白い旗をたてた船があり、そこにも鎧を着て弓を手にした武者が立っていた。それなりに名のある武士らしく、周囲を郎党に盾で守らせている。
どすんっ。
狙いすましたかのように矢は鎧のもっとも弱い首のところに突き刺さった。武者がもんどりうって倒れる。
ど──っ。
こなたの船列、赤い旗を掲げた兵船(つわものぶね)から一斉に歓声があがる。対して白の側からはうめき声が聞こえた。
「ありゃ、当たっちまったか」
鎧武者はむしろ感心した様子で呟いた。必中を期した物ではなく、船か盾にでも当てて、びびらせてやるつもりだったのだが。
「まぁ、これはこれでよし」
お返しとばかりに、敵方から矢が雨あられと降り注いでくる。
「御大将! 今少し、船を下げましょう!」
彼の郎党が進言する。鎧武者は一瞬だけその提案を検討した。臆病からではない。自分が下がる事で敵を誘引し、包囲殲滅が出来ないかと考えたのだ。彼が鍛え上げた瀬戸の水軍衆はそうした戦術運動を可能とするだけの技量を持っていたし、敵はにわか仕立ての軍で練度が低い。いや、個艦レベルでいえば似たような操船技量を持っているが、艦隊戦となると話は別だ。であればこそ、数で劣る此度の戦でも同等以上の戦いができている。
「しかし、あやつが相手ではこの程度の策には乗ってこんだろうな」
実を言うとその程度の策はすでに弄してある。御座船に見せかけた大船をこれみよがしに前方に配置し、中に兵を詰め込んでみたのだ。実際の主上は小舟に乗っていただいている。主上や神器を狙って敵の隊列が乱れれば儲け物だったのだが。
「引っ掛かれば儲け物でやってみたが、やっぱり駄目だったか。残念な事だ」
矢が雨あられと降り注ぐ中でそんな暢気な事を考えていたのだから、この鎧武者の胆力も相当な物ではある。
と、飛来した一本の矢が彼の脇にいた郎党の腹に刺さった。武士の放つ矢は初速に加えて上空からの重力加速度も加味されてかなりの衝撃を与える。ましてやこの時代の日の本の札(さね)の鎧は刺しに弱い。この国で鑓持足軽や鉄砲足軽が戦を変え、板金の甲冑が誕生するにはまだまだ時間が必要だった。
がくっ、と膝をつく郎党に、主人は一瞥をくれて言った。
「彦次郎。そいつは後で功名帳に一筆入れておいてやる」
「はっ。ありがとう……ござい……ます」
油汗を流しながら郎党がにやりと笑う。功名を上げて知行を安堵してもらう。それがこの時代の兵の一般的な価値感だった。そして功名帳に名前を連ねるには、先駆けなどの華々しい武功を上げるか、さもなくばこれだけ大きな怪我をする程戦ったのだぞと訴える必要がある。
負傷してもそれを喜ぶ郎党を愛い奴と思う一方で、こいつはもう助からんな、と歴戦の武篇者らしく男は冷静に考えた。
ひょう。さらに一本の矢が鎧武者に向かって飛来した。顔めがけて落下する矢を男は瞬きもせずに見た。
ばしっ。上半身裸の青年がその矢を空中でつかんだ。鏃の先が上唇に触れるところで止まる。
青年は無言のまま、矢を海中に捨てた。
それにしてもこの青年、いつ出現したのか。さっきまでは確かに船の中にはいなかったはずなのに。しかし鎧武者はそれをまったく不思議に考えていないようだった。
「猿、大儀」
郎党にかけた言葉とはまるで違う冷酷な声が鎧武者から発せられた。
『猿』と呼ばれた青年は鎧武者に一礼した。青年は名前から受ける印象とはまるで違い、猿というよりは狼の剽悍さを持っていた。黒い長髪を朱色の紐で結んでいる。
「失敗したか」
主のその言葉に、青年の鋼の色の瞳にわずかに感情の色が見えた。
「は。舟から舟へ、八艘も飛ばれて逃げられました。面目しだいもございません」
「そりゃ凄い。天狗の弟子と呼ばれるのも、あながち法螺話ではなさそうだな」
鎧武者は顎に手をやり思案した。任務を果たせなかった青年を叱ったところで事態はいっこうに改善されない。そもそもが乱戦の中で敵の総大将を暗殺しようなどと言うのが戦術として間違っている。
だが、彼らはそこまで追い込まれていた。