戦国ファンタジー『我ら中原に鹿を追う』

 灯火が揺らぎ、影が踊った。いや、影が踊ったのではなく疲労で眼が泳いだのだろうか。
 青年は手にした筆を置き、額を強く揉んだ。涙が出るほどの痛みで意識が覚醒する。
 次いで青年は丸めていた背中を伸ばした。よくない姿勢のまま固まっていたのか、ばきばきと背筋が鳴る。
「ぐぅぅ」
 思わずうめき声が出た。
 ここは寺院の裏手にある庫裏である。寺務をなすための部屋で、墨やすずり、紙などひととおりの物がそろっている。青年が使っている木の机にも墨の匂いが染みこんでいた。
 青年は彼が書き散らかした紙がうずたかく積まれているのをみて良心のうずきを覚えた。このところ紙が不足していたので今日はつい贅沢に使ってしまった。この部屋の本来の主には悪いことをしたと思う。
「ハカン様」
 置物のように傍らに控えていた小姓が青年の名前を呼んだ。
 名前を呼んだだけで他には何も言わない。
「うん。分かっているよ、チンシェン。そろそろ終わりだ」
 それでも小姓が何を言いたいのか、青年=ハカンには伝わったようだった。照れたような顔をしてそばに置かれた湯飲みに手を伸ばす。中に入っている白湯はすっかり冷めてしまっていた。
 ちびちびと嘗めるように白湯を口に含み、ハカンは小姓=チンシェンに問いかけた。
「今は何時頃だろうか?」
「油皿を一度交換しました。もうすぐ二度目になりますから、夜明けまで二刻(約4時間)あまりかと」
「そんなにか! やれやれ、すっかり夜なべしてしまったな。付き合わせてすまないねチンシェン」
「いえ、これが私の仕事ですから」
 チンシェンが答える。
「そうか。チンシェンはいい子だな」
 ハカンは手をのばしてチンシェンの頭を撫でる。優しく触れる指先に、チンシェンはくすぐったいたそうな顔になる。そうすると白い陶器でできた人形のような顔にぱっ、と生気が満ちる。チンシェンのこうした顔を知っているのはハカンの他には数えるほどしかいない。
「そういえばすっかり外も静かになったな」
 ハカンは耳を澄ました。じじじ、という灯火の燃える音の他にこれといった物音は聞こえない。
 日が落ちた頃はもっとずっと騒がしかった。それも道理で今この寺院の中には東方から来た千をこえる数の兵士があがりこんでいる。町全体では万を数えるだろう。町の人口が一気に倍近くになったわけだ。
「前に油皿を交換した時にはまだ騒ぐ声が聞こえました。何か壊れるような音も」
「うーん。あまり狼藉をしていなければいいんだがな」
 ハカンは少しばかり思考をめぐらした。
 寺院を借り上げて本陣にするのは今日がはじめてではない。寺側にしてみれば迷惑だろうが、そもそも寺院というものは衆生を集めてありがたい教えを説く場所である。そのため構造的にも大きさ的にも軍勢をまとめて入れるのに適しているのだ。
「宝物庫には番をしてあるし、酔って騒ぐぐらいは仏様も許してくださるだろう」
「ですがその……ここはお寺なんですから……」
「お坊さんでもお酒ぐらいは飲むだろう?」
「いえ、そうではなくて……女の人が……」
 チンシェンの頬が赤くなり、声が小さくなる。
「ああ」
 ハカンは合点した。自分の顔も赤くなるのが分かる。チンシェンが赤くなっているという事は、実はかなり“そういう声”が聞こえていたのだろう。この庫裏にある部屋を使えるのは将校だけだが、逆に言えば将校であれば女を買う金に不自由する事もない。
「ごめんよ、まるで気がつかなかった」
「いえ、ハカン様が謝られる事ではありません」
「兵士というのはそういうもの……らしいよ。うん、その……戦に生死をかけるからこそ、情熱が、えーと、わきたつとかなんとか」
 共に従軍している親友の言葉を思い出しながら、ハカンは言った。昨夜も色街に誘われはしたのだがことわった。
「“セイシをかける”……ですか」
 何を思ったのかチンシェンがさらに赤くなってうつむき、もじもじしている。だが、ハカンの方はまったく別のことに気を取られていたのでその様子には気づかなかった。
「そういえば古の記録には、妻帯しているものが妻も連れているというのがあったな」
 あれは確かクセノハンという兵士がこの西方平原よりさらに西の地に従軍した時の記録をまとめたものであった。
 本の名前は……ハカンはしばし頭をひねった。チンシェンも主が何か考えているのを見てもじもじするのをやめる。
「そうだ、『万兵退軍記』だ。敗軍が千里を歩いて故郷へ帰る話だったな」
 ハカンは立ち上がって部屋にある書棚を調べてみた。だが、ほとんどは寺務方が残した記録で、読み物の類は数冊しかなかった。そしてこっそりと他の本に埋もれるようにして存在したその数冊はいずれも艶笑本の類であった。
「ハカン様、『万兵退軍記』がどうかされたのですか?」
 一緒に書棚を調べたチンシェンが聞く。
「うん。あの本では確か軍に兵士でもない女性が軍に同行しているという記述があったからね。そのあたりを調べようと思って」
「えっ」
 チンシェンがぎくりとした表情になる。
「その……どうしてそんな事を?」
 チンシェンの様子にハカンは今度も気づかなかった。元来が周囲に無頓着なたちなのである。
「うん。そういう女性はどうやって生活していたのか思い出せなくて。読み直せればと思ったんだ」
「そうなんですか」
 ほっとした顔でチンシェンが胸をなでおろす。しばらくしてチンシェンが大きな瞳をハカンに向けて言った。
「私はその本を読んではいませんが、読み終わった時にハカン様が言われた事なら覚えています」
「僕はなんて言ってた?」
「はい……」
 チンシェンは目を閉じて意識を集中させる。
「『この軍勢には常に商人が同行していたようだな。商人だけでなく医者もいれば鍛冶屋もいる。町ひとつが一緒に移動していたと考えるべきかも知れない』とおっしゃっていました」
 ぽん、とハカンが手を叩いた。
「ああ、思い出した。そうだ。古の軍には同行する商人の集団があって、食べ物や衣類などを売ってたんだ」
「のんびりしていたんですね」
「うん。作戦期間も2年とか3年とかで長く、冬には戦争をやめて冬営したりしていたんだ。しかし、商人が軍隊と一緒に行動していれば私は楽ができたろうなぁ」
 ハカンがうらやましそうに言う。チンシェンはくすりと笑った。
「そうなったら、ご実家のお仕事に戻られては?」
「叔父上が僕に商売を任せてくれるとは思えないな。今回の遠征でも、お屋形様の命令でなければここでこうする事はなかったわけだし」
「おいやなのですか?」
「らしくない、とは思うね。僕が軍人、それも将校様というのは」
 ハカンは胸につけた徽章をつついた。それは彼が虎王国西方遠征軍の台所を預かる、財務官という官職をあらわすものであった。
 だが、ハカンの外見で軍人らしい部分はそこだけであった。身に寸鉄を帯びることなく、腰に帳面をぶらさげているだけのハカンは外見も顔つきも商家の番頭にしか見えない。
「まあ、一隊を任されなかっただけありがたいと思わないとね。ときどきお屋形様は酔狂な真似をなさるよ」
 それはどうだろうかとチンシェンは考えた。この遠征軍の指揮官であるお屋形様は甘い人物ではない。それに、チンシェンはハカン以外の財務官がこれまでどんな仕事をしてきたかは知らないが、耳に入る限り兵士のハカンに対する評判は悪くない。
「ま、とりあえずは仕事を仕上げよう。チンシェン、頼むよ」
「はい」
 ハカンは戦場であろうがどこだろうが常に身につけている帳面を広げ、そこに記載された数字を読みあげた。遠征時に動員された兵の数。進軍した先々で戦闘や病気で落伍した兵の数と、落とした城邑に守備隊として残した兵の数。現地で新たに参陣した土豪の手勢。延々と数字を読み上げていく。
「よし、これで現在の兵数を出してくれ」
「二万一千と四百二十三です」
 チンシェンが間髪を入れずに答える。ハカンはその答えにうなずいた。おおむね彼が想定していた範囲内の数字だったからだ。
 続いて騎獣。
「どうだい?」
「乗馬一万三千と五百十三頭。輓馬二万八千と百四十二頭。一角竜百七十七頭」
「うーん、輓馬が増えたなぁ」
「西方平原は広いですから」
 遠征が続くにつれて兵站線は延び、それに連れて輓馬もどんどん増えている。遠征前にあらかじめ馬市場に手を回していたからこれまではなんとかなったが、そろそろ限界である。
「では最後だ。糧秣に行くよ」
 再びハカンが数字を読み上げていく。ときどき間があいたり、言い直したりするのは幾つかの数字に信用がないからだった。
「よし、これでどうだ」
「はい」
 チンシェンがやはり即座に数字を出す。だが、数字を口にした後で瞳にわずかに迷いの色が出る。チンシェンが前に出した数字――先だってお屋形様に報告するために出した数字との差異があまりに大きかったからだ。
 およそ三分の二、それだけしかない。特に糧秣の秣の方は半分しかない。
「そうか。うーん、やはりそうなるか」
 ハカンが頭をかいた。今度もおおむね彼の想定していた範囲内の数字だった。だが実際に具体的な数字として突きつけられると心穏やかではいられない。
「しかたがない。お屋形様――ガエン将軍にお話しするしかないな」
 どっこらせとハカンが立ち上がった。
「今からですか?」
 ガエン将軍は寝ているはず。それもここ一〇日あまり荒野を行軍した後の、久しぶりにまともに屋根のある場所での睡眠だ。邪魔されてうれしいはずはないし、ハカンが口にするのはさらにうれしくない内容のはずだ。
「朝になったらあれやこれやで後回しにされるだろうからね。今が一番いいんだ」
 ハカンは帳面に新たな数字をあれこれと書き加えるとチンシェンには先に寝ているように言って部屋を出た。
 寺院の廊下にはひんやりと乾いた空気がただよっていた。このあたりは海から遠い。昼間は暑く、夜はびっくりするほどに冷える。
「そういえば野営での薪の消費が予想より多いな」
 寒いのでたき火が増えているのだろう。ハカンは立ち止まり、腰にぶら下げた帳面に『薪 増 防寒』と書き加えた。
「問題はどこで薪を集めるかだな」
 母国のある中原であれば、人里の近くにはたいてい手を入れた山や森がある。そこの入会権を管理している村長などに一筆いれれば薪用の木材は容易に手に入る。しかし、乾いた無人の野が続く西方平原には入会地そのものが少ない。雑木がまばらに生える疎林では万を数える軍勢が一晩過ごすための燃料用の薪を集めるのですら一苦労だ。
「この先に進むともっと乾いているそうだからな。どうしたものやら」
 古い板張りの廊下を歩くとぎしぎしと音がする。それに驚いたネズミが駆け出す小さなトトトトという音が聞こえた。
「この庫裏をばらすとどのくらいの木材が手に入るだろう?」
 などとたいへん罰当たりな事を考えながら歩く。
 さほど進むほどもなく、ガエン将軍が寝所としている部屋の前まで来た。
 他の将軍であれば扉の前にいるはずの不寝番はいない。ここに寝ている男はそのような護衛を必要としない。
「誰だ」
 案の定、部屋の中から野太い男の声がした。
「ハカンですお屋形様。ご報告したいことがありまして参上しました」
「ふん、入れ」
 部屋の中は暗かった。向かいの壁に付けられた油皿の上で、灯火がじじじじと音を立てて燃えていた。
「不景気な顔をしているな」
 さほど広くもない寝台の上であぐらをかいている壮年の男が揶揄するように言った。よく鍛えられた裸の上半身に、薄い夜着を袖を通さずに羽織っている。
 ハカンは、男に一礼した。
「夜分失礼します。実は――」
「ああちょっと待て」
 男は彼の傍らで寝具にくるまった娘の大きな尻をぺちりと叩いた。
「起きろ」
「んん……」
 娘が寝ぼけた声をあげる。娘が寝返りをうった拍子に白い豊かな乳が見えてハカンは顔を赤くした。
「だめですよ旦那様。もう勘弁してくださいまし」
 どこか媚びを含んだ娘の声に男が一笑する。
「馬鹿野郎。そうじゃないよ。今夜はもういいから出て行け」
「はいはい」
 娘はするりと寝台から降りると、床に散らばった服をかき集めて両手に抱えた。そして裸のままハカンの脇を通って外に出た。ハカンとしてはできるだけ娘の姿が視界に入らないようにかしこまっているしかない。
「相変わらず女は苦手なみたいだな」
「苦手というか……どう扱えばいいのか分からないだけです」
「馬鹿野郎。それを苦手というんだ」
 男は寝台の脇に置かれた素焼きの壺をつかみ、そのまま口をつけて中の酒を飲んだ。ぐびぐびとのどぼとけが動く。
 どん、と空になった壺を置くと男の顔から陽気で野趣あふれる雰囲気が消えた。
 入れ替わりに冷酷で非情な、軍将としての顔が表に出る。
「さて、それじゃあ聞こうか。――何があった」
「はっ」
 ひやりとするものを感じながら、ハカンは口を開いた。
「単刀直入に申し上げます。我が軍はただいま、累卵の危うきにあります」

 部屋にひとり残されたチンシェンは、ハカンが床一面に散らかした紙を拾い集めて整理した。主は整理整頓があまり得意でないのだ。
 その後でチンシェンは、ハカンのために敷布や毛布で寝床をこしらえた。自分の寝床も部屋の隅に用意する。こちらはすり切れた毛布一枚の粗末な物だが、兵士の多くがむしろをかぶって雑魚寝しているのを思えば、贅沢なぐらいである。
 ハカンには先に寝ていろと言われたが、チンシェンにそのつもりはなかった。
 それよりもチンシェンにはするべき事があったからだ。
 チンシェンは襟元に鼻を近づけ、くんくんと臭いをかいだ。やはり、臭う。それもいたしかたない。ここ一〇日あまりはずっと野営が続いている。野営中は風呂など望むべくもない。
 だから今夜は少しばかり期待していたのだ。ひょっとしたら熱い湯につかる贅沢を味わえるのではないかと。大きな町には公衆浴場がつきものであるし、それがないにしても本陣が宿営するのはたいてい寺院かお屋敷である。そこには大量にお湯を沸かす設備があるから、湯をたらいでもらって汗を流す事もできる。
 しかし、これだけ夜が更ければそれも不可能だった。
 チンシェンは厨房で少しばかりの湯をもらって部屋に戻った。誰がいるというわけでもないがいつもの癖でついきょろきょろと左右を見回してしまう。
 それから服を脱ぐ。一四才という年齢よりもまだ若く、というか幼く見えるのは優しげな顔つきだけではなく全体的な骨格がきゃしゃなせいだ。胸元にはきつくさらしが巻いてある。
 チンシェンは熱い湯に布を浸して絞り、身体を拭っていった。首や脇の下などを赤くなるほどにこする。石鹸が欲しかったが、これでも十分に気持ちいい。
「ハカン様はまだ……かな」
 手足も一通りこすった後でチンシェンは扉をあけて様子をうかがった。
 窓から月の光がさしこむだけの暗い廊下に人気はない。
 扉を閉めてチンシェンはさらしをほどきはじめた。しゅるしゅるという音とともに、細長い布が床でとぐろを巻く。
 ぷりん。
 圧力から解放されたふたつのふくらみが揺れた。
「また……大きくなってる」
 チンシェンは自分の胸に手を当てて呟いた。いつもきつく締め付けているのに、胸は順調に成長を続けている。呪わしく思う反面で、なぜか満足感もある。
 チンシェンは胸にあてた掌を動かしてみた。むにむにと柔らかいが、これといって感慨はない。男は女の胸をもむのが好きだそうだが、こんなもののどこがいいのだろうかと思う。形といい、手触りといい、まるで――
「饅頭……みたい」
 ひょっとしたらこれが男の食欲をそそるのかも知れない。赤ん坊の時に乳を飲んでいた記憶が呼び覚まされるのだろうか。
「でも、なんとなく違うような気もする」
 そこで視点を変える事にしてみた。胸をもんでいる、この手が男の手だったら。
 そう、たとえばハカンの手がこんな風に――
 どくんっ!
 チンシェンの心臓が激しく鼓動を打った。
「――っ?!」
 どっどっどっどっ。
 鼓動に合わせて血管が大開放された。チンシェンの白い肌が真っ赤に染まっていく。
 胸をもむ手の動きがだんだんと大きくなる。胸の中心のしこりの部分にまで指があたり、じんじんと痛い。
「ハカン……様……だめ……」
 痛いのに、苦しいのに、手の動きを止められない。いや、この手はハカンの手なのだから、チンシェンに止められるはずがないのだ。ハカンはチンシェンの大事な主である。ハカンが望むのであればこの身体をいかようにされてもチンシェンはかまわなかった。
 もちろん、現実のハカンはこんな事をしない。
 してくれない。
 だから、こうして想像の中でだけは――
 チンシェンはぎゅっ、と自分の胸を押しつぶすようにした。
「ハ、ハカン様っ!」
 痛みと、それ以上の何かに突き動かされ、チンシェンは思わず声をあげた。
 がちゃり。
 チンシェンの背後で扉が開いた。
「呼んだかい、チンシェン?」
「☆#○※△↑――っ!!!」
 言葉にならないチンシェンの悲鳴にハカンは思わずのけぞった。

「それにしてもびっくりしたなぁ」
「すみませんハカン様」
 とりあえず服だけ着直したチンシェンが部屋の隅で正座して小さくなっている。
 ちらちらとハカンの様子をうかがうが、青年の様子にかわったところはない。どうやらチンシェンの胸を見たわけではないようだ。
 あの状態で気づかないのはどうかと思うが、ハカンならば十分にありえる事をチンシェンは知っていた。
「いや、僕の方こそ驚かせたみたいで悪かったよ」
 ハカンが頭を下げる。そこではじめて床に寝床があるのに気がつく。
「や、寝床を用意してくれてたんだね。ありがとう」
「いえ。当然のことです……くちゅん」
 チンシェンは小さくくしゃみをした。濡れた髪をそのままにしていたのだ。
「おっと、ごめんよ。じゃあ寝ようか」
「はい」
 ハカンが寝床にもぐりこむ。チンシェンは灯火を消した。部屋の中が暗くなる。
「それではおやすみなさいませ」
「そうだ。チンシェンもこっちにおいでよ」
「えっ?」
「夜は冷えるからね。一緒に寝よう」
「け、けっこうです……くちゅん」
 計ったようなタイミングでくしゃみをしてしまう。
「ほら、またくしゃみをしてる。さ、こっちに来なさい」
「……はい」
 さらしを巻いてないので頼りない感じがする胸を気にしながら、チンシェンはハカンの横にもぐりこんだ。
 ハカンに背中をむけ、できるだけ触れ合う面積が小さくなるようにする。
「大丈夫? 狭くないかい?」
「そんなことはありません」
「チンシェンの身体は温かいな」
「そうでしょうか」
 それは体温も高くなるだろう。チンシェンの心臓はさっきから高鳴りっぱなしである。暗いので赤くなった顔を見られないのがせめてもの救いだった。
 このままでは眠るどころではない。チンシェンは背中に触れているハカンの腕の感触から意識をそらそうと口を開いた。
「お屋形様は?」
「できるだけ兵糧を集めよとのおおせだった」
「それだけですか?」
「それとこの件に関しては口外しないようにとの事だった」
「確かに、あまり口にできることではありませんね」
 食べる物がなくなると聞けば、どんな軍隊であろうが動揺は避けられない。
「うーん。そうなんだけど……なんとなく違う風にも感じたなぁ」
「どういう風にでしょうか?」
「そこがよくわからないんだ。お屋形様にしては歯切れが悪かったような気がする」
 チンシェンは考え込んだ。
 ハカンに仕えるようになってチンシェンが最初に気がついた事がふたつある。
 ひとつは、その聡明な頭脳。空間的にも時間的にも、これほどに遠くを見通せる人をチンシェンは他に知らない。
 もうひとつは、その鈍感な性格。大様といえば聞こえがいいが、これほどに身の回りに無頓着な人をチンシェンは他に知らない。
 そのハカンがお屋形様の歯切れが悪かったというのだ。おそらくお屋形様はあからさまなほどに何かをハカンに示唆したに違いない。
(でも、何をだろう?)
 しばらく考えて、チンシェンは答えを出すのをあきらめた。いかにも情報が少なすぎる。
 けれども良い事もあった。意識をその問いに集中したため、チンシェンはいつしか恥ずかしさを忘れていたのだ。心臓の鼓動もいつもに戻っている。
 気がつくと、背中でハカンがすぅすぅと寝息をたてていた。ハカンはたいへん寝付きがいい。それに眠りも深い。こうなったらよほどの事がないかぎり目を覚まさない。
 チンシェンはこっそりと寝床を抜け出した。上着を脱ぎ、さらしをまき直す。精神的な儀式のようなもので、これをやると頭の中のもやもやがなくなるのだ。
 すっきりとした気分でチンシェンは再びハカンの隣りに潜り込み、ぐっすりと眠った。

 東の空がしだいに明るくなってきた。
 この時代、人々は特に用がない限り夜明け前には起きだし、日没には家に戻る。
 単純に明かりにかかるコストの問題である。夜の闇は深い。灯火の燃料として南方群島からもたらされるようになった鯨油は西方平原ではまだ稀少だ。庶民は臭いのきつい獣脂ろうそくを用い、富裕な市民や寺院は植物油を利用したランプを使う。一部地域では大地からしみ出す臭水(くそうず)を燃料に使う事があるが、まだ一般的ではない。
 石壁で覆われた市街のあちこちでごそごそと動き始めたのは、栄えある虎王国西方遠征軍の兵士達である。彼らの多くは、昨夜は久方ぶりに屋根のある場所で眠る事ができた。もっとも、寝台を利用できたのは将校だけで、兵卒は民家や寺院の床に雑魚寝している。
 朝起きてまずするのが食事の支度である。兵士達は井戸で水を汲み、湯をわかして兵糧米を煮る。市街であれば燃料の薪を集めて回る必要もない。それにいくばくかの銭か米と交換で新鮮な野菜か果物も手に入る。
「兵長殿、いい匂いですね」
 若い兵士が民家の庭で炊事をしている古参兵に声をかけた。古参兵は串に刺した肉を火にかけて炙っていた。その匂いが若い兵士を呼び寄せたのだ。
「おう、昨日のうちに鶏を手に入れてな。まあお前もこっちに来い」
「え? いいんですか?」
「少しぐらいは食わせてやるよ。塩か味噌はあるな?」
「ええ、そりゃあもう」
 幼い顔を笑みくずれんばかりにして若い兵士は火に近づいた。
 鶏はあっというまに兵士達の胃袋におさまり、満足した若い兵士が古参兵の代わりに後かたづけをはじめた。
「そういやお前は橿州の出身だったな。家は農家か?」
「はい。オヤジは大人百姓で田んぼもあるんですが、何せ兄貴が四人もいまして。このままじゃあ兄貴達にこき使われて一生を送ることになりそうなんで、兵隊に出ました」
「そうか。この暮らしはどうだ?」
「毎日すっげー歩かされるんでびっくりしてます。そのくせ、戦いは全然ありませんし」
「そんなもんだよ。そうたびたび戦ってちゃあ、身がもたない」
「西へ向かって歩いて歩いて。いつのまにやら土も空もまるで違うところに来てて、びっくりですよ。言葉も半分ぐらい違いますし」
 そこで若い兵士の顔にわずかにためらいが浮かぶ。
「その……将軍様はどこまで行くおつもりなんでしょうかね?」
「そりゃあ俺にも分からんよ。将軍様は俺に相談しないからな」
「そいつはそうですね」
 古参兵がおどけて言い、若い兵士が笑う。
「まあ、俺のみたところもうしばらくは歩くことになるだろうな」
「どうして分かるんです?」
「町の住人のな、雰囲気だよ。言葉は分からなくてもそれは分かるだろう?」
「へ?」
 言われて若い兵士は周囲を見た。家の中から子供の騒ぐ声や赤ん坊の泣く声が聞こえる。母親が食事の煮炊きをしているのだろう、煙突から白い煙が上がっていた。そしてかすかにお経を唱える老婆の声が聞こえた。
「ごく普通な感じですが」
「だからだよ。戦の雰囲気に住人は敏感だ。もし敵の軍勢がこの近くにいるなら、何もかも閉ざして家の中に閉じこもっているさ。食料を土の中に隠してな。こうやって――」
 古参兵は歯形のついた鶏の骨を振ってみせた。
「食料を交換してもらう事などできやしない」
「なるほど分かりました。つまり当分は歩くわけですね」
 若い兵士の顔が情けないものになる。
「諦めろ、若いの。兵隊はそれが仕事だ。だが、今度の戦はいい感じだと俺は思ってる」
「どうしてですか?」
「国を出てこれだけ遠くまで来ているのに、ちゃんと飯が届く。上の連中がよほどしっかりと準備をしている証拠だ。そう悪い事にはならんのじゃないかな」
「そういえば、食い物の手配をしているのは商家の丁稚のような、まだ若い人でしたね。いつも帳簿を持ち歩いていて。えーと、番頭じゃなくて金庫係じゃなくて……」
「財務官だ。財務官のハカン殿だな。実際に商家の出らしい。ま、鎧も着てないし剣も吊ってない。あれじゃあ将校には見えんな」
 古参兵は火で炙った鶏の骨を集めて立ち上がった。
 彼は家の住人に石臼を借りてこれを砕いて粉にするつもりだった。野営で米を煮る時に一緒に混ぜるのだ。食い物が不足しないのはありがたいが、野営が多いせいでどうしても食事の内容は単調になる。そのあたりは兵士個々の工夫が必要なのだ。
 翌朝からはまた行軍の日々が続く。今日のうちにすませないといけない事は多い。せめて梅干しだけでも手に入ればいいのだが。
 古参兵は、町の中央にそびえる寺院の大伽藍をながめた。そこは将軍が本陣として使用している。あそこにいる将校達はこうした食い物の心配をしなくていいのだろうな、と古参兵はうらやましく思った。

 むろんそんなことはなく、本陣では将校達が食い物の心配をしていた。正しくは、食い物の味を。
 寺院の講堂で行われた軍議を兼ねた朝食の席である。
 食事の最後にガエン将軍が手ずから入れた茶が彼らの前に供されていた。
「さあ飲め。遠慮するな」
 ガエン将軍が円筒形の茶器を従卒に渡して言った。
「は、ありがたくあります」
 将校達はなんとも言えぬ顔で目の前の茶をながめて言った。
 中原の文化では、上の者が下の者のために茶や食事をふるまうというのは最高のもてなしを意味する。だから将校達としてもガエン将軍のこうした供応を喜んでいないわけではない。
 もしもこれが中原の作法で入れた茶であればその感激もひとしおであっただろう。
 しかし、彼らの目の前に出されたそれは、どうにもこうにも奇妙な飲み物であった。
 そもそも茶の香りなどかけらもしない。白くどろりと濁った湯の表面は脂が浮いている。
 普通、お茶に脂は浮かない。
 少なくとも中原にはそのような茶は存在しない。
 互いに目配せをしながら、将校達は誰も自分からは飲もうとしない。
 そんな中で気にせずこれを口にしたのは末席に位置していた青年である。腰に帳面をぶらさげた若い財務官。ハカンである。
「これは……塩味がきついな」
 ふぅふぅと吹きながら茶(?)をすする。
「この脂は獣の乳ですね?」
「おう。乳酪(バター)だ」
「ならば栄養はあるし、暖まる。塩気も取れる。なかなか良い飲み物です。ですが、茶である必要はあまりなさそうですが」
「馬鹿野郎、こっちではこれが茶なんだよ。文句言わずに飲め」
 ハカンとガエン将軍とのやりとりを聞いて、ようやく他の将校達もその“茶”に口をつけた。そして一様に何とも言えない表情になる。
 その表情であるが、ガエン将軍からみて左側と右側とは微妙に差異があった。
 左側にいるのは、ガエン将軍子飼いの、帝国軍――虎王国正規軍の将校である。騎兵隊長三人と歩兵隊長三人、そしてまだ若い傭兵隊長。財務官のハカンもこちら側だ。彼ら本国からの遠征組はその味の異様さに驚いてはいるが、それだけだ。
 一方の右側。
 こちらにいるのは、遠征軍に参加した西方諸侯である。閲太守モウキンをはじめとした彼らは元々が其王国の臣下だ。しかし文化的には帝国の影響が強く服や鎧も帝国風でまとめてある。彼ら土豪達は明らかに嫌悪感をその茶に抱いていた。
「ガエン将軍、なぜこのような物を? これは下々の飲み物です」
 一口嘗めただけで椀を置いた男が憮然とした表情でそう言った。ここにいる西方の土豪の中でもっとも富裕な閲の太守、モウキンである。大兵肥満の身体を、華美な装飾入りの甲冑で包んでいる。薄い頭のてっぺんがてらてらと光っているが実はまだ四十にもなっていない。
「すまないなモウキン。侮辱するつもりがあってやった事じゃないんだ」
「いえ、そういうつもりでは」
「ただ俺も今日になって気がついたんだが、遠征が始まって月はもう一巡りしている。なのにこっちの食い物を一度も食ってないのに気がついてな。――うぉっ、こりゃ本当にしょっぺぇな」
 自分で自分の入れた茶を飲んでガエン将軍が驚く。
「それは……其国の食べ物など、帝国の料理に比べればゴミ同然でございます。何もわざわざ将軍様がお食べになるような物ではありません」
 モウキンが追従の笑みを浮かべて言う。
「おうよ。だがな、其の王城までは遠い。これまで歩いてきたのと同じだけの距離を兵にも歩かせなきゃならん」
 ガエン将軍の言葉に将校達が首をかしげる。将軍の話の筋道が見えないからだ。
「この一月半で、ちょうど其宮までの半分の距離を歩いてきた。落とした城邑は十三になる」
「お見事な戦果でございます」
 太守モウキンが頭を下げる。
「なぁに、実際に戦ったのは二つだけ。残りはみな自ら城門を開けた。この町もそうだ。これはモウキンの手柄だな」
「いえいえそんな。それがしは、ただ理をもって説いて回っただけでございます。いやむろん、それなりの苦労はしておりますが。はっはっは」
 帝国から見れば一介の土豪とはいえ、其国の東域に大領を持つモウキンの政治的な発言力は大きい。ここまでの進軍で彼の調略によって落ちた城邑も多い。
「実はせんだっても、ある城主がごねましてな。どうしても我が軍に馳走するのがいやだと。それで私は言ってやったわけです……」
 そのような大功を立てているにもかかわらず、この部屋にいる将校達はモウキンという男を好いていなかった。特に、虎王国正規軍鎮西兵――万帝国が機能不全に陥っている今、野戦の強さにおいては並ぶ物がない軍の野戦指揮官達は、軽蔑の色を隠そうともせずに自画自賛の言葉を重ねるモウキンをながめていた。
 例外はハカンだった。
 この青年財務官は、何やら考え込む風情で空になった茶碗をながめていた。
 やがて顔をあげたハカンは太守モウキンに話しかけた。
「モウキン殿、この先の亜里城にも調略は進んでおられるでしょうか?」
「――あ? ああ。もちろん。詳細については話せないが」
 太守モウキンが警戒した視線をハカンに向けた。この商人にしか見えない財務官がモウキンは苦手だった。政治的な理由からではない。とにかくこの男は数字にうるさいのだ。最初に会った時、ハカンはモウキンにしつこくしつこく質問してきた。城邑までの距離は何里か。城邑の人口は。新たに参陣した土豪は兵をいくら、馬をいくら持ってきたのか。兵糧は何日分か。秣はあるか。
 生まれながらの貴顕であるモウキンにとって、そのような些事は下々のものが“良いように”すれば問題ない事であって、上に立つ者が知っておくべき事ではなかった。
 しかし、ハカンと話をしていると、ときどき不安になるのである。ひょっとして、少しはそうした数字についても知っておくべきなのだろうか、と。だからその不安を押し隠すためにも太守モウキンはあえてハカンとは口をきかないようにしていた。
「いえ、調略に関する事ではありません。亜里城の地形についてです。亜里城では、城壁の外に樹木が自生しているでしょうか?」
 ハカンの言葉にモウキンはきょとん、とした顔で聞き返した。
「木が生えているか、だと?」
「はい」
 何か冗談を言われているのかと思ったがハカンは大まじめなようだった。モウキンは何年か前に亜里城を訪れた時のことを思い出してみた。白い立派な城壁があったのを覚えている。城壁の中には湖があり緑も豊富だったが……外にはあまり緑はなかった。
「確か、果樹園ぐらいならあったと思うが、木が茂っている様子はなかったな」
「ありがとうございます。それで十分です。とても助かりました」
 ハカンが頭を下げて礼を言った。どうやらうまくやりすごせたと分かり、太守モウキンは小さく息をはいて安堵した。
 ところが、今度はガエン将軍が口を開いた。
「そこで、だ。モウキン。次の亜里城だがな――調略は不要だ」
「は? ですが、亜里城からはすでに開城を伝える誓紙が届いておりますぞ」
 亜里城はここから五日の距離にある城邑だった。すでに遠征軍に降るという意味の文面を差し出している。むろん、ここでの降るというのは条件付きの降伏である。武装解除し、抵抗はしないからその代わりに遠征軍も城邑に住む人間の生命と財産を保証して欲しいというものだ。
「うむ。金二千貫を払うと言ってきたが、十万貫払えと言って追い返した」
「十万貫?!」
 座がどよめく。亜里城にある全ての金子を集めても一万にも届かないだろう。実質的に遂行不可能な要求だ。
「それは……いくらなんでも。城主が呑める話ではありません」
 太守モウキンが抗議するが、ガエン将軍に鋭い眼光を向けられて押し黙る。
「誘い、ですね」
 ハカンだけはガエン将軍の出したサインを見誤らなかった。
「おう。なかなか其王が出てこないからな。これからはちょっと荒っぽくいく。城のみっつかよっつも焼けば、其王も重い腰を上げるだろうよ」
 そこまで言われて、ガエン子飼いの部将達が納得してうなずく。
 ただひとり状況が読めない太守モウキンがおそるおそる口にした。
「なぜ十万貫を要求すると其王が出てくるというのでしょう?」
「亜里城が十万払えるとは俺も思ってない。亜里城を攻める口実が欲しかっただけだ」
「つまり、亜里城を攻めるのは確定であると?」
「うむ。亜里城だけじゃない。これからしばらくは城を攻めて落とす。そうやって其王の足元に火をつけて回る」
 太守モウキンが仰天した顔になる。
「しかし、それでは我が軍にも損害が……」
「このままだらだら進むよりはましだ」
「それは、そう、なのでしょうが……」
「なんだ、不服か?」
 ぎろりとガエン将軍が太守モウキンをにらむ。その眼光にモウキンが縮み上がった。
「いえ! そんなことはありません。どうか将軍殿の良いように」
「よし決まった! そういうわけだからもう一日ここで兵の鋭気を養い、翌朝出陣する! おのおの、準備を進めろ! 剣をさび付かせているような兵がいたら容赦せんからな」
「はっ!」
 男達は覇気のある声で返事をし、元気よく部下の元に散っていった。モウキンだけは足取りが重い。
「うーむ。やはりしょっぱいな」
 ガエン将軍が残りの茶をなめていると、財務官のハカンが近づいてきた。
「お屋形様、概算ですが攻城兵器についてまとめました」
「おう、早いな」
 ガエン将軍がにやりと笑ってハカンの差し出した紙を見る。そこには攻城兵器の種類ごとの数、その他仕寄りのための器材などがその運搬に使う車両の数と一緒にまとめてあった。ガエン将軍は満足そうにうなずく。
(こいつ、昨夜の段階で俺の腹を読んでいたな)
 ガエン将軍は目をすがめて数字を読んでいく。計数は苦手なので、何度も読み直した。
「ふん。これだと攻城櫓は難しいな」
「モウキン殿の言葉から、亜里城の周囲では十分な木材が確保できないと仮定しました」
 攻城櫓や大型投石機のような大きな攻城兵器は、鉄具などその場で調達できないものだけ運び、使う時に現地で組み立てるのが原則である。しかし、丈夫な木材の入手が難しいならこれも馬匹で運ばなくてはいけない。
「よし、櫓は諦めよう。その分は盾に回せ」
「分かりました」
「それと空になった車両は残しておけ。城を落とした後で運ぶ物があるからな」
 ガエン将軍の言葉に含まれている意味を察し、ハカンの顔がかすかに強ばった。
「お屋形様、そこまでする必要はないのでは」
 ガエン将軍はやれやれという風に首を振った。
「馬鹿野郎。いいかハカン。こういうのは中途半端が一番だめなんだ。やるからには徹底してやる」
「王より受けた命は懲膺ではなく、帝国の威令を西域に知らしめることです。かような真似をしてはむしろ帝国の名前に傷が残ります。どうかお考え直しを」
「馬鹿野郎、帝国の威令なんざもう誰も信じちゃいねぇよ。あるのは強いか弱いかだ」
「それは覇者の論理です。どうか、王者の徳をもって――」
「うるせえっ!」
 がっ。
 ガエン将軍の怒鳴り声とそれに続く鈍い音に、部屋の片づけをしながら耳をすましていた従者が首をすくめた。おそるおそる、ふたりの様子をうかがう。
 ガエン将軍の顔は怒りで真っ赤になっている。対するハカンの顔は青い。
 つう、と。
 碗をぶつけられたハカンの額から血が流れた。
「敵に無用な情けをかけるんじゃねぇ!」
「敵に無用な酷烈をくだす事はつつしむべきです。ご再考を」
 ハカンは一歩もひかない。
「この大馬鹿野郎っ!」
 ガエン将軍の腕がハカンの襟首をつかむ。そしてぶん、とハカンの身体を扉に向けて投げ飛ばした。扉が音をたてて開き、ハカンの身体が廊下に放り出される。
 ガエン将軍が剣の柄に手を当てて倒れたハカンに近づく。ハカンは目を回してへたりこんでいる。
 廊下でうろうろしていた若い将校があわてて駆け寄ってきた。それとなく、ハカンとガエン将軍の間に割り込む。
「将軍、何事ですか?」
 ガエン将軍は舌打ちすると手を剣の柄から離した。
「セキエイ、そこの馬鹿野郎をどっかに閉じこめておけ。抗命の罪だ」
「わかりました。おい、立て」
 セキエイと呼ばれた青年将校が、手荒にハカンの腕をつかんで足早にその場を去る。
 その様子を見てガエン将軍が唇の端を歪めた。
「馬鹿野郎、手間ばかりかけさせやがって」
 言葉とは裏腹に、小さな声にはどことなくうれしげな感情がこめられていた。

 チンシェンはせっせと紙に筆を走らせていた。
 戦闘部隊と違い、補給部隊には戦いがあってもなくても仕事が毎日山積みである。命令書だけでも何十枚と書かなくてはいけない。
 ハカンからの指示を受けて日々の命令書のひな形を書くのもチンシェンの仕事だった。これにハカンが具体的な指示や数字を書き入れるのである。
 どんどん。
 乱暴に扉が叩かれた。チンシェンは筆を止め、扉を開けた。
「ハカン様っ?!」
 そこには額から血を流したハカンが立っていた。いや、自分の足で立っているというよりは傍らの青年将校に支えられていると言った方が正しい。どうやら目を回しているようだった。
「中に入れてくれ。こいつを寝かせてやろう」
 ハカンに飛びつこうとするチンシェンを止めて、青年将校が言った。
「あ、はい」
 チンシェンがすぐに床に敷き布を広げ、青年将校がそこにハカンを寝かせた。ハカンはぼんやりとしてなされるままに横になる。
「セキエイ様、いったい何が?」
 ハカンの傷の手当をしながら、チンシェンが青年将校=セキエイに問う。
「こいつがまたいつものように馬鹿な真似をしでかしたんだよ」
「いや、あれは必要な事だっ……いたたたたっ」
 濡れた布が傷口にあたり、ハカンが悲鳴をあげる。
「おとなしくしてください、ハカン様」
 泣きそうな顔でチンシェンが言う。傷口に薬を塗り、包帯を巻く。こうした事にもすっかり手慣れてしまっている自分が悲しい。
「今日は誰にケンカを売ったんですか」
「いや、別にケンカを売ったわけではなくてだね」
 言い訳しようとするハカンを無視してセキエイが言った。
「よりによって、お屋形様だよ。もうちょっとで手打ちにされるところだった」
「手打ちにっ?!」
 チンシェンが悲鳴をあげる。
 お屋形様、つまりガエン将軍はかっとなりやすい質ではあるが少々の事であれば鉄拳制裁ですませる。剣を抜こうとするのはよほどの事だ。
「俺が間に入ってなかったらどうなってたやら」
「いや、セキエイがたまたまあそこにいてくれて良かったよ」
「何言ってる。やばそうなんで外で様子をうかがってたんだよ」
「そうだったのか。気がつかなかったよ」
 セキエイががっくりと肩を下げる。チンシェンは共感と同情のこもった目でセキエイを見た。ハカンに親しい人間はおおむね似たような苦労をしているからだ。
「それで? 外では怒鳴り声ぐらいしか聞こえなかったが何があったんだ?」
 ハカンが部屋の中であった事を説明する。セキエイが首をひねった。
「ちょっと待て。お前はいったい何を止めようとして怒られたんだ?」
 チンシェンもうなずく。攻城兵器を運ぶ話から、いきなり諫言につながるという流れが分からない。
「ああ……ガエン将軍は攻城兵器を運んだ馬車で、奴隷を運び出すつもりなんだ。それで、馬車を帰すなと言われたんだよ」
「むぅ」
 セキエイがうなった。
「ガエン将軍はそこまで覚悟されているのか」
 抵抗して攻め落とされた城の住人が奴隷として売られるのは戦争ではよくある事だ。だが、蛮族であればともかく文明国たる帝国が実際に住人が連れ去るという例は少ない。形だけ奴隷とし、他の城邑や親類縁者に買い戻させるので、移動させる必要がないのである。
 それをあえて運び出すというのは、奴隷市を開いて本当に売り払うという意志のあらわれだった。そうやって商人によって各地に連れ去られた奴隷は、故郷にも戻れず一生を奴隷として終える事になる。
「確かに城主やその一族を奴隷として売り払えば其国に対するこれ以上はない侮辱になるな」
「僕としてはそこまでする必要性を認められない。いや、戦後のことを考えるとむしろ害にすらなると思う」
「戦後だって?」
 セキエイが聞き返す。
「うん。この戦いでどちらが勝利するにせよ、虎王国は西方にかまっていられなくなる。となれば、この遠征はできるだけ虎王国に対する恨みを残さない形で終わる事が望ましいんだ」
 ぱこん。
 セキエイがハカンの頭を叩いた。
「ひどいなセキエイ」
「やかましいっ! 戦いもはじまっていないのに戦後の心配をする馬鹿がどこにいるっ!」
「いや違うよ。戦いはすでにはじまっている。いいかね――」
 ぱこん。
 再びセキエイがハカンの頭をく。それをチンシェンがはらはらしながら見ている。
「うるさい。いいからお前は仕事してろ」
「え? 僕は抗命罪で収監されるんじゃなかったのか?」
「ああ。だから収監した」
 ハカンはきょろきょろと周囲を見回した。自分の知らないうちに牢屋に放り込まれたのかと思ったのだ。
「ここは牢屋じゃない」
「今この時から牢屋になった。だからお前はここから出るな。お屋形様への取りなしは頃合いを見計らって俺がやる。とにかくしばらくここでおとなしく仕事をしていろ」
 セキエイがすごむ。ハカンは親友の配慮に感謝した。
「分かったよ。ありがとうセキエイ」
 ぱこん。
 再びセキエイがハカンの頭を叩いた。
「礼を言うぐらいなら、最初からこんな真似をするな。チンシェン、牢番に任命するからこの重罪人をよく見張っていろよ」
「わかりました」
 チンシェンが大まじめにうなずく。
「よし。せっかくの機会だからがんばれよ」
 セキエイはチンシェンに笑いかけて部屋を出ていった。
「ではハカン様。牢番として命令します」
 コホン、と咳払いしてチンシェンは言った。
「なんだい?」
「お仕事です。この書類を片づけてください」
「わかりましたよ、牢番様」
 おどけた調子で一礼するとハカンは机に向かった。そしてふたり並んで仕事をはじめた。
 外は今日も良い天気で、時間がたつにつれて気温が上がっていった。窓から入る乾いた風が心地よい。
 頃合いをみてチンシェンはハカンに質問してみた。
「ハカン様、よろしいですか?」
「なんだい」
「どうしてガエン将軍――お屋形様は城攻めを決意されたのでしょう? 昨日まではそんなそぶりをまるでなさってなかったのに」
 これはさっき軍議の話を聞いてからずっと考えていたことだった。
「どうかな。前から作戦の選択肢として考えておられたはずだ。あまり腹の内を周囲に明かす人ではないから」
「軍の君(いくさのきみ)というのはそういうものなのでしょうか?」
「そうだね。だけど今回は僕の進言も影響しているとは思う」
「そこが私にはよく分かりません。城を攻めるとよけいに時間がかかって、糧食の問題が増えるのでは?」
「いや、そうとも限らない。兵站の問題はね、ふたつに分けられるんだ。物資を用意する事と、それを運ぶ事に。この遠征では鎮西を策源としてそこから物資を運んでいる」
「はい」
 鎮西はその名の通り虎王国の西の要となる城である。その昔、万帝国の霊帝は帝国の東西南北のそれぞれに藩屏となるべき王国を作った。その中で虎王国は西の守りを担当している。そして歴代の虎王は鎮西を拠点に西ににらみをきかせ、国境を安定させてきた。今なお、鎮西兵といえば強兵の象徴である。そしてその強兵を養うために鎮西には大量の糧秣が備蓄してある。
「遠征がはじまり、西方諸侯が次々と参陣したから我が軍の兵は倍以上にふくれあがったけど、その口腹を満たす兵糧は鎮西には十分にある」
「ですが、鎮西は遠いです」
「そう、鎮西は遠い。鎮西からここまで荷馬車で直接兵糧を運ぼうとしたらどうなる? 食べる物は全部、運んでいる糧秣の中からとっていくとしたら」
 チンシェンは頭の中ですばやく計算をした。
「おおよそ……四分の一になります」
 残り四分の三は、荷運びをする馬と人の腹におさまる。
「そんなものだろうね。実際にはチンシェンも知っているように一台の荷馬車でこんなに遠距離を運ぶ事はない。途中の城に倉を建てて幾重にも中継しているし、こちら側についた城には兵糧を提供させてもいる」
「はい」
「それでも、兵站線が長くなるにつれて一定時間に最前線まで届けられる補給の量はどんどん少なくなっている。今はおよそ……うーん、三日で五日分ぐらいになるか。少なくとも僕はそのつもりでいたんだ」
 ハカンが苦い顔をする。チンシェンははっとなる。
「ですが、昨夜の計算では……」
「そう。実はすでに兵站はマイナスに転じている可能性が高い。今はまだこれまでの備蓄があるけど、このまま先に進むのは危険だ」
「つまりお屋形様は、城攻めをして軍の足を止める事でこれ以上、兵站線が延びるのを防ぐおつもりだと?」
「もちろん、其王に後詰めさせて野戦で決着をつけたいというのが第一だろうけどね」
 ハカンはそう言うと、少し暗い瞳を窓の外に向けた。
 何があるのだろう、とチンシェンがその視線の先を見ると、中庭で若い兵士が胡琴を奏でていた。チンシェンの耳には異国情緒のする、つまりは西域の楽曲だった。演奏している若武者も、それを聞いている兵達も、遠征軍に参じた西域の兵だろう。
「あの……どうかなさいましたか?」
「いや、なんでもないよ」
 ならどうしてそんな悲しそうな顔をするのか。
 チンシェンはそう聞きたかった。けど、その問いにハカンが答えてくれないのも分かっていた。
 チンシェンの主はいつも――自分の中に何もかもをためこんでしまう。それがチンシェンには寂しかった。
 やがて太陽が中天にさしかかり寺の鐘が鳴った。
「もう昼か」
「お茶にでもしますか?」
「いいね」
 中原では肉体労働に従事している農民や人夫などをのぞくと食事は朝と夕方の2回である。むろんそれでは小腹も空くので、昼頃にお茶を飲みながら何か軽くつまむ事も多い。
 庫裏を出て厨房に行ったチンシェンは、そこで茶――乳酪は使っていない――と、饅頭をもらう。もぎたての柘榴も皿にのせる。こうした食事の材料は寺院の食料庫からの持ち出しである。だから本陣が数日滞在するだけで、寺院の食料庫はからっぽになる。
 大きな盆を持ってとてとてと歩くチンシェンは、ちょうど庫裏から出てきた女性と鉢合わせになった。
「きゃっ」
 よろけながらもチンシェンはお盆を離さない。かわりにバランスを崩して尻餅をついた。
「あら、ごめんなさいね」
 少し西方の訛りがある声で女性が謝った。
「いえ」
 チンシェンの顔から表情が消え、声色が無機質になる。ハカンなど一部の親しい人が相手の場合をのぞき、チンシェンはいつもこうした仮面をかぶっている。愛想をしないのがいらぬ関心をもたれないですむ一番良い方法だからだ。
「あらあなた。財務官のハカンさんのとこの子じゃない」
「はい」
 女性はしゃがみこむとチンシェンが持ったままのお盆を取り上げた。両手が自由になったチンシェンは立ち上がって女性に一礼する。愛想はしないが礼儀は守る。さもなければ主であるハカンまで悪く言われるからだ。
「ありがとうございますカレアナ様」
「どういたしまして」
 女性=カレアナは優雅に微笑んだ。女性としては比較的長身で、その立ち居振る舞いが典雅であるためひとつひとつの仕草が実に様になっている。どこにいても目立つ華のある美女だが、男ばかりの遠征軍の中にあってはなおのこと人目を惹く。
 このカレアナは閲太守モウキンの愛妾である。どうやら昨夜は同じ庫裏に泊まっていたらしい。
 ひょっとしたら昨夜聞こえてきた艶っぽい喘ぎも、この女性の声なのであろうか。そう考えるとどうしても視線を合わせづらい。
「あら? どうしちゃったのかな?」
 カレアナがいたずらっぽい顔でチンシェンのほっぺたをつんつんとつっつく。両手がふさがっているチンシェンは逃げられない。棒きれのようにじっと突っ立って、この妖艶な女性が立ち去るのを待つだけだ。
「なんだ、そういう初々しい反応もできたんだ。いつも無視されてたから、お姉さんうれしいな」
「仕事が……ありますから……」
 ぼそぼそと下を向いて言う。
「んー、どうしようかなー」
「あの、本当に……急いでますからっ」
 いつも抑えている反動で感情が高ぶってしまい、ちょっと涙目になっている。カレアナが思わず胸をつかれるぐらいにその表情は嗜虐心をそそるものだった。
(でも、今はちょっとまずいわね)
 見かけとは裏腹に自制心に富むカレアナはここで遊びすぎるのは危険だと判断した。彼女が愛妾となっている太守モウキンは小心にありがちな嫉妬深い男だ。人目のある場所での火遊びは避けた方がいい。それに彼女には他にするべき事があった。
「いいわ。今は許してあげる。さ、お行きなさいな」
 横にどくと、チンシェンはぺこりと頭を下げ、足早に通り過ぎようとした。
「ちょっとお待ちなさい坊や」
「あ、はい」
「名前を教えてくれるかしら」
「……チンシェンです」
「そう。チンシェン、これは貸しよ。いつか返してちょうだい」
「は、はい」
 仕事の邪魔をしたのはカレアナの方であるし、これは貸しでもなんでもないのだが、勢いにのまれてチンシェンはうなずいてしまった。
「じゃあ行っていいわ」
「失礼します」
 そんな事に気がつく心のゆとりすらないチンシェンは、これ以上何かされる前にと、大あわてで建物の中に入って行った。