『くまたんのお仕事』

 注意:これは『くまたん』シリーズの5話です。先に4話の『くまたんとお餅』をお読みになってから読まれると、より楽しむ事ができます。

 公園のベンチに男が座るようになって、かなりたつ。
 周囲は住宅地である。子供も遊べば、老人も来る。そこに週日の昼間からよれた背広の
男が陰気な顔をして座り込んでいれば、必ず誰かが不審に思う。
 にも関わらず、男は放置されていた。
 公園を走り回る子供は決してそのベンチに近づかなかった。
 散歩に来た老人は決してそのベンチに座ろうとしなかった。
 赤ん坊を連れた母親は決してそのベンチに目を向けなかった。
 犬の散歩に来た少年だけは、いつもおとなしいラブラドール・レトリバーがなぜか
公園の一角にむけて低く警戒のうなり声をあげるのを不思議に思っていた。
 そこには、何もおかしなものはないというのに。
 だから男は、誰にも邪魔されず、何にも惑わされず、ただそのベンチに座り続けた。
 それを男が不思議に思うことはなかった。
 なぜなら、それこそが男が望んだ事であったのだから――

「となりに座らせてもらうのじゃー」
 だから突然に声をかけられて男は飛び上がるほどに驚いた。
「え? え?」
 男に声をかけたのはひとりの少女だった。少女の頭には熊の耳がついていた。
「あ、あの。キミは……」
 男はうろたえながら周囲を見回した。他に人気はない。公園には他にベンチもあれば
四阿もあるが、いずれも空っぽであった。
 少女がここに座る理由はどこにもありはしない。
 逆に男に拒否する権利もありはしない。
 男はむっつりと黙ったままベンチに座っていた。不条理ではあるが、少女に対し怒りに
似た気持ちがわき上がってきた。
「今日はいい天気なのじゃ」
「……」
 男は無言のまま少女と視線を合わせないようにした。
 だが、熊耳の少女は男の全身から発する『関わり合いになりたくない』オーラを無視
して手にした風呂敷包みを広げた。
「香澄のおかあさんからクッキーをもらってきたのじゃ」
 甘い香りが、男の鼻孔をくすぐった。
 くう、と男の腹の音が鳴った。
「おじさんもお腹が空いているのじゃ。一緒に食べるのじゃ」
「いや、私はさっき食事をすませて――」
 まだ30にもならないのにおじさんと言われて少し傷ついた男は、ここははっきりと
断るべきだと思って口を開いた。
「さっきって、いつなのじゃ?」
「え」
 少女に言われて男は思わず口ごもった。
 そういえば、最後に食事をしてからどのくらいたっただろうか。
 確か昼食は牛丼を、いや、豚丼だったろうか。まてまて、それは昨日……一昨日……
 男は当惑して周囲を見回した。

 今日は、何曜日、いや何日だったろうか?

 あわてて携帯電話を取り出す。だが、液晶には何も表示されなかった。充電が切れた?
 いや、それにしては時刻すら表示されないのはなぜだ。

「それは使えないのじゃ」
「どうして?」
「それより、くまたんは知りたいのじゃ。なんでおじさんはここに座り込んでいるのか」
 くまたんというのはどうやらこの少女の名前らしい。
「いや、その……疲れたからちょっと休憩しようと」
 そうだ。
 疲れたのだ。
 何をする気にもなれず。
 誰とも会う気にもなれず。
「疲れているときには甘い物がいいのじゃ。クッキーを食べるのじゃ」
「いや、その――」
 だめだ。
 何もしない。
 誰とも会わない。
 そう決めたのだ。そう決めたから、彼はここにいるのだ。
 ここにいれば、何もしなくていい。
 ここにいれば、誰とも会わなくていい。
 だというのに、この少女はいったい何の権利があって、彼の唯一の心のよりどころを
奪おうというのか。
「うーん。困ったのじゃ」
 困っているのはこっちの方だ。男はそう思ったが、口には出さなかった。元々、人と
話すのが得意な方ではないのだ。
「ひょっとしたらまだ間に合うかと思ったのじゃが、これはどうにもダメなようなのじゃ」
 熊耳の少女は風呂敷を包みなおすと、よっこいせと立ち上がった。
 どうやら立ち去ってくれるらしい。男は安堵した。
「やはり、殺すしかないのじゃ」
「え?」
 少女は今なんと言った?
 殺す? 何を? 誰を?

 ――自分を?

「キミはいったい――」
 ゆらり。
 少女の輪郭がゆらいだ。みるみるうちに少女の背が伸び、髪が伸びた。
「な? な? な?」
 そこに立つのは、十代半ばほどの異形の少女だった。
 少女は、熊の毛皮をかぶっていた。長いつややかな黒髪が、腰まで伸びていた。
 着ている服はぼろぼろで、靴もはかずに素足だった。

『山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛という人は今も七十余にて生存
せり。この翁若かりしころ猟をして山奥に入りしに、遙かなる岩に美しき女ひとりありて、
長き黒髪を梳りていたり。顔の色きわめて白し』

 少女は白い顔を男に向けた。
「少し痛いが辛抱するのじゃ」
 残像を残すほどの速度で、少女の貫き手が男の胸にむけて突き出された。
「わあああっ?!」
 男は思わずのけぞり、後ろにひっくりかえった。ベンチがまっぷたつに砕け、木っ端が
飛び散った。そのひとつが男の頬をかすめた。痛みと同時にぬるりと血が流れ、それが男に、
生命の危険というものをDNAレベルで認識させた。
「む。逃げてはいかんのじゃ。ちゃんと当たらないと長く苦しむことになるのじゃ」
 少女がたしなめるように言う。
「な、な、ななななーっ?」
 言葉にならない。
 とにかくこのヘンな少女は自分を殺そうとしている。それだけは間違いない。
 男は起きあがるなり少女に背を向けて一目散に駆けはじめた。
 公園の入り口ではなく中の方に向かっているのはすぐに気が付いたが、今更向きを変える
わけにはいかない。
「誰かっ! 助けてくれっ!」
 男は走りながら叫んだ。後ろから追いかけながら、少女が言う。
「助けを呼んでも無駄なのじゃ。誰もここには入って来ないのじゃ」
「そんな、何をしたっ」
「何かしたのはおじさんの方なのじゃ。こんなところにマヨイガを作ってはいかんのじゃ」
「マヨイガ?」
「とにかく諦めて死ぬのじゃ。それで全部きれいに解決するのじゃ」
「納得できるかっ!」
「おじさんは自分から俗世の縁を絶ったのじゃ。今になって命に執着してもいいことは
何もないのじゃ」
「私はそんなことはしてないっ!」
「あそこに座って、誰にも会いたくない、何もしたくないと願ったのはおじさんなのじゃ」
「それは――」
 そうだ。
 それが自分の望みだったはずだ。
「おじさんが誰にも会わないのなら、おじさんは誰にとっても存在しないのじゃ。おじさんが
何もしないのなら、おじさんはこの世にいるべきではないのじゃ」
 少女はいっそ淡々とした口調で言った。
「そんな、むちゃくちゃなっ!」
 そこで男は芝生を囲む柵につまづいた。
 ごろごろと芝生の上を転がり、どすん、と木にぶつかって止まった。
 少女が近づいてくる。
 何やら久しぶりに全力で走ったせいで、膝に力が入らない。
 立ち上がるのも、走って逃げるのも、もうできそうになかった。
 そうか。
 自分は死ぬのか。
 何がなんだか分からないし、どうして死ななければいけないのかも分からないが、案外と
死ぬというのはそんなものなのかも知れない。
 男は諦観の視線を少女に向けた。心臓は激しくビートを刻んでいたが、心は静かだった。
 男は静かに自分の運命を受け入れた。
 少女が目の前に立つ。
 男は目を閉じた。
 ぜいぜいと荒い息がしだいにゆっくりになる。
 だが、待てども待てども、最後の一撃は来なかった。
 ひょっとしたら、自分はもうすでに死んでいるのか?
 男はうっすらと目を開けてみた。
 少女が口をへの字に曲げて立っていた。
「うーん。諦めが良いのも困ったものなのじゃ」
「どっちだよっ?!」
 思わず大声が出る。
「おじさんは流されすぎるのじゃ」
「ほっといてくれっ!」
 それは自分でもよく分かっていた。

 子供の頃から絵が好きだった。
 デザイン関係の仕事をするつもりでいた。とはいえ、とりたてて才能があるわけでは
ない。就職には苦労したが、なんとか小さなデザイン事務所に入ることができた。
 しかし、その事務所は資金繰りが苦しく、彼はいつも社長が見つけてきたバイトのような
助っ人仕事を点々としていた。給料も雀の涙で、結局、親から仕送りをしてもらって
かろうじて生活していた。
「そのうち、君にもばりばり働いてもらうから」
 社長のその言葉を信じて、デザインとは何の関係もない運送会社の仕事を手伝った。
運送会社の支店長からはこっちを本業にしないかと声をかけられたが断った。
 いつか、自分にもチャンスが巡ってくると信じて。
 ある日、久しぶりに会社に行ってみると、誰もいなかった。社長はどこかに雲隠れし、
残ったスタッフにも連絡が取れなかった。
 代わりに彼に連絡してきたのは取り立て屋だった。彼の名義で社長が借金をしていたのだ。
 どうしたらいいか分からないまま、友人や親や、役所に相談してみた。
 どうにもならなかった。
 みんな同情はしたが、むしろ何年も事態を放置した彼の行動をとがめた。夢のような
事ばかり考えているからこうなるのだと。もっと現実をみろと。

 おまえには、才能など、ありはしないのだと。

「そんな事は――分かっていた」
 分かっていて、あえて目をそらしていた。
 分かっていて、あえて考えないようにしていた。
 借金取りに追われ、将来への希望も何もなくし、アパートを逃げ出した彼は疲れて
公園のベンチに座った。
 そして、座り続けた。
 現実が自分を見捨てるのならば。
 自分も現実を拒否してやる。
 男の口から奔流のようにそういった過去のあれこれに関する言葉が出た。
 今まで言いたくても言えなかった、言っても聞いてもらえなかった、愚痴が、悩みが、
どんどんどんどん、後から後からあふれだしてきた。
 少女が自分を殺すというのなら殺せばいい。
 だがそれなら、自分の言いたいことをすべて聞く義務が少女にはあるはずだ。
 男はそう思い、しゃべりつづけた。
 やくたいもない、みっともない、男の自嘲混じりの泣き言を、少女は最後まで――

「よくわかったからもう黙るのじゃ」

 聞き届けはしなかった。
「わ、私はっ」
「おじさんがダメな人なのはよくわかったのじゃ。なるほど、これなら生きていても
しょうがないのじゃ。くまたんも心おきなく何の憂いもなくおじさんを殺すことができる
のじゃ」
 男は酸素不足の金魚のように口をぱくぱくとさせた。
 少女は腰につけたなたを引き抜いた。刃は厚く、いかにも実用重視な作りだった。
「これで脳天をかち割るのじゃ。悩みも苦しみもすべてなくなり、楽になれるのじゃ」
「あ……あ……」
 少女がなたを振りかぶった。
 ぶん、なたが落ちる重い音がした。
 男は思わず目をつぶった。

 衝撃が、男の顎から上へ突き上げてきた。

「……?」
 逆ではないのか?
 男はひっくり返りながら考えた。それに痛いが、死ぬほどではない。
「おらおら、何ぼけっとしてやがる」
「え?」
 目を開けた。
 少女はいなかった。代わりにいたのは、すっかり顔なじみになった取り立て屋だった。
取り立て屋はひっくりかえった男の胸ぐらを掴んで引き起こした。
「金借りたままとんずらこけるほど世慣れてねえくせに、どこに消えてやがった」
「いや、その……」
「なんだ、言ってみろよ、こら」
 何を聞くべきなのか。
 ここにいたはずの少女についてなのか。
 自分がどこで何をしていたのか。
 疑問が次々と浮かんでは消え、ようやく言葉になったのは。
「その……今日は、何月何日ですか?」
「ああん?」
 取り立て屋はしばらくきょとんとした後、日付を答えた。スケジュール管理がきちんと
できていなくては、借金を取り立てる事はできない。
「1週間……そんなものなのか」
 あのベンチに座って何ヶ月も、ひょっとしたら何年も経っているような気がしたのだが、
実際にはそんなものだったのだ。
「何言ってやがる。タイム・イズ・マネー、1週間でも利子はつく。そういう考えだから
借金こさえて苦しむことになるんだ、わかってのかこらっ」
 借金取りは男を引きずるようにして公園の入り口まで戻った。
 そこには、男の車と並んで、黒いベンツが停まっていた。
「というわけで、お前さんともこれで最後だ」
「え?」
「お前さんの借金を肩代わりしてくれる人がいてな。これからは俺じゃなくてその人に借り
を返すんだ。けっ、まったく手間ぁかけさせやがって」
 彼の借金は確か500万を少し越えたぐらいだったはずだ。とりたてて高いわけでは
ないが、気軽に立て替えられる金額でもない。
「あの……」
 立ち去ろうとする取り立て屋に男は声をかけた。
「なんだよこら、俺はもう、お前とはもうこれっきりなんだ」
「じゃあ、なんで私を捜してたんですか? 私の借金を払ってもらえたなら、私に関わる
必要はないじゃないですか」
「だからお前はバカなんだ。金だけ立て替えてもらって後は知りませんでこの仕事が
続けられるかぼけ。借りがあれば返すのは、金の話だけじゃねぇんだよ」
「あ、あの」
「なんだよ、まだあんのか」
「ありがとうございました」
 男は心からそう言い、頭を下げた。うるさくつきまとわれ、心底うんざりしていた
相手であるが、周囲の皆が、彼自身も含めて彼を軽蔑し、彼に何も期待していなかったと
いうのに。
 この取り立て屋だけは男に期待を寄せていたのだ。

 金を返してくれるのではないか、という期待を。

「その……」
 何かないか。男はぼんやりと考え、ふと自分が風呂敷包みを手に持っている事に気が
付いた。中からは甘い香りがする。
「クッキーです、よろしかったらどうぞ」
「あ?」
 取り立て屋は目を白黒させた後、男が差し出した風呂敷からクッキーをひとつつまんで
口に放り込んだ。
「手作りか。うまいな」
「そうですか」
「ありがとよ。じゃあな、もうお前とは金輪際会いたくねぇや」
 取り立て屋はぶつぶつ文句を言いながら、それでも足取り軽く立ち去っていった。
「そういうところは、ちっとも変わっていませんのね」
 ベンツの中から若い女性が降りた。
「あ、あの、君は……?」
 どこかで見たような、そんな思いがちりちりと首筋をはう。
「才能はない。やる気もない。ただ人がいいだけのつまらない男のくせに、妙に気になる。
ほっとけない。まったく、相変わらずですわ」
 美人だがやたらと権高な感じのする目つき。
 背は低いので顔の位置は下なのだが、まるで見下ろすかのような目で男を見ている。
 この目には、どこかで、むかし会ったような気がする。
「あなたの借金は私が肩代わりしました。つまりあなたは私が買い取ったのです。これから
私のために粉骨砕身、それこそ血の一滴にいたるまで捧げていただきます」
「……はぁ」
 驚くべきなのだろうが、さっき殺されそうになった身としては今更この程度では動じたり
しない。
 何か、おとなしいながらもふてぶてしさを感じさせる顔つきで男は言った。
「それでは、私は君のことを何と呼べばいいのかな?」
「覚えていませんの?」
「何を?」
「……まったくもう。先が思いやられますわね。とにかくお乗りなさい。屋敷でこれから
あなたのなすべき事をみっちり教えてあげます」
「そうか。ああ、そうだ。その前に」
「何ですか?」
「ありがとう。助かったよ」
 男はにっこりと笑って言った。
「――ふんっ。人のことを忘れておいて」
 女はわずかに頬に朱をさして顔をそらした。
「ところでそのクッキーは? 女にでももらったのですか」
 髪をかきあげながらさりげなさを装って聞く。さっきから気になっていたらしい。
「いや、女というか、女の子というか、熊というか」
「熊?」
「ちょっとした不思議な体験でね。実は……」
 男と美女は、車の中に消えた。
 走り去る車を、熊耳の少女が見送っていた。
 すでに外見は元の小さな女の子に戻っている。
「意外な結末なのじゃ」
「まあ、そんなものだよ。人というのはこれがどうにも不思議でね。ダメなように見えて、
クズなように見えて、それでいて、何か変えられるものを常に持っている」
 くまたんに声をかけたのは、隻腕の青年だった。
「おお、シャドウハンドなのじゃ。久しぶりなのじゃ」
「やあ、小さき姫様」
「奥様達と子供達はどうしているのじゃ?」
「元気だよ。今度4人目が生まれる」
「それはめでたいのじゃ」
「姫様は、どうしてこちらに? まだこうしたお役目には早いと思ってたんだが」
「そろそろ約束を果たしにもらいに来たのじゃ。さっきの男の言葉ではないが、借りを
返してもらうのじゃ」
「なんだったらうちに来るといい。みんな歓迎するよ」
「いや、それも約束のうちなのじゃ。だからお気持ちだけありがたくいただいておくの
じゃ」
「そうか。何かあったら訪ねて来るといい」
「そちらも何かあったらくまたんを頼りにするのじゃ」
「そうさせてもらうよ」
 青年は静かな微笑を浮かべて言った。そして左手をあげると立ち去っていった。
「あの笑顔がくせ者なのじゃ。祐介も似たような笑顔をするので危険なのじゃ」
 くまたんはぱんぱんとスカートをはたいた。
 空には夕焼け雲。
 学校から帰る子供達や、買い物帰りの主婦が道を行き交う。
「くまたんも帰るのじゃ」
 熊耳の少女は足取りも軽く家路へと向かった。

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お題もの書き2004年11月テーマ企画「クマ」

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