| 05月21日 |
■本日の読書:『ヴぁんぷ! II』成田良悟
成田良悟さんの作品では、キャラが多い。
しかもどのキャラも「ひとり大騒ぎ」な傾向があるので、実ににぎやかである。
今回は『ヴぁんぷ!』で登場したキャラにくわえ、組織や食人鬼の連中が参加しているため、前にも増して騒がしい。
どいつもこいつも人の話を聞きゃしないので、大勢集まるとたいてい収拾つかないどたばたがはじまるのだ。
そのくせ、ストーリーはきちんと収まるべきところに収まるのだが、これにはひとつの技法がある。
ほとんどの大騒ぎ場面は、騒ぎそのものに意味はない。いや、それどころかキャラクターによる騒ぎの多くはストーリーとは関係がない。
すごくたくさんキャラ描写があるのでついつい眩惑されるが、成田さんの作品は、ストーリーラインそのものはシンプルなのだ。
それでいて飽きることなく楽しめるのは、やはり『引っ張れるだけ引っ張る』演出の効果だろう。
とにかく読者を不安にさせるよう、不安な表現や暗い未来の暗示など、あの手この手が使われている。
むしろそういう意味では、本書は腰をすえて読むものではない。できれば間を置かず、ばばーっと読むべき本だ。
というわけで、続編に取りかかろうかね。
| 05月22日 |
■本日の読書:『ヴぁんぷ! III』成田良悟
そして時間を置かずに、続けて読了。
いや、面白い。というか、やはりこの読み方がベストか。
成田良悟さんの本は大好きなのだが、その割には出てもしばらく放置することが多い。この2冊にしても出てすぐに買ってはいたが未読のまま積んでいた。
なぜなのか自分でもよくわかっていなかったが、ようやく分かった。
成田さんの本は、一気呵成にぶぁーっと読み上げるのが一番面白いのだ。
昨日も書いたが、成田さんの本は基本的に煽って煽って煽りまくる描写である。惨劇を匂わせ、破滅を予感させ、未来に絶望させる。
「うおーっ?! この先、どうなるのだろーっ?!」
読者の鼻先にニンジンをぶら下げ、赤い布をひらひらさせ、読者の目を眩惑させる。少々あざとかろうが、うんざりするほどしつこかろうが、それがどうしたというのだ。
これこそが、成田良悟の持ち味だ。
この本を醒めた気分で読むのは、あまりにもったいない。
まだ未読の方は、ぜひとも週末などに時間をかけて2冊をまとめて読んでしまうことをオススメする。
| 05月23日 |
■本日の読書:『歴史群像 77』
毎号、たいへん読み応え多し。
●『日中航空戦』佐藤俊之
日中戦争当時の中国空軍というと、意外とこれが知られていない。中山雅洋さんの『中国的天空』ぐらいであろうか。
この記事では、日本の陸海軍航空隊が日中戦争でのさまざまな経験を元に成長していく過程が描かれている。
面白かったのは、中国空軍が太平洋戦争における日本の航空部隊と重なって見えることだ。中国空軍は質も量も決して日本の航空部隊に劣るというほどではなかった。積極的に戦い、それなりの損害を与え、だが、急速に消耗していった。
航空戦というものは消耗戦である。
前線では敵も味方もどんどん消耗を続ける。勝敗には機体や航空基地を整備し、補給を届け、新しいパイロットと機体を前線に送り届ける後方支援能力の与える影響がきわめて大となる。
後方支援能力の優劣が重要なのは陸海空ともにそうだが、航空戦は特にその傾向が強い。なぜかというと、航空戦はどれだけ激しい戦いが続いたところで相手の後方支援能力までは破壊することができないからだ。戦略爆撃によって相手のそうした能力を打ちのめすのは、航空戦の勝敗が決した後の話である。
だからこそ、後方支援能力に劣る日本は太平洋戦争の序盤でひたすら攻勢を続けた。航空基地を含む敵地へ乗り込んでそこを占領していき、占領した地に新たな航空部隊を展開させて攻勢を続けた。日中戦争末期における大陸打通作戦もその目的のひとつは敵航空基地の占領による航空優勢の確保である。
こうして考えれば、日本は数値や論理としてはともかく、航空戦というものが肌で分かっていたのではないかと思う。アメリカやイギリスに対し、消耗戦を後方支援能力が劣るまま行えば、自分達が戦った中国空軍と同じ末路をたどるということが。
●『後北条氏の本土決戦』西股総生
戦国時代最後の大戦である秀吉による北条攻めを扱った記事。
戦国大名の中での人気といえば、織田や武田、上杉などが高く、北条はそれらより1ランクほど低い。
しかし、システムとして見た場合、北条の官僚および軍事システムは他の戦国大名よりも上であったと言える。
記事にもある岩附衆戦闘編制(天正5年=1577年)などを見ると、しばしば議論になる「馬上」の武士500騎が6人の奉行に率いられている。
戦国における騎兵隊については、馬上の武士がいわゆる土豪として配下の兵を指揮する必要があるため、寄子を完全に分離できない従来の戦国大名の軍事システムでは編制できないのではないかという意見も多いが、これをみる限り、北条氏ではちゃんと騎乗の部隊が存在していたらしい。
ただ、これがいわゆる騎兵突撃のような西洋でも見られる騎馬隊の利用がなされていたかどうかについては、蹄鉄や去勢などがされず、また馬体も貧弱な日本馬の能力もあわせて検討が必要であろう。
| 05月24日 |
■本日の読書:『クロちゃんのRPG千夜一夜』黒田幸弘(イラスト:中野豪)
つい先日にお亡くなりになられたイラストレーターの中野豪さんを偲んで本棚から引っ張り出す。
福笑いのような似顔絵とオモシロおかしいネタ絵を描かれる方で、私は大好きだった。
今でも、魔法の鎧は普通の鎧より軽いという話でのイラストを見た時の衝撃が思い出せる。RPGではしばしば、丈夫な鎧ほど重量があって動きにくくなるというルールがある。その場合でも魔法の鎧は普通の鎧より軽くてペナルティが低く、最前線の戦士にとっては武器とならんで重要なアイテムなのだ。
ゴザ敷いた上に鎧を並べて、『魔法の鎧売りマス』という看板。
ふたり並んだ男の若い方が言う。
「親方、これ段ボールでしょ? いいんですか嘘ついて?」
親方は、平然としてうそぶく。
「嘘だと分かった時には死んでおる」
ヒドイ話なのだが、中野豪さんの情け容赦ないイラストにすごく似合っていて、決してイヤな気持ちにはならない。
それは一見するとムチャクチャな似顔絵にも言える。
そういう人徳というか絵徳というか、そういうものをお持ちの方であった。
謹んでご冥福をお祈りしたい。
| 05月25日 |
■本日の読書:『其の逝く処を知らず 阿片王・里見甫の生涯』西木正明
帯に「アヘン売買によって旧日本軍の財政を支えた男」とあるように、戦前と戦中、大陸で日本軍の管理下にアヘンの密売を行い、得られた巨利によって日本軍や満州、中国の傀儡政権を支えた里見甫の生涯を、本人の視点からながめた歴史小説である。
歴史物でよく見られるように、オープニングは何もかもが終わったところからはじまる。この話では、戦争が終わり、大陸を脱出した里見が占領軍のところへ顔を出して持っている情報と引き替えに己と己の周囲の人間の安全を手に入れるところからはじまる。
そして、アメリカ軍はその取り引きを認める。アヘンを売りまくった里見も、それに関連した岸信介なども、その罪で裁かれることはなかった。
善悪という倫理的な基準で言えば、里見のやった事は大罪であろう。里見の売った阿片によってどれだけの人間が廃人となったろうか。
戦乱によって乱れた社会では、麻薬の影響は驚くほどに広がっていく。人間は痛みや苦しみに耐える術は知っていても、幸せや快楽に耐える方法は知らない。家庭や恋人、仕事などのまっとうな手段で幸せが得られない時、麻薬のもたらす幸せに人が救いを求めても、それはしかたがない。
だからこそ、麻薬は売る側に罪があるのだ。
もちろん里見は、そうした咎人としての自分を認識している。
己のした事、している事が人としては許されざることであるとも。その上で、彼は日本と支那の和平と未来に賭けたのだ。たとえ汚れた金であっても、それが輝かしい未来を築く――いや、泥沼のような戦いを一日でも早く終わらせる一助になればと思って。
もちろん、その考えを甘いと非難する事はできよう。
歴史を知る人間にとって、泥沼の戦争を終わらせる方法は日本が大陸から手を引く事でしかない。里見のやった事は、本人の願いとは逆に人々の苦しみを長引かせることにしかならなかった。
里見が裁かれるべきはその点からだけであろう。
彼は自分がやろうとした事に失敗した。善も悪もない。目的の達成に失敗したからこそ、彼は裁かれるべきなのだ。彼の失敗を、後の人が繰り返さないためにも。
里見を裁けなかった東京裁判の問題はそこにあるのだ。
東京裁判は、善と悪で日本の指導者を裁いた。成功と失敗ではなく。里見の失敗は政治的な取り引きの中に消え、日本が大陸で阿片を売ったという悪だけが残った。
雲流るる果て、其の逝く処を知らず――
この言葉に、日本的な美意識と、そして限界を見る思いである。
何もかもが終わった時に、すべてを克明に記録したアメリカと、すべてを闇の中に葬った日本。
日本人は、おそらく何度でも同じ失敗をするのだろう。
だが、それもまた日本人というものかも知れない。
| 05月26日 |
■本日の読書:『東ユーラシアの生態環境史(世界史リブレット83)』上田信
東ユーラシアで、生態環境史などとえらくしゃっちょこばったタイトルであるが、
個人的命名は『バター茶の歴史』である。
冒頭、チベット族のお婆さんの家を訪問した筆者は、そこでバター茶をふるまわれる。
お婆さんは部屋の片隅におかれた幾年も使い込まれた木筒を手にすると、棚からレンガのようにかためられた茶葉を取りだし、手で掻き削り入れ、囲炉裏の三脚の上で静かにたぎっていた煤で黒くなった銅製の薬缶から湯をそそいだ。
攪拌の棒を筒に入れて、皿に盛られたバターから一つかみ、さらに塩をふた匙ほど落とし込む、馴れた手つきで棒を握ると、ジョグジョグと小気味のよい音をたてながら、茶葉が湯になじむまではゆるやかに、茶葉が開き加減になってからは勢いをつけて、攪拌しはじめた。
茶とバターと塩とがほどよく混じり合ったとき、湯気の立ちのぼる木筒をかたむけて、茶漉しを載せた口の開いた急須に茶をそそぐ。その後に私たち一人一人の器に、急須から茶をつぎ分ける。雲南のチベット語ではヅァ、中国語では酥油茶(スーヨウチャ)と呼ばれるバター茶であった。
『東ユーラシアの生態環境史』p003
バター茶を飲みながら筆者は考える。
チベットの乾いた高地に住む人にとり、このバター茶は生活にみごとに合った飲み物である。茶葉のビタミン、バターのカロリー、汗で失われる塩分の補給にこのバター茶は欠かせない。
だが、バターこそ家畜から手に入るが、茶葉はチベットにはない。
塩も、どこからか運び込む必要がある。
そして使い込まれた薬缶の銅とて、輸入したものだ。
生まれてこのかたチベットから出たことなどないようなお婆さんの生活ですら、外の世界と密接につながっている。
チベットの人々の暮らしにバター茶をもたらした、茶葉や塩、銅の流れははたしていつ、どのように生まれたのか――
本書はこのようにはじまる。
たいへん面白く、ためになる本である。世界史リブレットらしく、1テーマに絞ってあって軽く読めるのもよろしい。
| 05月27日 |
■本日の読書:『エマ 7』森薫
メイド漫画完結。
やはりメイド小説としてはじまった『龍の守護者』シリーズの面子に感想を聞いてみよう。
有樹:……
ソフィア:……
紫苑:あら、どうされました? 難しい顔をなされて。
有樹:え、いや、その。これで終わり?
紫苑:ええ。外伝として8巻が出るようですが本編はこれで終わりです。
有樹:うーん……なんか、いろいろ終わってないような気がするのだが。
紫苑:いえ、終わってるのです。少なくとも『エマ』の物語としては。
有樹:いやでも、難問山積みだし。
紫苑:それは一生ついてまわることです。
『メイドに恋をしてはいけない時代がありました』――1巻の帯にあったように、この話はメイドが身分違いの恋をするお話です。ですからエマがメイドでなくなったこの巻で物語が終わりを迎えるのは至極当然だと思います。
有樹:うーん、納得できるような、ごまかされたような……
ソフィア:納得がいかーんっ!!
有樹:うわあっ、暴れるなソフィア。
ソフィア:ウィリアムはどういうつもりだっ?!
最後にお前が対決すべきは、子爵ではなくてエレノアだろうがっ!!
有樹:いやでも、ほら、エレノアには前の巻で謝ってるし……この巻で会っても同じ事しか言えないだろう?
ソフィア:(ぎろり)
有樹:う……
紫苑:それは構造上の問題ですね。
ソフィア:え?
紫苑:他家のメイドであるエマは子爵令嬢のエレノアとまったく接点がありません。他の物語ならば三角関係となり互いに争うはずのエマとエレノアは、対立どころか会って話をしたことすらないのです。
ソフィア:そういえば……そうだな。
紫苑:女同士で決着をつける事はできませんから、ここは男が何とかしないといけないのですが(ちらり)。
有樹:え?
ソフィア:そうだな、男がな(ぎろり)。
有樹:え? え?
紫苑:恋の問題で男がへたれですと、苦労するのは女ですから。
ソフィア:まったくだな。男が優柔不断だと、いつまでもずるずると尾をひくんだ。
有樹:えーと……それはウィリアムの事だよな?
紫苑:(じー)
ソフィア:(じー)
有樹:えーと、まあ、8巻も出ることだし。この件では、もう少し様子を見ようじゃないか。
紫苑&ソフィア:(そろって大きくため息をつく)
| 05月28日 |
■本日の読書:『仮面のメイドガイ 3』赤衣丸歩郎
続けてメイド漫画をもう1冊。
なんか、同じジャンルに分類してイイのか悪いのか分からないが、優柔不断なへたれ主人公の後では、いかなる苦難も一刀両断つうか粉砕骨折なメイドガイは実にたのもしい。
今回も、一日一回は音読したい名台詞が山盛りである。
一例をあげると、『ご奉仕十四』のコガラシのこの台詞。
「やれやれだ
いつもいつも どこまでも
世話を焼かせるご主人め!」
「だが安心するがいい
振り返ればそこにいる
貴様の不可能ブレイカー
それがこの俺メイドガイ!」
リズムといい、語感といい。実にうまい。
赤衣丸歩郎さんは絵も達者だが、言葉の使い方も巧みだなぁ。
| 05月29日 |
■本日の読書:『朝日百科世界の歴史 価値の逆転』
技術史シリーズの最後、「今の技術」についてだ。
内容にあわせて表紙は『コンピュータ端末が並ぶ香港証券取引場』である。しかし、その写真の中にずらりと並ぶ機器をよくよくみれば。
でかい専用キーボード、緑色単色のディスプレイ。どこからみても『ダム端末』である。そしてディスプレイの上の張り出しに置かれたドットインパクト型のプリンタに、黒電話。
えらく懐かしい気分になって発行日を見れば1991年6月2日。15年前である。
思えばあの頃は証券取引といえばホストコンピュータ(メインフレーム)な時代であった。わずか数百キロバイトの修正プログラムによるパッチを適用する(あてる)ために、でかいリール式の磁気テープが届けられ、ぎゅこんぎゅこんと読み込む時代であったのだ。
いやー、懐かしい。
この後、それまで大学や研究所を結んでいたインターネットの商用利用がはじまる。
通信系に詳しい先輩SEに「今後、SEの技術教育ではどんな通信プロトコルを扱えばいいですかね?」と質問して、「新人SEに教えるならTCP/IPに絞れ」と指導されたのもこの頃だ。
わずか15年で、情報通信技術はまるで別の次元へとシフトした。といっても15年前にはすでに現代の技術の元となった物は存在しており、その視点からすると現在への流れは必然である。
それが必然であっても、見えぬ。読めぬ。
多くの失敗をした過去の人間を笑うことはできない。我が身を省みれば、かくも明らかな未来ですら、見通す事ができてはいない。
だからこそ、歴史を学ぶ事には意味があるのだ。
過去から今への流れを知ることにより、未来を見る目を養うために。
| 05月30日 |
■本日の読書:『軍医サンよもやま物語』関亮
太平洋大戦末期に陸軍軍医学校に通った筆者による、日本帝国陸軍の軍医についてのエッセイ。
それなりに面白く、ためになる一方で、七三一部隊の石井中将については微妙に歯に物がはさまった言い方になるのはいたしかたなしか。まあ、エッセイであるからしてそのへんは突っ込まないのが礼儀である。
ところで軍医というと戦場で負傷した兵士の治療というイメージが強いが、メインのお仕事はむしろ戦場ではなく日常生活での部隊の健康維持である。
何しろ軍隊というのは健康によくない。
ジョークではなく、本当である。平時に兵舎で暮らしている分にはいいが、いざ戦争となると歩兵なぞえんえんと歩かされるし、野宿の日々が続く。未開の地に行けば生水を飲むことにもなるし、寄生虫や疫病なども心配しなければいけない。
戦場で弾にあたって怪我をするよりも、その前の不衛生な生活によって病気になってしまう兵士の方が、よほど多いのである。
日清戦争における陸軍の戦死、戦傷死、戦病死の数をまとめるとこうなる。 動員将兵 240,616人 戦死者数 1,132人 戦傷死者数 285人 戦病死者数 11,894人 自殺・事故死 177人
実に10倍の将兵が戦闘ではなく病気で死んでいる。
ちなみに戦病入院患者数(死者ではない)は脚気が3万人ともっとも多く、次いで赤痢の1万1千人、マラリア1万人、これら8千人、凍傷7千人となる。
この中で脚気は当時の国民病であり、ビタミンB1の不足によって生じる事が後に判明する。白米ばかり食べていると脚気になるので、江戸時代は「江戸わずらい」「大阪腫れ」とも呼称された。
戦国時代から、戦場の兵士は白米をたっぷり食べさせてもらっている。何せ体力仕事であるから腹一杯食わせてやらないと仕事にならないのだ。白米は栄養価も高く、輸送や保存にも便利であり、兵糧としてはもってこいなのだ。とはいえビタミン不足はいかんともしがたい。
それでも戦国時代はそうそう長期の対陣もなかったが(足軽の多くは農民でもあり、田畑を耕さなければいけない)日清戦争ともなるとそのへんはだいぶ違う。
……ここでふと脳裏をよぎったのが、戦国時代のおしまいにあった秀吉の朝鮮出兵である。
1年以上にわたる長期の戦いである。終わりの方になると兵糧の欠乏(補給線が長くなりすぎた)などで日本軍は消耗しきってしまうのだが、意外と脚気による消耗も大きかったのではないかと思ってみたりもする。
閑話休題。
不足している栄養素を他で補えば脚気にはならないので、当時の日本軍でも米に麦を混ぜて給与し、脚気を防ぐ努力はしている。
しかし脚気は菌による病気である、あるいは米に含まれる毒素が原因であるという説も強く、なかなか克服されることがなかった。戦場で不足しがちな補給の効率を考えれば、白米と麦を別々に運ぶよりは白米だけに絞った方が良いという現実もある。
太平洋戦争末期になると、一般の国民だけではなく将兵も食料不足に悩まされることになる。数値としてカロリーが不足するからには、カロリーの消費を抑えるしかない。
そこで、一部部隊では軍医が部隊長と相談した上で、「昼食後1時間は動くな。昼寝せよ」と命じている。これで栄養失調患者を出さずにすんだという話であるが、実に科学的な処置である一方で、何かいろいろな意味で本末転倒しちゃおらんだろうかと思わなくもない。
| 05月31日 |
■本日の読書:『ミッションスクール』田中哲弥
ライトノベル作家では川崎康宏さんやろくごまるにさんと並んで私が好む文章を書いてくれる田中哲弥さんの短編集。
三者に共通するのは、悪ふざけの精神である。ダメっぷりを楽しむとでも言おうか。
『ミッションスクール』収録の短編のうち3つは『電撃hp』に掲載されたそうであるが、読者アンケートではたいへん不評であったそうである。(本人があとがきで書いているので、たぶん三割)
あとがきの、それに続く部分が面白い。
なにがいかんのでしょうねとそのときの担当編集者に相談したら本当にそんなこともわからず書いていたのかと怯えたような呆れ顔で、ライトノベルというのは純真な夢見る少年少女が読むジャンルであってこのようなものが受け入れられるはずがないではないかなに考えとるんじゃと諭され、ええとあのライトノベルってなんですかと頭掻きかき訊ねたら、わかったわかったなんでもいいからもう続きは書くなもはや我慢の限界なにこれまとめて電撃文庫で出版ばかこけこんなもん出せるかい臍から裏返って反省しろと説教された。『ミッションスクール』あとがきp281〜282
なお、上の文章は一文であるからして一息で読んで、ついでに後半に行くにしたがって速度を上げるべし。
本人もわかってやってるに違いないのだが、『ミッションスクール』はライトノベルの基本パターンを「おちょくる」という流れで書いてある。
『ミッションスクール』は学生が実は凄腕エージェント。
『ポルターガイスト』は学校で発生するオカルトな事件。
『フォクシーガール』は学生が突然として超常能力を手にするようになる。
『スクーリング・インフェルノ』の学生は、ひたすら意味もなく周囲にモテまくる。
ライトノベルではよくあるこれらの展開を、どうしようもなくダメな話にして笑わせるというのがミソである。
確かにコレは純真な夢見る少年少女には受け入れがたいかも知れぬ。ライトノベルが好きであればあるほど、自分の感動をバカにされている気分なのだろう。ちなみに、我が友人は映画『スターシップ・トルーパーズ』で同じような不愉快さを感じたらしい。
自分の感動は感動として脇にどけておいて、おちょくる話はおちょくる話で楽しめばいいのだろうが、マジメな人ほどなかなか難しいのだろう。
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この日記は簡単ホームページ日記で作成されました。