想縁雪舞

     「だからよ、お前はいい加減に自分が人を“騙して”金を稼いでるってことに真摯になるべきだってんだ」
     昔と変わらない口の悪さでKはそう私に告げた。
     駅のガード下、四畳半かそこらの広さしかない焼き鳥屋のカウンターだ。一畳かそこらの調理場ではおかみさんが2年前と同じように合鴨に塩を振っている。鳥の脂でいぶされ飴色になった柱にはこれもまた2年前と同じ笑顔で笑いかけるビールのポスター。もう元の水着の色が何色だったかも定かではないし、思い出せもしない。
     Kのグラスが空になっているのには気づいていたが、人にビールを注がれるのを嫌うたちだと知っていたから私は何もしなかった。Kが私に向かい何か口を開いた。
     ガードの上を電車が通った。
     「え? 何だって?」
     電車が通り過ぎる。Kはそれでも不必要なほどに声を荒げてもう一度言葉を返す。
     「ヤツはお前にはどれだけ話して行ったんだって聞いたんだよ」
     「駄目。話せない。話せっこない。知ってるだろ、この道の仁義を? 何でそんなこと……」
     「勘違いすんな。額だとか取り分がどうとかケチな話しようってんじゃないんだ。それがわかればヤツがどれだけ覚悟してたかわかるような気がしたからよ」
     Kは私の答えを聞くとフンと不満げに鼻を鳴らした。
     「それなりの不安と覚悟はしてたってことだな、アイツは。何でこっちに話まわさなかったんだ」
     それは、ちょうどそのときKが山に籠もっていたからだ。多分Kもその事情は知っている。確かに、私の方が連絡がつきやすい。だが、
     私は改めて自分に問うた。

     なぜ、私だったのか。

     「事が終わってから、一升瓶一本。安いかな?」
     私は笑ってビールの瓶を掴んだ。嫌がらせをしてやるつもりでKに酌を促す。顔をしかめてKは手を振った。そして私の手から瓶をもぎ取ると手酌をする。
     「まあな」
     Kはそう眩いた。
     「確かに雲は日本海渡って、ここまで来てる。風も寒い、降る条件は整ってる、昔なら楽だったさ。だが約束ができるほどじゃない」
     「弱気じゃないか、風使い」
     「ここ最近は風にフラれっぱなしでな。満足いくのは仕事は天気予報ぐれエだ。あの頃、なんであんなに風のことがわかったんだろうな」
     グラスの底から立ち上る琉珀色の泡を見つめながらそうKは言った。
     「お前はどうだ? 読跡も鈍るんじゃなかったか?」
     「人によりけり、だね。幸い僕はそれほどでもない。試してみるかい?」
     「なら、こいつだ」
     Kはポケットから小さな紙包を出し、カウンターにおいた。私はその包を革手袋をつけたまま、慎重に解いた、中から出てきたのは古ぼけた細身の万年筆だった。

     私は目を閉じると右手の手袋を取り、素手でそっとその万年筆を握った。
     万年筆に染み着いた“記憶”に指が触れる。私は意識の認知レベルを一つ深化させ、感情堰の域値を引き上げた。肉体感覚として伝えられる外来情報の経路を閉じ、内来情報の経路を想起し、水門を構成する。
     情報流路が干上がり、一瞬だけ無限の闇が訪れる。
     私はその闇に自我が拡散しないうちに、最初のサンプリングを行なった。

     水門の域値を最初の情報が得られるまで、徐々に下げる。
     視覚情報を解釈せず単なる映像として、意味を構成しない刺激として想起する。ただの万年筆と思うことも、エボナイトの棒とも考えない。
     私による理解が、“これ”から得られるはずの情報を覆い消してしまわないように。
     ただ、触れた指先から流れてくる“気配”を、導く。

     操作する意識はない。心身に刻み込んだ法形がこれを行なう。
     私の意識は感情堰の背後に退避している。
     記憶氾濫を起こしても、理解のオーバーフローに飲み込まれないようにだ。

     一筋の記憶が流路に流れた。
     映像野にその記憶を送る、断片的な映像が展開した。
     白のラッピング。
     藍色に沈む窓の色。
     デコラ張りの二人掛けテーブル。
     正面に座り、窓の外を見ているべージュのコート姿。
     私は握った万年筆を放した。

     瞑想状態からの浮上は水中からの浮上に似ている。
     光すらも届かない深海からの浮上に。
     最初に音が復活し、肌が温度を感じ始める。明確にわかる嗅覚が突き抜け、閉じた瞼を通して光が差し込んでくる。
     私はゆっくり瞳を開いた。
     「何が見えた? 」
     やけに大きな声でKは尋ねてきた。違う、瞑想下の静寂に耳が慣れすぎただけだ。
     「八文字屋のラッピングと、学食のテーブル。あいつら、金がないからってそんなところで会うこともないだろうに」
     私は手袋をはめ直しながら答えた。
     なるほどな、そうKは言った
     「あいつ、これは持って行かなかったんだな」
     「弟に預けておいたとさ。借り受けてきた。共鳴源に使えるだろ」
     「望み得る限り最高のものだよ、いけそうだ」
     「おまえの能力も確認できた。あとはどうケリをつけるかってことか」
     Kは皮肉に笑って言葉を継いだ。
     「一升瓶一本じゃ安すぎるぜ、全く」
     彼女が現れたのはその時だった。

     店の戸がからりと開き、白い化粧気の無い顔が覗いた。
     串をひっくり返していたおかみさんがただの愛想とは思えないほどの笑みを浮かべて迎えた。
     ……御二人とも先に始めてますよ、あともう一人はまだみたいだけど。
     「あ、いえ、結構です。わたし……、すぐ出ますから」
     覚えていた昔と、声は変わらないままだった。
     べージュのコート姿。彼女、Oはそうして私とKに唇だけ微笑んで会釈した。だが、勧められた席に座る気配はない。
     「外は寒かったろ?」
     Kが口を開いた。
     「確かに天気予報でも雪の降る確率は高けェって言ってたがよ、あいつらは気まぐれでな。こっちの言うことを聞いてくれるわけじゃない。だからよ、いまからこの寒い中立ちんぼになるかも知れない」
     そう言ってKは上の方を指さした。
     「暖まるだけでも、してゆきませんか?」
     私とKがかわるがわる促すと、彼女はコートを着たまま戸口から近い方の席についた。
     ……寒かったでしょう、もうビールじやなくてお燗をつけましょうか?
     ……頼みます、熱燗で。御銚子は三つね、三つ。あとはね……
     Kとおかみさんがやり取りする間、私はずっと彼女を見つめていた。

     以前と同じ、まったく同じポジション。

     私がカウンター席の一番奥。そこから戸口に近い方に向かってKとO。Oがいればいつも賑やかになるKを挟み、私がいつも見ていたのはOだった。
     ただし、二年前にはOとKの間にもう一人、Yが居た。
     二年ぶりの彼女からは少し線が細くなった印象を受けた。頬の辺りに僅かにかげりを見たのは、煙った電球の明りのせいばかりではないようだった。
     不意に私の手に杯が押し付けられた。Oへ向けた視線を遮って、促すようにKが銚子をしゃくって見せる。私は苦笑いして杯を受けた。
     が、私が酌を返そうとするとKは私に背を向ける。そして、にこにことOから酌を受けている。
     これも、昔通りだ。
     となれば私のすることは決まっている。伸ばしたKの手をはたき銚子を奪うと、やはり笑ってOを促した。
     子供じみたやり取りに、ようやく、くすりとOが微笑んだ。
     音頭も何もなかった。互いの杯に酒が満たされたのを見て、私達はそれぞれ杯を干した。
     しばらく他愛の無い話が続いた。
     互いの生活のこと。職場のこと。天候のこと……。
     話すのはほとんどがKで、私は時折合いの手を挟んだ。彼女は振り向けられた話題に言葉少なに答える他はずっと静かに微笑んで私とKとを眺めていた。
     やがて、当たり障りの無い話題も尽き、銚子の中の酒もなくなった。私達は誰が何を言うと言うわけでもなく、揃って席を立った。


     Yがヒマラヤに旅立ったのは二年前のことだった。
     在学中から山を撮っていたYはその頃、ようやく一つか二つオリジナル仕事を請けるくらいの山岳写真家になっていた。それが突然家財道具から何から全て売り払い、旅に出ると言った。
     私達に相談はなにもない。ただ出発の日付としばらくは帰ってこないであろうということを記した葉書が着いただけだ。
     私がKを呼び、KがOを呼び、学生時代から馴染のこの店でYを見送ることにした。やってきたYは登山の装備を抱えてカウンターについた。この身に着けたもの以外は全て売るか送るかしたのだという。
     何気ない口調でYは言ったものだった。
     ……ところで今晩、誰か泊めてくれないか?
     みんな唖然としたのを覚えている。
     その晩私達は言葉少なだった。私もKも、そして何よりOが戸惑いを隠せなかった。
     しばらくして銚子が幾本か空になった頃ぽつりとYが眩いた。

     ……ヒマラヤをさ、ツルが越えるんだよ。
     ……ツル?
     ……マナスルのあたりを、ツルが越えてゆくんだ。もちろん、晴れたときでないとツルは越えられないからその日、その一瞬が来るのをツルは待ってる。そしてその時、空がサファイアみたいに真っ青になったとき、真っ白いツル達が白い氷の山を越えてゆくんだ。

     それを撮りたいのだとYは言った。
     私はその時、そう話すYではなく、Yに視線を向けるOを見つめていた。Oはまだ戸惑いから抜け切っていない、というよりYの行動を認められずにいたようだった。
     正直言って私とKもYのことを全て納得して送り出したとはいえない。
     これまでに己が築いてきたもの、それを振り捨ててあてもなしにただ旅立つ。まともに考えれば馬鹿げている。
     けれど同時に、Yがそうしたいというのなら多分、Yはどうあってもそれをやり遂げるだろうと言う確信があった。
     そして、私とkはYにはそうした夢を追っていて欲しかったのだ。
     そう、今になって思う。


     センター街は相変わらず覚えたばかりの夜遊びに夢中になる子供が群れていた。Kは迷う素振りも見せずに道を進んでゆき、しばらくするうちに小さな路地に入った。
     喧騒のエアポケットのようだった。表通りのネオンさえここには届いてこない。
     不思議とこんな所の方が気が休まった。Oが少し戸惑うように振り返る。
     「覚えてるだろ、あの屋上さ。多分この街で今はあそこが一番天に近い」
     私はそう答え、Oを促そうとした。Oはビルに張り付いて登る非常階段に視線を泳がせ、そして耐え切れないようにうつむいた。
     「まだ、気持ちが落ち着いてないの」
     消え入りそうな声だった。あの店で話していたにもかかわらず、不思議と私はその時初めてOの声を聞いたような気がした。
     鉄の階段を登るKの足音が止まり、手摺の上から声が振ってきた。
     「早くこいよ、そろそろ雪だ、風が言ってる」
     「本当なの? あの人が……、死んだって」
     言葉と同時に記憶氾濫が押し寄せてきた。Oの想いだった。
     法形操作により感情堰が展開した。私に届いたのは、響き残る声にならない嗚咽のみ。
     「すでに現地の領事が確認した。もう身内には連絡がされているし、火葬は向こうですんでる。Yの弟が僕のことを覚えてて連絡をくれたんだ」
     私は平静に、しかし冷たい印象を与えないように言葉を発した。
     こんな時でも仕事で身に着けた、機能としての立居振るまいが出てくること。多分、こんな態度は親友が取る態度じゃないのだ。
     「葬式は遺骨が帰ってからするそうだ。多分あと一週間ぐらいあとだな」
     Kが抑揚を抑えた声で告げた。Oは顔を上げ階段の上のKを見上げた。
     「戸惑うなとか、悲しむなとかは言わねェよ。俺だって戸惑ってる。けど事実として受け入れなけりゃ、始まんねんだ」
     「……そんなこと、言わないで」
     Oの声は震えていた。私は感情堰の域値を上げた。共感されてはならない。
     まだ、私は悲しむわけにはゆかない。
     Kはしばらくためらい、再び非常階段を登り始めた。足音はしだいに遠くなっていった。
     「ゆこう」
     私は告げた。
     「あなたたちは受け入れたって言うの?」
     遠くに明滅するネオンの光。それを背にOは問うた。私は無意識のうちに瞳を逸らしていた。かつてと同じように。
     「まだ受け入れてはいない。多分、そうしに行くんだと思う」
     言葉を切った。次にするべきことはわかっている。だが、それは私の役目ではないはずなのだ。
     たとえ “仕事”とわかっていても。
     私は向き直り、Oの瞳を見つめた。
     「君も一緒に、来てくれないか」
     手を差し伸べ、そう告げる。
     間違っている。本来この台詞を告げるべき人問は、私ではない。
     お前のはずなんだ。

     地上八階の屋上。
     そこは天と地の間にぼうっと浮かんで見えた。厚く垂れ込めた雪雲が覆い被さり、地上の乱雑な光に照らされ緩やかにうねっている。
     Kはすでに屋上についており、給水タンクの上で空を見上げていた。白くたなびく吐息がほとんど風に流されずに立ち上り、雲と地上の問の闇に融けてゆく。
     私はコンクリの屋上からこの街を見渡した。眠らない街から聞こえて来る喧燥は、雲に吸われたせいかやけにくぐもって聞こえる。となりに、Oがいた。
     「あいつが、この場所選んだの?」
     「違う、僕たちだ。けど、あいつも同じ場所を選んだと思う」
     「あいつ、あなたにはなんて言っていたの?」
     「『じゃあ、いってくる』それだけだ」
     「私には、『雪が降る頃には帰る』って。信じちゃいなかったけれど」
     言葉を切る。
     「時間通りに来たこともなかった。待たされてばかりにも慣れてた。けど、辛くなかったわけじゃない」
     淡々と、Oは語り続けた。
     「こんな風に嘘つかなくたって、ね」
     Oはそう言って手摺に手を掛けた。
     「……そこは、錆びてる。危ないから気をつけて」
     私は自動的にしか答を返せなかった。
     答えはない。
     揺らぐように、風がそよいだ。屋上、貯水タンクの上から声が届く。
     「お姫さんのご到着だ」
     Kの言葉が終わるか終わらないかのうちに、私の鼻先に白いものが舞い降りた。
     雪だ。

     垂れ込める雲が重さに耐え切れず、ビルの谷間に降ってきたようだった。始めは二つ三つと控え目に、恥ずかしそうに舞う雪達。それがやがて、手を取り合い、群れをなし大胆に。溢れかえるような群舞を舞いながら空から降りてきた。
     眼下の明りに白いレースがかかった。
     辺りが柔らかな光に包まれた。絹が水を吸い上げるように雪が地上の光を空に吸い上げ、散りばめてゆく。埃と排ガスで煙った空気は雪に漉され、清浄な冷気と香りを取り戻した。
     くぐもっていた喧騒はすっかりと音を潜め、響く音は何もかもが優しく落ち着いて聞こえる。
     「俺の分は終わり」
     給水タンクから降りて、Kはそう私に告げた。
     「次はお前の番だよ」
     私はうなずいた。

     旅立ちに当たり、友が私とKに残した依頼の言葉はただ一つ、『俺に何かあった時はあいつのことを宜しく頼む』だった。
     ひどい奴、ずるい奴だということで、私とKとの意見は一致している。
     私も、KもOのことを気にかけていたこと。それをYは多分知っていた。だが、YはOが自分のことを選んだにも関わらず、旅に出た。
     そんな身勝手な男の願いなど聞き入れる義理はないはずなのだ。だが、それでも私はこうしてここにいる。
     Oのためもある、Yのためもある。
     自分のためもある。
     だが、本当の理由は、私が求められる役割を持っているからなのだ。
     OもKも受け入れなければならない、Yの死という事実。そしてそれがもたらした、迷い、悲しみ。
     それを受け入れるには、そして理解するには。私のような人間が必要なのだ。
     声にならぬ声、伝えられなかった声を伝えるものが。

     私は、手袋を外し、Yの万年筆を取った。
     感情堰の域値は高いままにしてある。私はテレパスではないから、本来この時点で普段から感情堰を高めておく必要はない。
     しかし、この手にある 『記憶の塊』は今、その記憶のもう一人の保持者の存在により共鳴を起こし始めている。記憶の高まりは波ごとに大きくなってゆく。
     まだ私はこの波に心身をゆだねるわけにはゆかない。
     「ここに来て、この万年筆を握ってくれ」
     Oの表情が問う。
     「そして、あいつのことを想ってくれ。この万年筆が見たかも知れない、受けたかも知れないあいつの想いを思い出してくれ」
     問いかけるような顔。私は続けた。
     「君の記憶に、この雪を共鳴させる。
     あいつの灰、あいつの身体を焼いた煙が混じったこの雪雲に、君の記憶を共鳴させる。あいつは、約束を守ろうとした。そのために、あいつは僕達に託したんだ。
     あいつは今、帰ってきてる。君のために」
     私は瞳を閉じ手を差し出した。
     おずおずと触れる冷たい指。
     感情堰を押し切って流れてくる、熱い、記憶。
     私は自我を硬化保持し、記憶の奔流を流れるがままにした。
     OがYと過ごした月日が、交わした言葉一つ一つが、視線が、肌の温もりが、私の身体を流れ出し、空に流れていった。

     ツツジが見えた。縁日の屋台を歩く人の群が見えた。夕立に打たれたアスファルトが匂った。
     汗ばんだ肌が石垣の冷たさを感じた。照りつける太陽が眩量を誘った。吹き抜ける風がポプラを鳴らした。木漏れ日にバックパックを背負った背中が見えた。
     自転車のタイヤが落葉を踏んだ。地元の高校の運動部が隣をランニングして抜けていった。赤と榿と黄色に燃える山が見えた。河川敷を抜ける風が髪を靡かせた。月光の下に微笑が浮かんだ。
     冷たい朝の雪の匂い、灯油ストーブの甘い匂い、チェーンをきしませじわじわと進む車が吐き出す薄紫の排気。自分の靴が積もった雪を踏み締める音。後ろから聞こえる自転車のベル。
     私がいた。Kがいた。Yが、Oが、そしてYに関わる人達が、Oに関わる人達がいた。思いは、記憶は私の身体を吹き抜け、吹き鳴らした。
     私は一つの笛になった。万年筆はその歌口だった。Oはそれを通してYの記憶を、Yへの思いを吹き込み、その思念は亡き者への追慕の歌を歌った。
     魂を呼ばう歌は街の空に響いた。音無き旋律は雪空を駆けた。舞う雪が不意につき動かされるように流れた。頬に風と流れる雪を感じた。
     ……騒いでる。
     硬化した自我表面に、Kの声が映った。
     氾濫原と化した記憶平面、私はそこにそろそろと自意識を顕在化させた、準備は整った。
     そっと右手を放し、左手でOの指と万年筆をともに掴む。瞼を開き、右手を空に泳がせる。手に触れる雪片は降れたとたんに熱を奪い水の雫となった。
     その瞬間、刹那の記億が流れた。

     氷壁の上に広がるサファイアの空。

     誰の記憶かはわかった。この雪の中に、Yがいる。
     Yの記憶はこの雪に封じられている。
     Kがそっと、空に語りかけた。
     風の流れが再び変わった。

     私は、初めて自分から動いた。自分の身体が、感覚があの“追慕の歌”の韻律を有したことを信じ、感情堰を取り払い、意識を空に解放した。
     私が広がった。
     私は空を駆ける歌を歌う歌い手であり、歌そのものであり、それに響きを返す雪華を拾い集める花篭だった。
     そして雪はもはやただ舞い降りるだけの舞を止めた。
     その舞を律する韻律は記憶の歌だった。
     その歌に答え、雪は次々と記憶の断片を私に注ぎ込んだ。
     ヤクの群れが見える。道端でザクロを売る老婆がいる。Yがヒマラヤで見たものが私の視覚を通しフラッシュバックした。
     違う、これじゃない。もっと強く、もっと烈しい記憶だ。Oに伝えなければならない記憶は、Yが見ようとしたものは、もっと烈しい……


     視界が青く染まった、質量を持った空の青さだった。
     手を伸ばせばかつんと音のしそうな空だった。
     白の頂がその空を砕いていた。空の青さに襖を打ち込んだかのように山はその頂を示していた。空の割れる音が聞こえてきそうだった。
     山の嶺から氷の破片が飛んだ、削った空の硬さに耐えかねて頂が砕けたのだ、そう私には見えた。
     白い氷片は見上げる私に向かい降り注ごうとしていた、蒼弓にきらめく大地のかけら。
     そのかけらが風を切り、飛んだ。

     違う、あれはかけらなどではない。

     風をはらむ純白の翼がはためいた。矢柄のように伸ばされた首がまっすぐに進むべき空の道を指し示す。
     青玉の空をゆく、その姿は鳥だった。
     優美な翼とすらりとした身体、数羽が隊列をなし、硬く張り詰めた空を越えてゆく。
     私はその映像を、彼が愛したものに、彼が一番この光景を伝えたかっただろう人に握り締めた手を通じ伝えた。
     彼の依頼は達成された。
     彼の果たせなかった約束の一部を、私は成した。

     雪が積もっていた。どれくらい立ち尽くしていたのだろう。最後の雪のかけらが私達の間に降りてきた。手を伸ばし、Kがそれを掬った。Kの掌の上で雪はしばらくその形を保っていた。
     「ありがとよ、わがまま聞いてくれて」
     Kはそうつぶやくと空を見上げた。私の肩に積もった雪を細い指がそっと掃いた。Oだった。
     私はそっと握った手をはなし、手袋をはめた。
     Oはゆっくりと手に残された万年筆に眼を落とすとそれを私の方に差し出した。
     「いいのかい」
     彼女は黙ってうなずいた。
     「あいつが何を見たかったか、そして何を見せたかった。それだけでもわかってくれたら。そう思ったんだ」
     「彼がそれを頼んだの? 」
     一瞬だけ迷い、そして答えた。
     「いや、違う。僕がそう思っただけだ。彼はきっと君には別のことを伝えていたと思う」
     Oは少しだけ面を上げて、つぶやいた。
     「あいつね、出発する前に一度電話よこしたの。
     お互い、何言ってわからなかったから黙ったままで。しばらくして、最後のコインが落ちたってあいつが言って、そして待っててくれ、きっと戻るって。それから、」
     「それから?」
     「そこで、切れたの。電話」
     Oはそう言うとゆっくりと階段に向かい歩き出した。靴が雪を踏み締めきしり、と鳴った。
     「どうしたらいいんだろうね、どうすればよかったんだろうね」
     「何にもできねんだよ。それに、何もできなかったんだよ」
     Kだった。むき出しの言葉。
     「けれど、あいつはあれを君に伝えたかった。あれを見せたかったんだ。それだけは僕の力に誓っても、間違いない」
     ほふっ、と熱く苦い吐息をついた。
     「しばらくかかる。どうしようもないってわかってても、多分まだ怒ってる。
     けど、あいつが見たかったものを見ることができたから、少し変わるかもしれない。
     いつになるかわからないし、多分今日一人になったら泣くと思うけど。
     でもなんとかなると思う」
     Oはそこで振り返った。
     「ありがとう、呼んでくれて」
     「呼ばないわけねェだろ」
     Kが答えた。
     「それよりどうだ、もう一度飲み直すのは? 俺は何も見えなかったんで納得しちゃいねーぞ。お二人が手をつないでる間、ずーッと、たちっぱなしだったからな。俺はもいちどあそこであったまってから、あの馬鹿のことを思い返すことにするよ」
     半分は拗ねた振りだろうが、もう半分は本気だろう。
     私はコートの雪を払うと、Kに告げた。
     「つきあうよ」
     「勘定はそっち持ちな」
     当然のようにKは言った。
     Oがようやく笑った。


     駅までOを送ったあと私とKは再びあのカウンターについた。
     互いに無言のまま杯を重ねた。私はずっと、あの判断のことを考えていた。

    『彼がそう頼んだの? 』
     Oにそう尋ねられたとき、いつもだったら、仕事の相手だったら、私は『そうです』と答えていたはずだった。
     なぜ、私の意志だと告げてしまったのか。
     仕事という立場を崩したなら、私はただ自分に想いを受け入れさせるために、私にはあずかり知らぬはずのOの悲しみを慮り、労わろうとしたことになる。
     それは、技と術と力を持つ者には許されぬ傲慢と知っていたのにも関わらず、だ。

     「所詮、自己満足なんだろうか」
     知らずに眩いた声にKが答えた。
     「たぶんな」
     「なんのことかわかるのか?」
     「自分が満足したかったから、Oと俺を呼んだ。そして、あいつが頼んだわけでもないものをOに見せた。言ったろ、お前は早く『自分が人を“騙して”金を稼いでるってことに真摯になるべきだ』ってよ」
     「騙していると、思うかい?」
     「疾しいとこがあっから、あいつが頼んだって言ってOを納得させられなかったんだろう?」
     私は苦笑いした。力なんてあっても無駄じゃないか、そう思うときがある。今がそんな時だった。
     「いいんじゃねぇか、騙してもよ。
     むこうだって、多分俺たちだって受け入れたくって、納得したくてここに来たんだ。普通の人間よりもダイレクトな手段が取れたってだけだ」
     Kはそう言うと、ポケットから紙の束を出して放ってよこした。広げるとそこには近辺の地図と気圧の変異予測が事細かに記されてあった。
     「今日、雪が降るってのはほぼ確実だった。俺が降らせたわけでもなんでもない。俺はお前達が納得したがるための役を演じただけだと思うぜ。お前と違ってな。今の“風使い”なんてこんなもんさ」
     私は特に驚きはしなかった。
     「僕もそうかも知れない」
     大陸を越えて来た雲。その雪の一粒一粒からYの痕跡を読み取る。おそらく、私はその過程で幾重にも想像によって情報を補なった。
     私はそんな記憶をYの記憶と偽ったのかも知れなかった。
     次の言葉を探す私を、Kが眼で制した。
     「言うなよ、俺はそう思ってから使えなくなったんだ。
     俺たちは必要なんだよ、それでいいじゃねえか」
     「ならどうして『騙す』なんていうんだよ」
     「今のお前が癪だからさ、多分な」
     私はKの言葉を認め、杯を取った。
     Kが燗酒を注いだ。そして自分の杯に注ぐ。
     私はその酒を飲み干した。



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    メイル (2005/10/26 改訂掲載)
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