
眉を寄せてその「目」は私を睨み付けていた。 いや、違う。睨み付けているのは私ではない。私のもっと後ろの何か。地平線まで無限に並ぶその「目」はそれに沿って走る私の後ろの、誰かにその恨めしげな視線を投げかけているのだった。 ……おめらさな、このぐにのこどなど、わがるはずがね…… ……おめら、何しにここさ来た。ここはおめら等が来るとごろでは、ね…… ……けぇれってば、けぇってまえ…… その目が無言のまま(当然だ、彼らには、口などないのだから)思いの奔流をぶつけてきた。暗く、陰湿で、いじけたそれでいてかたくなな思いだった。 ……おめらさな、おれだちのことなどわがるはずがねぇんだ。んだ、ぬぐいとこさ住んでるようなやつにゃぁ、吹雪さふがれたこともないようなやつさな、おれだちの思いなど、わがられてたまるものか…… ……んだ、わがられで、たまるか…… その思いは、やがて私のまだ不確かな意識を押し流さんばかりになった。 耐えきれず、私は思いを感覚に変換していた。 耳を弄するばかりのうらみごとの渦に私はほおり込まれた。 暗い地平に暗い空。彼方まで続く「目」達の列。 そして、脊髄に液体窒素を流し込まれたような、底からの、寒さ。 他に、何もなかった。私はその闇の中を、果てしなく続く「目」にそって疾走していた……。 スピードがゆるまり、赤い星が浮かんだ。海の底から引き上げられるように、ふいに私は覚醒した。 フロントガラスに信号の赤い光が写っていた。 「山形市まで三十五キロ」 青地に白の標識はそう読めた。 信号が変わり、車が発進した。 「今、何時だい?」 目を擦りつつ、私は運転席の工藤に尋ねた。工藤は律儀にも、自分でハンドルを握り運転しているようだった。 「十時半を少しまわったところでしょうか。静かでしたね」 「眠ってしまったらしい。山形まではあとどのくらいかかる?」 「三十分かそこらでしょう……」 「眠らないのか?山形の管制区には入ってるんだろう?オートナビに切り替ればいいだろうに」 「久しぶりに本物の車に乗ったもんですから、自分で転がしていたいんですよ。地球の破壊者といわれようと、やっぱりガソリンエンジンは気持ちいいもんです」 「子供みたいなことを……」 「悪かったですね」 暖房が効いているにも関わらず、私は身震いした。寝汗をかいてしまったらしい。寒気はそのせいだ。 「へんな夢を見た・・」 私はそう呟くと、衿を引き合わせた。 「『夢占』ですか?」 私は答えずに、ヘッドライトに移り出される路面を見つめていた。追越禁止の中間帯がオレンジの奔流となって流れてゆく。 視界を白いものがよぎった。ぞくりと、また寒気がした。 あの「目」だ。 夢のなかに出てきた、あの目が道路の脇に並び、後ろへと飛び去って行った。 「なんだ、あれは?」 呟きに、工藤が反応する。 「どうしました?」 「車を止めてくれ」 私はドアを開け、外に出た。警告灯の赤い点滅に、その「目」が染まり、恨めしげな印象がいっそう強まった。 「ガードレールがどうかしたんですか?」 それは工藤がいうとおり、ありふれたガードレールだった。パイプでできていて、長方形の中に、二つの半円が上下に組みあい人の「目」のような形になっているガードレールだ。八十年代から、九十年代にかけて良く使われた、なんの変哲もないガードレールのはずだった。 しかし、ここのは違っていた。 いずれもが、微妙に歪んでいた。支柱から支柱の間がどれも下に向かって曲がっているのだった。 従って、半円はひしゃげ、それがやぶ睨みの恨めしげな目に見えるのだった。 「雪のせいですよ」 工藤が言った。 「ここらへんは山形でも豪雪で有名なところでしてね、冬場には2メートルから、3メートル積もるんです。その雪の重みで、このぐらいの鉄パイプはひしゃげちゃうんですよ」 私は工藤の言葉を聞きながら、自分の意思に反して震え続ける身体を抱き抱えていた。 「霞城市に行ってほしい」 東京都代々木の日本修験宗会館に呼ばれ、そう告げられたのは今月のはじめ、十一月の二日ごろだった。 「霞城で何か?」 「山形県での都市計画を進める上で厄介なトラブルが起きている。詳しいことは現地入りしてから聞いてくれ。まず有り得ないこととは思うが、仮に物理的な妨害工作が行われたときのために票師(ひょうし)を一人つける……」 その票師として紹介されたのが工藤だった。 雪焼けが染み着いた肌に、良く表情の見える瞳をしていた。年の頃は二十の後半といったところだろうか。広い肩と、太い首を持っていた。 羽黒修験本宗の院号を持つ修験であり、いくつか、特殊な工作の訓練を受けた男だ。 「ちょうど俺が高校のころからですね。山形が変わり始めたのは」 私は彼が、高速をおり昼食をとった福島のサービス・エリアで告げた言葉を思い出した。彼は昔のままにその街の事を山形と呼んだ。 「環日本海経済圏構想、か?」 工藤は黙って頷いた。 「環日本海経済圏構想」とは二十一世紀初頭、日本が極東地域に関して打ち立てた大きな経済圏構想の一つであった。日本の周辺地域の政府もそれに賛同する様子を見せた。 「環日本海経済圏構想」。それは、日本海の海上に建設された二つの人口島と、沿岸部の各都市による、巨大な市場であり、巨大な生産活動の場である。日本海大和堆に土台を置いた人口島、「新蓬莱」と、「新飛島」の二つの人口島。日本の小樽、秋田、鶴岡、新潟、金沢、松江、福岡。旧ロシアのウラディオストック、ハバロフスク、などを結び、それらを拠点として中国東北部、シベリアの資源と労働力、日本、韓国の技術と資本が有機的に結び付いた一個の経済圏を構築する。そうした構想であった。 山形市は、新蓬莱と、ウラディオストックに連絡する酒田港、鶴岡港と、太平洋岸の仙台そして東京との中継地点としての役割を果たすべく、日本海沿岸を中心に新設されるバイモーダルシステムの一拠点として、市全体を巨大な中継基地とする計画が進行していた。 私が呼ばれたのはその矢先の出来事だったのだ。 「山形は変わろうとしているんですよ」 再び車のハンドルを握り、工藤がそういった。 「昔の、どうしようもない地方都市だった頃は、本当にさえない街だった。奥羽山脈を一つ越えた仙台を横目で見ながら、なぜこんなに違うものか……、高校のときには腹が立ちましたよ。何せコンサートも、劇団もなかなか来ないんですから」 「やはり、『環日本海経済圏構想』のおかげか?」 「でしょうね」 眠気は醒めてしまっていた。私は山形市につくまで少し工藤と話してみようと思った。正直いって、まだこの男について詳しく知っているわけではなかったのだ。 「山形なのかい?国は」 「ええそうです。高校の半分まで山形の市の方にいて、それから三年ほど出羽三山に入って、いろいろあって二十歳になる少し前に東京の会館の方に転職したんですよ」 「どおりでなまりがほとんどないと思った」 「今はもう、そんなになまりはありませんよ」 確かに流暢な、標準語だった。強いて言うならアクセントがはっきりせず、平板に聞こえることぐらいだろう。テレビで見る東北出身のお笑い芸人のようななまりはこの男からはほとんど想像できなかった。 「この仕事に入って、何年になる?」 「高校を中退したときから関わってますから、十年は越してますね」 「安心したよ。やけに若く見えたものだからね。失礼かもしれないが」 切通しを抜けると平野に出た。高速道路ににほぼ並列する形でバイモーダルシステムの線路を囲む高い防音壁がナトリウムランプのオレンジに照らし出されていた。 そのオレンジの流れは、システムステーションのある、山形市に向かっていた。 「今回の事件について、会館の方ではどこまで教えてくれたんですか?」 工藤が車の速度を落として尋ねた。 「バイモーダルシステムの中継地点付近で心霊的な障害が働いている。しかもそれは、よくある個人的な原因による霊障ではないらしい。従って、羽黒の修験者ではなく、私を必要とした」 「相変わらず、会館は回りくどい事をしますね。こっちの送ったレポートを渡してくれればいいのに、信用されていないんでしょうか」 「そういうわけじゃあるまい。ただ、専門家の目で確かめてみないことにはどうしようもないからだろう」 しばらく工藤は何か思案しているようだったが、よし、と小さく呟いてウィンカーを出し、車線を変えた。 「宿舎に着くのは少し遅くなりますが、見てもらった方がいいでしょう。今から、その現場にいきます。周辺の地図が必要ですか?」 「細かいのがあるなら、ありがたいが」 「羽黒山にアクセスすれば、こちらで作った調査地図をダウンロードできます」 工藤はそう言って、車載ファクスに手を伸ばした。 私はもう一度道路の脇に目をやった。あの「目」はもう私を追ってはこなかった。 山形市の外れ。笹谷峠に向かう高速道路に並列する形でそのバイモーダルの線路はあった。 「試験車両は入っているんですがその『霊障』のおかげでまだ本車両が入れられないでいます」 そう工藤は言った。 フェンスで囲まれた操車場にはオレンジのあかりが満ちていた。私は工藤に続いてその中に入った。 プラットフォームに線路、操車場の奥にある台車。それらは極普通の鉄道のものと大して変わっては見えなかった。そのサイズを除いては。 「ここのプラットフォームでトレーラーは台車を装着し、笹谷峠を越えて東北本線に連結します。これのおかげで酒田と鹽竃港の連絡が緊密になるってわけです……」 工藤が説明を続けている。しかし私はそれを注意深く聞いている余裕はなかった。 胃が冷たい手で絞り上げられていた。疼痛と吐き気が繰返し喉を迫り上がってきた。 仕掛けられた。 個人の怨恨による「地縛霊」のケースでは無いという会館の報告をうのみにしたわけではなかったが、こうすぐに仕掛けてくるとは思っていなかったのだ。その油断を突かれた。 工藤は気づいていない。身体に綿かなにかがまとわりつくような感覚があった。膝が崩れそうになるのをこらえ、私は叩歯した。 荒れる息を無理やり鎮め、歯を噛み鳴らす。硬質の音が耳に快く響く。 右奥歯を噛み鳴らす、槌天馨。 左奥歯を噛み鳴らす、打天鐘。 前歯を噛み鳴らす、鳴天鼓。 身体に入り込んだ異なるものを、まとわりつく何かを噛み切り、打ち断つ。 「塚守さん?」 工藤がようやく気がついた。どうやら彼には仕掛けなかったようだ。 最後の一噛みを終えると、私にまとわりついていたものはふいに手を引いた。 羽音が突然まき起こった。 ぎゃあ。 耳障りな叫声が波のように襲いかかった。 ぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあぎゃあぎゃあ……。 夜の闇がプラットフォームに舞い降りた。 幾百もの瞳が私達を凝視していた。それは、敵意に満ちていた。 烏だ。 オレンジ色の明りの中に舞い降りた黒。そのコントラストは単なる色彩以上の不吉さを感じさせた。 操車場の見渡す限りの場所に烏達はいた。 私は、その烏達がいつのまにか鳴くのを止め身動ぎもせずにいるのに気がついた。そのいずれもが、我々二人の侵入者を凝視していた。 邪眼。 そんな言葉が私の脳裏をよぎった。そう、確かにその瞳には単なる敵意以上のものがあった。 「塚守さん、出ましょう」 工藤の声は緊張を隠していない。 「これ・・なのか?」 私は後ずさりしながら尋ねた。答えのわかった質問だったが。 「襲われて失明した作業員もいます。奴らは人を襲います。しかも、この作業に関係している人間だけを狙って。夜だから大丈夫だと思ったんですが、逃げましょう塚守さん。危険です」 そう簡単に去るわけにはいかなかった。この後ろに或る何かを、探らねばならなかった。だが、かれの言葉にはなんの偽りも、誇張もないだろう。今は、戦えない。 「工藤君。戻ろう」 私はそう言わざるを得なかった。最初の手合わせはこちらの完敗だった。そういうことだ。 烏は追ってはこなかった。 車に乗り込むと、工藤が大きく息を吐いた。 「あなたを呼んだわけがわかりましたよ」 私は、さっきの烏達の目を思い返していた。 「あれは、修験でどうにかなる物には思えない。少なくとも今の出羽三山にはあれに立ち向かうだけの験力を持った者はいません。あれに立ち向かうには、ただの力押しじゃだめだ。あれの理由を説明できるもの、分析できるものじゃなければ……」 そのとおりだ。私でなければならなかった。会館唯一の陰陽師である、私でなければならなかったのだ。 山形入りした翌朝、おれが迎えにいくと、陰陽師は部屋に備え付けのパソコンに向い合っていた。徹夜での作業がありありと窺えた。ベッドのシーツは綺麗なままだ。 「おはよう、もうしばらく待ってくれ。この作業が終わってから朝飯にいくとしよう」 ディスプレイをのぞき込むと幾つかの色で分けられた山形市の地図が見えた。 「羽黒山の資料は役に立ちましたか?」 陰陽師はディスプレイから目を離さずに答えた。 「一度自分で全部問題地点をプロットして、重ね合わせてみた」 「何か見えましたか?」 「そっちで用意した地図の方が出来は良かったよ。ただし、ポイントの数と言うその一点でのみだがね」 「龍脈を見るところまではできませんよ」 「そりゃそうだ、そのために私がここに呼ばれたのだからね。よし、ゆこう。朝食をすませたらすぐチェックアウトだ。昨日のところにもう一度ゆく」 陰陽師はデータを保存するとそれをアタッシュケースににしまいこんだ。 「昨日のところですか?もう一度?」 「現場百回ってことさ。それに、ディスプレイの中には風も水もない。行って確かめなければならないことは山ほどある」 「危険ですよ」 「そのために君がいる。大丈夫。昼は我々の時間だ」 「わかりました」 どうも昨日の出来事のおかげで彼の闘志に火が着いたようだ。昨日一晩、地図から読み取れるポイントをチェックしていたのだろう。目は充血し、お世辞にも顔色はいいとはいえない。しかし、意気込みが違った。緊張と、興味が興奮剤になっているのがあきらかだった。 おれは彼の先にたってドアと通路を確認した。羽黒の票師が何人かガードに入っているはずだったが、一応だ。 軽めの朝食を取ってから、おれは車をだした。リアシートに陰陽師が座る。駅前のビル街をでるととたんに道が狭くなった。高校生の自転車の列を横目で見ていると陰陽師が誰にいうとは無しに呟きはじめた。 「それにしても、この都市は変わった都市だな」 「夏は気温が四十度を越し、冬は冬で天下の豪雪ですからね。冬寒く、夏暑い。住みやすいところじゃありません。それは確かです」 「自然状況だけじゃない。中央山形駅から見回してみるが、周囲全方向を山に囲まれている。廻りを壁で囲まれてしまっている。それも壁の向こう側を見通す事のできない壁だ。このような土地に住むと外に出たがらないというか、外部との交流を望まなくなるというが……、この都市の歴史を見る限りそれは本当のようだな」 彼はしゃべり続けている。どうやら俺と話すことによって考えをまとめようとしているように見える。おれが山形出身であるということを踏まえているのだろう。おれは彼に協力する事にした。 「葉山、月山、湯殿山、羽黒山、蔵王、鳥海、神室山、飯豊連峰、吾妻、磐梯。確かに山形の周囲には修験の霊山が多いですね、山によって守られた土地ってわけですか」 「守られているんじゃない、隔離されているんだ。君の昨日の話は真実を突いているよ。山形の周囲の山々は情報、文化すらもせき止める、そう言う山だ」 「そうですね……、少なくとも日本の歴史の中ではほとんど表舞台に立ったことがない土地ですからね。前九年後三年の役、平泉の滅亡、遡って坂上田村麻呂のときにも、主戦場は岩手、宮城、秋田といったところですか」 俺はそう話すと、高校の頃聞いた冗談を思いだし、思わず笑い、付け加えた。 「知ってますか、塚守さん。山形ってのは、日本で最後までマクドナルドが進出しなかった土地なんですよ。ようやくできたのはおれが中学三年くらいのときで、モスクワや、北京の方が日本の山形より早かったんです。山形は日本の中で、モスクワよりも民主化が進んでいない。そう言ってました。おまけに、東北自動車道、東北新幹線全てが山形だけ避けて行きましたからね。それに、」 「それに?」 「ゴジラすらまたいで行きました」 空振りした。 陰陽師はくすりともしなかった。どうも彼は特撮映画には興味のない人間らしい。「帝都物語」ぐらいは見ているんだろうか。おれは思った。 「とにかく、山形は長い間歴史の表舞台から遠ざかっていた。従って、城隍神となるべき『英雄』がいない。さらには、住民が自分達の都市に思い入れを抱くための『英雄』もない。この都市の人間は山形という都市について、思い入れがあったとしても、それを形にして表せない故に都市の住民であるというプライドを抱けない」 下調べはかなり穿ったところまでしているようだ。そのとおりだった。山形に地元の人間が誇りとするような英雄はいない。さらには祭りもない。秋田の竿灯、青森のねぷた、仙台の七夕。山形にあるのは花笠祭りとなっているが実はこれは昭和初期から始まったもので、歴史という点で大きく見劣りがする。さらにはかなりおかみ主導的で、参加する人間の意識も、高くはない。 『祭礼』『英雄』という物が地方の都市において住む人間の意識を高めるという事実は認めねばなるまい。要は「おくにの自慢」ができるか、否かということだ。山形には、それがない。 ただ、それがどのようにこの事件と結び付くというのか。わからない。 「『祭礼』『英雄』の不在は確かです。それが、どのようにこの事件と結び付くんですか?」 「この都市が、果たして発展することのできる都市か、否かということさ。直接このことが今回の事件に関わるかどうかは解らない。ただし、」 彼はそこまで話すと口をつぐんだ。 「どうしたんですか」 陰陽師は声を落として呟いた。 「君は、土地そのものが、都市という構築物そのものが意思を持つと思うかい?」 意表を突かれた。 「どういうことですか?」 しばらく沈黙が続いた。 いや、いいんだ。陰陽師はそう言うと今度はずっと黙り込んだ。 車は笹谷峠に続くバイパスに乗っていた。あと二分もあれば、昨日の工事現場に着く。おれがここをでた頃、この付近、つまり妙見寺や釈迦堂のあたりはほとんどが田圃だったものだが、今はそのほとんどが住宅に変わっていた。バイパスを通っているうちはいいが、あの中に入ったら道は悪いだろうな。おれはそう思った。 しばらくいったところでバイパスから降りる。昨日の現場だ。 中にはまだ、烏がいるのは明らかだった。陰陽師は朝の言葉とは裏腹に、その中に入ろうとはしなかった。 ノートパソコンのディスプレイに周辺の地図を呼び出してそれを実際の地形と比べる。陰陽師はその作業を行っているようだった。 おれは陰陽師の後ろに立ち、周囲を見回した。ここに来るのに使ったバイパスがごみごみした市内に続いている。それに沿うように馬見ヶ崎川が流れていた。馬見ヶ崎に削られる形のちょっとした山は黄色い肌に赤のアクセントが入り、文句無しの秋の風景だった。休日だったら、この季節は芋煮会が行われ、河原は賑やかになっていただろう。今日はそれにふさわしい天気だった。 おれはふと山形での高校時代を思い出した。結局おれが高校にいたのは一年と半年あまりだったが、クラスの奴と馬見ヶ崎で宴会をしたことがあったっけ。 あの頃と河は何も変わっちゃいない。あの時はこんな風にかつてと全く違った気持ちで同じ馬見ヶ崎を眺めることになろうとは思っても見なかったものだ。 陰陽師のあの台詞に何か引っかかるものがあったのはこのせいかもしれない。 彼は何を言おうとよその人間だ。実際にそこに住む人間にとって、『英雄』も『祭礼』も彼がいうほどの意味を持つのだろうか?山形に住むものとして、そんなものよりもこの河や山こそが大事な何かではないだろうか? 視界の隅で何かが動いた。 おれはそれと陰陽師を結ぶ線上に自分の身体を運んだ。 烏だった。 一匹の夜の闇よりも黒い烏がおれと陰陽師の乗ってきた車のドアミラーに止まってこちらを見ていた。陰陽師は気がついていない。 「塚守さん!」 おれが陰陽師に注意をうながしたその瞬間、烏が飛び立った。 陰陽師が振り返ったとき、その烏はこっちに向かって放たれた矢のように突っ込んできた。おれの腕が鋭利な嘴を払い受ける。羽ばたきが目を打つ。爪がひらめき、まなじりを掠めたものがあった。顔を守り伸ばした手が羽毛の感触に触れた。 ちいっ。 おれはそいつを掴み絞り上げた。 手の中で激しくそれがもがいた。動きを止めるには一つしか方法が思い付かなかった。おれの手の中で、それがぺきりと乾いた音を立てた。烏はもがくのを止め、力無く開いたその嘴から、黒みを帯びた血が垂れ、おれの手を染めた。 襲撃はその一羽のみだった。 「工藤君、大丈夫かい?」 大して心配もしてない様子で陰陽師が聞いてきた。 「大丈夫です、かすり傷すらありませんよ。それより塚守さんは?」 「私も特にどうということはない」 「しかし、どういうつもりでしょうね。襲ってくるのはまだしも。一匹のみってのは」 おれは烏の死骸を整地されていない現場の奥に放り投げながらそう答えた。 「会館が君をつけてくれて助かった。そういうことだな」 「これくらいのことのために呼ばれたってのは嘘だと思いますね」 偽らざる気持ちだった。誉められていい気持ちがしないわけでもなかったが、これだけのためにおれが呼ばれたとは到底思えなかった。もっと激しい妨害があるはずだった。 師とは、ただのボディガードとは違う存在であるのだから。しかし、そうは言ってもこの工事が進むことに対し、妨害工作までしようというやからにはついぞ思い当たりがないのも事実だった。 陰陽師は何事もなかったかのようにノートパソコンをたたむと馬見ヶ崎の河の流れを見つめ、目を細めた。 「バイモーダルシステムの中継点としてとしてこの場所を選んだのは誰か知らないが、いい線だ。小さいが、『穴』に位置している。廻りに常緑樹を植えて生け垣を作れば、それが『砂』になって地の気を蓄えられる」 「エネルギースポット。だからですか?あれは」 「ああ、そう言う場所だ。だが、どうもこの件に関しては、風水は決定的な要因ではないな」 「というと?」 陰陽師は背後の雁戸山から千歳山までの尾根を見回してから続けた。 「周囲の地形によって与えられるのはあくまでスカラーとしての力のみだ。それをどのように加工し、方向性を与えるかは、そこに関わるものによる。 確かに『穴』のまわりではよく生き物が育ち、異常なまでの物になることもある。だがあの烏達は、そうしたものとは全くの別物だ。そうだろう?」 「あの、敵意は異常ですからね」 「相手がこの『穴』に集まるエネルギーを用いているのは確かだ、なぜかはわからない。だが、相手を捕まえることができればそれが明らかになる」 「それだけの結論を今ここで得たんですか?」 陰陽師は初めて笑みを見せて言った。 「さすがに昨日一晩費やしはしたがね、予想はしていた。今日は確認みたいなもんさ」 この塚守という陰陽師にとって、もしかしたらこのような事件はシンプル・ケースなのではないか。おれはそう思わずにはいられなかった。 しかし、どうやって捜し出すつもりなのか。 そう問いかけようとするおれを制して陰陽師は、 「ここはもう十分だ。いったん戻り準備をしよう。さっきの烏の死骸、持ってきてくれ。使う」 と言って、車に向かった。 おれはもう一度だけ中継ステーションの奥に目をやった。そこには何羽か烏が止まりおれを見つめていた。おれはさっき放った烏の死骸を拾い上げた。なんとなく、他の烏の視線を感じる、そんな錯覚があった。 おれは血で汚れた手に目を落とすと、逃げるようにその場をあとにした。車に置いたウェットティッシュで早くこの血を拭いたかった。なぜかこの血の汚れめがけて烏達が向かってくるような気がしたから。 「ところで、『英雄』ということで思い出したことがあるんですが」 エンジンをスタートさせるとおれはそう尋ねた。 「最上義光という大名がいましたが?」 どんな返事が返ってくるかという予感はあったが聞いてみた。 「彼こそ、この山形という土地に囚われた人間のよい見本だよ。彼は少なくとも英雄では無い。郷土史家が活躍すればするほど、彼のしたことが、小さな豪族の跡目争いにくちばしを突っ込んで屋形を奪った程度のことだということがわかる。それを卑下するわけでは無いが、果たして山形市民が彼のことをどう思っているかだ。彼はこの村山盆地の中しか見えなかった。彼にとって山の向こうは埒外だった。理解の範疇を越えていたんだ」 厳しい意見が返ってきた。おおよそ覚悟はしていたのだが。しかし、最上義光もメジャーになったのが某シミュレーションゲームで、しかも扱いがああではしかたない気もする。 「手厳しいですね、けれど山形を治めたのは彼だけではありませんよ。他に英雄となるべきものはなぜ出なかったんでしょうか?」 「そのあとも結局ここには根付いた大名というものは存在できなかった。幕府の左遷先だったせいだ。ゆえに統治者と、被統治者の間に信頼関係ができなかった。これがさっきの『祭礼』の不在にもつながる」 「しかし、維新後はどうなります?統治者は少なくともあなたのいうような英雄ではありえませんが?」 「その後は確かに統治者という形でのが生まれなかった時代だ。しかし、他を見ればやはり英雄はいた。三菱であり、住友であり。そして、維新後、この都市は他の東北の都市と決定的な、或る点において正に決定的な出来事により他の都市に遅れをとった」 「それは?」 陰陽師は声のトーンを落とした。 「山形は戦災に会っていない。故に城下町という都市の体型が、無計画に拡大してしまった。本来田園地帯であったところに無計画に住居が進出し、内核都市と、周辺部の道路、都市体系は全く違った思想のキメラとなった。この都市は、無節操に脱皮を続ける一匹の芋虫だ。羽化すべきときを見失い、自分の脱ぎ捨てた殻に埋もれて息も絶え絶えになっている醜い芋虫だ。私は不思議でならないよ。まるで都市が発展することを拒んでいるかのようにすら思える……」 しばらくしてから陰陽師は着いたら起こしてくれと言って、リアシートに身を横たえた。 おれはハンドルを握りながら変わったようで変わらないこの山形という都市と、さっきの陰陽師の言葉をを思い出していた。 確かにオートナビのシステムは入り、中心部では住宅が減り、新たにビルが立ちもした。しかし、いくらネオンが増え街灯の明りが強くなろうと、路肩の縁石は除雪のブルドーザーに削られ歪な形をさらし、スパイクで削れたアスファルトの粉塵は始末に負えない黒い泥になって縁石の縁に溜っている。 都市の占める面積は増えたが、計画性など無きに等しい。田圃を一枚ずつ売り、その場所に家を立てているのだから。相変わらず道路の幅は狭く、幾つかの場所では不可思議に入り組んでいる。 変わってはいるが、俺たちが高校生の頃にけなしていた山形はまだ残っている。リアシートで寝ている彼、塚守はどうこの都市を考えているのだろう。おれはそう思った。 ホテルにつき、陰陽師を起こすと、おれは部屋まで送り、中を点検した。陰陽師の消耗は明らかだった。仕事をするにしても、夕方までは寝ていた方がいい。おれはその旨を伝えた。 「そうしよう。夕方の五時まで休ませてもらう。それまでに君もみそぎはらいをすませておいてくれ。うまくゆけば明日の朝には居場所がわかるだろう」 おれは聞きそびれていた質問をようやくすることができた。 「ところでどうやって、相手を突き止めるんです?」 陰陽師は落ち着き払った声で答えた。 「『式神』を使う。私達が夜もう一度あの現場に赴けば、もう一度相手は仕掛けてくるだろう。そのとき相手にその呪詛を打ち返し、こっちの『式神』をそれに重ねる。さっきの烏の死骸はいい材料になる。何のことはない。古典的なテクニックさ。『式神返し』だよ」 3 大鳥居を抜けると街路灯で皓皓と照らし出された立体交差にさしかかる。大きく蛇行する山道は整備されていて広く、谷側には山形の市街が光の河となっていた。蔵王山に登る行程の中で、ここが山形の夜景を見るのに最高の場所だった。 しかし、そろそろ空が闇から藍色にその色を変えつつあった。時計に眼をやる。午前五時。温泉街につく頃には日の出の時刻だろうが、あいにく空は曇りだ。温泉街にコンビニエンスストアはあるだろうか。なければ、十時ごろまで朝飯はお預けという事になる。診療所はおそらく九時ごろから開いているだろう。まだモルヒネはあるが、早めに治療した方がいいのに変わりはない。ただし、陰陽師がそこにいくとは思えなかった。 おれと陰陽師を乗せた車はもう刈り入れのすんだ田圃のなかを突っ切る蔵王への道を疾走していた。さっきまで聞こえていた呻きも聞こえなくなっていた。バックミラーで後ろの陰陽師を見るが、タオルで顔を押さえているのがわかるだけだった。 陰陽師もおれも口を開かない。車の中には静かなエンジンの音と、時たまタイヤが立てる鋭い音の他何も聞こえなかった。 先の方を黒い影がよぎった。鳥だ。烏よりも大きく、ずんぐりしている。梟だ。 やはり、蔵王か。 陰陽師の言葉を信じないわけではなかったが、先導が間違いなく、陰陽師の払った代償が無駄にならずにすみそうだとわかるとおれはようやくほっとした。 昨日の夜、というよりもホンの三時間前の出来事ではあるが、おれと陰陽師はもう一度あの工事現場に赴き、そして陰陽師いうところの『式神返し』を行った。 あの烏達の群は奇妙なことに静かだった。おとなしいというだけで、その奥にある敵意は変わっていなかったが。 おれはあの手の中でもがく烏の感触がいやだったので、棍を用意していた。 陰陽師は気を失った梟を用意してきた。尋ねると、無造作に「林で捕まえてきた」とだけ言った。 陰陽師は簡単な壇を作り、自分の式神を封じた符を燃やし、その煤を溶いた水を梟の嘴に流し込んだ。そして幾つか呪言を唱えた後に、梟を揺り起こした。これで式神が梟に乗り移る。梟は一声鳴くと、陰陽師の肩に止まった。 陰陽師は現場の中央に立ち、白紙の御幣(みてぐら)を四方に立て、結界した。そして、あの烏の死体を取り出すとそれを引き裂いた。 不思議と、大して血は流れなかった。もう固まっていたのかもしれない。おれは、陰陽師の結界の中に入り、烏達に注意をむけた。烏達は一声も鳴かずに引き裂かれる自分達の仲間の死体をその不吉な瞳で見つめていた。 陰陽師は地面に死骸を放り捨てると、血塗られた手のまま不動七縛の秘印を結んだ。 外縛、剣、刀、転法輪、外悟鈷、諸天教勅、内縛。 真言秘密不動金縛法。陰陽師はこれで烏達の背後にある存在を縛る、そのつもりらしかった。烏達が不安げにざわめく。 「ゆるくとも、よしや許さず、縛りなわ……」 陰陽師が一言一言、噛みしめるように神歌を紡ぐ。おれは棍を正眼の位置に構え、神歌の下の句を続けた。 「不動の心、あらん限りは」 刀印を抜き放ち、陰陽師は目の前の空間を斬った。 「臨」 おれも棍を横に薙いだ。九字を唱えつつ、五横四縦に印を切る。 わっと、烏の群が膨れ上がった。 羽ばたきが殺到した。 幾百もの嘴と爪がおれと陰陽師につきかけられる、その瞬間、 陰陽師が声を限りに叫び、刀印を袈裟掛けに斬りつけた。 「先!」 同調させて気合を打つ。 耳が鳴る。 無音。 羽ばたきの音さえ消えた。 烏達は空中に一時張り付けられたように、動きを止めた。 そして、ばたばたと墜ちた。 かかった、そうおれが思った瞬間。 一陣の風が突き抜けた。 地面に落ちる烏達の間を抜け、一際大きい一羽の烏が陰陽師に襲いかかった。 おれの目の前で陰陽師がくずれた。手で顔を押さえている。指の隙間から流れる血が見えた。陰陽師の結界は破られたのだ。 「塚守さん!」 おれは叫び、棍を投げた。その烏はおれの棍を易々とよけた。 烏の足の間に白いものが見えた。目玉だ。 その烏は足の間にある、三本目の足で抉り出した塚守の眼球を掴んでいた。 それは一瞬の出来事だった。そして烏は、闇のなかに消えて行った。 別の羽ばたきが聞こえた。梟が飛び立ったのだ。『返す』のに成功はしたのか?しかし……。 おれは陰陽師に駆け寄った。 「塚守さん、怪我を見せてください!」 陰陽師は苦痛に顔を歪めつつもおれに向かい 「式の向かう方向を、確認してくれ」 と苦しそうな息の下から言った。 「早く病院に……!」 そういったおれの襟首を陰陽師は掴みねじり上げた。 「行き先を確認しろ、そっちが先だ。逃がしはしない。これで奴と私の間に『因果』ができたのだ。逃がすものか、そう、絶対にな」 鬼の表情だった。 おれは彼の身体を車に運び込み、発進させる他なかった。 暗闇の中、辛うじて向かった方向を確認した程度で、あとは陰陽師の感覚に任せるほか無かったが、確かに間違っていないことが明らかになった。 「見つけました、やっぱり蔵王に向かっているようです」 陰陽師はおれのその言葉をきくと、身を起こした。苦しそうな息の下から力無く彼は呟いた。 「蔵王、か。意外だな」 「というと?」 「行くとしたら羽黒、もしくは周辺の霊山だと思っていたのだが」 「ぴったりじゃありませんか。蔵王は出羽修験の霊山の一つですよ。最も今じゃスキー場としての印象が強いでしょうが」 「……それほど重要な地位にあったのか?」 「恐れながら、崇拝されていた。そんな山です。活火山で、噴火もしましたからね。かって湯治場だった頃は、子供は連れていってはいけなかったんですよ。山の神の生け贄にされてしまいますから」 「本当か?」 「江戸かその頃に、噴火がありまして、湯治場まで溶岩が流れてきたんです。そして、怒りを鎮めるためにある湯治客の子供がその中に投げ込まれたそうです。そのせいもあって、ここに湯治に来るのは一定以上の年齢になってからとされたんですよ」 「……凄まじい話だな」 「ただ、明治の神仏分離のときに規模が縮小してそのまま蔵王修験は立消えになってしまいました。そのあとは樹氷とスキー、温泉と言う三本柱で発展したんです。確かに、意外と言えば言えないことはないかもしれませんね」 陰陽師は口をつぐみ考えているようだった。モルヒネが効いたのか、痛みは和らいでいるように見える。 「なあ、工藤君」 陰陽師が再び口を開いたのは車が童子平をぬけ、蔵王大橋に差し掛かった頃だった。道路はおれが最後に訪れたときに比べ広くなり、整備されていた。ようやく山の端と空の区別がはっきりつくまでに白みはじめていた。 「馬鹿なことを言うと思うかもしれないが、聞いてくれないか? ……私は、この山形と言う土地がどうしても発展する土地には思えないのだ。ここに来る前に幾つか調べてきたのだが、少なくとも山形の村山地方、すなわちこの山形市のある地域に関しては調べれば調べるほど発展し難い原因が見えてくるんだ。この間私が言ったことの他にもあまりにも馬鹿馬鹿しくて君には言わなかったことがあるんだよ……。 復古神道の流れを受けたある新興宗教で伝えられていたことなんだが……、日本の島々と世界の大陸の間に対応関係がなりたつという考えなんだ。 すなわち北海道が北米大陸、本州がユーラシア大陸、紀伊半島はインド亜大陸、四国がオーストラリア、九州がアフリカ、台湾が南アメリカという風にね。もちろん、荒唐無稽なもので、本流ではないんだが……。 それでいくと、山形は『二重の鬼門』に位置すると言うんだ。 日本において・・、山形が鬼門の位置にあるのは言うまでもないだろう。世界において鬼門をどこで考えるかと言う……、問題があるが、その説によればエルサレムを世界の中心とするらしい……。すると、世界の鬼門はシベリアと言う事になる。そして、さっきの本州をユーラシアに対応させるやり方でいくと……、シベリアに対応するのは山形だ。つまり、山形は日本のシベリアであり、世界と日本の両方の鬼門に対応すると言うんだ……」 陰陽師は熱にうなされるようにしゃべった。興奮させるのは、よくないはずだった。 「雄大だが、根拠のない説ですね、幾つも不十分なものを抱え込んでいる。どうせどこかのポップオカルトが言い出したことじゃありませんか?」 おれはそう答えた。車は、まだ静まり返っている温泉街に入った。 「確かに……、そう思う。しかし、やけにこのイメージが引っかかる。そうなると山形は、……山形は世界の鬼門から吹いてくる風を、奥羽山脈で受け止めている事になる。 山々に吹き付けられたケガレを呑んだその雪は……、やがて春の雪解けには雪解け水とともに、山形中のケガレを「日本三大急流」の最上川に乗せて日本海に押し流して行くというわけだ。……神道の『大祓』に見られる、ケガレの浄化システムだよ!だが、問題はまだある。『大祓』では確かに海に送り出せば、そこでハヤアキツヒメ、イブキトヌシ、ハヤサスラヒメという神がみの手によってケガレは分解消去される……。それと同じ事が、日本海でも起きているのだろう……。 単なるケガレならばそれでいい。……しかし、本当にそれだけだと思うかね?この霊的浄化システムによる物で消されるのは、いや消されなければならないのは、本当に単なるケガレだけかね?」 「何のことですか?」 おれはとぼけた。薄々勘づいてはいたが、肯定することによって、話がどこまで大きくなるかわからなかったからだ。 「日本海に……流れ込む河は……最上だけではない。そして流れ込むのは……ケガレだけではない。幾多もの怨霊が……、中央に破れた幾千もの東北の鬼どもの怨霊もまた、日本海に流れ込んでいる!アテルイが・・、モレが・・、悪路王が・・、貞任が・・、藤原が、奥羽列藩同盟で死んでいった兵士達が・・、みな日本海に飲み込まれていった。彼らのその恨みは・・、思いは・・、本当に神がみの業により虚空に消えたと思うかね?……誰にもわからないのだ……少なくとも、今までにはいなかったのだ……」 「……着きましたよ、塚守さん。これからどうするんです?」 おれは興奮ぎみの陰陽師を制さざるを得なかった。明らかに彼は自分の説に夢中になっていた。薬の性もあるかもしれない。新しい仮説に夢中になるのもいい、しかし、今ここでは冷静な判断が必要なはずだった。 車をスキー場前の駐車場に止めた。おれは外の空気が吸いたくなり、外にでた。その時、羽ばたきと幾百もの叫びが耳を打った。 空を覆わんばかりの烏の大群だった。 反射的におれは中に戻ろうとした。しかし、様子が違った。その烏達はただ大群である、そういうだけだった。あのおれ達を射すくめた意思は感じられなかった。 おれは色を変えた山に目をやった、そして、烏達の謎が解けた。 おれが知っていた森はなくなっていた。 おれがここを最後に訪れた時にはなかったゲレンデが新しくできていた。烏達はそのゲレンデの上を、所在無げにさまよっていた。 烏達のすんでいた森がなくなったのだ。別に烏達は空から降ってきたわけでも、地面から湧いたわけでもなかった。森を潰され、冬を越す場所を失い、そのためにあの現場に向かったのだろう。そしてその場で、何者かの意思を受けたのだ。 陰陽師は車からでていた。 「塚守さん、少なくとも、なぜ急に烏達が増えたのかという理由はわかりましたよ、烏達は住み家を追い出されて、あの現場に向かったんです」 陰陽師は小さく首を振った。 「住み家を追い出された烏達だからこそ、利用されたんだ。行こう、工藤君。まだ勝負は終わっちゃいない。まだ何も解決はしていない。私の式は今、蔵王の山頂に向かっている。勝負はこれからだよ」 周囲は明るくなりつつあったが空一面を厚い雲がおおっていた。ひどい冷え込みだった。おれは時計に眼をやった。山頂に向かうロープウェイの始発は確か七時半ぐらいだ。始発を待つわけにはいかなかった、急いでいる。強権を発動させる他なかった。蔵王ロープウェイもまた、羽黒との関わりは深い。山の方から適当に理由をつけて指令を出せば出してくれるだろう。おれは手近の電話ボックスに入り、緊急回線にかけた。ふと外に目をやると、少し風が吹きはじめ、白いものがひらひらと宙に舞っていた。 雪が降り始めたのだ。 4 管理人は少し驚いた様子を見せていたが、本社からの指令ということもあり、始業前の点検運行を早めるという事で問題にけりをつけた。おれと陰陽師は管理人が予備に来るまで車で待っていた。陰陽師には顔を出してもらわない方がよかった。説明するのに手間がかかるだろうから。 車のヒーターが効き始めるまで少しかかったが、ようやく暖かくなってきた頃に、管理人が呼びに来た。間の悪い話だ。 雪の降りは激しくなっていた。さらりとした粉雪が、吹雪くわけでもなく深々と降り続けている。ウィンドブレーカー程度の装備では心許ない。おれは管理人からアノラックを二つ借りた。 陰陽師は始終無言だった。時折山頂の方を睨む。式神の乗り移った梟のことを案じているのかも知れなかった。 ゴンドラに乗っているのはおれと陰陽師だけだった。本当なら職員が乗って、運行するのだが、彼には降りてもらった。危険があることは否めなかった。それに、憑依された時に最も手に負えないのが人間だからだ。 窓の外は降り頻る雪のせいでほとんど何も見えなかった。ワイヤーの軋む音と、風の音、そして、ワイヤーを通じて伝わってくる、エンジンのうなり。その他に何も音はしなかった。 「塚守さん、式神は・・、大丈夫ですか?追えてますか?」 陰陽師は物憂げにおれの方に向き直ると、小さく頷いた。 「……奴と私の間には……もう『因果』ができている。・・逃がしはしない。近付いている。……が」 「何か?」 「わからない・・、相手がつかめない。確かに・・強い力を持った相手らしいことはわかる。しかし、掴み所がない。もう相手がいるところのそばにきている・・、そんな気すらする。……相手が一つの確固たる存在ですらないようにも、思えてしかたがないんだ」 おれは陰陽師に歩み寄り、額に手を当てた。熱があるのは当然だ、しかし、危険な状態であることに変わりはない。傷もおそらく熱を持ちはじめているはずだ。 「工藤君……、羽黒山を開いた能除太子を導いたのは確か、烏だったな。能除太子が由良に着いたときに三本足の烏が彼を羽黒山に導いた。そうだろう?」 「そうですが、三本足の烏というのは日本ではよくある太陽のシンボルです。よくある話ですよ。特に特異性があるわけでもない。何を気になさっているんですか?」 「あの烏は……、私の目を奪った烏は、羽黒の使いだ。いや、正確に言うなら……」 「気にしすぎです。なぜ、羽黒が私達を襲わなければならないんですか?私達は羽黒のために動いているんですよ!」 陰陽師は苦しそうに吐息をついた。 「違う、羽黒山の修験のために動いているんだ。羽黒の、羽黒山のために動いているわけじゃない」 「落ち着いてください、モルヒネで頭がまわらなくなっているんです。山頂に着いたらひとまずロープウェイの駅で休みましょう、それからです」 陰陽師の言葉はうわごとめいたものになっていた。少しでも早く、着きたい。 おれは窓から外を見た。まだ、駅は見えないのか? 吹雪は激しさを増していた。ゴンドラの中の気温も急激にさがりつつあった。風の轟音が何時しか全ての音を打ち消していた。ゴンドラは嵐の中の船のように大きく揺れはじめていた。 危険だ。 そのとき、おれは信じ難いものを見た。 吹き付ける雪がゴンドラに打ち付けられ、へばり付き、見る見るうちにのたうつ結晶になってゆく。海老の尻尾と呼ばれる、蔵王独特の樹氷が形成される初期の現象だった。 馬鹿な、この時期に、しかもこんな急激に樹氷ができるはずが……! おれの目の前で、まるで映画のフィルムを早回しにしたかのように急激にのたうつ雪の結晶はゴンドラの窓を這った。 吹雪の中に、首をもたげるものがあった。 薄闇の中から現れいでたそれは吹雪のなかに立ち尽くす雪の巨人のようにも、林立する墓石のようにも見えた。 樹氷だった。 ただ単に木々に雪が結晶した。それだけのものであるはずった。 しかし、ふいに現れたそれは凶々しいシルエットを渺渺たる氷原に落とし、何か遥かに悪意めいたものを撒き散らしていた。 有り得ないことだった。 少なくともこの季節にできるものではなく、またこんなに急激にできるものでもなかった。それでは、おれの目の前で起きていることは幻だとでも言うのか?惑わされているとでも言うのか? そのとき、轟音ともに、ゴンドラが激しく揺れた。合成樹脂の窓が割れ、雪と寒気が雪崩込んできた。激しい揺れで鉄塔にぶつかったのだ。 陰陽師が吹き飛ばされ、ゴンドラの床を滑った。おれは弾き飛ばされ扉に叩きつけられた。 おれの身体がそこでバウンドしたとき、おれを支えるはずのものはそこに無かった。とっさに伸ばした手が、ドアのハンドルを掴んだ。振り落とされまいと力を込めたとき、羽ばたきが聞こえ、黒いものが視界を横切った。 揺り返しが来た。 背中に鉄骨の感触を感じた。 おれの身体は振り落とされた。 おれの身体はまるで玩具のように回転しながら墜ちた。 不意に回転が止まった。 組み合ったV字の鉄骨の谷間に、首が引っかかった。赤く染まった。 5 私は立てなかった。揺れはもうほとんどおさまっている。手足の末端の感覚はなかった。顔にへばり付いた氷も、自分では剥がせなかった。顔が強ばっている。 工藤は死んだろう。 雪の中から羽ばたきが聞こえた。 どさり。 私の前に羽毛の塊が投げ出された。梟だ。両目をついばみ出されている。返されたのだ。 あの烏が、死骸の上に降り立った。真ん中の足からこちらに何かをほうった。それは床にあたって、かつんと硬質な音を立てた。 凍り付いた、私の目玉だった。 やはり、この烏は羽黒の烏だった。いや、敢えて言うならこの烏は、山形という土地の意思の代行者だった。 山形は、発展することを拒んでいたのだ。 なぜならここが、墓場であるから。 ここは、死者が眠り、やがて消えてゆく為の土地なのだ。 周囲を固める山々は、この土地を外界から隔絶するためのものだった 流れの早い河はケガレを日本海に迅速に運ぶためのものだった。 蔵王を代表とする奥羽の山々は日本海に残るケガレ、恨みを吸いとって吹き付けてくるシベリアからの悪風を食い止め、それを昇華させるための山々だった。 幾多もの敗れ去った民の恨みを浄化する。その昇華の象徴としての『華』。 蔵王に桜は咲かない。 しかし、白い『雪華』が咲く。 そして、霧氷が、樹氷が生まれる。 そうして、死者はようやく安らかに眠る。 そのための土地なのだ。山形は。 発展を、開発を拒否していたのは山形という土地そのものだったのだ。 瞼が、重くなっていた。 身体の感覚はなかった。烏はずっと私を見つめていた。 からり。私と烏の間にある凍った目玉が転がった。 私の瞳が、私の瞳を凝視していた。 耐えられなかったのは、私だ。 私は瞼を閉じた。すぐに吹き付ける雪が瞼を凍り付かせるだろう。 羽音がした。烏が飛び立ったのだろう。 暗闇の中、私の意識の中で、あの目玉が無限に並び、私を凝視していた。 違う、並んでいるのはあのガードレールだった。 歪んだ、いびつな、やぶ睨みの目が私を見つめていた。 しかし、その目はもう私をなじることはなかった。 感想をいただければ幸いです。 掲示板へ メイル (2000/8/10 改訂掲載) 無断転載、使用を禁じる。 |