鏡面世界(ビハインド・ワールド)

■記憶

 赤い。
 赤い炎。
 火の粉を上げ、昏き天を焦がす炎。
 だが、火災で本当に危険なのはこれら踊り狂う赤い舌ではない。
 白く、黒く、視界を遮る煙。
 これこそが、火災を真の意味で危険な物としている。
 煙は人を惑わせ、道を過たせ、そしてじわじわと内側から人を殺す。
 むしろ、今夜のように月がない晩であれば、燃える炎は明かりとして重宝するくらいだ。
 煙たなびく森の中。
 音もなく茂みの間をすり抜けていた少年が舌打ちをして足を止めた。
 足跡がある。まだ新しい。柔らかい地面に鉄鋲がくっきりと刻まれている。足跡は他にもあった。四人、いや五人。
「ちっ。こっちはダメか」
 その左手にはしっかりと自分より小さな手が握られている。
「まだ走れるな、花梨」
「うん、藤也お兄ちゃん」
 健気にそう答える少女に、藤也はちらりと笑顔を見せた。笑顔といっても、知らない人間にば不機嫌そうに顔をしかめただけにしか見えない。だが、花梨はこの絶望的な状況にあって、その少年の笑顔に満腔の信頼を抱いていた。
 藤也はまだ諦めていない。
 いや、どのような事態に至ったとしても。決してこの少年は諦めない。
 ならば何を恐れる事があろうか。何を悩む事があろうか。
「行くぞ」
 花梨の手を握る藤也の手がわずかに力強さを増した。
「うん!」
 花梨は答え、少年と少女は疾風の勢いで森の中を駆けた。
 いつものように修行をさぼっていた藤也を花梨が山奥で見つけた時、すでに日はだいぶ傾いていた。そして帰る途中、たなびく黒い煙が見えた。村のある場所だった。注意して迂回すると村が炎に包まれているのが見えた。
 燃え方からして、ただの火事などではない事はすぐにわかった。
 これは火付けだ。何者かが、村を計画的に焼き討ちにしたのだ。
 さてその原因となると──
 これはもう、いくらでも考えられた。二人とも子供であるからこの村が、正確にはこの村の住人がやって来た因業のすべてを知る身ではない。しかし、大人衆の噂を漏れ聞くだけでも、この村が近在の領主はおろか遠く東にある「えんぱいあ」にまで恨みを買っている事は容易に知る事ができた。
 だから、二人は村の衆についてさほど心配はしていない。このような事はずっと前から想定されていた。いざという時の逃げ道も、隠れ場所も、複数用意されている。
 二人が向かっているのもそのうちの一つだ。ただの人であれば、いや、山窩や山立でも見落としそうな道とも言えぬ道を獣のような動きで走り抜ける。
 闇を見通す。
 森のざわめきを聞き分ける。
 煙と草木の匂いを嗅ぎ分ける。
 風のながれを感じる。
 そして──それらを分析し、もっとも安全と思われる道筋を見つけだし──
 躊躇なく、遅滞なく、走る。
 たとえ人の通わぬ山奥に住んでいるマタギでも、藤也が半ば無意識に同時に行っているこれらの事どもをこなせる子供はいないだろう。大人でもまず無理だ。いや、修験者か山伏であれば、あるいは──
 なれば、藤也は、そして花梨は修験者なのだろうか。山伏なのだろうか。
 それは、すぐに分かる。
 花梨の手を握る藤也の指が動いた。指文字を読みとり、花梨は手を離すと気配を消して身体を藪の中に隠す。
 そして藤也はわざと木の枝を踏み、音を立てて草をかきわけてゆっくりと歩いた。
 すぐに、森の切れ目に出る。小さな沢が水音をたてているのが聞こえる。沢に転がる岩の一つに、鎧武者が座っていた。星明かりの下で、はっきりとは見えないが、黒っぽい鎧は日の本の物ではなかった。いや、作った鍛冶は日の本の職人だろうが、こしらえは日の本風ではない。東の、「えんぱいあ」風である。山が多く平地が少なく、良い鉄が取れるこの国では武器の輸出は重要な外貨獲得手段だ。
「よう坊主。いい晩だな」
 兜の下にのぞく目は、青かった。その言葉は外つ国の物だった。
「日の本に来たなら、日の本の言葉を喋れ、異国人」
「はん。ちょっと巻き舌があれだが、うまい帝国語じゃないか。すまんが日の本の言葉は一つしか知らなくてなぁ」
「何をしにきた」
「いきなりかい。この国じゃまずお辞儀をして時候の挨拶から始めるんじゃなかったのか」
「礼儀を知る相手ならな。猫額の地とはいえここは我等が天朝様より賜ったお山だ。異国人が大きな顔をしてのさばっていい場所ではないぞ。特に血の匂いをさせている奴はな」
「うむ、道理だ。坊主扱いして悪かったな──『名を聞こう』」
 最後の言葉だけが、日の本の言葉だった。飾りも何もない、むきだしの言葉だった。それゆえに、真摯な言葉だった。
「疾風の藤也」
「おれはグスタフ・ハルツェン。では、まいる」
 男の身体を覆う編んだ鉄鎖がじゃらり、と音を立てた。
 右手には小振りの斧。左手には何も持っていない。
 だん。
 グスタフが一歩を踏み込んだ。
 地面がべこりと沈む。
 重い鎖鎧を着た身体がぐん、と加速する。次の一歩を踏み出した時にはすでに藤也の身体は斧の間合いに入っていた。恐るべき瞬発力である。
「噴ッ!」
 気合いと共に斧が振り下ろされる。その軌跡に、藤也の頭があった。小振りとはいえ二貫近くはある斧である。当たれば頭など石榴のように砕ける。
 藤也の目がわずかに細くなった。
「遅い」
 ちっ。
 藤也の前髪をかすめて斧は空を切った。
「そうかいっ」
 ずんっ。
 グスタフが斧の慣性に引きずられるように前に一歩を踏み出す。空の左手が藤也の脇腹へと伸びる。
 空の?
 いや違う。
 グスタフが左の手を握りしめた。かしゃ、と音をたてて左の手甲が形を変えた。手甲と一体化した幅広の短剣が突き出た。それは柔らかな腹に抉り込むように突き刺さる──はずであった。
 ぐおうっ。
「なんとっ?!」
 そこに腹はなく。
 ただ風だけがあった。
「残念だったな」
 ぱっ。
 ぱんっ。ぱんっ。
 藤也の、これは間違いなく素手の掌が三度、グスタフの身体を叩いた。決して強い力ではなく、むろん負傷などはない。だが、グスタフの身体は姿勢を崩し、地面に叩きつけられた。彼の持つ体重、鎧の重量、踏み込んだ速度、この三つが見事に運動量に変換されて彼自身を痛めつけた。岩で頭を打ち、一瞬だけ気が遠くなる。
 それでいて素早く身体を転がし、体勢を整えようとしたのは大した物であった。
 藤也はそれに追い打ちをかける様子もなく、ただ立っていた。
 グスタフがいぶかしむように眉をひそめた。
「……?」
「不思議か。隠した弓兵の援護がないのが」
「!」
「図星のようだな。花梨!」
「こっちだよ」
 少し高くなった茂みから声が聞こえた。そして音もなくふんわりと茂みの中から花梨が着地した。
「藤也お兄ちゃんの言う通りだったよ。弓を持った人が三人、狙ってた」
 我が事のように胸をはる。もっとも平たい胸はちっとも前に出ないのであるが。10才にも満たぬ子童。だがその短刀についた血は彼女の物ではない。
「自分を囮にしたか」
「お互いにな」
「それもそうだ」
 グスタフが大口をあけて笑う。一緒に笑ってから、藤也は腰につけた苦無をはずしひゅっと動かした。
 ぽとり。
 グスタフの右の耳が落ちた。血が、地面に広がる。
「ぐ」
「次は鼻だ。話せ。目的、手配、人数、装備、練度──簡潔にな」
 静と動。快活にて怜悧。互いに相反する物を器に入れて藤也が言った。藤也の瞳に憐憫の情を認め、グスタフの背筋を冷たい物が走った。この少年が無傷で彼を捕らえたのはただ情報を得るためだけでは『ない』。グスタフが一目で少年を気に入ったように、少年もまたグスタフを気に入ったのだ。だが、それでも少年は、藤也は、眉一つ動かさずにグスタフを斬って棄てるだろう。
 無情に、機械的に人を殺す者は怖くない。それは獣と同じであるから。
 心を持ち、心を通わせておきながら人を殺す者こそが、もっとも恐るべき殺人者なのだ。
「さすがは直系か」
「ずいぶん内々の情報に詳しいじゃないか」
「理由は言うまでもあるまい?」
「まあな」
 いかに奇襲といっても。このお山に住む者たちが無防備という事はありえない。それがこうもあっさりと里を焼かれたという事は──
「裏切り者は誰だ?」
 グスタフは名前を言った。
 言い終わると同時に、藤也の苦無が肋骨をすり抜け、心臓に達した。
 武器の名前のごとく、グスタフは苦しまなかった。
「藤也お兄ちゃん……」
 花梨の声が震えていた。
「確かめる必要がある。祠に行くぞ。もしも事実なら、そこにいるはずだ」
 藤也は苦無についた血をグスタフの服でふき取った。
 立ち上がる。花梨を見た。
 ぞわり。
 花梨の肌があわだつ。
 藤也の漆黒の瞳が炯々と、闇の色に染まっていた。
「先に、行く」
 しゅっ。
 梟のごとく鋭い花梨の目をもってしても藤也の動きは見えなかった。風の音だけが遠ざかっていく。
 それ以外、藤也が通った跡を示す物は何もない。踏み台にしたであろう木の枝さえ、揺れもしない。『疾風』の二つ名通り、その動きは風。
「お、追いかけ、なきゃ」
 花梨は能う限りの速度で藤也を追った。もちろん、追いつくどころか距離を縮めることすらできはしない。
 藤也は無敵だ。
 花梨はそう信じていた。いくら修行をさぼろうが、いたずらばかりしていようが、藤也は無敵だ。里のどんな大人と戦ったとしても、必ず勝つ。
 花梨はずっとそう信じていた。幼い頃から。ずっと。
 欲目ばかりではない、あるいはひょっとしたら、と、今の藤也の動きを見たら里の大人衆は考えるかも知れない。
 だが花梨は逆だった。
 だめだ。
 今の藤也ではだめなのだ。
 今の藤也では──勝てない。
 花梨の嗅覚が、血の匂いを捕らえた。

■旅路

 まぶしい輝きが、雲の隙間からのぞいた。夏の陽光は朝から容赦のない光と熱を、地上へと降り注ぐ。
 カナン・フォン・アルトバイゼンは一二才の誕生日の朝を、木の上で迎えた。
 名前に『フォン』と付いている事からも分かるように、カナンは貴族の出である。それも一代貴族ではなくそれなりに格式もあれば財産もある男爵家(グラーフ)の惣領だった。その気になればそれこそふかふかの褥でぐっすりと朝寝が出来る身分だ。そのカナンが木の上で野宿をしていたのには本人なりの動機もあれば理由もある。余人には、わけても家族には理解しがたい動機であったとしても、その行動力だけは何人も否定できないであろう。
 カナンは枝から紐でぶら下げた荷物の中から一振りの剣を取りだし、布で磨きはじめた。
 剣は騎士の誇りである。それが剣鏡(シュベアトシュピーゲル)ともなればなおの事。カナンは騎士ではなく、それどころか騎士見習い(従者)ですらなかったが、心のありようだけはどんな騎士にも負けないつもりでいた。
 剣鏡は鏡のように、いや鏡そのものに陽光やカナンの顔を映しだした。カナンは上機嫌で剣鏡に語りかけた。
「今日もいい一日になりそうだな、リュード」
「だといいのですが」
 剣鏡の表面に白い輝きが生まれた。輝きがちらちらと瞬くと、どこからともなく老成した男性の声が聞こえた。心なしか、その声はくたびれている様子であった。
「旦那様の追っ手はもうないでしょうね?」
「大丈夫。森でおまえに追いつけるのは天馬(ペガサス)か飛竜(フリーガンツドラッヘ)だけだ」
「一昨日はその飛竜がやって来ましたが」
「うん。あれは驚いた。でも綺麗だったな。鱗が宝石みたいにきらきらと輝いて」
 そう言うカナン自身の瞳も、緑玉石(スマラクト)のように輝いていた。
「私は寿命が縮む思いでしたよ」
「けれど飛竜を操っている鏡使い(シュピーゲルマイスター)はあまり強い剣士ではなかったな。鍛錬が不足していた」
「飛竜に乗っていれば普通、それだけで十分ですからね。生身の技を鍛えようとは思いますまい」
 それ以上に油断と慢心があったのだろうとリュードは考えたが、口には出さなかった。
「父上もあれで諦めてくれるだろう。追っ手はもうないよ、リュード」
「いっその事、旦那様と和解していただけると私も安心できるのですが」
「それはダメだ」
 カナンははっきりと言った。
「私はもう一二才だ。本当ならとっくに騎士見習いとしてどこかの騎士様に仕えていないといけない年だ。でも父上は私に家督を継がせる事しか考えていない。その上、結婚だって! とんでもない!」
 憤懣たる口調で話すカナンに、剣(リュード)は小さなため息をついた。
「だからといって、昨日のような真似はもうなさらないでください、カナン様」
「貴婦人を守るのは騎士としての義務だ」
「森人(エルフ)でもですか?」
「森人も立派な臣民だ」
「しかし何もわざわざ炭焼きの青年と駆け落ちをしなくてもいいと私は思いますがね」
「最後は森人の族長も許してくださったではないか」
「間を大幅にはしょらないでください。とにかく、森で森人と争うような真似はこれっきりにお願いします。樫の木仙殿が助けてくださらなかったら、いったいどうなっていた事やら」
「心配性だな、リュードは」
 カナンは懐に手をやり、砂糖菓子の袋を取り出した。一つつまんで口の中に放り込む。すっきりとした、さわやかな甘みが舌の上でとろける。カナンはほくほく顔で言った。
「うん。今度のは春のそよ風の味だ。森人の砂糖菓子は絶品だというおとぎ話は本当だね。お土産をくれるというのでもらって良かったよ。お前も一つどうだい?」
 剣は大きなため息をついた。そしてカナンに聞こえないように小声で言う。
「森人のお土産といえば、普通は城が建つほどの財宝ですよ。それなのに砂糖菓子一袋をねだるとは。まだまだお子さまなのか、それとも、」
「さて、そうと決まったら」
 カナンは右手に剣、左手に荷物の入った袋を持って、身軽に木の上の仮の寝床から飛び降りた。
「出ておいで、リュード」
 荷物を置き、剣の鏡面に指で秘文字を描く。
「森の精獣(ハイリッヒティア)よ。森と人を結ぶ者よ。我が呼びかけに答えて疾く現れよ」
 白い霧が鏡面からわきあがった。それがカナンの右で渦を巻く。その渦の中からまず蹄が、毛の長い足が、小柄だが引き締まった栗毛の馬体が、思慮深げな深緑色の眼が、そして白く長い角が実体を持ち、現れる。
 剣鏡から召還されたのは一頭の美しい一角獣(アインホルン)であった。
「さ、お食べリュード」
 一角獣はカナンが掌にのせた砂糖菓子を食べた。
「どうだい、美味しいだろう」
「確かに美味ではありますが……この風の味は……」
 リュードの声は一角獣からではなく、剣から発せられた。
「お前のはどんな風だった?」
「冬の木枯らしでございます」

 ・・・・
 準備万端整えてカナンが馬上の人となったのは、それからしばらくしての事だった。深い森の中。普通であれば騎乗など思いもよらない場所であるが、森の精獣である一角獣にとってはむしろ好ましい環境だった。木々は枝を持ち上げて一角獣を通し、草は二つに分かたれて一角獣のために道を作った。
「それにしてもここはどこらへんかな」
 そろそろ昼時かという頃合いになって、馬上でカナンが問う。カナンの左腰の鞘からリュードが答えた。
「さて、このあたりの森は『知』りませんので、確かな事は。ただ、だいぶ北に来ましたから北方辺境領に入っている事は間違いありません」
 リュードは頭を上げて森の匂いをかいだ。
「これはしたり。木霊が騒いでおります。心悪しき者が森に足を踏み入れたよしにて」
 言ってからリュードの目がひくっ、と動いた。自分でもまずい事を言ったと気がついたのだ。
 だが、手遅れだった。
「心悪しき者だと? どこだ?」
 カナンが意気込んで聞く。すでにやる気満々である。
「えー、その……」
「ど・こ・だ・?」
「……こちらでございます」
 身も細るようなため息をついて、リュードは馬首をめぐらせた。

 帝国領内に入ってちょうど一〇〇日目の昼。
 藤也は、ちょうど一〇回目の盗賊の襲撃を受けていた。といっても貧乏な一人旅をしている藤也をわざわざ狙う盗賊がいるわけではない。藤也が乗っていた川船やら、手間仕事をする代わりに飯をもらって一緒に旅をしている隊商やらが襲われるのである。
 平均して一〇日に一回。
「しかし、これはいくらなんでも回数が多すぎやしないか?」
 後ろ手に縛られて地面に転がされながら、藤也はひとりごちた。故郷の日の本の言葉であるから、周りに同じように縛られて転がされている隊商の面々には何を言っているのかわからない。異教のお祈りでもしているのだと思われているに違いない。
 もちろん藤也の精神は、祈りとは正反対の所に位置している。まだ青年と呼ぶよりは少年と呼んだ方がいい年頃の藤也は実の所、隊商の誰よりもこうした荒事に慣れていた。いざとなれば自分一人であれば逃げる自信もある。そうしないのは、ほっといてもまぁ殺される事はないだろうというふてぶてしいまでの状況判断からきていた。
(まぁなるようになるだろう)
 地面に転がされ、目を閉じていても、音ともれ聞こえて来る会話だけで藤也は周囲の状況を手に取るように把握していた。故郷のお山で、五感のすべてを使って情報を集め、分析する術を藤也は仕込まれていた。
 もっとも、藤也の顔からはそうした判断はうかがい知れない。今では日の本でも珍しいくらいに漆黒の髪は手入れをしてもいないのにさらさらで、邪魔にならないように後ろでまとめて朱色の紐で結んである。やはり黒い瞳は大きくぱっちりとしており、男の子としては長い睫毛で縁取られている。服は黒く染めた風通しの良い麻布の上下で、安物であるが藤也が着るとどことなくぱりっとして見える。旅で少々埃をかぶってはいるが、色町に行けばお姉さん方の人気者になる事間違いなしであろう。実のところ、聖教会による規律がさほど厳しくない南方では酒場で特殊な趣味のお兄さんに口説かれた事もある。
(いや、あの時はまいった)
 盗賊に襲われるよりも何倍も身の危険を感じた。尻を撫でられた時には背筋に悪寒が走った。もう少し里で修行をしていれば、こういう場合にも平然と対応できたのだろうが、その時藤也は思わず相手の手首を極めてねじり上げてしまった。
 今日の藤也は、街道を商業都市へと向かう馬車三両の小さな隊商と同行していた。隊商が運んでいるのは市で売るための小麦や馬鈴薯、毛織物などである。目的地のロイディゲンハイムという町は帝国北方辺境領最大の都市で、北ノ内海へと続くレン河の西岸にある。そこまで荷馬車をごろごろ転がしてわずか三日の距離にあるこの場所での襲撃である。
「帝国の統治がゆるんでいるというのは、あれは本当だな」
 総勢二〇人ばかりの盗賊たちは隊商が馬車をひかせていた輓馬を奪い、その背に荷物を積み上げている。逆に言うとそれだけの量しか奪うつもりはないらしい。このまま放置していれば、旅人には危害を加えず森の中に立ち去るだろうと藤也は判断した。藤也は無駄な事と面倒な事が嫌いである。このまま寝転がっている事にした。
 路面の石畳が日光を浴びて熱い。石の隙間から生えてきた雑草が藤也の肩胛骨のあたりでつぶれている。この摩耗しきった石畳はすでに建設から三〇〇年を閲している。そういう時の流れを考えると、小さい事でどたばたするのが馬鹿馬鹿しくなる。
 ぼけっと藤也は上を見た。
 青空が見える。
 雲が浮かんでいる。
 そこだけ見ていれば、故郷にいるのと何ら変わらない空。
(──また)
 声が。
 聞こえたような気がした。
(──また藤也お兄ちゃんは、そうやって修行をさぼって)
 遠い、遠い故郷のお山で。
 あの時も、同じ夏の空の下で。
 夏の丘を駆け抜ける風は。
 今吹いているのと同じくさわやかで。
(──でも花梨は知っているよ)
 ぎりっ。
 藤也の口元から歯ぎしりの音がした。
 過去からの声は。
 あぶくのように浮かんできた記憶は。
 その時は気づかなかったけれども。
 とても、とても、幸せだった時のもので。
(──藤也お兄ちゃんは本当は何でもできるんだって)
(やめろ、言うな)
 藤也は懇願するように念じた。
 なぜ、今、思い出してしまったのか。
 血と炎の記憶であれば。
 憎しみと恨みの記憶であれば。
 耐える事ができたものを。
(──だから、)
(言うんじゃない!!)
 藤也は必死に念じた。頭の中に響く声を消し去るために。
 かみしめた唇から血の味がした。
 無駄な、事だった。
(──だから、花梨が危なくなったら助けにきてね。約束だよ)
 その声はあくまでも明るく。
 あくまでも無慈悲に。
 藤也を断罪した。
「お頭、ちょっとくらいいいですかね?」
 盗賊の一人が下卑た笑いを浮かべて言った。
「なんだ」
 頭目らしい片目の男がうるさそうに答えた。
「いや、そのぉ……」
「女か」
 頭目は吐き捨てるように言った。
「へへ……とんとご無沙汰っすから」
「ほどほどにしとけよ」
「へい、そりゃあもう。へへっ」
「きゃああっ」
 女の悲鳴があがった。隊商と一緒にいた旅芸人の妻だ。
「や、やめてください」
 夫が懇願するが、頭を蹴り飛ばされて気絶する。布を切り裂く音がした。
「やめて! やめてぇ! やめ」
 頬を張るぱん、ぱん、という音がした。
 女の悲鳴が、すすり泣きに変わる。
 藤也は一度目を閉じた。
「……しかたがないよな」
 藤也は呟いた。
 ゆらり、と立ち上がる。
 手を縛っていたはずの紐が、はらり、と地面に落ちた。
「なにっ?!」
「こいつ?」
 盗賊たちが驚きつつも押っ取り刀で得物を手にする。
 盗賊の数は二四人。
 こちらは一人。
 それでも。
「約束、だったよな」
 藤也は懐から古びた一枚の鏡を取り出して顔の前に掲げた。緑青の浮かんだ銅鏡に、黒い影が踊る。肉体を持たぬ魂魄だけの存在、霊獣(ガイストティア)だ。
「我が一門の祖霊よ。古の契約に従い、疾く現れよ」
 黒い影がゆらり、と揺れた。しわがれた声が響く。
「承知」
 その言葉と共に、鏡から黒い煙が噴きあがり、藤也の身体を覆った。

 カナンとリュードが森を抜けたところで、右手側から悲鳴が聞こえてきた。一人ではない。複数である。悲鳴に混じって剣戟の音も聞こえた。
「リュード、急げ!」
「はっ」
 カナンはリュードを走らせた。街道に駆け上がり石で舗装された路面を疾駆する。ゆるやかな長い登り斜面を上がりきったところで、一気に視界が開けた。
「なっ……」
 カナンは絶句した。
 ぱっと見ただけで、一〇人以上の男が地面に倒れて呻いていた。荷馬車が三両止まっていて、その周りには剣や斧が散らばっていた。
 悲鳴をあげているのは、地面に縛られて転がされている人々だった。人々の視線は街道に立つ一人の少年に向けられていた。
 黒い髪、黒い瞳、日焼けした肌の色も濃い。服の色も暗褐色。
 そして背中には、黒い羽。
「魔獣(ディアボリッシュティア)? いや、魔人(ディアボロス)!」
 鏡に封じられていない魔人の恐怖は赤子でも知っている。
「いえ、カナン様。あれは──人です。人が霊獣の念体を己が身体に取り込んでいるのです」
(とはいえ、カナン様が見間違うのも無理はない)
 これほどまでに魔に近しい人は、リュードの長い一生の中でも見た事がなかった。これは霊獣の怨念なのか、それとも人の妄執なのか。
 見ている間にも、修羅場は続いていた。片目の男が、腰の入った姿勢でにじり、にじり、と少年へと近づいていく。手には直刀。間合いを測る視線や足運びが、素人ではない。元は帝国の軍人だったのだろう。社会のたがが外れていく中で、そうした男たちが賊へと身をやつしている。
「でやああ!」
 裂帛の気合いと共に、突く。
 確かに片目の男はそれなりの剣術使いだった。
 二段、いや三段。鋭い突きが少年の喉元へと迫る。
 黒い羽の少年は何をなすでもなくその突きを受けるかに見えた。が。
「ごぶっ、ぉえあぁ」
 喉仏をつぶされ、息ができずにのたうちまわるのは片目の男。少年は静かに立っているだけ。
「見え……なかった」
 カナンは唖然として呟いた。カナンも騎士のたしなみとして素手の組み打ちは習っている。だが、少年の技はカナンの知るどれともまったく異質だった。正直、何がどうなったのかもよくわからない。
 少年が、地面を転がって苦しんでいる男に近づいた。無造作に足をあげて男の頭を、
「よさぬか!」
 カナンは叫んだ。リュードが高々と跳躍し、少年と、地面に転がった男との間に馬体を割り込ませる。一角獣は馬として見た場合、子馬ほどの背丈しかないから、少年とカナンとの間にさほどの高低差はない。
「もうとっくに勝負はついておる! どのような理由があるかは知らぬが、これ以上の乱暴は止めるがよい!」
「邪魔を──するなっ!」
 静から動へ。
 一瞬で転じた少年の動きは、またしてもカナンの目には止まらなかった。
 ぎぃん!
「ぐぅっ……」
「ぬっ?」
 念体をまとった少年の手刀が、カナンの左脇腹に叩きこまれた。力も速度も常人の物ではない。それをはじき返したのは。

     ・・・・・・・・・   ・・
 カナンの全身をくまなく覆う純白の甲冑だった。
 さすがに運動量までははじき返す事ができず、踏ん張ったリュードの足がずざざっ、と滑る。
 しかし。
「どこの酔狂が夏の日中にまがい物を着けているのかと思ったら」
 がごっ!
 少年の肘当てがカナンの鳩尾に決まった。この部位なら装甲があったとしても、衝撃までは吸収されない。それに本来、全身鎧(ルスタング)は身体の自由度を保つため外観から想像するよりはるかに薄い素材でできている。カナンが着用しているそれも例外ではない。念体をまとった肘当ての威力からすれば、陥没してもおかしくない。
 それが。
「傷一つなしか。銀鋼(ミスリル)の鎧たぁ、一財産だな」
「ぐ……鎧だけではないぞ!」
 リュードがほぼ真横に跳ぶ。少年とカナンとの間にわずかに隙間ができる。
 カナンの右手が腰の剣の柄を握る。
「是非もなしっ!」
 ひゅっ──がつっ!
 神速の抜き打ちが少年の膝めがけて斬り下ろされる。こちらも手加減はいっさいない。並の相手──いや、たとえ相手が大人の剣士であっても足一本持っていかれる一撃だ。しかも、剣の素材は鎧と同じ銀鋼である。これなら竜の鱗すら切り裂こう。
 それを。
「馬鹿なっ。おぬし、正気か?!」
 その一撃を、少年は避けるではなく、一歩踏み込んで右腕で受けた。念体をまとわりつかせているとはいえ、無謀きわまりない。事実、念体を切り裂いた剣はそのままざっくりと右腕に食い込んでいる。あふれ出た血が身体を覆う念体を伝って、少年の全身を朱色に染めていく。
「いいや──」
 少年はぺろり、と舌なめずりした。元の顔が幼く見える分、余計に威圧感がある。少年は無事な左手を広げ、カナンの頭部を覆う兜へと伸ばす。カナンの背筋を、ぞくっと寒気が走った。逃げなければと思うのだが、身体が痺れたように動かない。
「──こちとらとっくに狂気に侵されてるんでね」
 がっ! ……がん、がらん。
 留め具を外されたカナンの白い兜が、陽光を反射しながら宙を舞い、石畳の路面に転がった。
 さあっ。
 その衝撃で編みこんであったカナンの長い金髪がほどけ、扇状に広がった。はらり、と白銀の鎧に流れ落ちる。
 カナンの顔が──生身の肌が──さらけ出される。
 カナンは致命的な一撃を覚悟した。しかし、目をつむるつもりはなかった。はっしと少年の顔をにらみつける。
「え?」
 少年が間の抜けた声をあげた。
 少年が見たのは。
 まだあどけない少女の顔だった。
 金色の髪が黄金の冠のように頭部を縁取り、きりりとした目には緑玉石の瞳が輝く。ちょっと低めの鼻にはわずかにそばかすが散り、きっと結ばれた唇は紅をささずとも薔薇色に染まっている。温室で咲く艶やかな花の美しさはないが、高い山の岩場で咲く凛とした花の強さが、そこにあった。
「花梨……?」
 なぜそう思ったのか。なぜそう連想したのか。髪の色も目の色も肌の色も違う。顔の造作も年齢も、似通っている方を探す方が難しい。
 それでも。
「カナン様! 霊獣が!」
 しゅうしゅうと音を立てて、念体が霧散してゆく。少年の身体に憑依していた霊獣が鏡へと戻ったのだ。だが、少年はただじっとカナンの顔を見つめ続ける。
 そしてそれは言葉を返せば。
 カナンも少年の顔をじっと見ていたわけで。
「カナン様!」
「……え? はっ!」
 リュードの声に我に返ったカナンは剣をくるりと回転させ、柄を少年の鳩尾に突き入れた。少年は呻き声一つあげず、糸が切れた人形のようにがくっと気を失った。そのままずるずると地面に崩れ落ちる少年をカナンはじっと見ていた。
 これが少年と少女の。
 藤也とカナンの。
 出会いだった。