『磯女』

 注意:本作品は『鬼狩り』の続編です。先に、『鬼狩り』をお読みになってから読まれると、より楽しむ事ができます。


 ゆさゆさ。
 丸くて瑞々しく、弾力に富んでいる。いや、本当に弾力に富んでいるかどう
かは触れてみない事には分からないのだが、啓二にはそうするだけの勇気がな
かった。
 ゆさゆさ。
 歩く度に白い水着に包まれた二つの膨らみが上下に揺れる。いや、おそらく
は揺れているのだろうが、啓二にはその様子を直視する勇気がなかった。
 ゆさゆさ。
 真那姉は分かっているのだろうか。啓二はそう考えた。海水浴客の──特に
成人男子の──視線が自分に集中している事を。
(だからもっとおとなしい水着にするべきだったんだ)
 視線を隠すためのサングラスの下で、周囲の状況を監視しながら啓二は何度
目になるか分からない思考を繰り返した。ここに自分たちが来ているのは遊び
のためではない。
 視線の一つが、啓二の注意をひいた。ビデオカメラを持った男が、なめまわ
すような動きで真那の肢体を追っている。
 啓二の唇が呪言を紡ぎだした。ビデオカメラが黒い煙を吹き出して故障する。
「こら」
 真那が啓二の腕にぎゅっ、としがみついた。
「けいちゃん、そんな事しちゃダメじゃない」
 啓二は答えなかった。なんとか腕をもぎ離そうと無駄な努力を試みる。
 その課程で少なくとも一つの事は明らかになった。
 それは驚くほど弾力に富んでいた。

 最初の死体があがったのは、ここから五〇キロメートル離れた海岸だった。
発見したのは散歩をしていた男性、というより、その男が連れていた犬だった。
いつもの朝の散歩の途中で、犬が突然岩場に駆け込んで激しく吠えたてたので
ある。不幸なのは男の方であった。何に吠えているのかと、岩と岩の隙間をの
ぞきこんだ瞬間、ホトケさんと目を──左目しか残っていなかったが──合わ
せてしまったのだ。
「何か分かったか?」
 さっそく通報で駆けつけた警察の捜査官は、ピンセットでなにやらつまんで
袋に入れている鑑識官に聞いた。
「そうですね。朝食はご飯でワカメのみそ汁がついていたようです」
「ホトケのか?」
「いえ、発見者の方の」
「まぁ、確かに見て気持ちいいもんじゃないからな」
 捜査官は吸っていた煙草の吸い殻を携帯灰皿にぎゅぎゅっ、と押しつけた。
警察官をやって20余年。見慣れているというほどではないが交通事故などで
無惨な死体は何度か見てきた。しかし。
「おれも初めて見るよ。半分食いかけの死体はな。こいつは魚じゃないだろ?」
「違いますね。鮫かなにか、でかいやつです。後、検死を待たないと確かな事
は言えませんが……」
「なんだ?」
 鑑識官は言いにくそうに声のトーンを下げた。
「……このホトケ、生きてる間に食われたんじゃないですかね」
 それは楽しい想像とはとても言えなかった。捜査官の眉間に皺が刻まれた。
 遺体の損傷とは裏腹に、死体の身元はすぐに分かった。三日前にレジャーボ
ートで海に出ていたさる金持ちのドラ息子で、海上に無人のレジャーボートだ
け残して行方不明になっていたのである。家族から捜索願いも出ていた。
 これだけであれば、いわゆる海難事故として、通常の処理がされたであろう。
それがややこしくなったのは、そのレジャーボートの冷蔵庫から麻薬が発見さ
れたためである。どうやらくだんのドラ息子は麻薬を常習していたらしい。
 そうして新たに調べていくと、奇妙な事実が発覚した。死亡した青年がレジ
ャーボートに乗り込む際、女連れであったのを目撃している人物がいたのであ
る。
 女は誰で、いったいどこに消えたのか?
 警察の調査にも関わらずその行方はようとして分からなかった。目撃証言で
は腰までの長い髪が印象的な美人だったという事だが、交友関係を調査しても
それらしい人物は見あたらなかった。
 捜査が行き詰まった頃、二人目の死体が発見された。今度は漁師で、やはり
船だけを残して姿を消し、二日後に岸壁に打ち上げられた。
 そしてやはり。
 食われて──いた。
 二つ目の遺体を調べた医師から県警本部長へ電話があったのはその夜の事だ
った。冷房のきいた部屋の中にいるにも関わらず、医者からの話を聞く本部長
の額には汗が浮かんでいた。しばらくの押し問答のあげく、本部長はついに折
れた。
 電話を切る。再びそれを持ち上げる勇気を振り絞るのに、10分が必要だっ
た。
 とぅるるる……とぅるるる……とぅるるる……がちゃ。
「三重県警の曽東木です。ご相談に乗っていただきたい事がありまして──」

 その翌日。夏休みということで修行のためお籠りをしていた啓二と真那は定
岡明に呼び出された。定岡は啓二の四つ上、真那の三つ上でいわゆる兄弟子の
ような立場にある。開けっぴろげで朗らかな性格で、啓二は実はこの兄貴分を
苦手としている。一言で言うと「馴れ馴れしすぎる」のだ。それが自分に対し
てなのか、それとも真那に対してなのかは言うまでもあるまい。滅多に感情を
露わにしない啓二であるが、実の所その性格や考えている事は周囲に丸わかり
なのである。本人だけがその事に気づいていないのは不幸なのか幸せなのか。
 そんなわけで、定岡はわざと真那の肩を抱いて親愛の情を示し、眉をぴくつ
かせる啓二の様子を横目で見ながら、真那の耳元に囁いた。
「どうだ? そろそろ開通式はすませたか?」
 下品な冗談に真那はおっとりと笑みを返した。声をさらにひそめる。
「あ、それ、禁句ですので注意してくださいね」
「……もしかして失敗した?」
「暴発です。あんなに遠くまで飛ぶ物とは知りませんでした」
「若いっていいねー」
「けいちゃん、かなりショックだったみたいです。この話、内緒ですよ」
「了解」
「定岡さん。何かあったんですか?」
 焦れた啓二が不機嫌な声で言った。定岡は、男にのみ分かる同情をこめた視
線を啓二に向けた。
「修行中で悪いと思うが、ちょっとした事件があった。この近くで、門が開い
たらしい」
 場所を聞いて啓二の声が詰問調になる。
「なんで誰も気がつかなかったんですか。あそこは──」
 場所は三重県内である。
 日本の神事の中心である伊勢神宮のすぐ近くで異界(アナザ・ワールド)へ
の門が開いて誰も気がつかないなどという事はあり得ない。伊勢や熱田には常
時10人以上の守護者がいるのだ。
「これは、あちこちで噂をかき集めたおれの推測なんだが、」
 定岡はその人柄から、若いくせにあちこちに顔がきく。もちろん、守護者と
しての力もなかなかのものだ。次世代を担う若手のホープの一人と目されてい
る。
「神器に何かあったらしい」
 啓二と真那が同時に息を飲んだ。
「いやもう、上の連中はえらい騒ぎだ。それで、こういう事件は若いのだけで
やってくれ、と。そうなったんだな」
「じゃあ、私達と定岡さんと、」
 真那の言葉を継いで、定岡が若い──高校生から大学生の──守護者の名前
を何人か挙げる。
「……大丈夫なんですか?」
 守護者の皆が皆、鬼と戦える力を持っているわけではない。定岡がリストア
ップした中にはそういうバックアップ専門という者も含まれていた。
「被害者の状況から考えて今回のは変異2マイナのようだ。単独で倒す事はで
きなくとも、あっさり返り討ちという事はない。場所が場所だけに探索が難し
いからな。人手を増やして早期に発見して全員で袋叩きにする」
「なるほど」
 啓二は定岡の言葉にうなずいた。確かに2マイナスなら危険は少ない。こう
した定岡の人使いのうまさには啓二は素直に感心する。
「それにみんな学生で夏休みなのに修行ばかりっていうのも華がないだろ。海
へ行って楽しむぐらいの役得は欲しいぜ」
 啓二は定岡をじと目でにらんだ。こうした定岡の偽悪的な面をまじめな啓二
は好んでいない。
 そういう性格だから暴発して失敗したりして落ち込むのである。

 海水浴客が、三々五々、荷物をまとめて車に詰め込み、夕暮れの町へと帰っ
て行く。一部の若者たちのグループはまだ海辺に残っている。花火でもするの
だろう。
「今、二見浦海水浴場です。はい。いませんでした。はい。はい。では引き続
き現地で監視を行います」
 水着にヨットパーカーを羽織った真那が、携帯電話で定岡に報告している。
すらりと伸びた白い足を、啓二はまぶしそうにながめる。しばらくして真那は
携帯をぱたん、と閉じて啓二に向き直った。啓二が何気ないふりですっ、と視
線を外す。子供の頃から知っている啓二のそういう仕草に、真那はけいちゃん
ってやっぱりかわいいな、と思う。昼間に浴びた男たちの無遠慮な視線も真那
にとってはそれなりに好ましい──自尊心をくすぐる──ものであったが、照
れながらも磁力のように自分に吸い寄せられる啓二の目こそが、やはり真那に
とっては一番だった。大胆に肌を露出する水着を選んだのも、ちょっとでも啓
二を自分に惹きつけるためである。
「他のポイントでもそれらしいのはいなかったみたい。今日はもう休んでいい
って」
 意外かも知れないが、鬼が獲物を探すのは主に夜ではなく昼間、それも人気
の多い場所である。まぁ考えてみれば当然の事で、人間だって狩猟や釣りの時
には獲物が多い時と場所を選ぶ。そして人間が夜間も活発に活動するようにな
ったのはここ百年の事でしかない。
「ちょっと早くないか?」
 啓二はにわかに車の往来があわただしくなった海岸沿いの道路から下の砂浜
を見下ろしつつ言った。サングラスの下の目は主に若いカップルに注がれてい
る。今のところ唯一の目撃証言である『長い黒髪の美女』。これをどこまで信
用していいかは分からないが、他に証拠もない。後は鍛え上げた霊感だけが頼
りである。
「あわてないあわてない。まだ一日目よ。それに沙希さんとか、夜遅くまでう
ろうろしてたらお巡りさんに補導されちゃうでしょ」
「確かに。あれで21才っていうのは信じてもらえないよな」
 啓二と真那は顔を見合わせて笑った。高倉沙希は守護者としてはもう一人前
で、単純に力比べだけをするのであれば啓二や真那など足下にもおよばない。
しかしこう、どこか抜けているというかあわてんぼさんな上に、下手をすると
小学生に見えるというくらいの容姿の持ち主である。人見知りも激しく、お巡
りさんなんかが声をかけようものなら「はわあわあわ〜」とじたばたして相手
に家出少女ではないかといらない警戒心を抱かせる。
「いざ戦いとなると、あの人ほど頼りになる人もいないんだが」
 霊能力だけでなく素手でもべらぼうに強い。今回のような変異2マイナスと
目される鬼なら、10匹束になっていようとも敵ではない。
「あら、あたしじゃ頼りにならない?」
 真那はちょっとすねた声で言う。
「いや、そんなことはない。真那姉の鈴結界があれば、鬼を逃がす心配もない
し」
 表情は変わらないが、啓二がややあわてた声で言う。
「ふーん。どうかしら」
 もちろん真那は本当に不機嫌なわけではない。この年下の恋人に、甘えてみ
せているだけである。額に汗を浮かべて真那のいい所を力説する啓二を見なが
ら、内心ではあー、もう、けいちゃんってば、食べちゃいたいくらいっ、など
と惚気た事を考えているのである。
 たとえ守護者として常人にはない力と技を持っていても、このあたりはそこ
らの高校生のカップルとまったく変わりはない。
 しばらく啓二をあわてさせ、十分に楽しんだ後で真那はそろそろ許してやる
ことにした。
「とりあえず着替えて大石屋に戻りましょ」
 この事件が解決するまでは、二見浦海水浴場からほど近いところにある旅館
の大石屋に宿泊する事になっている。もちろん、部屋は同じだ。定岡の手配に
ぬかりはない。
「あ、うん」
 歩き出した真那の後ろを、啓二が追いかける。真那はわざとゆっくり歩いて
追いつかせておいて、そっと手を伸ばし、啓二の手を握る。啓二も、おずおず
と握り返してきた。

 泳いだわけではないが、海の家でシャワーを浴びて塩気と汗を流してから着
替える。啓二はTシャツに短パン。真那は青いワンピースである。術具などが
入った鞄を肩にかけ、海岸通りを東へと歩く。海水浴場から旅館までは15分
ほどである。
 夏の長い日もようように暮れ、あたりを茜色に染めている。自分たちの影を
踏みながら、こうして並んで海岸をそぞろ歩きしていると、鬼の事も、守護者
としての責務も、何か遠くの話のような気がする。啓二は今夜、真那をどうや
って誘おうか断られたらどうしようかなどと考えていたし、真那は真那で、ど
うやったら啓二に勇気を出させる事ができるか、それとなく誘惑する手は使え
ないだろうかなどと考えていた。

 しかし、それでも。

 二人はどうしようもなく常の人とは違っており、煩悩に頭を支配されていて
も、その芯の部分では冷たい氷のような理性が働いていたのだ。
「真那姉」
 そう言う啓二の声は恋人にではなく相棒に語りかける口調になっており。
「うん」
 うなずいて携帯電話を取り出す真那の目は獲物を追う猟犬のそれになってい
た。
 観光名所である夫婦岩にほど近い海岸の岩場。そこに二人の人影があった。
男と、女。男は三十代くらいのがっしりとした体格で白いシャツと灰色のスラ
ックス、足にはちゃんとスニーカーを履いている。
 そして女は。
 腰までの長い髪。赤い夕日に照らされつつも、射干玉の黒き髪は闇のごとく。
何かぬらり、とした異質な印象すら感じさせる。
 真那が携帯のリダイヤルを押す。同時に、女がすっと男の身体に腕を伸ばした。
「やばい! 真那姉、先に出る!」
 言うなり啓二はガードレールを踏み台に高々と跳躍した。女がはっ、と振り
返る。細面の美しい顔。どことなく古い日本映画に登場するかのようなそんな
郷愁を感じさせる美人である。啓二を一瞥したその顔が能面のように無表情に
なる。女は男を離し、つい、と後ろに下がる。すぐ後ろは波打ち際。
「逃がすか!」
 今度の変異体が水棲である事は、これまでの事件から容易に推測がついてい
た。たとえ2マイナスでも海に逃げられるとやっかいな事になる。岩場に着地
した啓二はさらに足を速めた。
 りん!
 鈴が鳴った。
 わずかに遅れて、女が海へ飛び込もうとする。が、空中で何かに弾かれたか
のようにたたらを踏む。携帯で報告を終えた真那が、鈴で結界を張ったのだ。
鈴一個でも、短い時間であればそれなりの強度の結界を張れる。幾多の鬼と戦
った経験を持つ真那にとってタイミングの見極めは容易な事だった。
「いいぞ、真那姉」
 口の中でそう呟いて、啓二は一息に間合いに踏み込む。女が顔を憎々しげに
歪め「しゃあっ!」と声とも息ともつかぬ物をもらす。耳まで裂けた口の中に
は指ほどの長さのある牙が向きだしになっている。ぎょろりと巨大化した目は
ほとんど顔の横にまで移動し、皮膚の表面には鈍色の鱗が浮かぶ。
「ふん、インスマウス面か。珍しくもない」
 しゅっ。
 つや消しの黒の短刀を右手に持った啓二はすれ違い様、女の首を薙いだ。
 ばぎんっ。
「なっ──?!」
 刃が硬い鱗に当たって砕け散った。手がじん、と痺れる。
「きーっきききききっ」
 女が嘲笑い、首をくるりと縦に回転させる。女の長いスカートの下から鱗で
覆われた尻尾がずるり、と3メートル近く伸びる。
「こいつ、ただの魚人じゃない?! 磯女?」
 啓二の脳裏で戦士の本能が計算を始める。少なくとも変異度は3プラス。場
合によっては3プラスプラス。一人で戦うには危険な相手だ。仲間が応援に来
るまで時間を稼いだ方がいい。
 啓二は後ろに飛びずさる。それを磯女の尾が追う。
 岩場で足場が安定しないのが啓二の不利に働いた。しゅるり、と啓二の腰に
磯女の尾が巻き付く。ぎしりっ、とすさまじい力で尾が締め付けてくる。
「きききっ、きっ?!」
 獲物を捕らえて笑っていた磯女の顔に、真っ白い鷹が羽根を広げて急降下し
た。真那が呼び出した大気の精霊の化身だ。
「きーっ!」
 ざっくりと顔面に鷹の爪が刺さる。啓二を縛っていた尾の力が緩む。啓二は
ばっ、と尾をふりほどくと磯女に飛びかかり、その首を左手でつかんだ。
「はっ!!」
 全身の力を左手に集中させる。まばゆい白い輝きが左手を包む。
 ばぎゅっ!
 磯女の首がへし折れ、潰れ、引きちぎられる。胴体から切り離された頭がど
すっ、岩の上に落ちる。それでも胴体はくねくねとまだ動いて啓二を締めよう
とする。啓二はよろめきながら後ずさった。左手は気を瞬間的に集中させた反
動で毛細血管がぶち切れ、出血で真っ赤である。
 磯女の胴体はその後もしばらく未練たらしく動いていたが、もうただの肉塊
でしかなかった。
 ほうっ、とため息をついた啓二はようやく男がいた事を思い出し、さてどう
するべきかと考えながら男に向き直った。時間にして3分もたってはいないが、
常人にはさぞかしショッキングな光景であっただろう。
「あの、」
 言葉をかけた啓二を男が遮った。
「いや、いい物を見せてもらいました」
「え?」
 ぱんっ。
 男の手にした小さな拳銃が火を吹いた。
 どすっ。右足の太股を撃ち抜かれた啓二が、たまらず尻餅をつく。
「けいちゃん!」
「おっと、鈴は鳴らさないでくださいよ。この距離ならこっちの方が早い」
 銃口を啓二の額に照準したまま、男が真那に声をかけた。真那が唇をかんで
男をにらむ。
「お前は……いったい……」
 啓二が絞り出すように言った。右足の銃創は痛みよりも灼熱の感覚が強い。
「いや、日本の守護者もたいしたものですな。子供二人にあれがやられるとは
思ってもいませんでした」
 ちらりと磯女の死体に目を向けて男は言った。すでに胴体の反応もびくびく
という痙攣にまで落ちている。
「まさか……?」
「そう。あれを喚んだのは私です」
 男は得意そうな笑顔を浮かべた。
「本当なら今夜もう一人喰わせてやって、あなた方の反応をうかがうつもりだ
ったんですが……まぁ、いいでしょう。あの程度のものならいつでも喚べる」
「正気か?!」
「もちろん正気ですとも。さて、迎えも来たようですし、私はそろそろ退散さ
せていただきますよ」
「迎え?」
 男がちらりと海に視線を転じた。真那は海を見て、思わず口を押さえた。
「そんな……」
「そういう事です」
 男の笑みが哄笑に変わる寸前。
 波がざばっ、と高く跳ね上がった。
「たああああああっ!」
 ぼっ!
 波しぶきをあげて海から現れた少女が、空中で両手を突き出した。掌から放
たれた白い光が細い矢となって拳銃を握った男の右手を射抜く。右手がぼしゅ
っと蒸発し、拳銃ごと手首から先が地面に落ちる。
 ぱんっ。
 地面に落ちた拳銃が暴発した。
「ぐあっ」
 銃弾は、男の胸に吸い込まれた。
「あ、あ。あれれ?」
 少女がすっとんきょうな声をあげる。男は口から血を吐き、どうっ、と仰向
けに倒れた。致命傷であるのは、この場にいる3人の誰もがすぐに見て取った。
少女が男に駆け寄る。
「ご、ごめん。殺す気はなかったの。偶然なの。事故なの。ね、ねぇ……」
 少女がぺたん、と岩の上に座り込んだ。途方に暮れた顔で啓二を見る。
「死んじゃった」
 そりゃあそうでしょう、と言いかけて啓二は思わず吹き出した。少女の顔が
あまりに情けない顔だったからであり、緊張の糸が切れたからであった。
「啓二君、笑うことはないでしょう」
 少女が立ち上がり、腰に手を当てて唇をとがらせた。
「そうです。笑い事ではありません」
 まだあたりに強く残っている夏の暑気を吹き飛ばすかのような冷たい声が聞
こえてきた。
 啓二のところに駆けつけた真那がしゃれにならない怖い顔で少女をにらみつ
けていた。
「ま、真那ちゃん。久しぶり……ね」
「お久しぶりです、沙希さん」
 少女=沙希は、にじりにじりと後退した。
「どういうつもりですか?」
「え? どういうつもりって?」
 沙希は何で怒られているのかよくわかっていない。
「銃が変な方向に暴発したら、けいちゃんに当たっていたかも知れないんです
よ」
「あ、そっか」
 なるほどなるほど、と沙希はうなずく。それがまた真那の怒りを誘う。
「『あ、そっか』じゃありません!!」
「いやでも、あたし銃ってよく知らないし。あんな簡単に暴発するとは思わな
かったの。ごめんね」
 ぺこり、と沙希は頭を下げた。黒いショートカットの髪から水滴がぽつぽつ
と落ちる。
「まぁいいじゃないか真那姉。結果的に助かったんだし」
「……それは、そうだけど……」
「沙希さん。どうもありがとうございました。いつもながらすごいですね」
 沙希が使った技は磯女を倒す時に啓二が使った技の応用形である。啓二が直
接触れないと使えないのに対し、沙希は最大百メートル近い距離から飛ばす事
ができる。その上、啓二の方は一発使っただけで腕がぼろぼろになったのに対
し、沙希の方はなんともない。
 誉められた沙希がえへへーと頭をかいて照れたように笑う。その顔はどう見
ても啓二や真那より年上には見えない。それに加えて……
「あの、沙希さん。一つ聞いていいですか?」
「何?」
「なんでそんな水着なんですか? それって、その……」
「うん。高校の時のスクール水着……だと思う」
「思うって、それ間違いなくスクール水着ですよ」
「そうなんだけど、もしかしたら中学の時のかも」
 またえへへー、と沙希が照れ笑いをもらす。
 中学の時から体型変わってないのか、あなたは。
 啓二と真那は思わずツッコミそうになる。そしてその代わりに同時にため息
をついて顔を見合わせ、くすり、と笑った。

「なーにやってんだか」
 少し離れた地点に停車した車の中から双眼鏡で三人の様子を見ていた定岡は
あきれたように呟いた。もちろん声は聞こえないがだいたいどういう会話が交
わされているのかは手に取るように分かった。
「さて、と」
 双眼鏡をもう一度、さっきまで見ていた方角に向け直す。
 そこには海が広がっているだけだった。
「逃げたか」
 定岡は携帯を耳にあてた。
「どうです? 対潜哨戒機は出せそうですか? はい。原子力潜水艦でした。
おそらくロサンゼルス級だと思います。え? ああ、自衛隊もかなり怒ってま
すか。その調子であおってください。はい。男の死体はよろしく調査願います。
それでは」
 定岡は携帯を切って、ポケットに入れた。ハンドルに腕をかけ、顎を乗せる。
「ま、啓二が無事だっただけでも良しとするか。しばらく病院だな。うん、個
室にしてやらないと。足も手も動かせないとなると、かえっていいかも知れな
いな。真那がリードした方がうまくいくだろう」
 定岡は窓から西の空を見た。しぶっていた夏の太陽もようやくに沈み、空が
暗くなってきている。
「長い夏になりそうだな」
 それは、はずれそうにない予感だった。

【おしまい】

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