豊穣のてのひら


     北の辺境を彩った短い夏が終わろうとしている。

     赤毛の女は、がっしりと張った肩をなだらかに下ろして、馬上の男にくちづけを返した。
     「今年も、行くのかい」
     唇がおだやかな笑みを浮かべて問うた。毎年繰り返される問いであった。
     「今年も、来ないのか」
     男の口調も静かな笑いを含んでいた。答えの代わりにもう何度となく返した問いであった。
     「行かない。ここがあたしの土地、あたしの守るべき子供達の土地だもの」

     逞しい女の片腕は、手首から先が無い。戦いで、落とされた。剣を持つ手を無くして、鬼娘と呼ばれた怪力の女戦士、攻め手の先頭を勤めた女は、砦の守り手となった。北の守り、不落の砦。砦の門を破ろうとした愚か者の首は、片腕の鬼女にねじ切って落とされたそうな……剣を持たなくなっても女は鎧を脱がなかった。

     男とは、剣を握っていた最後の夏に、出会った。男は、夏嵐の二つ名を纏っていた。どの国にも仕えぬ放浪者、太陽の熱気を孕んだ嵐の申し子、四方の風が愛した戦人のひとり。

     太陽の恵み少なく、都からの使者は無理難題ばかりを云い、さらに北の部族との小競り合いも絶えない騒がしくうすぐらい夏に、男は辺境の砦に流れ着いた。融かした黄金のような男の髪の色を、戦いに心無し倦んだ女は、陽光のようだと思った。
     肩を並べて戦ううちに、二人は恋に落ちた。夏が終わるまでに戦いに決着をつけると男は云った。そして夏の終わりにはこの砦を出てゆく、お前も共に来ないか。
     女は、行くつもりだった。もともとこの地にも流れ着いた女だった。辺境の地に愛着はあったがしがみつきたくもなかった。
     そして、最後の戦いで、女は剣を持つ手を無くした。
     「あたしは、行けない」
     女は泣きじゃくりながら云ったのだった。
     「あたしは戦うことしかできない。だから、あんたと一緒に行ったら、あたしはすることがなくなってしまう。あたしはここに残らなきゃならない。あたしはもう剣にはなれないから、盾になる。砦を守る盾になるから」

     女は残り、男は一人で行くしかなかった。

     しかし、夏の後に秋が巡るように、秋の大地が女の護り手になった。北の守り、不落の砦。あの砦を守る女は怪物、その腕には大地の力を宿し、攻めたところで決して退かせることはならぬというぞ。

     そして、男がひとりで去った後、女は身籠り、母となった。
     年が巡るごとに、女は多くの子の母となった。己が身に身籠るばかりでなく、秋の前に必ず夏が巡るように訪れる男が伴ってくる、親を無くした子供達も女のもとで育った。女のもとで育ったすべての子供達に、男は隔てなく父であり、女は隔てなく母であった。子供達の幾人かは辺境に残り、また幾人かは父と共に旅立ち、あるものは母の元に帰り、あるものは帰らず、そしてあるものは両親よりも早く帰神した。辺境に残った子供達も、幾人か戦いで欠けた。
     子供の悲報を聞く度に、女は逞しく豊かな躯を大地に叩き付けて泣きじゃくった。なぜ死んだ、なぜあたしより早く死んだ、なぜあたしの守りがまだ必要なくせにあたしの手の中から出ていった、愚か者!
     そして、訪れた男に泣き疲れた笑みを浮かべて云うのだった。
     あたしはあの子に生き抜く術を充分教えなかったかもしれない。もしあんたが今年、子供達の誰かを連れていくのなら、死なないように、あたしより早く死んでしまったりしないように、ちゃんと教えてやってよ。
     応えて頷く男の顔は、いつも深い影に覆われて表情はわからなかった。

     今年も、男は去ろうとしている。
     女は腕を伸ばし、父の側に馬を寄せる子供たちの頬を撫でてやると、眩しげに目を細め、笑った。
     「とうさんみたいに毎年戻って来いとは云わないからさ、たまには顔を見せておくれ。それに、何度も云うようだけどさ、かあさんより早く死ぬんじゃないよ」
     「難しいな、かあさんバケモノなみだもの」
     「莫迦をお云いでない、あんたはそのバケモノの息子だろ。……さ、お行き。勇ましく、賢く、生きてゆくんだよ」
     「大丈夫、とりあえず都にいる兄さんを頼るからさ」
     「都の……ああ、あれはねえ」
     女は軽く鼻に皺を寄せる。
     「どうもあの子ばっかりは不肖の息子だよ。なんだか派手に暮らしてるって噂を聞いた。よくないよ、会ったら一度戻って来るようにお云い。かあさんが意見してやるからってさ。まったくもう……かあさんはあんたたちに遊び人になってもらうつもりはないんだよ」
     「近衛隊長もかたなしだな」
     男が短く笑った。
     「あたりまえさ、あたしはこんな暮らししか知らない。だからかもしれないけどね、子供達にはまともな開拓者になってほしいんだよ。自分の住む場所を切り開いて、そこを守るために剣を取るのさ」
     云ってしまってから、女は照れたように笑った。
     「さ、もう風が変わるよ。夏が終わる。お行き」

     北の果て、辺境の砦。
     静かに秋が立ち上がり、女を背後から抱き締める。
     暮れかかった日射しが、男と子供達の駆け去った方向をいつまでも見遣って立ち尽くす女の頬を照らし、女の色褪せた赤毛が応えて一瞬、燃え上がる。
     女は左手でそっと右手を抱いた。いかつい肩がなだらかに伸び、夏の最後の光の中で、女はほっと息を吐く。
     女はいつしか年老いて、もう身籠ることはない。
     けれど、確かに実を結び、育ち、巣立ってゆく命が、この手の中に託されている、と女の唇はつぶやく。
     もう剣を握ることのない手、大地に融けた右のてのひらが、確かに告げている。
     あたしは夏に愛されたもの、秋に守られたもの、そしてすべての子供達の母親なのだ、と。

D16'HomePage
Read out Tapestry