■本日の読書:『異戦 関ヶ原 1 大坂動乱』中里融司
久しぶりに中里さんが読みたくなってシリーズを手に取る。
関ヶ原の合戦というと、メインイベントが1日で決着したために徳川家康の一方的な勝利というイメージが強い。
本によっては、合戦の始まりから終わりまでのすべてが家康の計略で、西軍の石田三成は家康の掌の上で踊らされていたというものもある。
だが、徳川家康ほどに百戦錬磨の老将がちょっとした不手際から瓦解するような緻密すぎる策略を仕掛けたとは考えにくい。むしろ家康の力量は思いがけずに着いた戦の結果を最大限に利用したその後の仕置きにあるのではないかと考える。
さて、その関ヶ原の合戦を描いた本書であるが、架空戦記であるからして歴史に対する改変ポイントが存在する。
石田三成に、100万石を与える。
改変ポイントはここである。なんというか、実に分かりやすい。
史実での石田三成は佐和山19万石の中堅大名で、270万石の大封を持つ徳川家康とは国力で10倍の開きがあった。さらに、幕下の――って、ATOKって、大封(たいほう)とか幕下(ばっか、あるいはばくか)って登録されてないんだなぁ――部将の層の厚さとなると筋目正しい戦国大名である家康と一代成り上がりの秀吉のさらに部下で茶坊主あがりの三成とでは比較にならない。
そこで100万石である。しかもこの100万石はどっから出てきたかというと、朝鮮の役での軍規違反をたてに晩年の秀吉が小早川秀秋からむしりとって三成に与えたという設定である。
100万石といえば、れっきとした大大名(メジャーダイミョウ)である。
他人への押し出しも強いし、本人も心強いのでそれなりの手が打てるようになる。
本書でも関ヶ原合戦のきっかけとなっているのは家康による上杉討伐ではなくその前、秀吉配下の加藤清正や福島正則ら武闘派大名が三成をつるし上げようとした事件が原因だ。史実ではここで三成は家康の庇護を求めているが、何せ今回は100万石がバックだ。堂々と受けて立ち、開戦となる。
かくしてはじまる異戦の関ヶ原。
裏切り者の小早川秀秋は元より存在せず、挙動の怪しかった毛利、島津、長宗我部なども不参加である。いわば、「やる気がある」面々だけで固めた西軍と東軍との戦いは――
というわけで、続くのである。
■本日の読書:『異戦 関ヶ原 2 義将奮迅』中里融司
続いて2巻。いや、もうちょいゆっくり読もうとしたのだが、1日1冊のペースで読んでるのだ(8/6時点で6巻目)。
というのも、実に各巻の終わり方が後に引く書き方をしている。
1巻は関ヶ原の戦いが西軍有利で決着したか、と思わせておいて、ぱっと場面を転換して大坂城で増田長盛が謀反。幼い秀頼を捕まえようと囲んだところで終わっている。
2巻は亀山城を石田三成ら西軍が攻めているところに後詰めでやってきた東軍との戦いになり、そこへ遅れてやってきた家康直率の部隊が横合いからぶつかろうかというところで終わっている。
こういう終わり方をしては、すでに全巻手元にあるとついつい先を読んでしまうではないか。
内容について触れると、この『異戦 関ヶ原』ではどうやら史実の逆パターンをあえてやってるところがおもしろみになっていて。
1巻の関ヶ原の戦いでは東軍側が待ちかまえてそこへ西軍がつっこみ、最後は東軍側の背後にいた黒田長政(というか如水)が裏切って西軍の勝利に。
2巻では、徳川家康が大坂城を乗っ取って籠城し、それを豊臣側が攻めるという逆パターン。
そういう仕掛けもまた、楽しみのひとつである。
■本日の読書:『異戦 関ヶ原 3 上方脱出』中里融司
そして3巻。
石田三成に100万石を与えるという歴史改変はあっても、それだけでは歴史を変える事はできても、物語を盛り上げるのは難しい。
たとえば林譲治さんの『興国の楯』ではそのへん、歴史上の人物をかなり愉快にカリカチュアして物語を盛り上げている。
『異戦 関ヶ原』ではその役目は、忍者が負っている。真田十勇士や、石川五右衛門らの忍者が、立川文庫の講談そのままに大暴れするのだ。
逆転劇や、危機の演出などの盛り上げ部分で、忍者が本シリーズに果たす役割は大きい。飛んだり跳ねたり、かなりムチャというかありえない展開も多いのだが、それを歴史上の人物ではなく名前はともかく中身は講談から抜け出てきた連中にやらせるあたり、中里さんらしいバランス感覚だと思う。
■本日の読書:『異戦 関ヶ原 4 鎮西の闘神』中里融司
4巻目である。
架空戦記を楽しむポイントのひとつに、史実では不遇であった人間や兵器の活躍がある。三国志であれば関羽や孔明が、太平洋戦争では戦艦大和がしばしば取り上げられるのはそういう理由がある。
『異戦 関ヶ原』では、むろんのこと石田三成が主役であるが、他にも漫画などで有名な割には関ヶ原で途中退場(たぶん戦死)した島左近清興や、武運つたなく敗死した戸田重政などが活躍している。
個人的には、小早川秀秋の配下として関ヶ原の戦いに参加し、裏切りを良しとせずに戦場から去った松野重元など、小早川家の重臣が三成麾下で活躍している点を是としたい。
……ああいや、そういえば小早川秀秋自身も、不遇といえば不遇というか、関ヶ原の戦いを扱ったフィクション、ノンフィクション合わせて誉めてるものを読んだ覚えがないな。
好意的なものですら、「彼に他に選択の余地はなかった」ぐらいで、あの裏切りを積極的に賞賛はしていない。
これは別に今にはじまった事ではなく、江戸時代、いや、当時においてすらそうであったらしい。
秀秋は関ヶ原の戦いの後すぐに21才の若さで死亡しているのだが、大谷吉継のタコ入道な幽霊がでてきて狂死したとかウワサされたように、陰口叩かれまくりである。
秀秋の裏切りで敗北した西軍だけでなく、勝利を手にした東軍諸将ですら小早川秀秋を白眼視していたそうだから、かなり気合いの入った嫌われ者である。
そうした当時の人の心に、私は戦国の終焉を見る思いがする。
戦国時代の武将にとり、返り忠とも呼ばれる裏切りは、当然とは言わぬまでも、あって然るべき選択であった。北条早雲(伊勢新九郎長氏)や斎藤道三などの新興戦国大名は裏切りによって勃興したわけであるし、関ヶ原では西軍の若武者として戦った宇喜多秀家の父親直家は梟雄と呼ばれるにふさわしい裏切りの人生を送っている。
それが信長の天下布武の頃より、人々の心理が微妙に変化してくる。損得よりも、美醜を気にするようになっているのだ。
その行為が美しければ、たとえ失敗したり損であったとしても貴ばれる。
逆に醜いようであれば、たとえ成功しても利益を生んでも蔑まれる。
何を持って美醜とするかは、かなり曖昧であるがおおむねそのように社会の風潮がなってきている観がある。
でなくて、なんぞ19万石の石田三成が270万石の徳川家康と互角の戦力を集められるものか。三成の滅私奉公には、当時の人の目から見てもやはり美しさがあったのだと私は思う。
■本日の読書:『異戦 関ヶ原 5 上方大返し』中里融司
5巻へと続く。
3巻で九州へ逃げてから、4巻では島津義弘と戦い、5巻では加藤清正と戦いと、大坂城の家康は半ばほったらかしである。
これは少年漫画などの基本パターンである、「最強の敵と戦う前に、他の敵と戦って勝利する」を踏襲しているとも言える。
ついでに、「正々堂々と戦って倒した敵は味方になる」パターンも使っている。
こうして考えると、日本という細長い地形はウォーゲームよりもRPG向きだ。
高梨俊一教授は『英雄戦国時代』というウォーゲームをデザインした時に、「戦国時代の日本はマルチゲームには向いてない。東北と九州の戦いはほとんどリンクしないからだ」という意味の事を述べられたが、それは逆に言えば端から順番に戦っていってレベルを上げたり仲間を集めて、最後にボスキャラと戦うという一本道なRPGには向いているとも言えるのだ。
実際にそういう流れが史実でもある。明治維新だ。
長州と薩摩、九州の南端と本州の西端から京に、そして江戸へとレベルアップしながら戦いを続け、奥州での戦いを経て、最後は函館の五稜郭である。
榎本武揚はボスキャラ向きではないが、その分、五稜郭という西洋風の城は最終ダンジョンとして気分を盛り上げるのに役立つのだ。
■本日の読書:『異戦 関ヶ原 6 天下燃ゆ』中里融司
ふと気が付くと、これを入れて残り2冊になってる。
6巻は九州編が終了したので、これまで幕間としての扱いであった東北などの諸地域がメインに描かれている。
忍者バトルは相変わらず講談調で派手。
さて、私はしょっちゅう「地図を出せ、地図を」とわめくほどに地図を好む人間であるが、本シリーズを読んでいてひとつ愉快な事に思いいたった。
前の5巻p185〜の大坂城での戦評定で、家康が日本地図を持ち出す場面がある。むろん、この時代の日本地図であるからしてかなり怪しげな出来であるが、それでも列席した諸将がそろって感心するほど役に立っている。
地図や海図が軍事行動に与える影響ははかりしれない。
世界の多くの国で、地図作製は軍隊の仕事である。日本では国土地理院が発行しているが、戦前はやはり軍隊の仕事であった。
戦国時代の武将も地図の利用については積極的であったと思われるが、国や地方単位の地図ならともかく、日本地図を使っていたかどうかを私は知らない。
きちんと統一的に測量された日本地図ができるのは、江戸時代の伊能忠敬を待つ必要がある。
しかし、測量はされてないゆえ不正確であったとしても、日本地図があるのとないのとでは戦略的思考の手助けに大差がある。
だから織田信長から豊臣秀吉にかけての統一政権時に、日本地図が描かれなかったとは考えにくい。それこそ、国名を四角枠で囲って、隣接する国と線を引いて距離(移動にかかる日数)を記載した抽象的なものであってもモノの役には立つのだ。
ただ、そうした地図は安全保障の面からしても第一級の機密情報であろう。さほどの数が作られていたとは思えないし、豊臣から徳川への政権交代時に失われたものも多いはずだ。
戦国武将はどんな日本地図をながめ、そこにどんな野望を託したのだろう。
そんなことを、考えてみたりもした。
■本日の読書:『異戦 関ヶ原 7 戦国挽歌』中里融司
そして最終巻。
ここまでたいへん面白く楽しませてもらったのだが、最終巻だけはちといただけない。
具体的にいうと、尺が足りない。
3巻から5巻までの九州編と同じかそれ以上の濃密なバトルを期待していたのに、出てきたのは盛り上がりも逆転もない、たいへん大味で淡泊な最終決戦であった。
明らかにはしょられた箇所もある。黒田如水が腹の中に抱えていた闇や、6巻でクローズアップされた水軍ネタなどだが、これはまあ、いろいろあって7巻で終わるから使えなかったのかも知れない。
家康が最終決戦の場として選んだのが彼の名を日の本に知らしめた秀吉相手の小牧・長久手の野戦陣地群であるというのはかなり燃えるのだが、戦いそのものが散漫に終わってしまったのだから舞台装置がいいだけにもったいない。
これまで悪役として渋い活躍をしてきた藤堂高虎の出番がほとんどないところも減点である。
せっかく戦国最後の大戦である。
名だたる将は敵も味方も皆殺しのノリでやっていただければと残念でならない。
ところで、昨日の日記で「戦国時代の地図」について書いてみたところ、我が友人であるsf(古谷俊一)氏が幾つかの面白い情報を教えてくれた。
慶長国絵図控図 周防国・長門国(2鋪)
上の地図というか絵図は、江戸時代に日本地図を作製するために幕府が各藩に提出させた行政用資料である。
『異戦 関ヶ原』6巻でも、家康は日本地図を配下の武将に見せるにあたって、「各々方が提出してくれた絵図を参考にした」と礼を述べているが、これはそういう史実が背景にあるからだろう。
『拾芥抄』(行基図)
こちらは、国名を並べていって、旅にかかる日数を記載した行基図である。江戸時代以前の日本地図は、やはりというかなんというか、こちらがスタンダードであったという。
国絵図などをひもといていくと、戦国時代の時点であっても日本の測量技術はかなり高かったということが分かる。
平安時代に作られた律令制という制度そのものが、土地は国家が支配するという前提にたつので、日本全国の土地に関する情報が不可欠であったというのもあるのだろう。
国司の主な業務のひとつは、どこの土地を誰が所有ないし管理していたのかという土地情報の保管とメンテナンスであった。
ついでに、『国絵図の世界』(国絵図研究会編)などの面白げな本も紹介されたのだが、これはさすがにお高い(2万1千円)。なんか、資料として必要になる仕事でもないかしらん。
■本日の読書:『斬魔大聖デモンベイン 軍神強襲』古橋秀之 原作・鋼屋ジン(ニトロプラス)
さて、デモンベイン外伝その2である。『シスマゲドン』の続き(それと『IX』も)を待つ間に、古橋分を補給すべ喜び勇んでページをめくる。
オープニングの火星軌道でのデモンベイン&覇道鋼造対リベル・レギス&マスターテリオンの決戦は文句のつけようがないほどに素晴らしい。
しかし残念ながら、ここを頂点に話は下降線の一途をたどるのである。
まずもって、キャラがよろしくない。
ネクロノミコン所有する魔術師は、前作のアズラッドから今作ではエドガーへと変わる。
どちらも、最初は他人との関わりを避けるも最後には打ち解けるというキャラなので、物語での役割は一緒だ。
しかしアズラッドが復讐のみを求めつつも、それなりに陰影のある人物であったが、今回のエドガーは客観年齢が少年ということもあってただ単に「怒りくるってる」だけである。
闇に生きる魔術師を陽のあたる世界へと連れ出す役目は、前作ではエイダが行っていた。今作でも彼女は変わらず登場し、年齢と経験ゆえにさらなるパワーアップを果たしている。
もはやそれだけで人生経験も闇の世界での経験も、ついでにキャラもアズラッドとは比べものにならないほどに薄いエドガーごときに太刀打ちできるような相手ではない。
しかも、これだけでも足りないといわんばかりに、エイダの教え子である子供達と、覇道鋼造の息子の兼定クンがエドガーに絡み、加えてアズラッドでの経験ゆえか、ネクロノミコン=アル・アジフまでもがよってたかってエイダの味方をするのだ。
が、それはまだ良い。
闇に生きる魔術師であっても人類の代表選手(チャンピオン)として戦っていいのだ、というテーマは今回は2作目であるからして薄くてかまわない。
その分、メインディッシュとなるのが本来ならば『火星人との宇宙戦争』であるのだが――薄いっ、薄すぎるっ!
ラジオ電波を乗っ取って、地球人を火星人にしてしまうという展開も、三本足な火星人の戦闘機械による襲撃も、ひとつひとつはきわめて魅力的であるにもかかわらず、やたらあっさりと流される。まるでダイジェスト版を見ているかのような早巻である。
それがスピード感につながっていればいいのだが、私には単に短いだけとしか思えなかった。火星に到達してデモンベインを召喚し、リベル・レギスとの再戦に入った場面も、ネタは面白いのにタメがないから「ふーん、それで?」の連続であった。
個人的には、今回のキモはあくまで『火星人との宇宙戦争』なのだから、マスター・オブ・ネクロノミコンが仲間になって戦うという前作の流れを踏襲する必要はなかったと思う。
ここはキャラを思い切って整理して、兼定クンとエドガーを一緒にしてしまったらどうだろうか。兼定クンが子供時代にエドガーと似たような事件に巻き込まれ、正史においてはここで彼は死ぬ。
しかし這い寄る混沌なナイアさんによってエドガーは助けられで父親の元で暮らし、数年前の事件の後でネクロノミコンを受け継ぐ。
最初から人類の代表選手として育てられた陽の当たる世界の魔術師でありながら――彼の心の中には、ナイアルラトホテップによって付けられた闇の傷痕が潜んでいた。
きらびやかな夜会で貴公子として君臨する覇道財閥のプリンス。
その宴がたけなわになった時にはじまる、火星人による毒電波攻撃。
ネクロノミコンを手に人々を守る兼定の姿を見ながら、エイダはなぜか一抹の不安、いや違和感を感じるのであった。
とまあ、こんな感じで。
とにかく絢爛豪華にえげつなく、火星人との宇宙戦争でのバトルをがんがん進めていけば、このページ数でももうちょいなんとかなったのではないかと思うのである。
■本日の読書:『ツバメしんどろ〜む 5』茜虎徹
むっちりなツバメお姉さんの乳やら尻やらフトモモやらに萌え狂う漫画も5巻目。
だが、この巻ではツバメさんよりも「関係:親友」であるクラスメイトの遙ちゃんの魅力がクローズアップされている。
他のヒロインと違い、特別な要素がなにもない普通のオンナノコであるがゆえに、その健気さに応援したくなるというか。
……いや、ツバメさんに勝てないのは分かってるんだがねっ!
■本日の読書:『朝日百科世界の歴史 マルコ・ポーロ、聖フランチェスコほか』
13世紀前後の世界の人物である。
なんだかんだいって、やはりモンゴルの世紀である。チンギス・ハンやフビライ・ハンらモンゴル帝国がらみの人名はやけに多い。
マルコ・ポーロはフビライの宮廷へおもむき(と本人は自称している)東方見聞録の元ネタを集めているし、アレクサンドル・ネフスキーもドイツ騎士団には勝ててもモンゴル軍団との戦いは避けている。
この朝日百科世界の歴史(今から15年ほど前の週刊誌であったのを、私が古本屋でまとめ買いした)には毎号表紙裏に歴史関係の映画が紹介されている。
この号での紹介は『アレクサンドル・ネフスキー』。
1938年に『戦艦ポチョムキン』で有名なソ連のセルゲイ・エイゼンシュタイン監督が撮った歴史絵巻の傑作として知られる。
あらすじは何度も読んだり聞いたりであらかた知っているのだが、私はこの映画を一度も見ていない。
映画の冒頭、1240年にロシアへ海からざばざばと侵攻してきたスウェーデン軍をネヴァ川で撃破した功績で、若きアレクサンドル大公は“ネヴァ川の勝利者=ネフスキー”の名声を得る。
なぜにスウェーデン軍がシャケよろしくネヴァ川を遡ってきたかというと、ロシアのこの時代の交通線は、道路ではなく川だからである。
私の独ソ戦での経験からすると、とにかくロシアにはやたらめたらと川があって防御効果が鬼のように高い。川越攻撃の修正は、フランスのマジノ戦よりもヒドイくらいだ。3倍の戦力では足りず、5倍は必要になる事もざらだ。初期のソ連軍でプレイしていると、川のありがたみがよく分かる。西からくるドイツ軍は、ソ連を幾つも縦にスライスする川の1本1本に時間を取られるのだ。
この東西の移動を阻害する無数の川を利用すると、南北の移動は驚くほど容易になる。
ノルマンの民、すなわちヴァイキングがロシア内陸部の王になったりしたのも、さらにそこから南の黒海へ出てはるかビザンチン帝国へ毎年のように交易に出かけたのも、ロシアの川を交通線として利用したおかげである。
高校生の頃に歴史を学んでいて「なんでロシアにギリシア正教の影響が大きいのだろう?」と常々疑問に思っていたが、大学受験の参考書でその理由を知ることはなかった。
いや、書いてはあるのだが頭の中に染みこんでこなかった。
教科書や参考書には正解がある。正解しかない、と言った方がいい。
試験や学校で学ぶ勉強が面白くないのはそこらへんにある。答えだけ、結果だけを詰め込んだところで知的な興奮は味わえない。
知的な楽しみは、自分で考えるところにある。
効率が悪く、しかも出た答えは間違っているかも知れないが、この楽しさには格別の物がある。それに、そうやって身につけた「考える能力」は、何かにつけて重宝するのだ。
なぜなら、世の中の多くの事どもには。
正解など、ありはしないのだから。
■本日の読書:『バウワウ!』成田良悟
してやられた!
前に『う゛ぁんぷ!』で私は成田さんの本というのは途中で醒めることなく一気呵成に読んでしまうのが一番良いと主張した。
その時、私の脳裏にはこの『バウワウ!』があったのである。実はこの作品は一年近く前に最初の100頁ぐらいを読んだところで本の腐海に消えてしまい、長らく放置されていたのだ。
おかげで、醒めてしまった私には本書の重要な仕掛けがある程度見えていた。
「場面が飛んでいる時には、その間になんかあった」
というアレである。
だから腐海の底からこの本がサルベージされた時には
「しょうがないなー、なんか消化試合みたいだけど読むかー」
などとまあ、テンション低いまま読み始めたのである。
いやいや、甘くみていた。
先の展開が分かっていても。
これからどうなるか読めていても。
演出だと自分に言い聞かせていたとしても。
やはり、感動できる場面は感動しちゃうのである。
背後にはまだ先刻の爆発の残り火が燃えており、その更に背後には巨大な人工島の明かりと星が混ざりあっている。様々な光が灯る瓦礫の山の前で、その男は立ち上がった。
男は確かに立ち上がった。戌井隼人が憧れたものが、自分の目指す自分自身がそこにいた。
映画の中に出てくるような、絶対に負けない不死身の男。まさに映画のワンシーンのように、テーマソングをバックに、彼が護るべき物を護るかのように――
――英雄は、確かにそこにいた。
『バウワウ!』p257
ぶばっ、とあふれる我が涙。
流れよ我が涙、と警官は言った。あ、いや元警官か。
葛原のダンナかっこ良すぎ。
いやむしろ、ここは戌井を誉めるべきか。
p257末尾の 『――英雄は、確かにそこにいた』 の一文を輝かせるために、そのためだけに、彼はp255の 「ああ、この歌なんだっけか。『街』から聞こえるこの歌よぉ」 からまるまる1ページかけて引っ張るだけ引っ張ってくれたのだから。
こうして考えると、やはり感動というのは、タメにタメてヒキにヒイて読者を期待(あるいは予感、あるいは先読み)させるところにあるのだと分かる。ヘタクソの書く文章や漫画では、こうしたタメやヒキの部分がないか、あるいは機能していない。たぶん、凝りすぎるせいではないかと考える。
ぶっちゃけ、難しくやる必要はないのだ。水戸黄門が印籠出したり、仕事人が仕事を請け負う場面でイイのである。
成田良悟さんというと、読者の意表を突く急転直下な仕掛けが得意ではあるし、それはそれで真実ではあろうが、それを面白く描くために使うタメとヒキについてはオーソドックスすぎるほどに基本に忠実なのだ。
だからこそ、面白いのである。
■本日の読書:『がるぐる! 上』『がるぐる! 下』成田良悟
『バウワウ!』を読み終わったので続いて。
『バウワウ!』では戌井が拳銃の横撃ちをやって周囲にあきれられる。本人は映画みたいでカッコいいと思っているのだが、撃たれる側がジョン・ウー的なリアクションを返さないことにたいへん憤懣を抱いている。
実際、『バウワウ!』ではまあ、いろいろとギリギリっぽいところはあるものの、葛原のダンナとふたりのイヌをのぞけばそれほどには映画っぽいアクションはしていない。
が、『がるぐる!』はもう、そうしたイロイロな限界を全部とっぱずしている。出てくるのは素敵にイカレた連中ばかりで、特に東の護衛部隊の面々はそのまま『デスペラード』に出て大暴れしても遜色ないキャラばかりだ。
これぞ成田良悟の作品ではあるのだが……少しばかりクライマックスの印象がピンボケになってるのはいなめない。
全体的には、いつものように大勢のキャラがそれぞれバラバラに行動しつつも事件が収束してゆき、最後の最後で全員を一同に会してクライマックスとなっている。
今回の話の焦点となって動くのは殺人鬼と復讐者で、そこに『バネ足ジョップリン』という観測者が加わっている。
たぶん、この話の焦点がぼけているのは『バネ足ジョップリン』のせいだ。
彼らはどこにでも存在する。あらゆるものを観測している。島全体で同時に進行する事件のほぼ全容を掴んでいるのは『バネ足ジョップリン』で、彼らを利用することで作者はどれだけ入り組んだ物語であろうが、読者にわかりやすく伝えることができる。
もうおわかりだろうが、『バネ足ジョップリン』はあまりに便利すぎるのである。
便利であるから、作品を書く上でも読む上でも楽だ。しかしそれは事件を丁寧に整理したり収束したりせずともすむというわけで、どうしても作り込みが甘くなってしまう。
ジグソーパズルのピースをはめるようにしてこの作品を楽しむには、『バネ足ジョップリン』は万能なデウス・エクス・マキナでありぶっちゃけ邪魔な感じが強くする。
このシリーズはこれで完結ということであるが、できれば次は『バネ足ジョップリン』抜きでお願いしたいものだ。
ちなみに葛原のダンナは、相変わらずすげーカッコいい。
作品自体のリアリティレベルの低下(あるいは、ハリウッドレベルの上昇)に伴い、超人バトルの様相を呈したクライマックスの現場に登場するなり、こうだ。
「喧嘩を止めろ。武器をしまえ。そして……とりあえず、落ち着け」
『がるぐる! 下』p311
これぞ、葛原のダンナである。他人の言葉をわざと聞かない上で、自分の言うことは強制させる。このへん『スーパーロボット大戦』のゼンガー少佐によく似ている。
……戦闘力的にも、似たようなものかもしれない。
■本日の読書:『修正報告 銀河ツンデレ伝説』みやも
『二見ブルーベリー文庫』というのと表紙をみれば分かるように、エロ小説である。小説であるからして18禁マークはないが、入手と読書と使用には注意するように。
表紙に書いてある次の文章がまことに頭が悪くてよろしい。
えっ―!
あの大嫌いな爆乳ツンツンお嬢様とエッチしないと地球が滅亡しちゃう!?
壮大なスケールで描く超過激な学園☆ラブコメ!!
『修正報告』カバー表
物語は太陽系外縁にある目立つ輪っかをもつガス巨星にやってきた精神生命体な調査官が、空から元気な声(電波)を出している原始的な装置と遭遇する場面からはじまる。
ほほえましく見守っていると、そいつはどうやらこのガス巨星の近くにある母機へ中継され、そして母機からはるか遠く、恒星の強烈な輻射にさらされた第三惑星へと送り込まれているらしい。
どうやら、この星系には知的生命体がいるようだ――
ということで、エロ小説ではあるが立派にSFに分類してよかろう。特に冒頭の調査衛星ホイヘンスがタイタンに探査機を送り込む場面での
数十秒後、ピリピリとしょっぱい電気性の情報がたえまなく〈調査官〉に伝わってきた。
『修正報告』p11
などという表現には、同志SF将校の匂いがする。
また、本編ではハル・クレメンツの『二十億の針』などに代表される、脳に居座る異星人物語の系譜としても必要十分な展開がなされている。
危険な時に助けてくれるし、クライマックスは他の異星人のもたらす騒動だし。
その上で萌え系エロ小説としても過不足はない。この異星人、報告書として地球人の愛の営み、具体的にはキスやらセックスやらの情報を主人公の脳を経由して収集しているのだが、決して愛のない行為を強制したりはしない。
笑えるのは、いざ事におよぼうというところで必ず入る異星人の注釈で
【リサーチその1】
口唇および口腔粘膜の一次接触に伴う情動の確認。
(では、はりきってどうぞ)
『修正報告』p128
ちなみにリサーチその2で初体験なのだが、この後夏休みをはさんで二学期になった最初のリサーチがいきなり32である。
【リサーチその32】
女性体の口腔と胸部の併用により男性体局部へ提供される摩擦刺激の確認。
(さあさあさあ、恋人たちよ、睦み交わり合いたまえ)
『修正報告』p196
かように、ぱっと見は、これ以下はないというぐらいダメなノリの小説であるが、なかなかどうして、中身は手堅く、読み応えはきっちりある。
夏の終わりに読むエロSFとして、そう悪くはない作品なのだ。
■本日の読書:『ニュートンズ・ウェイク』ケン・マクラウド
SF小説が続く。
こちらはニュースペースオペラの分類になる。
初期のスペースオペラ(40年代など)の後、科学の発達や知識の拡充などを受けて登場したニーヴンらのスペースオペラ(70年代)がいわゆるニュースペースオペラだ。
“絶対に壊れない”ゼネラル・プロダクツ社製の宇宙船で中性子星に接近して調査をしたところ、乗員だけが潰れてジャムになっていた――という『中性子星』などがその代表作である。
ああいう、切れ味鋭いネタをうまく使った短編こそ、私がもっとも好むニュースペースオペラである。よって、本書にはどうしても辛くならざるをえない。
21世紀後半、それまで人類に使役されていた人工知性がブレイクスルー〈特異点〉に到達して次々と独立し、“強制昇天”と呼ばれる大戦争に突入した――という背景設定は、なるほどサイバーパンク系の流れをくんでよろしい。
ちなみに“強制昇天”というあたりには、『遠き神々の炎』などでおなじみのやはりブレイクスルーしたAI、“神仙”のノリが感じられる。
すさまじい勢いで自己進化を続けるAIは、能力や技術で人類を遙かに凌駕するものの、最後には人類にもこの世界にも興味をなくしてこの宇宙から立ち去ってしまうわけである。
まあ、このへんもごく普通に、当たり前のノリである。
それから300年。人類は銀河宇宙のあちこちの星でそれぞれの政治信条やライフスタイルに応じて集団を作りながら暮らしつつ、この宇宙から立ち去ったAIの残した技術などをあさっている、というわけだ。
設定は悪くないし、ネタもきちんとしている。
じゃあ何が悪いかというと、やはり、物語をまとめようという意志であろう。とにかく、思いつくままに、いろいろなネタやキャラを適当にごちゃごちゃ煮込んでみましたという感じなのだ。
ストーリーすべてがいきあたりばったりで、作者による神の手で演出している様子がまるでない。いや、それが面白いという人もいるだろうし、神の手を作為的だと嫌う人もいるだろうが、私にはどうにも散漫で冗長で、退屈であったと言える。
先にあげた『遠き神々の炎』や、宇宙戦艦〈憂国〉が出る『キャッチワールド』、知性化シリーズへと発展した『スター・タイド・ライジング』なども本書と同様にイロイロなネタをぶっこんだワイドスクリーンバロック的な作品だが、それらの作品は、あれだけのネタと文章を支えるだけの物語としての骨格がしっかりしていたし、何より外連味があった。
本書にそれはない。ならば、半分は削るべきだろう。
[戻る]
この日記は簡単ホームページ日記で作成されました。