声が。
声が聞こえる。
消え入りそうに微かな、女の声。耳を澄ませた途端に風にまぎれて、本当に消える。
空耳でない証拠に、いつまででも耳の奥で鳴っている。
あれは。
俺が斬った女の声。乳飲み子を腕に抱いて、俺のほうを見もせず、子供の為に子守唄を歌ってやっている。
おやすみ、おやすみ、もう再びは来ない夏まで。
おやすみ、おやすみ、美しかったあの朝を夢見て。
おやすみ、おやすみ……
夏に生まれた潜王の子は再びの夏を待たずに死なねばならない。主となるべき者を裏切った母はその子と共に死なねばならない。そう告げられて、俺は疑いもせず肯いたのだった。俺の主であった人は正しく王の血を引く者であり、簒奪者の手から正しい地位を取り戻したものであり、その言葉はすべて正しかったのだから。
あの女は最後まで俺を見なかった。
ぬるいワインの最後の一口を飲み干すと、目の前の娘は小さく笑って、頼みもしないもう一杯を注いで寄越した。
「何を考えてるの?北風の若殿」
「夏のことを」
「ああ、考えても仕方のないことを、だね」
それきり、娘は黙ってしまう。口許はあいかわらず微笑みを漂わせたまま、戸口のほうへと視線を泳がせる。
「助かっては、いるんだけどね。あんたがここにいると、うちの店には客が絶えないから」
吹雪の剣を振るう人間の手を借りたいものの数は多く、そして吹雪の剣を振るうに足るだけの危急を抱えるものにはこの街では未だ、会わない。会うはずもない。
「もうすぐ、ここも出て行く」
「来たばっかりじゃないか」
「吹雪の季節が終わるからだ」
「……馬鹿だねえ」
「俺は、決して夏を見ない」
俺の本当の年齢は、俺自身にすらわからない。忘れたのだ。
正しい王のもとで忠臣として何年かを生きた。冷たい子守唄を耳の底に聴きながら生きた。火の気のない牢獄でもう息をしなくなった乳飲み子に、きっと最後まで正気だった母が歌っていた声を聴きながら生きた。
そして、ある日の戦で、一人の男と刺し違えかけた。俺のほうがどうやら死に遅れた。折れた自分の剣を捨てて相手の剣をもぎ取った瞬間から、俺は時間の流れをなくした。
--我を振るうものとなるか
そう、手の中の剣が訊ねたのだ。
--凍てつく心を持つもの、安らがぬ悲しみを持つもの、我を、振るえ
--時の流れから汝を解き放つ。永久の冬を、心のままに、我を、振るえ
そして、俺も夏を失った。
「あんた、ほんとに……風の剣の運び手なの?」
娘はグラスを磨きながら俺の顔を覗きこむ。
「ちっとも自由になんか見えない」
「自由なものか」
今度は俺が小さく笑う。
「吹雪は留まらない。吹雪は花を愛でない。恋を語らない。微笑まない。歌わない。囁かない。叫び、荒れ狂い、斬るだけだ。心のままになるのは行き先だけだ」
「それで幸せなの」
「それは春や夏の言葉だ」
「あんたはどうなの、北風の若殿」
答えずに俺は笑う。
ああ、幸せなど考えたこともないのだよ。俺は剣を振るうこと以外知らないのだから。
そう答えたら、この夏の匂いのする娘はどんな顔をするのだろう。
「あんた、吹雪の季節が済んだらどこに行くの?」
「行くはずだった戦場へ」
「戦はそこらじゅうでやってるよ。春も夏も」
答えずに、グラスを空ける。この娘にはわかるまい。俺だってわかりはしないのだ。
また、声が。
声が聞こえる。
夜の冷気を紡いだ一本の糸のように。帳のように降りしきる雪の底を縫って、たたきつける風の叫びの旋律の切っ先を渡って、声が聞こえる。この声が聞こえる限り……この地は、冬のさなか。
それは、暖炉の薪がとろとろと燃える音、と、目の前の娘は唇を曲げるのだが。
急に騒がしい靴音が扉をくぐった。
「……ローラン卿?」
割れた声。
「確かに」
冷えた黒い血の気配のする男が俺の前に立つ。
「お力を」
血と嘆きと呪いの中からやってきた男。吹雪の剣が身じろぐ。……行け。我を振るえ。
扉を開けると、雪も風も止み、ただ黒い夜が刃物のように冷えびえと、ある。
歩き出した俺の背中に娘が叫ぶ。
あんたのために、夏を祈るよ。忘れないで、夏を祈っているよ、北風の若殿、忘れないで。
忘れてしまうのだよ。風は流れてゆく。何もかもを通りすぎて。
唇の中だけで答える。
そして、声が戻ってくる。
吹きすさぶ雪の刃と共に俺が運べる唯一の思いが。
永遠に来ない夏と安らぎををささやきながら。
もう、振り返っても灯りは見えない。