白き風に月落ちて
北へ北へと戦い進んできたので、今年は夏も秋もずいぶんと短かった。南国育ちの兵士たちにしてみればひどく気の早いものであろう粉雪が、幾片か風に混じりはじめている。 戦の勝敗は夜が明けぬうちに決した。勝ち戦だった。敵の首魁は捕らえられ、その配下の名だたる将はことごとく討取られた。それと引き換えのように妾の仲間がひとり死んだ。死ぬ予定には入っていない女だった。軍神の恩寵厚い女だった。戦場には慣れ親しんでいたはずの女だった。死ぬはずのない女だった。 だが、死んだ。 妾の大事な仲間は、いつも妾の目の前で死んでゆく。 シモオヌ。秋の風のシモオヌ。命を吹き散らすシモオヌ。死神のシモオヌ。それが妾の名前。 あんまりだ。 妾の悪名はもうずいぶんと高かったから、月天使の神殿からの使いが妾を訪ったときは耳を疑った。 「妾の名を知っているのか?それでも妾を召し出そうと?」 「貴女の御名はシモオヌ。白秋の風から研ぎ出された剣のただ一人の遣い手。何か違いましたかね。……おや、怪訝なお顔をしておいでだが、日の当たらん仕事なのがお気に召さないっていうんじゃあ、よもやありますまい。ま、貴女に加勢していただかなけりゃこの戦、まず勝ち目はございませんのでね」 問うた妾に、使者はにやりと笑って応えたのだった。 「せっかくの腕をお持ちだ。敵方の肩を持ちたいと云うんでなければ、是非いらしていただきたいもので。それに、今度ばかりはお気遣いは無用でね、『死神』の姫君」 続けてぬけぬけと云い放った。 「仕事ってのは、相変わらずだ。小人数で敵さんの寝首を掻いて歩く。で、こっちで貴女の相棒にって用意してあるのは、うちの姐さんでね。血まみれ月だの死神の鎌だのってろくでもない二つ名でいやぁ、これまた負けず劣らずな厄病神で。貴女と褥を共にした野郎はどうもその先の命が短くなる星の巡り合わせが待ってるらしいったって、今度は野郎でもなし、死神同士ってんなら問題はないでしょうさ。それよりはうちの姐さんが貴女に御迷惑をかけやしないかって、そっちのほうがこちらのもっぱらの心配事なんで」 そこまで云ってもう一度にやりと笑った。唇の端から牙が覗いた。 「お前、その『姐さん』とやら付きの『牙』なの?」 「御明察」 狼、蛇、蝙蝠は月天使に従う神獣で、それら獣たちのなかでも特に神の恵み深きものは人の姿を与えられて神殿に仕える。話には聞いていたが、直に会うのは初めてだった。 「で、お受けいただけるんですかね、あんまりお喋りしてるわけにもいかないんで」 「……承知。『姐さん』とやらに会わせていただこうか」 『鎌月』のサリューシャは笑わない女だった。整った怜悧な面ざしをしていたが、顔の半分を銀灰色の髪で覆って隠していた。それが銀青色の瞳とあいまって、ひどく険しい、冷たい表情に見えた。自分よりも愛想のない娘に出会うのは初めてだった。 「片目が抉れているから」 顔を覆う訳を問うとサリューシャはこともなげに云った。 「治せないのか」 神の恵みの力を借りての治癒は神官たちのお手のもののはずだった。 「治ったあとだ。邪眼に生まれついたから、自分で抉った。仕方がない」 邪眼の生まれつきというにしては、サリューシャはよくよく月天使の恩寵に恵まれたと見えた。高徳の神官というわけでもあるまいに、奇跡は彼女にとっては当たり前の日課だった。祈れば傷兵はたちどころに癒え、死の淵に落ちかけた者でさえ蘇った。 「簡単だ。あたしは憎む者、殺す者だから。そして、月天使の心にかなうものは決して傷つけないから。……知っている?月天使は、……いいえ、月戦天使は……怒る神、悲しむ神、そして死をもたらす神。悪しき者を狩るためにのみ在る神。月戦天使の憎むものを最も多く殺すものが、最も神に守られる。……そういうこと」 凍り付いた表情で、つぶやくようにサリューシャは云った。 確かに彼女はより多く殺す者だった。 まるで日々の祈りの言葉のように、彼女は死を命ずる聖句を口にした。言葉はそのまま月戦天使の剣となって敵の命を奪った。血に濡れた刃をひらめかせて敵陣を駆ける時も、自陣に戻って兵士たちの手当てをするときも、そして朝の祈りを捧げ賛美歌を口ずさむ時も、彼女にとっては同じ毎日の勤めなのだった。 短い祈りが月戦天使の力を招き寄せるまでの間を、二人の『牙』が埋めた。月の銀と夜の漆黒の狼がサリューシャの両脇を守った。まるで、『死』とその二枚の翼のように。 神殿の扉を一歩踏み出せば、あたしは月戦天使の刃。死をもたらす神の使い女。 サリューシャはひんやりとした声でそんなことを云った。 そして、床に着く前の夜の祈りの時でさえ、敵の砦に潜む時と同じく、彼女は全く安らがないのだった。 神に愛されるよりは人に呪われたほうがまだよいのです。 押し殺したような声で妾にそう告げたのは、サリューシャに仕える二人の『牙』のうちのひとり、『月影』と呼ばれる男だった。痩せた、陰の深い男で、しなやかな銀狼の姿でサリューシャに従っていることが多かった。妾への使者に立ってきたもうひとりの従者、陽気でしたたかな『十六夜』とは乳兄弟であるらしかったが、似通っているところは何もなかった。 神に愛されるよりは人に呪われたほうがまだ幸せだ。あのひとは、『鎌月』は、人の世の幸いを知らないのです。 サリューシャと行動を共にしてひと月になるかならないかの頃、殆ど妾とは口をきくことのなかった『月影』が、急におもいつめたような顔をしてやってきて、妾にそう告げたのだった。 「確かにつきあいやすい娘ではないね。でも、神官として望まれるだけのことは全てこなしているし、それだけ認められてもいる。何があの娘の不幸?」 「そう思われますか?それだけですか?」 「それだけ。笑わない娘だとは思ったけれど。……ああ、それと」 妾は微笑んで言葉を継いだのだった。 「腕のいい娘だね。なまじっかな男よりよっぽど頼りになる。こんなところじゃ、愛想よりもそっちのほうが大事だもの。……神に愛されていると云うなら、余計いい。こちらも恩恵のわけまえに預かれるから」 「何故あのひとが月天使の、いや月戦天使の恩寵を被っているのか、御存じですか」 噛み付くような口調だったが、 「知らない。興味もない」 「……あのひとは、御自分を憎んでいらっしゃるから」 「それはまた酔狂な。それで戦場でよく生き延びられる」 「自分を憎む。自分の所行を憎む。死んで償えるものでもないことを知っているから、代わりに死地に赴いて、勝つ。それで」 「……月戦天使に、愛された、と」 言い分は分からないでもなかった。月戦天使は月天使自らの過ちゆえに生まれた分身の神。かつて月天使が己に従う神獣たちと戯れている姿を見てひとりの人間があげた叫び声から最初の恐怖が生まれ、そしてそこからあらゆる悪しき者がこの世にはびこる扉が開いたと云う。月天使はそれを悲しみ、己が身を分かって戦神、月戦天使を生み出したという……。 あのひとは、あんなお生まれゆえに月戦天使の使い女となられた。そして。 「同情など、必要なのかしら」 『月影』の言葉を遮って、妾は云った。 「どんなお生まれかなど、知らない。あの娘の知らぬと云う幸いにも興味はない。第一……お前の云う幸いが、あの娘にとっての幸いだと、どうしてお前にわかるの?」 そう云いながらたぶん妾は、うすく微笑んでいた。 「……ああ、そうか。お前、あの娘のことを」 端から飛び出してきた『十六夜』がにやにや笑いながら『月影』の襟首を掴んでくれなかったら、本当に腕の一本も食いちぎられていたかもしれない。 「それを云っちゃぁ、兄貴があんまり可哀想すぎるんでさ」 云いながら『十六夜』は、このときばかりは本当に悲しい目の色で微かに唇を曲げた。 幸いが何かなど、知れたものではない。 妾は生きてさえいればそれが幸いなのだと思っていた。そして愛するものが死にさえしなければ。 妾は、ようやくあの娘の表情が動くのを見たのだった。 殆ど泣きそうな顔で、初めて見せた笑顔だった。 「シモオヌはあたしのことをとうとう疎まなかったね」 「そんな理由などないもの」 「月戦天使の使い女でも?」 「いいことじゃないの」 「殆どは、そのことだけであたしを疎んじる。死に近すぎる女だと。小さな子供も分別がつくようになればあたしから逃げていく」 妾は肩を竦めた。 何と云われようと知らぬ顔で凛と立っているように見えたけれど、こんな弱音を吐くとはね。 「『月影』は好いているようだけれど」 「あいつは一番悪い。あたしがこんなふうなのを悲しんでいる」 「……だとすればあんたがもっと悪い」 妾は云った。 「そんな泣いたような顔で笑うぐらいなら、笑わないほうがまだいい。往生際の悪い」 「……そう」 まるで何かを決心するかのようにサリューシャは頷き、それから顔にかかった髪をかきあげた。指の隙間から傷跡が見えた。 「そう。月戦天使の使い女でいるつもりなら、それを不幸と思うようでは」 「思ったことはないわ」 ふいにサリューシャはこちらを向いて、晴々と笑った。何ゆえかはわからなかった。けれど、顔の片側を覆った笑みは、ひどく柔らかく美しかった。 「ありがとうシモオヌ。あんたが相棒でよかった……それじゃ、また後で」 それから幕屋をそれぞれに出て、それきりだった。 焼け落ちた敵の幕屋で、月戦天使の紋章、片翼の月輪をつけた鎧が見つかったという。そして、二人の『牙』は、サリューシャの命の灯が消えるのを確かに感じたという。 蘇りの秘跡をとりおこなえるものは、ほかにいなかった。サリューシャ自身とても、殆ど灰になった身体を蘇らせることは不可能だと云っていたのだから、どうしようもないのだった。 『鎌月』、戦神の恵み深き娘。幸いなるかな、月天使はその愛し子を今や手許に召し返し給う手許に。 葬礼の祭文を唱えながら、しかし二人の『牙』は、欠片もその言葉を信じてなどいないようだった。 月戦天使の使い女は、ついにその任を解かれたのだった。 何故。 死ぬはずなどなかったくせに。 やっと笑うようになったくせに。 「……姐さんはね、生まれ変わりたかったんでさ」 『月影』がすっかりふさぎこんでしまってどうしようもないのだと半ば自棄のように笑いながら、『十六夜』は云った。 「姐さんも、『月影』の兄貴の事を好いてなかったわけじゃない。ただね、邪眼を自分の手で抉って、それがもとで母親が気がおかしくなっちまったり、気違いを出したってんで生家が傾きかけたり、御大層な二つ名がついてまわったりで、こんなんじゃ幸せになんぞなれないと思いつめてたんだ」 「生家?」 「姐さん、実は公爵令嬢で」 面白くもない冗談だった。 「なんでもいい。生きているうちに幸せになりきれないなんて、そりゃあの娘の弱さだ」 「つっぱねないでやって下さいよ。単に新規巻直しがしたかったってだけなんだから」 「甘い。妾だって」 「死神のシモオヌ、ですかい」 ……ほんとうに運が悪いのは、貴女かもしれないんで。 貴女の側で死んでった野郎ども、ひょっとして、みんな妙に幸せそうにしてやしませんでしたかい。 ああ、やっぱりね。貴女、死にかけのタマシイってやつを知らずに嗅ぎ付けちまうんです。因果なもんだ。 ……でもね、いいじゃないですか。 誰だって死神の引導くらうときゃあ、幸せな顔してられたら最高ってやつだ。 貴女、ちゃんと幸せの後押ししてやってるんですから。うちの姐さんにしてもさ。 なんだったら、貴女、それを幸いと思や、いいんじゃないですかい。 姐さんが死んじまったし、戦も終わったから、お互いお役御免だ。 それじゃ、どうぞお幸せに。貴女に何が幸いかは知りませんがね。 『十六夜』の背中が遠ざかってゆく。 粉雪が勢いを増してゆく。 日はもう落ちきって、宵闇が押し寄せてくる。 知らず、涙が頬を伝っていた。 死神のシモオヌ。命を吹き散らすシモオヌ。白き風の遣い手、秋の風に愛されしシモオヌ。 溜息をひとつついて奥歯を噛んだ。 泣く理由などないのだった。 それでも、今宵せめて一晩は、サリューシャの魂の幸いの為に祈ろうと思った。 D16'HomePage Fall |