しゃっ、という音がして明るい陽光が部屋に差し込んだ。 「有樹様、朝です」 紫苑の声が耳をくすぐる。おれは聞こえぬふりをして布団に潜り込む。 「有樹様、お目覚めのお時間です」 紫苑の声はあくまでも耳に優しい。おれは寝返りをうって布団の中で丸まっ た。 「有樹様……」 困った声も耳に心地よい。おれを再び眠りへと誘うようだ。 ごきゅ。 今のはおれの腰骨が鳴った音である。 「おげらぱっ!」 今のはおれが悲鳴をあげた声である。 おれは羽毛布団をひっくり返して起き上がった。ごきり、と外れかけた腰骨 をはめなおす。 紫苑が“何事もなかったかのように”床に落ちた布団を持ち上げてベッドの 足下に置く。 「お目覚めになられましたか、有樹様」 醒めましたとも。いやもう、完全に。 「朝食の用意ができております」 後1ミリずれていたら半身不随で寝たきりになるところだった。 「有樹様?」 すっ、とわずかに紫苑の腰が下がり、指先が伸びる。おれはあわてて答えた。 「分かったよ紫苑。着替えたらすぐに下りる」 「それでは失礼いたします」 紫苑は深々と頭を下げて部屋を出た。おれはまだ痛みが残る腰を撫でながら 思った。 なんでこういう事になったのだろう、と。 「おう、先にいただいてるぜ」 田所が口いっぱいに飯をほおばったまま箸を持った手ですちゃ、と挨拶をし た。こいつの両親はどういう躾をしてきたのだ。もしも会う機会があれば問い つめたいところである。 「田所」 「なんだ?」 口の中に物をつめこむだけつめこんでいるせいで「ふぁんあ」と聞こえる声 で田所は言った。 「なぜここにいる」 「そりゃ飯を食うためだ」 みそ汁をずずずずと音を立ててすすりながら田所は答えた。 「おれが聞きたいのは、なんでおれの家でお前が朝食を食べているかという事 だ」 「なんだそんな事か」 再びもりもりと納豆を山盛りにした飯に食らいつきながら田所は事もなげに 言った。 「仕送り前で米びつの米が尽きてな。パンの耳じゃわびしいんで、たかりに来 た」 おれは食堂においてある花瓶をなでながら物思いにふけった。花瓶には中庭 の温室で育てたゼラニウムがきれいな花を咲かせているが、おれが考えていた のは花を愛でる事ではない。この花瓶を田所の脳天にぶつけて叩き割り、不幸 な事故ですませる方法はないかという事だった。 しばらく考えたが、アガサ・クリスティ以外のミステリーは読まないので残 念ながらその方法は思いつかず、諦めたおれは田所の前の席に座った。紫苑が 湯気のたつ朝食を並べる。部屋の装いは洋風だが、朝食はおれの好みで純和風 である。 「紫苑」 「はい」 「これから田所が飯を食べにきたらパンの耳でいい」 「わかりました」 「おいおい、そりゃないぜ相棒」 「誰が誰の相棒だっ」 「お前が、おれの相棒」 箸の先で人を指す田所。ええい、こいつにはパンの耳でももったいないわ。 そう言おうとした矢先、田所が目を半目にしてぼそりと言った。 「10月28日。居酒屋、赤天狗」 ぐっ。 「言うぞ。言っちゃうぞ」 ぐぐっ。 「紫苑ちゃん、あのな、こいつはな、」 「はい」 「分かったっ!」 にんまりとする田所。あの日あの時あの場所で。こいつと一緒にいたのはお れにとって一生の不覚であった。 「紫苑、さっきの指示は取り消す。田所にはふつーの飯を食わせてやれ」 「わかりました」 何事もなかったかのように生真面目に答える紫苑。おれはため息をついて思 った。 なんでこういう事になったのだろう、と。 「そりゃ自業自得というもんだね」 林涼子が眼鏡をよれよれの白衣の裾で拭いてかけなおしながら言った。 「叔父さんの遺産に目がくらんだあんたが悪い」 「選択の余地はなかった」 おれは弁明した。 そう、選択の余地などなかった。 「親父は会社をリストラされるし、うちは私立で学費はばか高いし、住んでい たアパートは火事で家財道具一式、丸焼けになった。幸いおれは次男だから家 のことは兄貴に任せられたし」 正直なところ不安がないわけではない。親父は浮世離れした性格だし、兄貴 はその血が濃いのか実にのほほんとした性格である。しっかりもののお袋がい てくれなかったら、あるいは。 いや。選択の余地はやはりなかったのだ。 「それだけ?」 涼子はガラス棒を使って試験管の中身をフラスコに入れながらおれを下から ねめつけた。元々大きめの黒い瞳が、分厚い眼鏡を通してさらに大きく見える。 童顔の涼子は150センチ少々の身長と相まって、一部のコアな学生に人気が ある。 しかしながらその実態はというと。 「よし、できた」 慎重な手つきでフラスコを攪拌した涼子は、青汁のようなその液体をぐい、 とおれに付きつけた。 「飲んで」 フラスコの底からは何やらぼこぼことあぶくが吹きこぼれている。匂いは分 からない。一嗅ぎしただけで鼻の奥がづかん、と衝撃を受け、それからはまっ たく何の匂いもしなくなったのである。 「大丈夫なのか?」 「大丈夫よ」 おれは恐る恐るフラスコを掴んだ。なるほど。前のように容器ごと爆発はし ない。あの時は腕に刺さったガラス片を引っこ抜くのに病院に行く騒ぎになっ た。不思議なのは涼子が手渡した時にはなんともなかったのに、おれが手にと って涼子に背を向けた瞬間、爆発した事だ。もちろん背を向けたのはこっそり 流しに捨てるためであったのだが。 起爆装置のスイッチとか握ってやしないだろうな。 おれは涼子をじろじろと頭のてっぺん――背が低いのでつむじまで見える― ―から足の先まで見た。涼子はしれっとした顔でこちらを見ている。 「飲むぞ」 「早く」 涼子が急かす。声がいらついている。涼子は背丈同様に、気の方も短い。 おれは覚悟を決めてフラスコに口を付けた。ぐっと一気にあおる。 口の中で万華鏡が見えた。 きらきらと輝く多面体がくるりくるりと口の中で七色の光を放つ。どうやら 味蕾に受けた刺激がオーバーフローして視神経にまで影響を及ぼしているらし い。同時に、どこからか、ちんどん屋の囃し拍子が聞こえて来た。 どんどんひゃらら、ぴーひゃらら。べんべらべんべん、ぱふぱふ。 どこから聞こえて来るのか確認しようとして眼球を動かそうとする。が、す でにちんどん屋の行列はおれの三半規管を通り抜けていったらしく、上下の感 覚が急速に曖昧になっていった。これはまずい。同じ倒れるにしても机の角に 頭をぶつけるような真似は避けたい。後ろに椅子があったはずだ。後ろ? な ぜ後ろにあるはずの椅子が前に、しかも天井にはりついているのだ? ありがたい事に、衝撃は一瞬の事で、後は慈悲深い暗闇がおれを覆った。 それにしても、と闇の中へ中へとくるくる回りながら落ちつつおれは思った。 なんでこういう事になったのだろう、と。 今回は病院に行くまでの騒ぎにはならなかった。 おれは学校の保健室で目覚めた。頭を持ち上げようとして後悔する。首の筋 肉にちょっと力を入れただけで脳天で除夜の鐘が鳴り響いた。 「おう、気が付いたか」 学校の保険医というのは気さくなお姉さんタイプで親しみやすく美人、とい うのが定番だと思うのだが、うちは違う。板東と言って四十過ぎの中年太りの 親父である。気さくで親しみやすいというのはあっているが、半分だけあって いても誰も幸せにはなれない。 「どうだ、状態は?」 「頭が割れそうです」 おれは自分の置かれた状態をできるだけ控えめに言った。 無駄なあがきであった。 「そうかそうか。頭の中で除夜の鐘が鳴り響いているか。そいつは重傷だなぁ」 板東先生はうれしそうに言うと、長さ20センチはあるぶっとい針を十数本 持っておれに近づいてきた。おれは逃げようとするのだが、いかんせん涼子の 作ったドラッグがまだ効いていて目と舌を動かすのがやっとである。そのかろ うじて動く舌を使ってこの危機を乗り切ろうとする。 「あ、でももうだいぶなおりました。大丈夫です。一人で帰れます」 「そう言うのなら自分で起き上がってみろ。3つ数えてやる。1つ、2つ、3 つ」 執行猶予の間に、おれは何とか上体を起こそうとした。しかし、頭の中で鳴 り響くウェディング・ベルのオクターブが上がっていくだけでおれの身体はぴ くりとも動かなかった。 「そらみろ、頭の中でウェディング・ベルが鳴っている状態で動けるわけがあ るまい。んんー?」 板東先生は長い顎を突き上げ、にたりと笑った。温厚な顔も、こうして下か ら見上げるとホラーにしかならない。そして手には畳針。 斧持ったジャック・ニコルソン並に怖い。 「安心しろ。痛いのは最初のうちだけだ」 板東先生の言葉はやはり半分だけあっていた。すなわち痛いという所だけ。 徹頭徹尾、針を刺されてからぐりぐり回され、そして引っこ抜かれるまで。 激痛は続いた。 今度は気絶という慈悲すらなかった。 おれはつくづく思った。 なんでこういう事になったのだろう、と。 「ただいま……」 「お帰りなさいませ」 おれはよろばい這うようにして家に辿り着いた。しかし、そこもまた安息の 地ではなかった。 鞄を受け取り、おれがコートを脱ぐのを手伝いながら紫苑が言った。 「協会の者が来ております」 おれは本日何度めか自分でも分からないため息をついた。 協会の者が来た事に対してじゃない。それに関してはもう諦めている。 紫苑の身体から漂う血の匂い。 死の、匂い。 「紫苑、言いつけを破ったな」 「申し訳ありません」 おれの鞄とコートを持ったまま、紫苑がしゅん、とうなだれる。その様子は 迷子になった幼子のようで。 ぺち。 紫苑の頬を叩くはずのおれの手は柔らかく滑らかな頬に軽く当たり、我なが ら情けない音をたてた。 「有樹様……」 紫苑が目を閉じ、おれの手に頬をすりつける。ええい、そんな無防備な姿を さらすんじゃない! おれは拳を握りしめ、思いっきり鼻先を殴りつけた。 「ぎゃうん!」 天井からおれと紫苑に飛びかかってきた人狼が悲鳴をあげてもんどりうった。 が、すぐに立ち上がる。タフという点に関してこいつは全盛期のアントニオ猪 木に匹敵する。人狼とアントニオ猪木の両方とがちんこ勝負をした叔父さんの 言葉だからほぼ間違いはあるまい。ちなみに技のキレはアントニオ猪木の方が 上だったそうだ。恐るべし、アントニオ猪木。 残念ながらおれには叔父さんほどの体力はない。人狼はまだまだ元気いっぱ いだ。 「有樹様?」 紫苑がおれに目で問いかける。 「許す。やれ」 「はい」 くるぶしまで届く紫苑の黒いスカートが一瞬だけひるがえった。もっとも、 見えたのは白いペティコートだけであるが。そしてスカートが元に戻った時に は、紫苑の両手に鴛鴦鉞(えんおうえつ)があった。三日月が二つクロスした 形をしたこの武器は、熟達した者の手にあれば正に攻防自在の武器となる。 おれよりも紫苑を危険と踏んだのだろう。人狼が身体をかがめ、紫苑に低い 体勢からぶちかましをかける。鴛鴦鉞で斬りつけられても、組み付けば致命傷 になる前に紫苑の細い首など片手でへし折れると考えたのだろう。人狼の少々 足りないおつむで考えたにしてはまぁまぁの作戦だ。 だがそれだけじゃ30点。赤点である。 ふわり。紫苑の身体が宙を舞った。人狼の上をくるりと綺麗に一回転する。 すと、と紫苑が着地するのと同時に、人狼の首が絨毯の上にごとり、と落ち た。紫苑はそれに一瞥もくれない。冷たい眼差しをホールの階段の上に立つ人 物に向ける。 「さすがは百済の帰化人の流れを汲む天梁が一族。衰えたりとはいえ人狼ごと きでは歯がたたぬか」 痩身長躯のその男は、鼻梁が高くなかなかの男前であったがファッションセ ンスは皆無であった。時代錯誤な黒いタキシードに黒マント、おまけにステッ キまで持っていた。どうやってうちまで来たのか知らないが、望むらくは隣の 桜井さん家のおばさんだけには見かけられないでいて欲しい。そうでなくとも 近所にあらぬ噂がたっていて困るのだ。おれと紫苑がその……とか。 それにまかり間違って本当の事に気付かれたら。おれは口やかましく詮索好 きだが根は善人のあのおばさんを殺さなくてはいけないではないか。それはさ すがに目覚めが悪い。 男はやや困った様子でこちらを見ている。もしかしたら時代錯誤のあの格好 は趣味でしているのではなく、本当に19世紀からこちら、ファッションの流 れが変わった事に気付いていないだけなのかも知れない。だとしたら、自分が 口上を述べた以上、こちらがなんらかのリアクションを返すまで待つのが礼儀 だと考えている可能性もある。 とはいえ、何言やいいんだ? 「えーと。ドラキュラ伯爵様でしょうか?」 男は俳優のベラ・ルゴシによく似ていた。 「笑止。我をあのような道化と一緒にするでない。我こそは最初のプリンス・ オブ・ウェールズ、エドワード2世に仕えし、」 「あ、そのへんは長くなるからいいです」 おれは男を遮った。不満そうな顔はますますルゴシに似ている。写真撮って サインもらおうかしらん。 「おとなしく天梁が秘技を渡せば良し。渡さぬとあれば、」 パン。乾いた音をたてておれの手の中のヘッケラー&コッホP7M8が9ミ リパラベラムを発射した。 きん、と金属音が響き、男の眼前でへしゃげた銃弾が階段をこんころりんと 転がっていった。 あ、やっぱり。そうじゃないかとは思ってたんだ。でもこの前のインド人に はこれでけりがついたんで楽だったんだがなぁ。あの時のインド人はえらくび っくりした顔してたっけ。暗かったんでよく分からなかったけど。 「我を愚弄するつもりか。天梁の遺産の後継者よ」 怒ってる、怒ってる。でも人の家に勝手に入り込むそっちの方が悪い。 しかしまぁ、そもそもはおれが叔父さんの遺産を受け継いだのが悪かったの かも知れない。そんなもん知らない、欲しくもないと言ってしまうのも一つの 手ではあったのだ。そうすれば夜討ち朝駆けでインド人やらネイティブなアメ リカ人やらドラキュラ伯爵に襲われる事もなく平和な学生生活を送る事ができ ただろう。 だけど。 「有樹様」 紫苑がおれに呼びかけた。手に鴛鴦鉞を構えたまま。一分の隙もない姿で。 分かった。分かりました。真面目にやります。 「伯爵、天梁の遺産を見せてやる。その上であんたがまだ生きていたら、遺産 はくれてやるから好きにしな」 「望むところ。だが、わしは伯爵では、」 ひゅがっ。風がおれの左手から男まで一直線に駆け抜けた。 びきっ。 風が、男とおれの間にあった透明な何かに衝突した。空間に白いひび割れが びきびきと走る。 「なんと! ギスカールの盾が!」 「宝貝だよ。これが風龍だ。そしてこっちが、」 ばちっ。雷光がおれの右手からほとばしった。 ぐわしゃっ。 ギスカールの盾とやらが粉々に砕け散った。 「雷龍だ」 「見事、見事。さすがは封神の宝貝。これが我が物となるとは!」 だめだ。こいつはちっとも分かっていない。龍の守護者になるというのがど ういう意味を持つか。 「では、こちらの番だな。ハーラルの剣よ、我が敵を、」 「まだだよ、伯爵。まだ終わってないんだ」 とん。 おれは男の額を指で弾いた。男が驚愕の目でおれを見る。その目はこう語っ ていた。 どうやってこの間合いにまで近づいた? それでは駄目だよ伯爵。それでは駄目なんだ。 「残念だが、あんたには天梁の遺産が見えなかったようだな」 おれは男に背を向けた。 「有樹様!」 階下で紫苑が声をあげた。 同時に、背中に熱い感触。ハーラルの剣とやらだろうか。そのぐらいは甘ん じて受けよう。なぜなら。 ぼんっ。 おれの背後で、重い西瓜を地面に落として割ったような音がした。 ずだん。だだんだだん。 頭部を失った男の身体が階段を転がり落ちていった。あふれでる鮮血が、絨 毯を赤く赤く染めてゆく。結局おれはこの男の名前も知らないままで終わった。 男の死体を見下ろしながらおれは思った。 なんでこういう事になったのだろう、と。 「それじゃ、西条さん。後始末はいつものようにお願いします」 「分かりました」 西条は礼儀正しく一礼すると、部下に命じて二つの首なし死体を運び出して いった。 西条はいわゆるインテリヤクザというヤツで、おれよりよっぽどいい学校を 出ている。手際もたいしたもので、さっそく血で汚れた絨毯をはぎとり、元と まったく同じ柄の物を敷き直している。これで明日の朝、いつものように田所 が朝食をあさりに来てもあいつは何も気が付かないだろう。 ここで、人が死んだ事も。 おれが、人を殺した事も。 そうであって欲しい。でなきゃあまりに惨めすぎる。 一時間もしないうちに、サニクリーンの作業着をつけたヤクザたちは姿を消 し、家にはおれと紫苑だけが残された。 「有樹様、背中の傷の手当てを」 紫苑がおずおずと声をかけてきた。 「いらない」 「ですが、呪術的な穢れがあるかも知れません」 「いらないと言っているだろう!」 おれは怒鳴った。そしてそんな自分に腹が立った。怒りがぐるぐると体内で 渦を巻き、どこにも出口がなくてもがいている。 「お願いです、有樹様」 紫苑がおれの前に立ち、しっかりとおれを見上げて言った。 おれは黙ったまま上着を脱ぎ、紫苑に背中を向けて座り込んだ。 紫苑は呪いの文言を唱えつつ、指で背中の疵痕を撫でた。すでに裂けた肉は ふさがり、血は止まっている。それでも残っていた鈍痛が、すうっと消えてい く。 「有樹様。痛いところは残ってませんか?」 その言葉が、過去の記憶を呼び起こした。おれはくすり、と笑った。笑えた。 「有樹様?」 「10年前。初めて会った日にも、紫苑は同じ事を言ったよな」 まだ叔父はぴんしゃんしていて、この家が城のようにでかく思えたあの頃。 中庭の木から転げ落ちてすりむけたおれの膝小僧を小さな掌で覆いながら、 紫苑は言った。 「まだ痛いところない?」 その掌の感触が気持ち良くて。紫苑にかまって欲しくて。おれは体中のあち こちが痛い痛いとわめき、紫苑は辛抱強くその一つ一つに掌をあててくれた。 「9年前です、有樹様」 「そうだっけ?」 背中に、紫苑の掌が重ねられた。さらり。紫苑の前髪が肩をくすぐる。 「そうです。だって私が忘れるはずありません。私はあの日から決めていたん です」 「何を?」 「秘密です」 そう言われるとますます聞きたくなる。 「紫苑。話してくれ」 「だめでーす」 「紫苑?」 「さ。有樹様、ちょっと遅くなりましたが夕食にしましょう。ポトフ、暖め直 してきますね」 そう言って紫苑は軽やかに駆けていった。 おれは頭をぽりぽりとかいた。あの、軽い口調の「だめでーす」。あれは本 当に紫苑が言ったのだろうか。空耳じゃなかろうか。 「どっちでも――」 そう、どっちでもいい。 ここにいるのはおれと紫苑だけだし、ああいや、田所が日本酒の紙パック持 って乱入して来るかも知れないが、そんな時は日本酒だけ強奪して田所はけり 出してやればいい。 そして実はけっこういける口の紫苑に酒を飲ませ、秘密を聞き出せばいい。 いや、秘密だってどうでもいい。 紫苑と一緒にいられれば。 そう、それだけで。 そうだ。 こういう事になったのも。 すべては、おれ自身の決断だったのだから。 【おしまい】
これは『龍の守護者』シリーズの第1作です。第2作の『バレンタイン猪口』も引き続きお楽しみください。