大助の夜

    『大助の夜』

    「旧の十一月十五日の晩は「鮭の大助」てゆう魚、海がら川さ登てくる日だど。「鮭の大助て」ゆう魚ぁ、鮭の「よー」(鮭のこと)の王様てゆう魚ですと。「鮭の大助」ぁ、川登っとぎ、
    「鮭の大助、今通る。鮭の大助、今通る」
    て、大声で叫びながら、登て行ぐなだど。
     ほして、この声聞こえだ人はぁ、三日ど、生きらんなえなだど。どがえた、丈夫(まめ)な人でも、ほの声聞ぐずど、三日の中え、ばえら(突然)、病気して、死んですまうなだど。
     んださげ、この晩ぁ、川端の村でぁ、川の仕事休んで、御祝儀すんなだど。ほうして、「どんどん」、太鼓ただえで、酒のんで、唄うだで、「大助」の声ば聞かねようえすんなだど。(後略)新庄の昔話」


    「百四十 神の大鳥川下り
    東田川郡朝日村
    十二月十五日に神様が出雲の国に集まる時に、大鳥川を「さけのほうすけ今くだるわい」と言い乍ら下った。人々がその声を聞くと死ぬかまたは災難に会うので聞こえないように餅をついていればよいと言われている

    山形県伝説集 総合編 山形県立山形東高等学校郷土研究部編」



     鮭瀧村の修理叔父の死体が集落から3キロ下流の鮭川の川辺に打ち上げられたのは、市内の雪がほぼ消えた、それでも春と呼ぶにはまだ早い雲の垂れ込めた三月の週末だった。
     晩冬のこととはいえ寒さの厳しい最上の方でのことだったので遺体はそれほどひどく傷んでいなかったらしい。
     行方不明になって警察に捜索願いが出されてから一週間がたっていた。

     僕がそのことを知ったのは行きつけの由縁堂という古本屋でだった。
     いつも通り定食屋で早めの夕食をとった後、掘り出し物でもないかと由縁堂に寄ったのだった。その店は、昔叔父が教鞭をとっていた高校のそばにあり、僕がその高校に通うようになってから足繁く通っていた店だ。古書、古地図の類を扱う一方でふた昔前の文庫本がよく揃っており、やたらと乱読の癖のある僕には願ったりの店だった。
     店先のワゴンにめぼしい物がなかったので適当に中で文庫でも漁ろうかとした時に、店の主が僕を見つけ、修理叔父のことを尋ねた。
     もちろんその時点では僕はなにも知らなかったから答えることができないどころか、逆に聞き返す始末だった。
    「まんずあぎれた、親戚だべ、なしてしゃねんだ(知らないんだ)?」
     店の主は心底呆れた口調でそう言ったものだ。
     話に依れば、由縁堂の主は最初、修理叔父の行方不明の事も知らなかったという。
     三月ばかり前に修理叔父から注文のあった書籍をつい先日送ったのだが、振り込みが無く不審に思い電話をしたところその事実を知らされたのだ。
    「んだども、歌の会が近いから電話なすねぐともいづかはわかったべな」
     そう言うと主は首を振って、手元に開いていた歌集に目を落とした。
    「多分、大瀧の方では、僕の家族は皆海外に出向いてると考えてたのだと思います」
    「んだば、ニューイングランドの方さ、連絡いっだんだが?」
    「多分……」
    「通夜さはまにあわねべ」
    「葬式だけでも出なくちゃ。母に聞いてみます」
     そう言って背を向けた僕を主は呼び止めた。
    「これと、送った本ば仏さんの前に供えてけろ」
     受け取った本はそれまで主が読んでいた歌集だった。
    「去年の夏のやつだ。修理さんの歌も載ってだ。昨日届いたんだ。いずれおれもご挨拶にゆくけど……」
     僕は軽く礼を言うと、由縁堂を辞した。

     下宿先からかけた国際電話でその話を告げると、母はその経緯を僕らしいといい、その後、ぽつりと、
    「修理さんらしいわね」
     といった。思った通り、ニューイングランドの方には昨日連絡があったのだと言う。
     母は叔父とはあまり面識が無かった。子供の頃はわからなかったが、父方の兄弟関係は少し複雑な事情があるらしく、大きくなってからも息子の僕にはなんとなく聞きにくいような空気があった。
     けれど、修理叔父はもとから霞城市の高校で教鞭を執っていたこともあり、親しく付き合いのあった唯一の父方の親戚だった。生憎と叔父は、僕が小学校に上がるか上がらないかの時に鮭瀧村の大瀧と言う旧家に婿入りして霞城を離れており、僕が叔父の教えていた高校に入学したと聞いたときにはとても喜ぶと同時に教師として僕に会えないことを悔しがっていた。
     その代わりに叔父は僕の通う高校についていろいろとおもしろい話や古株の教師の秘密、近くの店の情報などを、教えてくれた。由縁堂もそうした店の一つで、叔父はその店で行われる和歌の集まりに昔から顔を出していたのだ。
     叔父はその集まりではなかなかに評判が高かったらしい。東京の文芸専門の雑誌社から幾度か編集者が来たのだという話を母は話した。
     僕にとってはそのことは初耳だった。
     僕が知っていたのは叔父がそこで澪叔母さんと知り合い、結婚したのだと言うことだけだった。
     霞城大学で国文学を学んでいた澪叔母さんは鮭瀧村の旧家の一人娘で、結婚するとなれば修理叔父は婿養子になる他無かったけれど、修理叔父はためらわずに鮭瀧村に赴いた。もしかしたら、父方の事情とはそのあたりに起因するのかもしれなかった。
     その後、叔父は鮭瀧村に婿養子として赴いてからも、毎月由縁堂とは手紙で注文のやりとりをし、三月に一度はそうした本のリストが届けられていたという。
    「きっと、勉強を続けていたのね」
     少し湿っぽい声でそう母は言った。
    「もう、お葬式は終わってしまったそうよ。てっきり私たちがみんなニューイングランドにいると思ったのね。父さんも私もまだ帰れそうにないわ、替わりにあなたがご挨拶にいってくれないかしら。多分あなたがあの家とは一番関わりが深いし向こうも喜んでくれると思うの。裕くんとも年が近いし、よく遊びに行ったし……。それと、」
    「それと?」
    「啓さんのこと」
    「ああ」
    「啓さんを霞城の病院に入れた方が良いって、あなたからもう一度話してくれない?この間電話で話したときにも私は言ったんだけど、こんなことがあった後だからって、断られたわ。けど、やっぱり鮭瀧村で過ごすよりも、霞城のちゃんとした病院の方が啓さんのためになると思うの。修理さんも澪さんももう亡くなってしまったし……」
     こんなことまで頼んじゃって悪いわね、電話口で母は少し申し訳なさそうに言った。
     そして、僕は箪笥から喪服を引っ張り出し、鮭瀧村へのバスの時刻を確かめた。

     山肌にへばりつくようにして続く道を、バスは幾度も大きく車体を揺らしながら進んだ。
     山際に見える空は雪雲の真綿色に塗り篭められている。日暮れにはまだ早く、雪雲を通した光がかえって周囲を囲む山々の斜面を浮き上がらせていた。
     幾つものカーブを曲がり、いじけた杉の林を抜けた時、視界が広がった。
     鮭川にかかる鉄橋の上に出たのだ。
     そろそろ雪解けが始まっているのだろうか。深く暗い川はとうとうと黒い水をたたえ、遠く鋼色に煙る地平線の向こう、日本海に伸びていった。
     鮭瀧の集落が見えた。山あいの小さな村だ。鮭川が運んできた土砂が谷底にあふれ、わずかに農業を営むだけの土地を作った。集落の真中を鮭川が縦断し、一本の大きな橋が川に分割された集落をつないでいる。確かあの橋は「やなかけばし」と言ったはずだった。
     やがて、がたんと音を立て、バスは止まった。
     乗客は僕一人だけだった。

     バスを降りると僕は周囲を見まわし、公衆電話を探した。
     乗る予定のバス時刻は知らせてあるが雪の山道を行くバスのこと、到着予定時刻はあまり当てにできない。叔父の家には幼い頃よく遊びに行ったが、最後に訪れてから十年以上経っている。それも夏の頃の話で春先とはいえ集落全体が雪に覆われたこの時期では、案内がなければたどり着けそうになかった。
     藍色の闇が周囲の山々から染み出してくる黄昏時、道を行き交う人影はほとんどなく、わずかな人影もよそ者の僕に構わず家路を急ぐ。叔父の葬儀のことを話せば案内してくれるかもしれなかったが、余所者の引け目か、言葉をかけることがなぜか僕には憚られた。
     僕はバス停の近く、赤錆の浮いた看板の土産物屋の店先に公衆電話を見つけ、そちらに赴いた。
     電話の声は幾度か聞き覚えのある声だった。もたつくような訛りがあるものの、早口で噛みつくように話す。鮭瀧の女性は多くがそんな話し方をした。電話に出たのは大滝の家で女中仕事をしている妙子さんだった。
     妙子さんは僕が辟易するくらいに丁寧に到来を感謝すると、夫の善三おじさんを迎えによこすと言った。一番忙しいだろう妙子さん夫婦の手を煩わせるのが心苦しくて、僕はバス停からの道だけを聞こうと思ったのだけれど、妙子さんはそれを許してくれなかった。
    「ほだなこと、気にすんたといいですはぁ。わざわざ、遠ぐがらきてけだこどだけで、どんだけ修理さまぁよろごぶこどか……。すぐ、うっちゃのむがえさよごすさげ、待っててけらっしゃい」
     僕は申し出に甘えることにした。感謝を伝えると受話器を置いた。

     叔父が婿入りした大瀧の家はこの鮭瀧の集落で最も大きく家柄の古い家だった。幼い頃、遊びに行ったその家は広く、幼かった僕には迷路のような別世界だった。
     当時、僕が大瀧の家を訪れるのはいつも夏、お盆の開けた頃だった。
     どこまでも続くかに思えた長い廊下と、あまりにも高く感じられた天井。
     広い屋敷の奥、座敷をつなぐ中の廊下や炊事場は、土蔵の壁に熱を奪われた蒼い照り返しの光が満ち、なぜかよそよそしかった。
     そのころ、僕にとってあの屋敷の中でのかくれんぼうは恐れと好奇心の入り交じった一番の遊びだった。
     そのころまだ身体が弱くなかった啓ねぇさんや裕は勝手知った自分の家でのかくれんぼうなど面白くなかったのかもしれないが、遠くから遊びに来た僕をほっぽって遊んだりすることができない姉弟だったので、川遊びをあきらめて僕に付き合ってくれた。そして僕は隠れると言う名目でこの屋敷の中をさ迷ったのだ。
     幾度か廊下を曲がり、あてずっぽうに襖を開ける。そうすればそこはたいてい今までの僕の知らなかった部屋で、床の間に飾られた掛け軸や置物だけが区別の手がかりだった。
     鶯、老人、山水、わからない漢字の羅列、古びた鎧。
     多くはしみがついたり、日に焼けてしまって、暗がりの中では判別のつかなかった。そして、しみにしか見えない模様、かすれた筆の線、それらが僕の知らない何か怖い物を描いているように思え、焦点の合っただまし絵のように何かが浮かび上がってくる、そんな不安が僕の胸を満たす。
     そして僕はたまらず襖を開け、外の方、みんなのいる明るい外、油蝉の鳴く外へ逃げ出すのだった。

     やがて、僕が小学校の高学年になる頃、もともと体が丈夫でなく寝たり起きたりを繰り返していた澪叔母さんが帰らぬ人となり、そして啓ねぇさんの身体もゆっくりとだが確実に衰弱していった。僕は、そのころの大瀧家のなにか沈鬱な空気に、自然と足が遠ざかってしまった。そして、裕が仙台の中高一貫の学校に行くようになると、僕と鮭瀧村の接点はほとんど無くなってしまったのだ。

     チェーンが濡れたアスファルトに触れて音を立てた。軽いエンジンの唸りが小さく聞こえた。

    「弘兄さん」

     軽トラックの荷台から訛りの無い涼やかな声が僕の名を呼んだ。
     そこに少年が立っていた。
     宵闇に浮かび上がる白磁の頤と、玲瓏の瞳を持った少年だった。
     詰襟の学生服の上から毛織のコートを羽織っていた。足元はくるぶし丈のスノーシューズ。首にマフラー。そんな街では当たり前の格好が、この鮭瀧では妙に浮いて見えた。
     瞳のあたりに見覚えがあったが思い出せなかった。
    「え、……と」
     振返った僕はかなりいぶかしげな表情をしていたらしい。少年は少し気まずそうに口調を変えて問い直した。
    「梁井、弘さんですよね?」
    「え、ええ」
     口篭もって答える。と、軽トラックの中から雪焼けと笑いじわでくしゃくしゃの老人が顔を出した。
    「善三さん!」
    「あいや、わすったかぁ?梁井の弘さんだべ、裕坊ちゃんだず」
     言われてようやく合点が行った。
    「裕坊……か?」
     僕が幼い頃の呼び方で少年の名を呼ぶと少年ははにかむように笑った。
    「いやだな、忘れるなんて」
     僕の従兄弟、裕だった。
    「わがらねのも、すがだね。むがしぁほんと、ちゃちゃこましぃわらすこだったんが、こんだけりっぱになっだもの。んでも、弘坊も変ったずねぇ」
     そう言うと善三さんは楽しそうに笑った。
     修理叔父さんの息子、僕の従兄弟の裕は僕より三つ年下だった。最後に裕と過ごした夏は小学校三年生の夏だ。
     それから十数年。考えてみれば最も男が成長する時期に離れていたのだから会ってもわからないのは仕方ないのかもしれない。
     言われてみれば確かに笑顔に昔の裕の面影を見出すことができた。
     僕は軽トラックに歩み寄ると微笑んだ。
    「びっくりした。かわったな」
     裕は控えめに困ったような笑みを浮かべた。
    「まんずまんず、ひさしぶりだずねぇ。むがしぁよっぐ来てけたのによー。久し振りに来てけたとおもっだら、こんなことだもの」
     善三さんはそう言うと、軽く頭を振った。と、僕は自分がここにいる理由を思い出し、裕が修理叔父さんの息子で今回の葬儀の喪主であることを思いだした。
    「……すまない、はしゃぐ場合じゃないよな。なんて言ったらいいのか……」
     僕は口篭もった。裕は瞳を伏せ自分のつま先のあたりに視線をさ迷わせている。軽トラックの善三さんも視線を外した。軽トラックのアイドリングの音だけがしばらくその場を支配した。
    「……そう、突然のことでもないよ」
     ささやき声、本当にささやくような小さい声で裕は呟いた。
    「何か、兆候でも?」
    「いや、行方不明になった時点で最悪、こうなることを考えていたから」
     何を言っていいかわからない。口の中で言おうとした言葉は何かもごもごと立ち消えた。
    「わざわざ遠くからありがとう、弘兄さん。屋敷に行こう。部屋にはストーブ入れてあるし、料理もある」
     顔を上げた裕は精一杯の明るい声でそう言った。
     善三さんが軽トラックの窓から頭を出し、鼻から大きく息を吸った。
    「坊ちゃん早えどご屋敷さいぐべ」
    「ああ、わかった。さぁ、弘兄さん。乗ってくれ。急いでいかなきゃ」
     裕はそう言うと身軽な仕草で軽トラックの荷台に上がり、僕に手を伸ばした。
    「助手席は泥だらけでさ。昔、よくこうやって乗ったの覚えてない?」
    「覚えてるよ」
     軽トラックは集落を横切る県道を御堂山のほうに向かった。集落を挟む二つの尾根筋のうち、屋敷は御堂山の御堂の傍にあった。
     風は冷たかったが進行方向に背を向けて運転席を風除けにすると、それほど吹きさらしにはならなかった。
     僕と裕は互いに身体を寄せて、風から逃れた。
    「それにしても、こっちも少し弘兄のことわからなかったな。少し暗くなってるし、それに最初なんか不機嫌だったもの」
    「裕が大きくなったからだよ。僕もわからなかったんだ。それより、もう大丈夫なのか?」
     僕は注意深く、言葉を選んで尋ねた。
    「……うん、あいにくと村でのお祭りと時期が重なっちゃったから、いろいろ大変だったけど、善三達が手伝ってくれたし、通夜の客も少なかったから。『大助迎え』が終わってから村の人は来るだろうから、それまでは納棺もできない」
    「大変だな」
     質問の本意とは別の回答だったが、僕はそれ以上質問するべきかを悩み、口を噤んだ。
     それからしばらく僕たちは押し黙っていた。
     こんな風に再会したのでなかったら話すことはあったのだろうか、僕はそう考えたがすぐにそれを打ち消した。
     僕と裕が過ごした日々は十数年も前で、話すことは昔の思い出話の他はあり得ない。けれど今、まだ雪が深く残る黄昏時にはそんな思い出が白々しく思えてくる。
     多分、僕たちがもっと年をとっていれば何も知らないように話し合えたのかもしれない。
     僕たちは居心地の悪い沈黙のまま膝を抱えていた。

     修理叔父は大瀧の家に婿養子として入った。その時点ですでに澪叔母さんのご両親、つまり裕の母方の祖父母は亡くなってしまっていたらしい。あの大きな屋敷で善三さん夫婦と澪叔母さんだけが生活していたのだと言う。
     結婚してしばらくして、啓ねぇが生まれ、それから五年ほどしてからもう一人男の子、裕が生まれた。だが、澪叔母さんはあまり身体が丈夫なたちではなく、裕を産んでから次第に体調を崩した。僕が遊びに行ったときも叔母さんはずっと離れに引きこもり、訪れた最初の日と帰るときに一度づつ挨拶するぐらいだったのを覚えている。
     僕はさっきの裕の面影の中に定かではない澪叔母さんの顔を思い浮かべてみようとした。けれど、それはどうしても裕の面影だった。無理もない、僕もほとんど澪叔母さんの顔を覚えてはいないのだ。
     そのかわり、僕の思い描く澪叔母さんの面影にはなぜか啓ねぇの面影が入ってきた。変な話だ。啓ねぇの顔だって僕が覚えているのは中学校の二年生くらい。決して、成熟した女性の顔ではない。

     ふいに強い風が横合いから吹き付けてきた。軽トラックが橋の上に差し掛かり、川面を渡ってくる風が荷台の上の僕達を吹きさらしたのだ。
    「……やなかけ橋か」
     僕は呟いた。特に意図はない。風に吹かれたついでに昔の記憶が甦っただけだ。
    「むかし、この村では川を上がってくる鮭や鱒をとってたんだって」
     受け取られることを期待しなかった言葉を裕が拾った。
    「このあたりで簗を仕掛けたんで、簗架橋」
     話の糸口が掴めた。僕は思い出話をしてみる事にした。
    「昔よくこの橋の下で遊んだよな」
    「うん」
     裕はうなずいた。
    「そうだったよね。けど、それでいつも怒られた。子供達だけで水遊びをするなって」
    「いつも啓ねぇが妙子さんに怒られてたな」
    「うん。それで僕達が姉さんに謝ってた」
     橋の下は日陰で夏でも涼しかった。それに河原にはいろいろなものが打上げられていた。川底で磨かれてつるつるになった石。奇妙な形をした流木。時折鼬や狐が食い散らかした魚や蛙が干からびていたりもした。
    「そういえば、模様のついた石とか見つけたっけ」
    「もう少し下流のほうに行くと、鮭川が梵字川って呼ばれたりもするんだ」
    「梵字川?」
    「むかし、弘兄さんが見つけたみたいに河原に梵字を書いた石が流れてきた事があったんだよ。だから」
    「へぇ、詳しいじゃないか」
    「父が教えてくれたんだよ。そう言うことには詳しい人だったから」
     長く、重い息を裕は吐いた。
    「やっぱり、僕、父に似てるんだろうな。興味持つことが、一緒のような気がする」
    「仕方ないんじゃないかな」
    「似たかったのは母さんなのに。もう写真しか残ってない」
    「啓ねぇは澪叔母さんに似てる。妙子さんがそう言ってなかったか?」
    「啓姉さんは……。啓ねえさんさ」
    「大丈夫だったのか」
     母が言った言葉。霞城で啓ねぇの治療をすることを切り出すつもりで僕は聞いた。
    「……まぁ、ね。思ったほどショックは大きくなかったみたいだ」
     そう言った裕の沈痛な横顔を見て、僕はいたたまれずに言葉を続けた。
    「啓ねぇを霞城に連れてこいよ。大きな病院に入れて、そうしないと、大変だろ。それにきっとそのほうが、幸せだと思う」
    「もう、いいんだ」
     裕は苦しそうに呟いた。
    「いろんな病院をたらいまわしさ。さんざんあちこち回されたあげくにね、結局何も治らなかった。僕が側にいたらそんなことはさせなかった」
    「霞城にも来たのか?聞いてないぜ、そんなこと」
    「知らせたくなかったんだよ。啓姉さんも、父も」
    「なんでだよ!裕。教えてくれたら見舞いにだっていけたのに。それに、もしかしたら何か力にだってなれたかも知れないだろう?」
    「だから、言ってるじゃないか弘兄さん!父は会わせたくなかったし、啓姉さんも会いたくなかったんだよ」
     そう言うと裕は怒ったような表情で僕に向き直った。
     僕はその時多分とまどいの表情を隠せなかった、初耳だった。
     裕は荒げた自分の声に驚いたように一瞬声を詰まらせ、そして目を伏せて弱々しい声で呟いた。
    「もう、いいんだよ」
     そんなことはない。そう言いたかった。けれど、今まで何があったかを知らない僕がそんなことを言っていいのか、僕にはわからなかった。
     テールランプが赤く染める雪の道をぼうっと眺めたまま、僕は次の言葉を探していた。
     裕が口を開いた。
    「確かに、あいつはもういない。けれど、善三と妙子がいる。啓姉さんと僕が暮らすくらいはできるさ。それはきっと、そんなに長い期間じゃない。それが終わったら、霞城に行くよ」
     そんなに長い期間じゃない。確かに裕はそう言った。その言葉が意味することは多分一つしかなかった。
     裕は自分が言った言葉にうなずいて続けた。
    「そう、そんなに長い期間じゃない。母さんも、姉さんも僕のいる場所から去ってしまうけど。いずれこうなる運命だったんだ。父さんはこうなることを知らなかったのか、それとも何とかなるって思ってたのかも知れないね。けど、結局無理だった」
     遺伝病。どこかで耳に挟んだ言葉が浮かび上がった。
    「そういう、家系なのか?」
     裕は笑った、少なくともその時、僕にはそう思えた。
    「そう、家系だね。家系なんだ。
     あいつは母さんと結婚することで外の血が入るから大丈夫だって、そう言ってたんだって。けれど啓姉さんも逃れることはできなかった」
     淡々と裕は話し続けた。再会したとき、裕に感じた陶磁器のような印象は、すでに確信していた父の死、そして予定された姉の死を想い張りつめたまま固まった裕の心が外に現れた物だと、僕は漠然とそんなことを考えた。
    「弘兄さん。僕、なんか置いてきぼりを食らったみたいだよ。実感無いんだ。僕の周りから人がいなくなっていくって、もっと怖いことだと思ってたのに。自分でもフシギなんだ。
     中学に入ってからずっと仙台のほうに行ってたし、その間ほとんどやり取りはなかったし。だからかな。いなくなっても、こんなものかなって。それ以上に思えないんだ」
    「なんていっていいか……済まない」
    「誤らなくっていいよ。こっちこそ困らせて、ごめん。ただ、自分が思ってる事口に出したかっただけなんだ」
    「なんか変だな、裕。裕のほうが落ち着いてるみたいだ。けど、辛かったら言ってくれよ。なにか…できると思う」
     そう言うと裕はくすっと笑った。笑われた時、妙に居心地の悪さを感じた。
     と、荷台が揺れ、僕と裕の肩がぶつかった。バランスを崩した裕の腕を僕は掴むと。小さく裕はありがとうと呟いた。
     僕は答えた。
    「事情がいろいろあるんだろうけど……、気を落とすなよ。裕坊は一人きりってわけじゃないんだから」
     僕はわざと子供の頃の呼び名で裕の名を呼んだ。
     裕はことりと僕の肩に頭を押し付け小さく何ごとか呟いた。
     ……一人だよ。もう、僕だけ一人だ。
     僕にはそう聞こえた。
    「どうした、裕坊」
     なんでもないよ、裕はそう答えた。


     屋敷は以前の記憶通りだった。
     幼いころの印象は誇張されたものだと思っていたが、実際にこの年になって訪れてみてもその屋敷は大きく、広かった。
     軽トラックは荘重な門を抜けると、中庭の善三さん夫婦の使っている離れの前に止まった。
    「まんず、軽トラでな行っだから。坊ちゃん方ふぎっさらしで、さむぐてなんねべな。なしてちゃんとした車でいがねんだ」
     玄関からかっぽう着姿の妙子さんが善三さんに噛みついた。
    「いいんだよ、妙さん。もう一つの車は車庫から出さなきゃ行けなかったんだから。その間の雪掻きだけで弘兄さん凍えさせちゃうもの」
     そう言って裕は妙子さんをとりなした。
     そのあとも、妙子さんはあらかじめ雪掻きをしておけばよかったのだとか、恵比寿講の連絡をどうするのだとか、善三さんに小言を言っていた。
    「ごめんね、弘兄さん。母屋のほうに行こうよ部屋は暖めてある」
     裕が苦笑しながら、僕の先に立って歩いた。

     母屋のほうに近づくと線香の匂いが漂ってきた。正門から母屋への道は解けた雪が再び凍り付いていたが、滑り止めのむしろのおかげでひどく滑ることはなかった。
    「あんまり人は来なかったんだって?」
    「『講』があるから。この時期の『講』は『梁納め』でもあるから、みんな精進潔斎してるんだ。本葬もそれが終わるまではしない」
    「母さん達は多分後から挨拶には来ると思う」
    「霞城のほうにはあんまり知らせてないんだ。いろいろと大事になっちゃうから。父さんのほうの関係よりも、大瀧の家のことだからかな。善三がそう言ってくれたし、僕も大げさなことになるのが苦手だったから」
     通された玄関はしんと冷え、線香の匂いにまぎれてあの懐かしい土の匂いがした。
     たたきには僕と裕以外には靴は無かった。ぽつんと裕のスノーシューズが裸電球に照らされているのはひどく物寂しく思えた。
     縁側の長く冷たい廊下を僕は裕に先導されて歩いた。靴下越しに冷気が染みとおり、歩くうちに足の指の感覚が無くなってきた。いくつかの場所では雨戸越しに細かな雪が吹き込んでいた。
     庭に面した部屋はみな暗いままに障子を閉めている。その奥に閉じ込めた暗闇の質量が廊下まで及んでいるのだろうか、不明瞭な圧迫感が僕の足を知らず早めさせた。やがて前を行く裕が襖を開くと、切り裂くような明かりとひときわ強い香の匂いが感じられた。
     仮葬儀の部屋だった。床の間の前に遺影が立てられ蘭の花が添えられている。遺影の前には白木の簡素な祭壇が据えられている。古ぼけた祭具がその上に乗っている。床の間には仏画がかけられ、その仏像は身体に華麗な瓔珞をつけ、腕には籠を抱えていた。籠から覗く物は、魚だろうか。
     だがそれ以外は肩透かしを思うほどに質素な部屋だった。何より、寒い。
    「葬儀屋を呼んで来るには遠すぎてさ。必要な物は御堂にそろってるから、それを使ったんだ。第一、葬儀の方法だって仏式じゃないから。けど、花くらいは何とかしたほうがいいって妙子が言って、洋蘭の趣味を持ってる人の温室から少し分けてきてもらったんだ」
    「神式なのかい、大瀧の家は」
    「うん、もっともかなり混合してるけどね。隣の部屋行けばわかるよ。食べ物もそこにある。
     線香を上げてあげて」
     裕はマッチで蝋燭に火をともした。
    「寒かったから、ひどく傷ついたりはしてなかったんだろう?」
    「それでも少しは魚や鳥についばまれたらしい。
     骨になるよりはまし、だったのかな」
     裕は鈴を鳴らし手を合わせると僕を促した。
     僕は蝋燭の火で線香を灯した。
    「あ、」
    「どうしたの」
    「忘れるところだった。鞄をとってくれないか。裕。修理叔父さんの歌が載ってる歌集があるんだ。それと、霞城の古本屋から叔父さんのところに本が届いていたと思うんだけど、それも取ってきてくれないか?」
    「書斎かな……。待っててくれる?」
    「ああ」
     裕は部屋を出た。
     しばらく待ったが裕は戻ってこなかった。
     不安がむくむくと頭をもたげてきた。
     屋敷はしんと静まり返り、時折吹き込む風が雨戸を鳴らす。
     気がつけば僕は叔父の死体と部屋に一人きりでいるのだ。
     三方の襖の白さが息苦しく押し迫ってくるようだ。
     僕は鞄から取り出した歌集を手に取った。
     裕はまだ戻ってこない。
     その時、廊下の側から衣擦れの音がした。滑稽なくらいに僕は驚き、本を落とした。
    「裕か?」
     答えはない。僕はそっと踏み出した。と、襖の向こうで人が駆け出す気配がした。
     僕は襖を開け放った。暗い廊下に蛍光灯の薄寒い光が切り込んだ。僕は気配を探した。相手は急いでいるにもかかわらず、ほとんど足音をたてていなかった。
     視界の隅に影を捉えた。長い廊下の向こうで、和服の裾と白い足首が曲がり角に消えた。
     啓ねぇだ。
     その時僕はそう思った。
     僕は後を追った。曲がり角にたどり着く、啓ねぇさんの姿は既にない。
     わからないまま更に廊下を進む。どこかで部屋に入ったのだろうか?
     耳を澄ます。僕の荒い息しか聞こえない。
     僕は手近の襖を開けた。
     そして、連なる部屋の襖を次々に開いて屋敷の奥へ進んだ。
     不意に既視感が押し寄せた。以前にも僕はこうして襖を開けて啓ねぇを探したことがある。
     憔悴しながら啓ねぇの姿を探しつつ、その時のことを僕は思い出そうとした。
     思い出した。
     あれは今とは違う、夏の日だった。
     時間も夜ではない、昼間だ。
     土蔵の白壁が照り返すよそよそしい光の中、どこまでも続くかに思えた長い廊下と、あまりにも高く感じられた天井。
     盆のあけた頃、迷い込んだ屋敷の中。幾度と知れず廊下を曲がり、当てずっぽうに開けた襖はいつも僕の知らない、誰もいない部屋に出る。
     夏と冬、昼と夜。余りに状況は違うのに、それでも何か通じる物がある。
    「啓ねぇ……」
     狂おしく胸に騒ぐ喪失感がそれだった。
     あの夏の日も僕は啓ねぇを探してこの屋敷をさまよった。

     不意に、喪失感が言いしれぬ不安にすり替わった。
     あけはなった部屋の四隅、光の届かぬ影に何かが潜んでいる。
     そんな妄想じみた恐怖が僕を捉えた。
     馬鹿な、そう思う。この不安はあのときの僕が感じた不安だ。幼い頃の自分がが感じた不安だ。何の根拠もないただ闇を恐れる子供の恐怖だ。
     どこか冷静な意識はそう僕を諭す。けれども、
     僕は導かれるように部屋の奥、床の間に視線を移した。
     暗い床の間に白く下がっている物がある。
     僕はこれを見たことがある。
     判別のつかない墨の濃淡。何が書いてあるのか、今はわからない。けれど、後少し視線を向けていればやがて、意味ある画像として浮き上がってしまう。
     瞳を吸い寄せられたまま、子供の僕はそこで泣きながら目を反らそうとしている。
     わからないでいる今の間なら怖くは無い。
     けれど、しみにしか見えない模様、かすれた筆の線、それらが僕の知らない何かを描いているのだとしたら。そのしみ、墨の飛び散った跡が何かの意味ある姿としてまるでだまし絵のように浮かび上がってきたとしたら。
     薄笑いが見えた。
     それでも笑っていない瞳がわかった。
     断片でしかなかった視覚が一つの意味ある映像に統合されようとしていた。そして、僕は叫ぼうとした。

     その時、 周囲の闇が切り落とされ、切り込んできた光がその映像を照らした。
     瞬間、暗闇の中で立体化しつつあった不安の像が平板な画像に押し込められた。
     今まで膨張し、破裂せんばかりだった不安が安堵のため息と共に終息した。

    「弘兄さん、こんなとこでどうしたんだい?」
     裕が明かりをつけたのだった。
     いぶかしげな声だった。
     僕は軽く頭を振り、床の間にかけられた掛け軸に目をやった。
     そこには釣り竿を持ち、岩場に座った恵比寿の掛け軸がかかっていた。闇の中で僕を嘲笑うかに見えた笑みは明かりの下で見れば記号的な福福しい笑みだとわかった。

     その部屋には座卓がしつらえてあり、その上には大皿に盛られた料理が並んでいた。わずかにタバコの匂いが残っていた。そして、床の間の掛け軸の前に小さな、手のひらにも乗りそうな厨子があった。
    「この、部屋は?」
    「弔問に来てくれた人に料理を振る舞う所……。それよりどうしてこんな所に?」
    「物音がしたんだ。啓ねぇかと思って」
     僕の言葉に裕は無表情に答えた。
    「啓姉さんは起きあがれるような状況じゃないよ、気のせいじゃない?」
    「いや、顔は見えなかったけど……確かに誰かが居たんだ」
    「妙子じゃないかな。料理をそろえてたんだと思う。弘兄さん。兄さんが言ってた本ってこれだよね。はい」
     裕はハトロン紙でくるまれた古ぼけた本を二冊僕に手渡した。そして、隣の部屋への襖を開いた。そこは僕が最初に通された、叔父の遺体が安置された部屋だった。
     僕は長い廊下を渡ったと思っていたのだが、実際には隣の部屋に入っていただけらしい。さっきの不安に押し包まれた道行きは夢だったとでもいうのだろうか?
     裕が線香に火をともし手を合わせる。促されて僕は釈然としないまま本を霊前に供え手を合わせた。
     しばらくして、裕が口を開いた。
    「冷えたろ、隣で暖かい物を食べよう。……来てくれて、ありがとう」

     恵比寿の掛け軸がかけてある部屋は遺体の置いてある部屋とは異なりストーブが焚かれていた。先程の料理の大皿に目をやると、ほとんど手が着けられていないのがわかった。
     ……『梁納め』があるから。
     裕の言葉通りだった。
    「やっぱり妙子だったんだよ。ほら、汁が暖めてある」
     僕に席を勧めて、裕は椀に汁物をよそった。
     僕は進められるまま席に着いた。
     並んでいる料理は塩漬けにしてあった山菜や養殖している虹鱒だった。
     妙子さんだったとしたら、なぜ僕の目から逃れるようにしたのだろう。疑問が湧いた。
     それともそれも僕の思い違いなのだろうか。
     この屋敷の中にいると何か不安な気持ちになる。それは襖一枚隔てたところに屍体があるからかも知れない。もしくはこの屋敷そのものが持つ厳めしく重苦しい空気のせいかもしれない。
     僕はなんと言うことなく部屋を見回した。
     黒い柱、白い襖。天井の中央に灯された蛍光灯の明かりは、天井の隅や欄間までは照らさず、部屋の隅には澱のように闇が沈んでいた。特に床の間の周りは明かりから一段と遠いところにあるせいかその感じが強く、置かれた古ぼけた厨子がその焦点になっていた。
    「気になるみたいだね、床の間が」
     僕の視線を知って、裕が言った。
    「ん、いや、あの厨子が気になって。古い物なのか?」
     半分は本当で、もう半分は嘘だ。気になっているのは厨子だけではない。掛け軸にもどこか違和感があった。
    「大瀧の家がこの鮭瀧にやってくるとき持ってきた厨子だってさ。でもそれが本当なら九百年くらい前になるって、あいつが言ってた」
    「あいつ?」
     ……ああ、
     裕は少し慌てた様子で続けた。
     ……父だよ。
    「本当なら、今日はここで『講』があるはずだったんだけど、こんなことがあったからみんな別の『講主』のところで飲み食いしてるはず」
    「『講』って?」
    「父が言うには『恵比寿講』のことらしい。恵比寿の縁日にみんなで集まって祝詞あげて飲み食いするんだって。けど、この時期のは『梁納め』を兼ねてる。梁掛橋で梁をかけてた頃にはこの時期に梁をしまって労をねぎらってたんだ。それが、恵比寿のお祭りと一緒になったんだね。ほら、掛け軸に恵比寿が書いてあるだろ?」

     その軸に描かれていたのは福福しく笑う肥満した男の姿だった。
     風折烏帽子に水干の袖をまくり、岩座の上にどっかと座っている。
     岩座には激しく波が打ちつけ、意匠化された飛沫が飛び散っている。
     男は右手につり竿を立て、左腕にたった今釣上げただろう魚を抱えている。
     恵比寿の姿だった。
     ただし、どこか違和感があった。

    「どこか変か気付いた?その恵比寿」
     裕が尋ねてきた。口ぶりから考えてこの恵比寿には確かにどこか普通とは違うところがあるらしい。
    「いや。何か変だなとは思ってるんだけど……」
     裕があっさりと謎解きをした。
    「恵比寿がもってる魚を見てごらんよ」
     僕は言われるがままに恵比寿の左腕に注目し、違和感の正体にようやく気がいた。
    「ああ、そうか。鯛じゃないのか」
     その恵比寿は左腕に丸く、頬の張った鯛ではなく、鼻の曲がった長い紡錘形の魚を抱えていた。彩色も桜色ではなく、銀青の精悍な輝きだった。
    「この鮭瀧ではね、昔からよく鮭や鱒がとれたから、鯛の代りに鮭を持ってるんだよ。鯛はほとんど手に入らなかったっていうし」
     裕がストーブの具合を調整しながら話しかけてきた。
     聞いてみれば、納得の行く話だった。
     僕はどうにか掛け軸から目をそらすとあつらえられた座に着いた。
    「大瀧の家は鮭瀧の村の講主で。恵比寿講の当日には御堂でみんなで餅をつく。もう祭礼の期間には入ってるから掛けてる」
    「厨子もそれに関係あるのか?」
    「多分。父はそう言うこと調べてた。元々そう言うことにも興味あった人だからね。さっき頼まれて持ってきた本もそういう本だったみたいだよ」
     僕は用意された料理に箸をつけた。
     しばらく、裕と他愛ない話をした。
     お互いに少し気が緩んだのか、会わなくなってからのこと、お互いにどんな生活をしていたかを語り合うことができた。
     裕は僕が知っていたとおりだった。
     澪おばさんが亡くなったとき、裕は小学六年生でそれから半年も経たずに仙台の中高一貫制の私学に入学した。その進学は修理叔父さんが強く望んだ物だったのだと、裕の口から僕は聞いた。
     そして、裕は鮭瀧の村を離れたくなかったのだと言った。
    「父は、僕がこの村に居るとよくないって言ってた。もっと、外に出ていろんなことを知るべきだって言ってた。けれど、僕はこの村を、姉さんの側を離れたくなかったんだ。だから、せめて霞城の学校にしてくれって頼んだ。
     けど、駄目だった。
     あいつは僕を学校に押し込んだ後、姉さんをあちこちの病院につれていった。ずっと僕は姉さんに手紙を出してたんだけど、二月ごとに返事の来る消印が変わってた。……霞城にいたときもあったんだ」
    「そんなこと聞いてなかったぜ!」
    「知らせたくなかったんだと思う。僕は最初それがわからなかった。なんで隠す必要があるのかって。何度か父にも手紙を書いたんだ。けれど……」
     裕は声を詰まらせた。
    「何も、僕が知っていること以上のことは何も教えてくれなかった。そして、二年前から姉さんはどこにもゆかず、鮭瀧にずっと居ることになった。
     諦めたんだ。けど、どうせどうにもならないんだったら、僕は、もっと姉さんと一緒にいたかった……」
    「裕……」
    「許せないよ、弘兄。僕、どうしたってあいつを許せないよ。僕はもっと姉さんと一緒にいたかったんだ。姉さんの言葉を聞きたかったんだ、姉さんの顔を覚えていたかったんだ。なのに……」
    「馬鹿言うなよ、修理叔父さんだって啓ねぇのことを思ってたからじゃないか」
    「なら、なんで僕だけ外に居なきゃいけなかったんだ。知らないところで、姉さんが居なくなるなんて、厭だ。苦しむのなら、僕だって苦しみたい。姉さんと一緒に苦しめるなら、僕はかまわなかったんだ」
    「修理叔父さんは、裕のことを思ってたんだよ」
    「……違うよ」
     低く、裕は呟いた。
     暗く、鈍い感情の込められた言葉だった。そしてそれ以上の詮索を拒絶する意志が堅く感じられた。
    「啓ねぇは本当に駄目なのか?」
     裕はうなずいた。
    「ならやっぱり会っておきたい。会って、一言でも言葉を聞きたい」
     裕はしばらく躊躇い、そして告げた。
    「会わせられないよ」
     しばらくストーブの灯油の燃える音とかけられた薬缶のお湯の音だけがした。
    「……なぜ?」
    「啓姉さんは人に会わせられるような状況じゃないんだ。わかってよ」
    「なにを、何を言ってるんだ?裕」
    「わかってもらえないのは仕方ない。けど、そう言う事なんだ。お願いだよ弘兄さん。僕たちのことはもう放っておいてほしい」
     それきり裕は何も言わなかった。

     眠れなかった。
     神経が高ぶっていた。
     裕の行き場のない憤りと憔悴が僕に乗り移ったようだった。
     次々と親族を亡くしてゆく恐怖。そして孤独感。
     けれど、それ以上の何かが裕を駆り立てているように思えた。
     裕の修理叔父に対する憤りは理解できる。けれど、多分裕も修理叔父がしたことについて、時間がたてば理解できるはずだ。もしかしたらすでに理解しているのかも知れない。それでも許せないこと、それぐらいに裕の啓姉さんに対する想いは深いのかも知れない。

     幾度となく思考は堂堂巡りを繰り返し、頭が火照って来た。少し頭を冷やそうと思い僕は夜具の上からコートを羽織って母屋から中庭に出た。
     しばらくすると音がするくらい冷え切った夜気がじんじんと僕の顔を刺してきた。
     耳を澄ますと集落のほうから川の流れの音が聞こえてくる。寒さに耐えかねて僕が身じろぎをするたびに足元でざくざくと雪殻が壊れる音がした。
     風は弱かったが、吹き付けるたびに川の方から、からん、からんと音がした。川沿いの防火やぐらの旗竿に、旗を吊す紐がぶつかっているのだ。
     小さい頃、怖くて泣いた僕に善三さんがそう教えてくれた。そのときのことを思い出し、僕は少し笑った。
     高台にある屋敷から眺めると、街路灯の明かりが濃密な山の闇の中で頼りなげに集落と県道を照らしており、そのか細い明かりが星の明かりのようにも見えた。
     その時、視界にもっとはっきりした明かりが点った。思わず僕はそちらに振り向いた。
     明かりは蛍光灯の白い光だった。
     離れの一室から灯っていた。
     障子越しによろよろと立つ人影が映った。華奢な骨格、肩口にあふれる長い髪。僕にはそれは女性の姿に見えた。
    「(啓ねぇだ)」
     間違い無かった。
     最初は服を着替えているのかのように見えたが、腕からなにか淡い影がぶら下がって居るのを見たとき、身体に包帯を巻いているのだとわかった。
     僕は誘われるように離れに向かって足を踏み出した。どれだけ注意してもざくざくと足元で音を立てる雪の音は消せない。だから、啓ねぇを脅かす前に声を掛けた。
    「啓ねぇ?」
     人影は物音に気がつき、のろのろと動きを止めた。
    「裕坊が話してくれたかもしれないけれど……。梁井の弘です。覚えてますか?」
     力なく咳き込む音が聞こえ、やがて返事が返ってきた。しゅうしゅうと喉が掠れた声だった。けれど、その声は確かに記憶の中にある啓ねぇの声だった。
    「ひろし、くん」
     これだけの言葉を発するのに啓ねぇは二回の深呼吸を必要とした。
     僕はできるだけ速やかに影の映る窓に近寄った。
    「修理叔父さんが亡くなったって聞いたから……。啓ねぇは、大丈夫?」
     答えは無かった。替わりに激しく咳き込む音と、なにかを倒すような音が聞こえた。
    「啓ねぇ!」
     転んだのだとわかった。僕はとっさに窓を開け、中に入ろうとした。
     鍵がかかっている事に気がつき、苛立って改めて中の様子をうかがおうとしたとき。僕の目は釘付けになった。
     倒れる時啓ねぇは腕で自分を支えようとしたのだ。けれど、自由にならない腕は障子の桟を掴む事はできなかった。
     啓ねぇのひじから先の腕が障子を破っていた。
     新たに巻きなおした包帯はわずかの間に血とリンパ、そして膿が染み込み、すでに沈んだ赤と黄色の斑になっていた。突き破った時の勢いで手首のあたりで包帯は解けており、包帯の下の素肌がそこから覗いていた。
     手首から手の甲にかけて赤く肌が剥けており、そこからはたえずじくじくと膿混じりの体液が染み出していた。所々かさぶたのように剥げ残った皮膚がどうにか組織に張りついている。皮膚の上に重なった角質や乾いた体液が重量をまし、いくつかの破片は未練がましく赤い沼地にぶら下がっている。だが、なによりもおぞましいのはその膚に幾重にも重なり、人の手の輪郭すらも歪めている、かさぶたの塊だった。
     僕の見ている前でその屍色の鱗の塊はぞろりと手の甲からはがれおち、皮一枚で手首からぶら下がった。
     僕は反射的にその場から飛び退った。ありえない事だが目の前の生きながらの腐敗がまるで自分の身に起きているような、今しも自分の膚がずるりと肉の上から剥げ落ちるような、そんな錯覚を生じたのだ。
     荒い息が聞こえた。
     僕の息だった。
     おそましい光景からどうにか目を離すことを望んだが、僕の身体は自律を失っていた。
     紙を破る音がした。啓ねぇが傾いた体を戻すため、左手で障子の桟を掴んだのだ。破った障子の紙に、なにか液状の物が染み込み広がった。ぐずぐずになった指先の上で支えを失ったいびつな爪がよろけた。そのたびに、ガラスを隔て、聞こえるはずの無い粘液のこね回される音を聞いたような気がした。 障子の向こうの人影が上体を起こし立ちあがった。
     乱れた髪の毛が壊れた桟にひっかかり、ぷつぷつと切れた。
     そして、僕は見た。
     切り裂かれた障子紙の向こうにいる、啓ねぇの姿を。
     最初には髪の毛だけがその隙間から覗いていた。
     だが、啓ねぇが体を起こすにつれこれだけは美しいままの黒髪がさらさらと流れ、黄褐色に変色した包帯で包まれた顔が現れた。
     ひ、ろ、し、く、ん。
     そう動いて中央のよだれを流す暗い洞窟が口だとわかった。
     どのような思いによるものなのか。
     伏せられた動きで瞳と知れた。

     どん。
     音がした。啓ねぇの手がガラス戸をたたいた音だ。
     どん。
     もう一度。

     もてる力全てで僕は息を吸った、そしてようやく体が動いた。思い通りに動いたかどうかはわからない。それでも、ぼくは立ちあがりもと居た場所へ戻ろうとした。
     白い中庭に黒い影が立っていた。

     目の前に悲しい瞳をした、裕が立っていた。

    「見ちゃったんだね。弘兄」
     答える代わりに胸が荒く息を求めた。
     冷たく湿り気を含んだ空気が直接喉に流れ込んだ。
    「見せたくなかった、それに何より啓ねぇが見られたくなかったんだ」
    「……裕」
    「先に母屋に戻っていてくれないか」

     しばらくしてから、裕は僕の部屋に来た。
     片手には温めた牛乳の入ったマグカップを二つ、もう片方の手には僕が由縁堂から預かった、あの古い本があった。
    「冷えたろ」
     差し出されたマグを僕は両手で受け取った。
    「驚いたよね」
     答えられなかった。会わせたがらなかった裕の気持ち、会いたくないと言っていた啓ねぇの気持ち。それを裏切ってしまった罪悪感。そんな気持ちが綯い交ぜになっていた。
    「……原因は何もわかってない、ただ。ああ言う風に身体が変わっていってしまう」
     裕の言葉が僕の前を通りすぎた。
    「あいつがいろんな病院で検査をしたんだ。代謝異常、免疫抗体反応の異常亢進。そんな風に聞いたけど、その原因は分からない。大瀧の家の遺伝、なんだろうね」
    「……澪おばさんも、か?」
     自分の声が掠れていることに気がついた。
     乾いた口にマグの中身を流し込んだ。
     裕は頷いた。
    「大瀧の家の女性にだけ現れる証なんだ。僕を生んでから母さんにもあの症状が出た。
     最初は皮膚がささくれて、そのうち表層の皮膚が角質化して、まるで魚の鱗みたいになる。次第次第にその範囲が広がっていく。やけどと一緒さ。一定以上の面積がそうなってしまうと皮膚呼吸ができなくなって死んでしまうって医者は言ってたし、あいつもそう信じてた」
    「皮膚の移植は?」
    「拒絶反応がひどくて定着しないんだ。手足、そして顔の皮膚はほとんどああなってしまっている。……時間の問題なんだ。あいつは、自分の血、外の血が入ったから啓姉さんには出ないってずっと信じていたみたいだ。けど、やっぱり駄目だった。
     けどね、そんなことは必要なかったんだ」
    「なぜ?」
    「定めだからだよ。遠い昔からの定め。人にそれを変えることはできない。だから、従うほか無かったんだ」
    「そんなこと……!」
    「あいつはわかってた筈なんだ。その定めのことは。そしてそれを変えようとした。だけど、定めは母さんと、姉さんに与えられた物なんだ。僕たちに変えられる物じゃない」
    「そんなこと言うなよ!修理叔父さんは必死だったんだ。啓ねぇや澪叔母さんを救おうと、必死だったんだろ?」
    「違うよ」
    「……なにが?」
    「……あいつは、姉さんを」
     裕が顔を上げた。白磁の仮面の下から混沌とした想いが溢れ出そうとしていた。
     救いを求めている。
     直感的に僕はそう理解した。
    「……何があったんだ。裕」
     僕は努めて冷静に言葉をかけた。
     バケツ一杯の水を浴びせたように、裕の目から憔悴が落ち、目を逸らした。
    「何があったんだ、裕」
     僕は裕の肩を掴み、向き直らせた。華奢な肩だった。
    「裕、お前何を知ってるんだ?何があったんだ」
     黙ったまま、裕は目を背け続けた。
    「裕、こっちを見ろ!何があったんだ?何を知っているんだ!」
    「……何も知らないくせに」
     涙の混じった声だった。
    「何も知らないのに……!なんでここに来たんだよ、弘兄!こんな所、こなくてもよかったのにどうしてこんな所に来たんだよ」
    「何言ってるんだかわからないぞ、裕」
    「わからないなら、来ちゃいけなかったんだよ。弘兄!放って置いてくれてよかったんだよ。なのにどうして……」
     裕は僕の胸に額を押しつけて、声を押し殺し、泣いた。
    「裕坊……」
    「あいつは事故なんかじゃない」
     軋るような声で裕は言った。
    「僕が、殺したんだ」
     思わず息を飲み込んでいた。
    「殺すつもりはなかったんだ」
     裕は泣きじゃくりながら言った。
    「……僕は姉さんを守りたかったんだ」
     僕は裕の頭をゆっくりと撫でた。
     裕はとぎれとぎれに話し始めた。
    「啓姉さんは症状が出てから、ずっと、川に行きたがってた。
     病室の中からもらった手紙にも、鮭川の流れがもう一度見たい、流れをわたる風をもう一度感じたいって幾度も書いてあった。
     姉さんは病に伏したときからもうわかっていたんだ。自分の身に起こることを。だから、その日が来るまでにここに帰ってきたかったんだ。
     解るよ、あいつの気持ちは。何とか姉さんを治したかったんだって。けれど、姉さんはそれを望んでいなかった。そんなことは必要なかった。なら、姉さんの望むとおりにしてやればよかったんだ
     ようやく、諦めて鮭瀧に戻ってきた時、僕は嬉しかった。姉さんがあんな風になってしまっても、姉さんがそれを受け入れているなら、僕は構わなかったんだ。
     姉さんの世話は僕がした。妙子や善三には任せたくなかったし、戻ってきてからあいつはずっと書庫に籠もりきりだったから。
     何よりも嬉しかった。僕が姉さんのために役立てることが。何よりもそれが嬉しかったんだ。
     だから、あの日、姉さんが川に行きたいと言ったときも僕は力になるつもりだった。
     昼だと村の人間に見られてしまう。僕は姉さんのこんな姿を何も知らない人には見せたくなかった。だから、夜でいいかって姉さんに聞いた。
     姉さんも解ってくれた。
     その日は月の出る晩で、雲も少なかった。僕は離れに車椅子を持っていって、姉さんを乗せ、川まで押していったんだ」
     裕の言葉は落ち着いていた。話す内に気持ちの高ぶりが失われて落ち着いてきたに違いなかった。
    「橋の上で姉さんは、風とせせらぎの音に身を委ねて、嬉しそうに笑ってた。もうすでに顔まで包帯に覆われてうまく話せないでいたけれど、それでも楽しそうに笑ってたのは解った。そして河原まで降りたいって言った。
     僕は姉さんを背負って川まで降りた。姉さんは河原に降りると、流れに足を浸して気持ちよさそうにもう一度笑った。そして、包帯をほどいて水の中に入ったんだ」
    「そんな、三月の水の中に!?」
    「あんまり何気なく、当然のように入っていったから、僕は止めようとも思わなかった。そして、その時に僕は見たんだ。
     大瀧の家の女性の定めの真の姿と意味を。
     姉さんは深い淵の中に入って、寝間着と包帯をほどいた。
     その時、膿崩れていたはずの肌から膿が流れ落ちた。
     鱗のようにささくれていた肌が潤いを取り戻し、ぴったりと真珠色の鱗になった」
     僕は耳を疑った。裕の瞳を注視する。
     裕は自嘲するように笑った。
    「信じられないだろ、弘兄。けれど、本当さ。啓姉さんは軽やかに淵を巡ると、流れから身を起こしたんだ。
     膿崩れた身体は無かった。月の光を照り返して銀色に輝く鱗が細かく手足を覆っていた。
     長くてきれいな髪を掻き上げたとき、僕は思わず泣き出しそうになった。姉さんの顔は戻っていた。いや、顔に瘡ができる前よりも美しく微笑んでいたんだ。そして、『ありがとう』って笑ってくれた」
     淡々と話す裕の口調は迷いも浮かされた響きもなかった。僕には事実はどうあれ、そのように裕が信じているということが解った。僕は裕を促した。
    「その時、後ろで音がした。あいつが居たんだ。
    『見て、父さん』
     僕は言った。
    『姉さんが治った!』
     あいつには驚いた様子はなかった。多分、あいつはそのことを知っていたんだ。後から僕はそのことに気がついた。けれど、その時にはあいつがなぜ驚かないのか、そして、嬉しそうなそぶりを見せないのか解らなかった。
    『大瀧の定めか』
     あいつはそう言うと、流れの中に入って、姉さんの腕を荒く掴むと川の外に引き出そうとした。
     僕は訳が分からなかった。姉さんは治った。姉さんはこうしている限り死なずに済むんだ。なのにあいつは姉さんを川から引きずり出そうとする。姉さんは気が違ったみたいに抵抗した。僕は最初どうしていいか解らなかったけど、姉さんが河原の石の上に突き転ばされたときに頭の中が真っ白になってしまったんだ。
     最初はあいつを止めたかった。そのつもりで飛びかかった。けれど、僕はあいつの不意をついてしまった。
     仰向けにあいつは倒れた。鈍くて厭な音がしたんだ。
     殺すつもりは、なかったんだ」
     最後の言葉は消え入るようだった。
     手の中のコーヒーカップの熱が失われてからどれだけの時が経ったのか。僕にはわからなかった。
    「これから、どうするんだ」
     裕は黙っていた。やがて、言葉を発した。
    「姉さんは川に帰る。そして、多分海にまで。僕はそれまで姉さんを守る」
    「そんなこと、いつになるか解らないだろ」
    「すぐさ。きっと。姉さんが海に帰ったら僕は裁きを受けようと思う。けれどそれまでは僕は決して姉さんの側を離れないよ」
     裁きを受ける。裕はそう言った。
     正直僕はどう言っていいか解らなかった。罪を犯したのだとしても、目の前にいる裕はそれを悔いている。何よりも、このことはすでに終わってしまったことだ。裕を罰しても修理叔父さんは帰ってこないし、啓ねぇの病が癒えるわけでもない。そして、裕はすでに報いを受けている用に僕には思えた。
    「なにか、力になれるか?裕坊」
    「大丈夫、だよ。ただ、兄さんは早くここを去った方が良い。明日の朝には帰るんだ」
    「なぜ?」
    「『大助』が来るからさ」
     そう言って裕は僕の部屋を去った。


     翌日、鮭瀧の村は朝から賑やかだった。
     すでに、裕のほうから話がしてあったのだろうか。朝食の時、妙子さんは僕が今日すぐに帰るものだと信じていた。
    「まんず、なんも見るどごなないからねぇ。はやぐかえられてもすがだない」
     そう言って妙子さんは笑った。
    「まってれば、簗収めのえべっさんだで、つぎたでの餅ば食(け)てかれっじゃ。食てから帰らはっでもいいべな」
    「簗納めって何ですか」
    「ほれ、あの簗掛橋。昔あそこで簗ば掛けて鮭コや鱒コばとってたんだっけ。けんど、えべっさんの日は鮭の大助が上るはで簗はしまっとかななんねんだ。で、これが簗納め」
     朝方から、御堂山の御堂には紅白の幕が張られ、大きなガスコンロでもち米が蒸されているときいた。妙子さんも、自宅で大鍋一杯の煮しめを作ったそうだ。
    「餅を食べていくなら昼過ぎのバスがいいんじゃないかな。鉄道への接続もスムーズなはずだよ」
     朝食の席、裕は昨日のことなど何も無かったかの用に振る舞っていた。
     何事もなかったような田舎の普通の朝。昨日の夜のことを夢だと思えば、それで全てが収まる。そんな気がした。
     だから僕は何も言わなかった。
     裕も何も言わなかった。
     そうして、昼過ぎ、僕は鮭瀧のバス停に立っていた。傍らには善三さん夫婦と裕がいた。
     村の有線放送で祭りの雅楽が流れていた。
    「帰ったら、叔母さん達によろしくってお伝えください。梁納めが終わったら本葬をしてしまうから、その時には僕たちだけでするよ。
     弘兄さん、来てくれてありがとう」
     そう言って裕は少し笑った。
     バスが来た。
     僕はステップに乗った。
    「弘兄、これ霞城の本屋さんに渡してくれないかな」
     そう言って裕は厚みのある茶封筒を手渡した。
    「父の机の上にあったんだ。多分、誰か解る人に読んでもらった方が良いと思う」
     修理叔父の作った歌だと思って僕はそれを引き取った。
     やがて、チェーンをきしませてバスが発車した。

     僕は手に持っていた茶封筒を開いた。
     使い込んだ数冊のノートと香典代わりといって由縁堂に供えるように頼まれたあの本が入っていた。
     歌の書かれているだろうノートはきっと僕には解らないだろうから、僕はハトロン紙にくるまれた本を開いた。

    『新編・山形県伝説集 別冊壱
     「大助伝承の周囲について」 奥六群郷土史保存協会編』

    「はじめに
     大助伝承は山形県のみならず、東北地方日本海側に広く分布する伝承の一つであり、一般に知られる、湖沼の主(ぬし)伝承とは異なる点を有する。
     本別冊では県内外から広く大助伝承とその周辺に関わる伝承を採集し、それを伝えると共に、採集された伝承から共通点、特異点を抽出し、伝承の形成を判じ、この伝承の本来の意味とそれが県内の生活習慣に与えた影響の記述を試みた……」

     中身のほとんどは鮭の大助という伝説についてであり、カナと漢字で多くの人から聞いたらしい大助伝承が記されていた。
     その多くは大同小異で、カナと漢字の混じった読みにくい文章もあって、僕は早々にそこを読むのを諦めた。
     大助の話は幾度か善三さんから聞いていた。たしか、こんな話だ。

    「むがーす、あったけど。
     旧の霜月十五日の晩は『鮭の大助』てゆう魚、海がら川さ登てくる日だど。『鮭の大助』てゆう魚ぁ、鮭の王様てゆう魚だど。『鮭の大助』ぁ、川登っとぎ、
    『鮭の大助、今通る。鮭の大助、今通る』
    て、大声で叫びながら、登て行ぐなだど。
     ほして、この声聞こえだ人はぁ、三日ど、生きらんなえなだど。どがえた、丈夫(まめ)な人でも、ほの声聞ぐずど、三日の中え、ばえら(突然)、病気して、死んですまうなだど。
     んださげ、この晩ぁ、川端の村でぁ、川の仕事休んで、御祝儀すんなだど。ほうして、『どんどん』、太鼓ただえで、酒のんで、唄うだで、『大助』の声ば聞かねようえすんなだど……」
     納められていた伝承も善三さんから聞いたものとほとんど代わりはなかった。時期が違ったり、鱒の小助と呼ばれる者と対になっていたり、数珠をかけたような紋があったりとディテールにおいて違うのがほとんどだった。そのほかには、大助の声を聞かないように餅をつくことがあると言うこと、それを耳塞ぎ餅と言うことなどが記されていた。

    「……これまでに述べたように、大助伝承は県内の置賜群以外に広く分布している。鮭瀧村の大瀧修理氏によれば、これらの伝承の共通点から原・大助伝承というべきものを想定したとき、他の伝承に比して大助伝承にのみ特異な点があるという……」
     叔父の名を認め、僕はなぜ由縁堂がこの本を供えてくれと言っていたか理解した。この本もまた叔父が関わった本なのだろう。それを無くしたのか、それとも、元々部数の少ない本だったのか。どちらにしろ、必要となることがあって叔父はこの本の入手を由縁堂に依頼していたのだろう。
    「……以上の特異な点のうち、もっとも目を引くのは、禁忌に関わる項であろう。
     大助の遡上を見ることはおろか、その時には川に近づくことも禁じられた(遡上するときの名乗り声を聞いてはならない)。その禁忌を破った報いは死という重大な物である。そして、朝日町で採集された事例においては実際に大助に会って死んだ者がいると伝えられている。
     このことは、大助が単なる、湖沼の『怪』などではなく、色濃く『カミ』の属性を持った存在として、その威を風化させること無く伝承の中に存在し続けたことを意味する。これは、大助・小助伝承が山形県のみならず、秋田、新潟などの地域にまで存在すること、東北日本海側で鮭の遡上する河川に一般に存在することを考えるとその由来は古く、アイヌの信仰が根底にあったのではないかと考えられる。
     しかし、一方で尾花沢市に残る御所神社と順徳上皇潜幸伝説における丹生川の役割、羽黒修験との連携など、その由来を貴種流離譚とその秘匿性にみる考え方も根強くある。つまり、見ることにより災いが訪れるのは、そのものが力があり、なおかつ高貴で(上代において高貴であることと力があるということは、庶民にとってほぼ同義であったと考えられる)、怒りに満ちた存在であるということ。すなわち御霊であるということである。
     先述の修理氏の報告による鮭瀧村のケースはその意味で興味深い。上記二つの仮説が奇妙に入り交じった形で伝承されているからだ。そして、その伝承は基本的に秘伝として口承される者であったという……」
    「このように、鮭瀧村では大助伝承が非常に色濃く残っているのにも関わらず、耳塞ぎ餅の行事はない。恵比寿講との習合は前述の文書から考えて妥当性は薄い物と考えられる。修理氏は口承で知った伝承(第四章「大助伝承の周辺」参照)からこの理由を次のように述べている」
    「鮭瀧村に残る伝承では、ここの住人は神功皇后の新羅遠征に従った一族であり対馬越えで大いに働きがあったとしているが、住吉三神、綿津見三神との関連は少なくとも伝承においては無く、その中の宣命の中の一節から、この一族がまつっていた神は伝承に残り得なかった氏神であろうと考察できる。
     彼らは応神天皇の朝廷から、武内宿禰の言により追放され、氏神に従ってこの鮭瀧村に定着した。氏神はその後海に戻ったが、内陸部に移り住んだ子孫(日本において多くのカミと人との関わりがそうであったように、その一族では祖先を彼らがまつる神に求めており、その祭りは神婚の形を取ったことが残された儀礼より伺える)に一年に一度会いに来たという。
     すなわち、この伝承においてはこの一族の氏神は大助なのである。
     大助は中央より放逐された荒れ狂う神「荒御霊」の神である。従って、その神威は人々に害をもたらす。しかし、この鮭瀧の住人は氏神に従っている限りその神威に撃たれることはない。それどころか、大助の眷属である鮭や鱒の恵みを受けることで他の集落に比して裕福であったと言われている。その後、大助信仰は随所に形を変えて現れ、魚籃観音信仰、鮭持ち恵比寿講、魚面聖天信仰などの形を取っている。
     これらは大助に相当する氏神を祭ることが、大瀧家にのみ許されていたため、周囲の民衆が別尊として祭ったのではないだろうか……」
     ここまで読んだとき、僕は睡魔に襲われた。昨晩ほとんど寝ていなかったせいだろう、規則正しいバスの律動に身を委ね僕は寝入った。
     そして、夢を見た。

     子供のころの夢がほとんどだった。
     僕はかくれんぼうをしていた。包帯を巻いた啓ねぇが鬼だった。裕は詰襟の学生服だった。
     夕暮れ時だった。ヒグラシが鳴いていた。
     僕は胸を高鳴らせながら隠れ場所を探していた。いつも通りに廊下を抜けると、西日で赤く染まった障子を適当に開けた。
    「まぁだだよ」
     啓ねぇの「もういいかい」の声に大きく答えると、僕は後ろ手に障子を閉めて部屋を見まわした。真っ先に床の間を見る。今まで見たことの無い置物なら初めての部屋だ。
     暗がりの床の間にはぽつんと小さな厨子がおいてあった。
     僕はおずおずと厨子に手を伸ばし、それを掴み取った。
     ふってみた。カタカタと音がした。
     掛け金が弾みで外れた。観音開きの扉が開き、なかから仏像のようなものが転げ落ちた。僕は慌ててそれを拾う。
     最初は何の像かわからなかった。障子越しの夕焼けの明かりでひっくり返し眺めるうちに。不意に形がわかり、僕は驚いてその仏像を取り落とした。
     魚の頭をした二人の人間が互いに抱き合っている仏像だった。
     見ると床の間に掛け軸がぶら下がっている。恵比寿の絵に似ていた。
     ……ああ。
     僕はその風景を目にした時、不意に胸にすとんと、ある思いが落ちた。
     僕はこの絵をかつて見たことがある……。
     見覚えがあったという記憶よりも先にその掛け軸を目にした時、夏の夕暮れ、ヒグラシの声、むっとする熱気、それを時折払う河からの風が頬をなでる感触、それらが一時に甦ったのだ。
     あの時と同じ違和感だった。あの時は不安という感情でしか表現できなかった感情。
     何が書いてあるのか、目に見える映像はたんに情報に過ぎない。無意識のうちに感じてるこの不安は、識域下で気がついている映像の意味によるものだ。
     わかってしまっていいのか、そのことに関する不安だ。

     水干姿に風折り烏帽子右手につり竿を持ち、岩の上にどっかと座っている。だが見覚えのあるのはここまでだった。
     おびえながらも僕は瞳を逸らす事ができない。やがて、像が結ばれた。
     その恵比寿の首から上にはあの白痴めいた笑みの男の顔は乗っていなかった。そいつの頭は魚のそれで、その頭には決して閉じることの無い、ぐっと盛り上がった目がついていた。その首の両脇には鰓が裂け目を覗かせている。
     恵比寿の左脇には人間が抱えられていた。黒い学生服、詰襟が見えた。抱えられてるのは裕だった。
     表情のないはずの瞳がぎろりと僕をねめつけた。
     ばりっと紙の破れる音がした。振りかえった。しゅうしゅうと風の漏れるような声がした。
    「み、い、つ、け、た」
     障子を破って啓ねぇがいた。包帯がほぐれて、下の顔が覗いていたが西日を背に負って素顔を見ることはできなかった。
     僕は悲鳴を上げた。

     目がさめたときにはバスはとまっていた。寝入ったときと同じ規則正しい律動が僕を揺すぶっていた。僕はびっしょりと書いた寝汗に身体を震わせた。強い暖房がバスの窓に水滴を作っているにもかかわらず僕の身体は冷え切っているように思えた。
     深い海のそこから浮かび上がるように僕の感覚は少しづつ周囲の様子を捉えた。来る途中の九十九折りだった。赤く光る『徐行』の二文字と回転灯が僕の目に飛び込んできた。
     バスの運転手がなにやら窓の外と話している。
    「……橋が……土台がえぐられで……」
     切れ切れに巡査と運転手の話し合う声が聞こえた。
    「……雪崩が?」
    「んね、わがらねども。何がが下の方から橋の脚さぶつがったんだみでぇだ」
    「で、とおらんねんだが?」
    「無理だべ、行って見ればわがる。根っこのとこが傾いっだ」
     バスの運転手は何かわからない方言で罵るとジャンパーを掴みエンジンを切りバスの外に出た。
     僕は一人バスの中に残された。窓の外をみた。わずかに日は西に傾いている。日が暮れるまではもうしばらくかかるようだ。止まっているのはこのバスだけのようだった。
     しばらく待ったが、運転手も巡査も戻ってこなかった。
     本がいつの間にか手から落ちていることに気がつき、屈んだ。
     膝の上からノートが落ちた。ページが開き、何枚かの写真が落ちた。人の肌が見えた。
     僕はノートを開いた。予想していたのとは違い、そこには歌は書かれていなかった。修理叔父さんの残した民俗学に関するノートのようだった。
     先程の本にあった内容の草稿がそこに記されていた。
     そのまま僕はページをめくった。途中から内容は変わっていた。啓ねぇの病状の克明な記録が記されていた。修理叔父はその過程を『眷属の証』『神婚への準備』そう記していた。
     拾った写真はその項の最後に挟んであったようだった。
     くすんだ肌の小振りの乳房で、女性と解った。写真は人の胸郭を前方から写した物だった。
     乳房の脇にくすんだ影が並んでいた。その影は浮いて見える肋の隙間に開いていた。
     そう、肋に開いた孔だ。
     全部で四対。上から塞ぐように肌が垂れていた。
     鰓だ。
     そう理解した。
     他の写真は手と足を写した物だった。色を失い乾いた鱗がひび割れていた。隙間から赤く濡れた肌が伺えた。指の間には同じように乾いた皮膜があった。
     裏返すとそこに名前が書いてあった。
    「大瀧啓。昭和六十一年八月十五日、霞城大学医学部付属病院。
     巫女の証」
     
     バスの律動がやみ僕の耳が静寂になれるたとき。空がざわめいた。
     雪雲の垂れ込めた鉛色の空を、群がる白い影が乱していた。

     ぎゃあぎゃあぎゃあ……

     それは鳥の群れだった。僕は耳を疑った。聞きなれた烏の鳴き声ではなかった。
     目を凝らした。空の雲に溶け込むような影。長くしなやかな翼。陸に住む鳥のものではない。
     海鳥だ。
     まさか。こんな内陸部で。何故。

     海鳥の群れが大きくざわめいた。
     呼応するかのように水飛沫の音が川下から押し寄せた。
     橋脚を確かめに行った巡査達の方から叫び声が聞こえた。
     僕はバスを飛び出し、ガードレールを乗り越え。雪に脚を取られ、半ば転ぶように河原を目指した。
     河原からは凄まじい水飛沫の音が聞こえてきた。
     立ち尽くす巡査と運転手の後姿が見えた。

     河は黒銀の流れだった。
     むせ返るような潮の匂いと飛沫が飛び散っていた。
     川の流れを鮭が埋めていた。
     鮭の上に鮭が重なり鮭の間を鮭が昇って行く。滝を超えようとする鮭が空中でぶつかって落ちて行く。
     水飛沫の弾ける音がうねりとなって、その流れをさらに上流に追いやっていた。うねりは時折一定のリズムに収束しかけるが、すぐに消えていった。しかし、そのうねりが持ち上がるたびに呼応するように頭上の海鳥が騒いだ。

     僕は自分の歯が打ち合う音にようやく気がついた。
     信じられなかった。
     何もかもが伝承通りだったのだ。
     大瀧の定めも、
     大助の遡上も、
     そして今、啓ねぇを迎えるため、大助が上ってきたのだ。

     僕はきびすを返すと来た道を駆け戻った。
     背後でなにか巡査が叫んでいた。
     パトカーにはキーが刺さったままだった。
     静止する声を無視してパトカーを転回させる。
     戻らなければならなかった。

    『……そんなに長い期間じゃない。母さんも、姉さんも僕のいる場所から去ってしまうけど。いずれこうなる運命だったんだ。父さんはこうなることを知らなかったのか、それとも何とかなるって思ってたのかも知れないね。けど、結局無理だった』
     確かにそう裕は言っていた。
     僕は裕の言う運命を死と考えていた。そう思うことを裕も望んでいたのかも知れない。
    『そう、家系だね。家系なんだ。
     あいつは母さんと結婚することで外の血が入るから大丈夫だって、そう言ってたんだって。けれど啓姉さんも逃れることはできなかった』
     逃れ得ぬ定め。大瀧の家系。それは眷属として川へ、海へ帰るということ。それこそが望まれた道。それ故に啓ねぇは鮭瀧の村に戻ってくることを望んだ。
     大助の上る日、啓ねぇは眷属になる。きっと裕はそのことを望んでいる。
     しかし、そこまでもが伝承通りなら。大助の道行きを目撃した者はどうなるって言うんだ?大助の声を聞いた者はどうなるって言うんだ?

     本当に大助が上っているというのに。
     
     裕は修理叔父の言葉を信じているのかも知れない。何も見なかったなら僕もそれを信じていられただろう。
     けれど、違う。
     あれは、違う。
     あれは、裕が思っているようなものじゃない。
     あれは、人がどうにかできるようなものじゃない。


     鮭瀧の集落は静かだった。まだ日は落ちていないが、道を行く人は僅かだ。どこか遠くから歓声を聞いた気がした。聞こえてくる方向、御堂山に頭をめぐらせた。橙色の明かりが揺らめいていた。かがり火に違いなかった。窓を開け、耳を澄ませた。強い風に混じって遠く確かに歓声が聞こえた。
     川はなぜか流量が少なくなっていた。遠く水が引いていったようだった。
     そして梁掛橋の上、寄り添うような人影が二つ見えた。
     裕と夜具姿の啓ねぇだった。膿汁がしみこみ、ほつれた包帯が風に嬲られ、細い啓ねぇの肢体に絡み付いていた。
     僕は車を止め、裕に叫んだ。
    「裕、大助が、大助がくる!」
     振り返った裕の目が驚きに見開かれた。
    「何で、何で戻ってなんか来たんだ!弘兄!」
     僕は車を土手まで走らせ、戸を開いた。息せき切って駆けてきた裕が焦りきった表情で怒鳴った。
    「駄目だよ、弘兄はこの大瀧の一族じゃない!だから、きっと大助に当てられる!」
    「馬鹿言うな、僕だけであるもんか。いいか、裕。あれは違う。僕や裕が思っているようなモノでもないし、修理叔父さんが考えていたようなモノでもない。あれは、僕たちの考えなんか及びもつかないモノなんだ。ここは危険だ、早く逃げるんだよ!」
    「何、何を言ってるの弘兄。何が違うって言うの?大助は来るよ。啓姉さんを迎えに。あいつが啓姉さんをずっとこの鮭瀧から遠ざけていたから、啓姉さんを迎えに大助は川を上る。母さんの時には、母さんが自ら川に帰っていったからこんなことをする必要もなかった。
     けど、ようやく姉さんが望んだ通りに、川に帰すことができるんだよ」
    「裕、お前は……」
     裕は僕に背を向けると啓ねぇの身体を横抱きに抱え上げた。
    「啓姉さんをつれて行く。そのために僕はこれまでの事をしてきたんだから。
     これで、もう、姉さんは苦しまずに済む」
     裕はそう言って河原に下りた。止めようと外に出た時、

     風が吹いた。

     風に乗って、うねりが届いた。
     僕は振りかえり、橋から下流に視線をめぐらせた。
     小山のような鳥の群れが、うわんと膨れ上がった。
     川下から押し寄せる黒い流れが飛沫を上げながら岸を洗った。
     流れが泡立った。
     うねりが僕の頬を打った。
     そして、数知れぬ鮭達が水を蹴立てて遡ってきた。
     それは川が動いたように見えた。
     幾千とも知れぬ魚達が彼らの王のための道を押し広げていた。
     川は普段に倍する流量に膨れ上がっていた。
     流れから弾き出された魚が砂利の上に折り重なり、苦しげに口をうごめかす。そして、黒い川の水が膨れ上がり、滝のように水が蹴立てられた。
     蹴立てた波は波涛となって岸を撃ち、地響きとなった。波は上流に押し寄せ、橋脚を揺さぶった。
     そして、遠く人外の抑揚をもった声が聞こえたような気がした。

     違う。
     僕はそう思った。
     これは、裕が思っているようなものじゃない。
     これは、人がどうにかできるようなものじゃない。
     これは、測り知れぬ悠遠の昔から、ここにあったものだ。
     人がそれに名をつけ、伝説、神話のもとに理解を試みようとしても、その試みをことごとくせせら笑うものなのだ。

     パトカーのサイレンのスイッチは幸いすぐに見つかった。僕は最大音量でそれを鳴らした。耳をつんざく音が谷間の村に響いた。

    「……霜月十五日の夜は、川魚の王様である鮭の大助が、一族を率いて海から川に登る日であるという。この日は、川の仕事は一切休みにし、川端に出てはならないとされている。鮭の大助は川を登っていくとき、『鮭の大助今登る』と叫びながら登っていくという。この声を聞いた人は三日と生きられないというので、川端の村々では、この日は太鼓を叩き、鉦をならし、大声で唄を歌って川祝いをし、大助の声を聞かないようにしている……」

     僕はそのまま橋のたもとにある防火やぐらに走った。
     サイレンの操作盤は当然のことだが鍵がかけられていた。僕は手近にあった石を掴むと操作盤の蓋を打ち付けた。
     パトカーのサイレンは車が止まると消えてしまう。防火やぐらのサイレンなら村中に響くし、鳴り続ける。そうすれば、大助の声を聞かずに済むかも知れない。
     二度、三度。十回を越すか越さないかの内に留め金が外れた。僕は迷わずサイレンのスイッチを入れた。
     最初は低く、やがて音高くサイレンが鳴り始めた。村中のスピーカーから流れる音は谷間に反響し、幾重にも重なって聞こえた。

     僕は裕を追った。
     裕は岸辺に立っていた。啓ねぇの姿はない。
    「裕!啓ねぇは!」
     裕は振り返った。為すべき事を為しとげた物のみが浮かべ得る平穏な笑みがその顔に浮かんでいた。
    「弘兄さん。僕はやっぱりこうしてよかったんだよ」
     そして、黒々とした淵を示した。
     啓ねぇは水底に横たわっていた。波が押し寄せるにつれ白い包帯が水中花の如く揺らめいていた。
    「これで、よかったんだ。啓姉さんはやっぱり言ってくれたよ。ありがとうって」
    「違う、これは裕が考えてるようなことじゃない。僕達は、僕達は本当のことは何一つ何も知らないんだ」
    「そんなこと無いよ」
     
     轟く咆哮が全てを揺るがした。
     波が迫った。閉じられることのない無数の感情の覗えない瞳が水の下から僕達をねめつけていた。
     白い花がその波に呑み込まれた。
     啓ねぇの身体が幾千もの魚影に突き動かされ、弾かれた。くるくる回る身体が引き戻された。ひときわ大きな鮭が啓ねぇの頬をついばんでいた。
     啓ねぇは食われているのだ。あの魚たちに。
     瞼が、唇が、鼻梁が、そして耳が、
     爪が、指が、先を争うようにしてついばまれていた。
     水面が盛り上がり、その上で啓ねぇの身体が、糸の切れた操り人形のように魚たちに食い散らかされて行く。
     膿んだ頬が、崩れた乳房が、食いちぎられて行く。だが、藻のように揺れる髪の毛だけは何者にもついばまれずにいた。
    「啓ねぇ!」
     思わず叫んでいた。駆け寄ろうとする僕を裕が捕らえた。
    「よく見て、弘兄」
     啓ねぇの身体が答えるように動いた。
     腕が、柔らかな円を描いた。
     情人を抱くように、その腕は乳房をついばむ鮭を抱き取った。
     泡立つ水の中から伸ばされた手を見たとき、僕は息を呑んだ。真珠色の光沢を持った鱗の上に、かさぶたのように肌色をした皮膚が未練がましくしがみついている。先を争うように鮭がその膿み崩れた肌を新しい鱗の上から毟り取った。
    「大助の眷族が偽りの人の肌を剥ぎ取る。これで、啓姉さんは大助とともに行く事ができるんだ」
     やがて啓ねぇの身体から一匹ずつ、鮭が離れていった。そして盛り上がった水面が静まっていった。よどみの奥、啓ねぇの身体は横たわっていた。
     裕は僕から手を離し、引き寄せられるように流れの中に足を踏み入れた。
     僕はそこに立ち尽くしたまま、遠ざかって行く裕の背中を見ていた。
     くるぶしから膝、そして、腰まで。凍て付くような水の中、裕は構わずよどみに踏み込んだ。

     裕の口が動いた。
     水の中から真珠色の腕が出て、そっと裕の頬を撫でた。
     裕は膝を折って啓ねぇを抱きしめた。応えるように水掻きのついた掌が愛しげに裕の頭に回された。
     
     そして無造作に裕の頭を捻った。
     あり得ない向きに顎が向いて、くぐもった音がした。
     
     水の中で裕の身体が一度だけ痙攣し、そのまま淵に投げ捨てられた。
     再び鮭達が群がり始めた。裕の姿は見えなかった。

     啓ねぇの身体が上体を起こした。
     身体が真珠色の鱗に覆われていた、長く濡れた黒髪が顔の前に垂れ、肩から背中に絡み付いていた。
    「……啓、ねぇ」

     僕の目の前でぞろりとその髪の毛が抜け落ちた。
     丸く、ぬめりを帯びた光沢をもつ頭頂が明らかになった。
     顔にかかった髪を啓ねぇははらった。
     丸く何の感情も伺うことのできない瞳が、空ろなまま僕を眺めた。
     何も、わからなかった。
     僕はさっき自分で言った言葉を思い出した。
     これは、人がどうにかできるようなものじゃない。
     僕達は何もわかってなどいない。
     
     僕は背を向けて、逃げた。ただ、盲目的に逃げた。
     そして、善三さんから聞いた昔話を思い出していた。

     ……旧の霜月十五日の晩は『鮭の大助』てゆう魚、海がら川さ登てくる日だど。『鮭の大助』てゆう魚ぁ、鮭の王様てゆう魚ですと。『鮭の大助』ぁ、川登っとぎ、
    「鮭の大助、今通る。鮭の大助、今通る」
    て、大声で叫びながら、登て行ぐなだど……。

     御堂山のお堂から人々が不安そうな表情で川の方を眺めていた。
     妙子さんと善三さんもその中にいた。
     走ってくる僕に妙子さんが気づいた。

     ……ほして、この声聞こえだ人はぁ、三日ど、生きらんなえなだど。どがえた、丈夫(まめ)な人でも、ほの声聞ぐずど、三日の中え、ばえら(突然)、病気して、死んですまうなだど……

     ぎゃあぎゃあぎゃあ。
     海鳥が鳴いた。
    「大助が、大助がくる!」
     僕は叫んだ。言葉になっているとは思えなかった。それでも叫んだ。
     川べりの木々がうねりにのってざわめいていた。びりびりと、空気が震えた。ともすればサイレンの轟きの下から別の声が聞こえてきそうだった。
     聞きたくなかった。聞くわけには行かなかった。
     叫んだ。
     叫んだ。
     叫ばずにはいられなかった。
     一刻も早く『大助』の道行きから離れなければならなかった。

     ……んださげ、この晩ぁ、川端の村でぁ、川の仕事休んで、御祝儀すんなだど。ほうして、「どんどん」、太鼓ただえで、酒のんで、唄うだで、「大助」の声ば聞かねようえすんなだど……

     川を見ていた善三さんの目が驚きに見開かれた。
     大きく口を開けて何かを叫んでいた。周りの人が慌ててお堂の奥、御堂山の上に駆けだし始めた。
     僕は振り返った。
     地響きがしていた。
     鮭瀧の川から質量を持った音が津波のように押し寄せた。
     落雷のような腹に応える音だった。
     ばうっと、空気の固まりが僕の背中を打った。
     振り返った。

     吼え猛る大助を僕は見た。
     谷間から丘が遡ってきていた。
     それは不可解な物だった。あんなものが川を上って来れるはずがなかった。
     膠質の粘膜に覆われた、鉛のように鈍い光沢の鱗が波を蹴立てた。
     川面に現れたそれの背中は尖塔のような背鰭が突き立ち、まるで城砦のように見えた。
     飛沫の下に、暗く燃える赤が覗いた。睥睨し君臨する王の瞳だった。
     ごぱりと水音がした。暗い洞窟が口を開けた。
     地響きが言葉を為していた。
     そして、もう一度、咆哮。
     
     その叫びは僕を足下からすくい上げ、地面に叩き付けた。
     背中を打ち、息が胸から追い出された。
     そして僕は暗闇に吸い込まれていった。


     目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
     枕元にいた妙子さんが僕が目を覚ましたのを知ると、泣き崩れた。
     すぐに医者が入ってきて、いろいろと僕の身体をいじった。
     ニューイングランドから母が帰ってきたのは僕が目を覚ました翌日だった。
     
     新聞やテレビでは鮭瀧村で起こった土石流について報じていた。
     融けた雪のせいで地盤が緩み、崩れた土砂が鮭瀧の川を一時期堰き止めていたのだという。
     確かに、僕が鮭瀧村に戻ったとき、川の水位は低かった。僕はそれを大助が来たせいだと思ったが、実際の所はあのとき、バスの運転手と巡査が口にしていた崖崩れのせいだったのだ。
     押し流された土砂は周囲を巻き込んで鉄砲水となって鮭瀧村を襲った。
     梁掛橋は流れてきた岩に巻き込まれ、根元からひっくり返った。
     鮭瀧村の上流に面した側は流れてきた巨大な岩に押しひしがれ、家も自動車も十メートルの泥の下に埋まった。
     幸いなのだろう。村人のほとんどが梁納めの『講』のために御堂山のお堂におり、直撃は免れた。
     二人を除いて。
     そう、裕と啓ねぇだ。
     あのとき、川底にいた裕と啓ねぇは助かるはずもなかった。死体は見つからなかった。数キロ下流で啓ねぇの車椅子の破片が見つかっただけだった。

     何もかもが夢に思えた。
     あの晩、離れで見た啓ねぇの姿。そして、川の中で鮭たちに膿崩れた人の肌をついばませていた啓ねぇの姿。けれどその姿はいかに考えても夢の中の映像とは思えない。だが、大助の姿など誰も見はしなかった。新聞にもテレビのニュースにも何も記されてはいない。
    「ねぇ、善三さん」
     見舞いに来てくれた善三さんに僕は尋ねた。
    「あの時、僕が川から駆けてきたとき、川の方を見て驚いてたよね。あの時何を見て驚いたの?」
     善三さんは、皺だらけの顔で泣きそうな表情をした。
     善三さんが二人の兄弟のことを悔いているのは明らかだった。
    「……弘さんが、こっちゃ走ってきはっだとき、俺ぁ川のほうば見だ。たいしだ音がして、小山みっだぐ岩がながってきた。かみなりがおぢだみてえだっけ。足許がずっし、ずっしと揺れてよぉ、あんな鉄砲水初めてだ」
    「驚いてたのは、そのせい?」
     そう尋ねると善三さんはいぶかしげな顔をした。
    「なにいっでだんだぁ?知らせてけっだの弘さんだべ。サイレンば鳴らしてけっだの。もし、あん時わがってたら、啓様も裕様もたすかったがもしんねぇ」
     そう言うと、善三さんは鼻を鳴らし、顔をくしゃくしゃにして忍ぶように泣いた。
     違う。喉まで出かかった言葉。けれど、僕はそれを口に出すことはできなかった。
     言わなくていいのだ。そんなこと。

     僕が見たのは鉄砲水だった。
     あの轟音、沸き立つ川面。そして、跳ね飛ぶ飛沫。
     丘が動いたと見えたのは、押し寄せる巨大な岩。びりびりと震えた、丘の木々も、吹き付けた風も。全ては自然のもたらした災害だった。
     僕が見たのは鉄砲水だった。山肌を駆け下り、人家を飲み込む、ただの自然災害。
     それで説明が付けられて、そして僕以外の誰もがそれを疑わないなら。
     僕一人が事実に拘泥する必要など無い。

     僕は瞳を閉じ、川下から上ってくる、古代の魚神の姿を思い出そうとした。
     青銅と銀盤の鱗。尖塔の背鰭。そして、決して閉じられることのない、赤く暗い眼。
     けれどそのいずれもが一つの像を結ぶことはできなかった。
     人にはその姿を見ることはできても、神の姿を知ることはできないのかも知れない。
     その存在の意義も、意味も知ることができないように。
     あの時、何の躊躇いもなく、当然のように裕を殺した啓ねぇ。
     けれど、大助を見た僕には違和感はなかった。あの風景に「殺した」という言葉を使うことは適当でない気がした。所詮、僕には解らないことだ。
     海の底から、大助は、その眷属と共に遠く血統に連なる者を迎えに、ただそれだけのために来たのだ。
     連なる者の想いも、その傍らにある者の願いも関係なく。

     僕は窓の外を眺めた。遠く蒼く、山並みが白く煙って見えた。しかし、その山裾は雪の衣を剥ぎ取られ、暗い山肌をさらしていた。
     微かにに、咆吼を聞いた気がした。
    (了)

    参考文献

    『東北民俗学研究 第6号−特集:民俗学と考古学における動植物−』
    『山形県伝説集―総合編』山形県立山形東高等学校 昭和三十五年九月

    あとがき
     難産でした。
     当初、書きたいことと書き込めること、そして、シチュエーション的に書けば絵になる物が全て区別されることなく筆者の脳裏にあり、書き出してからもどのように話を納めるのか決まらないままになり、おかげで最初の批評会では一人「未完成原稿」を提出し、みなさんにどのように話をまとめたらいいか伺う始末でした。
     ラブクラフト「インスマスの影」、坂東真砂子「狗神」「蛇鏡」、東宝映画「空の大怪獣バラン」大きく分けてこの三つのイメージがこの話の中で主題の奪い合いをしていたように思います。山中の旧家、血族の因縁とあって横溝正史のイメージ(というよりも、映像作品になった物、金田一物)も時折浸食をかけてきました。そしてこれらに、自分の故郷である山形の風土の想いが被さります。
     むりだっつーのよ、自分。
     批評会の時、代価倒産先輩に後半部大助の出現シーンが「東宝映画・大助が来る!」になっていると言われたときには結局自分が書きやすかったのはそこかと、かなり頭を抱えました。

     結局、放って置いたままのこの話が何とかまとまる形になったのは執拗な編集者の努力といえましょう。
     幾度と無く、脅し、すかし、持ち上げ、ののしり、泣き落とし挙げ句の果てに「締め切りは破っても、入稿に間に合わなかったことはない」と後輩に向かって言い放つ始末。
     入稿には間に合う、ではなく上がってから泣きながら突貫で編集、印刷、製本を行っていたという事実がこのように……。
     いえ、反省しています。

     まともなことを言うと、上記のように拡散していたテーマを自分にできる範囲で一つの作品にまとめる作業、切り捨て、切り落とし、主題の再選定にあたり、編集の糸数女史とは幾度と無くディスカッションを(おとした締め切りの回数だけ)行い。そのたびに形ができていったように思います。

     見捨てることの無かった編集に感謝。

    (補・この小説の原案はTRPG「クトゥルフの呼び声」のシナリオとして行った物であり、複数回のプレイのエピソードをそこここにフレーバーとして入れています。D16マスターでプレイされた方には見覚えのあるシーンがあるかも知れません。その辺はご容赦 )
    感想をいただければ幸いです。
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    メイル (2000/6/29 改訂掲載)
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