妄想雑記


2004/03/12
UnearthedArcana総合感想

     と言うわけで、読み終えましたUnearthedArcana。で、思ったことをつらつらと書いてみます。
     まず、確認しておきましょう。DnDは基本的にコア3冊でバランスがとれたシステムになっていて、そのバランスは4〜5人のパーティによるダンジョンクロール(ダンジョンを這いずり回ること)で楽しく遊べるようになっています。そして、平たく言や20レベルまでダンジョンクロールで遊べます。このことはコアシナリオ群を見れば分ります。野外や都市、情報収集で動くことはあっても決着はやはりダンジョンになります。

     これを高校一年生、ひと夏の体験に例えます。大人への階段です。

     「地底の城砦」で出会った2人は、「秘密の工房」で初めて手を握り交わし、そして「夢でささやく者」で唇を重ね、やがて「夜牙塔の心臓」で初めての朝を、2人での朝を迎えるのでしょう。
     けれど、ここを読んでる連中なら自分の胸に手を当てることで思い出し、分るはずです。

     初体験は常にうまくいくものではないってことを。

     互いに(DMとPCで)思いに行き違いがあったり、相手のことが信じられなかったり、いざとなったらやっぱり(PCが死ぬのが)怖くて、

     「……初めてなの。やさしく、……してね」

     と、お願いすることもあったろうし、緊張のあまり息子ダイスが暴発したことだってあるはずです。けど、それらすべてを含めてひと夏の思い出、DnDはすばらしい体験となったはずです。少なくともここを読んでる連中はそういう輩でしょう。そして溺れてゆくのです。
     この頃はただ、ヤルだけで楽しかった。回数を重ねること、より深く、より高みへ、そしてより満足の得られる、(DMとPLが)互いを貪るようなプレイ。
     それはあまりに純粋で、まっすぐで、ひたむきなセッションでしょう。そしてきっとそれで充分なはずです。
     言葉で言うだけならば。
     はい、これを読んでる皆様もう一度胸に手を当ててください。
     確かに、プレイするだけで楽しいけれど変化を求める心が無かったと言えますか?
     もっと過激に、もっとアツく、PCをめちゃくちゃにしてしまいたい、DMを失神させるほどのプレイを行ないたい。そう思わなかったと言えますか?
     
     誰もがそう思うからこそ、サプリメントが出るのです。
     
     もちろんサプリにもいろいろあります。ムードを高めるためのデータ集(追加モンスターキャンペーンセッティング)、互いに高みを目指すための、より満足のいくセッションを行なうためのHowTo本テクニック本、そしてよそのプレイを記したメディアプレイとしてのリプレイ。
     その中で、DnDのクラスブックや追加ルールをメインとした作品群は、PLの個としての欲望をみたすためにデザインされた作品と言えるでしょう。四拾八手を髣髴とさせる上級クラス、より激しく深い満足を得る小道具としての特技や追加呪文。
     より大きく、よりたくましく、より長く、そしてより強く。
     サプリが出るたびに一喜一憂し、片端から導入してゆくそのプレイスタイルは、もはや高校1年の夏のあの青い体験からは遠く隔たったものです。
     もっと気持ちよくなりたい。もっと高みにたどり着きたい。もっといろんなことをしてみたい。
     まさしく、互いに欲望を貪るセッションの『冒険』が始まる瞬間です。これは、拡張、成長、深化の方向としては非常に分りやすく、まっすぐな方向であり、多くの人が妄想し、そして実行する道です。
     24時間ぶっ通しでプレイして太陽が黄色くなったり、数人がかりでかわるがわる(DMを変えて)プレイしたり、いろんな体位キャラクターの組み合わせを試してみたり、アイテムや薬を使ってどこまでイケるのか極めてみたり。場合によっては、違うジャンルまで導入して「人としてどうよ」って具合になることすらあります。
     やがて、その過程で脱落していくグループもあるでしょう。けれど、それは脱落などと言うマイナスのイメージを持って語られることではないのです。
    「自分達は、このレベルで充分に満足できる。これ以上のことを望んでしまったらパートナー(DMの場合もPLの場合もあります)に負担がかかってしまう。そんなことを愛するパートナーに求められない」
     当然です。当然すぎる判断です。
     誰もがみんなあんなこと(AMC2003トーナメント卓)についていけるはずが無いのです。
     なんですかこのR2さんのエンカウンタ)、このこの(これら二つCdS:PEのいしかわさんのエンカウンタ)、エロさは。往時の山文京伝天竺浪人並じゃないですか。受けて立つPCだって、人外Dungeon's Gate、DM-SKMさんのレポート)に、非道(Lapinさんのレポート)、そして形容不可能Palace of StarLight、IROさんのレポート)な連中、例えるならみさくらなんこつか、月野定規ってとこでしょうか。

     これはまだ幻想を抱いている高校生が無修正のエロビデオ、しかもアメ公のごっつくマッシヴなヤツをみて幻想を砕かれるのと同じです。
     ……_| ̄|○ムカシヲオモイダシチャタヨ
     (気を取り直して)けれど、ここで確認しておかなければなりません。これらのサプリは確かにセッションの方向をより深く、高く、激しくするものではありますが決してDnDをプレイする上で、ゲームとしての性質を変えるものではなかったのです。
     体位に小道具、薬etcとバリエーションを増やしても、基本的に共通のベッドルールのもと、一般多数が当然と考えるDnDプレイを行なうためのサプリなのです。
     ようやく本題に近づいてきました。

     UnearthedArcanaはそれとは違うのです。

     2chでNPCさんはいいました「Unearthed Arcanaがフニャチンだったから私うずいちゃってうずいちゃって」これは、これまでのクラスブックと同様のものを求めていたユーザにとって正直な意見でしょう。UAで紹介されるのは数多くの選択ルールであり、それによって既存の枠内でPCが強くなると言う印象はありません(Gestalt CharacterやMeta Magic Compornent、Spontaneous Meta Magicあたりはヤバげですが)。
     UnearthedArcanaはDnDのセッションの枠組みを変えるサプリ、変えていいというサプリ、DnDはここまでイケるというサプリなのです。

     「イヤ、だめ……こんなの、こんなの……スゴイけどDnDじゃないよぉ!」

     そう思っても当然。けれど、それもまたDnD、それでもなおDnDなのです。
     作家、開口健は晩年の小品「知的な痴的な教養講座」において、「愛し合う夫婦の間に変態なんてない」と書きました。プレイグループにおいても同じです。プレイグループでの合意が取れていれば、前立腺もAction Pointも、スパンキングもHexGridも、掘るも掘られるもd20のかわりに3d6を使っても、構わないのです。
     「楽しんでいるプレイグループの間に、変格プレイなんてない」のです。
     “ここまで変えちゃうなら、DnDである必要ないじゃないか”そう考えてもおかしくはないでしょう。
     しかし、ホモセクシュアルのカップルに対してもローションとコンドームは便利であるように、DnDいや、変格のd20システムに対しても、莫大なd20資産、そして30年にわたるDnDの資産は便利なのです。
     正直、これほどプレイ資産が潤沢なゲームシステムが他にあるでしょうか?
     Unearthed Arcanaは選択ルールを提示する際に、これまでのルールをどのように改変するか、その結果はどのような結果をもたらすかについて可能な限り記述してあります。つまり、d20のプラットフォームに乗っているなら、Unearthed ArcanaによってGM(もはやDMである必要は無いのです)は自分が行ないたいキャンペーンにあわせて容易にUAを活用してハウスルールを提示、改造できるのです。

     私たちのどんな欲望にも、DnDは応えてくれるようになったのです。

     RPGと言う娯楽が発生してから30年近く経ち、さまざまなジャンルや物語とゲームの概念を取り込み、細分化と併合を続け、発展してきました。
     この間DnDは一見頑ななまでにシステムのスタイルを崩さなかったと言っていいでしょう。そのかわり、2版後期のようにDnDはDnDのシステムでDarkSunからRavenloft、SpellJammerからPlaneScapeとファンタジーRPGの枠組みの中で可能性を広げていきました。
     システムは崩さず、枠組みを広げる。しかし、その姿勢は3版で大きく変わりました。公式の世界はグレイホークとフォーゴトン・レルムのみ。他のExoticなキャンペーン・セッティングはファングループに移行しました。今にして思えばこのとき3版はシステムの再編を通じて原点である伝統的なファンタジー(レルムとGHでは魔法の豊富さに差はありますが)を再現することに全力を集中したのかもしれません。
     そして、画期的なOGLの概念によって3版は大きなシェアを持つプラットフォームになり、サードパーティがコンセプトの尖った、ニッチ狙いのサプリを出してゆく形に安定したと思います。
     けれどOPEN GAMING LICENSEでのSYSTEM REFERENCE DOCUMENTでほとんどのジャンルをカバーするにはやはり基本の上に積み重ねるアイデアが必要です。それらはWoC以外のサードパーティからさまざまに出されていましたが、玉石混交でした。
     UnearthedArcanaはこの現状において玉を選び、私たちの前に示してくれました。

     「もっといろんなことができるよ、こんなやりかたもあるんだよ」

     教えてくれた先輩の指使いはあの時はまだ慎み深かったけど、本当はもっと巧みで激しくそして危うい技をひそめていたのです。
     さぁ、今こそ悦びに(ルールブックを)開くとき。
     胸から溢れるBlood Line Featに身を委ね、Specialist WizardのSpellに溺れ、まだ手が触れられていないCharacter Backgroundを暴き出してやりましょう。Injuaryにおののきながらも、幾度と無くRecharge Magicで組み伏せて、そしてTaintを叩き込んでやりましょう。

     まだまだ、夏の冒険は続いているのです。
     そう、ずっと。

     あの夏。
     ずっと晴れが続いて暑かった、高校になって初めての夏。
     私たちはおどおどと互いに汗ばんだダイスに触れたね。
     校舎裏の体育用具室、マットの上に埃は浮いていて、キャラクターシートのイラストは汗で滲んでしまってた。互いの息が頬にかかるような近さで熱っぽく見つめていたタイルとフィギュア、覚えている?
     そんな、切ない記憶は思い出になってしまって、今はただ遠くに来てしまった。
     幾度も夜を過ごし、朝を迎えたよね。
     時折、他に浮気もしてみたの。
     けど、やっぱり最初に私をゲーマーにしてくれたのはあなただから。
     そして、最初に悦びを教えてくれたのもあなただったから。

     いつまでも変わらないでいてくれるACとセービングスロー、なおらないカワナガ。

     あなたは知らないかもしれないけれど。私は日本語版のあなたを4年半待った。そしてその間にあなたはTSRからWoCに変わって、こっちではRPGマガジンがGameぎゃざに変わった。
     いろんなことがあったけど、触れればやっぱりあなたはあなたで、抱きしめたら、少し痩せたD20が転がりだしたね。
     終わってなんか、いなかったんだよね。
     わかっていたはずなのに、何でこんなに嬉しいのかな。
     手元にあなたがあるっていうだけでキャンペーンを開きたくなる、仲間を集めたくなる。
     私、もう昔の私じゃないよ。震えてなすがままにされてた私じゃない。本当よ。いろいろあったんだから、あなたについていける。
     そう、思ってたのに。
     やっぱり、あなたの方が一枚上手なんだね。私よりもずっとずっと大きく、広く包んでくれる。
     かなわないな。
     おかしいね、再会してからもう3年半も経つのにまだ言ってなかったんだ。こうして、あなたの胸の広さに気づいて思い出すなんて。

     お帰りなさい、DnD。
     これからも、ずっと。私を夢中にさせてね。

2004/02/24
サイコロ

     ある先輩がゲームのときにえらく懐かしいものを出した。赤箱に入っていたあのダイスである。
     これだけを書いてもわからない人が増えたろうから、書く。
     その昔、新和という会社がD&Dというゲームを翻訳し出していた。今のムックタイプがメインの業界に慣れた人にとってはあまり想像がつかないかもしれないが、当時ゲームというものは基本的に箱に入って売られていたのである。
     コンポーネントという言い方をしていた。多分今もそうだろう。箱の裏には中のルールブックが広げられた様子と色とりどりのダイスが散らばっていた。欲しいゲームが拮抗したときには、まずコンポーネントを確かめ、何ページのルールブックが何冊入っているか確かめ、ポスターマップと付録を比べ、最後には箱を持って重いほう、振って重い音がするほうを選んだ。当時の店の親父はよく大目に見てくれたものと思う。

     閑話休題

     その先輩のダイスは何の変哲もない象牙色のダイスだった。4、6、8、10、12、20面のスタンダードなダイスセット。けれど、これだけで涙腺が緩んだ。
     それは僕が始めて握った変形ダイスたちだった。
     16年あまりの月日が消えうせた。バーグル、アリーナ、O・T・T・F・F・S、最初に作ったキャラクター、d4の読み方に戸惑ったこと、グラフ用紙に書いたソロアドベンチャーの地図。後から後からあふれてきてうろたえてしまった。

     ダイスは消えてゆく。
     10円で買った小さなサイコロも、300円出したアクリルダイスも、100面ダイスも、皆使っているうちに消えてゆく。
     時折、他の人のダイスポーチの中に見つけることもあるが、たいていはどこかに行ってしまう。運を使い果たしたサイコロ、出目を使い果たしたサイコロはどこかへ消えてしまうのだろうかと思うが、年月に関係なく気がついたときにはもう消えている。
     これはまるで雪解けを見るようで、ひそやかで、しかし着実である。
     たいていのサイコロはなくした後、一瞬しまったと思いはするが、すぐ別のものを使い始める。フィギュアと違いダイスは実用品であり、使わないわけには行かない。だからダイスとゲーマの縁は清らかなのだと思う。ダイスは嗜好品でない。そういうことだ。
     もっとも、それでもこだわる人はいる。一揃い同色でそろえる人。マーブルで色違い、知り合いは6面は必ず小さなマージャン用の賽子を10個ほどそろえてざらざらと振っていた。
     T&T(トンネルズ・アンド・トロールズ)は6面サイコロのみでできること、ルールブックが文庫本なのが革命的だった。学ランのポケットにルールブックが、サイコロが胸ポケットに入る。そう、鉛筆サイコロである。思えば当時僕らの筆箱の鉛筆には1から6の星がみんな刻まれていた。
     サイコロは単なるランダマイザ、無作為に数値を出すための道具ではない。サイコロはPCの握る剣の柄であり、ブラスターの銃把、魔法使いの杖である。握ることによる意味、振ることの意味を仮託できる、『モノ』でなければならない。これは先ほどの「ダイスは嗜好品でない」というテーゼとは矛盾しない。キンメリアのコナンは確かに一振りの剣を手に入れ、その瞬間世界を切り伏せる力を手に入れたと実感したが、次の話ではその剣をためらうことなく捨てている。PCが武器を持ち替えてゆくように、サイコロもまた必要に応じ持ち替えてゆく。
     ソード・ワールドのレーティング表は秀逸なシステムと理解しているが、この一点で僕は受け入れにくかった気がする。
     想像の域を出ないが、これはガンマンや剣士の自分の得物に対する思いを追体験できる機会、ロールプレイの醍醐味の一翼を担っているのではないか。
     ようやく手になじんだ武器、相手に応じて持ち替える剣と斧。などなど。
     そして僕達はまた、ダイスを振る。
     ダイスがもたらすのは成功の栄光だろうか、失敗の苦渋だろうか。
     乾坤一擲。

2003/07/12
「アライメント論争、“はしか”再び」

     注・以下の文章は創世日記においてユニークワールドのアライメントとパラディンについて考えていたものですが、パラディンに行き着くまでに力尽き、読み返すとあまりワールドセッティング向けの文章で無いようなのでこちらに乗せました。
     公式掲示板上での論争は落ち着いたようで何より。(もっとも粛清の嵐が吹き荒れたせいかもしれませんが)
     (前略・ここまではユニークワールドの敵役の設定を話してました。)

     以前に引用したように少なくともPHBのD&Dの世界は『善と悪はD&Dにおいては哲学的な概念ではない。これらは宇宙を構成する(実際的な)力なのだ』なのでぶっちゃけた話、
    「師よ、善とは一体なんなのですか」
    「答えよう、弟子よ。1レベルの領域呪文にプロテクション・フロム・イーブルを与える存在が善である」
     なんてことになる、のかもしれない。
    #実際にこんな師匠がいたら異端審問だろうなぁ。
     もちろんこれはD16が極端な例を引いているので、これをもってD&Dの設定がどーたらというのは間違っているが少なくともD16は自分がマスターするセッションで善と悪がこんなに簡単なものになるのは抵抗がある。
    #秩序−混沌の軸は宇宙を構成する(実際的な)力だとは思う。エルリックとかね。
     と、ここまでは実は5月くらいに書いた文章。本当はここから神様関係の話に持ってゆこうと思ってたのですが、ちょっと熱い話題があったので少し予定を変えてみることに。

     発端はホビージャパンD&D公式サイトその中の公式掲示板でのこと。
     何があったか。

     Alignment(属性) 論争それと並行してのパラディン論争だ。

     旧くは新和のドラゴンマガジンにおけるリプレイ中の「ミユキがヴォルテガを置いてきぼりにした事件」から連綿と続くD&Dの暗黒話題がネットという場所を得て再び燃え上がったのである。よしゃあいいのに。
     「ニュータイプ論争とアライメント論争には首を突っ込むな」
     これは多くの先達から聞いた口伝だ。ニュータイプはともかくアライメント論争は当初非常に魅力的だったし、10代の頃は自分のモラル観が未熟ながらも形を為し、それを人に聞いて欲しい、認めてもらいたい、認めさせたい頃なので先達の忠告を聞かずに議論を行なった。
     議論を行なうこと、それ自体は楽しかったし、時折実りもあった。けど、それ以上にマイナスもあった。ゲーム外とゲーム内の二箇所で。
     まずはゲーム外のマイナス。
     先ほど書いたようにこの論争において僕を含めた何人ものゲーマーは「自分なりの倫理観」をゲームの内部で構築して、それを認めたがっていたし、それを認めさせるためにルールを引っ張ってくるってことをしていた。けど、考えてみて欲しい。当時、僕らは僕らなりに真剣に考えているつもりだったけど「所詮は」ゲームの中の善悪の話であるし、何よりも「自分の考える善悪をゲームのルールを用いて説明し、説得する」その衝動の源となったのはどう考えても自己主張以外の何物でもない。「ゲーム中の善悪を議論する」という目的の手段であるはずの「自分なりの善悪の解釈、説明」それ自体が目的となってしまっていた。それは単なるエゴのぶつかりあいであり、そのことを自覚しないでリアルの人間関係に問題が生じたりしたわけ。
     そしてゲーム内のマイナス。
     これだけ議論したアライメントだけど、役には立たなかったのだ。
     アライメントを論じた僕が考えたシナリオは、PCに善悪が割り切れない一筋縄ではいかないシチュエーションを作って悩んでもらい、その葛藤で「シナリオを深く」するものだった。
     PCはそれなりに悩んでいたし、キャラクターの個性も出すことができた人はいた。けど、シナリオが終わった後の感想は、「なんかすっきりしないシナリオだったなー」、「おもしろくねー」、「アイテムも金も少ないなぁ」
     散々だった。仲間内でこれだからコンベンションでこのシナリオやったらきっと不評をいただいたろう。

    #もっとも、当時の僕はこのプレイヤーの「すっきりしなさ」を「シナリオの深さ」と勘違いしていたのだから始末が悪い。 そのあと、類似のシナリオを続けなかったのはこのスタイルだとレベルアップが遅いせいだ。
     結論としては、「なんかいつもと違って、いろいろ考えたけど、それが面白いわけじゃない、変なシナリオ」に過ぎなかったのだ。僕の考えた「深いシナリオ」は。プレイヤーから感動的なセリフがでたり、印象的な話にもならなかった気がする。全くの一人相撲だった。
     
     今考えてみて、原因は二つばかりある。
     まず1つには僕たちにそうしたモラルを議論し、それを真摯に楽しむというのはある意味早すぎたのかもしれないということ。そして、僕たちで出した結論(そんなものが出たら、だが)というモノが果たしてゲームを遊ぶ上で1体なんの役に立つのかわかってなくて議論してたということ。
     そしてもう1つは僕たちは「遊ぶために」ゲームをしていたのであって「議論をするために」ゲームをして端じゃないってことだ。
     下品に言うと僕らは「穴に潜って、焼いたり焼かれたり、殺したり殺されたりした挙句、宝を奪って(何人かの死体を抱えて)出てくる」ことが目的であって、「自分の振り下ろす剣が果たして善の名にふさわしいか自問自答し葛藤し、独白し、互いになじったり許しあったりしつつ友情を育む」ことが目的ではなかったのだ。

    #もちろん、キャラクターとして行動に悩んだり、それに対して他のキャラクターが関わったりってことはある。それはもちろん楽しみであったけど、最初からそれのみを望んでゲームに赴いていたわけじゃない。

     D&Dというゲーム(「冒険」することをメインにおいたRPG)の目的は痛快な冒険をすることであり、そのために悪役は必要なのだ。それは、もはや世界法則としての割り切りといっていい。D&Dは娯楽であり、したがってその中で倒されるべきもの、主人公達の戦う相手、打ち倒す相手としての「悪」はそれが本当に悪であるかどうかといった議論(この議論は正義とは何かという議論と表裏一体だね)と『一切関係ない』。
     この割り切りは旧き良き西部劇や時代劇、冒険劇のそれと同じだ。今では駅馬車を襲うインディアン(これだって本当はネイティブアメリカンって言い方になる)をカウボーイがやっつける映画なんて取れないだろうけど、『駅馬車』が面白いことには違いは無い。
     もちろん、それに疑問を持ち解釈を変えて新たな冒険を考えることは十分にありえる展開だし、それによりジャンルは発展する。僕が先ほど「自分の振り下ろす剣が果たして善の名にふさわしいか自問自答し葛藤し、独白し、互いになじったり許しあったりしつつ友情を育む」という例を挙げたけど、これを目的とするRPGだってあるしそれはそれで面白い。更に言うならD&Dをしていたって、こういう状況になってそれを楽しむことはある。排他するような関係じゃない。
     
     アライメント論争で善と悪という話をするなら、まずPCとしてゲーム内のモラルと現実のモラルを分けなければならない。更にその上でこのゲームにおいて善と悪という考えはどういう風に捕えられているのかプレイヤー(DMを含む)がメタな視点で考える必要がある。前者は世界設定の読み込みからPCの考え方を想定する作業だろうし、後者はゲームのデザイナーがそのゲームでの冒険をどのように行ないたいかを考える作業だろう。
     ホビージャパンの公式掲示板(のみならずほとんどのアライメント論争はそうだと思うが)では、まず、この考え方の整理はされておらず両社が混在のまま話がかみ合っていない。これが第一の悲劇。
     そして、D&Dに関して言えば、情報を読み込むことで先ほどの二つの作業を行ないうるのだけど、日本語版と英語版さらに第一版からやってる人と三版から始めた人の間で当然予備知識の差があって、それが埋められていない第二の悲劇がある。
     この第一の悲劇と第二の悲劇の間で議論をする人はルールブックのアライメントの項をひっくり返し、それを聖典のように解釈を尽くすわけだ。まさしくスペイン宗教裁判。

     そして、この二つの作業を完遂したとしても問題は解決しない。
     D&DおよびRPGにおいて善悪をどうするかという問題は、最終的にはその卓でどのようにするかという、かなり局地的な合意であり、この合意が成り立たない限りそれまでの議論は意味が無い。議論のための議論に終わってしまう。
    #ちなみに、卓の合意が成り立っていればそこまでの作業、議論も実は必要ない。
     ゲームにおいて善悪というのはあくまで楽しむための座標付けだ。プレイヤーとして、人間として善悪をどのように考えるかよりも、どのように考えたほうがゲームとして楽しいか、成立するかのほうが重要なのだ(ゲームとしては)。もちろん、プレイヤーの自分達が考える善悪とゲーム中の善悪が同じ方向ならストレスなく遊べるので望ましい。けれど小規模のプレイグループならまだしも、複数の卓が立つサークルや知らない人とも遊ぶコンベンションにおいては『絶対に』善悪の基準は一致しない(んなことがあったら気持ち悪いって)。
     ならどうするか。
     僕の考えは以下のようになる。
     まず、善悪をはじめとするアライメントの解釈は「他人と違ってあたりまえ」だと言う認識をもつ。その上で、よりよく楽しむために「解釈をすり合わせること、他人に合わせつつも決して卑屈にならずに(もちろん傲慢にならずに)自分の考えを伝える」ことが常に必要だと考えておく。
     理想をいえば全てのプレイヤーがこのことを承知しておいて卓を囲む際に簡単にすり合わせられればいいなと思う。
     けど、それはやっぱり理想だなと思うので、現実的な方法を考える。つまり、DMがシナリオ、パーティ構成を勘案してアライメントの擦り合わせとその卓における暫定解釈をあらかじめ明言し、それに従ってもらうことだ。
     これなら、DMである自分の努力で何とかなるし全てのプレイヤーに望むよりは5倍ほど現実味がある。

     僕は少なくともゲームにおいては全ての価値判断は「参加者がセッションを最大公約数的に楽しめるかどうか」に基づいて行なわれるべきだと思う。RPGは作品として確固とした成果物を残さない。(リプレイは実際のプレイを編集しており、多くのところを切り捨てている)その意味で舞台というかライブというか一期一会って言うかそんなものだと思っている。
     重要なのはセッション、ただそれだけだ。その他の薀蓄だとか議論とかはあくまで見た後の感想、飲み屋での放言大会に過ぎない。それに拘泥して本来のセッションが楽しくなくなったら本末転倒もいいところだ。
     
       感想をいただけるとうれしいです。

2003/05/08
「初心者DMのために〜システムを信じろ!〜」

     唐突かもしれないけれど。
     D&Dほど初心者マスターにとって扱いやすいシステムは無いと強弁してみる。
     なぜか。
     まず公開されている(日本語環境ではこれから公開される)シナリオがたくさんあり、また、初心者向けに作られたシナリオ(『病魔の坑道』や、『地底の城砦』)は随所にTipsがあり、遊びやすい。つまり、もっとも大変と思われる第一回のシナリオの事前準備は自分でする必要がない。まず、セッションの運営に専念することができる。
     次にセッションの運営に関して。
     上記のシナリオを使用した場合、DMのセッション中の作業は少ない。というのも、初期のダンジョンに入るシナリオでDMが行なうのは基本的に判定タイミングの指示、NPCの操作に限られるからだ。ダンジョンというある程度行動の制限される舞台において、取りうる行動がまだ少ない(それでもやはり想像の限りの行動は取れるが)低レベルPCのとる行動はたいていシナリオの中で言及されたり、DMGの中に判定の基準が示されている。
     ここで注意しなければならないのはシナリオの中で難易度が示されていない判定をPCが行なったとき、そのルールをPHBやDMGから探し出すのはDMだけの仕事ではないという合意を卓の中で確立しておくことだ。PCに何か行動を取らせようとするプレイヤーが居るなら、その行動の判定基準などはそのプレイヤーに示してもらい、それをDMが追認する形にしておく。そうすることで各プレイヤーは自分のPCに『何ができて、何ができないのか』をルール上で知ることができる。(そして、この理解は次の過程『できない事をできるようにするためには、何をしたらいいのか』を導く)また、DMは自分が知らないルールをそれぞれのプレイヤーから教えてもらえる。
     ここでDMとプレイヤーで根拠が異なり検討を必要になったら、DMはその検討が現在のセッションの中でどれくらい重要か、残り時間はあるか、他のプレイヤーは退屈してないかなどを考えて、その検討を切り上げるか追及するか決めれば良い。

    #そう、重要な卓での合意がもう一つある。遊んでいる間はDMの裁定を尊重するという合意だ。

     まぁ、ちょっとずれたのを戻すとD&Dにおいて、DMの仕事は(当初は)かなり機械的な判定で済むってことだ。
     ここで「機械的」とか言う言葉を不用意に使うと、RPGにおける創造性やマスターによるストーリーテリングを志向する立場から異論があるかもしれない。けれど、これでいいんである。断言する。強弁する。
     なぜなら、D&Dにおいてマスターの仕事はとりもなおさずセッションの運営をスムーズに行なうことだからだ。このことはもしかしたらD&Dに限らずRPG全てにおいて言えるかもしれない。
     初めてマスターを行なうに当たって、マスターはプレイヤーの時とは比べ物にならない量の判断を行なう必要がある。そのプレッシャーはけっこう、大きい。
     だから、セッション中にマスターがしなければならない作業は少ないか、機械的に行なえるものであるほうが負担が少ない。その意味で、D&Dは用意されたシナリオとそれが扱う状況が限定されていること、そして判定の基準がある程度客観的に示されており、行動の判断をDMとプレイヤーで分担できるために優れている。
     ここまでは初心者DMにとってD&Dが運営しやすいRPGであるという事の説明。
     次に、D&Dが優れているのは、DMがどちらかといえば審判として機械的に処理するスタイルをとってなお、セッションの面白さが保証されているということだ。
     D&Dにおいて(ある程度の)面白さは決してDMの資質によるのではなく、D&Dというゲームのシステムによりもたらされるためである(D16はこの事を決して否定的な意味で主張してはいない)。それはつまり、キャラクターがもつ資源(ヒット・ポイントや使用できる魔法の数、食料の残りにマジックアイテム)を利用して、困難な状況を生き延び、敵に対処(撃破、制圧、交渉、やり過ごすetc)して目的を遂行するというゲームとして、D&Dは面白いのだということだ。
     だから、初心者DMはD&Dというシステムを信じて、まずはD&Dをゲームとして運営することを心がけるだけで、セッションは成功し得る。そして、そうしたセッションを重ねるうちに、単に生き延びること、金を稼ぐこと、龍を倒すことが目的だったゲームに『物語』が付随し始める。個性的なPCも印象的なNPCも込み入ったプロットも最初は必要ない。ただ潜りつづけ、サルのようにダイスを振るうちに、そのプレイグループは自分達が『物語』を結果として紡いでいることに気がつくだろう。
     それはRPGというゲームがタクティカル・シミュレーション・ゲームから一歩踏み出して新たなジャンルを作り出した過程の再現に他ならない。そして、RPGというものを漠然としか知らない初心者にとって、この過程の再現、実体験こそがもっともRPGというゲームを理解するのに適当な手段ではないだろうか。
     現在、RPGというジャンルは明らかに進化を続けており、状況を再現して楽しむシミュレーションゲームの流れから、ストーリー支援を基本ルールに組み込むことで特定ジャンルの物語を相互に再現、構成するストーリーゲームへと動いていると思う(#ここは個人的な感想)。
     しかし、その流れから提出された新しいRPGは使い手に上記のRPGの変化の過程に関する教養(#大げさだな、オイ)がないと概念が理解されにくいのではないだろうか?

    ##以下余談。
     もしかしたら、そうしたストーリーゲームとしてのRPGからRPGを始め、その中で練成を続けているユーザーもそろそろ出てくるのかもしれない。彼らにとっては、物語を紡ぐための機構が組み込まれていないD&Dのようなゲームは逆にRPGとして何か欠けていると感じられるのかも。そうしたプレイヤー達が新しいシステムのRPGを作るとしたらそれはどんなものになるんだろう。純粋に興味がある。

     だからこそ、D&Dは初心者DMにとって扱いやすいRPGなのだ。「RPGはマスターとプレイヤーが対立するゲームではない」と言われるが、少なくとも当初はプレイヤーはDMを倒すべき敵とみなすだろうし、DMはモンスターや状況を使用してPCを陥れようとする。その対立こそが脊髄反射的に楽しい。
     まずは楽しい卓であること。そうでなければRPGを遊ぶグループは持続しない。であるなら、概念を理解することが円滑なプレイのために必要となるゲームよりも、とにかく行なう目的と手段がはっきりしているゲームの方がとっつきやすく失敗が少ない点で適している。
     以上の事をまとめてみる。
    • D&Dは初心者DMが範とすべきシナリオに恵まれていて、最初のシナリオを作成するというDMにとって一番大きな手間を省略できる。更に、そうしたシナリオにはDMむけのTipsがあり、そのシナリオをプレイすることでセッションの運営方法を知ることができる。
    • D&Dは初心者DMのセッション中に行なう作業が(プレイヤーと共同することで)少なく、DMはその分セッションの運営に専念できる。
    • D&Dはゲームの目的が明確なため、DM・プレイヤーともに取るべき行動を判断しやすい。
    • D&Dはそのセッションの面白さをDMの資質に頼らず、ある程度はD&Dというゲームのシステムそのものによっている。従って初心者DMでも楽しいセッションを運営できる。
     これらのことから、D16はD&Dが初心者DMにとって適したシステムであると強弁するわけだ。
       感想をいただけるとうれしいです。

2002/04/11
僕が諦めてきたもの

     久方ぶりの妄想雑記。今回のお題は後輩みつまつくんからのお題。
     「ゲームをする上で諦めてきたもの」
     D16的にはかなりイタイお題である。
     これが「ゲームをする上で失ってきたもの」なら簡単だ。ツーかいくらでも挙げられる。単位、信用、年月、健康(胃粘膜)、お金etc。
     けれど、いただいたお題は「諦めてきたもの」なのだ。
     つまりこれは、D16が自覚的にゲームと秤にかけた上でゲームを取ったものを挙げろといってるわけだ。

     単位に未練はない(いいのかなぁ。こんな事言って。まぁいいや卒業しちまったんだし)。
     信用は多分最低限は確保しているだろうからいいことにしておく。
     お金は他の趣味(車、飲む、打つ、買う)に比べればたいした事はないので構わない。
     健康はちょっとばかり誤算。昔ウィザードリィの三日徹夜で血を吐いたのも今となっては馬鹿な思い出だ。

     たぶん、「失ってきたもの」はこういう風に自分で納得がいくものだと思う。
     なぜなら、それは多分僕にとってゲームをすること。いや、マスターをするということが一時期、そして部分的には今もなおアイデンティティとなっているからだ。
     僕が僕であるということ。そのことの証としてRPGのマスターをしてきた事実がある。野暮だけどね。

    #僕は楽しむ明るいゲーマーでありたいと思っている。ゲームするのに小理屈こねるなんて野暮だと思う。けれど、認めなければならないことがある。

     小学校のとき、僕は上手く周りと友達になれなかった。今もそうだけど、僕は自分に全然自信がない。だから、積極的に否定されなくても、関係を上手く結べないということで孤立感を味わうことがしばしばある。

    #要はクラかったんだと思う。

     で、違和感を感じることが多かったのだけど、ある時僕はひょんなことから同級生と仲良くなった。共通の興味としてゲームブックが流行り始めたのだ。割と孤立してた僕はその分物を読んだりしてたし、ゲームブックをその小学校に広めた中心になってしまったので、俄然周囲と遊び始めた。
     最初はGBの話とかだったのだけど、そのうちRPGというものの存在を知る。富士見書房から出していた『パックス砦の囚人』というゲームブックのあとがきにプレイ風景の描写があったのだ。
    「そうか、つまり人が本の役割をしてゲームブックをやるんだな」
     そう理解した僕は友人と下校の途中にゲームを始めた。
     僕は藁半紙の四辺にその当時考えついた強大なモンスターを四つ配置した。キャラクター作成はウィザードリィの攻略本とソーサリー4部作を参考にした。初めてのキャンペーンが始まった。そう、今もなお弄りつづけている『四方王』キャンペーンだ。
     ゲーム自体も楽しかった。けれどそれ以上に嬉しかったこと。

     それは、僕が認められた嬉しさだった。

     小学校の中でどこか違和感を感じつづけていた自分が、間違いなく『中心』にいて周りのみんなが僕のマスタリングを楽しんでくれている。

     僕はここにいてもいいんだ(爆)

    #こう書くとまるでエヴァのテレビ版最終回のようで、イタイ(笑)
     
     多分、多かれ少なかれ人はこうやって友達を作っていくケースがあると思う。それは例えばスポーツだったり、音楽だったりするんだろう。僕にとってはそれはRPGを始めとする、ストーリーゲームだった。そして、その中でマスターをすることで僕は揺らいでいたアイデンティティを回復、形成していったのだろう。

    #実際には仮面オタクをする上での体育会系部活に入ったことなんかも大きいと思うけど、あいにくと身体を動かすほうは全然駄目なので、やっぱり水泳も少林寺も「自分の根幹たる自信」という風にはいかなかった。と、思う。

     つまり、何が言いたいかというとD16の前提条件として、D16にとってRPGはどうも、単なる暇つぶし、遊び以上の存在となっていて、結果として「失ったもの」には未練は無い。とゆーか考えても意味が無いって事。
     「失わなかったら」どうなのか。
     そしたら、多分ここでこの文章を書いている自分はいない。
     胎内にいるときの胎児の指の形成過程では、鰭状になった腕の先から指の間に相当する部分の細胞が死んで指が形成される。そーだ。アポトーシスって奴ですね。
     僕が「失ったもの」は多分そういうものだ。

     で、「諦めたもの」ってのは形成された指を自分で切り落とす。ようなもんだと思う。
     そうしないと手に入らないもの、覚悟の上で、未練を残しつつも切り捨てたもの。だと思うわけだ。

     これで違いを自分なりに整理したので、諦めたものいってみよー。

    「10代での異性との交流」
     いきなり青臭いやね。多分つつけばもっと別の臭いもすると思うぜ、きっと。
     当時、ゲームをする女性というのが存在するとは思わなかったというのは前提。
     でも、こっちはさまざまなメディアでそれなりに出会いなり、つきあいなりに幻想を抱いていたわけで。当時「ときメモ」が無くってよかったなぁと思うよ全く。
     はっきり言って、RPGってのはカッコいいor見てくれのいい趣味じゃ無いと思う。今でも。
     戦う前に負けることを考えている人間が勝てるはずは無いのである。
     もちろん、コンベンションとかしているうちに女性ゲーマーがいるのは解った。
     割と濃い奴もいるのはわかった。だから話も合うかもしれないと思った。けれど、自分が引け目を感じたまま付き合うことは当時の自分には出来なかった。まるで、傷を舐めあうみたいで。(こうしてみると当時、恋愛に関してかなり高い理想を抱いてたんだなぁ)
     だから、諦めた。時限的に。
     自分の理想とする女性が現れるまで。その人と引け目無くつきあえるように自分が成長するまで。
     はい、これは実質的な無期延長です。
     まず、当時の理想というのがひどい。
     大学の二回から三回生の時に散々回りに言っていたので、ここに書き上げるのも憚られるのだが、自分への罰として敢えて晒す事にする。
    「ショートカットで目がキツイ美少女で、武道を何かやっていて、どちらかといえば胸は小さめで良くて、RPGはD&Dやケイオシアムのベーシックなゲームが好きで、文章が書けて、イラストが書けて、編集が出来て、下宿生だから泊りがけのゲームとかが大丈夫な新入生が入ってきませんかねぇ」
     いるかっつーの。菊地秀行の伝奇小説の主人公じゃないんだからさ。
     それに自分が釣り合うようになるとは思えんし。

    次に諦めたもの、
    「人との付き合いかた」
     ゲームをすることによって諦めたもの、では無いかもしれない。
     けれど、自分で周りに胸を張って言える趣味じゃないもの。それを生きがいにしてしまったこと。
     自意識過剰なのかもしれない。けれど、どこかで冷静な自分が「この話題に付いて話せる人」と「そうでない人」を区別してしまっている。そのことに気がつく。
     常に一歩、踏み込ませない位置で人と付き合おうとしている自分がいる。
     普通に生きる上で、当然なのかもしれない。けれどなんかよそよそしいことに気が引ける。

     大学の部活の同期、就職の同期、研究室の仲間。親しい人、大事な人はいる。けれど、それとは別に卓を囲んだ人、マスタリングした人との距離の差が確実にある、気がする。
     多分、説明しようとする気力を維持すること、そのことを諦めたのだと思う。
     ホントはこっちのほうがいろいろ書くべきと思うけど、まだまとまっていないのでパス。

       感想をいただけるとうれしいです。    

2001/02/13
私がオバサンになっても、あなたはゲーマーよ

     何とも恥ずかしい名前のお題を頂いてしまった。
    『果たして、10年後のD16はTRPGを続けているのか!? 20年後には、子供とキャンペーンを始めたりするのか?!就職間近。人生の折り返し地点に達したD16がゲーム人生を語る!!』
     ま、中身は割と話せる内容になりそうなんでこれで行こう。
     "オタキング"岡田斗司夫によれば、『オタクとは、あえて「なる」ものではない。「やめない」ことがオタクなのだ』とか。
     気がつけば26。小学校6年の誕生日にD&Dの赤箱を買ったことから始まったゲーム生活もついに14年目を迎える。人生の半分以上、RPGと付き合ってきた計算だ。ちなみにゲームブックを入れて良いなら更に二年ほどさかのぼる。一番最初に買ったゲームブックは判定のないパラレル小説型のゲームブックで特に勝利条件とかも決まっていなかった。ただ、選択を繰り返すたびに異なる話が紡がれることにひどく興奮して何度も読み返したことを覚えている。その次に買ったのがかのソーサリー4部作の二巻目(なぜか二巻目からだったのですよ)『城塞都市カーレ』本格的なゲームブックそしてRPGとの出会いはこれが最初と言っていいだろう。
     いかん、思い出話はきりがない。この辺のこと話してたら一晩だって話せるのだ。ウォーロックとかアドベンチャーノベルスシリーズとか、『送り雛は瑠璃色に』とか。
     とにかく、D16は自分でも知らないうちにゲーマーへの道を歩み始め、いつのまにやら割と濃いめのオタクになってしまった、らしい。(自分のことオタクだとか誇るヤツはちょっと信じられないので控えめに言ってみる。ま、趣味人ぐらいのつもりなのだけど)
     前述の岡田斗司夫によるとオタクには足を洗う機会が人生において三回ほどあり、それがいわばオタクの危機なのだという。
     一回目は小学校四年生、子供番組から足を洗い、大人番組を見始めようとするのだそうだ。ゲーマーに関していえばこれは当てはまらないかも知れない。なぜなら、当時のゲームブックにしろ、TRPGにしろ児童用ではなかったからだ。いわば、大人のホビーとして一種のあこがれを交えてゲームに面していた気がする。なにしろ、ゲームブックから始まって一通り早川FTとか創元推理文庫に手を出し始めるのだから、これは背伸び以外の何者でもない。
     二回目は中学二年生だという。異性の目が気になる年齢ということらしい。
     『「女とかフツーの奴等にはオレ達のことなんかわかんないよな、どうせ」と、潔く退路を断って修行に邁進する。ああ、書いてて心が痛いなぁ。』
     このころは実は自分も痛い。確かに仲間と遊んでるのは楽しかったのだけどその一方でこの趣味を続けていく限り絶対異性の友達なんて出来ないんじゃないかと思ってたしね。その反動かどうしても異性キャラクターのプレイが許せなかったっけ。だって惨めじゃないですか。本人が異性と付き合っていないのにその異性を外部情報だけでプレイしようとするなんて、まして、プレイ場所は放課後の教室とかだったりするんですぜ。
     だから、ディードリットが俺にはどうしても許せんのだ。
     いかん、俺も痛くなってきた。あのころは反動のように中年男性キャラクターをやった気がする。
     もっとも、いわば清冽なあきらめがついてしまえば中高とゲーム生活はむちゃくちゃに充実していた。D16は、高校では同時に水泳部に所属していたおかげで仮面オタクという位置。そんなに浮いてはいなかったと思う、思いたい。うん。で、地元でのコンベンションのスタッフとして主催したり、コピーでパンフレット誌を作ったり。キャンペーンに二つ三つ参加したりしてた。
     ま、楽しかったし。高校は地方公立進学校で女子少なかったし。いーんです。だいたいこの手の話は飲み会の二次会向けの話じゃないか。
     『三回目は高校三年。大学に進学するのを契機に「このままでいいハズがない」と足を洗う奴も多い。』
     すいません。大学を選んだときの理由はここのSF研でした。SFマガジンのファンジンの欄でここのSF研が「SPACE1889」の特集記事を組んでるのを見て、絶対受かってやると心に誓ったのでした。

    #以前この話を先輩方にしたら、「それは悪いことをした」と謝られた。まぁ、確かに道を間違ったのかも知れない。

     以上三つの関門をはれてくぐり抜けたヤツはもう立派なオタクで、『結婚しようが、子供が出来ようが、一生オタクでいられる。』そうだ。割と正しいんじゃないだろうかと自分でも思う。
     だって、ゲームをしていない自分というのが想像できないからだ。(理由になっていないかも知れないけど)もっとも、RPGは他の趣味と異なり必ず志を同じくする仲間を必要とする。つまり、RPGゲーマーであり続けるには自分がゲーマーであり続けるのと同様に周囲もゲーマーであり続ける必要がある。少なくとも、RPGという共通の趣味を行うために貴重な社会人の余暇を費やす酔狂な人間が数人いないと、僕はゲーマーでいられない。

    #コンピューターゲームって手もあるけど、一人でやってる限り今まで自分がやってきたようなゲーマーという行き方からは別のものになってしまう気がする。ネットワークゲームについてはいずれ。

     自分がコンピューターゲーマーだったらいずれゲームをしなくなる日ってのは来ると思う。それは個人的な問題で自分だけがやめればすむ問題だから。けれどTRPGなら変な話だが自分がやめたくても周りがやめさせてくれないッてこともあるかも知れない。少なくともキャンペーンがすむまでは一緒にいてくれと頼み込まれることだってあるかもしれない。そう、TRPGゲーマーであるって事はとりもなおさずTRPGを遊ぶコミュニティがあるって事で、それを維持していくということだ。
     つーわけで、将来にわたってゲームを続けていくかという問いに対しての答えは、 『その気はある。ただし、状況が許せば』
     というのがひとまずの答えだ。
     実はこのことに関してはここ二三年で切実な問題になってきていたのだ。D16のレギュラーで遊ぶメンツの半分以上が社会人メンツになってしまったのである。特に、現在最長となっているD&DセルゼヴィアキャンペーンはDMを含む参加者7名中5名が社会人で勤め人だ。日程の調整だけで一苦労である。
     それでも、集まって週末を地下迷宮で大トカゲとの斬り合いに費やすという趣味を共通して持っているためにこの人達は集まり続ける。多分、今の話にケリが付くまではたとえ3ヶ月おきにであっても集まるだろう。このこと自体は、いい。
     話すべきはそれに伴うセッションの質の変化だ。
     明らかに、学生の頃とはセッションの質が変わってしまった。少なくともDMのD16はそう感じている。
     それは一言で言えば「しょっぱいセッションは出来ない」ということだ。
     みんな「遊ぶ」為に集まっているのであって「暇を潰す」為に集まっているのではない。学生の時みたいに暇だからと行ってめいめいがd20を振って最低の目を出したヤツがマスターをする、準備時間1時間。なんていう風にはセッションは出来ない。(バカなことしてたなー)個々のセッションには目的意識があるし、それを遂行してキャンペーンを進めなければならない。学生の時とは違って社会人のセッションは「常に成功することを求められているセッション」と言える。
     注意してほしいのは俺は別に失敗したセッションが屑だとかいうつもりはない。ただ、5、6人の人間を集めて6時間から9時間、妻帯者を含めて拘束するからにはそれなりの成果がないと辛いということだ。そうしないと集まる意味を見いだせなくなってコミュニティの維持が困難になる。
     「しょっぱいセッション」をしないためにはどうすればいいか。
     答えは割と簡単だ。「準備を十分にすること」これに尽きる。
     プレイ中に必要とされるであろう情報をあらかじめ整理して用意しておき、プレイ中の検索による中断を無くす。PCの行動について想定行動をいくつか考えそれに対応した展開を用意する。
     実際の作業ではシナリオの背景情報を精細化すること、必要とされるデータをあらかじめ揃えておくことが準備になる。全てのPCの行動を想定することは不可能だから、相手の変化を情報の厚みで押し切れる準備が必要になる。
     別に全てを書き留める必要はないが、与える情報、及びそれらから導き出されるプレイヤーの推論に矛盾が生じないように心がけなければならない。あやふやな情報で行動が取りにくくなることは避けなければならない。
     さて、こうなってくるとおのずとプレイスタイルも過去のものとは変わってくる。自分の趣味に割ける時間は一定だから、ゲームにかける時間だって限られてくる。その中で十分な準備をするには「既製品」を使う事も必要になってくる。
     その点ではこれからプレイするゲームは過去に十分なプレイ資産があるゲーム、もしくは今後のサポートが確立されているゲームということになる。(ここ最近D16が3rdに傾倒する理由はまさにそれだ)
     あと、社会人メインとなるコミュニティで考えられることとしては、多分新しいルールを新たにプレイすることが無くなるだろうという気がする。もっともこれはメンツによるのかも知れない。D16の回りでも社会人で有りながら3rdに興味を示してくれた人もいる。(一方で、これから新たなシステムになじむ事よりも、今までのシステムでプレイを継続する事を望む人もいたのだ)
     以上、僕がオジサンになってもゲームを続けていくだろうということ、その時に今と変わっていくだろうことについて簡単に考えてみた。もっとも、来年の話をすれば鬼が笑う世の中で10年後の自分がゲームを続けていると言い張ることはあんまり意味がないのかも知れない。ただし、三ヶ月後、自分はゲームをしていることは間違いないと思うしそれを重ねて行けば将来もゲーマーである気がする。
     最後に、物理的な理由によりゲームが出来なくなる状況について考えてみたい。D16の職場は一年間東京勤務のあとは地方に飛ばされることが確実となっている。その状況でいかにしてゲームを行うか。考えてみる。
     あきらめの悪い方法としては、連休に東京に帰ってきて無理矢理ゲームする。周囲の理解と協力があればこれがもっとも個人的に望ましい。けれど、奥尻島とか屋久島とかに飛ばされたときには無理だろう。
     次の方法はプレイを電子メールなどの同時参加ではないメディアで行うこと。いくらかのルール的な整理、遊び方の変更はあるだろうがこれが現時点ではもっとも理性的な気がする。小規模な集団であれば、メールによるゲームは可能だと思う。
     ただ、自分は遊ぶということは同じ時間を共有することにとても大きな意味があると考えているので、メイル等を利用してのセッションにはあまり自信がない。
     最後はインターネットを利用した同時参加での遠隔セッション。
     現時点では夢物語だが、現在WoCで開発中の「Never Winter Nights」というソフトによれば可能らしい(伝聞)デモムービーとか見る限りではこれで本当に遊べるのなら最高なのだけれど。
     そして、最終手段。任地でゲーマーを探してゲームの種を蒔く。もしくは自分でゲーマーを育てる覚悟でやる。
     最終的には日本各地に僕とのキャンペーンを遊んだ仲間いることになる状況である。これはこれで楽しそうだ。幸い今の日本ではネット環境さえあればルールブックを手に入れることは容易い。地方にはゲームショップがないというのはビハインドにはならないのかも知れない。
     結論。
     今は遊ぶことしか考えていないし、多分来年もそうだと思うでしょう。結婚したり子供が出来たりして人生での優先順位が変わることがあってもゲームをする事は常にやりたいことのリストには上がってる気がする。
     だから、これを読んでる僕の仲間の人に言いたい事がある。
     これからも、いい大人になっても、暇があって、ドラゴンのブレスを浴びたり、借金抱えて宇宙を飛んだり、禁断の知識に触れて狂気に陥ったりしたいなら、そのために週末の一日を費やし、そのことを家族に釈明して構わないと言うなら、やっぱり集まってゲームしましょう。
     僕はいつでも誘いに応じます。
           感想をいただけるとうれしいです。  

2000/10/31
Beholderさんへの返事

    (以下の文章は2000年10月31日に掲示板でBeholderさんからお尋ねのあった、
    「2nd、3E共に、日本語版が無い、有っても入手が難しいというのは変わらないと思うのですが、 周囲の方々が、3Eの方により興味を示された、その要因は何だとD16さんは感じられました?
     お考えをお聞きできればうれしいです。」

     への返事として書いたものです。量が多いので読みやすいようにここにおきました。なお、元の文章はゲーム日記のD&D3版テストプレイ感想文です。
      この文中でD16は、
    「残念なことにプレイヤーのほとんどがAD&Dのルールに関しては積極的に購入する方向には行かなかった。なぜなら、日本語版のルールブックはほとんど手に入らない状況だったからだ。)
     と書いた直後に、
    「そして3rdが発表された。
     と、これに興味を示す人間が多くなり、周囲でルールを購入する動きが高まった」

     と、書いています。少し説明が足りなかったせいなのでそのことから返事を書きました。



     確かに、少しわかりにくい文ですね。
     自分でもその理由を特に考えずに書いていたみたいです。
     問題を整理すると、まず、ゲーム日記にあるAD&D2ndを遊んだゲームグループと、今回3rdに傾倒しつつあるゲームグループは別のゲームグループなのです。そのことを特に区別せずに書いたのがわかりにくい理由の一つかもしれません。
     まず、AD&D2ndを遊んだ面子は、RPG初心者がほとんどで、基本ルールブックを所持しているのは6人中二人という状況でした。(CoreRules2.0をノーパソで読んで計三冊です)で、彼らはゲーム自体にも初心者でとても英語のルールブックを買って読むことを自発的に行うのを期待できはしなかったということがあります。
     一方で、もうひとつのグループは新和のD&Dをメインに行っており、クラス、スペルなどをAD&Dから翻訳、改訂して使用するくらいには英語に抵抗のないグループです。こちらの方でなぜ2ndではなく3rdに期待するようになったのかを考えることがBeholderさんの疑問への回答となると思うので考えてみます。

     まず、彼らがAD&D特有のある意味美しくないシステム(エクセプショナルストレンクス、ダメージを受けることによる呪文の失敗、武器のSF)になじまなかったのではないかと思います。
     これは多分に「好き嫌い」の次元の話といえると思います。僕自身としては武器のSFとかは好きなルールなんで。けれど、一番大きいのは新和D&DとAD&D2ndの間には量的な差(データ量、細かな処理に対する方法)はあっても、質的な差(新たな概念、3rdのソーサラーや、マルチクラスの自由は新たな概念と思います。あとはd20システムも)は少なく、システムを乗り換える動機に乏しかったといえるのではないでしょうか。
     たしかに、基本三冊以外のOptionシリーズやCompleteシリーズにより質的な面での差(自由にカスタマイズできるキャラクタークラス等)が可能になってもそれは基本ルールブック3冊のみからはわからないし、それにアクセスするためには英語のルールブックを大量に読みこなすという壁があったように思います。
     だから、2ndに乗り換えずにD&Dを遊んでいたのではないでしょうか。
     
    #自分は一年位前からかなり2ndに傾倒していたのですけれど、それはそれ。

     翻って3rdは当初から大きな変更があるのが伺え純粋に興味を持ったこと。
     複雑で所々矛盾を抱えており、膨大なルール量を誇る2ndにはどこか壁を感じていたこと。
     (ここまでが僕の周りの友人が2ndに興味をあまり持たなかった理由と考えています)
     今後のサポートが基本的に3rdメインとなり、提供される素材も3rdのものとなる。
     今後数年のトレンドになる気配がある。つまり、新規巻きなおしの気配がありこれからなら追加されるルール等にも対応が容易である。ルールに習熟するのと足並みをそろえて追加情報を得ることが出来る。

     これらが3rdを手に取りたくなった動機の部分だと思います。
     しかし、実際にPHBが手に入りそれを見せることで興味を覚えた仲間がいます。彼らは情報として3rdのことは知っていても自分たちから先行購入することはなかった人間で、彼らが3rdに興味を覚えた理由は今まで挙げたものとは別だと思います。

     それはルールブックの出来と、改めて知ったFeatや特殊能力による質の変化です。
     今回のルールブックは誤読をせずに済み、重要なルールを見逃さないようなつくりになっているほか、魅力的なイラストに富んでいます。ゲーマーは多分に子供なので光るものにはヨワイのです。(D16はHalforc-BarbarianのKurskに「燃え」た他、DruidのVadaniaに「萌え」です) はっきり言って数人は「Orcish Duble Axe」や「Dire Frail」の絵に惹かれて興味を持ったかもしれません。(だとしたら愛すべき頭のヨワサです)
     さらには、PowerAttackやMaximizeSpellといったfeat、Evasionや新たに力を増したBardのsongわくわくするフィーチャーの数々。

     話を戻して。今回のルールブックのまとまりのよさと後ろの索引が実用に耐えること、グロッサリーの有用性(個々のゲーム用語がしっかりとした定義を持って使われていることの現れ)、そしておそらくはMtGのノウハウであろう明確で見通しのよいルール構成と説明(少しでも複雑なルールには適用例が示されていること)も大きな効果を挙げていると思います。この編集が、ルールブックが英語であるという壁を非常に下げていると思います。

     正直僕はある夢想をしてしまいます。
     MtGをプレイするのに英語力はあまり必要ありません。なぜなら、カードに書かれているのはいわばゲーム用の英語であって、明確に定義されたゲーム用語の関係を示すものでしかないのです。
     3rdのルールブックは編集によりこの粋に達しているのではないか?
     数回のゲーム経験(これはゲームの概念を教えてもらうレベルのものです)と中卒程度の英語力があればプレイヤーとしてゲームをするのに必要なルールは簡単に読解できるのではないか?
     そうすれば、少なくともプレイヤーをする上での敷居は今までとは比べ物にならないくらい低いだけでなく、(いくつかの章は)和訳すら必要ないのではないか。
     英語のままで遊ぶことが可能ではないか?

     ちょっと回答の趣旨が逸れました。まとめます。
     
     3rdを手に取った理由
    新規巻きなおしにより、いったんは情報をリセットして新たにはじめられること。
    事前に知らされていた新たなフィーチャーへの興味。
    よりスマートなルールにシェイプアップしたシステムへの興味。
     
     3rdに感染した理由(笑)
    新たなクラスフィーチャー、featへの興味。(総じてKursk燃え〜と言い表せる(爆))
    美麗なイラスト。(Vadania萌え〜)
    読みやすい編集。(こればかりはMtGの資産なのだろうなと思いますWoCに感謝)
    見通しのよいルール

     以上のようだと思います。
     この文を読んだD16の友人で3rdについて意見のある方はぜひその意見を書き込んでください。
     
       感想をいただけるとうれしいです。

2000/10/25
シナリオを何に書く?

     D16とセッションしたことある人はご存知だろうが、僕はシナリオを書くのにあまりノートを使わない。
     とくにD&Dセッションなんて大学の研究室のA4の反故紙を束でもらってきてそれに書き付けている。
     いつからというわけじゃなく、気が付いたらそうなっていた。少なくとも村岡先輩のところのゼルゼヴィアキャンペーンは多分第一回あたりからA4の裏紙に書いてる気がする。

     これがとてもいい。

     人にもよると思うが、RPGのシナリオを最初から最後まで順序正しく書ける人なんているはずがない。そんな人がいたらRPGのダンセイニと呼んであげよう。
     で、話を戻してただの紙にシナリオを書くのがなぜ自分にとって適しているか考えてみる。
     
     僕のシナリオ作成法はこうだ。
     まず。事件の背景を設定する。この設定は最初は枠組みをしっかり決めてディテールは大まかにしておく。最悪の場合、NPCの外見なんて出てきたときにダイスで決めたって間に合う。そのかわり、そのNPCがシナリオの中で果たす役割とその位置はきっちりと決めておく。この作業が僕にとってシナリオつくりで一番頭を使う。
     このとき重要なのは、この事件においてPCを介在させないこと、そして、事件は解決してしまう。
     PCはその枠組みの中に投げ入れられた不確定要素である。
     このシナリオの中でPCのみがストーリーテラーたるGMの意思にはかかわらず行動することができる。そして、迫りくる終末を回避することができる。
     けれど、PCが何ら効果的な行動を取れなかった場合、事件は設定どおりに進んでゆき場合によっては当初どおりのバッドエンドに向かってゆく。
     ストーリーはPCの行動により能動的に変わってゆく。次に何が起こるのか、時系列順に起こることが決定されている事件はもちろんあるけれど、PCの行動により引き起こされてしまう事件もある。
     
     こういうシナリオだと、いかに事件の背景をわかりやすく捉えるかが重要になる。だから、まずは思いついたシーン、必要なシーン、見せたいシーン(シーン=エンカウンターといってもいいと思う)を書き連ねてゆく。
     そして、それらをつなぐ背景を考え、いくつかのシーンを切り捨てる。キャンペーンの場合にはそのシーンを今回のシナリオで行うべきかどうかを考える。
     まえにノートにシナリオ書いてたときには3,4ページはこうしたアイデアの取捨選択に使っていて、そのあとに必要な数値情報(たいていはモンスターのデータ)を乗せたところで気力が尽きてセッション当日を迎えるということがよくあった。
     これだと、ノートが汚くて見にくいから紙にメモを連ねたのが始まりだ。
     実際にやってみるとえらく使い良い。

     まず、遠慮なく書き損じたり、捨てたりできる(大学のリサイクルボックスに叩き込む)。
     罫線がないから自由に枠を書いてレイアウトできる。(罫線がいかにアイデアを固定化させていたか!)
     シーンごとに紙にまとめておいて順序を差し替えることで全体の構成を簡単に操作できる。
     場合によっては手がかりをあらかじめ書いておいてその場で破ってプレイヤーに渡したりできる。
     
     そんなわけで、こういうシナリオを作ってる限りは裏紙にシナリオを書きそうだ。
     
     じゃあ、どんなときにノートが適しているのだろうか?
     多分それは、きっちりとしたダンジョン。どこに何があるか設定してあって、個々の部屋に趣向を凝らしたエンカウンターの用意してある、ある意味スタティックなダンジョンなら、罫線と、順序が固定されているというリファレンスのよさが重要になってくると思う。

     ってことは自分はD&Dをしていてもイベントがベースとなるシナリオのプレイのほうが多いんだろうなぁ。
     今回はこの辺で。

2000/3/25
ダイスを俺に握らせろ!

     現在、大学の研究室。今週中に提出予定の報告書を書いている最中。
     人間煮詰まると遊ぶことを考えるもので、さっきから自分も遊びたくって仕方がない。もっともここで土曜のサークル飲み会の後を急襲しそこで突然X5モジュール「ザナソンの呪い」をするために何人かの何も知らない一年生(よくよく考えたらやつらが純真なはずはないのだった)を拉致ってd20を握り締めれば、月曜日に研究室で俺の席がなくなってしまうのであきらめねばならない。
     つーわけで俺の欲望は3d6を握って6回ばかり振ることで代償するのだ。
     軽く振ってみる。
     12,6,9,15,11,8。こんなもんであろう。Strを12から10に下げてDexを16にしてシーフというのが妥当だろう。Intが低いシーフは嫌いなんだが、どうせNPCだからこれでいい。
     ヒットポイントを決めるために1d4を握ったとき、先輩の言葉を思い出した。
     「D&Dにおいてファイターの意義とはd8を握ることができることにある」
     ふむ、と思い。ダイスをおいてキーボードに向かいこの文章を打ち始めたわけだ。

     D&Dのシステムは変形ダイスを用いる。4,6,8,10,12,20面のダイスだ。能力値決定には3つの6面すなわち3d6が用いられる。命中判定、行為判定、回避判定にはd20が使われる。実際のゲームはほとんどd20による判定が為されるわけだ。(シーフの能力は%ダイスを用いる)
     変形ダイスの出番はたいていHPの決定とダメージ判定である。マジックユーザー、シーフのHPはd4で、クレリック、ハーフリング、エルフのHPはd6で、d8という最大のダイスを振ることができるのはドワーフとファイターのみ。先ほどの先輩のセリフは一つにはこのことを示している。
     ダメージのほうは小型武器がd4、中型武器がd6、大型がd8、超大型の両手持ちがd10のダメージをたたき出す。d8武器を使用できるのはやはりファイターとドワーフのみ。やはりここでもd8をもてるのはファイターをプレイするプレイヤーのみ。つまりこれが『特権』と言える。
     D&Dと言うのは非常にシンプルなゲームシステムをしており、キャラクターは基本的に単能技術者で、それゆえにシナリオ目的遂行のためにパーティを組む必要が出てくる。つまり、クレリック呪文はクレリックにしか使えないしマジックユーザー呪文はマジックユーザーとエルフにしか使えない。罠を発見して解除するのもいくつかの呪文を使うのでなければシーフにしか行えない。
     ところが、戦うことは基本的にどのキャラクターにもできる。戦闘は特殊行動ではなくて、一般行動だからだ。
     だが、その一般行動においてファイターは明らかに他のキャラクターとの差別化が為される。最もわかりやすい方法、8面ダイスを握ることができると言う『特権』によってだ。
     とりもなおさず、その『特権』はファイターと言うキャラクターをもっとも強くキャラ的に立たせてくれる

     D&Dを始めたころ。それこそRPGと言うものの正体を知るのにわずかなリプレイしか用意されていなかったころ、僕達はこのゲームを演技するものとなんてほとんど思わなかった。もちろん、自分のキャラクターに思い入れはあったけど、それは多分子供が超合金のロボットに対して抱くような思い入れだった気がする。
     つまり、そのキャラクターに今の自分とは違う冒険者と言う存在を仮託して、その活躍を楽しんだのであって、キャラクターを『演技』する楽しさではなかった。
     えーとだね、リカちゃん人形によるおままごと遊びと、トランスフォーマーによるごっこ遊びを思い浮かべてほしい。
     両者は『人形』を使って、仮想的に状況をシミュレーションして遊ぶと言う視点では同じ遊びだ。けれど決定的に違うものがある。後者は明らかにオモチャのギミックで遊んでいるのだ。(変形、ミサイル発射、ドリルの回転等等)状況をシミュレーションして遊んでしまうのはその遊び方が何よりもオモチャのギミックを引き出すからだ。
     一方前者は人形により仮託された状況とそれに対する対応に魅力がある。人形は遊ぶ人間に『特定状況(お母さん、夫と言う役割)』を与えるためのツールであり、基本的にその人形が32箇所の関節が可動しようが、ダルマだろうがかまわない。
     D&Dにおけるd8とはまさに戦士にのみ許されたギミックに他ならない。それは架空物語空間において、キャラクターの行動が実際に影響することを保証する。(逆もいえる。僕のイデオンのプラモに、ミサイル発射口のディテールもなければ、イデオンソードもなかったので、映画を見てきた僕の証言をマサル君は認めてくれず、僕のイデオンはズゴッグの爪の前に敗れたのだった)
     昔ドラゴンマガジンにソードワールドRPGが作られると聞いたとき僕はかなり期待したが、レーティング表になじめず結局ほとんどプレイはしなかった。
     なんかテンポが悪く感じたのがあったのだけれど、何よりも全部2d6で判定するために、8面ダイスを握る楽しみ、優越感を抱けなかったからじゃないかと思っている。もちろん、デザイナーの意図(当時変形ダイスは日本では入りにくかったことetc.)はわかるし、システムの一つの完成系と思う。
     けれどd6よりも期待値で1だけ大きなそれだけのダイス。僕たちはそのダイスの1ポイントの重さゆえに信頼を抱き、憧れを抱く。1ポイントのHP。1ポイントのダメージの意味をを常に身に叩き込まれてきたのだから。
     たとえそれが、子供じみた細工に見えたとしても、幼いころ、プラモのロケットパンチや麦球を仕込んで光らせたモノアイが、どれだけ僕たちの心を昂ぶらせたろう。
     それと同じ昂ぶりを僕らはd8を握るたびに思い出せる。
     馬鹿臭いかもしれないけれど、真実だ。
     たぶん、男の子が幾つになっても紙飛行機に目を輝かせるくらいには。

     (2000/4/13・脱稿)
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