いまひとたびの



     舞姫が旅立って、最初の春が巡る。
     春と一緒に、彼女の最後の恋人がやってくる。


     いやになるほど続いた戦いの日々のささやかな途切れに、ヴァーゼル竜都に立ち寄ることにしたのはほんの気紛れだった。ところが都の大門をくぐった途端に非難じみた視線を浴びせられ、お前が去年なじみになった娘が恋煩いで死んだよと告げられたのだった。
     そして駆け付けた墓標の前で、腕一杯の花を抱えた貴婦人と出会った。
     
     「……いらしてくださいましたのね。こちらへ風を遣わされた翼の女神に感謝申し上げなければ」
     貴婦人は、ヴァーゼルの姿をみとめると、穏やかに微笑んでそう呟いた。
     「あの娘は」
     「……さあ、もしかしたらあなたの唇のあたりに」
     彼女の拡げた腕からこぼれた花々は、舞姫が好んだ髪飾りのように墓標に降り掛かった。
     「逝った……のですか?」
     「あなたと出会わなければ、咲かずに枯れるところでした」
     応えともつかぬ言葉を返し、貴婦人はたおやかに膝をかがめて残りの花を墓標に手向けた。
     貴婦人の髪を揺らした風が、銀緑の光を帯びる。地に延びるすんなりとした背の高い影もかすかに銀緑に輝いている。
     「あなたは……」
     「あの娘の友人でした。レーニエと申します」
     貴婦人は首を傾げるような会釈を寄越し、ほのかに眩しそうな目でヴァーゼルを見遣った。
     「屋敷に、お立ち寄りいただけないでしょうか、ヴァーゼルさま。……あの娘からの伝言を預かっておりますの」


     昼下がりの光の向こうに陽光にあたためられた潮のにおい。通された部屋の窓から若翠の庭を見遥かして、深い碧と藍に輝く、海。勧められた飲み物はひんやりと森の気配がする。ヴァーゼルの足元に横たえられた使い込まれた剣は、どことなし居心地が悪そうにしている。
     「お礼を、申し上げますわ」
     海の都の春は、訪れと同時に華やかに花開く。微かに汗ばむほどの日射しの下で、ヴァーゼルの前の器を再び緑色に煙る飲み物で満たしながらレーニエは樹の葉擦れのような声で云った。
     「あの娘、幸せに旅立ってゆきましたもの」
     「それは……よかった、と思ってよろしいのでしょうか、ね?」
     「ええ」
     笑顔が、ほんのすこし、歪む。
     「あの娘、咲かずに、萎れると思っていました」

     ヴァーゼルは首を傾げる。そうして、思い出す。去年なじみになった娘の笑顔。子猫のような軽やかな足どり。王宮の舞姫だと云いながら、屈託なく誰にでも笑いかけ、しなだれかかり、かと思うと腕をのばした途端にくるりと身をひるがえして飛び退き、泡のような笑い声をあげる反らした白い喉。野育ちを装う……温室育ちの白い花。風に触れたことのない花弁。

     だから、春風は窓を叩いた。
     だから、春風は花を誘った。
     野の風に触れてごらん。翠の香を浴びて、日の光を花びらにはじいて。
     花びらにくちづけたのは、穏やかな春のそよ風。
     花びらを揺らしたのは、砂をまいて疾る春の突風。
     花びらは野の風と異国の春を知り、そして。
     そして、花びらを散らしたのは……

     「移り行く季節です」
     涼やかな陰のように、レーニエの灰緑の瞳が微笑む。
     「あなたが去ってから、あの娘は泡のようには笑わなくなりました。それから、宮殿の楽人に恋をして、その恋に破れて、それから泣くことを覚えました。それから……」
     ほろほろと、唇だけが、ほころぶ。
     「ほんとうに、踊り始めたのです。当代随一の舞姫と呼ばれました。秋の月の宴の独舞をつとめ……」
     胸を病んで、逝きました。
     わたくしにはわかっておりました。わかるのです。ひとに残された時の長さが。
     あの娘は間に合いました。風が扉を叩いて始めて、あの娘の季節は巡りはじめました。短い時間のなかで、あの娘は黄金のようにいろ濃く輝く夏と秋と冬を味わいました。
     世の中で、季節の巡りを一度も知らずに……知らずにいることすら知らずに萎れてゆく花たちの、なんと、なんと多いこと。

     「それ以上は、口に出しては下さいますな」
     レーニエの言葉の途切れ目に、ヴァーゼルは慌てたように声を挿んだ。
     「言を分けてかばいだてしてくださるのは有難いが……おれは決められた道筋をゆくわけでも、そのつもりでもないのですから
     「お待ち下さいな、まだことづてを申し上げておりません」
     灰緑の瞳がけぶる。
     「いまひとたびの春が許されているなら、貴方にお会いしたかったと。そして、過ぎ行く風を、しばし誘って留めてみたかったと……そして」
     花の身にふたたびの季節が許されないのなら、風にまつわる花びらになって、幾度もすれちがい、そのたびにくちづけるのだと。
     「幸せだったのです、だから」

     それはよかった、とヴァーゼルが応えると、レーニエも少し声をこぼして笑った。それから、うつろう季節のなんと美しいこと、と夢の中のような声で呟いた。
     「あなたにも季節が巡らないと云うわけではありますまいに」
     「巡らないのです。わたくしにあるのは……永遠の春。ただ日の光が降るだけの……」
     でも、わたくしの望んだことですの。
     ヴァーゼルを通り越して投げた視線の先に、木々に抱かれるようにして墓標が佇んでいる。
     ああ、とヴァーゼルは思い出す。竜都の主よりも年嵩だとささやかれる銀柳の森人。森人の身で人の子を愛し、その人を失って以来は永遠にその眠りを守り続けているという女。

     「……それでは……風は立ち去るといたします。あなたの喪の庭を乱さないうちに」
     延べられた細い白い指先にくちづけてから、足元の剣を手に取り、ヴァーゼルはレーニエの屋敷を辞した。路に出てからも、ひんやりとした感触が唇に残っていた。

     花野が近い……そう風が告げる。
     まぶたをはじく光、光。

     いまひとたびの、と花は夢見る。
     けれど、一度きりの春。
     一度きりの風。

     うつろう春。
     過ぎ行く風。

     わけもなく、胸が痛んだ。

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