綻びを望まれた物語

1

「他にすることがあるはずだ。わかってるだろ」
 生活指導の新藤はそう言って、五本目のショートピースに火をつけ、そして煙を吐き出しながら言った。
「やめろ、別れとけ」

 談話室での説諭。三時間たってようやく新藤は結論を口にした。
 隣に座っていた綾瀬は理系の講習があるとかで一時間で帰されていた。だから新藤ははっきりと口に出したんだろう。もっとも、二人で呼び出されてこの机の前に座ったとき、すでに綾瀬は涙を浮かべていた。
 あの時、廊下で僕の姿を見た綾瀬はいつものように笑おうとした。けれど、その笑みには無理が明らかだった。
 笑い返そうとしたら、新藤が談話室の鍵を開け僕らを促した。冷たい視線は何故か僕にしか向けられなかった。
 日に焼けた畳の四畳半。僕と綾瀬は薄い座布団の上に正座した。新藤はあぐらをかくと灰皿を引き寄せた。
 そして、ゆっくりと新藤は語り始めた。
 僕と綾瀬の最近の成績について。
 僕と綾瀬の最近の生徒の間での噂について。
 僕と綾瀬の下校時の態度について。
 新藤は話した。
 途中から僕一人になってからは僕自身の生活態度について、そして僕の甘えについて。

「今ここで踏んばらないでどこで踏んばる?甘えんのも大概にしとけ。残酷に聞こえるかもしれんが堕ちるなら一人で堕ちて行け。いいか、もう一度言うぞお前らは甘えてるだけなんだ。互いにな」

 どんな返事を期待していたのだろう。
『わかりました。私立文系の男があんたのクラスの可愛い可愛い医学部狙いの女の子に惚れるのは邪魔だってことですね』
『公務員の安月給でわざわざ僕らの交際関係のことまで心配してくれてどうもありがとうございます。僕たちのことより、御自分の娘さんの方に気を使ってあげたらいかがですか?』
 心の中の言葉は空しかった。
 目の前の進藤の痘痕面がうっとおしかった。
 すえた口臭が鼻についた。
 教官室が禁煙になった腹いせでもするかのように談話室の四畳半で吹かしまくったショートピースの煙が制服に染み込んでヤニまみれになった気がした。
 ふと、僕の脳裏に目の前の男の、その顎をぶん殴っているヴィジョンが被さった。
 だが、口をついて出たのは通常の日本語では感謝を告げる言葉だった。

「わかりました。御指導ありがとうございました」

 僕は確かにそう言ったのだ。
 僕と彼女を別れさせた男に向かって僕はそう言った。
 外の日はすっかり落ちて、新築されてから十年目の校舎は薄紫の闇が染み出していた。

 三年前、僕は16歳だった。
 今年、僕は、18歳になっている自分に気付いた。
 高校生活最後のこの年は、僕を充分に楽しませてくれるはずだった。
 けれど、多分高校生活最後のイベントはこんな形で幕を閉じた。
 学校から帰る間の他愛ない会話も、つないだ手のぬくもりも、抱きしめたときの髪の匂いも。目の前に示された否応の無い選択を拒む助けにはならなかった。
 僕たちが大事だと思っていたもの、絶対だと思っていたもの。僕はそれにすがることも、護ることもできない現実の自分に向きあわされ、そして受け入れた。
 だから、それくらいに二人の時間はどうでもいい時間だったんだろう。
 多分。

 廊下は薄暗く、冷え切っていた。
 グラウンドからの歓声が微かに聞こえた。
 人はほとんど歩いていない。この季節、三年生は部活から引退している。だから校舎に残っている三年生は少ない。教室に残っている何人かは別の教室でランク別の特別講習をうけている連中だろう。もっともこの時間ならもう終わって帰ってきている。廊下にまで教室の喧噪が漏れているのが証拠だ。
「ったく、信じらんない!どうしてそんなことまで先生が口を挟むわけ!誰とつき合ってようが勝手じゃない!あんまりよ」
 水谷由佳里の声だった。
 教室にいるのは中浪組らしかった。水谷や篠山のダンナ、高塚さんとかの声が聞こえていた。
 クラスの主だった連中がいるらしい。講習が終わってちょっと駄弁っている。そんなタイミングだ。
「……やっぱり、クラスの違いかな」
「綾瀬は進藤のお気に入りだからねー。実際、ここ最近成績下がってたらしいぜ」
「そんなにあいつらくっついてたっけ?」
「そりゃ、学校の中じゃ慎んでるから」
「帰る方向は一緒なの知ってんだろ」
「そーそー。俺とかこいつは気ィ使ってんだぜ」
「ここ最近は巽ヶ崎の河原通らないようにしてるもんな」
「もう熱くって熱くって」
 一際大きな笑い声が起きた。
 腹を立てる気にもならなかった。
 イベントに飢えているくせに、スベるのが怖いから自分からは何もしようとしないクラスの連中。彼らと今の僕の違いは当事者かそうでないかだけ。
 立場が同じなら僕も同じように話題に乗っていたはずだ。
 自分達がおかれてる理不尽な状況を嘆くふりをしながら、うまくその日常から抜け出した奴を野次馬根性で興味津々に見つめ、見守り、蔑み、冷笑し、同情し、そして義憤に燃えてみたりする。
 けれど、自分達は何もせずに観客であることを続けるだけ。ステージに上がるヤツはいない。
 僕と綾瀬も自分たちがステージに上がるなんて考えていなかった。
 高校三年の冬なんて受験勉強以外に他にすることなんてないんだろう。
 新藤が言っていた通り、僕らはそのためにこの高校を選んだはずなのだから。地方の公立高校なんてそんなものだ。大手の予備校は山越えた隣の街、落ちたらいずれそこに通う事になる。そして、今の僕達はこの学校でやってゆくしか方法はなかった。
 そして多分僕と綾瀬はここでのやり方を少し、外れたのだ。

 がらりと戸が開いて水谷由佳里がやたら勢いよく教室から出てきた。
 ぶつかりそうになった僕は、悪りぃ、と呟いた。
 目が合って一瞬水谷は言葉に詰まったようだった。
 教室のなかは気まずそうな表情をする奴と、はっきりと興味をもって見る奴のまっぷたつに別れた。
 どんな風にリアクションしたものか。彼らは僕のリアクションを期待しているのだ。
 わざと荒れたふりして机でも蹴飛ばしてみようか?
 それとも何もいわずに帰る支度をするか?
 別れ歌縛りのカラオケでも募るか?
 それとも…?

「どうだった?」
 篠山のダンナが聞いてきた。
「……別に、今は他にすることがあるだろってさ」
「三時間掛けてそれか」
「要約すればそれ以外にないよ」
「ちょっと、あんたはどうするつもりなのよ!」
 水谷由佳里が大股で僕に詰め寄ってきた。女の癖に170センチはある水谷由佳里に詰め寄られるとけっこう迫力がある。
「……別に」
「別にじゃないでしょう!綾瀬大変だったんだから!クラスに戻ってきたらその場でポロポロ泣き出しはじめちゃって……」
 ぼんやりと水谷由佳里のまくしたてる言葉を右から左に流していると、僕は新藤の言葉を聞いているときと同じ違和感を感じた。
 
 水谷由佳里は何でこんなに、他人のことに感情が移入できるんだろう。

 返事をするのも面倒くさかった。
 さっきまでは先に解放された綾瀬に会いに行くつもりだったが、やめた。
 まるで芝居じみてる。ギャラリーはそれを期待しているのだと思うと何故かそれを裏切りたくなった。
 僕は黙って席に戻り、明日提出の課題を取り出した。ギャラリーは僕に幾分か興味を残しながらも、他の話題に移り、水谷由佳里は教室を出た。きっと綾瀬のところだ。
 祭りなんだ。僕たちのことは。
 全員にわかる共通の話題で騒ぎたいだけだ。
 もっともそれを言うなら僕も似たようなものかもしれない。
 内心驚いている。別れろと進藤に言われたときに、当然とこそ思え、特に反発するわけじゃなかった自分に。
 そして気がついたのが僕も綾瀬も退屈だったからつき合っていたんだという事実だった。
 綾瀬はそう思っていないかも知れない。なぜなら今、彼女は悲劇のヒロインをやっているのだから。けれど、僕は舞台の上で脚本の陳腐さに気がつき白けた。
 楽しかったけれど、それだけだった。
 僕も綾瀬もここを卒業したら、会うことはなくなるはずだった。もしかしたら二人ともある意味焦っていたのかも知れない。このまま、なんの山場も迎えずに高校を卒業することに。
 僕はくすりと笑った。
 こんな山場が起これば十分だろう?いい思い出になるじゃないか。
 僕は荷物をまとめた。
「帰るのか?」
 高塚さんが声をかけてくれた。
「ああ」
「気、落とすなよ」
「ありがとう」

 廊下は暗かった。僕は綾瀬のクラスの前を通り、そっと中を覗いた。綾瀬はいないみたいだった。国立理系クラスの女子は綾瀬のことにもあまり興味がないみたいだった。教室に残っている何人かは机で英標やチャート式を広げていた。僕が入っていける雰囲気じゃなかった。

 僕はそこを立ち去ろうとした。その時、靴先に何かを引っかけた。
 それは音も立てずに廊下を滑って、止まった。
 拾い上げてみるとそれは何かのおまじないらしかった。
 マッチの燃えさしを二本、赤い糸で結び付け、十字架にしたものだった。

 僕はそれを拾い、何気なく綾瀬のクラスの表札の上に引っかかるように置いた。
 そして、帰った。

2

 漢文の授業が終わると、僕は大きく欠伸をした。
 漢文の川田と目が合って、睨まれたが知らん振りをした。
 結局あの日の晩、綾瀬の電話につきあって、僕は明け方近くまで話していた。
 ……終わらないよね、こんなことで終わったりしないよね……。
 ……学校で会わなきゃいいんだもの、寂しくなんかないよね……。
 結局そう言う事だった。
 僕は冷たく思われない程度に相槌をうち、かないっこない夢の話をして彼女をなだめた。
 その時についた嘘の副作用で今日はやたらとブルーだった。
 昨日の話は水谷由佳里が公然の秘密として流したらしかった。それとなく僕を見つめて話している姿がちらほらと見えた。
 うっとおしかったが、どうしようもない。僕は次の授業の準備をしようとした。
 その時僕の耳に切れ切れの言葉が入ってきた。

 ……マジかよ……んなことする奴……。
 ……進藤が教室はいった途端だってさ……。
 ……進藤のクラス、全員が見たって話だぜ……。
 ……それって、やっぱり……。
 ……恨まれてるからな、進藤……。

 話の中心に篠山のダンナの姿が見えた。
 僕はダンナに問いかけた。
「篠山さん、ダンナってば。何かあったんですか?」
「進藤だか、進藤のクラスだかに呪いが掛けられたって話さ」
 篠山のダンナは面白がっているように笑いながら答えた。
「今日の朝、進藤が教室入ってきたときに、クラスの表札プレートから変なものが落ちてきたんだってよ」
「変なもの?」
「マッチで作った十字架だとか……。市橋、なんだっけ?」
 教室の隅で、名前を呼ばれた女生徒が顔を上げた。
「何で、そーゆー話ばっかあたしにフるんですか、篠山さん」
 苦笑いして、市橋は読みかけの文庫本を伏せた。
「得意だろ、こーゆーの」
「まぁ、キライじゃないですけど」
 市橋はそう言うと、外していたメガネをかけた。きつく結って背中にたらしたお下げとあいまって、外見だけならマジメなブンガク少女に見えなくもない。
「マッチの燃えさし二本を赤い糸で結んだ十字架、でしょ?多分、ヴードゥーの呪い十字だと思います」
「ほんとに知ってやがる」
 篠山のダンナは胸をそらして笑った。
「聞いといて笑うかなぁ」
 セリフこそ抗議しているが、本人は笑っている。けど、普通の女子高生はあんなこと聞かれてこんな風に即答できないだろう。
 銀縁の平凡なメガネにきつく結った髪。篠山のダンナによれば、
「あいつ、磨けばそれなりに光るぜ、マニアックなラインだけど」
 らしい。このマニアックという形容詞は多分市橋の専門分野にもかかっている。学年に一人はいるやたら占いとかに詳しいヤツ。それが市橋だった。
「ハイチのほうで使われてるオマジナイ。強力な願い事したりするときに使うんです。なかなかうまく行かない恋愛の成就だとか、人を呪い殺したり。黒白どっちもあり」
 市橋が続けた。そんなこと知ってるからってどうだって言うんだ。
 なんとなく僕は苛立って、自分の席にカバンを放った。
「で、黒白どっちよ」
 高塚さんが続ける。
「さぁ、あたしがやったんじゃないですし。けど新藤先生のクラスですよね」
「進藤に惚れた奴がいるとでも?」
 どっかのバカがバカらしい問いをした。
「実は男だったりして」
「すっげぇフケ専だな」
「そりゃ確かにうまくいかない恋愛だわ」
 ひとしきり笑いが起こった。その笑いが収まるのを待って市橋が呟いた。
「なんとなく、見当はついてるんじゃないですか」
 市橋は何の見当かとは口に出さなかった。けれど、僕たちはほとんどが同じ事を考えていたはずだ。
「やっぱ、新藤だろ」
「まぁ、恨んでるやつは間違いなくいるよ」
「あれだよ、この間世界史で習った、アッシリアの恐怖政治」
「入学したてのときは、何かと思ったよな」
「今だって、ありゃ異常だよ」
いつのまにか、話の輪は大きくなっていた。クラスのほぼ全員がそれとなく話に耳を傾けている。
「じゃあさ、いったいどうなると思う?」
水谷由佳里が、はしゃぎようを隠そうともせずに尋ねてくる。
「進藤にとってきついことじゃないか?」
「あいつなら、下手に自分が怪我するとかよりもクラスの成績下がる方がこたえるんじゃないか?」
「次の中間で俺たちよりも平均点が下がるとか」
「国立理系クラスでそれは死ぬって」
「でも実際下がっちまったやついるんだろ?」
 また別のバカがそう言った。クラスの何人かの視線が僕に集まった。犠牲者を見る目だ。
 気の毒に思うもの、興味を隠そうとしないもの、愚か者を確かめるもの。
 僕は何か気の聞いた台詞を返そうとしたができなかった。多分ぎこちなく苦笑いをしていたと思う。
 少し、座が白けた。けれど、気がつかなかったバカ達は話題を続けていた。
「他にも他のクラスと付き合ってるような女いたかよ?」
「いなきゃ、作るまでだろ?」
「ここはやっぱり女殺しの高塚さんに出てもらうしかっ!」
「進藤のとこ誰かいいのいたっけ?」
「おいおい、今現在で俺三人とローテ組んでんだぞ。どうしろってんだよ」
「黙ってなさい、この鬼畜」
「そーです、高塚さん。これは全三年生の意思ッスよ。自分の女と虐げられた者達の恨みとどっちが大事なんスか?」
「バカ野郎、俺にだって選ぶ権利はあるんだぞ!」
 延々と続く風だった。
 昨日と同じだ。みんなこのイベントを楽しもうとしてる。
 普段の抑圧された被害者意識をくすぐるシチュエーションに、昨日できたての悲恋話が絡んでるのだ。ゴシップの話題には事欠かない。
 そして、なによりも悪役がいる。生活指導の進藤にはみんな屈折した恨みがあった。

 彼は狡猾な暴力を使う教師だった。
 そして、なによりそれは望まれたものだった。ほかならぬ僕たち自身が、新藤の狡猾な恐怖政治を望んでいた。
 進学校とされるこの学校に来る生徒は、たいてい頭がいい。学力云々の話ではなく、他の学校の生徒に比べて、物わかりがいいのだと思う。そして、進藤の恐怖政治はそうしたこの高校の生徒の物わかりのよさに拠っていた。
 人を駆り立てるのは恐怖心であり、原始的な肉体の痛みだ。
 そして、目的のためには手段は正当化される。つまり、僕たちを殴られなきゃ動かない怠け者だと気付かせれば、進藤が僕らに処罰を与えることは正当なのだ。僕たちは進学するためにこの高校を選んだのであり、怠けたときには誰かが尻を叩く必要がある。
 そして、それは呆れるくらい効果的だった。
 進藤の『指導』は市内の私立高校の教師がするような感情的なものではなかった。新藤の暴力は巧みに計算されたあくまで手段としての暴力だった。 
 そして、始末の悪いことに僕らはそれが『手段としての暴力』だとわかるくらいに物わかりがよかったのだ。
 だから、たまに卒業生が顔を出して話をしたときなど、たいていの卒業生は進藤のことを恩師と呼んだ。彼らは望む所に進学できたのだ。ならば、彼らにとって新藤は恩師であるに違いない。
 けれど、望みがかなわなかった生徒は新藤の事をどのように思っていたのだろうか。だれもその言葉を聞いたものはいない。負け狗の声は多分何時の日も響かない。そういうことらしかった。
 チャイムが鳴った。集まっていたクラスの連中はそれぞれ自分の席に戻った。
 誰もが羊の表情に戻った。そう、こうして、また話題が消費され、何も残さずに終わってゆく。
 少なくとも今まではそうだった。

 一週間後、中間試験が行なわれた。
 二週間後、中間試験の成績がつき、学年集会があった。
 学年全体の成績が下がっていた。そして、
 進藤のクラスは最下位に落ちていた。


3


「……To Err Is Human;To Forgive Divine……さて、ミスタ篠山。このtoについて述べてもらおうか……」
 昨日から入ったスチームの音が微かに聞こえていた。進藤から名指しされた篠山のダンナは幾分緊張した面持ちでtoの用法について述べていた。
 僕は校庭の葉の落ちた桜を眺めていた。校庭ではどこかのクラスが体育の授業をしていた。サッカーらしい。
 クラスの連中は少し緊張していた。進藤のクラスの成績が不可解に下がってからと言うもの、触らぬ神に祟り無しと言った風に僕たちは頭を下げておとなしくこの授業を受けるようになっていた。

 学年集会でクラス別の成績が明らかになったとき、講堂は微かに、けれど確実にざわめいた。
 教師のほとんどはそれを進藤のクラス、国公立理系進学クラスの成績凋落のせいと思っただろうが、それは間違っていた。同じように考えたやつらもいたろうが、八割の生徒の頭に浮かんだのはあのことだった。
 進藤のクラスは呪われたのだ。

 肩をつつかれた。目を戻すと教壇の上から進藤が僕を睨み付けていた。
 慌てて立ち上がった。
「92ページ、五行目からパラグラフ2つ」
 斜め後ろの市橋が囁く。予習しておいたとおりに訳を答える。
「……よろしい。ところで洒落たパンツはいてるな」
 進藤が言っているのは、今はいている紺の綿パンのことだろう。服装規定に従う限りこの学校では私服が許されている。もっともトラブルの原因になるのでそうする奴は少ない。
「パンツといっても、別に下着の話をしているわけじゃない。わかってるな?」
 僕はうなずいた。
「trousersの事ですね」
「なかなかお洒落なようだな。さすがに色男は違う……。どうした?」
 『色男』と口にした途端、教室の数人が息を呑んだ。一瞬、腹筋の奥で不愉快で暴力的な何かが疼いた。
 僕は顔を上げて正面から進藤を見据えた。
 進藤の表情が微かに変わった。もしかしたら驚いているのかも知れない。
 不思議とその時の僕には進藤の表情を恐れずに観察することができた。それはきっと、僕の目の前にいる教師が、僕たちの恐れていた進藤ではなくなっていたからかも知れない。
 進藤の顔は土気色だった。頬肉は張りを失って垂れ下がり、目の下に明らかにそれとわかる隈があった。そして口臭が僕のところまで臭ってきそうだった。
 そこにいたのは僕たちが恐れた狡猾な管理者じゃなかった。憔悴しきった、五十前の教師に過ぎなかった。
 僕はその瞳の奥に確かに進藤の苛立ちを見た。
「制服の洗濯が間に合いませんでした」
 篠山のダンナが振り返った。他にも何人かが僕の方を見ている。
 誰もが進藤の制裁を覚悟した。だが、次に進藤の紡いだ言葉はクラスの予想を裏切るものだった。
「……お洒落なわけじゃなくてずぼらってことか。いい、座れ。明日までには乾くんだろうな。さて、もう一人の色男に聞こう。ミスタ高塚……」
 僕は席に座った。知らず、安堵の吐息が漏れた。

 そのとき、サイレンの音が聞こえた。そして、その音は校門で止まった。

 窓辺の何人かがそっと校庭を伺った。人だかりができていた。白衣とヘルメットの救急隊員がその人だかりに向かって走っていた。
 人垣が割れて、担架に乗せられた人が運ばれてきた。
 ほっそりとした腕が力無くぶら下がっていた。
 癖のない髪と、血の気を失った顔が見えた。
 僕の中で何かが一気に張り詰めた。
 運ばれているのは女生徒だった。
 綾瀬だった。

「やっぱり、『呪い』かよ……」
「まさか」
「進藤の胃潰瘍が再発したってさ。教官室で話題になってた」
「偏差値五下がると胃に穴開くんだって、その年の学年主任」
「道理で、昼に質問言ったら、臭った臭った」
「その内厄払いでもするんじゃないのか?」
「出陣式は来月だぜ」
 誰も勉強が手についていなかった。教室に残っている奴らはみんな綾瀬の事故、国立理系クラスに起きた事件についてあることないこと話し散らしていた。
「効くわけないじゃないですか、ただ単に祝詞を上げるしか能のない神主のお祓いなんか」
 言葉の主は市橋だった。メガネを外して、広げた参考書の上でくるくるとシャーペンを回している。視線が集まったのをみると、くすりと笑った。
「もっとも、そういった『儀式ごっこ』でもしないよりはマシなんですけどね。それとも、本当に祈祷師でも呼びましょうか」
「誰がんな事するんだよ」
 ぶっきらぼうに男子が返す。
「知りません?タウンページには載ってますよ、祈祷師って職業の名前で」
 知らねェよ。そいつは呟いた。多分市橋の口調が気に入らなかったんだろう。僕も同じだ。
 何かもったいぶった、知った風な口調が気に食わなかった。
「でもさ、うちの学校毎年、櫻田天神に合格祈願を依頼してるんでしょ?」
 市橋の隣の席、もう帰り支度をした女子が会話に参加する。
「……それとこれとは違うだろ。でも今回みたいなことがあると、お祓いでもなんでもしてもらおうって、そんな気にもなるな」
 高塚さんだ。
「実際俺達が当事者だったらな」
 篠山のダンナが相槌を打つ。
「でも、誰なんだろ。あんなことしたの」
「呪った本人もあせってんじゃねーか?」
「こんなに大事になっちゃな」
 がらりと音がして戸が開いた。コート姿の水谷由佳里が大股に教室に入ってきた。寒風にさらされて頬が赤く染まっている。病院の綾瀬のもとに行っていたのだ。
「どうだった?綾瀬さん」
「サッカーゴールを運んでるときに転んで下敷になったの。頭を打って、あと手の骨にひびが入ったって」
「それって、ヤバくない?」
「だいじょうぶ、怪我自体はたいしたことなかったって。脳波とかにも特に……。けど」
 僅かの時間、水谷由佳里は口をつぐんだ。一瞬、さっきまで気がつかなかった体育館の部活の音が耳に届いた。
「けど、どうかしたんですか?」
 ひどく冷静な声で市橋が尋ねた。

「すごい、怖がってる。とてもひどく怯えちゃって」

「……『呪い』か」
 呟いた僕を、水谷由佳里がキッと睨みつけた。
 ……見舞に行くぐらいしてもいいじゃない。
 そう思っているに違いなかった。
 篠山のダンナがその袖を引いた。水谷由佳里に軽く目配せする。
 僕は進藤にあんなことを言われた身なのだ。そんなにすぐ動けるはずがなかった。だからしかたない。
 そう僕は言い訳して、気を利かせてくれた篠山のダンナに感謝した。
「っったくっ!誰がやったか知らないけど、もうちょっと考えなさいよ!」
 外した手袋を机に叩きつけると水谷由佳里はそう叫んだ。
「綾瀬は進藤の被害者じゃない!呪った奴なに考えてんの?」
「進藤なのかな、呪われたの」
 高塚さんがぼそりと呟く。
「……本当に呪いなのか?」
 僕は呟いた。独り言のつもりだったが市橋がそれを聞き咎めた。
「あ、近代理性はっけーん」
 さっきと同じように笑みらしき表情を浮かべて市橋はそう言った。僕は、一瞬戸惑ったと思う。だから少し言葉を荒げて問い詰めた。
「市橋、お前はどうなんだよ。嬉しそうじゃないか?ようやく出番かよ?」
「どうだかなぁ」
 何人かが煙たそうな顔をする。特に、水谷由佳里は市橋に向き直って唇を噛んだ。怒ったときの癖だ。
「知ってるのと、なにかできるのって別だろ?よせよ」
 高塚さんがたしなめる。
「市橋、いい加減にしてよ!怪我人が出てんのよ。何もできないくせに口を出すだけなんて、やめてよね!」
 水谷由佳里はそう言うと、市橋に詰め寄った。
 と、さっきまでの笑みをすとんと落として、市橋の顔が真剣になった。水谷由佳里はそれでも構わずに続ける。
「自分で何かできるってんならまだしも……」

「……何とかなるかも知れない。って言ったらどう思う?みんな」

 おい、そう言いかけたとき。市橋の裸の瞳から射るような視線が僕を貫いた。
 さえぎられた水谷由佳里も市橋の言葉に言葉を止めた。
「おいおい、なに言ってんだよ」
 苦笑いしながら、篠山のダンナがとりなそうとする。
 ふぅ。
 軽く息をつくと市橋は、机の上のメガネをかけて集団の方に向き直った。
 レンズの奥で、落ち着いた、さとすような瞳が僕達を見据えた。
「私さ、確かにそっち方面のこと興味あるけど、でも、みんなが思ってるような態度で、占いとかに興味持ってるんじゃないよ。今回のことだって、みんなが納得するような説明できるもの。もっとも、」
 そこで市橋はいったん言葉を切ると、水谷由佳里や僕たちを軽く眺め渡した。
「犯人まではわからない。何でこうなったか、そして、この事態を解決するにはどうしたらいいかは説明できると思うな」
「説明、してみてよ」
 押し殺した声で、水谷由佳里が言う。
 クラスの人間誰もが市橋の言葉に耳を傾けていた。市橋は軽くうなずくと口を開いた。
「まず最初に、あの十字架だよね。あれさ、別に十字架でなくたってよかったんだ。何か怪しげなものがあった。そのことがたぶん重要なの。
 あれがそもそもの事の始まりなんだけど、私には何のつもりだったかはわからない。
 もしかしたら仕掛けた本人は本当に呪うつもりだったのかも知れないし、別のことなのかもしれない。けれど、実際そんなことは事件が起きた今では関係ないことなの。
 重要なのは、『誰かが誰かを呪った』って噂がみんなに知れ渡ったことなんだから」
「誰かが誰かをって、進藤に決まってるじゃないか」
 僕は噛み付いた。
「どうしてそう思うの?」
「進藤が入ってくるときに、あれが……」
「入ってきたのが進藤先生だったから、みんなそう思ってるだけじゃない?進藤先生はいろんなとこで恨み買ってるしね。
 けど、例えばあそこで綾瀬さんがあの十字架を見つけたら、綾瀬さんが呪われた事になったと思う?私みたいにもっとマイナーな子だったら?もしかしたら、あのクラスそのものを呪ったのかも知れないし、悪いことを呪ったんじゃないかも知れないでしょう?
 私、篠山さんに聞かれたときに言ったよね。『黒白どっちもあり』って。
 あの呪いが悪いものだってのは、みんなが進藤を恨んでた、進藤に災いが降り掛かることを望んでたからみんながそう思ったんじゃない?
 いつからあれが災いを呼ぶ呪いだってことになったの?」
「確かにそうだな」
 篠山のダンナがうなずく。
「けど、実際に呪いの効果は出たじゃない」
 水谷由佳里が言った。
「進藤だって、体調崩したし。成績だって、綾瀬だって……」
「逆だと思うな、進藤先生のクラスの成績が下がったから、体調崩したんでしょ」
「成績が下がったのは?」
 市橋は軽く吐息をつくと、少し皮肉げに言った。
「……あれだけさぁ、みんなで呪いだなんだって騒いでじゃない。学年全体がその噂で持ちきりだったもの。あれから私、昼休み理系国立クラスの女子から相談ずっとうけてるの。呪われたかもしれないって。
 だから、成績が下がるのは当然だと思う。それに、」
「それに?」
 ちらりと市橋は僕の方に視線を走らせた。
「綾瀬とおんなじ目にあった子は他にもいるの……。新藤先生に別れさせられた子、あのクラスにはね」
「聞かないけどな」
「綾瀬が特別。彼女目立つし。才色兼備でさらには公認カップル、だったんでしょ」
 市橋は僕に話を振った。
「スケープゴートにはちょうど良かったんだろ。新藤にとっては」
 僕は答えた。市橋が僕と綾瀬の関係を過去形にしたことに不思議と腹は立たなかった。
 周りは黙っている。
 この話題になると誰もがなにがしかの居心地の悪さを感じているようだった。
 それぞれ瞳を伏せ、誰かが口を開くのを待っている。だが、何かを言い出せるヤツはいないだろう。下手なことを言えばサムいことになる。
 それが怖いんだ。
 この学校に来てから幾度も経験した空気だった。予定調和として、さしさわりのないことで通り一遍に笑って場を維持する。本当に深刻な話は決して話題に出ない。誰もそこまでの事を望んでなんかいやしない。とりあえず、その場にいて自分がその輪の中にいることができれば、それを確認できればいい。
 僕らのことは彼らにとって手に余るんだろう。
 茶化すには深刻すぎる。
 慰めるには救いがなさ過ぎる。
 怒りをぶつける相手はどうやら別のクチで呪われてるらしい。
 僕は闇色の窓に目をやった。教室が窓の中に映っている。蛍光灯の白けた明かりの下で周りはみんなうつむいている。
 いやだな。
 なんとなく、そう思った。

 くいくい。
 窓の中で一人、僕の視線に気がついっているヤツがいる。市橋だ。
 市橋が促すようにあごをしゃくっている。僕が気づいたと知ると、さらに口の前で手を動かした。この状況で何か言えるとしたら当事者の僕しかいない。
 だから責任を取れということらしい。
 仕方なく、僕は口を開いた。
「綾瀬とはさ」
 気配で皆がこちらを向いたのがわかった。僕は誰とも目をあわせず、リノリウムの床を見て言葉を続けた。
「電話でフォローはしてたんだ」
 固まっていた空気が動き始めた。
「へぇ、連絡とってたんだ」
 水谷由佳里が意外そうな顔をし、そして少し表情が和んだ。
「まぁ、ね。けど、その分綾瀬の時間取っちまったのかも。でも、」
 僕は言葉を切った。
「なぜだか、僕の方は成績あがっちまったんだよな」
「煩悩のはけ口が参考書にいったのかもよ」
 篠山のダンナが皮肉げに笑った。空気漏れのような笑いが周りに飛び火してゆく。
 これでいいんだろ。
 もいちど窓の中の市橋をみる。市橋は小さくうなずいた。

「で、話を戻すけど、綾瀬さんについては、これこそ単なる事故だと思うの。ただ時期が悪すぎたけど」
 そう言って市橋は聴衆を見渡した。
「結局ね、今回の『ヴードゥー十字事件』はこの学年の皆がそう思ってるだけなのよ。そして、これこそが効果として起こっている『呪い』の実体なの。
 誰がやったか知らないけれど、あの十字架っていう出来事にみんなが望む意味を求めて、そして、自分達で『呪い』を成立させているの、そういう風に世界を見てるの。どう?こう説明したなら、別にいかがわしい理屈でもないでしょう?『呪い』って」
「ええと、心理操作みたいなものってことか?」
 高塚さんの言葉に市橋はうなずいて、後を続けた。
「実際にこれだけのパニックが起こせてるわけだし」
「市橋、お前はさっきこの事態を収拾する方法も知っているっていったよな。どうするんだ?」
 僕は尋ねた。
 多分その場にいる誰もが気になっていたことだろう。けれど市橋はその期待を楽しむかのようにしれっと言った。
「やっぱり御祓いか祈祷するんだろうなぁ」
「おい、それじゃ結局いかがわしいまじないと変わんないじゃないか」
 期待を裏切られたので、僕は市橋に噛み付いた。
 市橋は諭すように人差し指を立てて口を開いた。
「あのね、みんなが『理想的』に『理性的』だったら、『呪い』なんて誰にも効果はないわよ。対処の仕方がわからなくって、不安だからでしょ。この状態を招いているのって。本当の対処の仕方はあんな十字架なんかにはなんの意味もないって悟ることなの。けど、みんなそこまで状況を冷静に見ることはできないし、根っこの部分で気味悪く感じるのって理屈じゃないもの。だいたい、もう学年の皆が『呪い』がそう言うものだと思ってる。
 先生たちがいくら打ち消したって誰も耳を傾けようとしないんじゃないかな?少なくとも、その『呪い』が終わったって思うまでは」
「それがお祓いだっていうの?」
 すっかり神妙になった水谷由佳里が続きを促す」
 市橋はうなずいた。
「みんなが、この事件が終わったって思いこめればいいの。みんなが納得いく方法で。だとしたら、最小公倍数は御祓いとか祈祷じゃない?」
「で、最初の質問に戻るわけか。誰がその役をするんだ?」
「やっぱり、今度の出陣式の時に櫻田天神の宮司さんにそのこともあわせてお願いするんでしょ。たぶんね」
「だから、さっきそれじゃ駄目だっていってたじゃないか!」
 声が苛立っているのが自分でもそれと判った。結局、市橋の知識、ものの見方をひけらかされただけで終わってしまう。
 これじゃ意味がない。
 市橋は僕と目をあわせ、冷ややかな笑み混じりに呟いた。
「確かにね、けどさ。それはここにいる私たちがものごと斜めに見る癖がついてるからだし、何よりも忘れちゃいけないのは、結局の所この状況をみんなが楽しんでるってことよ。ちがうかな」
 楽しんでる。
 知らず僕はそのフレーズをなぞった。
 そう、確かに僕たちは今回の事件を楽しんでるのだ。
 あれから、登校する度に僕たちは期待していた。延々と続くこの日常にヒビが入ることを。
 呪いのせいに思えることが起こる度にひそひそ話が教室の間を流れた。そして、誰もが進藤の一挙手一投足に注目した。まるでお祭りだった。
 さっき僕は自分で綾瀬と僕との事をスケープゴート、生贄だと言った。けれどあの事件があってから、祭りの生贄は進藤と進藤のクラスだった。
「ちがう?」
 市橋順番にクラスの人間に視線を巡らせ、そしてもう一度僕と目をあわせた。

 そして、笑った。幽かに。密やかに。
 嘲笑していた。

 瞬間、僕はもう一つのことに気がついた。
 楽しんでる?
 僕は思わず声を上げそうになった。
 まるで、知らずに蜘蛛を掴んだような気分だった。
 市橋は僕と同じように事を考えている。そのことに気がついたのだ。

 市橋は自分に求められたアドバイザーとしての『役割』を演じながらそれとは別に、こうした事態を見透かして、そして内心冷やかに笑っていたのだ。
 僕がみんなに求められた悲劇の主人公の『役割』をつとめながらしていたように、ちょっとした不幸も話の種にして楽しんでいるクラスの仲間をどこかで軽蔑していたのだ。

 市橋は僕がしていたように、水谷由佳里の怒りを鼻で笑い、高塚さん達の女遊びの話に合いの手を入れながら作り話の粗を探したりしていたのだ。
 そして、僕が別れさせられたときにも、僕のことを三文芝居の不幸に酔ったヘボ役者とでも思っていたに違いない。

 だって、何よりも僕本人がそう思っていたのだから。

 とたんにさっきからクラスメイトに投げかけられていた市橋の視線が、毒蛇のそれのような気がしてきた。
 みんなは気がついていないのだろうか。
 こいつは今話しているこの時にも、僕たちをあざ笑っているのに。
「……そのうち終わるよ。みんながこの事件に『飽きて』、何も起こらなくなればね。いくら偶然でも、そう何回も事件が起きるはずないじゃない。だからそのうちみんな忘れる。
 けど、忘れようとしても忘れられない人もいる」
「進藤とか?」
「……綾瀬だよ。あんなに怖がってるの見たの初めて」
 ぽつりと水谷由佳里が呟いた。
「運悪く実際に『呪い』の被害にあっちゃった人は忘れられないよ、きっと。
 忘れられない以上ずっと影響を受け続ける。そのまま何もなされないなら、その人にとって、『呪い』はずっとその力が続く」
「で、御祓いか」
 僕の問に市橋は肩を竦めた。
 水谷由佳里のきつい視線が市橋に集まった。
 けれど市橋はそれに気づかぬ振りをしていた。
「でも、一体誰なんだろうなあんなの仕掛けたの……」
 誰かが口を開いた、そして憶測がいろいろと流れた。けれどその話の輪にはもう市橋は入っていかなかった。
 だから、僕もその輪に参加するのをやめた。

 時計が九時を回った。電車で通学しているヤツらはいなくなり、残っているのは市内の自転車通学でそれなりにやることがある生徒だけだった。つまり、僕と、水谷由佳里と、市橋だ。
 時計から視線を戻すと、机の前に水谷由佳里がいた。
 帰り支度は済ませている。ハーフコートにマフラー、そのまま無言。
 顔を合わせる気力がなくて、僕は水谷由佳里の胸のあたりに目を置いて、半ば独り言のように言った。
「綾瀬のさ……病室の番号教えてくれないか?」
 水谷由佳里は無言で生徒手帳のページを破り、僕のシャーペンを使って番号を書いた。
「ありがとう」
「明日なら、昼以降だよ。面会」
「学校引けたら顔出してくるよ。綾瀬のクラスの人間も見舞に来るかな」
「どうかな。進藤は今日、一応顔を出したみたいだよ」
「なら、明日は大丈夫か」
 荷物を鞄に詰めている間、水谷由佳里は僕の前で何かを言いあぐねていた。
 帰ろうと立ち上がったとき、ようやく水谷由佳里は口を開いた。
「なあ、あんた本当に綾瀬が好きなの?」
「ああ、好きだよ」
「……嘘だ」
「……なんで、そう思う?」
 僕はコートに袖を通し、マフラーを巻いた。
「綾瀬は本気なんだよ。何か言ってやればいいのに」
「電話で話してる」
「だからさ!」
「綾瀬が、僕のことを冷たいっていってたのか?」
「なんか、なんか違うんだよ。あんたと綾瀬。綾瀬とても楽しそうだったけど、あんたはなんか……」
 水谷由佳里が何にこだわっているのか、考えればたどり着けたろう。けれど、もう面倒くさかった。僕は、自分の中に沈んだ澱を吐き出すように答えた。
「このままいつまでも一緒にいられはしない。そう気がついた。それでいいかい?」
 口をついた言葉は止まらない。
「綾瀬と僕とじゃ所詮進路が違う。……きっと、綾瀬は疲れてただけ。進藤がいってたとおりかもね。僕たちは『互いに甘えてるだけ』なのかもな」
 水谷由佳里は戸惑っていた。まるでわからないといった風だった。
「……御似合いだったのに」
 多分、僕に聞かせるための台詞じゃなかったのかも知れない。
「あんた達見てると、綾瀬の楽しそうなの見てると楽しかったのに」

 お前を楽しませるために付き合ってたんじゃない。

 そういったらどんな顔をするのだろう。水谷由佳里は。
「すまない。ああ、部屋番号ありがとう。水谷の姐さんから教えてもらったって言うよ」
 僕はそう言って背を向けようとした。
「待ちなよ」
 水谷由佳里は僕を呼び止めた。
「進藤に別れさせられたこと、まるで恨んでないように聞こえる……。もしかしてあんた本当は辛くないんじゃないの?腹も立っていないんじゃないの?」
 信じている何かにすがるように、水谷由佳里は言葉を僕に投げかけた。
 多分、僕は水谷由佳里がすがってきたもの、水谷由佳里にとってかけがえのないものを打ち捨てようとしているのだろう。そのことが水谷由佳里には信じられず、そして耐えられないのかもしれない。
 僕は少し罪悪感を感じた。
 さっき僕が吐き捨てた澱。僕ですら直視できなかったものを他人に投げかけたこと。
 苛立ちが萎えていった。
「……腹は立ってる。悪いけど、帰るわ。妙に疲れた」
 そして僕は水谷由佳里を安心させるために一言付け加えた。
「……。もしかしたら応えてるのかも知れないな。疲れてるんだ、実際」
 そして、僕は教室を出た。
 明りの落ちた廊下を歩き、渡り廊下を渡る。公衆電話の赤いランプが妙に鮮やかに映る。
 昇降口で靴を取り出したとき、後ろから声を掛けられた。
「御疲れ様」
 市橋だった。


4


 同じクラスになってから今まで知らなかったが、市橋の家の方向と僕の家の方向は同じだった。
「あの、さ」
 校門を出る時、市橋の方から声をかけた。
「迷惑じゃなかったら、ちょっと話してかない?」
 答えるその前、僕の頭の中をさっきの市橋の笑みが横切った。そしてあの嫌悪感も。
「変に噂立つかもしれないぜ、今時分だと」
 こいつが僕と同じことを考えているなら、弁解の裏の皮肉に気がつくだろうか。それともやはり僕のことを自意識過剰とでも思って笑うのだろうか。
「だいじょぶじゃないかな、私ってあなたたちや水谷の姐さんと違ってマイナーなキャラだから。そーゆー対象には見られてないでしょ」
 市橋はそう答えた。そしてにっと笑って続けた。
「それに幾らなんでも綾瀬さんの後に私みたいなイロ物は、みんなの話題にはなりにくいんじゃない?」
 しゃあしゃあと自分の事をマイナーなキャラクターだなんて言い方をするあたりが鼻についた。けれど、やっぱりこいつはわかっている。僕の思った通りのヤツだ。
「そういう自虐的なネタ振られてもフォローに困るって」
「そっかな」
 そして僕たちはどちらが言い出すというわけでもなく、互いに自転車を押して歩き始めた。
 市橋の言葉を受け入れたのは多分、市橋が自分と同じものの見方をするということを信じたからだろう。他の連中と違って気を使わずに済むかもしれない。
 水谷由佳里にあんな事を言うほど、知らずのうちにささくれていた自分がイヤだった。
 市橋なら大丈夫かもしれない。
 そう感じたのだ。

 初めは軽く世間話をした。と言っても今日の授業での出来事や模試の愚痴に終始した。市橋の方で今の学校のことを話題にするのを避けてくれているのかも知れなかった。
 コンビニの明かりの前で市橋は足を止めた。
「ねえ、ちょっといいかな?なんかあったかいのが欲しいから、寄ってきたいんだ」
 つきあって僕も缶コーヒーを買った。雑誌の棚に僕の高校の制服があった。顔は知らない。多分下の学年だろう。なんとなく、避けたかった。僕は一足先に店をでた。
 河原を渡る風が土手を越えてここまで届いていた。切りつけるような冷たい冬の風だった。
「どこか、風がこない所知ってる?」
 後から店を出た市橋が尋ねた。心当たりはあった。篠山のダンナ達が話していたように、僕と綾瀬は帰り道、この土手を歩いていたのだから。
 僕は、土手の上に自転車を止めると、河川敷に降りた。
 河川敷には公園があり、今は葉も落ちた藤棚の下にベンチがあった。
 市橋は、ふうん、とだけ言った。大体のことは見当がついているのだろう。
 僕はベンチに腰掛け、プルタブを起こした。
 コーヒーは甘ったるかったが、それでもぬくもりが体の中に広がるのはありがたかった。
 市橋は当然のようについてきて、少し離れて腰をおろしミルクティーに口をつけた。
 黙っていた。

 その沈黙が何か意味のあるもののように思え、僕も口を開かなかった。
 しばらく、バイパスを通る車の音だけが聞こえた。
 風がこんなに冷たくなる前、空気に落ち葉の香りが混じっていた頃。僕の隣、互いのぬくもりがわかるくらいの場所に綾瀬がいた。
 けれどそれから一月もたたずに、空気に混じる匂いは氷と排気ガスの匂いに変わり、厚く着込んだオーバーが互いのぬくもりを封じ込める。
 そして綾瀬はいない。
 僕の隣にいるのはついこの間までその他大勢に過ぎなかったクラスメイト。
 特別なものを失ったはずなのに、そのことがわかる場所にいるはずなのに。
 思っていた通り僕は特に何も感じなかった。

「ねぇ」
 缶の中身を飲み終えた頃、市橋が口を開いた。
「水谷さんってさ。どうして他人の恋愛沙汰にあそこまで入れ込めるのかな」
 僕は答えなかった。市橋は僕と同じようにものを考えるヤツだって判っていた。なら、黙っていても僕のいうことは判っているはずだった。
「うざったいよね」
 僕が言わなかった台詞を、言えなかった台詞を市橋はするりと口にした。
 だから僕は苦笑する他なかった。
「心配してくれてるんだ、悪いよ」
「偽善者」
 そう言うと市橋は、もう温もりのなくなった缶をベンチの傍らのくずかごにほうった。缶は外れて転がったが、市橋はかまわなかった。そして、お下げに手をやり、三つ編みの髪をほどいた。
 軽く頭を振ると思ったよりも量の多い髪の毛が、緩やかに広がった。
 冷たい夜風に一瞬、市橋の髪の香りが混じった。三つ編みの中に閉じ込められていた、乾いた素肌のような飾り気のない香りだった。
 不意に綾瀬の香りを思い出した。僕の胸に顔をうずめたとき届いた香り。微かな香り。いつも変わらぬさりげなく甘い香り。
 胸がとくんと鼓動を打った。
 ああ、
 そして僕は一瞬だけ自分を許せなく思った。

「いつも、この瞬間が一番ほっとする」
 のんびりと市橋がつぶやいた。僕は胸の鼓動をごまかすためにその言葉をひろって続けた。
「伸ばしてりゃいいじゃないか、別に校則違反てわけでもないだろ」
「ちゃんと伸ばした髪が似合ってて、周りに認められないと風当たり強いの。特に女子の間でね」
「怖いな」
「そうだよ。怖いよ。だから、学校じゃ髪の毛を結ってる。地味でマジメなブンガク少女っぽいでしょ。こういう役割なら『主役』にならなくてすむからね」
 僕が思っていたことと一言一句変わらない言葉だった。
「皮肉かい?」
「そう思う?なら、語るに落ちたってヤツよね」
 いつのまにか市橋の口調が親しげなものに変わっている。けれどなれなれしいとは感じなかった。それは多分二人の間に共犯者の共感があるからだ。
「ほんとうにうざったいよね、みんな。何か起きないかって期待してるくせして、誰も何もしないで、ただ待ってるだけなんだもの」
「シラケるのが怖いんだよ」
「で、結局誰もが知ってる手垢がついた話題で騒ぐだけ。そう思ってるんでしょ?『色男』」
 今日の新藤の言葉。あの時感じた疼きがもう一度疼いた。
「もう、みんな忘れてる」
「まっさかぁ、悲劇のヒロインがまた悲劇に見舞われたのに?さっき、水谷さんから綾瀬さんの入院先聞いてたじゃない?月曜日にはそのことがまた尾ひれついて噂になってるって」
 言葉の端々に僕は苛つきを覚えた。
 そんなことは判っている。なら、なぜ延々とこんな話を続ける?
 僕は市橋を見た。
 三つ編みのせいで緩やかに波打った髪が肩先まで広がっていた。指先にその髪を絡めて僕の答えを待っている。
「そうだろうな」
 僕は視線を動かさずに答えた。
「あなたもそう思う、……なら間違いない、か。
 ところでさっきの私の話、どう思った?」
 くるくると指が動く。細い指だった。
「筋はそれなりに通ってた。面白かったよ。けど、市橋。お前自分で話を集束させる気がないんなら喋るなよ。結局なんの役にも立たない話だったじゃないか。お前が何かしたわけでもない」
「水谷さんと、篠山さんからの情報なら、来週の内には学年中に広まるでしょ」
「何だって?」
 僕は聞き返した。言葉が刺々しくなるのが自分でわかった。
「私があのことみんなに触れ回ったって、信用されないもの。みんなは私のこと、いわゆる『不思議少女』だと思ってる。正確にはその役割を私に求めてるんだけどね……。発言力ないよ。私なんかじゃ。それに、私がこの手のことについてそれっぽく説明するの気に入らないヤツだっているでしょ。
 あなたみたいに」
 僕は黙っていた。市橋は一呼吸おいて続けた。
「私の言葉じゃ誰も動かない。私の言葉なんて噂にもならない。
 けれど、あの二人は違うでしょ。中浪組で年上、さらに面倒見がいいから信用されてるもん。あの二人からさっきの私の話が流れたら、みんなもそんなものだと思ってくれる。違うかな?」
 言葉と同時に視線を僕に放る。そして気がついた。市橋はメガネを外していた。裸の柔らかな瞳が言葉と同時に問い掛けてきた。
 僕は一瞬、市橋の言葉の意味を捉えかねた。
 そして意味がわかったとき、言葉が知らず口からこぼれた。
「市橋、お前、もしかして、問題を解決しようと……?」
「まぁ、ね。うまく行くかは試してみないとわからないけど」
「なぜだ?」
「何が?」
「何でそんなことするんだよ?」
 絡めた髪の毛から指を抜き、笑みの形に唇をゆがめ市橋は答えた。

「あなた、さ。このままで楽しい?」

 楽しい?
 そう、市橋は尋ねてきた。凍りつくような言葉で。
 僕が今まで、クラスの連中に心の中で幾度も投げかけた言葉。予定調和の中での「事件」をことさらに騒ぎ立てる彼らに吐き捨てるように投げつけた言葉。
 その言葉が改めて自分に投げつけられた時、僕は自分の敵意に斬りつけられた。
 市橋は僕に構わず言葉を継いだ。
「確かに楽しいけどさ。これだけのことが起きたってみんないつも通りなんだね。
 最初は、そう最初は楽しかったよ。一晩で進藤先生の顔つきが変わったし、国立理系クラスの子達、本気で怯えてた。別に死ぬわけじゃないのにね。
 それでも、何も変わりはしないんだよね。わかってたつもりなんだけどさ。無駄だったな」
「無駄だった?」
 僕は、知らず市橋の言葉を繰り返していた。
 違和感があった。市橋が口にする言葉じゃない。
 混乱を何とかしようと自分の見解を篠山のダンナ達に伝えたことをいってるのか?自分がさっき言っていたじゃないか。広まるとしても来週中だと。
「そう、無駄。こんな風になっても何も変わらなかった。楽しみにしてたのに。もう少し待ってみてもいいけど、少し事態が進みすぎちゃったからね」
 僕の頭の中で市橋の言葉が猛回転していた。
「お前、まるで……、」
 僕はそこで言葉を打ち消した。市橋は僕に何かを伝えようとしたのか?僕になら言っても構わないと踏んだのか?なぜだ?
「あなたは私と同じ匂いがしたから。だから、わかると思ったの」
 僕の脳裏にあのときの、僕と目をあわせたときの、市橋の笑みが蘇った。
 かすかに、密やかに、嘲笑う、笑み。
「それに、結果的にだけど、綾瀬さんを本格的に巻きこんじゃったからね。
 だから、あなたにかかった呪いを解いて、それからあなたに綾瀬さんの呪いを解いてもらう。
 このままじゃ、綾瀬さん本当に成績下がりっぱなしになっちゃうよ」
 あたりまえのように、何も不思議はないように、僕が自分と同じ事を考えているのが当然かのように、市橋は言葉を紡いでいた。
 僕は言葉を絞り出した。
「お前、なのか?」
 市橋は答えた。かすれた微笑が浮かんでいた。
「あんなにうまく行くとは思わなかったけどね。仮説を実験してみたの」
「なんで!」
「退屈だったから、かな」
 市橋はあの時と同じように、しれっと答えた。
「な……!」
 市橋は口に手を当てて、くすくすと笑った。
「このまま受験に突入して何も面白いこと無しに卒業するのもつまんないし、進藤先生は私も気に喰わなかった。それに、『呪術』を実践する機会なんてこの先ないもの。学校って言う閉鎖された社会でならこの程度の噂でも、人は動くの。
 最初は仮説だったけど、ね」
「お前が『呪った』のか」
「そう、かもね。けど私がしなくてもいつかはこんなことが起きたかもしれないよね。みんな不満を抱えていて、そして、楽しい話題に飢えてたから。状況が揃ってたから、私は最初の小石を転がすだけでよかった」
「お前のせい、なのか?」
「どこまでのことかな?」
 いたずらっぽく僕の顔を覗き込み、市橋は問い返してきた。
「国立理系クラスの成績下がったことなら、まぁ半分は私のせいかもね。相談する相手をみんな間違ってるよ。だから、操作は簡単だった。でも、会心の出来ってヤツかもね。
 それで進藤が体調崩したのは、どうかな。風が吹けばなんとやらってレベルだけど、やっぱり私のせいかもね」
「綾瀬のことは!」
「説明聞いてたでしょ?ただの事故よ。もっともその後落ち込んでるのは幾分か私の招いたことね。だから、彼女の呪いは解かなきゃいけないの。そして、それはあなたの役目」
 僕は絶句していた。
 市橋は僕の前でにっこりと微笑んでいた。
「これが『呪い』の真実。うまく行きすぎて私も怖いくらい。だから今度はこれを鎮める必要があるの。呪いを掛けるのと解くの、両方出来なきゃ呪い師とは言えないからね」
「……呆れたよ」
「過大評価しないで。私は、確かに状況を作るのに少しは動いたけど、それは今までたまってたみんなのストレスをちょっと刺激しただけ。
 私の言葉を疑わないの?私が単なる誇大妄想狂で、状況を後から自分の都合良いように説明してるだけだってさ」
 確かに、そうだった。市橋が今言ったように説明も出来る。市橋は単に今ある状況を自分に都合がいいように伝えているだけなのかもしれない。
 けれど、実際に学年全員が『呪い』を信じている。そして、今まで行き先を持たず蠢いていた鬱屈した想いは、今や進藤と彼のクラスに不幸が及ぶことを渇望している。
 そして、そのことで十分だった。何故そうなったかなど今はどうでもいい。次にどうなるのか、どうすればそれを変えられるのか?
 市橋は彼女流の解釈の『呪い』でその方法を導びきだしたのだ。
「……でも本当にうまく行きすぎたかもね。大変だったんだよ、みんながそれらしく思うようにわざわざ判りやすくて、しかもあまり専門的じゃないオマジナイ探さなきゃいけなかったんだもの。 あんまり専門的なのだと多分私が疑われるしね」
 市橋は嬉しそうに、自分の『呪い』の手法を語り始めた。

 市橋はみんなが声を潜めて進藤の話をするとき、どんな思いでそれを聞いていたのだろう。
 最初は楽しんでいたらしいことは判る。けど、その先は?
 あの時の彼女の視線。変わらない、変わることなど考えもしないクラスメイトを蔑み、そして退屈から逃れられなかったしきっていた彼女。
「……まぁ、十分楽しんだから。もう幕を下ろさなきゃね。
 結局、何も変わらなかったってことでがっかりするのは何人いるのかな。数人くらいはいて欲しいって思ってる。私やあなたみたいにね。たとえ自分たちが何かするわけでなくても、こんな毎日が変わることを望んでた生徒はいるはず」
 そして市橋は僕に向き直った。言葉が通じる相手を見つけた、その喜びを隠そうともしない、そんな顔で。
「だからさ、私。あなたが私と同じだってわかっただけで良かったの。
 もしも、もしもね。誰も気がつかないで、ただ騒いで、それだけで終わるんだとしたら……。
 私、多分幕を下ろそうとは思わなかったかもしれないな……」
 僕は何も言えなかった。
 気がついたとき、市橋は黙って、僕の顔を覗き込んでいた。
「どうしたの?あなたも私と同じ事考えてたんでしょ?」
 答えようとする言葉が喉の奥でつまった。
「もっとも、あなたは楽しかったなんて自分では思っていないかもね。けど、クラスの人たちから一歩離れた視線でものを見てて、そこからみんなを見下してなかった?水谷さんと話してるとき、私にはわかったよ。あとは、進藤先生に呼び出されて帰ってきた時にかな」
「……俺は、……僕は楽しんでなんかいない!」
「でも、優越感は感じてたんじゃない?」
 僕は答えられなかった。市橋はベンチから立ち上がると、僕の頭に手をのせてくしゃくしゃと髪の毛をかき回した。
「それくらい当然だと思うよ。私の前でなら隠さなくたっていいって。共犯者の秘密でいいじゃない。ほかの人に気づかれなければ大丈夫、自分がどう思ってるかをね。
 それに、多かれ少なかれ誰もがみんなそんな風に優越感、感じているハズだしね。でも、そのことが罪だとしても、他人がその優越感でイヤな思いしなければ、罰の対象にはならない。違うかな?重要なのは結果、でしょ?」
 市橋はそう言うと、自転車のスタンドを外した。
「明日、綾瀬さんに会うんでしょ?今日の私の話使って上手に彼女の誤解を解いてあげてね。多分あなたが解くのが一番だと思うから。それに、水谷さんが喜ぶよ」
 そう言うと、市橋はもう一度笑ったようだった。
「後、一応念を押しておくけど。このことは内緒ね。もっとも私はあなたが自分から話すとは思ってないけどさ」
「……どうしてだよ?」
「あなたが話せば、もう一度あなたはみんなの話題になる。仮にあなたが話題にはならなくたって、種明かしがされた時点で今度は私が話題になってみんなは大騒ぎするよね。あなたはもう飽き飽きしているんでしょ?下手したらまた進藤先生と談話室だよ。
 だから、あなたには、わざわざそんなことをする理由はないと思ったの」
 僕は小さく、ああとうなずいた。
 それじゃね、そう言って市橋は自転車を漕ぎ出した。
 僕は、いつのまにか冷え切った缶コーヒーに口をつけた。飲み下す気になれず、僕はそれを河原に捨てた。


5


 土曜の昼を過ぎた病院は思っていたよりも静かだった。僕は、廊下の矢印に従い外科病棟に向かった。
 昨日の夜のことが頭に残っていた。
 市橋は今日、僕にあうとメガネの奥からそっと目配せをした。僕はそれに気がついたが無視した。
 教室を出るときに、水谷由佳里が声を掛けてきた。行き先を告げると、水谷由佳里は少し安心したようだった。
 ……元気つけてあげなよ。
 ……昨日、市橋が言ったことをうまく伝えてみる。それで判ると思うよ。
 ……そうだね。あの子理解速いし。
 表札を確認して病室に入った。
「……あっ」
 綾瀬はガウンを着てベッドの上に身体を起こしていた。手元には何かプリントが数枚ある。
「起き上がっていいのかい?」
 僕は尋ねながら、綾瀬の手元のプリントに目をやった。僕には意味もわからない数式だった。どこかの受験問題だろう。理系クラスの課題だった。
 何も返事が返ってこないので僕は顔を上げた。
 左手と額に包帯を巻いている。ガーゼが右目を隠している。表情は暗いままだった。水谷由佳里が言ったとおり何かに怯えているようだった。
「……どうしたの?」
 なるべく自然に笑おうとしつつ、問いかけた。
 綾瀬は毛布を引き寄せた。変だった。
「なぁ?」
 問いかけて手近に合った椅子に腰掛ける。綾瀬の身体が強ばっているのが判る。水谷由佳里の言うようにひどく不安なようだった。
 僕はそっと手を伸ばし、綾瀬の指に触れようとした。と、綾瀬がシーツの上の指を引いた。
 問いかけるように目を合わせる。綾瀬の瞳の奥に明らかな怯えが読み取れた。
「どうした?」
 いぶかしげな声になっているのが自分でも判った。
 綾瀬はただ怯えているだけじゃない。形のない何かではなく、明らかに僕を恐れている。
 綾瀬の形のいい唇が震え、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「私、見たの」
 なんのことかすぐには判らなかった。
 頭の奥に何かが応えた。けれど、僕の中でそれを打ち消そうと、胸が急に鼓動を打った。
「進藤先生に、呼び出された日。私だけ先に帰されて、私更衣室で泣いてて、水谷さんが慰めてくれて」
 僕の口が乾いた。
「そして、家に帰ろうと思って水谷さんと別れて」
 綾瀬は瞳を伏せた。長いまつげが揺れている。
「けど、忘れ物しちゃったから……。教室に戻ろうとして。そのときに、見ちゃったの」
 僕の前に名も知れぬ絶望が降りた。綾瀬の言葉の意味するもの。彼女の怯えの元の正体。
「何を?」
 僕はわかりきった問いをする必要があるのだろうか。本当にこの問いをする必要があるのだろうか。
「あなたを」
 消え入りそうな声。吐息に混じりかすれた声。
「あなただった。間違いない。あなたが、何かを私達の教室の扉の上に置いたの。
 私、見た」
「ああ、何か靴先に引っかけて……」
 白々しいと思った。多分無駄だとも思った。けれど、例え白々しい言い訳にしか聞こえなくても僕は綾瀬の言葉を、考えを否定しなければならなかった。
「あなたが呪ったの?進藤先生を?」
 怯えを含んだ濡れた瞳が何かを乞うように僕に向けられる。綺麗すぎる瞳にうろたえきった僕の姿が映る。知らず、声が大きくなった。
「いや、違うよ。いいか、落ち着いて、よく聞いて。呪いなんかじゃないんだ。今起きていることはちゃんと別に説明がつく。呪いだなんて……!」
「私だって、そう思った。けど、こんなに続くなんて、変よ。それに、どうしてあのクラスで私だけがこんな目にあうか判る?私があなたの呪うところを見ちゃったからよ!」
 涙混じりの声が僕の言葉をさえぎる。
「待ちなよ!落ち着いて、僕の話を聞いて」
「古典の時間に聞いたでしょ、人呪うときって、それを人に見られちゃ駄目なの!私はあなたが呪ってるところ見ちゃったから……!」
 綾瀬の怯えが病室に溢れた。必死でそれを押し殺して綾瀬は話し続ける。
「だから、あなたが進藤先生を呪ったのに、私も巻き添えになった」
「僕は、僕は『呪って』なんかいない……」
「なら、あの時何をしてたの?私達のクラスの扉に何を置いたの?」
 綾瀬はそこで言葉を切った。そして一瞬の静寂のあと、綾瀬の口から言葉が滑り落ちた。

「なんで、あの時笑ってたの?……楽しんでるみたいに」

 僕の身体の中で何か冷たいものが固まり、落ちた。
「笑ってなんか、いない」
 声が震えているのが判った。自分が嘘をついているのがわかった。
「いいか、よく聞くんだ。呪いなんてそんなものじゃない……、」
 僕は必死で言葉を紡いだ。市橋の言っていたことを何とか伝えようとした。
 みんながそうなることを望んでいたという事、きっかけに過ぎないと言うこと、けれど自分で話しているうちに判った。
 無駄だった。
 綾瀬が僕を見ていなかったらなだめられたかもしれない。単に事故に巻き込まれただけだったらまだ話ができたかもしれない。けれど、綾瀬は僕を見たのだ。正体がわからないなら、『呪い』と思われてるものの正体がわからなかったなら、綾瀬自身を縛る誤解を解くことができたはずだ。綾瀬の恐れを解きほぐせばよいのだから。
 けれど、今は違う。綾瀬は僕が呪ったと思っている。その巻き添えになったと思っている。
 綾瀬にとって呪いは実在している。そして、その呪いが掛けられた理由も判っているのだ。それら全てが誤解だと言うのに!
 一番根源的な誤解、その一つで僕の言葉は何を言っても言い訳にしかならなかった。
「……もういいの。あなたの気はすんだのでしょう?もう、終わったんでしょう?だから、もう私にはこれ以上のことは起こらないわ。そうよね」
 ひとしきり泣いた後、綾瀬は無理に笑い顔を作ってそう言った。
 間違いだと、嘘だと判っていても、僕はうなずくほかなかった。
「なら、いいの。だけど、」
 僕は彼女の次の言葉を聞きたくはなかった。全てが徒労に終わった証の言葉なんか聞きたくはなかった。
「もう私達会わない方がいいと思う」
 彼女の目はその時も僕を恐れていた。


 僕は、夕方になると言うのに教室に戻った。もしも、市橋がいたならこのことを話してアドバイスをもらいたかった。いるかどうかも解らなかったが、たとえ市橋がいなくてもどこか人がいるところにこの身を置きたかった。
 自転車置場まで来たとき、グラウンドの方に人垣が出来ているのが見えた。何人かが慌ただしげに走っていて、赤と白に塗られた車が止まっていた。
 ……何であんなところに人がいるんだ?
 ……円盤投げの円盤が当たったって?
 ……また三年生だ。
 ……進藤先生のとこ?
 切れ切れに言葉が聞こえた。
 僕は教室に向かって走った。
 理性は必死でそれを打ち消していた。事故が重なっただけなのだ。確かに不安が大きくなったし、事故を予想してたヤツもいる。呪いが実行力を持つはずがない。市橋は言っていた。不安によってそのように現象を理解してしまうこと、それが呪いの本質だと。
 けれど、実際はどうだ。事故は止まない。続きすぎている。
 教室に駆け込んだ。
 高塚さんがびっくりして顔を上げた。
「高塚さん!市橋は!」
「なんか、校庭でのこと聞いたら顔色変えて出てった。ついさっきだぜ、それより聞いたか?やっぱり進藤のクラスだってよ」
 何人かが応える。
「やっぱり、『呪い』だよ」
「市橋の言ったこと、けっこう説得力あったのにな……」
「やっぱり本物じゃないの。こんだけ続くと」
「進藤のクラスじゃなくってよかったぁ」
「お前じゃ、絶対無理だって」
「進藤の方で入れてくれない」
 軽口を叩きながらも、どこか違和感を感じているのが、その表情から解った。


6


 結局、その土曜、市橋は学校には戻ってこなかった。

 僕は家に帰ってから幾度か市橋に電話した。市橋は留守だった。帰ってきたら電話をくれるように僕は伝えた。
 けれど、日付が変わって日曜の夜の二時を回っても電話はこなかった。

 遠くから国道の車の音が聞こえてくる。
 眠れなかった。身体の奥でギュッと胃袋が凝り固まっていた。息をする度にその塊が震えた。背中が板を張ったようにこわばっていた。夕飯は、喉から先に入ってゆかず結局何も食べないままだった。
 僕は横になりながら何か、不条理な意思を感じた。
 『呪い』などが本当に起こる筈がない。それらしい効果が起こるとしてもそれは、市橋が言ったように、僕らの物事の捉え方が変わる事によって起こるのだ。僕たちの目にどのように映るかが変わるだけだ。
 たしかに、僕たちは進藤や進藤のクラスに不幸が起きることを、面白半分で期待したかもしれない。それで、成績が下がったりしたかもしれない。けれど、それは、僕たちが『呪い』が行なわれたと知っているからだ。それを知らなかったら、ただの事件に過ぎない。少なくとも成績が下がったという事実はそれ以上の意味を持たないはずだ。それに意味を持たせて怯える、それが市橋の言った『呪い』の効果だったはずだ。実際に起こる現象にまで影響を及ぼせるはずがない。ただ、偶然が続いているだけだ。『呪い』がかかっていると騒いだのは僕たちだった。僕たちの望むように世界を理解しているに過ぎない。僕たちが『呪い』だと思っているから……。だけど。
 思考は堂堂巡りを続け、いつしかその歩みが疲れたおぼつかないものになってゆく。
 徒労が体に降り積もり、擦り切れるようにして意識が消え入ろうとするとき、

 部屋の電話が鳴った。

 僕の胃袋が跳ね上がり、捩れた。飛び起きて受話器を耳に当てた。
 たどたどしく、焦りが明らかな女の声だった。
「もしもし、夜分遅く申し訳ありません。市橋といいますが……」
 震えてた、涙混じりの声が切れ切れに届いた。
「市橋!どうしたんだよ、連絡取れなくて困ってたんだ。なぁ、一体どうなってるんだ。お前の『呪い』はどうなっちまったんだよ。なんで、なんでまだ続いているんだ。これじゃ……」
「……助けて」
 びょう、と電話越しに吹き付ける風が聞こえた。
「なんだって?市橋、なんて言ったんだ」
「助けてよ、助けて。こんなことになるなんて思わなかったの」
 泣いていた。
 電話の向こうの声は憔悴しきっていた。
「市橋、おい、一体どうしたんだよ」
「『呪い』なのよ。これはほんとうの『呪い』になってるの」
「馬鹿言え!お前がいったんじゃないか!『呪い』そのものに力があるわけじゃないって!」
 怯えきった叫び声が返ってきた。
「私だってそう信じてたの。だって、たいていの呪いはそれで解決できるし、本物の『呪い』なんてかかるわけないって思ってた。
 あんな出鱈目な方法で掛かるはずないのよ!もしも本当に『呪い』が力を持つんならあんないい加減な方法でかかっちゃいけないのに、なんでなの!」
「何を言ってるんだよ!わかんないよ!」
「祓えないの、私なんかの手に負えないの。本物の『呪い』になっちゃったの。知ってるいろんな方法を試したけど、祓えないし、治まらないの」
 びょうびょうと風がまた吹き付けた。
 市橋の声には鳴咽が明らかだった。
「こんな筈無いのよ。『呪い』が本当にかかるなんて、そんなことないの……」
「市橋、答えてくれ。今、どこにいるんだ。俺が行く!」
「あいつ達、こうなることを望んでるのよ、単に、単に面白いってだけでこうなる事を望んでるの、嫌だ!助けて」
 市橋は錯乱しているらしかった。
 言葉は支離滅裂になっていた。
 風は強くなっている。言葉はもう切れ切れにしか届かない。
「違うの!私はそんなつもりじゃないのよ!違うの、私じゃない、そんなの私じゃない私の役割じゃない、私は望んでなんかいない!
 望んだのはあなたたちよ!私は望んでいないって言ってる……。やだ!、やめて!」
「市橋、市橋。どうしたんだ、何のことかさっぱりわかんないよ。何があったんだよ。はっきり答えろ、市橋!」
 金属音が耳を打った。市橋の声が遠くに聞こえた。揺れる受話器が何かに当たる度、鼓膜が震えた。微かに市橋の叫びが聞こえた。
「……嘘だ……こんな……そんなことで……そんなことで……私まで……。嫌ぁアアアアアアアア……!」

 びょう、ともう一度風が吹き荒れる音が聞こえた。
 がらがらん、何か重いものが風に吹き飛ばされる音が聞こえた。
 だん、と何かがぶつかる音が聞こえ、空き缶をつぶすようなぐしゃりという音が続いた。

 受話器からは風の音だけが聞こえてきた。いつまでそうしていたかわからない、やがて、ブザーが鳴ってカードが切れた。

 僕は受話器を落とすと、洗面所に駆け込んだ。
 胃液のほか何も出なかった。けれど止められなかった。捩れきった胃袋が痙攣していた。
 喉が破れ、血が混じった。幾度も水を流した。
 
 あの時、風の音と何かが吹き飛ばされる音の間に確かに僕は聞いてしまった。
 何かが肉に突き立つ音とそして、何かがしぶいて周りを濡らす音を。
 考えたくなかった。何の音かなんて考えたくなかった

 僕はそのまま自分の部屋に戻った。そして、布団を被ると必死で瞼をつむった。
 眠りたかった。何かも忘れたかった。

 結局僕は、ほとんど一睡も出来ずに月曜の朝を迎えた。

 親には何も言わず、僕は家を出た。普段よりも一時間も速い登校だった。土日の風の影響かあちこちにごみや、吹き散らされた看板が転がっていた。
 学校は静かだった。朝もやの中を早めについた電車組が歩いていた。
 朝もやの中、赤い光りが明滅していた。僕は校門の前に白と黒の車があるのを見つけた。ここ数日やけに目にするようになった車だった。
 驚いてもいいはずなのに、僕はただなにか納得するだけで終わった。確認するまでもなかった。
 『呪い』が続いているのだ。
 廊下を歩くと、どこからかクレゾールの臭いがした。中庭を横切る渡り廊下に学校の人間以外の人間が集まっていた。
 そうだ、あそこには確かにカード式の公衆電話があった。
 中庭に面した窓が窓枠ごと粉々になっていた。中庭には大風で飛んだきたらしい、トタン張りの小屋の屋根が、ほぼ原型をとどめないほどになって転がっていた。所々塗装の剥げたそのトタンに見覚えがあった。グラウンドにある用具小屋の屋根だった
 
 教室には三、四人がいた。僕の顔を見て、みんな驚いていた。まるで、死人でも見るように。実際僕は死体と変わらなかった。身体中に鉛を詰め込まれ、頭の中にみっしりと蜘蛛の巣を押し込めらたようだ。
 登校してきた水谷由佳里が僕の顔を見て、一瞬怯えた。だが、何か伝えることがあるのか話しかけてきた。
「聞いた?きょう、綾瀬が登校するって……。どうしたのひどい様子ね。風邪?」
 僕は応えなかった。

 日の光が強くなってゆき、やがて教室に人が溢れた。高塚さんや篠山のダンナも登校してきた。
 話題は、土曜の事故についてだった。
 また、話の輪が出来て、ジョーク混じりで噂が伝えられる。
 僕はそれを何か遠いところでの出来事のように眺めた。

 彼らは貪欲だった。彼らは幾らでも話題を欲していた。

 僕には信じられなかった。彼らは進藤とそのクラスで起きたことをまるでテレビドラマについて話すように、話題にしているのだ。幾分かの気味悪さも彼らの興奮のスパイスにほかならなかった。
 やがて予鈴が鳴った。市橋はこなかった。

 クラス委員が何かを告げた。生徒達は一斉に動き始めた。どこかに向かっているらしかった。

 僕は虚ろな意識のまま、みんなに従ってあるいた。
 生徒は講堂に集められていた。臨時の学年集会のようだった。
 高塚さんと篠山のダンナが何か話している。周囲で潮騒のように噂が弾けた。
 ……進藤が?
 ……胃ガンだったんだって。土曜に自分の家で、
 ……飛ばされた屋根に、血がついてたんだって。本当らしいぜ、警察が拭き取ったらしいけどさ。
 ……だから消毒液の匂いがしたんだな。
 ……また進藤のクラスか?
 ……いや、今日進藤のクラスは休みいないって話だ。
 周囲で様々なことが囁かれた。今まで通りだった。無責任に、彼らは話を楽しんでいた。

 いつのまにか講堂は静まり返り、壇上には漢文の川田が上っていた。
 川田のくぐもった声が切れ切れに聞こえた。
 ……進藤先生……週の土曜日……にて御亡く……ました。私達担任団……胃ガンを病んでいると……は知ら……おらず。

 周りで息をのむ音が聞こえた。

 川田は言葉を続けた。
 ……さらに、……日曜日に、……自習に……市橋さんが……不慮の事故にて……。
「嘘だ」
 となりの誰かがびっくりして僕を見た。
「日曜の夜だ。あいつは僕に電話してきたんだ」
 言ってから気がついた。そうだ、電話をしてきたんだ。そして、そのまま死んだのだ。
 僕はその断末魔を聞いたじゃないか?
 笑い声が聞こえた。
 不謹慎なヤツだ。
 僕だった。

 壇上の先生方の視線が僕に集中した。
 生徒達の視線も僕に集まっていた。
 その時、僕にはようやく解った。全ての視線の焦点となったとき、初めて、僕にはわかった

 彼らが犠牲者を求めていたのだ。

 『呪い』が明らかになったときから、彼らは犠牲者を渇望した。彼らは物語に飢えていた。自分達が物語を語れない、語る意欲を持たない以上、誰かが彼らに物語を見せなければならなかった。
 きっと、『呪い』でなくてもよかったのだ。何か、生徒達が望むような物語と出演者が揃えばその物語は彼らにより遂行されたろう。
 綾瀬が、進藤が、市橋がその役を果たしたように。

 市橋は彼らに『呪い』という物語を与えた。彼女はそれを制御できると考えた。だが、彼らの意思は市橋の手を離れた。彼らの意思は貪欲な欲求だった。指向はなかった。
 ただ、物語を欲するという事にのみ力を与える、そんな欲求だった。

 彼らは物語を求めた。
 進藤のクラスに不幸が起きた。
 市橋は物語を求め、自滅した。
 物語の行く末に自分の不幸を見出してしまった。

 そして今、その視線はこの物語の結末を求めている。
 残った最後の役者は僕だ。
 何かが僕を動かしていた。頭蓋にみっしりとしまった蜘蛛の巣の奥、何かがその糸を引いていた。

 物語に乗っ取られた僕の自我が泣きながら叫んでいた。
 嫌だ、こんな役は嫌だ。
 僕は『呪い』なんかしていない。
 僕は進藤を恨んでなんかいない。
 お前達がそう理解したいだけだ。
 そういう風に結末がつけば美しいと、お前達がそう思ってるだけだ。

 嫌だ、お前達なんかのために、なぜ僕が物語を紡がなきゃならないんだ。
 怠惰な、口を開けて待っているだけのお前達なんかのために。
 何故、進藤や、市橋は死ななければならなかった?
 そして、何故、今、
 僕にその役を演じさせようと言うのか?

 彼らはぽかんとしていた。
 個々の生徒にはわからないだろう。
 僕が選ばれた理由が。
 僕でなければならない理由が。
 けれど、僕には解る。
 僕もまたこの物語に自分の滅びを見いだしたのだ。
 それが一番『綺麗』な終わり方になるはずだった。
 それは僕にしかわからない、僕にしか出来ない終わり方だった。

 僕に向けられる視線は戸惑っていた。
 
 イッタイ、コイツハナンナンダ?

 そして同時に期待を孕んでいた。

 コイツモ『ノロイ』ノギセイシャナノカ?
 モノガタリハコレカラドウナルノカ?

 新たな局面を迎えるのか?それとも終章に向けて話が終息するのか?

 講堂に僕の笑いがこだましていた。
 ふくれ上がった生徒達の期待が頂点に達したとき、彼女が立ち上がった。

 綾瀬だった。

 立ち上がった綾瀬の顔は絵のように白かった。
 僕の恋人は。
 生活指導教官に恋人との中を引き裂かれた悲劇のヒロインは。
 この呪いの犠牲者は。
 綾瀬は。
 ゆっくり僕を指さした。

「彼が、進藤先生達を呪ったんです」

 凛とした声が講堂に響き渡った。

「私、彼があの十字架を仕掛けるところ見ました」

 生徒達の視線が僕に集まった。

「彼は、進藤先生を恨んでました」

 僕は立ち上がった。そして笑った。

「私との中を引き裂かれたから!」

 最後は叫び声だった。
 僕は笑った。
 最初は本当におかしくて、そして、やがて、その笑いは何かに突き動かされてのものに変わった。
 笑いは止められなかった。個の無い視線が僕を尽き動かしていた。

「狂ッテル」
 篠山のダンナが呟いた。
 望んだのはお前だ。
「ソンナニ、綾瀬ノコト」
 水谷由佳里が漏らした。
 そう思いたいのはお前だ。
「ヒデェ」
 高塚さんが目を背けた。
 どうした?望んだ結末だろう?

 お前達の望んだ物語だ。
 受験に苛まれる灰色の高校生活。
 教師によって別れさせられる恋人達。男の呪い。犠牲者達。
 そして、恋人の告発で正気を失った、男。
 どうだ?満足か?この物語が?
 最後まで目を開いて見ろ!
 すぐに飽きて次の物語を求めるだろうが、今日のヤツは手が込んでる。
 何たって、今までに二人が死んでいて、そして!
 生徒達は、彼らは、ようやく物語の最後の登場人物を見いだした。
 そして、『物語』に結末を望んだ。


7


 『物語』が笑い続けた。そして、駆け出した。
 『物語』が全力で講堂を駆けた。
 綾瀬が悲しそうに『物語』を見つめた。

 イイ顔ダ、自分以外ニ誰ニ見セヨウッテンダ?ソンナ顔。

 事態に気がついた教師達がざわめき、『物語』をさえぎろうとして、動いた。そして、止められた。
 引きずり倒された。セーラー服と詰襟の塊が、袖を、すそを、腕を、脚を、髪を、掴みそして引きずり倒した。
 貪欲な、怠惰なもの達はこのときだけ、与えられるものを奪われまいとして動いた。
「コンナヒドイコトッテ、ナイ」
 古文の川田のネクタイを掴んで引きずりながら、水谷由佳里は涙を流した。
「ナンデ、アンナニイイヤツガ」
 高塚さんが体育教師の顔に爪を立てて呟いた。
「コンナコトニナルンダ」
 パイプ椅子を振り上げ、篠山のダンナが叫んだ。

 『物語』の足はますます強く床を蹴った。
「ヤメテ!」
 綾瀬が叫んだ。
 その言葉がさらに『物語』の背中を押した。加速した。
 生徒は誰一人、『物語』から目をそらそうとはしなかった。
 『物語』の目の前にコンクリートで固められた講堂の壁が迫った。砂の一粒まで『物語』の目にははっきりと見えた。
 これが結末だった。
「私ノタメニ」
 悲劇に酔いしれた声だった。
「ソンナコト、」
 その声が『物語』の背中を強く押した。
「シナイデ」

 『物語』は脳天に衝撃を感じた。血がしぶき、脳漿が床を濡らした。

 何人かの悲鳴が、そして紛れも無く、結末に喝采を叫ぶ歓声が、聞こえた。

感想をいただければ幸いです。
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メイル (2000/8/10 改訂掲載)
(2003/12/24 改訂掲載)
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