彼女はいつも夏至祭の頃にきまって僕の街にやってきた。黒いギターケースを抱えていつも同じキャラバンに混じってこの街に来た。 彼女は僕が物心ついた頃からこの街にやってきていたが、僕にとって彼女はいつも変わらないように見えた。つまり年を取らないように見えた。 腰に剣を下げるようになるまで、僕たちは彼女の歌を街の広場でしか聞いたことがなかった。そして、正直僕には彼女がそれほどの歌い手には思えなかった。彼女は決して「赤姫」ウィルライエほどに美しいというわけでもなかったし、「白鷺の」ミシュエキャイルのような玻璃の鈴がなるような声でもなかったからだ。 それに彼女の普段の話し方といったら、粉屋のミーエッシュのようで、貴族のようなきれいな詞で話す、他の歌姫とは大違いだった。 僕が初めて剣を下げた夏至祭の時も彼女はいつも通りに街にやってきた。そしていつも通りに夕方まで広場で子供たちにせがまれて、いろいろな戯れ歌を歌っていた。 この日、僕達今年剣を下げることを許された「若衆」は皆ようやく市壁の外の酒場に入ることを許され、夕暮れからずっと大騒ぎをしていた。これも毎年のことだった。 そう、いつものことだった。 いい加減かなり酔いのまわった頃だった。僕は市議の息子のライゲッシュと、彼の仲間達が、赤ら顔を集めて何やら相談しているのに気がついた。 「女を買いに行こうぜ」 にやにやと野卑な笑いを浮かべて、ライゲッシュはそう言った。 「キャラバンの女で、一晩五枚って女がいるんだってよ」 ライゲッシュは僕の腕をとって酒場をでた。キャラバンのところに行くのは他に五人程だった。 心を動かされなかったといえば、嘘になる。まして僕はライゲッシュ達と違ってまだ「罪知らぬ身」だったから。 けれど、不思議と僕は仲間達ほどに気乗りがしなかった。それはきっと酒場の薄暗がりの中で、僕を誘ったライゲッシュの顔があまりにも露骨に欲望をさらけ出していたからだと思う。僕は自分の顔もそんな風なのかと思った。そしてそんな顔を相手の娘に見られたくはなかった。どうせなら、暗闇で互いの顔がわからなければいいのにとすら思った。 街の外でキャラバンは野営をしていて、焚き火を囲んで男達が僕にはわからないことばで低く話していた。 僕は彼らと目をあわせるのを恐れた。何故か彼らの視線は僕等を見透かしているような気がしたから。 外れの天幕で、ライゲッシュが誰かの名を小さく呼ぶと、キャラバンの娘と一人の中年の女がでてきた。天幕の中にはまだ何人かの娘がいるようだった。 中年の女はライゲッシュにやけに甲高いが押し殺した声で何かいらいらと話しかけた。小さな声の上になまりがひどくって僕にはよく聞こえなかったが、支払いのことでもめているらしいのはわかった。僕は娘の顔をそっと窺い見た。 彼女は少しそばかすが気になったが可愛い子だった。無表情な顔で、目もどこを見ているのかわからなかった。隣の仲間が或ることばを口走った。僕は僕達のことばを彼女がわからないようにと祈った。 ライゲッシュは舌打ちして僕達に向きなおった。 「一人八枚だって言いやがる。どうする?」 僕は既に抱く気持ちは失せていた。金がないからと言い訳し、酒場に戻ると言った。帰るのは僕一人だけだった。キャラバンの娘はライゲッシュの腕に抱きつくと天幕の中に入って行った。僕は一瞬彼女の顔を見て、見たことを後悔した。嬌声は聞きたくもなかった。 酒場に戻るとほとんどの若衆は二階の宿で眠りこんでいて、何人かの親役がいるだけだった。僕の親父はいなかった。そして、カウンターのそばの舞台に「彼女」がいた。 椅子に腰掛けて、濃い赤紫の天鵞絨のガウンを羽織っていた。そして賑やかなストロークの前奏が終わり、彼女は口を開いた。 さあママ町を出ようよ 激しい雨の夜だけど 仕度は何もないから はだしでドアをあけるだけ 形見になるようなものを 拾うのはおよし 次の町ではそんなものは ただ邪魔になるだけ いつもこうなることぐらい わかりきってるものだから 必ず町で一番 暗い酒場でママは待つ 今度は西へ行こうか それとも南 愚痴はあとから聞いてあげるから 今は泣かないで 東の風が吹く頃 長距離バスが乗せて来た あの人の黄色いジャケット それから先は おきまりどおりに家を飛びだした 遠い遠い昔のこと・・・ 彼女は僕の前で歌い続けた。 蓮っ葉に、歌うときがあった。虚しさだけを見つめてきて、それでもなお空威張りせずにはいられない、とうの立った娼婦のように蓮っ葉な声で歌うときがあった。 訴えかけるように、叶わぬ願いと知りながらも哀願せずにはいられないように歌うときがあった。 子供をあやすように歌うときもあった。だだっ子をあやし、眠りに誘うような、優しい母の声で歌うときもあった。 そのいずれもが彼女の本当の姿なのだと僕は思った。 そのいずれも、繊細で、澄んだ声だった。けれど、それ以上に、勁い声だった。 そう、勁い声だったのだ。 最後のアルペジオの響きが酒場の空気に消えてしまうと、彼女はギターを置きカウンターに座った。主は一袋の貨幣をわたし、彼女は数えもしないでそれをポケットに押し込んだ。 「寝酒がほしいの、あまり強くないお酒、何かちょうだい」 彼女はそう言うと頬杖をついてカウンターの染みを見つめていた。声は粉屋のそれに戻っていた。 湯気のあがった小振りのマグが置かれると彼女はまるで子供のように両手でマグを持ち、ふうっと吹いた。その仕草が歌っていたときの彼女とそぐわなくて、僕は思わず吹き出していた。 彼女は上目使いに僕と目をあわせると、無邪気にくすっと笑った。 「おかしいでしょ」 「なにがです?」 「あたし、こんな稼業してるのにお酒って弱くてだめなの。だからいつもこんなお酒ばっかり。子供の風薬みたいなお酒だけなの」 「似つかわないような気がするな」 彼女は一口啜ると言った。 「そうよね、歌の中じゃやけ酒飲むような内容のが多いものね。幻滅した?」 カウンターで少しうつむいて小さなマグを両手で包み込むようにしている姿は、僕よりも年上の女性だというのに、何故か少女を思わせた。そうだ、彼女は僕よりも年上なのだった。 「けっこう前からここに来てましたね」 「そうね。割合昔から。あなたいくつなの?」 「今年若衆になったんです。十六」 彼女は小さく、しまった、と言った。 「聞かなきゃよかったわ。もしかしたら、あなたのお母さんと同じぐらいかもね」 「えっ?」 「あたしの年よ」 僕は思わず彼女に向き直り、彼女の顔をのぞき込んだ。カウンターの上に釣り下げられたランプの光の下で、彼女は悪戯っぽく笑いながらまた一口、酒を啜った。 「嘘だ。もっと若いでしょう」 「こんな嘘言って何になるのよ。女が自分の年多く言ったりしてさ。それよりあんまり見つめないで、小皺がばれちゃう。折角暗いから目立たずにすんでるのよ」 あいかわらず、彼女は悪戯っぽく笑っている。僕はもう一度まじまじと彼女の顔を見直した。でも、この薄暗がりの中でも、彼女は不思議と綺麗に見えた。確かに、他の歌姫達と比べると、目を引くような美人というわけではないのだが、大きな瞳が何故か心を切なくさせる。そんな気がした。 「もしそうだとしても、年の割には十分綺麗ですよ。本当は幾つなんです?」 「無礼者。女に面と向かって年を聞いちゃだめじゃない」 彼女はおどけたようにいうと、ことばを続けた。 「いい、『遠目、夜目に傘の内』って言ってね、暗いところだと女の人は美人に見えるものなのよ。覚えときなさい。騙されないようにね。あたしは三十二。あなたのちょうど二倍よ」 僕は、彼女と話すうち、口が乾いてくるのを感じ、主人にスタウトを頼んだ。 まともに話しをするのは初めてなのに、何故か彼女とは古い年上の友達のように、話すことができた。 僕は思ったことを素直に聞くことができた。 「一人で旅をするのって大変じゃないですか?」 「べつにむりして敬語使わなくてもいいわよ。タメ口きいても許したげる。・・そうね、みんな危なくないかって聞くけどそんなことないのよ。一人旅なんかしないでいつもキャラバンについて行くし、あまり辺鄙なとこには行かないもの」 とはいっても、それとは別に女として大変なこともあるだろうと僕は思った。しかし、それを聞くのはいくら僕でも無作法なことに思えた。 「どうして旅をしてるのか僕にはわからないな。姐さんぐらいの腕とのどだったら、街にいた方が儲かると思うのに」 「街にいると大変よぉ。男という男があたし追っ掛けて、ほかの娘から総スカン喰らっちゃうわ」 「三十路過ぎたおばさんのいうセリフじゃないよね」 僕と彼女は顔を見合わせて笑った。彼女はひとしきり笑ったあと、小さく、呟いた。それは、彼女が歌うときの、声だった。 「街にいると知らず知らずのうちに誰かを傷つけてしまうから。けっこう多いのよね、自分では気付かずに誰かを押しのけたり、邪魔してしまったりっていうの。人が多いんだから仕方ないのかも知れないけど。 それに、何たって街に留まって小さな店でも持つにはガラが悪くなりすぎちゃったもの」 「でも最初から旅芸人ってわけじゃないんだろう?それとも最初からそうだったの?」 「聞きたい?」 彼女は少し困ったように微笑みながら、僕の顔をのぞき込んだ。 何処かでこんなことがあった。前にも彼女のこんな顔を見つめていた。ふとそんな思いが僕の心をよぎった。さっき彼女の歌を聞いたときのように。気のせいだ、彼女と話すのは今日が初めてのはずだ。僕の記憶の限りでは確かにそうだ。 「聞いてもいいのかい?」 僕はスタウトを飲み干しもせずに持て余していた。 「あなたになら話してもいいって気がするの。不思議ね。でも珍しい話じゃないわ。何処にだって転がってる。・・人を探してるの」 「それがきっかけ?」 「うん。今も、昔もね。でも、もうお互い会っても顔なんかわからないはずよ。もう離ればなれになってから長いもの。だけどいいの。もう引っ込みつかないわ。こんなに年食っておばさんになっちゃったんだから、意地でもあの人と添い遂げてやるつもり」 「その人のこと、本当に好きだったんだね」 「・・そう、なのかな。でも違うと思う。そんなんじゃない」 彼女はさびしげにそういうと、マグの中の酒を飲み干し、ギターを手にとった。軽くチューニングをすると、静かなアルペジオを爪弾きはじめた。懐かしいメロディーが流れてきた。 初めてあなたを見かけた時 誰よりも懐かしい気がしました 遠い昔から知ってたような とてもなつかしい人に思えて 気のせいでしょうとそれきり忙しく 時は流れて行く費やす日々 傷つけ傷つく苦い旅の中で わたしあなたのこと思い出した 次に生まれてくる時は めぐりあおうと誓ったね 次に生まれてくる時は 離れないよと誓ったね なんで遠回りばかりしてきたの わたし誓を忘れて今日の日まで 私達はこうしてさすらいながら この人生もすれちがって しまうのですか・・・ アルペジオは強いストロークに、呟きはいつか朗々と響く、歌声へと変わっていった。悲しいくらいに澄んだ、勁い声だった。 僕はこの時、彼女のこれほどの想いを受けられる男がいるのだろうかと思った。けれどそんな僕の考えとはまるで別に何故か、心の奥の方からは胸の詰まる悲しさが溢れてきた。涙が不意に流れ出してきた。 視界の中の彼女が不意に、頼りなげに、揺らいだ。 彼女が何処か遠くへいってしまう。ようやく、また、会えたのに。 彼女は最後のストロークを終えると僕に向き直った。瞳の奥に悲しげな決意があった。僕は迷わず、彼女を抱きよせ放すまいとした。まるで自分が自分でないそんな気がした。 彼女の髪の香、細い、しなやかな手首。 彼女は抗いもせずに僕の胸のなかにそっと舞い込んできた。僕は力一杯彼女を抱き締めた。 「ごめん・・ようやく会えたのに・・・」 胸の中で彼女が呟く。僕は何も言えなかった。 「でも、やっぱり、またすれちがっちゃったね・・」 僕の中の何かは声を限りに叫んでいた。放しはしないと。 下から僕の顔をのぞき込む、彼女。ずっと前にもこんな時があった。見覚えの或る顔だった。いつも確かに違うけれど微かに残る彼女の面影。そしてその時も、彼女は・・・。 彼女の震える唇が何かを告げようとする。僕の中の何かは必死でそのことばを彼女に言わせるなと僕に叫んでいた。 「さよなら・・・。」 そのことばを告げて、彼女の唇はそっと僕の何も言い出せないでいる唇に重なった。 そのまま僕は彼女を抱き締め、放すまいとした。 けれど・・・。 静かなアルペジオが聞こえた。 ・・・彼女がいつも最後に歌う歌だ・・・。 僕はふっと思い出した。 翌朝、彼女は去っていた。キャラバンとは別に一人で出発したのだった。誰も彼女の旅立ちを見取るものはいなかった。僕もそうだった。 僕が目を覚まし、カウンターの上に起き上がると寒々とした酒場に朝の光が差し込んでいた。 僕は自分の唇に、そっと、指先で、触れた。 微かに、彼女の香がした。 カウンターには彼女が飲み干したマグがぽつんと残っていた。その脇にギターのピックが一つ落ちていた。 僕はそのギターのピックを握り、酒場に置いてある安物のギターを手にとった。うろ覚えのコードを押さえストロークする。一度目はひどい音だった。だが二度目には和音が響いた。 そうして、僕は思い出したのだった。遠い遠い昔の誓を。 僕はそれから、ギターを覚え旅にでた。 彼女と同じようにキャラバンと一緒に旅し、彼女と違って辺鄙なところにも行った。ギターは少しずつ自分の思うとおりに弾けるようになった。けれど、あの日最後に聞いた歌を弾くことはできなかった。 彼女はそれから、僕のいた街には来なくなったという。たまに何処かの街で歌っていたという話を耳にしたが、僕は彼女に会うことはできなかった。これからも会えはしないのかもしれない。僕はもう、結局この人生でも彼女とすれちがってしまったのだろうか? きっと、そうに違いない。 けれど、それでも彼女にもう一度会って約束をしたかった。 次に生まれてくる時はめぐりあおうと、そして次に生まれてくる時には決して離れはしない、放しはしないと。 僕が誓いを忘れてしまった、その償いに。