野望日記2003/1
新年にはいってようやく日記を書く。
書くべきことはあったのだけど、最近はトップでも告知しているNewChallngerCon.のシナリオ作成にかかっていたのでしばらく休んでました。
シナリオは以前に作ってあったものを三版対応にするだけ、と思ってたのがいろいろと穴が見つかって大幅に変える事に。特にNPCをレギュレーションに沿って組み上げるのに手間がかかった。結局メインのNPC3体があがったのはテストプレイ前の16日あたり。
昔はストーリーを優先してわりとご都合主義的な事も許していたのだけど(いや、今だってそれはあるけれど)今回のようによそでマスタするときにはD16のクセ(ご都合主義の方向性)を排除して、ルール的に見通しがいい仕掛けというか構成にしないと参加者が戸惑ってしまう。一発勝負のコンベンションじゃこれは致命的なので慣れないルール的裏付けを考えていた。で、ドツボにはまってた。相談に乗ってくれたでんこうじ先輩やつかだくんには感謝。
プレイそのものは割と順調だったと思うギミックも戦闘に関してはOK、ただし導入、伏線の処理に課題あり。特に伏線に仕掛けたギミックが全然生かせなかったのでもう少し考えなければなるまい。
本日は職場のゴルフコンペでコースデビューのはずが咳が止まらなくって風邪気味だったのでやめて寝てました。でもって寝たりうだうだと2ch覗いたり。
ここ最近気に入っているのが卓上ゲーム板の「赤ちゃんを拾いました」スレッド。AAに萌えるとは思わなかった。バナナ=ウマーと名付けられたこの赤ちゃん、現在ではこんな感じに育っている。けれど、D16が転んだのは、これ。ううっ、昔からこの手のキャラは弱いんだよぅ。トムとジェリーのヒヨコとかさ。
NewChallengerCon行ってきました。
電光寺さんたちと、とあるおばかセッションをしました。
終電で日光に帰ってくるとAmazonから本が届いていました。
なんかいろいろ書きたいことだらけだけど、一つずつ順順に書いて行かないともったいないから。今日は短く。
楽しかった、とても。
けど、なんか悔しい。
これは祭りのあとの寂しさなんだろうかと帰りの電車で思ってたけど多分違う。
それは多分、何かを作り上げたか、否かということじゃないか。僕は主催の詩人さんに小さく嫉妬しているのだろう。彼が作り上げた成果に。
まぁ、出来る所からこつこつとやってみよう。
よかったなぁ。コンベンション当日じゃなくって。
……んなわけは無い。
月曜日に風引いて休むということは「貴様社会人でありながら土日の健康管理は一体何してやがった」と電話口の向うで係長様の心が人の革新を待たずして聞こえてきて、非常に衛生上よくない。
でも仕方ないので安定剤と風邪薬と睡眠導入剤をのんで横になる。夢も現もあったもんじゃない。
眠が訪れるまでの間この間Amazonから届いた「隣り合わせの灰と青春」を読む。
次回の電撃ゲーム大賞用に考えている話をAquillaを舞台にした、ただひたすらにダンジョンに潜ること、その過程、それを行う者たちの考えていることの小説を書こうと思っているので先達はどのようなものかと思って読んで見たのである。次には「風よ。龍に届いているか」を読むだろう。こちらも評価が高いので楽しみ。
で、「隣り合わせの〜」の感想。
以前、中学に読んだときには「なんじゃ、このゲーム用語を使ったみっともない小説は」とか思ったが、今読み返すとそれは当時の事情として脳内でオミットでき、大して気にならない。
題名どおりに素直に青春物をしている。ここ最近のライトノベルを網羅して読んでるわけではないので「青春もの」なんていってくくってしまっていいのかわからないけれど、表現は落ち着いているしキャラクタは立っているし筋は破綻していない。その上でちゃんとワードナ、トレボーの話にそれなりのケリをつけている。
上手にゲーム部分を使っているという印象がある。つまり、ウィザードリィというゲームの中でゲーム的に処理されていて現実的でないところを再解釈して見せ、それを物語の登場人物が世界則として認識し行動している。
ゲームをしている人間なら「ああ、やるやる」とうなずくところが多分にある。
一方で、話の多くの部分を既に完成された「ウィザードリィ」というゲームによっている。(当然ではあるが)
仮に、ウィザードリィの知識無しにこれを読んで面白いか、この世界がどのようになっているかわかるか。ちと微妙かも。それでも説明は丁寧だ。
では、これを踏まえて自分の話について。
まず、ダンジョンに潜るということについて描写、方法論、アプローチなどを物語の中の知識、常識として描写しそこに意味を持たせること。これに関してはほぼ為されていないので今の所ニッチだ。イケる。
次に、そのダンジョンがいかなるものかを作中で過不足無くかつ説明的にでなく説明すること。全貌を明らかにすることは必要ないのかもしれない。潜る「彼ら」がそこに意味を見出すのであれば。
そして、潜ることで何かが変わること。世界が、社会が、個人が、誰かが、何かが。でなければ潜る事を描く必要はないから。
あとは、キャンペーンセッティングをオリジナルにすること。
AquillaはそのシステムをD&D三版に拠っており、キャンペーンのシノプシスをウィザードリィ外伝Uに拠っている。この中から既設の設定を取り去り、自分なりの設定を考えるか、捉えなおしをしなければならないだろう。
物語の構造はゲームでいい。それを構成する要素まで完全にどこかからか借りてくるのはマイナスだと思う。
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