■銅大の読書万歳(49)
作品名:蚊學ノ書
作者:椎名誠
出版社:集英社文庫
ISBN:4-08-748791-1

 いよいよ夏本番である。(これを書いているのは7月21日だからそういっても
過言ではあるまい)
 そして夏といえば、蚊である。
 最近は暖房が発達したせいで越冬する不届きな奴らもいるにはいるが、基本的に
蚊にまつわる出来事というのは夏の風物詩と呼んで間違いはあるまい。
 夏の寝苦しい夜、暗闇の中で

			ぷーーーーーーーーーん

 と甲高い羽音を響かせて安眠を妨害するきゃつらの攻撃にさらされた経験のない
人はよほどの強運の持ち主か、幸運をムダ遣いしている輩であると私は断言する。

 第二次世界大戦において、ドイツの急降下爆撃機は機体に喇叭をとりつけてサイ
レンの音を高らかに響かせながら爆弾を投下したという。どちらかというと、爆弾
そのものの破壊力よりも、その『音』こそが敵の士気をくじいたのではないか。
 などとガクジュツ的な分析なぞしていても事態は一向に改善されないので、眠り
をひとまず諦めて部屋の明かりをつけ、練達の武道家のごとく両手を構えて音とわ
ずかな影を頼りに蚊を探す。

			ぷーーーーーーーーーん

 うぉ、おったわい。うりゃ! くぅ、逃がしたか。どこだ、奴はどこに消えた?
 ぬぅ、そこかぁ。させるかあ!

			ぺち

 かくして一つの戦いは終わり、明かりを消して惰眠をむさぼろうとすると――

			ぷーーーーーーーーーん

 くぅ、さきほどの奴は影武者であったか! そういえば血を吸ってなかったので
ヘンだとは思っておったわ! 今度こそ雌雄を決そうぞ!

 まぁ、かように人間と蚊の戦いというのは果てがないものである。
 もともと、日本の家屋は夏に風がよく通るような構造をしており、蚊に対しては
どちらかというと無防備である。そこで寝所に蚊帳を吊したりして対策を講じたり、
煙でいぶして蚊を追いやったりしてきた。筆者も、子供の頃の夏休みに父親の田舎
の農家では蚊帳の中で寝たものである。あれはなかなか面白みのある物で、中に入
る時に一緒に蚊を入れないようにしたりとか、どこからか迷い込んできた蚊と金網
デスマッチを繰り広げたりとかしたものだ。

 かように、普通の生活においても私達の生活と季節感にきわめて密着した蚊との
あれこれであるが、それを面白おかしいエッセイとしたのが本書『蚊學ノ書』であ
る。タイトルからしてあまり真面目な話ではなさそうであるし、内容にいたっては
どこまで信用していいのか分からず、それがまた興そそそる、という本である。
 私はこういう「どことなくいかがわしい香り」が漂う本が好きである。ホラ話と
笑いこそは、人間の心を自由にしてくれると思うからだ。

 なんといっても筆者の椎名さんが蚊學に目覚めた事件というのが面白い。
 とある小島でキャンプをしていると、深夜に突如として襲来してきた蚊の大群。
 テントの隙間という隙間を塞いでもなお侵入してくる獰猛な蚊の襲撃。
 テントの外からはザザッザザッという砂つぶてのような音。蚊の大群がテントに
体当たりをかけてきているのだ。

 怖い。これは掛け値なしに怖い。

 筆者も書いているがテントの仲間たちは期せずしてヒッチコックの映画『鳥』を
思い出したという。
 こんな経験をすれば人間、ナニかに目覚めるものである。筆者の椎名さんは、蚊
とそれに対抗する人間たちの兵器の数々について調査し、また友人たちに世界各地
の蚊についてのレポートを依頼して一冊の本にまとめている。

 どちらかというと文化人類学的な面白おかしい話が多く、たとえばシベリア獰猛
蚊の存在であるとかアマゾンの人柱ならぬ人型蚊柱――人間の周囲に蚊が集まった
ため、もやもやとした巨人のような姿になる――の存在とか、日本の金鳥で有名な
渦巻き状ではなく棒状や四角形の蚊取り線香の存在など、読んでいてまったくため
にならない、だが愉快な話が続く。

 個人的な好みとしては蚊が獲物を探索する際の赤外線および二酸化炭素の感知能
力情報や、獲物にとりついてから血管を探す際の足を使った音響探査とか、鋸(錐
ではないのである)状の口を使って皮膚を切り開いて血管へ血液を凝固させない毒
の注入の仕方とか、そういう技術的な敵の行動について詳しく述べられていたら言
う事はなかったのであるが、そういうのを抜きにしても十分に楽しめる作品である。

 さて、これからの未来における私たちと蚊の関係であるが、少し気になる話があ
る。アメリカがごねたり日本が日和見していたりする京都議定書であるが、あれの
批准が行われず、科学の進歩でも地球の温暖化を食い止めることができないとなる
と、日本にも熱帯で猛威をふるっているマラリア蚊がやって来る危険性はきわめて
大きい。
 一方で、その逆に遺伝子工学によってボウフラや蚊の天敵を生み出したり蚊を撲
滅しようという動きもあるという。

 蚊の被害が今後、さらに拡大するのか。
 それとも、蚊というものが日常生活から消えていくのか。

 本書を読んだ私にはどちらもあまり望ましい未来のように思えない。

 いらただしく、めんどくさく、厄介な存在であるとしても。いや、それだからこ
そ。

 この、同じ地球に住む仲間として共存していきたいと思うのである。

 ああ、でも、夜中に「ぷーーーーーーん」は勘弁してほしいものであるが。


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