枝角の記


    (クリエイターズネットワーク・0409お題もの書き:走る参加作品)

     追われている。
     踏みおろしかけた蹄を持ち上げたまま、“枝角(えだづの)”は凍りついたように動きをとめた。
     限りない緊張、機能としての怯えが身体に一瞬で満ちる。
     踏みわけた雪殻がきしむ。そのかすかな響きすら、追跡者に聞きつけられるかもしれなかった。
     漏斗の形をした耳が、別の生き物であるかのように震えて動く。二度、三度。
     鼻腔からもれる吐息が、枝のあいだから差し込む月光に白く煙る。
     ハルニレの枝のあいだを氷河からの風が吹きぬける。
     十呼吸。
     耳に届いてくるのは、高くゆく風が山の稜線をけずる音である。
     待つ。
     息五つ。
     届いた。追跡者だ。
     捲いてきた山塊のふところ近く、風音にまぎれるようにして遠吠えがあった。そして、やや大きく、応える咆哮が長く。
     近い。
     駆け出していた。
     枝角は雪殻を蹴上げて飛び出した。その角の大きさ、体の重さをまるで感じさせず、木立の中を姫鱒のように駆け抜けていく。
     血と魂に織り込まれた反応、数えられないほどの代を重ね、練りあげられた自動的な動きである。
     一つ、二つさらに咆哮が応えた。谷筋から小刻みに唸る声と雪殻を踏み砕く音が届く。
     枝角は斜面の立ち木を縫うように、跳ね、駆けた。
     数瞬後、追いすがって三頭の獣が斜面を駆けあがってきた。
     いずれも歯をむき出し、鼻に皺を寄せ、荒い息を立てている。脚の半ば過ぎまで埋まる雪に阻まれ、獣たちは胸で雪をかき分けるようにするしかない。
     狼だった。
     黒銀色のたてがみを蹴立てた雪がまだらに彩っている。長く走り続けているのだ。
     だらりと垂らした舌からは湯気があがっているが、毛皮には霜がついていない。歩みを止める間もなく、体が冷える間もなかった証だった。
     先頭をゆく一頭が駆け足から早足に歩みを変える。枝角が頭を巡らせたのを確かめ、数度噛みつくように吠えた。
     もう一群れが立ち木の間を抜け、応える。数は二頭。
     追いかけてきた三頭の群れの斜め前、やはり斜面の下から挟みこむように動く。枝角を尾根筋に追い上げる機動だった。
     枝間に差しこむ蒼い月影のもと、五頭の狼は一つの生き物のように包囲を狭めてゆく。時折、木陰の闇から眼が黄色く光る。その眼には獲物を追う熱狂と、追い詰める冷静さが奇妙に同居しているが、一つだけ、尋常な血族と異なる色彩があった。
     それは、苛立ちである。焦燥といってもよかった。
     狼たちは焦っていた。
     獲物は狡猾で、まるで原野の悪意が彼らをあざ笑っているかのようだった。
     狼たちが囲みを作ろうとするその前に駆けだし、あれほどの角をかかげているにもかかわらずに、林の中をまるで平原を行くように抜けてゆく。そして、選ぶ道は狼たちにとって深い吹き溜まりや風下ばかりなのである。
     彼らはすでに二度、仕掛けた囲みを抜けられている。そのあいだに獲物には三つの尾根を越えられ、二つの沢を渡られてしまった。
     次の囲みを抜けられたなら、追いつくことはできまい。狼たちは速歩をやめ、残された力で再び駆けだした。
     餌を求めての狩であったならば、もうとっくに諦めていたに違いない。そうしないのは、この追跡が単なる狩猟ではないためだった。

     不意に林が開け、枝角は足を止めた。
     林の縁から一駆けほどの距離を置いて岩崖が切り立っていた。崖と林の間にはほとんど木は生えていない。崩れ落ちた斜面の土と、岩塊が林を押しつぶしたのだろう。深く氷雪にうずもれてはいるが、所々、鋭い岩が顔を出している。
     岩くずと貧弱な表土がむき出しになった斜面は、取り付いた雪や氷でまだらに彩られている。
     とっとっ、と枝角は崖の下まで歩き、崖上を仰いだ。岩棚、氷棚の位置を見てとり、上への道取りを思い描く。
     行けない、足場が狭すぎる。
     深い雪を踏みしめて歩くための、幅広く頑丈な蹄では、斜面にある岩棚に乗り切らない。
     ここではだめだ。
     崖にそって歩き、緩やかな斜面を探す。その間も耳はぴくぴくと動いて風の音を聞いている。
     探す間もなかった。木立の中から黄色い眼光に続いて、染み出すように黒銀色の獣たちが姿を見せた。
     行く手を阻むように、二頭。 
     距離をとり低く唸る。威圧や警告の唸りではない、捕食のための唸り。獲物の体に仕組まれた機械的な怯えを呼びおこすための唸りである。
     枝角の耳がさらに荒い呼吸を捕らえた。自分が振り捨ててきた三頭が追いついてきている。
     崖を背に、枝角は囲まれた。
     追跡者たちは林から一歩ほど出たところで用心深く距離をとっている。
     彼らには確かに牙がある、頭数も多い。だがうかつにはしかけられない。枝角の体はこの群れの中で一番大きな狼よりも二回りも大きい。その毛皮は厚く、蹄は力強い。おそらく前蹄の一蹴りで狼は吹き飛ぶ。地面にたたき伏せられたところを踏みつけられたなら、もう満足には戦えまい。
     かかるなら複数で。
     逃れようとしたときに後ろから追いすがって牙を打ち込み、その脚をとめる。最初の一打ちで地面に引き据えることなどできないだろうが、注意を後ろに向かせたところで胸や首筋に順次牙を打ち込み、時には離れつつ体力の消耗を待つ。
     皮を貫いて肉に牙を届かせられたなら、脚に手傷を負わせられたなら、これまでのように逃がれられはしまい。手傷を与えさえすれば、猟群の長と親衛群が獲物をしとめる。この群れの役割は果たされたことになる。
     一頭が距離を二歩詰めた。ゆっくり枝角は斜面に後ずさる。足元に踏みしめた岩くずが、ざりっと音を立てた。風が水を奪ったのか、積もった土は外気にさらされながらも完全には凍っていない。不安定だった。
     後ずさる枝角をみて狼たちは腹を決めた。枝角の探す抜け道を抑えて、足を進める。体勢を低く、後脚には力が込められた。喉奥の唸りは凶暴な合唱となった。
     襲撃は、緊張の均衡が破られたとき。
     張りつめた均衡、それをはじいたのは追われるもの――枝角自身だった。
     枝角は空に角を振りあげ、そして天を仰ぎ高く叫んだ。
     その叫びは警戒音でも危険音でもない。自分のあり方を誇示する叫びだった。
     自分に流れる遠く高き。そして猛き祖先の血を誇る叫びだった。
     肉と魂に編み込まれた神秘が、叫びに答えてときほどかれ、編みなおされる。枝角の体に空と森と雪の気が満ちる。
     捕食者がその隙を逃すはずはない。
     狼たちは次々と飛びかかった。たとえ、一頭の牙がかわされても、かわしたその先にもう一頭がいる。その一頭の牙が肉を穿つことができなくとも、次の一頭が急所を穿つための隙を作る。逃げ道がない枝角にはこの牙の雪崩をかわすすべはない。  そのはずだった。
     飛びかかった一の牙、その鼻先を枝角は軽やかに跳躍した。
     降り立った先は、あの斜面の岩棚である。
     崖から狭く張り出した硬く凍った岩棚。その上に枝角はいた。そして、頭をめぐらせ追っ手を睥睨する。
     狼たちは、枝角の体が変わっていることに気がついた。
     無骨で幅広く、雪や沈む泥濘を捉える蹄。それが、すらりとした脛と踵につながる小さな、だが洗練された蹄に変わっている。その蹄は狭い岩棚をしっかりと踏みしめ、わずかたりともバランスを崩させなかった。逞しく力がみなぎった胸と腿は厚みを失い、代わりに若魚のような張りを得ている。
     変わらないのは高く掲げられた枝角であり、その銀色の背である。
     二の牙、三の牙はかまわず駆け上がり、跳躍した。首には届かない。それでも腿の肉に届けば先ほどのような跳躍はできないはずだ。
     鼻先を再び枝角は跳び越えた。さらに上の岩棚に向かう。枝角はもう足を止めなかった、軽やかに、だが力強く岩崖を駆け登った。
     狼たちは幾度か崖を上ろうとし、そのたびに転がり落ちて、やがて諦めた。
     彼らは長の命を果たせなかったのだ。

     崖上に上りきると枝角はもう一度風に鼻と耳を澄ませた。足元の狼たちがざくざくとざらめ雪を踏む音の奥、最初に聞いた稜線を吹く風の音が届く。そして、それに溶け込むような遠吠えの声も。
     本当の追っ手はまだ追跡をあきらめていない。
     枝角はその角を打ち振って南を目指す。脛まである積雪を踏みしめてゆかねばならない。踏み出した蹄は元の広くたくましい蹄に戻っていた。
     聖苑の老爺は南への言伝を枝角に預けたときに告げていた。
     ――北の魔王“氷河”は定命の子が備えを整えるのを待つかもしれず、待たぬかもしれない。だが、恐れを抱かせんがため、兆しを見せつけるに違いない。
     わが声を届けるもの、“銀背の大角(おおづぬ)”の最も強壮なる末裔、汝“枝角”は木枯らしとなるのだ。南の人里に備えを促す木枯らしと。
     だが、覚え置け枝角。
     汝は凶兆の兆しであってはならない、混乱と盲目なる恐怖を運んではならない。汝は明晰な知らせでなくてはならない。
     災厄を触れ回るのではなく、危難を知らせる風でなければならない。
     われが汝に与えた役目がかくあるなら、“氷河”の狙いはこれとさかしまなことだ。
     “氷河”は汝を見せしめにして、定命の子らの嘆きと不安を煽りたてるだろう。
     冷たく鋭い氷を木枯らし、すなわち知らせを告げるお前の背に乗せようとするだろう。
     覚え置け、枝角。
     汝の道行、北天の魔性はすべて敵となり、氷河の眷属はこぞって汝を駆りたてよう。
     きゃつらは汝を生かして人里にたどり着くのを許すかもしれぬ。だがそのときには、汝は身体に消えぬ傷跡を、魂に癒えぬ凍えを深く刻みつけられているのだ。“氷河”がこの先、定命の子に下す傲然たる裁きの証しとして。
     そして、命を奪われるとなれば、汝の気高き角と蒼銀の背は襲来の先触れとして汚され、晒し者となる。
     行け、枝角。汝、誇り高く狡猾にして慮り深き者よ。
     行け、枝角。“銀背の大角”と“早蕨の蹄”の血に連なる者よ。
     往け、枝角。天の星が迎星会(げいしょうえ)の座にあるうちに。
     走れ――。

     風は届ける。
     獲物の足どりを。その臭いを。
     “凍牙(とうが)”は深く唸った。周囲を落ち着きなく歩き回っていた親衛群が耳をそばだてる。猟群の長の下知を待ち受けているのだ。
     ――名に聞く“銀背の大角”の裔だけのことはある。二つ夜で河を二つ、尾根を五つ、谷を三つ渡ったとはな。それでいて、吐く息に血の臭いはなく、汗に憔悴の香りはない。
     ――我ら、追いつけましょうか。
     ――雪鹿の足どりごとき、追いつけぬとあれば其奴の尾を喰い切ってくれる。
     牙を剥きだし、霜の鼻息を吹く。凍牙の眼の奥、ちろりと燃えた青い炎に、うかつな問いをした五年仔は尾をしまい込む。
     ――とは、言いたいが彼奴は尋常のものではない。おれひとり追いつけても、狩りの首尾は定かではあるまい。
     ――“頭骨齧り”はしくじりましたな。
     改めて口を開いたのは十年仔、親衛群を束ねる“凝り涎(こごりよだれ)”である。
     ――ただの雪鹿ではないとわかっていても、父祖のわざまで使いこなすとは考えなかったようだ。常の狩なら良い経験といえようが、今は許されまい。
     ――父祖のわざとは? 
     ――懐かしい臭いを聞いた、“早蕨の蹄”だ。聖苑の老いぼれめ、あやつに流れる血潮を父祖に繋ぎおった。
     ――されば、いかに。
     ――他の猟群を頼むは業腹、大主“氷河”に願いを立て、“北風の向こう側”より我が妻、うぬらの母を呼ばうとしよう。
     ――母御か! 母御に会えるのか? 
     親衛群の若仔たちが尾を振り切れんばかりに振る。
     ――騒ぐな! ぬしら、まだ乳房をくわえ足りぬとでもいうつもりか? 母御でなければ父殿の囲みの相手勤まらぬとの仰せ様なのだぞ、恥を覚えろ。
     はしゃぐ弟達のたてがみに凝り涎は次々と牙を立てた。たちまち悲鳴を上げて、若仔たちは転び伏せ尾を腹に抱え込む。長兄の仕置きに満足げに目を細めると凍牙は腰を据え、高く天を仰いだ。
     一声。
     冴えぬき渡った北天の空、狼の遠吠えが響き渡る。風に乗れ、北の果てを越えよとばかりに。
     曳曳と独唱がこだまする。その返りを待たずに仔たちも空に吠えた。
     今や、氷原のしじまは破られた。
     それは歌である。文字通り“氷河”の眷属となった亡き母を呼ぶ歌である。
     吠える。なんと貧弱な言葉だろう。およそかの獣たちの歌を表し足りぬ。
     だが、それを歌と言ってよいものなのか。猛々しく、力強く、狂わしい。歌と呼ぶには猛悪にすぎる。だが、遠吠えでは単純すぎる。獣の血を受けず、狼の魂を持たぬ人間はそれを語る言葉を持ちえない。
     声は響く、“北風の向こう側”に。

     ―――― ――――

     ひとひら、雪が落ちた。
     ありえなかった。

     足は止めない。駆足のまま枝角は思いを巡らす。湖の氷の上だった。

     迎星会の間、天の厳父と地の慈母は互いにまなざしを交し合う。そのために父は装い、母は飾る。その逢瀬のため、この節気のあいだに限り雲や霞が天地の間に入ることは許されない。
     年の終わりと初め、この間だけは。
     それでは、目の前をよぎったあれは何だったのか。風花か。降り下りた雪が風に吹きあげられたか。
     岸につく。わずかにためらう。湖から流れ出る河岸を行くか、木立を抜けるか。迷うその目の前に再び氷片が舞い降りた。
     さらにもう一つ、二つ。
     石英のように硬くするどい結晶だ。濡れた柔らかな鼻先に、それは突き刺さるようだった。
     熱を奪い、水となる。奪われた熱は霜のような底冷えのまま、枝角の底に積もる。

     河岸を選んだ。

     ざんざんと雪殻を波のように蹴立てて進む。流れにそう河原は本来、雪解けと生暖かい雨で地山から崩れ落ちた、岩や浮石だらけの川原である。
     しかし、締まった雪が覆う今は、足をとられることない確かな道となっている。立ち木がさえぎることもない。方向が行き先にそうのであれば、願ってもない回廊といえた。
     鼻を通して枝角は降る雪の臭いを味わう。乾き、何も命の痕跡がない雪だった。
     霜柱の上に残された土ぼこりの臭い。枯れ乾いた立ち木の枝の臭い。
     それは乾いた死の臭いである。
     枝角は“氷河”が“北風の向こう側”に去った後に生まれた仔である。その臭いを知るはずはない。臭いを知っているのは枝角の父祖、“銀背の大角”であり、その血である。
     枝角の血脈に残る記憶を呼び起こしたのは、聖苑の老爺であった。枝角に言伝を預ける時、老爺は枝角に祖先の名前を教え、そしてその名を呼ばせたのである。かくして、枝角の体に父祖の力が満ちた。
     今、その力がこの雪に怯えを感じている。
     捕食されるという怯えではない。枝角の感じる怯えはこの空と大地のあり方を脅かし、蹂躙する存在への怯えである。
     神異の臭いだった。枝角に敵意持つ臭いである。いや、枝角のみならず、北天の定命のものすべて、氷河の眷属以外のすべての温かい血を持つものを憎む臭いだった。
     不安が枝角の歩みを駆りたてる。
     河岸を離れ、斜面を登る。明らかに粉雪が舞い始めている。降る雪にもかかわらず、空気は乾き、冷たい。
     ありえないほど遠くからこの雪は運ばれてきている。木立の中から覗く天頂には一片たりとも雪雲は浮かんでいない。
     氷河の長く冷たい腕は、天父と地母の間すらかまわずに伸びてくるというのか。
     
     北天の地の主峰、地母の二番目の息子“きざはしの峰”の山裾を捲いて南へ。

     枝角の歩みは四つ足の獣に許された最速の進捗であろう。
     可能な限り最短の距離、最小の高低差、そして何よりも最短の時間。
     尾根を越え、谷を渡り、林を抜け、沢を上る。
     その行程は氈鹿(かもしか)の脚と角鹿の心臓によってのみ可能な道ゆきである。さらに、この酷寒をしのぐ毛皮と、奸智に長けた捕食者を欺く狡知がなければかなわなかった。
     二筋の古き獣の血が実を結んだ枝角なればこそ、北天で最高の猟群の長、凍牙の追跡を振り切り、かの眷属の囲みを逃れてここまで来ることができたのである。
     枝角は“きざはしの峰”最南の尾根、“名残り袖”にたどり着いた。この尾根を越えれば、人の子の居留地にたどり着く。
     そこに聖苑の老爺の弟子がいる。言伝を伝えるべき相手がいる。
     もとより老爺に預けられた言伝は人の子のみに伝えられるべき知らせではない。北天の定命のものすべて、温かき血を持つものすべてに伝えられるべき危難の知らせである。
     しかし、古き血脈に連なるとはいえ、一頭の獣にその知らせを北天の地にあまねく触れ回ることはできない。時が足りぬ。そして言伝を預けた老爺はすでに凍牙の牙にかかっているだろう。老爺の最後のわざこそが枝角であった。
     言伝をあまねく伝えるには、人の子のわざが必要だった。忘れてしまった血脈の神秘を、言葉と文字と呪物で補い広げた人の子のわざが。

     木立を行く。
     “名残り袖”の斜面で枝角は捲き道をとった。
     南へは“名残り袖”の尾根に向かってまっすぐ登る路程となる。“名残り袖”の尾根はむき出しの岩崖となっており、“早蕨の蹄”のわざを借りても越えることは困難に思われた。
     まして、雪が降っている。
     風も出てきた。吹きさらしの尾根となれば、風に脚をとられることも考えられた。
     斜面の林は立ち木に守られ、雪と風が弱い。
     枝の下の灌木はすでに半ば雪に埋まり、下枝は高いこずえで覆う空を競っている。林の中はまばらだった。
     枝角はしばらく尾根筋を下り、峠を探す道を選んだ。並足で木立を抜けつつ耳を澄ます。
     聴こえてくる音ははっきりとしない。
     雪を踏む蹄の音、時折折り砕く小枝の音のように、身近な明らかな音以外は、すべて真綿で包まれたようにくぐもってしまう。しんしんと降る雪が遠い音、かすかな音を吸い込んでしまうのだ。
     雪にひしがれたシャクナゲの枝を角で払いのけたとき、期せずして近く遠吠えが聴こえた。絶寒の氷、その軋む音がまとわりついた叫びだった。
     響きが高い。雌だった。

     猟群は風に乗って谷底を走る。
     凍牙と凝り涎はほとんど足跡を雪に残していない。続く十年仔たちも、残すのは落ち葉が新雪を刷いたかのような掠れ跡のみ。風に乗り切れぬ若仔たちですらほとんど雪に脚をとられずに駆け抜ける。
     “氷河”の差しむける吹雪に乗って獲物を追う。“北の魔王”の下僕となった狼なればこそのわざである。
     先頭を行く凍牙が駆けながら、一声長く高く吠えた。
     応える声が猟群の左手、尾根から届いた。
     ――母御だ、母御の呼び声だ!
     ――母御は先に居られるぞ!
     ――騒ぐな!群れを乱すな!囲みを作るぞ!
     騒ぎ立てる若仔たちを短く叱咤すると、凝り涎は凍牙に代わり群れに命を下した。
     ――このまま、沢をゆき彼奴を追い立てろ!河岸に寄せず、峰の腹を走らせ続けるのだ。その間に母御が尾根から彼奴の頭を抑える。ゆけ!
     下知に応じ、十年仔が一群れ猟群から分かれて斜面を駆け上り散らばる。勢子の役目をする狼たちだった。風からは降りたものの、若仔に比べればはるかに脚早く、確かな追っ手たちである。
     もう一度、よりはっきりと遠吠えが届いた。前の遠吠えが聴こえてきた方向と聞きくらべ、凝り涎は舌を巻く。北風そのもののような速さだった。そして、囲みを作るその手並みも未だおのれの及ぶものではない。
     ――ふん。
     得心のいった唸りを凝り涎は聞いたような気がした。
     ――余念なく“荒涼の狩”を続けておったな、霰月(あられづき)。変わらぬ差配頼もしいぞ。
     狩猟の昂ぶりに凍牙は身を委ねた。久しい昂ぶりだった。

     枝角は戦慄した。
     枝角を追ってきた狼はまだ若かった。
     他の獣なら知らず、枝角が連なる血脈の獣を狩るには幼かった。枝角自身のわざでほぼ三日逃れることができたのだ。しかし、その狼たちの後ろ、北風に乗って運ばれくる遠吠えは決して枝角を逃さなかった。
     ――牙は届かぬ、いまだ足跡しかこの眼には見えぬ。だが、俺はお前の臭いを捉えている。お前がどこにいるかを知っている。そして、追いつめている。
     遠吠えはそう告げていた。いくつもの峰と谷を越えて獲物を追い詰めるわざ。それは間違いなく、追っ手の頭、猟群の長が枝角にならぶ血脈にあるという証であった。
     そして今、名残り袖の尾根から応えたのは、雌狼の遠吠えである。
     追っ手の狼たち。彼らは雄だった。少なくとも、猟群の指揮を取り遠吠えをかわすもの達は雄だった。狼の群れは雄と雌のつがいとその子供たちからなる。そして、そのつがいが裂かれることはどちらかの死を持ってのみ。
     であるなら、応えたのは猟群の長のつがいに違いなかった。獲物を追いつめる手管も、仕止めるまで足を止めぬ執念も、北風のむこうにいる夫に並ぶはずだった。
     枝角は疾走を開始している。斜面を下った先、沢を目指した。
     確かに林は外に比べ根雪は薄い。下生えは雪の下に埋もれている。だが、それは追うものにとっても同じだ。
     一方、雪が深い林の外ならば、自分の長い足を生かすことができる。追いすがってくる狼では足が沈み腹をこすり、枝角を追うことはできない。
     林は斜面にそって続いている。斜面の下には今は凍った川があり、狭い通廊のような谷底を形づくっている。そこならば吹き積もった雪が深いだけでなく、邪魔な立ち木もない。距離を離せば振り切れる。
     枝角はそう判断した。
     枝角は凍牙のわざを知らなかった。自分が持つわざがそうであるように、捕食者のわざは父祖から伝えられた、走るわざや狩り立てるわざ、追い詰めるわざだと考えていた。“氷河”の助けは降りしきる雪だけと考えていた。

     沢からの吠え声が、その間違いを思い知らせた。

     霰月は吹きすさぶ岩尾根に降り立った。
     霜のように白い房毛が背に一筋流れている。“名残り袖”の斜面から吹雪が横殴りに吹きつけるが霰月は意にも介さない。
     遠くの山影に雲がちぎれ飛び、風が雪を運ぶ。地上の吹雪とは関わりがないとでもいうのか、夜空はあくまで暗く深く冴え渡り、蒼い月光に満ちている。
     夫の咆哮が届いた。
     強く、艶やかに応える。一声。
     付き従う吹雪が霰月を中心にしてつむじ風となる。風向きが変わった。斜面を駆け下る颪に乗り、霰月は獲物にむかって駆け奔った。

     “名残り袖”の山襞をひたすらに横行する。いくつもの沢が山腹を刻み、枝角はそのすべてを駆け上がり、飛び越えねばならなかった。
     歯がゆい。
     沢を跳び越すたび、斜面の上下から迫る足音が追いついてくる。そして、その囲みはだんだんに狭められていく。
     尾根から迫るものか、谷から追い詰めるもの、どちらかがいずれ枝角の逃れる先を抑えるだろう。そうなれば囲みは閉じられる。
     若仔の囲みならいざ知らず、凍牙とその妻の囲みをたやすく逃れられるはずはない。つまりは今この逃避行こそが枝角の戦いであり、しだいに囲みを狭められている今は敗北の歩みにほかならない。逃れられなくなったなら、そこで枝角は負ける。
     鼻の奥が痛い。凍てついた空気が鼻腔を逆に灼く。血の臭いが吐息に混じっている。
     枝に守られた林の下であるにもかかわらず、雪が枝角に向かって吹きつけてくる。突き刺さるような氷片は、枝角自身が矢のごとく疾走しているためか。それとも、それ自身が悪意を持って枝角を打ち伏せようとしているのか。
     振り上げた前蹄が雪面を引きずる。足が上がらなくなっている。積雪も増している。乾いて細かな粉雪が、踏みしめる蹄の下から逃れでてしまう。それはいうならば、乾いたぬかるみだった。
     沢に向かい駆け下る。吹き溜まりの雪に足をとられ、枝角は初めてその歩調を乱した。
     気取られてはいけない。必死で足取りを取り戻す。
     転ぶわけにはいかない。追っ手は抜け目ない。
     自分が弱みを見せたなら、畳みかけてくる。

     それまで乱れなかった雪を蹴立てる音が乱れた。
     凝り涎が十年仔を率いて、猟群から分かれる。
     ――凝り涎、掛かり申す。父殿は止めを!
     ――一の牙は霰月に任せよ!貴様は二の牙だ。彼奴の足を止めろ!
     凍牙は足を速めた。見る見るうちに後続の仔供たちが引き離される。囲みを閉じるときが来たのだ。
     しッ、鋭く息が漏れる。ほぼ時を同じくして霰月の叫びが届く。夫婦と長兄、三頭の狼たちによってとどめの囲みが編まれた。

     息子の機運をはかる鼻は十分に育った。霰月の腹の底が静かに今は遠い感情で満たされる。それは喜びであったかもしれない。だが、一瞬に過ぎない。
     一の牙として獲物の鼻先を抑える。 
     山襞を、木立を、沢を。颪の風とともに霰月は乗り越える。雌狼の体は見えない。ただ、前足と首から先、狼の頭に牙と瞳が吹雪の中に浮かんでいる。霰月は狼形の風華と化していた。

     勢子の追い声が遠ざかった、引き離したのか? 違う。取り囲む吹雪も風も、そして畏怖を呼び起こす臭いも皆、次第に近づいてくる。
     足手まといを置き去りにしてきたのだ、仕止めにくる。
     凍牙と妻と、あと一頭。おそらくはもっとも年かさの仔だろう。足の競い合いになる、この三頭を振り切ることができれば逃げられる。

     ざんと、木立が風に鳴った。
     颪? 
     違う、枝角は跳躍した。
     体に凍気が突き立った。
     霰月による一の牙だった。
     斜面の上から、風に乗り、首元を狙って。
     とっさの跳躍で枝角は致命傷から逃れた。必殺の牙は腰に逸れる。冷たい牙だった。
     勢いで牙は流れ、皮を切り裂くにとどまる。
     だが、十分である。もう枝角はこれまでのようには走れない。
     そして、枝角は吹き溜まりに転び伏せた。

     霰月は身を翻して風から降り、木の幹にさかしまに取りついた。そして、さらにもう一度跳躍する。
     起き上がろうとした枝角のくるぶしを捉える。噛み砕かんと顎に力をこめる。
     枝角は身をよじり、角を振るった。霰月の腹を引っ掛け、振り捨てる。
     だが、手応えはない。代わりに、くるぶしのいましめが解かれた。
     霰月は自分から牙を離し、再び距離をとったのだ。その姿は枝の上にある。
     枝角は、起き上がると尾根筋に蹄をむけ、跳躍した。
     傷つけられた腰からは、凍気が染みこんできている。つけられた傷よりもその凍気が枝角の命を縮めるのだろう。
     だが尾根筋には今、狼はいない。凍牙の妻は高さを利して下り降りてきた、そして尾根から囲みを作っていたのはこの雌狼一体のみである。
     逃げる。
     尾根筋から、峠を越え、林を抜ければ。
     この囲みを逃れれば。
     穢れた凍気がこの心臓に届く前に。
     あとに舞い上がる雪を残し、枝角は流星となって駆け上がる。
     目指すのは、“名残り袖”の峠。
     そこを越えれば居留地へ続く丘陵へ出る。その先は駆け比べだ。
     氷河の領土はすでに抜け出している。氷河の風はその先まで届くか。“北の大主”の力はそこまで届くか。

     ――凝り涎、この風に!
     霰月の声とともに風を巻き、吹雪が下ってくる。
     凝り涎は咆哮をあげ、下ろす吹雪に呼びかけた。吹き抜けた吹雪の向きが変わった。
     吹き降ろす風が、吹き上げる風に。追い風である。
     凝り涎はその風に乗った。霰月の目の前を一瞬で駆け抜ける。続けて霰月もその風に乗る。
     凝り涎の眼前に、枝角の姿が迫る。右の後ろ足、跳躍が低い。
     風が衰える。
     雪を蹴った。
     二の牙が飛びかかる。

     右の股を捉えた。
     顎を固め、四肢を張る。顎と首、力の限りに獲物を引きずり倒す。
     倒れない。
     枝角の蹄は、林床を踏みしめ、その体を倒れさせなかった。
     顎に力を込める、肉か筋か骨か、どれかを砕く。その間に、父と母が来れば決まる。
     蹄が凝り涎の胸をしたたかに打った。枝角の後ろ蹄が凝り涎を蹴り飛ばしたのだ。
     胸骨のひしぐ音とともに凝り涎の体が宙をきりきりと舞う。
     血飛沫が熱く積もる雪を溶かした。凝り涎の口から一筋、そして、枝角の噛み裂かれた右股から一筋。
     まだ逃れられる。
     枝角にとって、走り逃れることこそが闘争の手段であった。
     そして、受け継いだ父祖の血脈に誓って、闘争を止めることはできなかった。
     
     凍牙は血の臭いを嗅いだ。昂ぶりが喉奥から知らず溢れた。
     咆えた、吼えた、吠えた。
     その昂ぶりが、気づかねばならなかったことを忘れさせた。
     追っているのは彼らだが、枝角を欲しているのは彼らだけではないのだ。

     彼女は風だまりに伏せていた。
     そこは岩場を越えられない角鹿や毛長牛が“名残り袖”を捲いて南にゆく獣道だった。 鞍部の影であり、風はそこにたまる。臭いはここに集まり、伏せる彼女の臭いは出てゆかない。
     待つことは彼女の天性である。何時間であれ動かずに待つことができた。獲物が通るとわかっているのだから。
     三角形の耳が闘争の音を聞きつけた。幅広く丸い前足にしまわれた鉤爪、それに力が込められる。音を立てずに襲撃の態勢をとる。 
     丸い瞳がいかなる兆候も見逃すまいと見開かれる。しなやかな体躯がたわみ、力が満ちる

     再び、風が吹きつけた。後ろ、谷筋から追いかけるように。
     枝角は駆けた。風とその速さを競う。
     背中から、息吹が迫る。
     蹴立てる雪がもどかしい。追っ手の足音はほとんど聞こえてこない。なのに、風の音の中、あの追い詰める唸りがずっとやまない。
     延々と続く雪の斜面。その先、白い地が途切れ、暗い空が見えた。
     峠である。
     背後から吹き付ける吹雪がその稜線を削っている。
     風は吹き上げている。
     妻、息子。次は猟群の長。仕留めに来る。風に乗って。であれば――、
     稜線を飛び越えた。上りから下りへ。
     そして、風向きが変わるのには、一拍の時間がある。
     その一瞬、首元に迫る唸りが遠ざかる。
     枝角は、もう一度角を振り上げた。
     そして叫ぶ。遠き父祖、“銀背の大角”の叫びを。
     どくん、誇り高き血潮が脈打った。
     熱い。
     炎が体を巡るようだった。沈む雪、足取りを奪う乾いたぬかるみはもはや枝角の足を妨げない。足が上がる。体が軽い。
     肺が膨らむ、そして心臓はこれまでないほどに早く、だが強く脈打っている。それなのにあの血の臭いが吐息から消えている。
     まだ、走れる。
     もっと、走れる。
     早く、遠く。この血潮の続く限り。
     枝角はついに囲みを破った――。

     雪煙が上がった。
     枝角の首に牙が突き立てられた。
     襲撃者と枝角は一塊になって吹き溜まりの中に転がった。
     頚骨がきしみ、延髄が押しひしがれる。
     ひゅうと枝角の喉から叫びの残響がもれ出でた。誇り高き熱き血潮が雪の上に降り注ぐ。転がった枝角の肩は鉤爪に固く押さえ込まれている。

     襲撃者は白い剣歯虎であった。
     稜線を越えた枝角に飛び掛り、爪で引きずり倒し、首に牙を埋め、強靭な顎の力で枝角の巨体を投げ倒したのだ。
     転がったまま、剣歯虎は枝角の腹を蹴った。後ろ足の鉤爪が白い枝角の腹を引き裂き、雪の上に新たな血潮を飛沫かせる。腹膜が破れ、腸が引きずり出される。
     枝角の体から抗おうとする力が抜けた。
     あと一噛み。顎に力をこめれば狩は終わる。頚椎は砕け、延髄は潰され、動脈は破れる。なんの手間もない。

     仕留めずに牙を抜いたのは、追跡者がいたからである。

     凍牙は動きを止めなかった。
     おのれの二倍ほどはある剣歯虎に向かい突進した。
     今が好機だった。逃せば、勝てない。
     剣歯虎は態勢を崩している。吹き溜まりの中から今しも体を起こそうとしている。
     低く、雪を擦るばかりに低く。凍牙が狙うのは唯一つ喉首だった。
     打ち落とそうとする剣歯虎の鉤爪を凍牙は逃れ抜けた。
     巨体が正面から衝突した。転がる体に立ち木が数本へし折られる。枝から落ちた雪が二頭に降り注ぐ。
     捕らえていた。
     喉元に喰らいついていた。
     凍牙はその顎に渾身の力を込めた。霰月と凝り涎が追いつくまで、少なくともそれまではこの牙を離すわけにはいかない。
     これだけで勝てはしない。それはわかっていた。
     彼の牙は鋭いが、この剣歯虎の首を折ることはできない。
     ただ、気管を押しひしぎ消耗させることはできる。
     そうなれば、数の多い自分たちに勝算がある。

     剣歯虎の鉤爪が、凍牙の肩を引き裂いた。
     怯まない。
     剣歯虎は背を丸め、強靭な後足で凍牙の腹を蹴った。
     二度、三度。
     鉤爪が凍牙の腹を打つたび、固い霜が飛び散る。凍牙の体を守る霜の鎧、それが削られてゆく。
     離さない。
     その凍牙の赤い視界の端、霰月の姿が映った。
     ――来い。

     凍牙の体から血が流れていた。
     怒りが霰月の胸にあふれ出した。
     その牙に蒼く光る凍気を満たし、霰月も剣歯虎の喉首に牙を突きたてた。
     もがく剣歯虎の爪が霰月の体を捉える。しかし、氷片が散るのみだった。霰月の体は文字通り吹雪から形作られているのだ。
     喉を蝕む霜が剣歯虎の体に凍み入ろうとする。
     ――勝てる。
     凍牙は確信した。彼が流し失った血はもう命を繋ぎとめることはできないだろう。だが、霰月と凝り涎がいる。自分が身と引き換えにこの略奪者を葬り去れば――。

     剣歯虎が咆哮した。
     その喉に満ちた力が二頭の狼を弾き飛ばした。
     ――ああ。
     遠く高く、そして猛き祖先の血を誇る咆哮。
     この獣もまた、枝角や凍牙と同じ獣だった。
     誇り高き血脈につらなる獣。
     確かに、そうでなければあの枝角を待ち伏せることなどできようもない。
     剣歯虎の牙が霰月の背に突き立てられた。霰月は身をよじる。その体が吹雪に変じる、しかし剣歯虎はそれを逃さない。剣歯虎の顎にある霰月の背、そこのみ吹雪へと変わることができない。
     凍牙は突進した。ただ、突進した。そうすれば剣歯虎が妻を落とすかもしれない。それだけが望みだった。
     剣歯虎は首を振るい、凍牙にむけて霰月を無造作に放った。凍牙はとどまれずに霰月の吹雪の体を突き抜けた。
     そしてその喉首を剣歯虎の牙が襲った。
     凍牙の頚骨は噛み砕かれた。

     葬った狼の屍を振り捨て、剣歯虎は枝角に歩み寄った。
     枝角にはまだ息があった。
     かすかに動く蹄が、赤く血で汚れた雪面を掻く。
     焦点を失った黒い瞳はまだ、南を見つめている。ひしがれた頸をもたげようともがくその動きがだんだんと弱いものになってゆく。
     剣歯虎はかまわずに枝角の腹を引き裂き、鼻を突っ込み咀嚼をはじめる。
     肝臓を引きずり出したとき、枝角の口から何か、言葉が紡がれた。
     剣歯虎の敏い耳がその言葉を拾う。捨て置くことを許さない力がその言葉にはあった。
     剣歯虎は耳をそばだてた、その耳に枝角が口を寄せる。
     枝角は老爺から伝えられた言伝を剣歯虎の耳にささやいた。

     ―――― ――――

     白き剣歯虎を最初に見つけたのは、迎星会の舞を納める娘たちでした。
     剣歯虎はその口に見事な枝角を持つ角鹿の頭を咥えており、胸は血に赤く染まっていました。
     迎星会に不思議があるのは子供でも知っていることでしたし、真なる狩の主である白い剣歯虎が人里を訪れるのは何らかの理由があってのこと、娘たちは怯えつつも、居留地の巫覡を呼んだのです。
     北の山の奥、聖苑で行を修めたその巫覡は野の言葉で剣歯虎に話しかけました。
     短い挨拶のあと、剣歯虎は巫覡の耳に口を寄せ、老爺の言伝を一言一句違わずに伝えました。そして枝角の頭を巫覡の手に預け、促すように巫覡を柵へ押しやったのです。
     柵の中に戻った巫覡は口を開きました。
     ――この冬は“氷河”の冬だ。備えを固めよ、毛長牛を集め、寒さで死なせるな。
     ――犬橇使いを他の居留地にさしむけてこの報せを伝えよ。迎星会のあいだしか居留地の外を行くことはできまい。犬橇使いには戻ってくるなと言っておくのだ。
     ――いそげ、今のうちにもう一度薪を集め、柵を高くせよ。寄せ手は吹雪だけとは限らぬ。
     巫覡は冬の備えの毛長牛を一頭、差し出すように部族の長に言いました。
     ――この虎は、本来の使者ではない。使いの任を受けた見返りを求めておる。
     ――よこさぬなら。その分を冬なり秋なりに腕ずくでさらってゆくといっている。物惜しみはすまい。
     やがて引き据えられてきた毛長牛の首を噛み折ると、剣歯虎はその体を引きずって林の中に消えていったのです。
     命を受けた居留地の民は慌しく駆けだしました。犬は小屋から出されて肉を与えられ、橇には獣脂がひかれました。
     その年、迎星会のあとは、なんと海風の月まで空は灰色の雪雲に覆われつづけました。
     時折、雲が晴れることはありましたが、決まって月の出ない夜であり、そんな凍てついた夜には十分に太っていない毛長牛の額が凍って割れました。
     しかし、枝角が携えた言伝により北天の地の民はもとより、温かな血を持つ生き物はよく雪と寒さに耐えて雪解けを迎えたのです。
     その冬は腹をすかせた狼の遠吠えがひときわよく聴こえたといいます。
     ―――― ――――

     北天記、禽獣の巻、第八輯――。
     枝角の頭を持って帰った巫覡は小刀を使い、枝角の頭から皮を剥ぎ肉を落とした。そして、その角の枝の間に晒した海魚の腸をはり、弦の調べを整えて、見事な角竪琴を作った。
     
     同じく、山岳の巻、第弐拾壱輯――。  巫覡は命を賭して、その角竪琴を“名残り袖”の岩山に据えた。
     この巫覡は居留地に戻ってきて告げた、そのときには白梟に身を変えていた。
     ――氷河の冬にはつねに北風が名残り袖を越えてくる。
     ――これ以降、枝角の角竪琴が風に鳴ることがあったなら、それは氷河の冬の知らせである。柵を高くし、毛長牛を太らせ、氷雪に備えよ。
     そして、巫覡はすぐに旅立ってしまった。
     人は途中で息絶えた巫覡の魂が白梟になって戻ってきたと話した。

     白い剣歯虎については角竪琴について記した箇所の拾遺に言及がある。
     ――時に心得違いのものがこの宝を求め、名残り袖の山に入ることがあったが、そうしたやからは皆、白い剣歯虎に襲われ、見せしめとして一人のみ、死体で、あるいは瀕死の怪我を負って居留地に届けられたという。
     ――枝角の角竪琴は今もなお、風にその弦を鳴らしている。そして北天の民は木枯らしの中に弦音を聞くとその年の冬の備えをさらに固めるのである。

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