創世日記オリジナルワールドを目指してなにが悪いッ!! ゲーマーとして生まれ、DMとして生まれたからには、 誰だって一度はオリジナルワールドを志す。 オリジナルワールドなど一瞬たりとも夢みたことがない。 そんなDMは一人としてこの世に存在しない。 それが心理だッ! ある者は初マスターをしてすぐに、 ある者はユルセルームの美しさに、 ある者はグローランサのエキゾチシズムに、 ある者はフォーゴットンレルムの情報量に屈して、 それぞれがオリジナルワールドをあきらめそれぞれのセッティングを選んだ。 グレイホーク、タイタン、蓬莱学園、スピンワード・マーチ、 ワールド・オブ・ダークネス、1920年代アメリカ、フォーセリア、 しかし、あきらめなかった者がいる。 偉大(身の程知らず)なバカヤロウ。 この地上で誰よりも、誰よりも自分の世界での冒険を望んだ者。 そういう者がいるッ!! 2004/04/29(創世日記)暦について「さて、ここで問題なんだが、今からちょうど500年前ってのはいつになると考えるね?」「いつって、今が確か大戦後380年で今日が秋期節の中日だから……、大戦前120年の秋期節、やっぱり中日じゃないの?」 「あー、うん。間違いが多すぎてどれから指摘したらいいか迷うがな……。うむ。まず、今からちょうど一年前から聞くとしよう。それはいつだ、いや、“何日前”だ?」 「えっと、一週が七日で、一月が四週で、一年が十二月で」 「そこで、336日だ」 「それに春夏秋冬の季節月がそれぞれ七日あって」 「そこで、364日」 「後は年の変わり目、送りと迎えの星祭で1日。だから、今から365日前が、今日からちょうど“一年前”だよ」 「では、ちょうど一年後の今日は今から何日後でいつになる?」 「それは秋期節中日で、365日後……。あ、」 「気がついたな、今年と来年の間の星祭が何日かかるか、それはその時になってみなければわからん。その年に星の歪みがおおきければ大きいほどそれをただすために必要な祭りは長くなる。 そして、その年の星の歪みは年の末、この繍羅の上にどれだけの歪みが生じたか決まってからでないとわからん。四方王の大戦のあと、ずっと続いた夜は大戦で生じた繍羅の歪みをただすための星祭りそのものであったとも言われているさ」 「じゃあ、今からちょうど一年前なんて、聞いたって正しい答えになるわけ無いじゃない。ずるいよ」 「いや、ずるくはないね。他の日ならいざ知らず、今日は“秋季節の中日”だ。今からちょうど一年前は去年の“秋季節の中日”だよ」 「だって、日にちを数えても無駄だってさっき言ったじゃない」 「“秋季節の中日”は日にちを数えることで決まることではないからな。これは冬至と夏至のちょうど中間の日だ。そして冬至と夏至は日にちではなく、天文で決まる。 お前は日にちを数えて今から一年前を答えた。それは日にちを数える暦、つまり天人の定めた「かくあるべき綾羅」に従った暦、性格にはその流れをくむ暦なのだ。しかし、四方王の大戦の後、天人は繍羅を去り、かつて完全な調和の元に動いていた天も地も年を一つ経るごとにひずみを生じるようになった。繍羅は完全ではない。 「だがな、『老爺』が作った暦は「かくあるべき綾羅」ではなく、「いまある繍羅」に基づいて作られている。つまり、夏至と冬至、春分と秋分、そして月の満ち欠けという天文を元にしている。 「つまり、このことを考えてみても大戦の前とあとでは一年とはどういうものかが変わってしまっていると言うことだ。そして、さらに大戦の間は天文すらも歪み、その間の日付はかろうじて東方の大塔や西域の空中庭園で記され続けた砂時計や水時計の日付によっている。 「これらの旧遺跡での日にちによって「かくあるべき綾羅」の日にちは記されている。それは確かに天人の頃からの日にちであり、間違いなく連続した暦だ。だけど、ただそれだけの暦だ。 「『老爺』達が作った暦は天人の暦とは違う。毎年世界の歪みのせいでずれて行く。けれど、この繍羅に根ざし、種をまく季節、刈り取りの季節を教えてくれる暦だ」 「なんだよ、めんどくさいなぁ。何で二つなのさ」 「綾羅を観じて繍羅となす観法が分かれるから、そしてそのどちらで生きていくかが問われるからだ。一つにはこの世界はゆがんでいるので、歪みを廃した正しい暦を生きるという考え、もう一つはこの世界を整えた天人は去ったのだから、今あるこの繍羅の星回りで生きて行くという考えがあるからなのだ」 2004/04/09(創生日記)北天聖都の斥候、根付かずのミューキャロルに問うこの世界はどのようにしてできたのですか最初に世界全ての要素を内包した種があった。いつからあったかって? この世界とともにあったのさ。その種が芽吹くことでそれまで種とともにあっても何も変化を及ばさなかった時が進みはじめた。時と種どっちが先ってこともない、らしい。まだ私には理解できないのだけれど時と種って言うのは同じものを違う見方で見たときの名前だそうだ。私が叔母から聞いた話ではね。やがて芽は芽吹き、澄んだものを梢へ、濁ったものを根本へ押しのけていった。天には明るい天、暗い天、きらめく天そして深い天があってそれぞれ日、月、星、虚空へと固まった。 根は広く深く、枝は高く大きく、幹は太くたくましく育った。 根は始原大地をつかみ、枝の間に始原の風がそよぎ、そして水は樹冠の中を雨として降り、そして根から吸い上げられた。日から降り注ぐ光は優しくほのかな炎となって花を彩った。 宇宙樹はこのようにしてあったのだが、私たちが魂と体があるように宇宙樹にも実体としての体、現身の体があった。繍羅の宇宙樹はそれだ。真なる世界、精霊界の化身であって宇宙樹そのものではない。そして私たち宇宙樹のひこばえにとっての世界は、この実体としての宇宙樹があった世界であり、私たちもまた実体を持ってこの世にいる。 ともあれ、綾羅は宇宙樹があることで繍羅となった。そして繍羅の宇宙樹は幾度となくこの世界の氷河壊劫を生き抜いた。こうした者達は繍羅には世界山の輩や竜くらいしかいない。 人間や他の生き物が幾度となく『氷河』により滅ぼされかかったが、我々は生き延びてきたのだ。 私はどこから来たのですか、そしてなぜ死ぬのですか私たち森人は皆、宇宙樹の種子だ。宇宙樹に実った種であり、遠くへ広がろうとする、秋風に舞う種なんだ。氷陸にあって、今は切り株となって残っている大樹が宇宙樹のこの世における写し身なのだよ。 私たちの祖先の森人たち、それこそ伝承のはじめの森人達は言葉通りの意味で宇宙樹の種から生まれたものたちだった。伝えられる彼らは尊大で強力で知恵も言葉も技芸もすばらしいものであったけれども、ある病、今ではとるに足らない病にかかってしおれてしまった。彼らは皆一様に強壮な種族だったけれど、同じく脆弱なところがあったんだ。そこで生き残った先の森人は無情世間の綾羅に降り立ち、綾羅の大地、風、水、炎をその身に吸い込んだ。綾羅にあるそうした要素は宇宙樹にあるそれらに比べて粗く、むらのあるものだったけれども、土地土地の入り交じった要素を吸い込んだ森人は土地土地によってそのあり方を少しずつ変えて前に比べ純粋ではないが強壮なものになった。彼らは宇宙樹とその幸せな時代に思いを馳せつつも、いまや繍羅となった世界、有情世間で生きはじめた。 なぜ死ぬか?私たちの体は四大の要素からなる。そのいずれが絶えても身体を維持することはできない。これはわかるな。そんなことは解ってる?そうか、私たちに四大の供給が充分であるにもかかわらず、年老いて「死ぬ」ことを問うているんだな。 それじゃあまず最初に、私たち宇宙樹のひこばえは普通の意味では死なないということを明らかにしておこう。 私たちは宇宙樹の種子、先ほど私はそう言った。しかし、四方王大戦以降、繍羅に散ったひこばえたちは己のみでは宇宙樹として芽生えることができなくなっているのだ。かの大戦で宇宙樹のうつし身が「野火」や「地震」達、『氷河』の騎士達によって打ち倒されたとき私達は悟ったのだ。再び宇宙樹のひこばえたちがその生のあり方を変えなければならない時が来たということを。我々は精気のみならず、肉体もほかのもの達と交雑できるように変わった。いや、そういう世代の種子が、まさに倒れんとする宇宙樹、そして宇宙樹からわかれた生命樹から蒔かれるようになった。宇宙樹のひこばえであった私達はいまや宇宙樹の子実体となった。 私達がこの動く形を捨てるのは二つの場合がある。 宇宙樹の末に連なるよき配偶者に巡り合ったとき、われらは結ばれて真の宇宙樹のひこばえとなり、その地に根付く。やがて多くのフェイや森のもの達が、根付いたわれらの下に集まるだろう。そして周りは林をなし、森をなす。そして、このひこばえが次の宇宙樹になるかもしれないし、ならないかもしれない。ならなければいつかはやがて朽ちて倒れるのかもしれない。しかし、それまでの長い時間は「己」は変質している。今私達が考えている「我」とは異なるものになっているのだ。 結ばれることがかなわなくても、私達は一体でやはり一ヶ所に留まる木に変わることができる。長く住むにふさわしいところ、長いまどろみにふさわしいところにきたならば、私達は単性の木となり、やがて雌株、雄株として花を咲かせ風に身を任せるだろう。 いずれにしろ我らはそこで朽ち果てて倒れるだろうがそのときには、先ほど述べたように「我」は無く、地水火風に分かたれる。けれど、「我」の残した歌は繍羅のどこかに響いている。それは木となったおまえの枝が風にゆれて立てる音かもしれない。 死んで後にはなにが起こるのでしょうか先ほど述べたとおり、私達は輪廻を続けるがゆえに死にはしない。生の相が変わるだけだ。とはいえ、おまえが問うているのは生の相がかわった後のことについてだろう。そのことを語ろう。肉体を縒り上げる四大の糸はそれぞれの糸にふさわしい方法でほどけてゆく。火の温もり、風の吐息がその順で体から失われてゆく。水は滴り落ち、四大が複雑に絡み合って作られた体もその極微がゆっくりと、だが確実にほどけてゆく。繍羅のヒトの中にはこうした回帰を厭うものがある。なきがらを炎にかけ、解ける過程を早め地の極みである灰と乾いた骨にしてしまうのだ。それは急ぎすぎる上に本来その体によって養い得る者たちを養えなくしてしまい好ましくは無い。しかし、不自然にひとつの場所に住むもの達には、屍が病の種となるから仕方が無いのだろう。ただ、その灰や骨もつぼに収め綾羅に帰すことを拒むのはよくない。無常世間たる綾羅の一部を私するのは浅はかなことだ。 魂ももとは有情世間たる繍羅世界の一部であり、光と闇から撚られた糸だ。生の中にあって魂は様々な感情や想念により色づき縒られそして何らかの癖を持ってしまう。その色や癖により次にどのような生に編まれるか変わってしまう。鳥や虫、風やせせらぎ。私たちの多くは宇宙樹のまわりに転生する。古き気高き祖先はそのほとんどが宇宙樹の中で転生を続けたという。 しかし今は宇宙樹の中でも変革の時であり我々の輪廻のあり方も変わる。宇宙樹から離れ、より遠く、より別なところに行くために他の転生に赴くことももはや稀ではない。 お前の問いはそのまま生まれる前には何があったかという問への答えでもある。 私は何のために存在しているのでしょうか私たちの祖である宇宙樹は無情世間の綾羅、有情世間の繍羅を幾度も襲った氷河壊劫を経てなおあり続けてきた。そのたびにあり方は変わっていたとは言うが、自己は変わらずに宇宙樹はあり続けた。そして世界の有様を見続け、聞き続け、触れ続け、味わい続け、嗅ぎ続け、それを覚え伝え続けてきた。宇宙樹は「観続ける」ものであったというのが先人の口伝だ。森人はこの宇宙樹の一部としてあった。個の客体であり構成要素でもあった。先賢はお前の問いに「繍を綾を観て伝えるため」と答えた。しかし、宇宙樹が倒れた今、私たちには新たな存在理由がある。 より良き種子になるため、良い苗床を探すため、往時の宇宙樹のあり方を伝えるために、私たちは交わり、広がり、そしてなお自分が何者であるかを見失わずにいなければならない。 お前が流浪にあるのなら対を探し、宇宙樹のためのひこばえとなれ。一所に住まうものであるならば宇宙樹の有り様を伝えそして同胞を守り、育むのだ。 神秘の技、不思議の技はいかにして行われるのですか神秘の技は想いによって、不思議の技は理によって。歌は想いと理を寄り合わせたもの。 そもそも多くの言葉持つものがこの二つの技を分けて考える。これはおかしなことだな。(この項のちほど追加する予定) 私の問いに答えるあなたは何者なのですか?私の名前は「根付かずの」ミューキャロル。北天のうち倒されし宇宙樹から生えいでた無数のひこばえの一人。そして自らは根付かぬままに、宇宙樹の子を護るために弓をとるものだ。人間達の間では「北天鬼神」の一人の方が名が通るようだ。 あなたは北天聖都のことをどう思いますか?人はこの都市を落ちた伽藍というが私に言わせれば、根から覆され倒れた巨大なエゾマツだ。北方の氷河に対抗するために据えられた礎は根を広く、そして浅く張りすぎた。瞬きのような命しか持たぬ人間には仕方ないのかも知れないけれど四方鎮の一つとして役割を果たすにはこの礎は浅すぎた。首都は麻のごとく乱れ、荒れ果てた大地では今は崩れた帝国の位階を名乗り領主達が私兵を蓄えている。これだけ聞けばまさしく人の子が言うとおり、落ちた伽藍だろう。 だが、私はこれも『老爺』の技の一つではないかとここ最近考えているのだ。 エゾマツの木の実は林の土に直接落ちても木まで育つことはできない。土が酢っぱい、霜に割られてしまう、日が当たらないなどの理由でだ。そこで根付き残ることができるエゾマツは倒れた親木の上で芽生えたひこばえのみだ。そしてその中で腐植を奪いあい、陽光を奪いあい、数本のみが堂々と根付く巨木となる。 『魔術師(=魔術師)』はこのことをすでに考えていたのではないか。かの方ほどの知恵者であれば短き生の人により四方鎮を護るにはこうするのが一番と考えていたとしてもおかしくない。 あなたはなぜこの街に来たのですか私が後にしてきた里は北天最辺境にあり、私たちは人間と交わらずには生きて行けなかった。わら死は北天の開拓居留地の一つで斥候と風見を務めていた。やがて帝国はきしみを上げ、居留地の長である将軍は聖都にて冤罪を受け死を賜った。私たちは将軍の娘と孫の頼みを受け将軍の財産を報酬として受け取り居留地の五千の民と孫、娘を帝国の版図の外へ脱走させた。その後何とか自活するうち帝国は崩壊した。 今となってはもはや我々が戻るのを妨げるものはいない。亡き将軍の孫は明らかな血統にたっており、冤罪さえ晴れれば堂々とかつての土地に戻ることができる。その手続きを求め首都に来てみたが見ての通りかつての四方鎮も見る影はなく、皇帝の行方すらわからない。無駄足かとも思ったが、情勢を知らずには国元も動けない。ゆえにここにいる。それが一つの理由でもう一つの理由は氷陸の森人の動静を集めるためにはここが一番だからだ。私のもう一つの役割のために。 あなたの仕事は何ですかひとまずは風を見て、星を見て、週、月、年の天候を見る。山河を素早く踏破して命を伝え、主の耳目となる。鳥獣の声を聞き、天地の間でおきていることを知り伝える。そして事あらば弓をとり、将官の喉笛を射抜きそして風と水と大地のたすけを請う。生を掛けての仕事はこの手にある、宇宙樹の一枝から作られた弓を完全なものとして、『切り株』の裂け目から生える宇宙樹のひこばえを護ることだ。 あなたはなぜこの仕事をしているのですか今、氷陸は乱れそして「銀の黄昏」が北の大地に現実のほころびを作ってしまった。世界を支えるべき宇宙樹のひこばえは幼く、庇護を必要とする。種として外にでていったものがいる中、私の手の中には類い希なる武器がある。ゆえに私は弓を引き輩を護るのだ。命ぜられたわけではない。今、私の手の中に弓があり、私は使い方を知っており、そしてそうすることを望んでいるからだ。……とはいえ、聞かれるまでは考えもしなかったな。 その仕事で大事なことは何ですか風を良く読むことだ。そして自分がどのような風を望んでいるか、欲しているかを良く知ることだ。欲している風が明日なら明日の風を読まなければならないが本当にそれでいいのか?自分が求めるもののために必要な風は明日のそよ風か、一月後の颪か、一年後の嵐なのか。その上で今の風から求める風を読む。 簡単に言うなら待ち伏せで風下に伏せていても、いざ獲物が現れた時風向がかわりこちらが風上になっては意味がない。場所を選び、時を選べばそこで吹く風は読めるはずだ。それを見込んで風を読め。 そして風を待つのをためらうな。人間ならいざ知らず我々には時間は寛大なのだから。 あなたの主は誰ですか森人の常として主は宇宙樹だ。私たちはこの木の一部なのだから。しかし私たちは一部であると同時に独存の一本の木であり自分の主は自分だ。私は自分の心に従い、そして時に応じて柔らかにあり方を変える。ただ一つ変わらないのは宇宙樹を裏切らないと言うことだ。 日ごろ心がけていることはありますか流れと風の中で自分がどこにいるか、自分の目的から計ってどこにいるか。そして今からどう動けばいいか。その前ぶれに耳を澄ますことだ。あと、有情世間にあっては森人は長く考えすぎる。森はゆっくりと茂るが一たびの山津波で覆される。有情の行うことは山津波に似る。行く末を量り、悠々と急げ。 これだけは許せないと思うことはありますか宇宙樹一度倒れ、そして今また久遠の月日をかけて宇宙に聳えようとしている。この樹は繍羅にあってなお独存しこれからもあり続ける、太い縦糸だ。この偉大なるものの存在を危うくするものなどほとんどないが、ひこばえの今は一掃されてもおかしくない。私は宇宙樹とその世界。そしてその一部たる私たちを侵すものを許さない。 2004/02/26(創生日記)Aquillaの『大道祠宿直』先達トラベラー・マイヤンツに問う
この世界はどのようにしてできたのですかはじめは「うつろ」だったそうだ。そこに『かなたから歩みきたるもの』が足を踏み入れこなたへと歩み去った。歩みの後には足跡が残る。足跡が残るということはそこに踏みしめる『地面』があるということだ。ああ、いやあんたのや俺の足下にある大地とは意味が違うし、『地皇』の領土のことでもない。足の下にあって踏ん張れるもののことだ。『かなたから歩むもの』がそう呼ばれる以上そこには踏みしめられる『地面』があったってことだろう。何かおかしいか?ただ、そのとき踏みしめた『地面』はまだぬかるんでいて、あることとないこと、これまでとこれから、澄んだものと濁ったものが入り混じってもやもやとしていたんだが、『かなたから歩みきたるもの』が歩いてゆくうちに踏み固められて、それぞれが分けられた。つまり、『かなたから歩みきたるもの』が歩を進めるうちに、あること、これまで、濁ったものが踏みしめられて『足跡を残せるもの』になった。そしてないこと、これから、澄んだものが立ち昇って『足跡を残せないもの』になった。つまり『足跡を残せるもの』が『地』で『足跡を残せないもの』が『空』だ。 空と地が分かれてからは様々なものが生まれ、地と空の間を歩いたが『遠き天よりいたる』ものがやってきてそれらを統べた。それらのものたちの王たる『天王』は一柱の天人を呼び出し言った。 「この大地を切り裂き、大洋を行く船のごとく、大空を行く鳥のごとく、心持つものも持たぬものも全て往来させよ。我らはその働きを『大道』と名づけ、汝が魂魄をもちてその名を縛らん」 そしてこの天人は『すべての道の交差路』に埋められ、『大道』となった。 世界は天人達によって治められ形が与えられたが、天人がこの世界に赴くときには常に『大道』が道を開いた。この世界の道はほとんどが『大道』の息子であるか、他の存在が『大道』を模したものだってことだ。 私はどこから来たのですか、そしてなぜ死ぬのですか人ってのはそもそも、旅を続けるものなんだよ。生の前にも死の後もそれは旅をおこなっている。輪廻転生はその旅の別の名前だ。姿形、心が変わっても旅を続けるお前は変わらない。いいか、今、生まれてこの世にある姿は我々の永い旅の中のひとつの諸相に過ぎない。生と死を深刻に区切ることは過ちのもとになる。それはな大道の上に自ら境を作りこっちからあっちへはいけないと決めるようなものだ。大道はどこへでも行く。その上でどこからきたかは俺は知らん。天山の行者は人の前世を見ることができるという、けれど前世を遡りきった行者はまだいないそうだ。 この世では、自分がどこから来たかお前はわかってるはずだ。お前のこの世での旅は母胎から生まれ出たときにはじまる。すなわち、“この世での生”っていうサンダルを履いたわけだ。その瞬間からお前の旅は始まり。サンダルのかかとはすり減り始める。 その昔、『鉄のかかとのキンタル』はアダマンタイトのサンダルを履き、大陸の東西の道を開いて歩いたが、それでも七足のサンダルを履きつぶした。つまりだ、すり減らぬサンダルはなく、生という名のサンダルも同じだ。“この世での生”という名のサンダルがすり減ると、人の足は衰え、拍子を取るためでなくすがるために杖に頼るようになり、最後には一歩も歩みを踏み出せなくなる。新しいサンダルに履き替えなければならないとき、それが死だ。 もっとも、望まぬ形で不意に訪れる死もある。我らは今生でのサンダルを履きつぶすことを良しとして、そのためにサンダルを繕う方法、つまり癒しの技を持つ。だがそれでもかなわなかったならば、それはつまり旅人が次の生のサンダルに履き替えたということだ。だから、別れを惜しんでも死ぬことを悲しむな、恐れるな。不必要なまでに恐れるな。 死んで後にはなにが起こるのでしょうかすべての旅人はその生を旅の中に置くことを望み、最後まで自分の足で歩み、そして未だ知らぬ土地を見ることを望む。仮に息が絶える前に足が萎えても、お前が良き旅人であったなら、ともに旅を行うともがらがいるハズだ。そのともがらは肩を貸し、車を引き、お前を地平線の向こう側へ連れて行くだろう。そして、サンダルを履き替え終えたなら、お前の魂は新たな旅へと向かい、魄はその地に残って大道のふところに帰り、大道を護る道祖霊となる。肉体は焼かれてその灰と骨はレンガに練り込まれ大道を舗装する。 新たな旅へ向かった魂は新たなサンダルを履き、我々には知り得ぬ生を歩むだろう。 死んだ後にも何も変わったことなどおこらない。ただ、旅を続けるだけだ。恐れることはない、歩き疲れたら休むがいい。たとえ一つの生を休むことに当ててもそれはやはり旅の一部なのだから。 私は何のために存在しているのでしょうかここに、オアシスがあり美味なる果実と風通しの良い日陰があるとする。ただ生きるためならこのオアシスで生きてゆける。そしてそれは一つの生き方だ。しかし、そのオアシスからは砂丘の向こうに山々が連なっているのが見える。ここで生きて行く限り、そしてそれに甘んじる限り我々は山々の向こうに何があるかを知ることはできない。で、ヒトって奴はその砂丘の向こうに何があるのか、地平線を越えた向こうに何があるのかそれを求めずに入られない意志を持っている。それは、火が燃え上がるように、水が下に向かって流れるような性質だ。もちろん程度の差はある。音をたてるかがり火があり、静かな炭火がある。水がめに汲まれた水もあるし、カナートを流れる水もある。ヒトもそうだ。そして、大道の道を選んだものというのは、山の向こうを、川の向こう岸を、森を抜けた先を確かめたいと思う者のことだ。大道の道は出家の道だ。一つところに居座れずに、目が届く風景のその向こうを見てみたい、踏みしめたい。その思いに駆られたものがこの道を選ぶ。全てのものが開拓者(パスファインダー)になれるわけでなく、そればかりが大道の道ではないけれど、より遠くへ行くための大道の働きを行なうためにお前は今ここにいる。 神秘の業、不思議の業はいかにして行われるのですか大道は「全ての道への交差路」に埋められた天人にその力の源を発している。しかし、その後大道に従い仕えるものたちは旅行くその一歩一歩を大道に捧げた。その一歩一歩に込められた信念や想いこそが今、大道の神秘の技の源になっている。だから神秘の技を用いる時は先達の歩みに感謝しなきゃならんし、そして自らもまたその歩みを大道に捧げるんだ。不思議の技については私は限られたことしか知らない。真の名前を呼ばう術、真の言葉の残影で影を生み出す術、四大の理に従いそれを操る術、数珠と算木と象形と数文の間に理を見出し操る術、草木金石禽獣蟲魚に秘められた力を引き出し綾なし練り上げる術、天文地象人相を持って能く知り、能く避け、能く使う術などなどが聞いたことのある術だ。ただ気をつけろ。道歩む功徳を積まずして「渡り」を行なうやからは時として大道をないがしろにすることがある。そんなやからに出くわしたなら、思い違いを正してやることだな。 私の問いに答えるあなたは何者なのですか?「旅人」、そして今は「Aquillaの宿直(とのい)」モウツ・マイヤンツ。Aquillaで「先達」を勤めている。とはいえ、ちょっとばかしここに長く居座りすぎたな。ここしばらく大き目の道歩む功徳を積んでいない。知っての通り大道は神殿といってもよそのように仰々しいことはせんのだから、この宿坊にとどまる必要なんぞないんだが、せんかたない縁があってな。早く譲って旅立ちたいものだよ。 あなたはAquillaのことをどう思いますか?今となっては数少ない『大道の辻』だ。むかし、天人がまだこの世にいたころには大道とその眷属は網の目のように大地の上にあり、星のように『辻の街』があったという。そして北天の極星さながらに天山の都に『幾千の交差路』があった。だがそれらの多くは四方王の戦で失われ、残った辻は数少ない。Aquillaの南門は砂漠に開き、そこを通るのは砂風ばかり。閉ざしてしまえという声もあったが、先達がそれを止めた。一つでも門が閉まれば『大道の辻』でなくなってしまう。その甲斐あって、今では「太守の苑」に歩み行く奴らも増えた。大道の功徳はいや増すばかりだ。 Aquillaが交易で潤っているのはもちろんこの辻のおかげ。まぁ、大道はその上を歩むものにとんちゃくしないので街の住人とのごたごたはしょっちゅうあるけどな。 あなたはなぜこの街に来たのですか私はリュイヴィシアの交易商人の一番目の息子で、下に弟が二人、妹が一人いる。父の荷車は末弟が継ぐのが習わしなので、弟の背が荷車の車輪の丈を越えた月に一家を代表して大道に仕えることにした。父は「大陸」の西、パラエッシュのまわりで仕事をしていてので、「大陸」の西で私は充分に道歩む功徳を積んだ。従って出家してからは東へ東へと向かううちにここにたどり着いた。で、市場のそばの宿坊に入るとそこには旅装を整え、満面の笑みを浮かべた前の先達がいたよ。何でも大道にお伺いを立てて、いつ新しく道歩む功徳を積めるようになるか聞いていたらしい。そしてちょうどその日が彼にとって満願成就の日となったわけだ。ここに長くとどまるつもりはなかったが、旅人を助けるのも功徳の一つ。そう思って腹を括ったらいつの間にか十七年ばかりたってしまっていた。まあ、その間もちょくちょくと出かけてはいるのだがな。 あなたの仕事は何ですかこの街に来る旅人達の差配、Aquillaからだいたい歩いて二週間ほど(約330マイル)の間の大道の整備と補修、布施の管理と運用、そして道行く者達の冠婚葬祭。これでは体がいくらあっても足りんので名代に任すことはあるが、遠方へ行く必要があるというのであれば喜んで行くぞ。あと、大道は確かに「何者も往来させる」が、そのことが滅びの元となってはかなわんから、そうした厄介ごとへの対応もある。あなたはなぜこの仕事をしているのですか口幅ったいようだが、私は多くの道を歩き功徳を積んで力もある。そしてまだAquillaには後を任せるに足る旅人が来ないんだ。私は文字通り駆け出しの頃、多くの先達に助けられ、教えられた。すれ違っていった恩人に恩を返すことはできないが、後進の者に私が受けた恩を受け渡すことはできる。それだけだ。正直、ちょうどいい人間が現れたならすぐさま仕事を譲って東門から出て行くよ。 その仕事で大事なことは何ですか大道の流れを絶やさぬことだ。大道の力は文字通り道歩む者の功徳によるものであるし、何より大道はその上を何者が通ることもよしとしている。たとえそれが戦の兵であろうと、街の者に認められぬ輩であってもだ。我々は道によって立ち道に生きる。大道の上にある限り我らに上なるものは大道のみ。これは古き天人の残した『大道の御免言』であり、天人去った後のいかなる王も竜もこれを違える権利を持たぬ。もちろんこれを保って行くのは我らの義務だろう。そして、長い間に渡って大道を維持して行くにはこれらのことを道のそばで棟上げして住む者達とすりあわせて行く必要もある。 たとえば、病の一団がAquillaを通り抜けようとする。「頬髭の」カセツァートやアガーツィアの信徒は門を閉じ、病の侵入を防ごうとするだろう。もちろん、彼らの役目、Aquillaを護ろうとすることにおいてそれは正しい。しかし、大道としては正しくないあり方だ。いかなるものも通すのが大道の役目だからだ。たとえばその病が触れることで広がるのであれば我々は病の一団を護送し、Aquillaに病の影響が及ばないようにして通すべきだ。Aquillaなくしては、この差し渡し一ヶ月の行程に及ぶ大道を整備できないからな。そして我々はこのことを「頬髭の」カセツァートやアガーツィアの信徒に話し、応じさせる必要がある。 こうした調整が大道を行く上で大事なことだ。 あなたの主は誰ですか大道といってしまうと語弊がある。確かに我々は大道を整備し道行く者に奉仕する。しかし、それは何のためかといえば結局は我らが能く道を行くためのことだからだ。そして行く道は我々が決め、大道は行き先を何も示してくれない。我の主は我だ。そして大道を行く者が皆そうであれるように、我々は大道に奉仕するのだ。日ごろ心がけていることはありますか西には西の風が吹き、東には東の風が吹く。我ら大道の徒にとってみれば道行く者は皆、天の下に等しく上無しの身だ。位や身分、世評に惑わされるな。先にこうと決めてかかるな。 とはいえ、それなりの人物であるがゆえに位や身分がついてくるというのは、Aquillaにとどまる東と西の長に会えばわかることだ。 あとは、できるだけ自分の足で歩いて見聞することだ。半日歩けば乳とて酪となる。人は見たように伝えられない。だから行けるときは歩け。功徳にもなる。 これだけは許せないと思うことはありますか正当な理由なく道をふさぐもの。大道の往来に枷をはめようとすること、上無しの道の民をその意に反して土地に縛ること。そして我らの旅を阻むもの。道を歩くということじゃない。「生」という旅を阻もうとすることを許すわけには行かぬ。言ってわからぬようなら打ち、打ってわからぬようなら、とっとと来世の旅に失せてもらうとしよう。決して本意ではないけどな。 2003/03/11
四方王達はそれぞれ、ヒト(霊止)が抱く恐怖がその元となっているけれど、その度合い(マグニチュード)と知性体に対する態度(アスペクト)が異なっている。簡単にいうとヒトとの距離だ。 |