弥生前

     春が来るまでには、あと二週間はかかりそうだった。
     アスファルトの粉塵の舞う乾いた風の中、ぼくは懐かしい校門の前に立っていた。
     喉がいがらっぽい。錆の浮いた鎖が時折、きい、と軋む。風化のひどいコンクリートの門柱には、同じように酸化のひどい金属のプレートが埋め込んである。
     緑青の浮いたそのプレートをなぞる。手袋越しにわかるのはこの学校の校名。

     まさか、ここで仕事をすることになるなんて。
     ぼくは鉄条網で囲まれた校舎を見ると深くため息をついた。

    「懐かしい、とか思ってるのか?」

     彼が尋ねてくる。彼はこうした感傷に浸るのを好まない。
     十年ぶりなんだよ、ここに来るのは。決まってるだろう。

    「忘れるな、これは仕事だ。中学のときの思い出なんかはしまっておけ。邪魔になる。それに」

     彼はそこでいったん言葉を切った。ぼくはその言葉を続けた。
     その分辛い仕事になる、か?

     いつも通りだな、彼は。ぼくはそう思いふっと笑みを浮かべた。
     隣のバンの窓から、緊張した表情で代理人が同じ校舎を眺めている。ぼくが『一人』で笑っているのを見たのか、少し訝しげな表情をした。無理もないと思う。
    「ここで、待機していてください。もし何かを感じたらできるだけ離れて。あと、できるなら救急のための人員を用意しておい
    てください。中にいる山連の人間だけでなくぼくのためにもね」
     頷くのを確認し、ぼくは営業用の表情を造った。ぱっと、花が咲くように明るい笑顔。それなりに自信はある。
    「まずは、人捜しをしに行ってきますから。二時間ほどたっても帰ってこなかったときに頼みます。それまでには戻ります。大丈夫ですよ、ここの卒業生ですから校舎の勝手は知ってます」
     言ったそばから彼が小さく呟いた。

    「たかだか代理人相手に媚を売るんじゃねぇよ」

     ぼくはそのまま代理人に背を向けると、歩き出した。一瞬ぼくの笑顔が引きつったのに代理人は気付いたろうか?

     時折強い風が吹く。その度に、荒れたグラウンドから赤い砂埃がぼくに吹きつけてくる。ぼくはコートの衿を立て、顎を胸に埋めた。

    「何か見えるか?」

     まだだよ、少なくともぼくにはまだ見えない。目撃者の話によれば、見えるヴィジョンはその目撃者がここにいた時代の格好で出てくるってさ。

    「そういやそんなこと言ってたな」

     なら、ぼくに見えるとしたら男子は詰襟、女子は少しデザインが野暮ったいブレザー。グラウンドでなら、青に白でアクセントの入ったジャージってところかな。

    「どう思う、相手の正体は」

     接触方法はエンパシック・ヴィールス。こっちの記憶、情報に潜入して、それを複製改造した上で個々に対応したヴィジョンを見せている。トリガーの機構は多分パッシヴ。だから、この土地にいくらかの思い入れがある人間にしか影響を及ぼせない。山連の情報を元にしたところでの推論だけどね。

    「何か感慨を抱いた途端に、それに応じてこの『場所』がヴィジョンを用意するってわけか。なら、さっきの校門の前はやばかったんじゃないか?」

     学校の敷地内でしか影響が出ていないらしいけど。それよりも、君はそうは思っていなかったんだろう?だからじゃないか?

    「メインと、サブか。山連も都合いい奴がいて嬉しかったろうよ。しかし……」

     彼は言葉を切った。促す。

    「推論しか言えないのかよ、相変わらず」

     まだ情報が少なすぎるからね。

     ぼくは砂利の浮き出たコンクリのスロープを登り、生徒昇降口に向かう。この学校には職員のための玄関と、生徒のための昇降口がある。正面玄関は前者。つまりここは教職員の為の建物だってことだ。
     あの頃の青い理屈っぽさを思い出して僕は苦笑した。
     当然のことだけどペンキの剥げた鉄戸は閉まっていた。代理人から受け取った鍵を出そうとコートのポケットに手を入れたとき、フローラル系のシャンプーの香がした。

     ぼくのとなりに、彼女はいた。

     夏服の半袖ブラウスに紺のネクタイ。肩にかかる髪の毛を耳の上で白のバレッタが押さえている。
     ぼくの視線に気付いたのか、ふと振り返る。無防備なうなじがもう一度香った。ぼくの眼の中で、振り返る動作がスローモーションになる。
     きらめく陽射しがその動きを止めた。

     かちゃん。

     ぼくは鍵を落としていた。
     また、あの風が吹く。砂ぼこりが鉄戸に当たり乾いたノイズを立てる。
     そのあとには埃の匂いしか残っていない。  当たり前だ。
     ここに来るまですっかり忘れていた顔だった。
     ぼくの代の一つ上の生徒会の副会長だ。
     美人で、学校中の憧れだった。僕の学年の男子は皆彼女に憧れ、一挙一動に注目してたはずだ。とはいえ僕が彼女に関して知っていることは、結局生徒会長か誰かとくっついたとか、一個下のとらしいとか。そうしたことを高校に行ってから噂に聞いた程度だったのだけど。
     それより、
     なぜ、彼女が?

    「へぇ……、こりゃあ、すごい」

     彼が乾いた笑い混じりに呟いた。
     覚えているのかい?

    「ああ、だがまず鍵を拾って自分の顔を張っておけ。見られた面じゃねぇぜ。おたつくなよ」

     ぼくは屈んで鍵を拾った。

    「副会長か、なかなか美人だったな。どうだ思い出したか?」

     ああ、思い出したよ。
     ぼくですら、忘れかけていた思い出だった。確かに一年生の夏休み、ぼくはここに朝イチで着き、教師の指示に従い、この生徒昇降口を開けたことがある。そしてその時、夏期講習に出てきた副会長とぼくはここで会っている。あの時の香り、振り返るタイミングまで思い出通りだ。

    「やってくれるじゃねえか。意識下の記憶に侵入できるたぁな。なあ、お前。しばらく手袋は外さないでいた方がよさそうだぜ」

     ぼくは答えずに黒皮の手袋をはめ直した。そして、手が震えているのに気付いた。
     そう言う事か。彼の言うとおりだ。
     胸が不必要に高鳴っている。完璧にやられた。

    「おいおい、どうしたんだよ、のぼせ上がるんじゃないよ、ボーヤ。それともそんなに彼女に憧れてたか?いい加減こっちにも影響が出てきちまうぞ。シフトしたとたんに心拍数が上がるなんて止めてくれよ。まったくウブな奴だな」
     彼は容赦ない。
     何とでもいってくれ。替えよう。今は、ぼくじゃだめだ。……向こうが仕留める気だったら今ので十分だ。

    「けど、倒れちゃいねぇだろ?お前よ」
    「少し、自我鎧をつくりなおすのに時間がかかる。……一応はショックなんだよ。わかってよ」
     しかたねぇな。
     いいか、まだ始まったばかりなんだ、まだな。少し、頭を冷やしとけ。
     仕事にかかるぜ。

     規則正しく並ぶ下駄箱が、ただでさえ乏しい外光を更にさえぎる。片隅に履き潰してくたくたになった内履きが山になっていた。学校以外じゃ履けやしないデザインだ。
     俺はもちろん土足のまま廊下に上がった。ソールに小石でも挟まっていたらしい。リノリウムの床がきしりと音をたてる。
    「土足禁止」
     少しふてくされた様子であいつが言った。
     うるせぇ、黙ってろ。
     鼻腔から侵入してくる埃の匂い。嫌いじゃない匂いだ。だが、何より俺にとってありがたいのは、廊下を覆うその埃が、俺の前任者がどこへ向かったか明らかにしてくれるということだ。
     男が一人、ここで二日前から連絡を絶っている。そいつを捜し出し、可能であれば救出、しかる後に彼が仕事をし損ねているようならそれを全うする。この仕事で、俺の口座にはこれから半年は食いつないでいくだけの金が振り込まれる。それと同時にガチガチの山連の人間からは妬みを買うことになるが。
     足跡は中央階段を目指していた。俺はその足跡を追った。

     最初は無駄骨だった。少なくとも俺はこの帰郷をそう思った。
     だからどうということもない。新幹線代に宿の手配も当然むこうの持ちだ。十年ぶりの帰郷だ、会いたい人間もいる。そのために帰ってきたと思えば、腹も立たない。
     もともと三日前の昼、「能力者」を一人要求しているという話を持ちかけて来たのは山連の人間だった。人が駆けつけてきてみれば、ホームにはばつの悪そうな顔をした代理人が一人。口を開く前に何が起きたかは十分わかった。山の外の若造に仕事を任せるぐらいなら、自分に任せてくれ。そういう術者は多分山連には掃いて捨てるほどいる。東日本修験の首魁、出羽三山を有する山連らしいプライドだ。
    「かまいませんよ」
     代理人の先手をとってあいつは話しかけた。
     里帰りをしたと思えば腹も立ちませんから……・。代理人は安堵の表情を見せた。あいつらしい物言いだった。別に社交辞令ってわけじゃない。本当にそのつもりだ。少なくともあいつは。俺はもう少し何か言ってやりたかったが、約束だ。奴に任せることになっている。
     山連が用意してくれていたホテルから、アドレスを頼りに幾つかの場所に電話を掛けた。五回掛けて誰もが今、この街にはいないとわかった。鬼籍に入ったもの、ここを出て行ったもの、音信不通のもの。
     学校の同窓生に連絡を取るという方法もあったのだろうが、覚えている友人などいない。同窓会名簿が転送されなくなってから三年ほど経つ。
     しょうがない。
     幾つかの場所を回り、墓参りを済ませたら、もといた街に戻ろう。そう決めた翌日の朝だった、再び山連から連絡が届いたのは。
     起きぬけにいきなり引きつった声で昨日の代理人が電話を掛けてきた。山連の修験を例の場所、つまり俺の母校に送ったが、連絡がないまま一晩が開けた。
     携帯から掛けているところを見ると、どうやら一晩外で帰りを待っていたようだ。ご苦労なことだ。普通、山連の人間に残業手当はなかったはずだ。
     本部に指示を仰いだところ、エキスパートの出動を要請するとなった。
     つまり、俺のことだ。
     埃っぽい風の吹く中、俺がかつて過ごした校舎に出向くと、憔悴しきった代理人が出迎えた。ブリーフィングはあいつに任せた。人当たりのいい方が受け持つ。そういうことだ。
     
     この校舎の学校としての役目は五年前に終わっている。県庁のすぐ隣りにあるこの建物は壊されて、新しく長距離貨物の中継センターが作られることになっていた。その計画の最中に問題は現れた。
     最初にそれに出会ったのは依頼を受けた建設会社の測量士だった。グラウンドの反対側にいる相棒の持つ指示棒に向けスコープをあわせたところ、レンズにボールを蹴る少年が見えたという。測量士は封鎖されたこの領域に誰かが入ったものと思い、スコープから目を離し、追い出そうと近寄った途端不意にその姿は消えた。
     グラウンドの端にいた相棒には突然彼がスコープから目を離し、その場にはいない誰かに話しかけているように見えたという。
     これが今回の事件の第一目撃例だ。あとからわかったところによると、その測量士はここの卒業生だった。
     その後数回、作業のためここに立ち入った人間がこの学校の生徒の幻を見、そして、先月、作業員の一人がここで自殺した。校舎三階からの窓から飛び降りたのだ。
     動機として思い当たることもなく、事故とも思われた。少なくとも親族その他、公には事故と伝えている。しかし、その被害者もまたここの卒業生であり、彼の学年で一人この校舎から投身自殺を行った男子生徒がいると言うことは山連の調査員が突き止めた。
     その生徒が飛び降りたのは校舎の三階、二年四組の教室。教室の前から数えて二つ目の窓。先月の被害者がここから飛び降りたのも決して偶然ではない。そう山連は踏んだ。
     つまり、そういうことだ。

     この校舎はグラウンドに面して、九つの教室が並んでいる。中央廊下はそれらの教室をつなぎ、中庭を貫く渡り廊下が中央廊下と直交して、D組とE組の間にある。そして、その渡り廊下が終わる、D組とE組の間には、グラウンドに出て行く非常口がある。
     廊下に出たとたん、俺は鼻腔に、乾いた埃とは別の臭いを感じた。E組の戸のあたりで俺は仕事の一つが達成されたのを確認した。
     その非常口の鉄戸は僅かに隙間が開いていた。そこと、廊下の間のたたきに修験者は横たわっていた。
     羽黒修験の特徴である市松模様の行者装束に、彼がもどしたらしい吐瀉物がこびりついている。胃液は乾きかけており、思ったよりも臭いはしない。彼が吐いたものにはほとんど色が着いていない。断食を含む物忌みを行ってから来たのだろう。残っているのは薄い粥の米粒ぐらいだ。
     死に際には、特に暴れなかったようだ。人が立ち入らなくなって久しい廊下には厚く埃がたまっているのだが、それがほとんど乱れていない。
     苦しくなかったわけではないだろう。暴れる余裕がなかった、ぐらいのことに決まっている。
     俺はゆっくりと倒れ伏した死体に歩み寄り、事務的にその死体を調べた。
     死因となるような外傷は認められない。出血のあともない。肘、膝に僅かな擦り傷がある。爪の間には砂粒がはさまっていた。死体を仰向けにしてみると体前面に砂埃が付いている。歩行できずに這ってここまで来たのだろう。床に押し付けられていた頬一面に死斑が浮いていた。
     どれだけの苦しみだったか。
     ここまで這ってきたってことは、少なくともその間は意識があったということだ。感覚もあったはずだ。なら苦しかったに違いない。問題はその苦しさが俺の扱えるレベルか、否かということだ。
     しかし、
     こいつはここの関係者じゃなかった。そうじゃなかったか?

    「そのはずだったと思う」
     事態はやばい方に向かってるんだ、はっきり答えやがれ。

    「ここの卒業生では無いし、この学校とかかわりを持ったこともない。そう山連では言っていた」
     そう山連では言っていた、か。

    「死因は?」
     心臓か、呼吸器系がやられたんだろう。

    「生まれつき心臓が弱かったとか」
     ジョークはTPOにふさわしいものを考えろ。
     俺は、立ち上がるとあたりを見回した。当たり前だが人はいない。それでも一応無人を確認してから俺は手袋を外した。
     ダイヴを行ってから修正する、時間がない。デリケートな仕事はそっちの領分だ。手短に進める。頼む。

     手袋から自分の手を抜いた途端、喧噪がぼくの周りを取り巻いた。勢いよく階段を降りる音、清掃の時刻を知らせるチャイム、意味をなさない繁雑な、それでいて決して不愉快じゃないざわめき。放課後へのプレリュード。
     この場に満ちる空気に触れただけでこれだ。
     ぼくは眼を開けたまま、ゆっくりと、手から流れ込んでくる感覚を遮断する。まずはチャイムの音、次に足音、そして、声。あるかなしかの風の音までに絞り込んだあと、ぼくは死体の頬に手を触れた。
     眼を閉じて、目蓋の裏にヴィジョンを投影する。その作業を行う前に押し寄せる感覚がぼくを包んだ。
     それに触れたのは一瞬だった。
     体を茹で上げるような灼熱感、それとは裏腹に震え続ける四肢。脳細胞が見る見るうちに熱硬化して行く感覚。感覚に裏打ちされた世界が浮足立ってぐらぐらと沸騰して行く感覚。
     張りなおした自我鎧が、それを手遅れになる前に減衰させていた。
     暖かみを失った肌から直接流れ込んでくる、「記憶」。蛋白質の塊に染み着いた、死体の主の想念の蓄積。ぼくの指は顔の表情を確かめるように死体に残る思いを探り出してゆく。
     悪寒、体温の上昇、石のように乾き膨れ上がった舌、そしてえずき。死体に刻み込まれた苦痛の記録をぼくは数百分の一に薄めながら追体験する。
     いかつい顔をなぞる指を、落ち窪んだ瞳の方に摺らしてゆく。陽炎のように歪む風景がじわりじわりと視野狭窄する所まで確認し、ぼくは結論を出した。
     熱射病だ。
     症状から考えて、この死体はまだ春もこない廃校舎で熱射病を起こして死んだのだ。

    「強制追体験されたな」
     そうだね、いつの事故の記憶にかな。

    「熱射病で死んだのは、小松崎の話の中だけにも三人いたはずだ」
     夏場、夏期講習になると必ずその話をする社会の教師がいた。この学校のOBで三十年以上ここで教鞭を取っていた。「気の毒なことをした」といつも言い、眼を伏せていたが、何のためにその話をするかと言えば、ここに勤務期間が長いこと、それを自慢したかったからに過ぎなかった。

    「その誰の記憶にやられてもおかしくはねぇ。が、」
     この修験者はこことは無関係だった。

    「どう説明するよ?」
     ぼくは死体から手を離した。眼を開けてもう一度、物言わぬ肉の塊を見つめる。
     この修験者が深入りし過ぎてこの校舎に残っていた想念に感応してしまった。という推測が一つ成り立つ。

    「つまり、今まで前例がなかっただけで、素質のある人間がここにいたならそいつもこうなるってのか?」
     一番素直な考えだと思う。違うかい。

    「確かに素直だが、山連の術者が倒されているってことを考えろ。その辺で『拾った』積層想念に死に追いやられるなんてこと、あると思うか?」
     事故じゃないっていうのか?

    「これはパッシヴなものじゃない。何かが熱射病と言う積層想念を心理攻撃としてぶつけたんじゃないのか?お前の考えるところのもう一つの推測だ」
     すぐに『心理攻撃』と言う言葉を考えるのはよしたほうがいい。まだ、捜査の段階なんだ、決めてかかっちゃ、他に影響する。

    「じゃあ、『心理攻撃』も有り得るってことを肝に命じておくんだ」
     OK。そうしておこう。
     彼の憶測も決して無茶なものじゃないと思う。術者とは、精神を道具として扱うことの出来る専門職なんだから、その辺に染み着いた思いを拾って倒れるなんてことはまず有り得ない。普通に歩いている人間が石につまずき、首の骨を折るようなものだ。
     ただ、それでも事故は起こる。起こるときには起こるんだ。そして、それ以上に今ここで心理攻撃なんて考えるべきじゃない。
     心理攻撃を仮定することが逆に周囲に歪みを与えかねない。
     校門での出来事から仮定して、ここの現象は侵入者の精神をもとに接触を行ってくる。(それに善意、悪意があるかは別の問題)ぼくが精神攻撃を仮定するということは、この環境に疑いを持つということ、警戒心を持つということ、そして、敵対存在を仮定するってことだ。
     そうなればおそらくここに存在する記憶達はぼくに対する敵対的な記憶を準備するかも知れない。
     無用な危険は避けるに越したことは無い。そういうことだ。
     ぼくは、さっきのダイヴによる心拍が元に戻るのを待ち、そして後始末にかかった。この術者が断末魔の際に残した想念は、ぼくにとってもあとからここを訪れる人間にとっても危険な記憶となりうる。
     断末魔の際に残した記憶、それが歪めてしまった位相、この場所に染み着いた想念、それらは修正されなければならない。
     ぼくは、死斑の浮いた修験者の目蓋に指先をおいた。そして、暖かみも、潤いも失った肌をそっとさする。指先から流れ込んでくる意識が、ぼくのそれと混ざってゆく。モザイクのように現れる苦痛。ぼくはそれをひいやりとした土の臭いのする空気のイメージで大きく包んでやる。そして、流れ込んでくる苦痛を飲込み押し流すだけの量を持った別のイメージの奔流を指先から伝えた。
     眼の前に浮かぶ、彼と過去の生徒達が感じた苦痛、思い、記憶。ぼくは苦しげに喘ぐ彼らの隣に立ち、彼らを抱え、立木が作る木陰の下生えのなかに彼らの体を横たえた。
     湿った土の匂い。
     閉じた瞳に時折眩しい木漏れ日。陽光の元では感じられなかった風の流れが火照った肌をやさしく冷ます。
     絞ったタオルでそっと汗をぬぐってやる。その顔に名も知らぬ過去の記憶達が重なり、そしてあの修験者の顔が最後に現れる。
     風が木の枝を揺すり、そのざわめきに遅れてもう一度涼しい風が吹く。
     更にもう一度。
     ぼくの指の下で、強ばった肌がわずかに緩んだ。それと同時に苦痛の想念がゆっくりとほどけていく。周囲に残っていた断末魔の感情も薄れていった。
     ぼくは肌をさする指をそっとはなし、瞳を開いた。
     相変わらず死斑は残ったままだが、少しは安らかな表情に変わった死顔があった。
     ぼくは立ち上がり開いた手で周囲の空間をそっとさすった。ここで起きたこと、この空間に染み着いた記憶を消すことなんか多分できやしないだろう。だが、危険は薄くなったはずだ。ぼくは再び皮の手袋に手を納めた。

    「どうする?代理人にこの死骸を預けに行くか?」
     そうだな、最初にそう言ったからね。

    「で、そのあとはどうする?」
     調べよう。事故なのかどうか、ああ言ったけれどまだ確信したわけじゃない。だから調べなけりゃいけない。

    「それに興味もある、か」
     まぁ、ね。

    「代理人をここに呼ぶわけにゃいかない。かつぐぞ」
     了解。
     ぼくは、コートの埃を払うとその死骸をかついだ。
     ひとまずこの作業でこの場所に残っていた記憶の修正はなされた。

     触れることでそこに染み着いた過去の記憶、想念を知ることがぼくにはできる。
     そして、この指先でその想念を修正することも。
     それがぼくの仕事だった。

     代理人はあまり驚いた様子じゃなかった。大方予想は着いていた結末のようだ。すぐに、グレイのワゴンがきて修験者を布に包み運んで行ってしまった。家族には死因をどう説明するのだろう。
     彼は言った。

    「道端に転がっていた、死者の思い出につまづきましてとでも言うんだろう」
     笑えるジョークを聞いた例がない。この頃は。……人のことは言えたためしじゃないけれど。
     代理人が用意してくれていた軽食をとりつつ、ぼくは簡単な報告をした。
     つまり、彼の死が事故であるか否かについてはまだわからないと言うこと。まだ、この事件の原因がわからず、相手としているものが、明確な意思を持っているかもわからないがということ。しかし、それによる現象は大変強力なもので、訓練を受けた人間でさえそれに取り込まれ兼ねないと言うこと。
     そうしたことをだ。
     報告を終え、ぼくは改めて校舎を見た。人が出入りしなくなった建物はなぜこんなにその表情を変えてしまうのか。そう思わずにはいられないほどの有り様だった。
    「ひどく寂れましたね」
     代理人が話しかけてきた。
    「あなたもここの出身ですか?」
     代理人は首を振った。
    「私は一中です。もう二十年も前の話ですがね。ただ、通学路の途中でよくここの様子は見えてましたから。当時市内で、坊主刈にしないでよかったのはここだけでして、うらやましく思ってたもんです。しかし、汚れたというか……変わりましたね。何か殺伐としたような」
    「人の思いだけですからね、あの校舎がすがれるのは。他に今あの校舎の存在を認めているのって、何があるのでしょうか?」
    「多分、ありませんな。学校は生徒がいるから、学校。人がいなけりゃただのコンクリの箱ですよ。しかし、あなたの言ってることはまるで……」
    「校舎が見ている夢、ですか?」
    代理人は頷いた。
    「花瓶や、文具だって長い間使ってりゃ化けて出る。学校だって、ね。私たちは『付喪神』って呼んでますけど。けっこうここの時計台のてっぺんに白髪が一本ひょいとはえてるかもしれませんな」
    「?」
    「九十九髪、百から一をひきゃ白ですよ」
     代理人はそう言っておかしくもなさそうに笑った。
     そうかもしれない。これは単に学校という、人の思いが強く、多く集まったところが、その役目を終えるにあたり、その人生を思い返しているその瞬間に立ち会っているのかも知れない。だとしたら、本来はぼくが出る幕じゃない。
     その思いは、多分、この校舎そのものが壊されるときに一緒に持って行くものなのかも……。そして、ここですごした多くの人間の心のなかに思い出として形を変えて受け継がれる。そのはずだから……。
    「ばぁか、どっかで聞いたみたいな話で納得してんじゃねぇよ」
     彼の言葉が口を突いて出た。代理人がこっちを見る。
    「いいか、ここですでに二人死人が出てる。それにお前もここがどれだけ巧妙に、人の思いに侵入してくるか、知っている。いいか、思い出が染み付いてる場所なんてどこにでもある。そのたんびにこんなことが起きてりゃ今ごろ大騒ぎだ。ここには何かがある」
    「それを否定した覚えはないよ」
    「なら、感傷に浸るな。そろそろ仕事に戻る頃だ」
     代理人がこっちを見ている。ぼくは照れ笑いを浮かべた。

     副会長のヴィジョンを見たあの昇降口にぼくはザックをおろし、下足場のスノコに腰を下ろした。ザックの中身はちょっとした医薬品と、いくつかの非合法薬品。そして通信機だ。万が一の準備ってわけだ。体と心、両方のけがに対応できる。その為の薬だ。
     日が落ちるまでには二時間ある。それだけあれば、ざっとでもこの学校全てをまわることはできる。日が落ちてからはここをまわるわけには行かない。人が闇を本能的に恐れる以上、例えぼくでも真っ暗な校舎で何かやばいことを思い出したりする危険がある。
     調査の方針を決めなければいけない。とにかく、ここで起きていることは事故なのか、それとも明確な意思を持ったものによるものなのかをはっきりさせなければならない。
     向こうから仕掛けてくれれば、その時の感触で何かわかるかも知れない。自分から、思い出の強烈なところ、強く印象に残っているところに行けばこの現象に遭遇する可能性は高いかも知れない。けど、こっちにも危険が来る。

    「頭のいい方法とはいえないな」
     確かに。

    「だが、それの方が確実だろう。それとも、五十人、9クラス、五十年分の思い出を追体験して見るか?お前の脳がそれに耐えれればだが」
     わかった、自分から怪異を呼び込もう。思い出を掘り起こすことにしよう。
     思い出の百物語ってわけか。

     生徒会室はぼくが前に入ったときと大して変わった様子がなかった。卒業アルバムや、文化祭のパンフレットが乱雑に詰め込まれた本棚が壁の一面を占め、反対側に月間予定と書かれた黒板がある。パイプ椅子と、ガタの来た長テーブル。
     窓は角が欠けており、そこから吹き込んだらしい雨が小さな水溜を作っていた。
     ぼくは本棚に向かい、ぼくの代の卒業アルバムを捜し出した。
     第84回卒業生。
     幸いすぐに見つかった。ぼくのクラスは確か、三の一。クラス写真のトップにあるはずだ。ぼくはアルバムを開いた。
     見覚えのある顔が並ぶ。今見るとはずかしくなるくらい幼い顔をみんながしている。決してみんな笑っているわけではないけれど。今回の帰郷で会うつもりで会えなかった友人達の顔もある
     入学式から、クラスマッチ、文化祭、運動会、修学旅行、そして卒業。確かに懐かしい思いがする。はじめ考えていた以上に自分が見落としていたこともあった。
     だが、予想していた現象はなかった。仕掛けてくるということもなかった。
     多分手袋を外し、この場に意識を解放すれば、さまざまなイメージが溢れてくるだろう。しかし、それでは、意味がない。それは能力者なら当たり前のことだし、多すぎる情報を選別するのも難しい。

    「ってことは、改めて考えても、少なくとも山連の人間に限っては、事故というラインは無いな。違うか?」
     なぜ、そう思うんだい?

    「この場に積層した思いは、素人ですらここと因果を持つものにヴィジョンを見せた。当然、俺や、山連の術者のような連中にはその積層想念を観じることができる。っていうよりも、ある程度域値を上げなけりゃオーバーフローを起こすぐらいだ。当然、俺たちはシールドする。だろう?山連の術者だってそうなんだ。その術者だって死んだ。これは心理攻撃だ。もし彼も事故だったというのなら、もっと多くの素人が死んでいてもおかしくない」
     確かに、な。
     さっきは心理攻撃を仮定することで自分から状況を悪化させることを恐れた。だが、自ら怪異を呼び込もうとするなら、少々の危険は承知の上だ。
     O.K.心理攻撃を認めよう。じゃあ、向こうに自我はあるか、明確な意思の元に心理攻撃を加えているのか?

    「それはわからん。だが、明確にどの体験を強制追体験させれば死ぬかはわかってるようだな」
     だが、最初の素人達は無事だった。

    「攻撃する必要がなかった?もしくはやつらの行動は心理攻撃を起こすには不十分だった」
     じゃあなぜ、山連には?それに……、ぼくにはなぜ心理攻撃をかけてこないんだ?

    「術者の目的は何だった?」
     現象の原因解明とそれの除去。

    「俺のは?」
     術者の捜索と、現象の原因究明。

    「二つの間の差は?」
     ……原因となるものの除去を試みるか否か。

    「つまり向こうには……」
     つまり、原因の奴には自己防衛本能がある?

    「おそらくな」
     うん、そこまでは納得できるよしとしとこう。もう一つの問だ。昇降口でのヴィジョンはじゃあなんなんだ。こっちの域値よりも高い強さで、なぜあんな、本人ですら忘れていたようなものを見せた?いったいそれが向こうにとって何になると言う?
    「本当に、何もなかったか?」
     彼女は学校中のアイドル。こっちはただの男子生徒だ。彼女との接点なんてない。
    「もう一度アルバムを調べてみろ。できれば、彼女の代のも」
     彼の言葉を待つまでもない。ぼくはさっきまでざっと眺める程度だった写真を、一枚一枚丹念に見ていった。
     アルバムには、ぼく達が行った修学旅行と、遠足の全てが写真で紹介されていた。
     二年のころの写真でぼくはおかしなことに気付いた。
     一年や三年の時と違いこれと言って指摘するほどの体験が思い出せない。確かに体育祭や、文化祭などの思い出はある。それなりに楽しかった。けれど、取り立てて言うほどのものじゃない。と、思う。
     別に何も覚えていないわけじゃない。けど、鮮明に覚えているのは二年の夏ぐらいまでで、それも、学校の中でのことじゃない。
     会おうと思う友人が、あれ程少なかったのも当然……か?
     そんな……、ぼくはここまで、薄情な人間だったろうか?
     思っても見なかった現実だった。
     その時、ぼくの瞳が一枚の写真に釘付けになった。
    「まぁ、いいさ。お前が今すぐに思い出せないだけで、何かきっかけがあれば思い出すかも知れない。きっかけになりそうなものを探そうぜ。……おい、しっかりしろ!」
     ぼくは自分の口から出てくる、彼の言葉すら耳に入らない有り様だった。ぼくの瞳は二年の秋の修学旅行の写真に釘付けになっていた。
     旅行先で一団となって笑う学生服姿の少年達がそこにいた。みんなぼくの友人だ。一人は今回墓参りするつもりだった。こいつらはみんなそのまま三年で同じクラスになった。そう、ここに写っているのはぼくとその仲間達であるはずだった。
     だが、もし、それが正しいとするなら、この中央にいるのは「ぼく」だというのか?
     背格好は変わらないかもしれない。けれど、身にまとっている雰囲気も、顔つきも、笑い方も、何もかもが今のぼくとは大違いだった。
     無防備に笑い、妙に線が細い。ぼくが他の人に道具として使っているどんな笑顔よりも明るい笑顔。さらさらで少し細めの髪は、耳の当たりで切り揃えてある。だが、ぼくはそんな髪型にしたことがない。常に耳にかからない程度に切っている。それは中学の頃からかえていないはずだった。
     顔立ちも個々の部品もバランスも変わらない筈なのに、なのになぜかぼくは違和感を覚えずにはいられなかった。
     それは危うさ、だった。笑顔も、振舞いも、何もかもが無防備に思えた。そしてぼくはそれに言い知れぬ嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
     自分の弱さを誇張したドッペルゲンガー。そんな印象だった。
     どれだけ必死に自分の記憶を探ってみても自分がかつてそのようであったとは思えなかった。その頃の思い出が何も残っていない。明らかに最初の卒業間際とは違う、ぼくの知らないぼくが、そこにいた。
     一体、何があった?
     
     ドアが開いた。
     振り返ると、記憶に新しく懐かしい香りが香った。
     
     彼女だ。
     
     手にはプリントの束を抱えている。肩で戸を押し開ける。そんな一つ一つの仕草を目にする度、胸が、疼く。体が、意識の手綱を振り切りそうだ。
     昼下がりのまだ柔らかな西日が彼女を逆光に照らし、半袖のブラウスが彼女のボディラインを透かす。服の上からもそれとわかる華奢な身体。シルエットの中で、その輪郭をぼやけさせる淡い髪の光と、それを押さえる白のバレッタ。
     思い出だ。美化されるのは当然なんだ。
     けれど目の前のそのひとは……!
    「ごめんなさい……」
     彼女が口を開いた。予想通りの声だった。
    「悪いけど扉、押さえててくれない?」
     ぼくは立ち上がり、足を踏み出した。違う、ぼくは今ここで屈んでアルバムを開いている。これは、この感触は、かつてのぼくの追体験なのか?
     体全体が波打っている。のぼせ上がっているのが自分でもわかる。
     相手はいつもぼくにぴったりのヴィジョンを用意している。それともすでにトラップを僕は自己生成しているのか?
    「ありがとう」
     歩み寄るぼくに彼女の言葉が届く。くすりと笑顔を見せてくれる、最高の報酬。
     ふと瞳が互いを認める。大きな瞳にぼくが写っている。長い髪の無防備なぼく、そして、短い髪の、「ぼく」。
    「どういたしまして、おねーさん」
     言葉が口を突いて出てきた。これは、今のぼくの言葉?!
     右手の中指を歯で咥え、「彼」は手袋を外した。

    「ちょっと、『ぼく』の苦手分野なんでね」
     彼女は問いかけるように少し首をかしげた。

    「『俺』が相手させてもらうぜ」
     その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、俺は彼女を抱きすくめ。荒く唇をあわせた。彼女は驚いている。何が起きているのかさえわからないようだ。
     プリントの束が両手の間から落ちる。床に落ちる前にそれは消えた。不意に腕の中の感触が希薄になりかける。だが、逃がさない。
     俺は右手を彼女の首に回し、うなじから髪をかきあげた。指の間を髪が通る度に、腕の中の彼女の存在感が回復して行く。
     あわせた唇のまま、俺はほくそえんだ。
     彼女は最初驚いた。
     正確に言えば違う。彼女の後ろの存在が驚いたから、それが彼女のヴィジョンを通してこっちに感じられたってわけだ。つまり、向こうに感情は存在する。相手が明確な意思を持っていることはこれで明らかだ。
     俺は最後の一ふさを指の間から抜くと、その手を次に首筋に這わせた。びくんと、彼女の体は敏感に反応する。
    「俺はあいつと違って荒っぽいこともできる」
     妖しいほどに耳元近く、俺はささやいた。
    「こんな風に、お前の思いを作り替えることもな」
     俺は唇で形のいい耳を嬲り、右手をブラウスの襟元にかけた。そして、それを思いきり下に引く。ボタンが四方にとび、ブラウスの生地と同くらい白い肌があらわになる。
     声にならぬ悲鳴を彼女は上げた。だが、その口を、上から俺の唇が押さえる。俺の腕は抗いを許さなかった。
     合わせた頬に熱いものを感じる。
     涙か?
     かまわず俺はそのまま右手を、脇腹から彼女の体の前面にすらせた。不意に感触が変わった。華奢なことに変わりはないが、柔らかみがなくなった。
     男の体だ。
    「な……!?」  奴はさっきよりは十分に強い力で俺を突き放した。
     そして、そのまま背を向けた所で、ヴィジョンが終わった。
     しかし、俺は一瞬ではあるが、そいつの顔を見ることができた。俺の腕の中に抱きすくめられていたのは、あの写真の顔の「俺」だった。
    「ばか、な」
     俺はようやく何が起きたのか、そして何が起きているのかを理解した。
     俺が俺にくちづけ、そしてその涙に触れた瞬間に。

     ぼくは、音の消えた生徒会室に一人立ちすくんでいた。
     右手の中にはまださっきの感触が残っている。もっとも残っている感触はそれだけじゃないけれど。
     彼らしい解決だ。まるで他人事のように、そう思った。現れたヴィジョンにこっちからちょっかいを出してみれば幾らか相手を知ることができる。それは確かだ。それに、あの時、確かにぼくは向こうの術中にあった。けれど、あんなことになるとは。
     考えてみれば、ぼくにとって、彼女のヴィジョンは心理攻撃だったのだ。十分にこっちに動揺を与えられる。最初はなぜかと思ったが、相手に意思があり、こっちのことを知っているなら考えられる選択だった。

    「いこうぜ」
     彼が言う。

    「ケリをつけるんだ。思い出にな」
     わかっている、責任は果たさねばならないのだ。この事件の解決のためにも。
     ぼくはその部屋を出ると、ゆっくりと中庭に向かい、歩き始めた。
     手袋を外したまま廊下を行くと、無数のヴィジョンが現れては消えていった。たまに古い制服の生徒を見ることもあったが、ほとんどがぼくの見知った顔だった。楽しげに笑っている、言い争いをしている、何てことのない会話を交わしている。誰もがアルバムの中の『ぼく』のように屈託無く、無防備に笑っている。笑わないぼくはその人混みの中を足早に歩いた。
     念圧が高まっている。
     不意に、ヴィジョンが一定の動きを示した。誰もがぼくと同じように中庭を目指している。驚きの表情を浮かべたままだ。
     この人混みの中で彼らの行き先に何があるか、何が起きているのか。
     知っているのはぼくだけだ。
     階段を降りる。中央廊下から、渡り廊下、そして中庭へと歩を進めると次第に人が多くなって行く。ぼくは中庭に出た。日は暮れようとする、まさにその時だ。
     夕焼けの赤い光に校舎の壁が照らされ、そして中庭に面した窓には人が押しかけている。中庭には生徒達が続々と詰めかけている。夕日がこの無言劇を照らしている。
     彼らの視線は一点に集中していた。ぼくは彼らをかき分けそこに向かった。
     赤く染まった校舎の壁に近い一点。教師達が人垣をそこで制している。そこだけ赤が一際鮮やかなのは気のせいなんかじゃない。
     教師の脇を抜けると、ぼくはそこに予期していたものを見た。
     彼女だ。
     
     ブラウスが赤く染まっていた。
     手と足が、不快な角度に折れ曲がり、所々から血がしぶいていた。
     壁に寄り掛かるように。仰向けに倒れている。
     地面に赤く血が散り、黒い髪が壁と地面にへばり付いている。顔は見えない。うつむいて、髪が顔を隠しているのだ。
     あの白いものが散らばって落ちている。一つはあのバレッタだ。他は骨片と、脳漿だ。
     人垣を割って、誰かが出てきた。背の高いバッジをつけた少年だった。噂されていた生徒会長だ。隣で女生徒が火の着いたようにわっと泣き伏した。しかし、声は聞こえない。あちこちですすり泣きが始まっているらしかった。
     生徒会長は黙って学ランのボタンを外し、そして脱いだ黒の服を彼女の死骸に被せた。影になって表情は伺えなかった。
     そしてその場にかがみこむと、三度拳で壁を殴り付けた。そばで見ている方がどきりとする、そんないきおいだった。

     幼い、無力な『私』は目を伏せてそこに立ち尽くしていた。目の前で何が起こっているのかはわかっていた。表情が削げ落ちていた。
     目の前に起きていることが信じられないから顔を伏せているのではない。
     わかっているけれど、正視できないでいる。

    「顔を上げろ」
     俺は目の前の『私』に告げた。

    「恐れないで、悲しみに負けないで」
     ぼくがその言葉を続けた。
     あの時『私』は変わり果てた彼女に怯え、彼女を愛する態度を貫いた彼を妬んだ。
     そしてぼくは自分を恥じた。
     そして俺は自分を憎んだ。
     ぼくは、そして俺はあの時から『私』を捨てた。
     無防備に笑うことを止め、心に鎧をまとうことを覚え、彼女とそれに関わる自分のことを忘れようとしている。そんな『私』がそこにいた。
     言葉が、届いた。
     私は顔を上げた。そして、彼女に向かって一歩足を踏み出した。誰かが私を止めようとする。私はかまわず彼女に被さった学生服を取り払った。そして、右手を彼女の顎に沿え、潰れた顔を直視した。
     頬の肉が弾け、頬骨が砕けていた。額から、頬骨ふかくまで赤く染まり、半分ちぎれ掛けた目蓋の下から、光を失った瞳が見えた。
    『俺』ですら目を背けそうになった。
     しかし、思わず引っ込めようとした『私』の手を『俺』は強く押さえた。
    「やるんだ」
     強い言葉で『俺』は言った。
    「思いを果たそう、君のためにも、ぼくのためにも、そして、自分のためにも」
     『ぼく』の言葉と共に、『私』は彼女の砕け、弾けた顔に自分の右手をそえた。
     周囲で誰かが騒いでいる。
     しかし、私が修正を始めたとたん、周りのヴィジョンは凍り付いた。因果軸がずれたせいだ。
     砕けた頬骨を整え、肌で覆う。
     目蓋をつなぎ、割れた額に骨片をつなぎ、抜けた髪の毛を植えなおす。
     乱れた髪を手ですいて整え、壊れたバレッタを着てやる。
     私が覚えていた彼女をもう一度そこに復元する。
     最後に一度、そっと彼女の頬を撫でた。
     気がつくとそこには彼女と自分とそして中学生の『私』だけがいた。
     他の記憶、積層想念は今は見えなかった。
     自分の口から、『俺』の言葉が出てくる。
    「そうか、やはり『俺』だったのか」
    「そう、『ぼく』だった」
     『ぼく』は答えた。
    「忘れたかったんだろうか」
    「捨て去ろうとした、だからぼくはここに焼き付けていった。『私』をね。上手く、行き過ぎたんだ」
    「けれど、残っていたんだな」
    「彼女に対して直視すらできなかった自分を恥じ、何も行動しなかったことを悔やむ。この場に焼きついた想いが自律した」
    「強くなりたい、その時思った。思い出した。そして、今までの自分と決別した」
     中学生の『私』は瞳を伏せていた。うつむいたままの彼の言葉が届いた。
    「だが、『私』は、残った。思いを抱いて、いつか、このことを記憶に留めて尚強くなれる日が来るのを待って。そして、ずっと私を待っていた」
     『私』は小さく、しかしはっきりと頷いた。そして、自分の右手をその顔に近付けた。
     しかし、指先が頬に振れる前に自分の手がそれを留めた。
    「変わらなくていい」
     『ぼく』が言った。
    「お前も俺だ。俺が目を背けていた、俺だ」
     『俺』が呟く。
     辛い思いをさせた。
     けれど大丈夫だ、もう『俺』は強くなった。
     そのままの自分でこっちに来い。
     『私』はかつての自分から考えられないほどたくましくなった自分の胸に飛び込んだ。
     『俺』は、『ぼく』は傷つき、繊細な『私』を受け入れた。
     そして『私』は、『ぼく』は、『俺』は、一つになった。

     いったいどれだけの時が経っていたのだろう。私は、山鳥の鳴く声で目を覚ました。
     中庭だ。空が白みかけている。体を起こそうと、右手をついたとき、掌にザラついたコンクリートを感じた。そのとたん、ざわめきと生徒達のヴィジョンが私の周囲に満ちた。
     そして幾多もの意識が流れ込んできた。
     しかし、その流れに押し流される前に、私は域値を上げていた。
     そして私は何が起きたかを理解した。
     私は右手をじっと見つめた。
     その時、右手がひらめいた。
     ぱしん。
     誰もいない中庭に平手打ちの少し間の抜けた音が響いた。
    「よし、ひとまず自分の言うことに耳を傾ける余裕ができたな」
     醒めた口調で俺が言った。
    「ぼけっとするな、まだ仕事は終わっちゃいない」
     そうだ。かなり長くここにいたことになる。代理人はどう思っているだろう。
    「それに、この学校に染み付いた積層想念は、ぼくの影響を受けて普通のものより人に与える影響が大きい。また事故が起きないとも限らない」
    「忘れるな。お前はエキスパートだ。今の状況はエキスパートが雇われるにふさわしいものだ。つまり、厄介な状況ってことだ。努めを果たせ、役目を果たせ、報酬に見合うだけの働きをして、次の仕事を呼ぶだけの名声をあげろ。わかったな」
     そうだ。そうでなければならない。
     私は深く息をした。さっき自分の頬を張った右手を見る。小指から順にゆっくりと曲げ伸ばしする。動く筋肉を一つ一つ確認する。五本の指で空中に優美な図形を描く。次は左手。大丈夫、体は意識のコントロール下にある。
     
     行こう。始末をつけよう。この場所に残った記憶と共に。
     
     私は、明け方の校舎を、体育館に向かった。がらんとしたそこは埃が積もり、窓からの朝日が眩しかった。歩く度に、差し込む光に舞い上がる埃が照らされる。
     私は、そのままステージに登った。
     体育館の床と同くらい埃の積もったグランドピアノがそこにあった。
     音は期待してはいない、ただ、体育館にあるピアノでなければならない。
    「弾けたっけ?」
     ぼくの言葉が口をついて出る。
     私は、鍵盤に指を下ろした。
     
     蛍の光 窓の雪
     文読む月日重ねつつ
     いつしか時も 杉の戸を
     開けてぞ今朝は別れ行く

     私の指は卒業のメロディーを奏でた。
     差し込む朝日の中にに、卒業生達の表情が浮かぶ。
     この校舎での最初の卒業生から、私は五十年分の卒業証書授与式を、奏でるメロディで修正してやる。
     いや、修正と言う言葉はふさわしくない。彼らに、そう、この校舎に残った記憶、私がここに縛り付けていた記憶に思い出させてやっているだけだからだ。彼らはここを巣立ったのだと言うことを。
     私の右手が紡ぎ出す旋律は、この校舎を深い眠りに誘う子守歌だ。
     
     止まるも行くも 限りとて
     形見に思うちよろずの
     心の橋を 一言に
     さきくとばかり うとうなり

     そこにはあの生徒会長の姿もあった。私の姿も、友人達の姿もあった、そして、私の知らぬ幾人もの生徒が壇上を後にした。
     最後の旋律が、体育館のなかに僅かな余韻を残し消えた。
     私はそっとピアノの蓋を閉めると、軽く一礼して、そこをあとにした。
     
     去り際にもう一度、校舎を振り返った。
     一枚の桜の花びらが風に舞っていた。
    「幻だろうか」
    「さあね、狂い咲きかも」
     そのどちらでもいい。
     私は校舎に背を向け、校門の外に足を踏み出した。
     [了]
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    メイル (2000/6/29 改訂掲載)
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