So Beatiful,The Lady Dying 美しきは亡き女 -妄- |
| 漆黒の闇の中。 規則正しい滴の音だけが静かに時を刻む。 「本当に……」 切り出した声は壮年の男のもの。まるで喉を痛めているかのようにしわがれた声。ごくりと唾を飲み込む。 「本当に……効果があるのか?」 それには少しだけ焦燥の響きが混じっていた。間。 押し殺した笑い声。別の男か。 声は喉の奥でクックッと笑い続ける。 「何がおかしい?」 「すまぬ」 最初の男の声に、笑い声の主は即答した。 「言ったはずだ、案ずるなと……。お主はこの私を支配する力を持っておる。なのに何を恐れるというのだ」 「……」 沈黙。それは多くの言葉を含み、またそれを否定するもの。 「行け。そしてそれを試すがよい」 滴が二滴落ちた。 「……分かった。そうしよう」 充分すぎるとも言える間を置いてから、足音はゆっくりと遠ざかっていった。 それが、残された者の押さえた忍び笑いに重なっていく。 「滑稽なものよ……」 また滴が二滴。落ちる。 「これだからやめられぬ。人間をたばかるのはな……」 *** それは雲一つない夜の出来事だった。 天空の支配者はひとり、自分の足元に広がるロンドンの街並みを見下ろしていた。 輝々と照るその姿はまるで鎌のよう。回りの星たちも、まるで彼女を恐れるようにおさえた輝きをはなっていた。 彼女の名は月。夜の女王にして、このロンドンの妖どもを総べる者。 道を行き交う馬車の音と、どこかから聞こえる狼の遠吠え。それが彼女の舞台衣装。 姿を細く変え、名をも三日月と変えたその鎌の先は、ある貴族の館の……窓を指し示していた。 その部屋の中から漏れているのは消えいりそうなランプの光。が、漏れているのはそれだけではない。 ──女のすすり泣くような声。 そこは二階の窓。絹の豪華なカーテンが揺れている。そう──ここは貴族の館。そして窓は館の主人の寝室のものであった。 黒いスーツの男の手が伸びてきて、カーテンをきちんと締める。部屋の中。その手の持ち主は赤毛の中年の男。よく整った顔を引き締めて、部屋の中を見回すが、その目にはなんの表情も浮かんではいない。 ベットには男が一人、横たわっていた。 その傍らでうつむいて立っている中年婦人はおそらく妻なのだろう。対して、反対側に立つ聴心器を手にした男は明らかに医者だ。だから、ベットの男はおのずから病人ということになる。 目を細める窓際の男。無意識にか、自分のネクタイに手をかける。その痩せ気味の身体を包んでいるのは最先端のスーツ。彼は見映えのする典型的な英国紳士の容姿をしていた。だが、病人の姿はそれとは対象的だ。 赤毛の男は窓際から離れ、医者と共に病人の顔を覗き込み、眉間に皴を寄せてしまう。 それも当然だった。横たわる男の顔はどす黒く変色して、水を吸い過ぎたように膨れ上がっていたのだ。人相の判別もほとんどつかないほどにだ。辛うじて四十代くらいの男だということが分かる。 ただ、彼は生きていた。苦しそうにはあはあと息をつき……盛り上がった肉の間から目を天井に向けて。 脇にいる婦人が顔を両手で覆って、また鳴咽の声を漏らした。赤毛の男が顔を上げ、その婦人の元に行き、彼女を励ますように肩に手を置いた。 うなづく婦人。ハンカチを出して、それで目の涙をぬぐう。 医者がおずおずと顔を上げた。上目づかいにちらりと婦人を見て、さっとまた目をそらす。病人の胸から聴心器を取って着衣の乱れを直してから、また顔を上げると婦人と赤毛の男と目が合った。 途端に目をしばたたかせる医者。言いにくいことを言う準備をするように息を吸い込み、何かぼそぼそと言った。それで相手方が何か言う前に、二人に深く頭を下げてみせる。 沈黙。 医者はテーブルの上の鞄を持ってもう一度頭を下げると、そのまま部屋を出ていった。 部屋の中に残されたのは重々しい空気。婦人はわっと泣き出した。すると、赤毛の男は無駄のない身のこなしで彼女を慰めるように抱き締めてやった。 「ロナルド、わたくしのトーマスはどうなってしまうのでしょう……」 「ロンドンには医師はたくさんいる。また他のをあたろう」 ロナルドと呼ばれた赤毛の男は彼女の背を優しく撫でながら答える。 「ええ……」 ハンカチで目のふちをそっと押さえる婦人。 「奥様、奥様?」 と、ドアがノックされた。続いて部屋に執事らしき初老の男が入ってくる。 執事は婦人のそばに行き、何事か小声で囁いた。婦人は何かを思い出したようにハッと顔を上げる。 「そ、そうだわ。……通してちょうだい」 「──誰かが見えたのかい?」 ロナルドが問いかけた。 「え、ええ。わたくしのお友達なんですの」 婦人は涙を拭きながら、「若いお嬢さんなのだけどとてもいろいろなことにお詳しいの。だからわたくしトーマスの病気のことを話したんですの。そうしたらそういったことに詳しいご友人を連れてきてくださるって……」 その彼女の言葉が終わらないうちに、またドアがノックされた。婦人は天を仰いで主の御名をつぶやいてから、どうぞと言った。 執事にうながされ、部屋に足を踏み入れてきたのは二人の人物だった。 一人は女。一人は男。どちらも若い。 女の方は濃い青のシンプルなドレスに身を包んでいた。黒い艶やかな髪を少しだけ結い上げて、かすみ草のコサージュのついた小さな帽子で止めている。黒く細い瞳。涼しげなアイルランド系の美人だ。 だが、男の方はうって変わって、パッとしないごく普通の青年だった。一目見て中産階級の人間と分かるような地味な黒のスーツ。栗色の髪は短めにしてあるが、クセ毛なのか手入れが悪いのか、ところどころ踊ったようにハネていた。そしてそれを補うかのようにきちんとした印象を与えるのが鼻にかけた小さな銀縁の丸眼鏡だ。硝子の向こうから人の良さそうな鳶色の目をのぞかせる。 若い女の方がロナルドに視線を移し、優雅に挨拶をした。名前を名乗って手を差し出す。 それでロナルドは彼女の手を取り その甲に口付けをほどこした。 「私がロナルド=ハーモンです。……このトーマスの弟です」 と、視線を傍らの青年に移し、「ええと?」 「申し遅れました。僕は、チャールズ=サイフィールドと申します」 にっこりと微笑んで見せる青年。 「普段は精神治療医をしています」 婦人が首をかしげた。 「──ああ、すみません」 青年は変わらぬ笑みのまま、「精神治療医というのは、いわゆる癲狂者を治療している医者のことなんですよ」 それを聞いた途端、ロナルドと傍らの婦人の顔付きが露骨に変わった。彼等は顔を見合わせる。 偏見に満ちた彼ら二人は“アタマのおかしい者を相手にする医者”が何故自分たちのところにくるのかと思ったのだ。 「誤解なさらないでください」 何か問われる前に、サイフィールドと名乗った青年は滑らかな口調で続けた。 「僕がここにお邪魔したことと、僕の普段の生業は関係ありません。──お恥ずかしながら、僕には微々たる魔術の知識がありましてね、今日は、それを何かのお役に立てられないだろうかと思ってこうして馳せ参じたのです」 「魔術だと?」 さらに男の顔がこわばった。 「ああ、おっしゃられたいことはよく分かりますよ、ロナルド卿」 青年は手を上げ、ロナルドを制するように言った。 「魔術など信用できるかとおっしゃりたいんでしょう? ──ごもっともです」 ちらりと病人の方を見る。 「──それに、事態は急を要しているようですから、貴方もここで魔術の信憑性について僕と議論するお時間もないでしょうね……。貴方のお気に触るというなら、仕方がありません。僕はこのまま引き取らせていただきます。……お忙しいところを、大変失礼いたしました」 「待って下さいませ!」 婦人が慌てて声を上げ、サイフィールドとロナルドの間に割って入った。 そのまま彼女は貴婦人らしい慎ましさを忘れてしまったかのように、精神治療医の手を取って頭を下げた。 「夫を診て下さい。お願いしますわ。どんなことでもいいんです。夫が助かれば──」 ロナルドは不機嫌そうに息をついて、それから目をそらせた。青年は彼女を落ち着かせるようにゆっくりと丁寧にその手を離してからロナルドにどうしますかと目で尋ねた。 腕を組んで相変わらず不機嫌そうな顔をしたロナルドは、少し考えるような素振りを見せてから、仕方ないといった風にうなづいてみせた。 サイフィールドはホッとしたようにそれに軽く一礼してから、部外者のふりをして一言も喋ろうとしない連れの女にちらと目配せを送った。 それからベットのそばまで歩いていく。 「失礼します」 手でそっと病人の黒く腫れ上がった額に触れた。熱を調べているようだった。彼はしばらくそうしてから、眼鏡の縁に手をやり、そばにあった布で病人の汗を拭いてやってから顔を上げた。 それはものの数秒だった。 すぐに何か考え込むように首をひねりつつ他の者のそばに戻ってくる。 「何か分かったのかね?」 いらだちを隠そうともしないロナルド。 「いや……すみません」 彼は深々と頭を下げた。「おそらくどこかの風土病ではないかと思うのですが……」 途端に男が、ほら見たことかと言わんばかりに婦人を見やる。 顔をひきつらせる婦人。 「申し訳ありません」 サイフィールドがもう一度頭を下げると、婦人はまた泣き出した。その身体を男は抱いてやりつつ、青年に顎で出口を指し示した。 「ハーモン夫人。お力になれなくて申し訳ありませんわ」 いままで何もせず静かに立っていた若い女もそう言い、サイフィールドを伴って部屋を後にしようとした。 かの貴婦人の世界から来訪者はあっという間に追い出され、後には扉を開けて待っている執事の無表情な瞳があるだけだ。 が、青年医師はふと足を止め、振り返った。ロナルドが必死に婦人を慰めているのをもう一度見ながら、「あの──ぶしつけだとは思いますが、もしまた何かありましたらお声をお掛け下さい。僕の連絡先を書いた紙を置いていきますから」 と、彼は執事に一枚の紙を渡した。 「では失礼します」 彼ら二人はそうしてその寝室を後にした。 ロナルドのなだめるような声が小さくなる。が、婦人の泣く声は、執事に連れられて館を出るまでつきまとった。その陰鬱さと同時に。 外に出ると、頭上には弓のように優美な姿を見せる月があった。その姿はまるで艶めかしく身をくねらせる女性のよう。それを見上げて少し気を取り直し、サイフィールドは傍らの若い女……彼にとっての月の顔を見下ろし、にっこりと微笑みかけた。 「ありがとうございます。エリーゼ」 彼は彼女をエリーゼと呼んだ。 「ちょっと嫌な感じでしたけど、貴女のおかげで彼に会うことができましたよ。いやはや……ロナルド=ハーモン卿。なかなかのいい男じゃあないですか」 彼はトップハットを被りながら、「僕なんかじゃあ全く歯が立ちませんよ。あれこそダンディーですよね」 女、エリーゼは答えなかった。その黒い瞳でサイフィールドの顔を見上げる。無表情。 「本当に何も分からなかったの?」 簡素な問いかけ。サイフィールドはひょいと肩をすくめてみせてから歩き出す。 「まあ人間、顔じゃないですからね」 エリーゼが何か言う前に、「分かってますよ。あのロナルド卿の兄上のことでしょう? ……あれは、ある種の毒を盛られたんですよ」 「毒?」 「ええ。しかも魔術的なものです」 サイフィールドは喉の奥でおかしそうにククと笑ってみせる。 「エリーゼ、貴女ほど賢明な方なら自業自得という言葉をご存じでしょう? あのご病人の後ろには、一人じゃ持ち切れないくらいの怨恨が見えましたよ。僕なら時間を掛ければなんとかしてやれそうでしたけど、そんな義理はどこにも落ちていませんしね」 「ねえ、チャールズ」 エリーゼも彼をファーストネームで呼んだ。「わたしには貴方が何をしてるのか分からないわ。貴方に頼まれてハーモン邸には行ったけれど、貴方はロナルド=ハーモン卿に会いたかったの? それともあの奇病の患者を見たかったの? どっちなの?」 「ああ、両方ですよ」 彼はまたにっこりと微笑んでみせた。 「貴女が不思議がるのも当然ですよ」 彼女をうながし、「話は少し複雑でして。発端は僕の精神診療所に、あのダンディーことロナルド卿の奥方が悩みのご相談に現れたことなんですよ」 「それで? それがあの顔が膨れ上がる奇病となんの関係があるの?」 「さあ、その辺は……まだ、ね」 サイフィールドはそうやって、ぼかすように答え、少し急かすように続けた。 「でも、とにかく行きませんか? 貴女にロナルド卿に会わせていただいたお礼をしたいんですよ。話ならその後にでもゆっくりと……」 エリーゼは彼の顔を見、初めてわずかな笑みを浮かべた。そしてゆっくりうなづく。 サイフィールドはさりげなく彼女に肘を差し出した。すると彼女も心得て、細い腕を掛けてくる。 そのまま彼はわざと人がいない路地の方へと彼女を連れて歩いていった。しばらくして二人はほどよい袋小路につきあたった。近くには誰もいない。当然、浮浪者さえも。 「さて」 彼は帽子を取り、近くの放置された木箱の上に置いた。それからエリーゼに向かってにっこり微笑んで手を広げて見せる。対する彼女も微笑みながらその彼の胸に身体をあずけてきた。彼は手を彼女の背中に回し、その細い身体を柔らかく抱き締める。 それからサイフィールドはエリーゼの顎にそっと手をやり、顔を上に向かせた。 「駄目」 が、すぐに彼女がその手を外す。 「わたしが先」 言いながら彼女はサイフィールドのマントの襟を外して、中のボウタイも外しにかかった。彼は微笑んだままで何も抵抗しない。 「でも……分からないわ」 ボウタイを外し終わり、今度は彼のブラウスのボタンにとりかかる。 「貴方にも上流階級の知り合いは沢山いるんでしょう? ロナルド卿に会うことなんて簡単にできたはずよ。──ねえ、どうしてわざわざわたしに頼んだりしたの?」 彼女は彼のブラウスの襟をはだけて、いとおしそうにその首筋に手を這わせた。 「いじわるな人ですね。貴女は」 サイフィールドは彼女の顔を見下ろし、「……それを僕の口から言わせようっていうんですか?」 二人は見つめ合って、同時にくすりと微笑む。 それから彼女は爪先を立てて、サイフィールドの首筋に顔を埋めた。そのまま口から、人間のものとは思えない尖った犬歯をちらりと見せたかと思うと、彼女は彼の頚動脈のあたりに噛みついた。ちくっという痛み。その白い喉を震わせ、彼女は流れ出す血をこくりこくりと飲んで喉を潤していく。 が、サイフィールドはまったくの平静を保ち、そんな彼女の背中を優しく撫でていた。 しばらくして、エリーゼはサイフィールドの首から口を離した。こぼれ出る血を舌で舐めてから、ゆっくりと元の態勢に戻っていく。 今吸った血のせいか、元々なのか、見下ろす彼女の唇は血のように赤い色をしていた。 サイフィールドはそれに自分の唇を重ね合わせようとした。だが、エリーゼはすっと身を引いてそれから逃れてしまう。 悪戯をするような目つきをして。 「駄目よ。……また、今度ね」 「貴女はいつもそれだ」 少しふてくされたような口調。サイフィールドはじっとエリーゼの黒い瞳を見つめて……仕方ないといった風に肩をすくめる。 「分かりました。じゃあ、また貴女に依頼することにしましょう。それでいいですよね?」 「いいわ」 自分の首筋に触れながらうなづくエリーゼ。 「報酬はきちんと払いますよ」 彼は首筋の……彼女の噛み跡を見せながら、「こういう形でよろしければね」 「お金でもらう方がいいわ」 「エリーゼ」 「冗談よ」 エリーゼはおかしそうにくすくす笑う。 「可愛いのね、チャールズ」 「からかわないでください」 少しムッとして言い返すサイフィールド。 「とにかく」 息を整え、「こんなところにいるのもなんですから僕の診療所に行きませんか。詳しい話はそこでしますから」 「本当に?」 「何がです?」 「女を家に連れ込む気なら、もう少し気の利いた科白を言ったら?」 「エリーゼ」 サイフィールドは抗議するような声を上げかけて、ばつが悪そうな顔をした。 「まいったな、そんなこと言われちゃあ。……まるで僕は信用されてないみたいだ」 「違うの?」 「もうかれこれ、何十年もの付き合いになるじゃないですか。少しは信用してくださいよ」 「……急いでいるのね」 エリーゼはふと真顔になった。その黒い瞳を細める。 「あそこに何か仕掛けてきたの?」 「なんだ。分かってるじゃないですか」 ホッとしたようにサイフィールド。 襟のボタンをとめ、着衣の乱れを直してから、また帽子をかぶり直す。 「まあ、そういうことです。さっきあそこに僕が本当は玄人だってことを示す印を置いてきたんですよ。見れば分かるはずです。……彼が、僕と同じオカルティストならね」 「へえ」 薄く笑うエリーゼ。「それは面白そうね」 サイフィールドはそれには笑顔で答え、なんとはなしに夜空を見上げた。そこにたたずむ三日月が、今度はまるで舞台を照らす照明のように彼には思えた。 舞台にはすでに役者が揃いつつあった。 顔を戻し、エリーゼの腕を取る。 「遅すぎるなんて言われるかもしれませんけど、午後の紅茶でもごちそうしますよ」 肩をすくめるエリーゼ。サイフィールドは、そのまま彼女を連れて歩き出した。 そして彼女に事の顛末を話し始めた。 *** それは三日前の昼過ぎのことだった。 サイフィールドは、ぱちりと目を開けた。夢の世界からの帰還。頭がぼんやりする。 彼は分厚い本から顔を上げ、指で目の縁に触れた。なんてことはない。読書中に居眠りをしてしまったのだ。 眠気を冷ますように頭を軽く振ってみる。鼻の上の方を軽くつまんでほぐす。それから彼は椅子を引いて立ち上がった。本を閉じて……振り返る。 そこは彼の書斎だった。ぎっしり本の詰まった本棚と、椅子の上に無造作に積まれた沢山の本が目に入る。 椅子の背に手を着いて、サイフィールドは溜め息を一つ着く。居眠りをしてしまうくらいだ。読書は全然はかどっていなかった。 困ったように、クセのある栗色の短い髪をクシャクシャやってから、彼はこのまま読書を続けようか、それとも下の部屋に行って気晴らしをしようかと考え始めた。しばらくして後者に決めた彼は、この部屋のドアの方へ歩き出した。 と、彼の目の前でドアノブが静かに回り始めた。ドアが静かに開いていき、半開きのドアの向こうから女性の足が覗く。誰かがこっそり入ってこようとしているのだ。 サイフィールドの瞳に足を忍ばせて敷居をまたごうとする中年婦人の姿が映る。 「オリヴァーさん」 彼は腰に手を当て、「何してるんですか?」 「きゃあっ」 婦人は、サイフィールドの声に驚いて身を震わせた。両手で持った盆が揺れて、ティーセットが心地好い音をたてる。 彼女は相手の姿を認めるや否や、ばつが悪そうにその丸顔をしかめてみせた。 「驚かしてあげようと思ったのに……逆に驚かされちゃいましたわね」 サイフィールドは小さな溜め息を。 「あのねオリヴァーさん。勝手に僕の診療所に入っちゃ駄目だって、いつも言ってるでしょう」 ただ気のせいかその声には腹を立てているというような響きは感じられない。 「あら、だって先生。呼び鈴は鳴らしましたわよ。先生ったら気付かないんですもの」 オリヴァー夫人と呼ばれた中年婦人は、手作りの白のエプロンを揺らしながらにっこりしてみせる。 「さ、とにかくお茶の時間にしましょうね」 そのまま、彼女はサイフィールドの脇をすりぬけ、机の前まで盆を運んでいく。 「先生はいつもお勉強ばっかりで、かえってお身体に毒ですわよ」 「余計なお世話ですよ」 言いながら、サイフィールドも机のところに行って自分の本やメモを脇に押しやって、夫人が盆を置けるようにしてやる。 「今日はいつになく霧がひどいでしょう。だから、診療所はお休みにしたんですよ。……呼び鈴はしまっておいたはずですが?」 オリヴァー夫人は手を止めて、ちらりと脇の青年を見上げた。 「あら」 目をぱちくりさせてみる。「先生、眼鏡をどうなされましたの?」 「話をそらさないで下さい」 オリヴァー夫人は上目遣いにサイフィールドを見る。少しだけ気まずい沈黙。 「まったく」 彼は肩をすくめて近くの椅子に腰掛けた。 「あんまりやると、怒りますよ」 「……ごめんなさい」 オリヴァー夫人も近くの椅子に腰掛け、うなだれて肩を落とす。 「サセックスに住んでるわたしの姪がおいしいクッキーを送ってくれたものですから……。わたしは独り身だし先生にも味わってもらおうと思って。お昼なのに、こんなに霧がひどくなってしまって、先生もふさぎ込んでるんじゃないかと思って。ご迷惑でしたら、わたし、あの……もう……」 「ああ、いいんです、いいんです。そういうことなら」 夫人がしょんぼりとしてしまったので、サイフィールドは半ば慌てて言った。 「ただね、ウチの診療所はただの病院じゃないですからね。中には一般の人が触れると危険なものがたくさんあるんですよ。だから、ねぇ……」 「まあ、気を付けますわ」 夫人は顔を上げ、また元のような笑顔を浮かべる。とりあえず怒られないですんで良かったと言わんばかりの表情。 そのまま、何かを思い出したようにポケットをさぐり、小さな縁無しの丸眼鏡を取り出す。エプロンの裾で磨いてから、サイフィールドに手渡す。 「はい。眼鏡」 「あ、どうも」 サイフィールドがそれを掛けている間に、オリヴァー夫人は二人分のカップに紅茶を注いでおく。丁寧にカップとソーサーをサイフィールドの前に置いた。 「はい、ミルクも」 ミルクの小さな瓶も彼の前に置き、夫人も近くの椅子に腰掛ける。 「いつもすみませんね」 「いえいえ、好きでやってますから」 本に包まれた静かな空間での午後の紅茶。二人はカップを手にして、にっこりと微笑む。 チリリリ……。 「あら」 「おや」 その時二人の耳に小さな鈴の音が届いた。続けて二、三度。 途端にオリヴァー夫人は相手の顔を見た。少し非難の色を浮かべた瞳で。 「……呼び鈴の音ですわね」 「そうですね」 「さっき先生、呼び鈴は片付けたって……」 「嘘ですよ」 「まあっ、ひどい」 「騙されたのは貴女でしょ?」 悪戯っぽい瞳を夫人に向けつつ、サイフィールドは立ち上がった。 「とにかく行ってきます」 彼はそう言って、ちらりとティーカップの方に目をやった。まだ一口も口をつけていない。 「すみませんね、また後で……」 「そんなこと言ったって冷めちゃいますわ。それよりも……」 夫人は立ち上がって、サイフィールドのブラウスの襟をきちんと直してやった。 「はい。これでいいですわ」 「……どうも」 にっこり笑うオリヴァー夫人から半ば慌てたように目をそらせて、サイフィールドは足早に本の山の間をすり抜けた。ドアのノブに手を掛け、手前に引く。 「また明日も来ますわね」 サイフィールドは返事代わりに、後ろに軽く手を上げてから、ドアを締めた。 玄関に現れた患者を機械的に診療室に通してから、サイフィールドはゆっくり扉を閉めた。 診察室は患者を刺激しないように簡素な造りとなっている。四角いテーブルをはさんで長椅子とソファが向かい合うように置いてあり、白い壁にあるのは何の変哲もない風景画が一枚だけ。さらに、窓が一つもないのが閉鎖的な雰囲気をかもしだしている。 その長椅子の方に、患者を──ベールをつけた女性を座らせた。 「どうも初めまして」 立ったまま腰をかがめる。 「僕がチャールズ=サイフィールドです」 そう言って彼は会釈をした。婦人もわずかに頭を下げて見せる。 「……あ、少々お待ちください。今、お茶を入れて来ますから」 と、サイフィールドは少しだけ席を外して彼女のための茶を入れてきた。ティーカップは一つ。それを勧めながら彼はソファの方に腰掛けた。 しかし婦人は緊張しきっているようで、身を堅くしたまま身動ぎ一つしていないかのようだった。もちろん紅茶に手をつけるような気配もない。 沈黙。サイフィールドはゆったりと指を組んでから、柔らかな口調で言った。 「あの、窓が一つもないのはお分かりでしょう? 秘密厳守のためなんですよ。ですから楽になさって下さい。ベールを取っても大丈夫ですよ」 少しだけ身動ぎする婦人。 「ああ、あと僕も最近物忘れがひどくてね、ここにいらっしゃった方の顔をすぐ忘れてしまうんですよ。……全く困ったことです」 にこりと微笑んで見せる。 それを聞いて、彼女も思わずベールの奥で笑みを浮かべてしまったようだった。おずおずとした動作で静かにベールを取っていく。 サイフィールドはそんな彼女を改めて観察した。 ドレスの具合やその仕草から言って、彼女の身分が高いことは間違いなかった。おそらくどこかの貴族の奥方といったところだろう。 彼女がその素顔を見せる。 さらに、もう一つ言えるのは、そのベールの下に隠されていたものが、何よりも彼女の一番の財産であろうということであった。 しばらくして彼女が恥ずかしそうに俯いたのでサイフィールドはハッと我れに返った。「すみません。貴女があまりにもお綺麗なので見とれてしまいました。」 月並みな科白ではあったが、この場にこれほど似合う科白もなかっただろう。 きちんとまとめた亜麻色の髪。透けるように白い肌。彼女はまるで、あの名立たるドラクロワの描く天国から抜け出てきた女神のようだった。非の打ちどころがないというのはこういう美のことを言うのだろう。彼の目の前にいるのは、そんな女性だった。 「まぁ、とりあえず。」 と、彼は元の口調に戻り、「お茶でもお飲みになってください。」 彼女に再度紅茶を飲むように勧める。 「僕は昔インドで軍医をしていたことがありましてね。それは、その時現地の医師に分けていただいた紅茶なんですよ。飲むと気分が落ち着くそうなんです」 それで婦人はおずおずとそのティーカップに手を伸ばしそれを一口だけ飲んだ。 またもや沈黙。だがサイフィールドはにこにこしながら彼女を見つめるだけだった。彼はそうしていると自分が本当に人の良さそうな人間に見えることをよく知っていたからだ。 「あの、わたし……」 婦人はとうとう思いたったように、青年医師の顔を見、口火を切った。 「夫のことで……来たんです」 サイフィールドは無言でうなづく。 「夫が、恐いんです」 「恐い?」 柔らかくおうむ返しに尋ねる。 「あの」 一瞬、口ごもり、「夫がわたしを……その、殺そうとしているような気がして」 「なるほど」 サイフィールドは相づちをうちながら、相手の顔を伺った。まるで類稀なる美貌の下を覗き込むように。あえて何も尋ねないのもコツの一つだ。 「証拠はないのです。だから、わたし最近疲れているだけだと思うんです。夜、外出着のまま寝ていたりして……。だから、食事に何か混ぜられているような気がしたりするんですわ」 急に婦人はまくしたてるように、「思い違いですわよね? わたしどうかしているんですわ。よりによってあの人に殺されるんじゃないかなんて思い込んだりして」 「なるほど」 もう一度相づちをうつ。彼は少しだけ考え込むような素振りも見せる。 「でも、お言葉ですが」 十分な間を取ってから、「貴女のようにお若くて美しい方がどうして命を狙われたりするんでしょうか?」 「それは……」 「それに貴女のおっしゃられていることが妄想にしろ事実にしろ、そういう考えが生まれるにはきっかけというものがあるものです。少し立ち入った質問をするようですが、最近旦那様との間で何かあったんじゃないですか?」 「ありません」 婦人は即答した。サイフィールドは彼女に鳶色の瞳を向ける。彼女の答えが嘘だというのはすぐに分かったが、何も言わなかった。ただ彼女の顔を見つめる。 「……あ……」 それで婦人は困ったように身動ぎした。 「あの、わたし」 少し震えた声。「夫が、新しく雇ったメイドの若い娘と──」 「結構です」 サイフィールドは気を使って彼女にその言葉を最後まで言わせなかった。 「分かりました。貴女の場合だと、精神的な治療をする前にやらなければならないことがありそうですね。どうしますか?」 「え?」 「いいですか、ご婦人」 言い聞かせるように、「貴女自身が妄想だと思っていることを心の奥深くに追いやってしまうのは簡単なんです。けどね、もしそれが本当だったしたら、貴女はどうするんです? ですから、問題を根本から解決するには、僕は貴女の夫のことを調べなくてはならないんです。……お分かりですね?」 言葉を止め、相手の顔を伺う。 「でも、そうすると貴女は僕に名前を明かさねばならなくなるわけです。どうしますか?」 「あ……」 婦人は手袋をした手を口にあてた。 「ああ、言いにくいのでしたら、こちらにお書きになってくださっても結構ですよ」 サイフィールドはその彼女の前にスッと卓上の紙とペンを差し出した。 婦人はそれをちらりと見て、「でも、……信用できますの?」 勇気を振り絞ったように言う。 肩をすくめてみせるサイフィールド。 「僕は精神治療医です。人の心を治療するにはこんな診療所に閉じこもっているだけでは無理なんです。そう──今時の精神治療医は足も使うんですよ」 にこりとするが、婦人は俯いてしまう。 「それに……これは一つの賭けですね」 それで、ぽつりと付け加えた。 「真実を知ることによって、貴女は失ったものを取り戻せるかもしれないし、全てを失ってしまうかもしれない……。もちろん最終的には、貴女が決めることなんですが」 何か言おうとした婦人は口ごもった。迷っているのだ。目を伏せ、落ち着かなげに視線を巡らせる。見事なまつげが小刻みに揺れていた。しばらく。 彼女は意を決したように顔を上げ、ペンを手にして──紙にさらさらと走らせた。そしてそれをサイフィールドの方にそっと押しやる。顔をそむけて。 彼女の顔を見たまま彼はそれを受け取って、眼鏡を直しつつ、紙面に目をやってから微笑んだ。 「分かりました。この僕は貴女の為に全力を尽くさせていただきますよ。……アルマさん」 婦人、アルマは彼から目をそらせたまま、うなづいた。 「そうですね……」 一息ついたように、ゆっくり立ち上がるサイフィールド。ポケットから懐中時計を出し、時間を見る。「また、ここにいらしていただけますか? 四日後くらいがいいですね」 そう言いながら、彼はアルマを見下ろしたまま、いきなり指をパチンと鳴らした。 弾かれたようにピンと背筋を伸ばすアルマ。 一瞬、目を見開いた彼女はそのまま意識を失って長椅子にしなだれかかった。サイフィールドはそれを静かに見つめ、時計をしまって動かなくなった彼女のそばに近づく。 「ちょっとだけ失礼しますよ」 言いながら彼女が眠っているのを確認するように、顔にかかっている髪を指で優しく跳ね退けた。そこには彫像のような寝顔がある。 彼は安心したような笑みを浮かべ、アルマの左手を取った。レースの手袋も外す。すると彼女のほっそりした指には薬指にだけ指輪がはまっていた。サイフィールドは迷わずそれを引き抜き、すぐに卓上の蝋燭の明かりに透かしてみる。 「ああ、やっぱりこれだ」 独り言をつぶやく。その数個のダイヤモンドのはまった指輪をひっくり返したり、眼鏡越しに目を近づけたりして、続いて彼はポケットから小さな針のような工具を取り出した。 それを宝石の間と間に差し入れていく。 「……乱雑な魔術ですねえ」 ふと手を止め、彼女の顔を見、「とりあえず配列を崩しておきますね。貴女にとって何らかの障害になっていたことは間違いないんですから」 まるで薬を処方してやるかのような口調。 工具で止め金のあたりを少しいじくってから、彼はその指輪をまたアルマの薬指にはめてやった。手袋も元通りにして、最後に彼女の細い肩を抱いて元のように座らせてやる。 それから自分は立ち上がって、また懐中時計を出して時間を見る。 「一口しか飲んでないから、五分ってところですかね」 その時計の秒針が十二時のところを通過したと同時にアルマはパチリと目を開けた。 「ぴったり」 小声でつぶやくサイフィールド。 「あ、わたし……?」 「どうかなさいました?」 彼は彼女を見、何事もなかったかのように尋ねた。 「いえ、あの。……?」 彼女はとまどったようにあたりを見回した。 「お分かりになりました?」 気にせず、また笑顔を彼女に向ける。 「四日後にまたここにいらして下さい。ですから今日はもうお帰りになって結構ですよ」 「わ、分かりましたわ」 彼女は美しい眉をいぶかしげに寄せていたがベールを手にして、おずおずとそれを身につけて立ち上がる。 それからサイフィールドにうながされるまま、ドアの方に歩いていこうとしたが、何かを思い出したように彼女は振り返った。 「そ、そうですわ、お代を……」 「ああ、いいんですよ」 サイフィールドはドアを開けながら言った。 「四日後にまとめていただきますよ」 「じゃあどれくらいお持ちしたらよろしいんですの?」 「そうですね。お気持ち次第で」 彼は眼鏡の縁に触れ、「貴女ならお金じゃなくても結構ですしね」 「まあ。お金以外のものって──」 「なあにたいしたものじゃありませんよ。……貴女にとってささいなものですよ。だからその時まで秘密にしておきましょう」 そう言って微笑むと、サイフィールドは彼女を外に連れ出し、外まで送っていった。 外に出た時、辺りの霧は相変わらず濃かった。霧の中、執事らしき男に連れられ馬車に乗り込む夫人の姿。 それを見届けてから、サイフィールドは扉を締め、考え深げな顔をしながら、診察室の方に戻っていった。 彼はそのままソファに身を沈めた。懐から紙巻き煙草を出し、マッチで火を付けてゆっくりと煙を薫らす。 するとドアがコンコンとノックされた。 「はい?」 サイフィールドは少しだけ姿勢を正す。 がちゃりとドアを開け、中を覗き込むのはオリヴァー夫人。 「患者さんはお帰りになりましたわよね?」 彼は見たとおりだと言わんばかりに手を広げてみせる。それで、夫人はそっと部屋に足を踏み入れてきた。片手に布の包みのようなものを抱えて。 「今の方……」 何となく後ろを振り返りつつ、「とってもお綺麗でしたわね」 と、彼女はハッとして青年の方に視線を返した。「あの、いけないと思ったんですのよ。でも、さっき廊下で、わたし横を通りかかって……あの方のお顔がベールのすき間から見えてしまったんですの」 少し眉を上げるサイフィールド。オリヴァー夫人はもじもじしながら彼の前の長椅子に腰掛ける。 「でも先生、彼女、どういった悩みを抱えてらっしゃったの? ……何だかとってもお辛そうでしたわ」 栗色の髪をかきあげ、ふいにサイフィールドは微笑んだ。 「貴女なら、どうだとお思いになられます?」 「まあ、わたしですか?」 言われて夫人は少し首をかしげた。 「そうですわねえ。彼女は愛する人のことで悩んでるんじゃありません?」 「愛する人──ですか?」 「ええ、そんな気がしたんです。それにあの方の感じからするとその相手はたぶん旦那さまだと思いますわ。でも、それには何かの障害があって……彼女はとても苦しんでる。例えば、旦那様に若い恋人がいて……とか」 「はは」 サイフィールドは声を立てて笑った。 「リヴィエール女史のロマンス小説の読み過ぎですよ」 「あら先生、それは関係ないですわ」 夫人はちょっとムキになるように、「これは女の勘ですわ。先生には分かっていただけないかもしれませんけど」 「じゃあ、オリヴァーさん」 青年医師は上目使いに夫人を見ながら言う。 「もし貴女の想像通り、彼女が旦那さんのことで悩んでいるとしたら、僕は彼女に一体何をしてやればいいと思います?」 「それはもちろん、彼女に自信をつけさせてあげればいいんですわ。あんなに綺麗な方を放っておく殿方なんているわけありませんもの」 「でも、もし、夫が本当に彼女を愛していなかったら?」 鋭く口を挟むサイフィールド。「彼女の気持ちが空回りしているだけだったら?」 「え……と」 オリヴァー夫人は言葉に詰まった様子。 「そ、それを彼女に教えてあげるべきじゃないかしら」 「教える?」 きょとんとして、「教えちゃうんですか?」 「だって愛されていないことほど不幸なことはないですもの。まだお若いみたいでしたしきちんと自分を愛してくれる殿方を捜すべきですわ」 「メチャクチャ言いますね。相変わらず」 サイフィールドは苦笑まじりに、「不義密通をしろっていうんですか?」 「えっ? そういうわけじゃないですけど……」 困ったようにもじもじする夫人。 「ほーら。だから、ロマンス小説の読み過ぎだって言ったんですよ」 肩をすぼめサイフィールド。 「もっとも、心配はいりませんよ。あのご婦人はただの不眠症でしたから」 それからぽつりと言う。 「旦那さんがいろいろ忙しくて神経がピリピリしていたんそうです」 「そうですの……」 「貴女もまだまだですね」 「ま」 彼がにこりとしてそう言うと、夫人は少しだけ口を尖らせた。片手に抱いた布包みをもう一方の手で撫でながら。 サイフィールドはふとそれが気になった。 「で、オリヴァーさん。何か僕に用があったんじゃあ?」 「あ、そうですわ」 オリヴァー夫人は思い出したように自分が手にしている布包みに目を落とした。立ち上がってサイフィールドにそれを差し出す。 布にくるまれていたのは白いオウムだった。灰色のくちばしに黄緑色のトサカ。それに身につけている赤い首輪も目に入る。 「この子がウチの庭で気絶してたんですの」 「またですか」 彼はやれやれといった具合に立ち上がって、夫人からその鳥を布ごと受け取る。 「一体どこの鳥なんですかね。仕方ない、またちゃんと手当しておきますよ」 「お願いしますわ」 オリヴァー夫人は心配そうにオウムの方を覗き込み、人差指でその頭を撫でた。 「しっかりするのよ、ぴいちゃん」 そう言って、彼女はもう一度お願いしますと言って部屋を出ていってしまった。 サイフィールドは布とオウムを長椅子の上に置いて、テーブルの上のティーカップを脇に退けた。静寂。それから懐から紙巻き煙草のケースを出し、ゆったりした動作でそれに火を付けて吸い始める。 「いつまで寝たふりをしているつもりですかロイエル」 ぼそりと言う。冷たい口調。 むくりと、その言葉に答えるようにオウムは起き上がって、ぶるぶるぶるとゴミを払うように身体を奮わせた。そしてオリヴァー夫人の消えていったドアを見つめる。 「まったく。なぜ、あのように優しいご婦人がおまえのような輩に……」 驚いたことに、その流暢な言葉はオウムの口から出ていた。 そのままオウムは名残惜しそうにドアを見つめ、とても人間的な素振りで首をひねってみせる。 「焼いてるんですか?」 サイフィールドはそれに向かって得意げに、「だったら今すぐに追いかけていって、可愛がってもらえばいいじゃないですか。ねぇ、ぴいちゃん」 「うるさい、だまれ! ワタシはロイエルだ」 オウムのロイエルは振り返り、彼をにらんだ。だがその様子は、本人の意志とは逆に愛らしさを感じさせてしまう。 ロイエルはじりじりと机の上を歩き、サイフィールドに迫っていく。 「逃さんぞ、サイフィールド。今日こそはワタシのこの呪いを解いてもらうぞ」 その言葉を聞いて、青年は眉を上げ大げさに肩をすくめてみせる。 「オリヴァーさんの手を借りて結界をくぐってきたかと思えば……。貴方という人はそれしか言えないんですか? まったく」 「うるさい! 当り前だろう。さあ、今日という今日は元の姿に戻してもらうぞ!」 「嫌ですよ」 にべもなく言い放つ。 「何だと?」 「だって面倒じゃないですか。自業自得ってやつですよ。勝手に僕の家に入ってきた貴方がいけないんですよ。それに──」 彼はくすりと微笑む。その鳶色の瞳に悪戯っぽい色をありありと浮かばせて。 「……貴方を元の姿に戻してしまったら僕の楽しみが一つ減ってしまうじゃないですか」 「おのれ、この悪魔め……」 「アクマ、アクマって……そういう自分勝手な呼び方をされるのは心外ですね。貴方だって天使さまなんて呼ばれるの嫌でしょう? 僕たちにも“道化師”という呼び名があるんですから、そっちで呼んでくださいよ」 「くそ……元の姿に戻ったあかつきには、必ずおまえを血祭りにあげてやるからな!」 「それはそれは。楽しみにしてますよ」 静かな部屋の中、サイフィールドはそう答えて、オウムから目をそらせた。 一瞬の沈黙。 「さて、ごたくはそのくらいにしておいて」 と、口調を変えて、「僕から何か掴めましたか? ロイエル」 「何のことだ?」 「とぼけなくていいんですよ。ただ無駄話をしにきたわけじゃないってことぐらい分かってるんですから」 眼鏡を掛け直しながら、サイフィールドはロイエルに鋭い視線を送る。 「貴方ですね? あのアルマ夫人に僕のことを教えたのは」 「……」 思わずロイエルは沈黙した。その質問にどう答えるか迷ってしまったのだ。 間をとってしまったからにはもう彼の負けだ。オウムはぐるりと視線を巡らし、いさぎよくうなづいた。 「そうだ」 「でしょうね」 彼は途端ににっこりして、「隠すつもりならもう少しやってくるタイミングを考えた方がいいですよ。……そうやって、思い立ったらすぐ行動してしまうところ、僕は嫌いじゃないですけどね」 ポケットから携帯用の灰皿を出し、その蓋を片手で開けて、煙草の灰を落とす。 ロイエルは遠い目をしながら語り出す。 「たまたま夜に迷い込んだテラスに、彼女が独りでいたのだ。涙を流しながらな。あんなに純真で美しいご婦人がだぞ」 「ははあ、絵になりますね」 「そんなことを言ってるんじゃない」 「まあまあ」 と、手を上げて彼を制する。 「ちょうど良かった。ロイエル、貴方にもいろいろやってもらいたいことがあってね」 「何? このワタシをこき使うつもりか」 「あの可愛そうなご婦人のことなんですよ」青年医師はじろりとオウムをにらむ。 「まさか嫌とは言いませんよね? 天使さま?」 「む……」 「貴方は誇り高き“救済者”様なんでしょ。人を助けるのが仕事なんですよね。神に遣わされた輝く天使さまなんですよね? それとも、僕にそう言っていたのは嘘だったんですか? ああ僕はだまされたんだ」 まくし立てるサイフィールドを前に、ロイエルは居心地悪そうに机の上をうろうろする。 「うう……わ、分かった、分かった。貴様のような悪魔の申し子に手助けするのは、これが最後だぞ」 それから、ちらりと青年の顔を見る。 「な、何をすればいいのだ?」 「いい心がけです」 サイフィールドはにこりとして、煙草を灰皿に押しつけて消した。彼は、この小さな友人の名誉を尊重するため、いつもこれが最後だぞと言っていることは指摘しなかった。 真顔になりオウムの方に身を屈めて、説明し始める。 「彼女、アルマさんは夫に殺されかかっていると考えているらしいですが、僕の見解は少し違います」 髪をかきやりながら、「でも、彼女が夫に何らかの形で利用されているのは確実ですね」 「なぜ、そう言い切れる?」 「彼女の結婚指輪に彼女の精神や肉体を操るような魔術が施されていたからです」 「何?」 「考えてもみて下さいよ、ロイエル。……結婚指輪に細工できる者なんて夫以外に考えられないでしょう? ……と、いうことは、彼女の夫は神秘魔術家ということになりませんかね?」 と、彼はニヤニヤして、「力を持った神秘魔術家がどれだけ恐ろしいか、貴方は身をもって知ってるはずでしょ?」 オウムはムッとしたようだった。だが彼が、何かわめきたてようとする前にサイフィールドは話を続けた。 「ハーモン伯爵家といえば、何とかつてはありますからね。僕はそのうち彼女の夫に会ってこようかと思っています。だから貴方にはその間にでも、彼の館からちょっとしたものを失敬してきて欲しいんです」 「何だと!」 途端に声を荒げるロイエル。「このワタシに盗みをさせようと言うのか!」 「彼女のためなんですよ」 サイフィールドも負けじと強く言った。 「やるんですか? やらないんですか? どっちです?」 「……わ、分かった」 「よろしい」 サイフィールドは満足したようにうなづき、先ほどアルマ夫人が使ったペンと新しい紙を出して、それにさらさらと何事か書いて、ロイエルの方に差し出した。 「そこに書いてあるようなものがあったら、是非持ってきて下さい」 ロイエルは器用に両翼でそれを持って、卓上のランプの前にまで行って読んだ。 「忘れちゃうと大変だから首輪に結んであげましょうか? ぴいちゃん」 「何っ?」 その馬鹿にするようなサイフィールドの口調にロイエルは鋭い目で振り返った。 「だって持っていけないでしょ? はっはっは、水臭いなあ。そういうことは僕がやってあげますよ。……何しろ僕には貴方をそんな姿にしてしまった責任がありますしね」 楽しそうに言うサイフィールド。 「おのれ! もう許せん!」 ロイエルは青筋を立てて、テーブルを蹴ったかと思うと、一直線にサイフィールドの顔目がけて突っ込んだ。 しかし青年医師はスッと首を横に傾けただけで、それを難無くかわしてしまう。 「うわー」 なさけない悲鳴とドンという衝撃音。それから……静寂。 「やれやれ」 サイフィールドは立ち上がって、後ろの壁に激突して気絶しているロイエルを拾い上げた。 「いつ会っても面白い人ですよ。貴方は」 テーブルの上の布と紙切れも拾ってドアの方に向かう。 「末長く友達でいましょうね」 くすくすと笑いながら彼はそう言って、気絶したオウムと共にその診察室を後にした。 *** 「と、言うわけなんですよ」 サイフィールドは話を終え、傍らのエリーゼの顔を見下ろした。ほのかな薔薇の香り。 馬車の中は暗く、小さなランプが彼女の……吸血鬼特有の青白い肌を浮き立たせていた。 「じゃあ貴方はそのアルマ夫人の魂を、報酬に受け取るつもりなのね?」 「彼女の魂ですか。そうですねえ……」 鼻に掛けた小さな眼鏡の縁に触れ、彼はふっと微笑んだ。 「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。ロイエルには言いませんでしたけど、僕には彼女を見た瞬間に分かりました。──彼女は黄金律なんです」 その言葉に反応してエリーゼが黒い瞳をついと彼に向ける。 「そりゃあ、道化師で神秘魔術の心得もある僕にとっては、彼女の魂は大変な利用価値がありますよ。半世紀に一度お目にかかれるかぐらいですし、黄金律の魂は凡人の魂とは格が違いますからね。──けど」 彼は肩をすくめ、「今、特に手掛けてる研究もありませんし、僕は道化師の力を失いつつありますから、契約を交わした人間の魂を少しずつ吸い取ることも、もうできませんしね。今、彼女の魂をもらっても、もてあましてしまいそうな気がするんですよ。だから、とりあえずほっとくんじゃないですかね?」と、まるで人事のように言う、 「貴方らしいわね。チャールズ」 エリーゼはわずかに微笑む。続いて彼女は何かを言おうとしたが、馬車が静かに停まったので口をつぐんだ。 御者の開けてくれた扉から二人はそれぞれ滑るように降り立った。エリーゼの濃い青のドレスがかすかな絹擦れの音をさせる。 月の光に照らされ、馬車は静かに走り去っていった。あたりはしんと静まりかえっている。遠くから聞こえる喧騒を除いて。 目の前には目立たない一軒家があり、そのドアには「サイフィールド精神診療所」と書かれた小さな看板がぶらさがっていた。 それを見てエリーゼはぽつりと言った。 「気が変わったわ」 「え?」 彼女は振り返って、「あとでいつものパブに来てちょうだい。わたしはそこにいるから」 「どうしたんです? エリーゼ」 思わずサイフィールドは露骨に残念そうな顔をして彼女を見た。「せっかくここまで来たのに……」 エリーゼは妖しい笑みを浮かべた。 「それは貴方にとっての話でしょう? わたしは貴方の恋人じゃないのよ」 「そんなつれないこと言わないで下さいよ」 彼は彼女の手を取った。 「それに、僕の読み通りなら、いくら貴女でも、今一人で帰るのは危険だと思いますよ」 「どういう意味?」 「いやいや──」 「チャールズ」 「……わ、分かりました。降参ですよ」 サイフィールドは、自分が隠し事のできないたった一人の人物を相手にしていることを、改めて意識した。 「先ほど、ロナルド=ハーモン卿に会いましたよね? 彼を一目見て、面白い事実が一つ明らかになったんですよ」 エリーゼが静かに聞いているのを愛しそうに見下ろしながら彼は続けた。 「どうやらね、彼は哀れな犠牲者らしいんですよ」 目を細めるエリーゼ。 「僕も道化師の端くれです。誰か他の道化師があのロナルド卿にとりついていることも分かったんです。そういう気配を感じました。だから彼の兄のトーマス卿があんな奇病に侵されているのも、ロナルド卿がその道化師に頼んでやってもらったことだと思うんです」 「彼が邪魔な兄を殺すつもりだと言うのね」 「ええ。ああいったやんごとなき御方たちにとっては、日常茶飯事でしょう?」 茶化すように言うサイフィールド。 「でもチャールズ」 彼女が口を挟んだ。 「あの奇病ではもう三人も死んでいるのよ」 「それは確か、彼らの運営する貿易会社に関連した人間じゃありませんでしたか」 「ええ、そうだけど」 「目くらましですよ」 全くひるまずに彼は続ける。「──ハーモン社の貿易業務によって持ち込まれた風土病に侵されて、彼らが命を落とすというシナリオの、ね」 「なるほどね」 エリーゼは首を傾け、「……だけど貴方は、それとアルマ夫人がどう関わっているのかまでは分からなかった」 「そうなんです、そうなんですよ」 嬉しそうにうなづくサイフィールド。 「僕にはロナルド卿が身内の者を殺して権力を得ようとしていることなんて関係ないんですよ。アルマ夫人のことが僕の目的ですからね。ただ……」 少し苦笑する。「僕も好奇心には勝てなくてね。だからついつい彼にメッセージを残してしまったんですよ。“奥様をくれぐれもお大事に”ってね」 「そう。分かったわ」 エリーゼもうなづいた。「貴方がわたしを引き留めたがるわけがね」 「でしょう? ただ、かまをかけただけですけど、悪名高き神秘魔術家“深淵”の名の効果は我ながら馬鹿にはできませんからねえ」 彼はそう言って肩をすくめてから、彼女を連れて玄関の数歩の階段を上がりきった。 「待て! サイフィールド」 その時、甲高い声とばさばさという羽音が聞こえた。振り返る二人。 すると、こちらに一直線に飛んでくる白い鳥が目に映った。足に重そうな袋をぶら下げて必死になって羽ばたいてくる。 「あ、ロイエル」 サイフィールドは彼に歩み寄ろうとした。 が、ロイエルはサイフィールドの目の前で見えない壁に阻まれてゴンと頭を打ってひっくり返った。 「あー、もう本当に鳥頭なんだから」 サイフィールドは足早に彼の元に行って、彼と彼の荷物を拾い上げた。階段の上に立っているエリーゼを振り返る。 「ここに結界が張ってあるってことを、彼、いつも忘れるんですよ。頭の中まで鳥みたいになってしまって──」 「おい、聞こえたぞ」 彼の腕の中でムクリと顔を上げるロイエル。 「おや、お早いお目覚めで」 けろりと言うサイフィールド。対するオウムはじろりとその顔をにらんだ。 「せっかくおまえに言われた通り、本を盗んできてやったというのに……」 「いやー、すみません。口が過ぎましたよ」 「それだけか?」 「後はそのうちに」 「なんだそれは」 「まあまあ」 適当にロイエルをなだめながら、青年は布包みを開きながら、階段を上がって行った。 オウムは器用に彼の肩に這い上がって一緒にそれを覗き込む。 サイフィールドはエリーゼの隣まで来てからその本の題名にじっと見入った。 そして──。 いきなりその本でロイエルを殴った。 「なんなんですか、これは!」 不意討ちをくらって地面に落ち、ピクピクしているロイエルに、サイフィールドは本の題名を見せるように向けた。 「誰が、リヴィエールの小説を取ってこいなんて言いました〓」 「な、何──?」 よろよろとロイエルは顔を上げた。じっと、本の題名を見て、目をぱちくりさせる。 「すまん。間違えたらしい」 と、両方の翼を上げてサイフィールドを制するように、「ま、待て、これにはおまえにも責任があるぞ」 「責任?」 「ワタシは鳥目なのだぞ。夜にものを見分けられるわけなかろう。ワタシをこんな姿にしたおまえが悪い」 言われてサイフィールドは言葉に詰まった。苦虫を噛みつぶしたような顔をして、彼から目をそらせる。 「──確かに。まったくこんなところでミスを犯すとは、僕も抜かってましたね。貴方のことを失念してましたよ。僕もそういうところが……まだまだですね」 「そうだろう、そうだろう」 相手が素直に自分の非を認めたのでゴキゲンなロイエル。 が、サイフィールドはすでにオウムから目をそらし、道の方を向いていた。 月明かりの下、目を細める。 診療所の前の道に、いつの間にか一人の男が立っていたのだ。少し背が高く、どこにでもあるような外套をまとっている。 「エリーゼ」 サイフィールドはその男を見たまま、小声で言った。心得たように彼女は玄関の戸を開けて中に入っていく。 遅れてオウムは男に気付き、ギョッとした。慌ててエリーゼの後を追おうとするが締まった戸に頭をぶつけてしまう。 「貴方はその辺でじっとしてなさい」 マントを肩の上にはねのけて、青年医師は本を持ったまま階段をゆっくり降りていった。 その来訪者に形だけの笑みを向ける。 「ここに……何か御用ですか?」 「その白い鳥が持っていった本を帰していただこうと思いまして」 尋ねると男はすぐに答えた。のっぺりとした声。一度も会ったことのない男だったが、そんなことは関係なかった。 「失礼ですが、貴方は?」 「ハーモン家の使用人をしております」 その答えは異様に素早かった。サイフィールドは構わず彼に向かって歩いていく。 「そうですか。ああ、それはウチの鳥が失礼をしました」 と、サイフィールドはその使用人と名乗る男のまえにたどり着いて足を止める。 「飼い主の僕から謝ります。本というのは、これでよろしいんですよね?」 本を相手に差し出す。相手は何も言わずに、それを受け取ろうと手を差し出す。 その刹那。 サイフィールドは咄嗟に横に身を伏せようとした。が、間に合わない。銀色のものが男の手の中でひらめいて左手首をかすった。 本が落ちる。 男の隠し持っていたナイフが凶悪な光を放つ。それはどうも銀で出来ているようだった。サイフィールドは血が流れ出た手首を押さえながら体制を立て直す。男との間合いは何とかとれていた。 相手に、自分の身体は銀の武器でなくても充分に怪我をすると言ってやりたかったが、その余裕はなさそうだった。 男が地を蹴って、血のついたナイフを手に走り込んで来た。その動きは素人のものではない。 咄嗟にサイフィールドはマントを外して男に投げ付けた。男は顔にかかったそれを外そうともがく。 そのすきにサイフィールドは自分の左手首の傷に触れ、流れる赤い血を人指し指と中指に付けた。その指で素早く空で印を切ろうとする。 「サイフィールド!」 その時、彼の目の前を白い影が横ぎった。ロイエルだった。彼は、いち早くマントを外した男の顔に体当りを食らわせた。男は突然の不意討ちに少しだけよろけてしまう。 ニヤリとするサイフィールド。印をきり、最後に指を下に向ける。 その途端、男の持っているナイフ──サイフィールドの血のついたナイフが勝手に動いた。それはかなりの勢いをつけたまま、いきなり男の足に突き刺さった。一瞬だった。鮮血が飛び散るが、彼は悲鳴すら上げない。 続けてサイフィールドは自分の血を、サッと男の額につけた。すると男は、やはり見えない力で頭を引っ張られるように、凄い勢いでうつ伏せに地面に倒れてしまった。 「ふう」 そこまでやってサイフィールドはやっと息をついた。 「危ない、危ない」 ロイエルが飛んできて、彼の肩に止まる。「ああ、助かりましたよ。ロイエル」 青年医師は素直にオウムに礼を言った。だがオウムはぷいとそっぽを向く。 「勘違いするな。おまえが死んだらワタシは元の姿に戻れなくなるから、手助けしてやっただけだぞ」 「はは、照れてるんですか」 サイフィールドはにこにこしながらロイエルの背中に触れた。感謝の気持ちを込めて彼を撫でてやろうとしたのだが、その手首の血が少し付着してしまった。 「あ」 が、遅かった。 いきなり地面に叩きつけられるロイエル。 「すみません。まだ術がかかってました」 やはり地面でピクピクしているオウムにサイフィールドは申し訳なさそうに頭を下げた。 「おのれ、恩を仇で返しおって」 「わざとじゃないんですよ」 すぐにサイフィールドは印をきってロイエルを拾い上げて肩に乗せてやる。 「さて」 と、本を拾ってから、倒れた襲撃者の男を見下ろすサイフィールド。 「これの始末をしなければねえ」 「なに? 殺すのか?」 「何言ってるんですか。もう死んでますよ」 ロイエルは男を見下ろした。サイフィールドの血による術で、男は頭と片足を地面に縫い付けられたままだが、その戒めから逃れようとまだもがいている。 「これは道化師に魂を吸い取られた抜けがらですよ。貴方だって知ってるでしょう」 「ああ──なるほどな」 「証拠を残すわけにはいきませんからね」 言いながらサイフィールドは懐から親指ほどの小さな瓶を取り出した。蓋を開け、中身を男にさっと振りかける。 「行きましょう」 それからきびすを返して家の方に歩いていく。振り返りもしないで足早に。 「おい、それでいいのか」 ロイエルは青年の耳をくちばしでつつく。彼は答えず、パチンと指を鳴らした。 ゴゥという音と熱風。振り返るロイエル。 それも一瞬だった。男が紫色の炎に包まれたかと思うと、すぐに炎もろともかき消えてしまったのだ。 その後には何も残されていなかった。人間の肉が燃える嫌な匂いすらしない。 「……」 目を点にしたロイエルはサイフィールドの肩の上で、すこしだけ身震いした。 *** 「やれやれ」 ハードカバーのロマンス小説を手でポンポンと軽く叩きながら、サイフィールドはオウムとともに階段を上っていた。 中途の壁にあるガス燈には手で触れるだけで明かりが点る。 「エリーゼ?」 上りながら、呼びかける。が、返事はない。 「──おかしいな」 「愛想をつかされたんじゃないのか?」 今度はロイエルがからかうように言った。 「おまえみたいにしつこい奴はたいてい女性に嫌われるものだ」 「失礼な。人のこと言えるんですか」 少しだけムッとして言い返すサイフィールド。階段を昇りきり、あたりを見回してから一番奥の書斎へと歩を進めてゆく。 「ワタシはいつだってモテモテだぞ」 「そりゃあ貴方は可愛いですからね」 「今の姿のことを言ってるんじゃない!」 「いいじゃないですか。モテるんだから」 クスクス笑いながら、サイフィールドは書斎の前にまでたどり着いた。 そしてドアのノブに手をかけ、「……?」 と、サイフィールドは何かに気付いたようにいきなりドアを開けはなった。 書斎の中の薄暗い明かりに照らされてこちらを振り向いたのは一人の痩せた中年男とエリーゼだった。 ただ、男は左腕でぐったりしたエリーゼを抱え、右手にはギラリと光る銀色のナイフを携えていた。 「おや」 サイフィールドはおどけたように目をぱちくりさせてみせた。 「ボヤボヤしてられませんね。新たな恋の好敵手の出現ですか」 「そんなこと言ってる場合か!」 「動くな!」 痩せた黒尽めの男が言った。「この女がどうなってもいいのか?」 だが青年医師はそれを気にした様子もなく、ドアをきちんと締め、また振り返る。 エリーゼは気を失っているらしかった。 ただその首筋に十字架の形をした傷痕があるのに気付いて、サイフィールドは急に真面目な顔になった。 さらによく見れば彼女のだらりと下がった手の細い指の先から、赤い血がぽたりぽたりと落ちているのも分かる。 溜め息をつくサイフィールド。 「そうか、僕がさっき結界を張り直すのを忘れたから、それで入ってこれたんですよね?自己紹介は要りませんよ。貴方もハーモン家の方なんでしょ。まあ仕方ない。ご用件をお聞きしましょうか?」 その言葉を聞いて男はフンと鼻を鳴らした。 「もの分かりがいいな」 低い声。 「よし、そのオウムをこっちに渡してもらおう」 『はあ?』 思わずサイフィールドとロイエルは場違いな甲高い声を上げた。 それから二人、顔を見合わせる。 「ちょっと待ってください。ほんとうにこのオウムを渡せばいいんですか?」 うなづく男。 「じゃあ、あげますよ」 「こら! 待てサイフィールド!」 けろっとして言うサイフィールドの横顔を、ロイエルは翼ではたいた。 「ワタシを何だと思ってる!」 「愛玩用のオウムでしょ?」 「ほう、喋るのか。……なるほどな」 そのロイエルを見、男はぽつりと言った。 ふっと黙るサイフィールドとロイエル。 男の声にはさきほどの襲撃者とは違って自分の意志が感じられた。長い前髪の間からは鋭い視線。夜の闇に溶けるための黒装束。 青年医師は少し眉を上げてから、人差し指を立てて言った。 「でも、ちょっとお尋ねしますけど、オウムの飼い方ってご存じですか?」 「そんなものは必要ない」 男は即答した。「すぐ殺すからな」 「ひー」 「ああ、やっぱりそうですか」 翼を上げて大げさに驚くロイエルを尻目に、サイフィールドは冷静に言う。 「じゃあ、渡すわけにはいきませんね」 「なら、女を殺す」 男は遠慮なく手に力を込めた。エリーゼの白い首筋に血が線をつくって流れ落ち始める。 が、サイフィールドは何も言わない。 男は一瞬手を止め、顔を上げた。 そして……まるで自分は本当にやるぞと言わんばかりの笑みを浮かべた。 「ま、待て!」 たまりかねたロイエルが慌てて叫ぶ。 コンコン。 その時だった。 突然のノックの音。バンと勢いよく開くドア。そこに立っていたのは──。 一枚の皿を手にした中年婦人だった。 「先生、とってもおいしいミートパイが焼けたんですの。ご一緒に──」 と、彼女、オリヴァー夫人は言葉を止め、部屋の中を見回した。 時が一瞬止まっていた。 皆が目を見開いて彼女を見ている。 「……え? ええっ?」 夫人も目を見開く。そして、彼女は、 「きゃー」 叫び声を上げて皿を宙に放り出した。 それから次に起こったのは、みな一瞬の出来事だった。 ぱっと飛び立ち、一直線に男の顔目がけて突っ込むロイエル。 サイフィールドの方は咄嗟に伏せ、床の敷物を掴んだかと思うといきなり引っ張った。 「うわっ」 バランスを崩す男。サイフィールドはそのスキをついて男に向かって間合いを詰める。 「ひえー」 さっきまで男の顔のあったあたりの空間をロイエルがバタバタと空しく通過する。 構わずサイフィールドは持っていた例の本を力一杯、男の腹めがけて繰り出した。が、狙いが外れ、男の急所に当ってしまう。 男の顔が一瞬にして凍りつく。彼は思わずエリーゼとナイフを離してしまった。ふわっと前に倒れ込んでくるエリーゼ。 一方、標的をなくしたロイエルは窓にぶつかった。ゴツという音。彼はそのまま目を回して床に落ちてしまうが、窓のカギが外れてゆらりと窓が開いてゆく。 サイフィールドはエリーゼをさっと片手で抱き止めた。が、彼もバランスを崩してしまい後ろに倒れそうになる。 と、そこにミートパイの皿が飛んできた。 「うわわわ」 上半身だけ振り返ってサイフィールドは、パイの皿を本ではっしと受け取った。と、そのせいで完全にバランスを崩してしまう。 彼は後ろに尻もちをつくように倒れ込んだ。 するとうまい具合に、その足が前方で急所を押さえている男の顎に当ってしまった。 蹴られて、もんどりうって転がる男。だが彼に後ろはなかった。彼は開きかけた窓に背中をぶつけたかと思うと、そのまま窓の向こうに消えていった。 悲鳴は一拍おいてから聞こえた。それからズンという音も。 サイフィールドは小脇にエリーゼを抱えて片方の手に本と皿を持って、床に仰向けに転がっていた。 嵐の後の、静寂。 騒動のきっかけをつくった中年婦人はきょとんとして入口の前につっ立っている。 「オリヴァーさん? オリヴァーさん」 「えっ? あっ」 サイフィールドに呼ばれて夫人は我に返って倒れたままの青年医師の元に駆け寄った。 「一体なんなんですの? 今のは」 「大丈夫。貴女のミートパイは無事です」 と、サイフィールドは仰向けのまま皿を夫人に差し出す。彼女はそれを受け取った。 「いやー、参りましたよ」 そう言いながらサイフィールドは起き上がって、本を放ってエリーゼを抱き上げた。 「こんな商売をやってるとね、逆恨みされることが多いんですよ」 オリヴァー夫人は窓の方を見、そしてエリーゼの顔を心配そうに覗き込んでから、もう一度サイフィールドの顔をじっと見上げた。 「……って、言うと今の男の方、先生の元患者さんとかですの?」 「そうなんですよ」 彼はしたり顔でうなづいた。 「オウムをよこせだの、わけの分からないこと言ってね」 「まあ」 納得したような顔の夫人。サイフィールドは気を取り直した笑みを浮かべ、彼女の手にした皿に目を落とした。 「それはそうと、いつもすみませんね。いろいろ御馳走になって……。でも今夜はちょっといろいろと忙しいんですよ。だから──」 「じゃあ、これ下に置いておきますわね」 オリヴァー夫人はにっこりしてうなづくと、皿を手にしたまま彼に背を向けた。ホッと溜め息をつくサイフィールド。夫人はそのまま部屋を出ていこうとする。 「あ」 が、何かに気付いたように振り返る。その顔には悪戯っぽい笑みが。 「なんです?」 夫人はニヤニヤしながら、床の上に落ちている例のロマンス小説の本を指差した。 「先生だってお読みになるんじゃないの」 「あっ、これは」 サイフィールドは思わず本を足で隠そうとした。「いや、その、違うんです。これはロイエルが──」 「何も恥ずかしいことじゃないですわ。いいんですのよ。隠さなくても」 夫人はサイフィールドの弁解の言葉を全く聞かずに、「じゃあ、また明日来ますわね」 そのまま部屋を出ていく。その後ろ姿をサイフィールドはエリーゼを抱いたまま、呆けたように見つめていた。 後ろで物音。翼で頭を押さえながらロイエルがよろよろと彼に近寄ってくる。 「全くとんでもない目にあったな」 ぶるふると頭を振りながら、「おい。さっきの奴はどうしたんだ? やっつけたのか?」 オウムはあたりをきょろきょろと見回す。 さっと振り返るサイフィールド。そんなロイエルを、無言でギロリとにらみつける。 ぎょっとするロイエル。チョンチョンと後ろに跳んで、目をぱちくり。 「え?」 *** 「貴方、拾い食いしたんでしょう?」 書斎に戻ってきたサイフィールドはだしぬけにそう言った。 机の上で例のロマンス小説を読んでいたロイエルは、ふっと本から目を上げる。 「何?」 「拾い食いですよ。拾い食い」 青年はさきほどオリヴァー夫人が電撃的な登場をしたドアを締めて、机のそばまで歩いていった。 「何だと? このワタシがそんなことをするわけがなかろう」 「だって他にないじゃないですか。……さっきの彼が、貴方を殺したがる理由が」 「ああ、さっきのことか」 ロイエルは足で本にしおりを挟み、「あの黒尽めのうつけ者本人に聞かなかったのか?」 「ええ。まあね」 サイフィールドは椅子に腰掛けながら、「エリーゼの手当てをしている間にね、彼女の下僕のコウモリ達がやって来てあの襲撃者サンを持って行っちゃったんですよ。彼、かわいそうにねえ……ただじゃあ済みませんよ。──ついでに、エリーゼも行ってしまいましたけど」 「やっぱり、フラれたか」 「違いますよ、失礼な」 ムッとするサイフィールド。 「いろいろ調べてもらいに行ったんですよ」 「怪我人なのにか?」 「彼女は吸血鬼です。心配要りませんよ。それよりロイエル」 きちんとオウムの方に向きなおり、「ハーモン家の屋敷に行った時、何か口にいれませんでしたか?」 「なんだ、そのことか。早く言え」 オウムはうなづき、思い出すように言った。 「あそこの若いメイドがアルマさんの食事に何か妙な調味料のようなものを振りかけようとしているのを偶然見かけてな。彼女の口に入るよりましかと思ってワタシはそのメイドの目を盗んで、粉のかかったところを出来るだけ食べてあげたのだ」 と、青年の顔を見上げ、「もっとも、すぐに見つかって追い回されたがな」 「本当ですか? 命知らずですねえ」 サイフィールドは感嘆の声を上げてみせた。 「すごいですね、見直しましたよ。勇気がなくちゃあ、そんなこと普通は出来ませんよ」 「そうか?」 ちょっと嬉しそうなロイエル。 「ええ、ええ。ついでにもう少し勇気を出してみませんか?」 言いながら、彼はいきなりロイエルをがしりと両手で掴んで持ち上げた。 「な、何をする、サイフィールド?」 「研究室に行くんですよ」 暴れるロイエルをなだめるように、「ちょっと苦しいかもしれませんけど、我慢してくださいね。すぐ終わりますからね」 「うわー、やめろー」 サイフィールドはその叫びを無視して、彼を連れて書斎を出ていった。 数分後。サイフィールドはげっそりしたロイエルを肩に乗せて書斎に帰ってきた。 考え深げな顔。ロイエルが調子悪そうに身体中の羽毛を膨らませているのも気にしていないようだった。 「なにも吐かせなくたって」 惨めそうな声で言うロイエル。だが、当の青年はやはりそれを聞いていない。 「お手柄ですよ。ロイエル」 「何か分かったのか?」 肩をすぼめ、顔を伏せるサイフィールド。 「その薬は服用した者の体液を一時的に毒薬に仕立て上げるものだったんですよ」 「なに?」 驚くロイエル。「じゃあワタシの身体も……」 「貴方は大丈夫でしたよ。その薬は女性にしか効かないようにできていましたから」 「? どういうことだ?」 「しかも、それは血液感染するらしい」 青年医師は分かっていなさそうなロイエルに続けて言う。 「それがどういうことだか分かります?」 首をかしげるオウム。 「その毒素がほぼ性的交渉によって感染するということですよ。つまり、今までの犠牲者はおそらくすべてあのアルマ夫人と──」 「な!」 ロイエルは息を飲んだ。 「彼女は覚えていないのか?」 「彼女はあの結婚指輪に封じられている魔術によって操られているんです。心も体もね。まあ、すぐにエリーゼがその裏付けをとってきてくれるはずです」 サイフィールドは淡々とそう言って眼鏡をかけ直した。その視線は窓の外の夜空を見つめている。 「かなりのところまで分かりましたが……まだつながらないんですよ。兄を殺すためだけになぜこんな大がかりなことをするのか──それに、自分の妻を利用する利点がどこにあるのかとかね」 しきりに髪をかきやる。それは考えごとをしている時の彼の癖だった。 「貴方が僕の言った通りに、きちんと伯爵の魔術関係の本を持ってきてくれさえしたら、今頃分かっていたかもしれないのに」 「そんなことより、サイフィールド!」 オウムは気分が悪いのも忘れて声を張り上げた。 「ワタシは彼女に聞いたのだぞ。彼女は夫を心から愛していると──」 「相思相愛じゃなかったってことでしょ」 「簡単に言うな!」 「だって彼女の問題じゃないですか」 彼は気色ばむロイエルを見下ろし、 「愛されていないことほど不幸なことなんてないっていうでしょ? 彼女には真実を知る権利があるんですよ。彼女はこれからのことを自分で決めなくちゃいけないんです。そういう道を自ら選んだんですからね……」 「だからと言って──」 「チャールズ」 その時、キイとドアの開く音がした。 サイフィールドは振り返り、そこに黒いドレスをまとった女吸血鬼の姿を認めた。 ロイエルもちらりとその姿を見た。そして自分が興奮していることに気付いたのか、心を落ち着かせるように息を整えた。 それからまた青年の方に視線を向ける。 「彼女のことは──分かった。しかし」 急に声高になって、「ワタシはどうしたらいいのだ。ワタシは彼女を助けたい。それなのに、ワタシにはおまえが彼女を苦しめようとしているようにしか見えん!」 「ああ、そうですねえ」 だがサイフィールドは落ち着いたまま。 「結局、今の彼女に対して僕たちにしてあげられることが限られていたということでしょう。だからあなたは彼女のこれからに目を向けた方がいい。彼女の来世──いや、未来という言い方をしましょう──を案じてあげればいいんですよ」 「な……に?」 ロイエルは途端に気の抜けたような顔をしてサイフィールドを見上げた。 「じゃあやはりおまえは彼女の魂を奪うつもりだったのか!」 言われてサイフィールドはきょとんとした。が、すぐにニヤリとしてみせる。 「ええ。たぶんね」 「──!」 そうやってあまりにもはっきりと答えられたので、ロイエルは一瞬言葉に詰まった。 「クソッ」 吐き捨てるように言う。 「貴様のような奴をアルマさんに紹介したワタシが馬鹿だった! 彼女はワタシが守る!」 「やれやれ」 疲れたようにサイフィールド。 「貴様とはこれまでだ!」 憤然とした様子でドアに向かって飛んでいくロイエル。エリーゼが彼のためにドアを開けてやった。 一瞬地面に降り立ち、オウムは振り返ってもう一度サイフィールドの顔を見た。 「失望したぞ。サイフィールド」 そう言い残して、彼は外へと飛んで行ってしまった。 静寂。 「やれやれ」 彼はもう一度そう言ってエリーゼを見る。 「失望したって、何を言ってるんですかねえ彼は。いつも僕を殺すだの何だの言ってるクセに」 「彼には、言わないのね」 「え?」 何気ないエリーゼの言葉にサイフィールドは目をしばたたかせる。 「貴方なりに考えて下した判断なんでしょう? そのアルマ夫人をどうしたら助けてあげられるか」 「よしてくださいよ」 途端にサイフィールドは苦笑した。 「僕は道化師ですよ。人助けなんてしません」 また窓の方を見ながら続ける。 「まあ僕は、貴女ほどじゃありませんが、長く生きてきましたからね。例のアルマ夫人の行く末も何通りかのパターンとして脳裏に思い浮かべることができるんですよ。そしてその中で彼女が最も幸福になれる道や不幸になる道も──ね。おそらくロイエルならその最も幸福になる道に彼女を誘導しようとするでしょう。ですが、僕は違います」 振り返り、エリーゼの目を見る。 「幸福になることが本当に幸福なこととは限らないですからね。他人に与えられたものは所詮虚構です。──だからこそ、僕は彼女の願いをかなえてあげるんです。彼女に自分自身の道を選ばせてあげるんですよ」 一気にそう言い終えてから、彼は急にハッとして、視線を躍らせた。 「いや──すみません。つまらないことをくだぐたと……」 「チャールズ」 エリーゼはクスッと笑みを漏らした。 「そうね。貴方はまだ子供なのかもしれないわね」 「どういう意味ですか、それは」 女吸血鬼は吸い込まれそうな笑みを浮かべたまま何も答えなかった。手持ち無沙汰になって、いつものように肩をすくめてみせるサイフィールド。 「おい、邪魔するぞ」 と、足元から声がして、二人はドアのそばにロイエルが帰ってきているのに気付いた。 「おや」 「な、なんだその目は?」 が、青年医師が何か言おうとする前にオウムは慌てて口を開く。 「ワタシは忘れものを取りにきただけだ」 ロイエルはぷいと顔をそらせて、机の上へ飛んでいくと、置いてあったロマンス小説を足で器用に持ちあげた。 「ふ、ふん。おまえとは絶交なんだからな!」 そう捨てゼリフを吐いて、彼は先ほどと同じように憤然とした様子で、ドアから外へ飛んでいった。 「……」 サイフィールドはそれを見たまま、「あの……僕よりも、彼の方が子供だと思えてきませんか?」 今度はエリーゼの方が肩をすくめてみせる番だった。 「チャールズ」 嗜めるような口調。 「そんなことより、私の持ってきた情報はどうするの?」 一瞬の間。 「あ、そうでした。すみませんお待たせしてしまって」 半ば慌てたように、サイフィールドは手近にあった椅子を引き寄せて彼女にすすめた。 が、エリーゼはその横をすり抜けて、机の方に音もなく歩いていく。サイフィールドは滑稽に見えるほど足早にその後を追って、彼女のそばに行った。 その彼をエリーゼはちらりとだけ見て、どこからともなく出した封筒から雑多な写真を数枚取り出して机の上に並べた。 「これは?」 「あの奇病の犠牲者たちよ」 写真はすべて、暖炉の上に飾ってあるような家族写真だった。その中から、エリーゼは男性を一人ずつ指差していきながら言う。 「……船着き場職員、ハーモン社の事務員、パブ“夜鳴鴬”のマスター。……このパブはハーモン社の人間がよく使うところよ」 「ははあ。見事にハーモン家につながってますね。そういうことなら例の奇病も、ハーモン社の貿易活動により持ち込まれてしまったものだと考えられますからね──普通なら」 「そうね」 興味のなさそうな顔のエリーゼ。 「それと、貴方の言っていた通り、この三人とトーマス=ハーモンの回りで、アルマ夫人らしき女性が見られていたわ」 無言でサイフィールドはうなづく。 「彼等が死ぬ数日前に、ですね」 エリーゼも目でうなづいた。 「それと今夜、彼女はハーモン社の幹部社員のところに行っているようよ」 「五人目の犠牲者のところにですね」 その言葉には何の感情もこもっていない。少しの静寂がおとずれた。 「そうですか」 サイフィールドは栗色の髪をかきあげ、考えを巡らすように小さく息をついた。 「僕が思うにはね……」 しばらくしてから言う。 「おそらく、相手の道化師は力を発揮しきれないんですよ。ロナルド=ハーモンの、兄を殺したいという願いをかなえるだけにしては、どうも手が込み過ぎてる。こんなにたくさんの人を殺す必要がどこにあるんでしょうか?」 「何が言いたいの?」 そっとたずねるエリーゼ。 「うーん。ありがちな話ですけどね」 サイフィールドは例の奇病の犠牲者の写真にに目を通しながら、「例えばこの一連の“殺人”が何かの儀式に組み込まれているとか……」 と、彼は何かに気付いたようにじっと写真に目を近づけた。眼鏡をかけ直し、次々に写真を取り代えてじっくりと眺める。 「どうしたの?」 「今、気が付いたんですが、彼ら年代が似通っていませんか? 見た感じ、みな四十代前半のような……」 「そうね」 エリーゼも写真を見る。 「年齢までは調べなかったから今は分からないけれど、トーマス=ハーモンに関して言えば、彼が会社を設立したのは確か三十五才の時で、会社は今年で七年目のはずだから、彼は今、四十二才ということになるわね」 「四十二才」 サイフィールドはエリーゼの方に素早く振り向く。 「エリーゼ。今年は──」 「一八八八年よ」 彼女は先手を打って先に言う。 「四十二年前といえば、一八四六年になりますよね」 眉を寄せながらも、エリーゼはその言葉にうなづいてみせた。 「偶然か? いや、しかし」 サイフィールドは真剣な面持ちになって、顎に手をやる。 「でも……まさか?」 そして、意を決したように彼は大股に本棚のところまで行って、すぐに一冊の黒い本を抜き出した。それを机まで持ちかえって、バッと広げた。 黄ばんだ紙を乱暴にめくっていくと、中にしおりのような黒い紙が挾まっていた。サイフィールドは手を止め、ちらりと脇のエリーゼの顔を見てから、それを手に取った。 それはよく見ると紙ではなかった。動物の皮のようなもので出来ているそれは── 「コウモリの羽根?」 そう言ったエリーゼの顔をサイフィールドはもう一度見て、首を横に振った。 「……生命をささげよ。我らの黒き主に。主は死なぬ。永き眠りについたのみ。生命を捧げよ。我等の黒き主に。主の眠りと同じ時を生きた生命を。生命を一つに集めよ。汚れた鍵に六つの生命を集めよ。さすれば我らの黒き主は永き眠りより覚め、我らの元に──」 と、羽根から目を上げる。 「何?」 「これはコウモリの羽根じゃあありません」 その目はいつになく深刻だった。彼は深く息を吐いて、眼鏡を外し胸ポケットにしまった。 「そうか、黒──。それにロナルド卿にまとわりついていたあの気配。ああ、そうか。どうして気付かなかったんだろう」 「チャールズ?」 「相手の正体が分かってしまいましたよ」 肩をすくめエリーゼに向き直る。 「あーあ。最悪ですね」 「誰なの?」 心なしか、じれったいように聞くエリーゼ。 「道化師中の道化師と言われていた人物で、ロイエルなんかに言わせれば大悪魔ですよ。そして、この羽根の持ち主でもある」 羽根をはらりと机に落とす。 「彼の支配する言葉は究極。その姿は闇に包まれ、人に恐怖と深く黒い希望をもたらす。その名は“影をまといし者”ファイネリオン……聞いたことありますよね?」 そう言ってサイフィールドはげんなりした笑みを浮かべてみせた。 *** 「何だ? 何を恐れているのだ」 「相手が相手だからだ。“影をまといし者”よ」 男は言った。赤毛の三十代後半。スリムな身体に最高級のスーツを身につけている。 彼はロナルド=ハーモンと呼ばれる男だった。彼は社交会では完璧を好む男として知られていた。ただ……どうしたことか、今の彼の眉間にはその完璧さを乱すような皴が寄っていた。 その彼の前には黒い光を放つ円──魔法陣とその上にぼうっと浮かび上がる異形の者の姿がある。黒山羊の頭に人間の男の上半身。胸から下は霞のようにぼやけている。 それは伝承で描かれているような悪魔の典型的な姿だった。あたりには異臭さえ漂っている。 彼の名はファイネリオン。“影をまといし者”とも呼ばれた道化師──悪魔だった。 暗い地下室。魔法陣しかない部屋。ドアのそばには執事が静かにたたずんでいる。 「“深淵”はただの神秘魔術家ではない」 男は重い口調で、「おまえは長き年月眠りについていたのだから知らぬのは当然だが、今このロンドンで西の“無限”、東の“深淵”と言えば知らぬ者なき強大な神秘魔術家のことなのだ」 彼は魔法陣の中の霞がかった男に詰め寄る。 「その者たちは神秘魔術家のくせに、名前と身分を明かしているのだぞ。それがどういうことかくらい分かるだろう?」 「だが……」 対する異形の男は少しだけ笑みを浮かべたようだった。 「所詮はただの魔術屋だ」 「しかし」 「黙れ、小さき者よ」 男の回りでピシっという空間の震える音がした。道化師ファイネリオンの目は赤く染まっている。 「その男に我々のことが知られたとして、どうなるというのだ? おまえは自分のことだけを考えていればいいのだ」 彼はゆらゆらと揺らめきながら、「おまえは私の力で成功を手にする。わたしはその引換におまえの妻をもらう。それで万事うまくいく。そうだろう」 「いや──」 だが、男は俯いて考え込むような素振りを見せた。そのまま魔法陣の回りをゆっくり歩いていく。 「実はわたしも少し考えたのだ。果たして、本当にそうなのだろうか、とな」 その時、地下室のドアをこつこつと叩く音がした。一瞬言葉を止める二人。 無口な執事がその視線を受けて一礼した。扉を開けて外へ出ていく。 「──それでどうした? 小さき者よ」 それからファイネリオンは男に合わせて体の向きを変え、話を続けた。 「道化師は魂の契約を交わした相手の願いしかかなえることができないはずだ。おまえは私の妻ではなく、私の魂をすでに捕らえているのではないか? ──違うか?“影をまといし者”よ」 それを聞いて異形の男の顔がこわばった。 「何だと?」 ごうっと足元の魔法陣が黒い炎を上げる。ファイネリオンは前の男をにらみつけていた。 「質問に答えろ。“影をまといし者”よ」 しかし男は臆することなく相手の視線を受けた。黒い炎が引いていく。 「いつ、それを知った?」 ゆっくりと尋ねる。 「──常識ですからね」 すると男はそう答えてにこりとしてみせた。その声はさきほどと全く違っていた。まるで別人のものだった。 「貴様?」 男は微笑んだまま、自分の顔に手を当てた。その顔が一瞬にして別の若い男の顔になる。顔から離した手には銀の仮面──。 「いや、すみませんね。ここが仮面舞踏会の会場かと思ったんですよ」 その青年、サイフィールドは微笑みを絶やさず言った。 「貴方がそんな仮装をしてるからいけないんですよ。素顔で話しましょうよ」 「誰だ、貴様!」 叫ぶファイネリオン。 「あれ、分からないんですか? 僕ですよ。随分久しぶりですからねえ。忘れちゃいました?」 青年は首を傾けてみせる。対するファイネリオンは赤く染まった瞳で相手の顔をじっと見つめた。彼の怒りからか辺りの空気がピリピリと震えている。 「おまえ、まさか──アビセルドか?」 「うわ」 途端に頭に手をやるサイフィールド。 「そんな名を使ってた時代もありましたね。いやー懐かしい」 「どういうことだ?」 詰問するような口調。 「どうしたもこうしたもありませんよ。とにかく、僕にそんな姿を見せても意味がないんですから、元に戻って下さいよ」 サイフィールドがそう言うと、いきなり魔法陣から黒い炎が吹き上げた。それがファイネリオンの姿を飲み込んだかと思うと、炎は一瞬にして消え失せ、あとには頭に山羊の角を生やした壮年の男の姿があった。背中には黒いコウモリの翼。だがその姿は相変わらず霧のようにかすんでいる。 「そうそう、それです。それ」 「アビセルド」 男は黒い瞳で青年を見下ろしながら、「おまえ……角と翼はどうした?」 「ああ、あれですか」 対するサイフィールドの眼鏡の縁が光る。 「邪魔だなあと思ってたら、なくなってしまいましたよ」 「何だと、我々の誇りを!」 青年は溜め息をついた。うんざりするように、「貴方はお変わりになりませんね。お姿も、その古くさいやり方もね」 「貴様、誰に向かって口を聞いているつもりだ!」 ファイネリオンの怒りに呼応して黒い炎が燃え上がり空気を奮わせる。 「“影をまといし者”貴方にですよ」 全く動じずにサイフィールド。 「僕は今でも貴方のことを尊敬しています。救済者ウリエルの呪縛はさぞお辛かったことでしょう。僕も心が痛みますよ」 魔法陣の中の男の顔が少しだけ和らぐ。 「でもね、僕は貴方の元部下として貴方に忠告したいことがあってここへ来たんです」 ゆっくり彼の回りを歩きながら、続ける。 「──この世界は変わってしまいました。貴方のやり方はもう通用しませんよ。現代に生きる者たちに手を出すのはおやめなさい。手痛いしっぺ返しを食らいますよ」 「何だと?」 その顔がまた怒りの形相に変わる。 「この若僧が、知ったような口を聞きおって」 「ほら、分かってない」 眼鏡の奥で鳶色の瞳がきらめいた。 「あれから四十二年も経っているんですよ。僕も貴方の下にいたときよりはるかに力をつけました」 サイフィールドは真面目な顔になり、「ファイネリオン。最後のお願いです。しばらく、じっとしていて欲しいんです」 「くっ」 ファイネリオンはいきなり笑い出した。 「何を言っているのだ、アビセルド。わたしがそんな願いを聞くとでも思っているのか」 サイフィールドは答えない。 「今、この儀式を完成せねば、わたしはまたウリエルの白き炎に身を焼かれ続けるのだぞ。……アビセルド。無礼な口を利いたことは昔に免じて許してやる。わたしの元に戻ってこい」 「望みは薄いと思ってました」 その言葉をサイフィールドは無視した。ゆっくりと首を横に振りつつ、彼は続けた。 「非常に残念です」 返すのは鋭い視線。 「また同じ別れ方をしなければならないなんて。──まあ、もっとも今回は僕一人だけですが」 「何?」 ぴくりと眉を上げるファイネリオン。回りの空気も少し変わった。細かな振動が空間を伝わって、サイフィールドの黒いスーツの裾をはためかせる。 サイフィールドは少し笑った。 「僕の言っている意味が分かりませんかね? そうです。どうしてあれだけ力を持っていた貴方が封印なんてされたんだと思います? ……僕がウリエルに加担したからですよ」 「アビセルド!」 ゴオッとひときわ高く、黒い炎が燃え上がる。 「おのれ、あれだけ目を掛けてやったというのに!」 「復活はさせませんよ。ファイネリオン」 吹き上げる炎から離れるようにサイフィールドは後ろに一歩退く。 「貴方の計画は見事でしたよ。力を持たない神秘魔術家に取り憑いて、その願いをかなえてやると同時に、自分の復活の儀式をも成功させようとした。そのための最高の触媒──黄金律の女性まで用意してね」 さらにもう一歩下がる。 「六人目の男の命を吸った彼女の身体を得て、ウリエルの呪縛から逃れるつもりだったんでしょ?」 「おのれ、アビセルド!」 見ると、ファイネリオンの背からも炎が燃え上がっていた。 「このわたしに逆らった報いを受けるがいい!」 「その名前で呼ばないでくれます?」 ぴしゃりと言うサイフィールド。 「僕は“深淵”チャールズ=サイフィールドです。申し遅れましたがね!」 言ってサイフィールドは後ろに跳びのいた。 「食らえ!」 その彼を囲むように、燃え上がる黒い炎の壁が立ち昇った。すぐに逃げ路がなくなる。 が、青年はそれを見て、鼻で笑った。 「貴方が幻影を使えることくらい覚えてますよ。こんなもの、子供だましですね」 「そうかな?」 ニヤリとするファイネリオン。 「サイフィールド! 後ろだ!」 空を切り裂くような声。 すると一瞬にして、サイフィールドの回りの幻の炎が消え失せた。 彼はバッと後ろを振り向く。 入口の近くに、拳銃を真っ直ぐにこちらに向けている執事の姿が目に入った。 咄嗟に地面に伏せるサイフィールド。その一瞬後に銃声が響く。 「ロイエル!」 「何? 救済者がいるのか?」 驚くファイネリオン。その彼目がけて、白いオウムが一直線に突っ込んでいく。 「むっ?」 が、ロイエルはそのままファイネリオンの半分透けている姿を通過してしまった。 「何だとーっ!」 思わず勢い余って地面に激突するロイエル。ファイネリオンはそれを見て、振り返った。 だが、すでにサイフィールドの姿はみあたらなかった。 執事もせわしなく辺りを見回している。 しんと静まりかえる地下室。 「おのれ、どこへ隠れおった」 「ここですよ」 と、声がしたのは執事の後ろ。ビクっとした執事が振り向く前に、「すみませんね、卑怯なもので」 サイフィールドは姿を表し、指でトンと執事の延髄に触れる。 それもまた一瞬だった。 その触れた一点から紫のものが執事の身体中に広がり、肉は腐敗し骨になり、骨も粉となりさらさらと崩れていった。まるで風化していく死体のように。 地下室の中を静けさが包み込んだ。 「四十二才の執事さんには先に死んでもらいましたよ」 その砂の上をじりっと踏みサイフィールドは魔法陣に向けまっすぐ歩き出す。 かつん、かつん。 その靴音が地下室に響きわたる。ファイネリオンは思わず息を飲んだ。 「ご主人様!」 と、地下室の入口から若い女の声が響いた。静寂を破って飛び込んできたのは若いメイド姿の女だった。そしてその手には、この場によく映える無骨な肉切り包丁を携えている。 「アビセルド!」 しかしサイフィールドは足を止めても、彼女の方を振り向いたりはしなかった。 「彼には指一本触れさせない!」 サイフィールドは俯いた。そして喉の奥からクックッと笑い声を漏らす。 「ええ、彼には指一本触れませんよ」 そう言ってから、低い声で続けた。 「エリーゼ。約束の報酬です。受け取ってください」 メイドは構わず包丁を持ったまま、彼の背中に向かって一気に走り込んだ。 「死ね!」 だが、サイフィールドの笑みの向こうでメイドの身体がビクンと震え、その動きが止まる。 「あっ!」 目に焦りの色を浮かべたまま彼女は自分の足元の砂が──先ほどまで執事だったものが、生き物のようになって自分の身体を登ってきていることに気付いた。 短い悲鳴。そして震えるその手に、誰か別の女の白い手が伸びてきて、握り締めた包丁をそっと取って下に落とす。 からんという渇いた音。 いつの間にか、黒衣の女、エリーゼがその後ろに立っていた。こぼれる笑み。 無言で後ろからメイドを柔らかく抱き締めて、首筋に顔を近づける。そしてサイフィールドの方を見ながら、頚動脈の上あたりを、ちろりと舌で舐めた。 「いや……っ!」 メイドはもう一度悲鳴を上げた。 「すみませんね。貴女の名前ももう忘れてしまったんで。──そう」 また歩き出すサイフィールド。前方のファイネリオンに視線を返す。 「魂は輪廻転世を繰り返します。ですが、ご心配は無用です」 “影をまといし者”は茫然とした顔でそれを見つめていた。 「来世での貴方がたが、このことを覚えていないように魔術を施しておきますから。記憶は魂を疲弊させ苦しみとなります。だから僕は封印などというひどいことはしません。ここで貴方を貴方自身の呪縛から解きはなってさしあげます」 「抜かせ!」 我に返るファイネリオン。怒り狂って、また炎を彼に向かわせようとした。……が、その炎の色はすでに黒ではなく、光輝く白い色をしていた。 「何?」 「僕が先ほど貴方の回りを歩き回ったのに気付きませんでしたか?」 冷たく言うサイフィールド。 白い炎は吸い寄せられるように鉾先を変えて、ファイネリオンに向かっていく。 “影をまといし者”は吠えた。 「さて」 サイフィールドは、魔法陣の近くでよろよろしているロイエルを拾い上げた。そのままクルリと背を向け出口に歩き出す。 エリーゼと若いメイドの姿はすでになかった。彼はやれやれと息をついて、抱えたロイエルをそっと揺さぶってやった。 「大丈夫ですか?」 「ん……あ、ああ」 その後ろで白い炎に肌を焼かれつつあったファイネリオンはたまらず、魔法陣の中に戻ろうとした。が、動きが途中で止まる。 「な?」 彼の身体はそこでびくとも動かなくなってしまったのだ。まるで罠にかかった兎のように。それに向かって白い炎は踊りくねって襲いかかった。目を見開くファイネリオン。 恐しい悲鳴が響きわたった。 白い炎に呑み込まれる黒い影。その中から怒号はもう──聞こえてこなかった。 「きっと来てくれると思ってましたよ。ロイエル」 ファイネリオンの断末魔を全く意に介せず、サイフィールドはオウムに声を掛けた。 「ありがとうございます。彼の幻影を消してくれたのは貴方でしょ?」 「うるさい。ワ、ワタシは別におまえを助けにきたわけじゃないぞ。ワタシは救済者だ。ただ、邪悪な道化師を見過ごせなかっただけだ!」 肩をすくめるサイフィールド。 「おい、ところで、サイフィールド」 それに問いかけるロイエル。咄嗟に話を変えるような口調で。 「なぜわざわざ奴を怒らせるような嘘をついたのだ?」 「は? ──ああ、僕がウリエルに加担した云々のことですね」 そこでサイフィールドは振り返って魔法陣のあった場所を見た。そこにはもうすでに何も残ってはいない。 「いいじゃないですか、そんなこと。でも、どうしてあれが嘘だって分かったんです?」 「馬鹿め。ワタシをあなどるな」 ロイエルは途端に偉そうになって言う。 「あのウリエル様が、おまえのように根性のヒネ曲がった油断もスキもないような奴と手を組まれるはずがないからだ」 「ははあ、なるほど」 途端に満面の笑みを浮かべるサイフィールド。オウムの背をぽんと叩きながら、「……そうですよね。言われてみれば確かにそうだ。はははは……」 笑い声とともに、そのまま一人と一羽はそこを後にした。 *** 夜。時が経ち、空を総べていた三日月は西の空に姿を消した。あと数時間で東の空から昼の支配者が顔を出すだろう。 そんな時刻にサイフィールドは自分の診療所の診察室にいた。卓上のランプは彼の前にいる息を呑むほど美しい婦人の姿を写し出していた。……そしてその泣きはらした顔も。 「わたし、もとはただの平民の娘でした」 涙声でその婦人、アルマは語り出した。 「それをロナルドが──見染めてくれたんです。身分の低いわたしを伯爵家の養女にまでしてくれて、結婚したのは五年も前です。わたしは彼を愛していました。彼はわたしの容姿だけでなく全てを愛してくれていて、あんなにわたしを愛してくれる人は他にいないと、そう思ってたんです。でも……」 「そう、貴女は真実を知ってしまった」 静かな口調でサイフィールドは後をついだ。 「彼が魔術的価値でしか貴女を見ていなかったことを。自分の悲願のために貴女を、貴女のその美しさを利用して──」 彼は最後まで言わなかった。言う必要がなかったからだ。彼女の夫が、妻の身体を他の男に与えて権力を得ようとしていたなどとは。 「先生には感謝しています」 ぽつりと言う。 「わたしは自分の身体が操られて自分の意志とまったく違うことをしていたのを知りました。それを、身をもって体験したのですから」 彼女の頬をまた滴がこぼれ、ハンカチを握り締めた細い手に落ちてゆく。 「わたしは覚えています。ロナルドの笑顔や握った手の感触。それに、わたしに掛けてくれた優しい言葉の数々。でも、それは──」 膝の上で拳を握り締め、「全部、嘘。こんなにはっきり覚えているのに……全部……全部……」 「アルマさん」 彼女の言葉を止めるサイフィールド。 「僕との約束を覚えていますか? 貴女のために僕は手を尽くすと──僕はそう言いました。報酬と引換にね」 アルマはうなづいた。その顔はある一つの決意を秘めた、芯のある表情を浮かべている。 「貴女の魂を僕にください」 彼女の視線を正面から受け、サイフィールドは言った。
|
お読みいただいてありがとうございました。もし良かったらご感想とかくださいませ。 |