注意:これは『くまたん』シリーズの3話です。先に2話の『くまたんとお風呂』をお読みになってから読まれると、より楽しむ事ができます。
この部屋の住人は昨日まで俺ひとりだった。 よって、布団は一式しかない。冬用の毛布はあるが、敷き布団も掛け布団も一枚 だけである。 「では寝るのじゃ〜」 風呂から上がったくまたんは、布団の上にばふっ、と転がった。 「ちょっと待ちなさいっ」 湯上がりで上気した頬をさらに赤く染めて香澄が言う。 「祐介、どういうつもりよ?」 「俺?」 俺はきょとんとした。 「お布団、ひとつしかないじゃない」 「そりゃ当たり前だろ」 「当たり前ですって? 何を考えてるのよっ!」 なんだ? なぜ怒る? 「くっ……仕方がないわね」 香澄はくまたんの手を取った。 「くまたん、今夜はうちに泊まりなさい」 「いやなのじゃ。ここがいいのじゃ」 「だめよっ! お布団だってひとつしかないのに」 「祐介と一緒に寝るのじゃ」 「それがダメなのっ!」 香澄は何かを探すかのようにきょろきょろと部屋の中を見回した。とはいえ、 毎日のようにこの部屋にずかずかと上がり込んでは勝手に掃除をしたり飯を作ったり している香澄が今更のように探さねばならぬようなものなど、この部屋にはありは しない。 すると、香澄はしまってあった毛布を取りだした。 「毛布はまだいらないだろ」 「そうじゃ。暑いのじゃー」 「祐介」 俺たちの抗議を黙殺して香澄は言った。 「今夜はこれで寝なさい」 「なんで」 ちっちゃなくまたんと一緒なら、同じ布団でも何ら問題はないはずだ。 「そ、それは……」 むむむむ。 しばらく悩んだ末、香澄はもはやゆでタコのようになった顔で言った。 「く、くまたんは私と一緒にお布団で寝るからよ」 「香澄も一緒なのか? がおー」 くまたんが嬉しそうに言う。 こうして。 なし崩し的に香澄もうちにお泊まりをすることになった。さすがに着の身着のまま というわけにはいかないので、香澄は一度家に(といっても隣だが)戻り、バッグを 下げて戻ってきた。 「来たわよ」 「ああ」 「待ちくたびれたのじゃー」 香澄が下げている大きめのバッグはぱんぱんに膨らんでいた。 どうでもいいが、一晩泊まるだけでなぜあんな巨大な荷物になるのだろう。 「母さんには、ゆっこの家に泊まるって言ってあるから」 「なるほど」 無駄だと思うが。ついさきほど、おばさんから電話があってちゃんとしてやってくれ と頼まれたばかりである。 「父さんがいなくて助かったわ」 さっきの電話ではおばさんの声の後ろから「むー、むー」という何やら男がぐるぐるに 縛り上げられて猿ぐつわをかまされているような声が聞こえてきたのだが、そうか、 おじさんはいないのか。じゃああれは誰の声だったんだろうか。 「ちょっと! いつまでこっちを見てるのよっ!」 「は?」 考え込んでいた俺を香澄がにらみつけられてきた。 「着替えるんだから、後ろ向いてなさいよ」 「わかった」 くるりと背中を向けて座る。 「ほら、くまたんも着替えて」 「これはなんなのじゃ?」 「私の子供の頃のパジャマ」 「おお、熊のパジャマじゃ」 「ほらほら、早く着替えて」 しゅるしゅると衣擦れの音がする。 「お、香澄。さっきとパンツが違うのじゃ」 「あ、当たり前でしょ!」 「紐のようなのじゃー。しゅるり」 「あ、こら、ほどいちゃダメ!」 「おお、脱げたのじゃ。面白いのじゃ」 「ダメよ、こら、返しなさいっ!」 「わははは。返して欲しかったら捕まえるのじゃー」 どたばたどたばた。狭いアパートの中でくまたんと香澄が追いかけっこをする。 下の2号室の小藪さんには申し訳ないが、まあ、あの人は地震が来ても気が付かずに 寝ている人だから大丈夫だろう。 「えい、地雷攻撃なのじゃ」 「きゃあっ」 ずるり、と何かで足を滑らしたらしい香澄が、ダイブするように倒れてきた。 「おっと」 手を伸ばして倒れる香澄を空中で回転させ、膝の上に抱きかかえる。 「大丈夫か?」 「あ、ありがと祐介」 ほっとした表情の香澄。その顔がぴきり、とこわばり、視線が自分の下半身へと伸びる。 俺もつられて視線を下に向ける。 ふむ。 意外と毛深い。 「きゃああああっ!」 左アッパーが、俺の顎に炸裂した。カウンター気味に決まり、目から火花が散る。 「おお、香澄。見事なのじゃ」 ばたり。 俺はそのまま仰向けに倒れた。白い下着姿のくまたんが、俺を見下ろして合掌している。 「さらばじゃ祐介。安らかに眠るのじゃ」 そして、はなむけであろうか、俺の顔の上に何やら淡いベージュ色の布をかぶせた。 「あああっ! 祐介っ! ていうか、何顔にのせてるのよっ!」 ばっ。 布きれが奪われた。香澄が俺を涙目でにらんでいる。 「祐介の変態っ! エッチ!」 俺の胸ぐらをつかんでがくがくと揺する。 「くまたんもやるのじゃ〜」 くまたんも飛びかかってきて俺の腹の上で飛び跳ねる。 ううむ。 死にそうだ。 夜が更けてきた。 毛布にくるまったまま、俺は部屋のすみに転がされていた。香澄が俺を毛布ごと縛り 上げたのだ。くまたんも大喜びで手伝ったせいで、今の俺は蓑虫同然である。 「トイレ……」 もよおしてきたので俺はしばらく考えた。我慢するのは身体によくない。かといって、 香澄を起こしてほどいてもらうのもどうかと思う。香澄は寝起きがあまりよくない。 「しかたがない」 俺はこきこきと関節をはずして毛布から抜け出た。 トイレをすませて、再び毛布にくるまる。縛り直すのはさすがに面倒だし、寝心地が 悪いのでやめにする。 「おやすみ」 眠ろうとした時、小さな声が聞こえてきた。 くまたんの声だった。 俺は布団に近づいた。香澄の横で、くまたんはよく寝ていた。だが、その顔には 悲しげな表情が浮かび、目元には涙が浮かんでいた。 「かーさま……とーさま……」 「ふむ」 俺は毛布を持って、くまたんの横にきた。 「ほら、くまたん」 俺はくまたんを軽く抱き寄せた。 「とーさま……」 くまたんが俺にしがみつく。ちっちゃくて、日向の匂いがするくまたん。 俺はくまたんの『とーさま』じゃないけど。 「俺がそばにいてあげるよ」 だから安心しておやすみくまたん。 良い夢を―― 見られるといいね。 ...next story『くまたんとお餅』