『くまたんとキス』

 注意:これは『くまたん』シリーズの8話です。先に7話の『くまたんと誕生日』をお読みになってから読まれると、より楽しむ事ができます。

「香澄はキスしたことがあるのか?」
 くまたんがそう聞いたのは、冬休みのある昼下がり。
 ふたりが並んでながめているテレビのブラウン管の中で、顔色の悪い――ほとんど
ガミラス星人のような肌をした男と女が抱き合って唇を重ねていた。
 ちなみに部屋の主はじゃんけんで負けたのでおやつを買い出しに近くのコンビニまで
出かけている。
「キス……キスね……」
 くまたんが食料を求めて人里におりてきてから二ヶ月あまり。その愉快だったり突飛
だったりする言動にも慣れてきた香澄は、ぐっと拳を握って気持ちを落ち着かせた。
 よくあるパターンではないか。家族でテレビ見ていてこんな話題が出るのは。
 まずは呼吸を整えるべく香澄は目を閉じた。
「ひっひっふー。ひっひっふー」
 ラマーズ法であった。
「何をしているのじゃー」
 くまたんが疑わしげに横目で見るが気にしない。十分に落ち着くことができたと
判断してから、香澄は質問に答える。
「わっ、わたしと、祐介はっ、まだそんな仲じゃなくてっ――」
 見事な裏声であった。ビブラートも効いている。
「別に祐介とキスをしたかどうかなど聞いていないのじゃ」
「ぐっ」
 自爆であった。墓穴であった。ウイグル獄長の最期であった。
「ない――けど」
「『けど』はいらないのじゃ。1か0なのじゃ。シュレディンガーの猫は死ぬか生きるか
なのじゃ」
「ない――けどっ!」
 香澄の声が大きくなる。本人なりのこだわりがあるらしい。
「予定はあるわよ」
 意外な反撃であった。くまたんは感心してクッションの上に座り直した。つられて香澄も
座布団の上に正座する。ふたりならんでテレビに向かっているという構図は変わらないが。
「聞かせるのじゃ」
「こほん。そうね、誰というのは決まってないんだけど」
 今更であった。くまたんがジト目になって香澄を見る。
「誰というのは決まってないんだけどっ!」
 すでに涙目であった。
「はいはい、続けるのじゃ」
「やっぱりこういうのって、安売りしちゃいけないと思うのよ。つまり男がいくら
求めても、それだけで唇を許すのはよくないわ」
「そもそも祐介は唇も何も、自分から求めようとはしていないのじゃ」
「そこなのよねー。興味がないってわけじゃないはずなのに。もうちょっとこう、
がっついて欲しいっていうか。でも怖いっていうか」
 香澄がため息をつく。複雑なオトメ心というものであった。
 肩を落とした彼女は、だから気づいてはいなかった。
 香澄を見つめるくまたんの黒い瞳に、深い憂慮の色が浮かんでいたことを。
「もしも祐介ががっつくようなら――我は」
「へ? 何?」
「なんでもないのじゃ。確かにそんな祐介は怖いのじゃ」
「昔はね。あんなんじゃなかった気もするのよ。やっぱりおじさんとおばさんが――」
 香澄は口をつぐむ。
 10年前の出来事。今ではおぼろにしか覚えていない、空に銀の月が輝いていた頃の話。
それは遠い過去の記憶であるが、やはり軽々しく口にしていい事とは思えなかった。
「だからね。がっつくっていうよりは、そうね。選んでくれる日を待ってるの。私を」
「香澄はもう選んでるのか?」
「うん」
 はにかみながら、強くうなずく少女。
「私はもう、とっくに選んでる。あの日。あの場所で。おじさんとおばさんが祐介と
一緒にいられないなら、私がいてあげようって。友達でもいい。家族でもいい。何が
あっても、どんな時でも。私は祐介のそばにいよう」
 ほかに、誰もいなくても。
「それは私の選択。私が自分で選んだことで、祐介は関係ない。だからキスはしない。
私だけの誓いだから。でも、祐介も私を選択してくれるなら、その時には誓おうって思う」
「でもそれは、予定ではなくて願望にすぎないのじゃ」
「ぐっ――で、でも。大丈夫、その日はすぐにやってくるからっ」
「10年待ってなんの進展もないのに、すぐも何もないのじゃ」
「うるさいっ! そんなことわかってるわよ」
 香澄は拳をふりあげてくまたんを殴るまねをする。くまたんもその拳を防ぐふりをする。
ふたりは笑いあいながら、ふざける。
(でも、あわてること。ないよね?)
 かれこれ10年待ったのだ。
 もう10年待つ――のはいやだけど、2年や3年なら――やっぱり1年ぐらいは
待ってもいい。
 自分は選ばれないかも知れない。祐介はほかの女の子を選ぶかもしれない。でも、
もしも自分が選ばれたなら。
(キス、しよう)
 香澄は思う。強く思う。
 10年分の思いを乗せて、キスをしよう。
 その日はきっと。すぐそこに――
「ただいま。うおー、さみー」
 香澄の後ろで扉が開き、外の冷たい空気と一緒に少年が入ってきた。
「お、お帰り」「プリンが帰ってきたのじゃー」
「なに正座してるんだ、香澄」
「香澄に、いつアレをやるのか聞いていたのじゃー」
 くまたんが祐介の手からビニール袋をかっさらいつつ、テレビを指さした。
「アレ?」
「ちっ、違うの祐介っ! 私にはアレをやるつもりはないのっ!」
「そうしてくれ。さすがにアレはしゃれにならない」
「へ?」
 香澄はテレビを見た。展開の早い昼のメロドラマではとっくにキスシーンは
終わっており。
 血まみれののこぎりを持った女が、さっきまで熱い口づけをかわしていたはずの男に
飛びかかっていた。

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お題もの書き2004年11月テーマ企画「クマ」

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