御者の怒号と馬のいななき。
突然の衝撃を受けて馬車が急停車した。
そして──静寂。
外では嵐雨が踊り狂っていた。
まるで夜がやってきたような薄暗さ。砂利と泥土が跳ねる音。雨。やむことのないそれは……まるで狂騒曲のよう。
雨はもちろん馬車の中まで入ってこない。しかしその陰欝な旋律はいやでも心の中に染み込んできた。心の中。心の奥深く。
ロンドン郊外の田舎の山道。
そこには嵐の中立ち往生してしまった馬車が一台と、それに乗車している若い女性が一人。
かなりの衝撃だったが、その女性は前の壁に手を付いて急停車の衝撃にも耐え、全く動じた風もなかった。
彼女は、暗赤の乗馬服のようなスーツに、膝下までの長いコートという出立ちで、それは全くと言っていいほど洒落っ気がなく、この英国の婦女子があまり好むような服装ではない。
彼女は何事が起こったのかと、なめらかな身のこなしで窓の外を見ようとした。すると外の暗さのせいで、ガラスに彼女の顔が映っていた。やや細めの青い瞳。同じく細い眉。肩の上で綺麗に切り揃えられた艶やかな黒髪。そしてそのカナメという名前……その全ての要因が彼女が東洋人の血を引いているということを如実に示していた。
窓からは外の様子が分からないので、彼女、カナメは御者と会話をするための小窓を覗いた。が、案の定、そこにいるはずの御者の姿はない。
耳を澄ませるカナメ。何か外で話し声が聞こえた。仕方なく自分で扉を開けて外へ出る。そんな彼女を雨が激しく歓迎してくれた。
馬がじれったそうに地を蹴る音。見れば、馬の吐く息も白い。
御者はすぐに見つけることができた。馬車の後ろの方でこちらに背を向け屈み込んでいる。一瞬、何をしているのか判断に迷ったがカナメは御者の姿に半ば隠れるように倒れている男の姿を認め、足を早めた。
「生きてるの?」
御者の背中に声をかける。流暢な英語。
御者は必死にその男を揺り動かすのをやめ彼女を振り返った。焦りに満たされた顔。
「いや、それが、その」
「退いてちょうだい」
カナメは困惑した彼が退くのを待って、男のそばに屈み込んだ。
そこに仰向けに倒れていたのは大柄な一人の男だった。年齢は三十手前ぐらい。薄手のコートに安物のスーツ。その服装を見る限りでは、いわゆる下層階級の人間なのだろう。
その顔には大粒の雨が容赦なく降り注いでいた。
「……前を歩いてたらしいんでさあ」
御者がおずおずと口を開く。わずかに弁解じみた口調で。
「でも、嵐の日にこんな道を一人で歩いてる奴の方がおかしいと思いやせんか? あっしは一応馬車を留めようとしたんたけど間に合わなくて」
「生きてるわ」
御者の言葉を途中で止め、カナメは言った。その細い手で男の手首を調べながら。
「え?」
「凄い強運の持ち主ね。特に怪我もしていないようよ」
彼女は後ろを振り返り、「どうするの? この男」
「え、どうするって」
「貴方の好きにすればいいわ」
「ああ、はあ……」
御者は迷っているような素振りを見せたが、見捨てて行きたいのが本音なのは明らかだった。彼はごく一般の道徳心から、たいした金も持っていないような男を助けるような義理を持ち合わせていないのだろう。
しばらく考えたフリをして彼は言った。
「仕方ない、そこの木陰にでも引っ張っておきやしょう」
御者はカナメから目を逸らし、「あんたをあの屋敷まで乗せた後、帰り道に拾って」
「──おい、待てよ」
唐突にその言葉を男の声が遮った。「そんなこと言って見捨てていくつもりじゃねえだろうな?」
ビクッとする御者。カナメはさっと振り返る。それと同時に、彼女は手首をがしりと力強い手に掴まれた。
例の男が意識を取り戻したのだ。彼はカナメの手首を掴んだまま起き上がって、空いている方の手で自分の頭に手をやった。
「痛てー。この馬公、俺を踏みつけやがった」
だが彼はその言葉ほど痛がっている様子はない。彼は視線を御者の方に移す。
「おい、おまえ、どうしてくれんだよ! 俺は痛くて死んじまいそうだ」
「すいやせん。こんなところに人がいるとは思いませんで」
咄嗟に頭を下げ謝りだす御者。
「道は馬車のものだけじゃねえんだぜ。前ぐらいちゃんと見ろよ、おまえの目ん玉は背中についてんのか? ああん?」
「どうでもいいけど」
カナメは冷たい眼差しを男に向けたまま、口を挟んだ。
「手を放してくれる?」
「あ、悪りい、悪りい」
男はパッとカナメから手を放し、立ち上がった。彼女も合わせて立ち上がる。向き合ってみると小柄な彼女と男の身長差は優に三十センチ以上はありそうだった。
彼はカナメを見下ろしながら、その泥だらけの顔に、途端に笑顔を浮かべてみせる。
「ねえちゃん、綺麗だな」
「お世辞のつもり?」
カナメの瞳は冷たいまま。
「……いや、そうじゃねえよ。怒っちまったんなら謝るぜ」
彼はものともせずに、腰に手を当て悠然と言った。
「たださ、さっきチラッと聞こえたんだが、おまえこの先の屋敷に行くんだろ?」
カナメはその顔色を伺いながら、ゆっくりうなづいてみせる。
「そうか。よし、決まりだ」
すると男は視線を巡らして、おどおどしている御者の姿を見つけると、つかつかと歩いていって、いきなりその襟首を掴み上げた。
「ひっ、何を」
「おい、人を痛い目に合わせといてその言い種か?」
男は相手をにらみつける。御者の足は今にも宙に浮きそうだった。
「本当だったら殴り飛ばしてやりてえところだが、おまえが俺をこの先の屋敷まで乗せてくれるっつうんだったら、このべっぴんのねえちゃんに免じて許してやるぜ」
「ひいい、の、乗せます。乗せます!」
少し息が詰まって赤くなりながら言う御者の顔を見ながら、男は満足そうにうなづいて、手を放してやった。
振り返り、カナメに笑顔を向ける。
「いやー。なんて親切なんだ。こいつさ、俺も乗せてくれるんだってよ」
言いながら彼はさっさと馬車の扉まで歩いて行って、勝手にそれを開けた。カナメを振り返る。
「ねえちゃん、乗んなよ。レディファーストだ」
目を細めるカナメ。それから彼女は静かに馬車の方に歩いて行き、男の横で一瞬だけ足を留めて、冷たい視線を男に投げうった。
「貴方、後悔するわよ」
それだけ言って馬車に乗り込む。男はきょとんとしてから、わけが分からないといった具合に肩をすくめ、その後に続いた。
馬車の中は狭く、必然的に向かい合う格好となった。カナメはコートから雨露を払いながら、前の乱入者を観察した。
短く刈り込んだ赤みがかった金髪。その黒くてよくクルクル回る瞳はまるで犬のようにひとなつっこく見える。それが手伝って、彼を大柄の好人物と言えなくもなかったが、いかにもお喋りといった感じの大きな口が玉に傷か。
「いやー助かったよ。俺、ずっと歩き通しでさ」
カナメにジロジロ見られていることも気にせず彼は喋り出した。同時に馬車も走り出す。「タフなのね」
カナメは顔を手で拭い、言う。
「馬に踏まれても骨折一つしない人になんて始めて会ったわ」
「え? さっきの、本気にしてんのか?」
男は大げさに手を横に振ってみせる。「馬に踏まれたら俺だってタダじゃすまねえよ。咄嗟に横によけたのさ」
「ふうん、そうなの。だから気絶したフリをしてたのね」
「げ、なんだ知ってたのか」
その言葉にカナメはわずかな笑みで答えた。
それから彼女は興味をなくしたように彼から目を逸らし、細く白い手で髪をまとめて水を絞った。その襟足から真っ白なうなじが覗いているのを垣間見て、男は少し背筋が寒くなるのを感じた。
「おまえ……何てえんだ?」
たまらず男は尋ねた。カナメは彼の目を真っ直に見る。
「……。先に名乗るのが英国の礼儀なんじゃないの? 大男さん」
「あ、そうだな。悪りい」
男は顎の無精ヒゲをさすりながら続けた。
「……俺はジョー・ジェット=サレンダー。ロンドンで“厄介事処理人”をしてる。まあ街でおこるちょっとしたいざこざを解決してやって、少しの手数料をいただくって仕事だよ。……もちろん“私立”だけどな」
「“降伏する”さん? 縁起でもない名前ね」
「だろ? だからみんなにはファーストネームで呼ばせてるんだ。ごろつきのボスだって俺のことをジョーって呼ぶんだぜ」
男、ジョーはそう言って微笑んだ。
カナメは両手を下ろして、そろえた膝の上に置いた。
「わたしはカナメよ。発音しにくかったら好きに呼んでもらって結構よ」
「え? 何? カナ……メ? 変な名前だなあ」
「それはお互い様よ」
「ま、そうだけどよ」
男、ジョーはうなづき、目をクルクルさせた。「おまえ、目だけ青いんだな」
「ええ。貴方くらい黒い瞳をしてたらちょうどいいのにね」
ニコリともせずに、「ちょうだいって言っても、くれないでしょ?」
「まあな。でも、この目ん玉はやめといた方がいいぜ」
彼はおどけた調子で首を横に振る。
「俺の婆ちゃんが言うには、この瞳は呪われた“黒星”なんだとよ。これを持ってる限り俺は幸福になれねえらしい。……まったく、実の孫にいう言葉かよと思うけどな」
と、彼はカナメの顔を覗き込むように見た。
「それよりさ、おまえ、日本人との混血児なんじゃないのか?」
「ええ、そうよ」
素直にうなづくカナメ。
「でもよく日本なんて国、知ってたわね」
「フォッグ氏とパスパルトゥが行った国じゃねえか。知ってるよ」
「誰、それ?」
「ヴェルヌの“八十日間世界一周旅行”に出てくる奴らだよ。……読んでねえのか?」
「……あいにくね」
肩をすぼめるカナメ。
「読むといいぜ。最新作だからな」
ジョーはそれに目をつむってみせる。
「そうそう、あと俺の婆ちゃんは古物雑貨屋もやっててさ、俺、そこで日本の人形を見たことがあるんだ。おまえ、あれにそっくりだぜ。その香水だって日本のやつだろ?」
その童顔をほころばせ、ジョーは続ける。
「それに、おまえが腰から下げてるそのおっかないモンだって日本の武器じゃねえか」
途端にカナメの雰囲気が変わった。
彼女は無言で目を細め、左手を腰のあたりにスーッと持っていく。
少し間を開けてから一言。
「“厄介事処理人”の肩書きは、伊達じゃないってわけ?」
「まあな」
ジョーは笑顔のまま、「それに、俺は鼻もいいから、いつもいろんなことを嗅ぎつけちまうんだ」
「へえ、そうなの」
カナメはその手を戻し、「……貴方がいろいろな想像を働かすのは勝手だけど、わたしはあのカンタベリー伯爵邸に仕事で行くの」
彼女は静かに続ける。
「貴方のその観察眼が、貴方の商売道具であるように、わたしの日本刀もわたしの商売道具なのよ」
青い目を伏せ、「それに付け加えるなら、化物や怪物を斬るのがわたしの仕事。それだけ言えば分かるんじゃないの?」
その言葉には、これ以上そのことに触れるなというニュアンスも含まれていた。
ジョーは彼女から目を逸らし、その短い金髪をくしゃくしゃやった。
「なるほどなあ、そういうことか。……分かったよ」
「貴方はなんなの?」
ふいにカナメが言った。
「え?」
「何をしに伯爵邸に行くの?」
「ああ。似たようなことだと思うぜ」
少しだけ口を歪める。
「たぶんな」
「たぶん?」
カナメの視線が鋭く彼に刺さる。
「それじゃあ困るの。わたしが言いたいのは……」
そこで、馬車が静かに停まった。目的地である例の屋敷の前に着いてしまったようだ。彼女は言いかけた言葉を途中で止めて、口をつぐむ。
ジョーは少し真顔になって彼女を見た。
「言いたいのは……何だ?」
「いえ、やっぱりいいわ」
思い直したように、彼女は窓の外に視線を移した。そのまま腰を浮かせて御者を待たずに自分で扉を開けてしまう。
さっさと荷物を持って外に出ようとして、彼女はふと思い出したように、ジョーを振り返った。彼をじっと見る。
「そうね、一つだけ聞いてもいいかしら?」
その青い瞳は無感情で冷たく、受けていて心地好いものでは決してなかった。
ジョーは首を縦に振る。
「貴方、強いの?」
言われて、彼はふっと微笑んだ。黒い瞳を好奇心の色に光らせながら。
「たぶん、おまえよりはな」
「そう、楽しみね」
ジョーは肩をすくめる。カナメはそれを尻目に馬車から滑るように降りていった。
1 撃たなかった男
それは、この雷鳴轟く嵐の中でも異様な静けさを保っていた。
蔦の絡まった煉瓦が形作るは、古びた一件の館。
生い茂る森の木々が、荒れ狂う風に雨に、その身を晒して激しく踊っているというのに館自身は微動だにしていない。窓の中には、黒々とした闇が広がっているだけ。
屏に囲まれた門にも蔦は絡まっていた。しかしそれは手入れが行き届いていないわけではなく、この庭を手入れしている者の趣向だと思われた。何故なら門の鉄格子は錆びておらず、よく使われていることを如実に表していたからである。
「開いてっかな?」
カナメの視界の端で、ジョーが門の鉄格子に手を伸ばしかけていた。
しかし指の先がそれに触れた途端、熱いものにでも触れたかのように、彼は手を引っ込めてしまった。その驚いたような視線が宙をさまよいカナメの顔に落ち着く。
「どうかした?」
「いや……何でもねえ」
ジョーは彼女から目をそらす。「鍵かかってねえみたいだ。早く行こうぜ」
「そうね」
「あの」
その二人の背中に御者が声を掛ける。
「そいじゃ、あっしは失礼しやす」
「ああ、気ぃつけろよ」
ジョーは雨の中ニンマリして、「……もう、人は轢くなよ」
「いやあ、そりゃあ、もう」
御者はぺこぺこと頭を下げてから、馬車の方へ走っていった。
それを目で見送ってから、二人は鉄格子を開けて館の庭の中に足を踏み入れていった。
脇で何かがうごめく音。気のせいか。
誰かに見られているような感覚。きっと、それも気のせい。
歩いていくにしたがって、窓の中が全くの暗闇でないことに気付く。揺らめく明かり。中には人の気配もする。それが二人の心を少しだけ和ませる。そう、少しだけ。
短い石段を上り、すぶ濡れの身体を奮わせる。そして二人、顔を見合わせた。
獅子がくわえた輪で戸を叩くのはジョー。繰り返す。
重そうな音を立てて、扉はすぐに開いた。
そこから覗くのは、黒いスーツに身を固めた中年の男。おそらく執事であろう。その顔は薄暗く、中からの明かりを背にしていて、あまりよく分からなかった。
「何か?」
「ああ、あのな……」
「ウィニフレッド=スミスです。連絡は来ているはずですけど?」
ジョーが何か言いかける前にカナメが素早く口を挟んだ。
執事は彼女に視線を移した。少しの沈黙。 「スミス様ですか。お待ちしておりました。どうぞお入り下さい」
その言葉と共に、扉が木のきしむ音を立てながらゆっくりと開いた。執事は身を引く。
カナメは中へとスッと足を踏み入れた。驚いたような顔をして、連れを見るジョー。
中は思ったよりも広かった。落ち着いた紫色の絨毯が敷き詰められ、質素で地味な装飾品の数々が壁に飾られている。
執事が手を軽く叩く。すると、女中らしき中年女性が脇から現れて、来客の二人に、濡れた身体を拭くための布を渡してくれた。
カナメはそれを使いながら辺りを見回した。明かりは廊下に置いてあるいくつかの燭台のみ。その仄かな橙色の光は遠慮がちに辺りにこぼれている。それに従って視線を巡らせると、左手には、カーヴを描いて二階へ続く階段があった。このホールは吹き抜けになっていて二階の廊下がせり出しているのである。
カナメはそれを見上げていて、ふと、一人の男性がこちらを見下ろしているのに気付いた。声を掛けようとする前に、彼の方が先に口を開く。
「ようこそ、いらっしゃいました」
カナメはさらに彼の視線の高さから、その人物が車椅子を使っていることに気付いた。
脇にいた執事と女中がそれに反応して素早く階段を登っていこうとする。
「待ちなさい。ジェームズ、サマンサ」
落ち着いた声がそれを止めた。「私の方はいいから、この方たちを部屋に案内して差し上げなさい」
「はい」
歩みを止める執事と女中。それから、車椅子の壮年の男性はジョーに視線を移した。
「初めまして。私がこの館の主人のレイモンド=カンタベリー伯爵です。貴方が“退治屋”のスミスさんですか?」
「いえ」
またもジョーが何か言う前にカナメが言った。
「わたしがそうです」
伯爵はカナメを見、目を細めた。
「これは……失礼。女性とは思っておりませんでしたので」
「電報には限界がありますから」
カナメは少しだけ笑みを浮かべる。
「それに、わたしどものような者は退治屋ではなく“月狩人”といいますの。以後お見知りおきを」
伯爵はうなづいた。それからまたジョーの方に目をやる。
「では、そちらの男性はお連れですか?」
「いえ……」
「ああ、そうなんだよ」
問いを否定しかけた彼女を遮って、ジョーはいきなり言った。
「俺はジョー・ジェット=サレンダーっつって、こいつの従兄弟なんだ。一人じゃ危なっかしいから、くっついてきたんだよ」
そのあまりに横柄な口の聞き方に、そばにいる執事と女中が一斉に非難の視線を彼に浴びせた。自分たちの主人にこんな口を聞くような者に会ったのが初めてなのだろう。信じられないといった面持ちだった。
構わず、ジョーは伯爵に向かって続けた。
「迷惑っつうなら帰るけどよ。……こんな広い屋敷だ。俺一人くらいどうにかなるだろ?」
執事と女中は彼のあまりの言い種に目を丸くした。カナメも目を細める。
少しだけ間があった。
「面白い男だな。君は」
が、幸いにして当の伯爵はそれをほとんど意に介していないようだった。
「ああ。よくそう言われるんだ」
「サレンダー君といったかな?」
「ジョーでいいよ」
「ジョー。君の指摘通り、この屋敷は広い。好きな部屋を使ってくれ」
執事たちがその言葉を疑うように階上の主人を見上げる。
「ありがとよ。恩にきるぜ」
ジョーは伯爵に笑顔を向けた。
「では」
が、彼は急に真顔になって目をそらせた。
「詳しい話は食事の時に……」
それはまるで、今までのやりとりがなかったようなよそよそしい態度だった。
「どうぞゆっくりなさっていって下さい」
伯爵はそれだけ言うと、二階の廊下の奥へと消えていった。
ジョーは拍子抜けしてカナメを振り返る。すると彼女も彼を無視したかのように、自分の荷物を持って女中の後に続いていた。
「おい、待てよ」
そのまま彼女の横に並ぶ。カナメはもうすっかり馴染みになった冷たい眼差しを彼に向けた。
「貴方、無神経ね」
「そうかな?」
苦笑いをするジョー。
二人は無表情の女中と執事の後に続いて、階段を登っていった。そしてすぐ横の壁に何枚もの肖像画が飾ってあるのに気付く。額の金色のプレートを見る限りでは、このカンタベリー伯爵家の代々の当主とその妻の肖像らしい。
下から上にいくに従ってだんだんと新しくなっていく。そして階段を上りきったところに飾ってあるものが一番新しいもの……つまり現在の当主夫妻の肖像のようだった。
そこには先ほど出合ったレイモンド卿の若き姿と、天使のように美しい女性が描かれていた。プレートには“レイモンド=カンタベリー&サラ=カンタベリー”とある。
歩きながらカナメはそれに見入っていた。
「なあ」
ジョーがふと、前を行く執事に声をかける。
「奥方はどうしちまったんだ?」
執事はぴたりと足を止め、彼を振り返った。女中も同じ。
それは気味が悪いほど同じ色の顔。泥のような色をした瞳には彼に対する非難の色はもうなく、代わりに絶望に似たものが浮かんでいた。
「奥様はお亡くなりになりました」
そして、予想された通りの言葉。
「へえ。そうなのか」
ジョーは頭の後ろで手を組む。その明るい声がこの空間の中で浮いていた。
「こんな山の中だもんな、早死にすんのも無理はねえよ」
その言葉に反応はなかった。執事たちは二人に背を向けて、また歩を進めはじめる。
誰ともなく眉を上げてみせるジョー。
ほどなくして二人はそれぞれの客室に通された。部屋は隣同志。
ジョーと別れたカナメは荷物を置き、部屋をぐるりと見回した。気味が悪いほど辺りは静かだった。
部屋の中にはベットとタンスと使われていないらしい暖炉がある。そのマントルピースの上には、少し場違いな“不思議の国のアリス”の登場人物たちの人形が飾ってあった。何となくそれを手にとって眺めていると、女中が無言で着替えと篭を持ってきてくれた。
「濡れたお召し物は、ここへお入れ下さい。それから、お食事のお時間になりましたら、お呼びしますので」
「分かったわ。ありがとう」
カナメはチェシャ猫をもとの場所に戻して、女中がドアの向こうに消えていくのを目で確認してから、ゆっくりと服を脱ぎ始めた。
抑えた照明。長いテーブルと真新しい白いテーブルクロス。無言で立つ執事。そんな中で伯爵と来客二人は静かな食事をした。
タイをせずに、貸してもらった白いブラウスをラフに着こなしたジョーと、同じく貸してもらった朱色のイブニングドレスをきちんとまとったカナメの姿は対象的だった。
ろくな会話もなく時間は過ぎていき、食後のブランデーを飲みながら、伯爵は簡潔に二人に事の顛末を話してくれた。
ただ、その話口調がいつものことなのか、努めて感情を交えないようにして喋っているのかはカナメには分からなかった。
ジョーでさえ、伯爵と目を合わせず話を静かに聞いている。
カナメが、このレイモンド卿からの手紙に目を通したのは三日前。手紙には、この館に現れる化物について書いてあった。化物を退治する為にいろいろな者を雇ったが、それがことごとくその化物に返り討ちにあっているということだった。
「大体のお話は分かりましたわ」
彼女は伯爵に向かって言った。静かな声。
「その者の正体も大体見当がつきます」
口を付けていないブランデーグラスを見ながら続ける。
「それは人狼でしょう。いわゆる先祖がえりというものですわ。身体のどこかが覚えている野生の本能に身をゆだねてしまった者などのことなんです。人間は、誰しもそうなる可能性を秘めていますわ。普段は人間と変わらないのですが、一度その“獣”に目覚めて理性を失ったら相手の内蔵を引きずり出すまで彼等は止まらなく」
そこでカナメはジョーの方を見つつ言葉を止めた。
「ただ、手紙には詳しいことはございませんでしたが、なぜその者はこの館に現れるんですの? お心当たりがおありでしたら、教えていただきたいのですけれど……」
「……」
伯爵は彼女の顔を見る。灰色の瞳。少し白髪の混じった髪。無表情。
「簡単ですよ。彼の目的は私なんです」
眉をひそめるカナメ。伯爵はグラスを置き、ブラウスの袖のボタンを外して、ゆっくり腕をまくり上げた。
「うわ」
ジョーが小さな声を上げる。
その伯爵の腕には、無数の惨たらしい傷痕があったのだった。噛み跡なのだろうが、何なのかよく分からないものまである。
「それは?」
傷痕を見つめながら尋ねるのはカナメ。
「私は黄金律の身体をもっているそうなんです。彼に言わせるとね」
「黄金律?」
「完全に均整のとれた身体のことですわね。魔術的に重要といわれている」
誰ともなく言ったジョーに、カナメは素早く答えてやった。
「彼は一週間に一度、決まった日に現れ、私の血を吸いに来るんです。毎週、安息日の次の日。つまり今日のような月曜日にね」
「外の嵐は相変わらずのようですけど、それでもその者は来るんですの?」
伯爵はゆっくりとうなづく。
「分かりましたわ。わたしに任せて下さいませ」
カナメはその細い指を組み合わせた。そのまま視線をジョーの方に移す。彼はこの席についてからというもの、何か考えごとに没頭しているようで口数も少なかった。彼女はその顔色を伺おうとする。
すると彼はカナメの話が終わるのを待っていたかのように顔を上げた。
「ところで、レイモンド卿」
がらりと話題を返るような口調。伯爵は彼を見た。
「奥方、死んじまったんだってな」
ジョーはいきなり無神経な切り口で尋ねた。
「ええ」
が、見たところ伯爵の瞳には見たところ何の色も浮かばない。ジョーはその黒い瞳で、じっと彼の顔を見つめていた。
「その化物に殺されたのかい?」
「いや、違います」
その返答は妙に素早かった。
「十年前に、病気で……」
声が一瞬上ずる。わずかな兆候。
「そうか、悪りいこと聞いちまったかな」
言ってからジョーは、カナメの方をちらりと見た。
彼はそっと立ち上がる。
「じゃ、俺行くわ。ごちそうさん」
一応頭を下げるジョー。うなづく伯爵の顔はまた無表情になっていた。
構わず彼はそこを後にしようとした。
「ジョー」
その背中に声をかけるのはカナメ。ジョーは振り返らなかった。彼女の冷たい視線を浴びているのが見なくても分かったから。
「後でわたしの部屋に来てちょうだい」
ジョーは軽くうなづいてそのまま部屋を出ていった。
カナメは物音一つしない空間の中で、等身大の大きな鏡の前に立っていた。彼女にあてがわれた部屋の中。朱色のドレス姿が白黒の世界の中で浮き立つように映えている。
両手で髪を結い上げて、朱色の棒……日本ではかんざしと呼ばれるものを差してそれを固定する。それから顔を少し傾けてそのバランスを見ていると、ドアがノックされた。
カナメはそのまま返事をした。
「どうぞ」
ドアの開く音。男の足音が近づいてきて、鏡にジョーの姿が映る。鏡の中で目が合って彼は短い口笛を吹いた。
「さっきはレイモンド卿の手前言えなかったけどよ、お前そういう格好似合うぜ」
「貴方でも人目を気にすることがあるのね」
「そりゃあなあ」
「別のこと考えてて、わたしが目に入らなかったんじゃないの?」
カナメは振り返った。そして滑らかにジョーの脇をすり抜けて、ベットに腰掛けた。そこに置いてあった日本刀をそっと手に取って、うつむく。その朱塗りの鞘を、まるで猫のように優しく撫でながら。
「貴方は隠しごとがいっぱいね」
「え?」
キョトンとするジョー。カナメは顔を上げ、その彼の顔を見上げる。
「貴方はどうするつもりなの?」
「何が?」
と、ジョーは一瞬、戸惑ってから、「……って、ああ、おまえの化物退治の話か」
うなづくカナメ。
「邪魔をするつもりはねえよ。さっきはあんなこと言っちまったけどさ、俺もおまえとほぼ目的は同じなんだ。ここに現れる人狼をどうにかできれば、俺はそれでいいんだよ」
青い瞳には冷たい色が。
「いろいろ事情があるとでも言いたげね」
「まあな」
「それに、それを教える気もないみたいね」
「まあ、俺のプライベートなことだからなあ」
ぽりぽりと頭をかくジョー。
「そう」
カナメは彼から目を背け、そっと日本刀の杷を握った。
「ところで、さっき馬車の中で」
静かな青い瞳がジョーの姿を捕らえる。彼女は立ち上がり、スッと足を踏み出す。
「貴方、わたしより強いって言ったわよね? 今試してみない?」
「あぁ? おいおい、やめろよ」
ジョーは両手を横に振ってみせる。
「怒ってんのか? なあ。おまえさ、綺麗な顔してんだから、そういう恐い顔しねえ方がいいぜ」
言われて、カナメは微笑んだ。それはまるで作ったような笑み。
「下手な台詞ね」
「俺は本気で言ってんだぜ」
口をへの字にするジョー。
カナメは刀をベットに置いた。そして彼にそっと近づいていく。それはまるでダンスのステップのように優雅な足取りだった。
ジョーもそれに合わせて、彼女に近づいてその手をとった。そのままカナメの身体を引き寄せて、細い腰に手を回してクルリと一回転してみせる。
異国風の香りもあたりに広がる。
「こういうのだったら、いつでも相手になるぜ。俺もあんまりうまくねえけどよ」
カナメは特に抵抗するわけでもなく、また先ほどと同じような形だけの笑みを浮かべてみせた。
「ねえ、一つ聞いてもいいかしら?」
「あん? 何だ?」
「鏡にも映るし、血の匂いもさせてない。貴方は一体何しに来たの? 狼さん」
いきなりの言葉にジョーは絶句した。彼女から目を逸らして、うつむく。
「……見破られてたってわけか」
溜め息とともに言う。
「ええ。それに貴方の返答次第によっては……ね」
カナメは刀に一瞬だけ目を落とし、「わたしはあなたと違って冗談嫌いなの。それは分かるわね?」
「ああ。よく分かるよ」
苦々しげにジョー。
「さすがだな。“冷酷女”の瞳はなんでも見抜いちまうって噂は本当らしい」
カナメは彼の横顔を見上げた。
「わたしのこと前から知ってたの?」
「まあ……な。俺は街の“厄介事処理人”をやってるって言ったろ? もっとも、名前聞くまではおまえがあの“冷酷女”とか呼ばれてる“月狩人”だとは思わなかったけどよ」
彼女に目をやり、「おまえは自分で思ってるよりも有名なんだぜ。一体、何人の月の眷属を殺したんだ?」
「化物を殺して何が悪いの?」
少しだけ憤然とした色を青い瞳に浮かばせ、カナメはジョーから離れた。
「それに、わたしはその月の眷属っていう言い方は嫌い。わたしはもう人間に戻れないような、どうしようもない化物を斬るだけよ」
「じゃあ、俺は斬らねえよな」
ジョーは少し笑みを浮かべて、「俺は最近、“月狩人”達が言うところの月の眷属になっちまった身だからな。まだ……ヒヨッ子ってやつなのさ」
「よく、そんなことが言えるわね。猫の仔だって、やがて狩りをするようになるわ。大人のようにね」
彼はカナメを見た。真顔で。
そしてまた溜め息をついて、ベットにどっかと腰掛けた。
「厄介事を引き受ける人間が、厄介事に巻き込まれちゃかなわねえからな。おまえには関わらないようにしようと思ったんだが。分かったよ。説明してやるよ」
カナメもその隣に間をおいて座る。
ジョーは無精ヒゲをさすりながら、語りだした。
「俺が人狼になったのは本当に最近だ。話すと長いから省略するが、この間、俺が弟みたいに可愛がってた奴が俺の元に帰って来たんだ。恨みを晴らすためにな」
言葉を止め、カナメの顔をちらりと見る。
「……いろいろあってさ。奴は俺を死ぬほど憎んでたんだ。あいつは獣と化して俺に襲いかかってきた。その結果、俺もそういう身体になっちまったってわけさ」
淡々と語るジョー。その横顔をカナメは静かに見つめていた。
「つまり俺は、俺自身の厄介事を片付けに来たんだ。ここをつきとめるのは俺にとっちゃあ簡単だったよ。……それに俺はこう見えても感性が鋭くてなあ。いわゆる人の見えないものを見ちまう能力がある。さっき門のところで、俺の弟分の残留思念を感じた。奴はここに現れるっていう人狼に間違いない」
彼はその金髪をくしゃくしゃとやった。
「カナ。俺を殺してもいいぜ。俺の厄介事が片付いたらな」
彼女は立ち上がった。そしてジョーの目の前を絹擦れの音をさせながら通る。
「わたしは貴方の噂を聞いたことはなかったけど」
唐突にカナメはそう切り出した。先のジョーの言葉には答えずに。
「貴方に興味があるわ。個人的にね」
「なんだって?」
「勘違いしないで。わたしは貴方のその瞳──“黒星”に興味があるの」
ジョーの顔から笑みが消えた。
「前にも貴方みたいな能力をもった人に会ったことがあるのよ。貴方もその瞳で物や人の過去の姿を視ることができるんでしょう?」
「まあな」
そう答えた彼は目を伏せつつ、
「不本意ながら、な」
「視てもらいたいことがあるの」
ふっと顔を上げるジョー。無表情に近いカナメの顔を見つめる。彼は今、彼女のその言葉に微妙なニュアンスを感じたのだ。それは彼女に会ってから始めてのことだった。
彼はしばらく沈黙してから言った。
「いいぜ」
と、彼女の顔をうかがいながら、「おまえも俺の頼みを聞いてくれるっていうならな。引換条件ってやつさ。どうだ?」
カナメは無言で彼の瞳を見る。
「いいわ。聞きましょう」
「よし、決まりだな」
金髪の大男は小さく息を着き、「なあに単純なことさ。奴に、先に会わせて欲しいんだ。少し話したいことがあるんでね」
そう言ってから、ジョーはわずかに緊張したような面持ちで天井を扇いだ。
「それで、俺が死んだら、後始末を頼みたい」
カナメは一瞬目を床に落とし、もう一度彼の顔を見てからうなづいた。
ジョーはそれに力ない笑みを向ける。
「ありがとよ」
「ただ、一つ言っておくけど」
カナメはさっと彼に背を向けて、鏡の方に歩いていく。
「貴方は死なせないわ。約束を守ってもらうためにはね」
それを聞いてジョーは苦笑を漏らした。
「なんだか……こう、ロマンチックな場面で言ってもらいたい科白だったなあ」
カナメはその言葉を無視したかのように、また鏡の前に立って、かんざしの位置を変えてみたりする。
それからジョーに声を掛けた。
「わたし、これから着替えるの。ジョー。出て行ってくれる?」
ジョーはふっと微笑んだ。
「そうさせてもらうよ」
立ち上がり、部屋の外へ向かう。彼はドアの前で振り返り、カナメの姿を見た。
ジョーはそれに何か言おうとしたが、口をつぐんでしまった。そのままうまい言葉が見つからないといった具合に首を軽く振りつつ、彼はそこを出ていってしまった。
何もない、ただ闇だけの視界の中に、重い鐘の音がこだまする。
十一回。
ジョーは目を開けた。
すると、柔らかな光に包まれた玄関ホールの眺めがそこにはあった。
まるで暗闇を恐がる子供を寝かし付けるために明るさを落としたような薄暗さだったが、それがかえって彼の神経を研ぎ澄まさせていた。
ジョーは階段の中途に腰掛けたまま、ゆっくりと視線を巡らせていく。正面扉のすぐ横にある背の高い銀の燭台や、壁に掛けられた質素だが格調高い装飾品の数々。それから振り返って大きな柱時計を見ようとした。
と、その視線が時計ではなく階段の上の方に動く。そこに立っている人物がいたからである。
黒髪の東洋人系女性。その名はカナメ。
「よお」
軽く手を挙げると彼女は階段を静かに降りてきた。その服装はあの暗赤のスーツに戻っていた。
その朱塗りのかんざしを揺らしながら、彼女は無表情のままジョーの隣で足を止める。
「警告しにきたの。この館のこと」
ジョーはきょとんとした顔をする。
カナメはそんな彼をちらりと見て、「この館にあるもののほとんどから、神秘魔術の匂いがするの。貴方には分からないかもしれないけど」
「神秘魔術だって?」
言われてジョーは辺りをキョロキョロと見回してみる。しぱらくそうしてから彼は首をかしげた。
「確かに俺の専門からは外れてるみてえだな」
「気を付けて。何が起こるか分からないわ」
「うーん。そう言われてもなあ。専門外なんだからどう気をつけりゃあいいのか分からねえよ」
そう言いつつ、彼はカナメに片目をつぶってみせた。
「ま、とにかく教えてくれてありがとうよ」
「礼ならさっき聞いたわ」
カナメはさっと彼に背を向けて、階段を降りていった。そのむげな態度に、ジョーはやれやれと言った具合に肩をすくめる。
カナメは階段を降り、玄関ホールから廊下の方へ歩いていってしまった。
その遠ざかっていった足音の代わりに、外の雨の音がよく聞こえてくるようになる。
ジョーはまた溜め息をついて、階段の下の方まで降りていき、そこに腰を降ろした。
懐に手を入れて、ゆっくりと一丁の拳銃を取り出す。弾倉に六発の弾が入っているのを確認して、彼はもう一度溜め息をつきそうになり、誰ともなく苦笑した。
気をとり直し弾倉を元通りにして、ジョーはその拳銃を脇に置いた。それから肩を回して筋肉を解しはじめる。
と、その彼の動きがぴたりと止まった。彼の“黒星”と異名をとる黒い瞳は、玄関正面の扉に固定された。咄嗟に右手で銃を取り、ジョーは素早く立ち上がる。
それと扉が開くのはほぼ同時だった。
扉の開く大きな音がホールに響く。遅れて外の嵐の音が急に現実味を帯びて、ジョーの耳に届いてきた。
そこには一人の男の影。幅広の帽子とロングコートからポタリ、ポタリと雨露を滴らせている。
男は一歩足を踏み出す。
ギィ……とかすかな音を建てて扉がゆっくり閉じていく。嵐の音がまた遠くなる。そして静けさ。
男はゆっくりと帽子を取り、それを近くのコート掛けに掛けようとしてその動きを止めた。階段の下に立つジョーの姿に気が付いたからである。
薄暗い中、彼は顔を上げて帽子を脇に放り投げ……ニヤリとしたらしい。
「へえ、今日も出迎え付きか。気が利くな」
その声はまだ若い男のものだった。
「懲りねえな。何人雇っても同じだと言ったのにそれが分からねえらしい」
「ロバート」
“黒星”と呼ばれる男は静かに言った。
「俺だよ」
男が、パッとコートのボタンから手を放し、もう一度顔を上げた。一瞬の沈黙。だが彼、ロバートはすぐに何事もなかったかのようにコートも脱いで、やはり脇に放り投げた。
「何だ、来てたのか」
平静を装うような声。
彼が着ていたのは随分と仕立てのいいスーツだった。茶色の髪もきちんとまとめていて、さながら若き紳士といったところの容貌だ。
「そろそろ来るんじゃねえかと思ってたんだよ」
手袋も外して、床にぽとりと落とす。
「でも、あんたならこんな所すぐに分かったはずだぜ。なんでこんなに遅れたんだ? どこで油売ってたんだ?」
「ジーナを弔ってたんだ」
答えるジョーの声は冷たく、気味が悪いほど色を感じさせなかった。
「だから、遅れた」
ジョーはジリッと足を踏み出す。銃を手にしたまま。
対するロバートもゆっくりとジョーの手にしたものを見て、また視線を相手に返した。
ジョーは階段を降りきって言った。
「ロブ。どうしてあんなことをしたんだ?」
「どうして?」
少し上ずった声を上げるロバート。
「あんたくらい頭が良ければ、それくらいのこと分かるんじゃねえのか?」
彼は大げさに手を広げてみせ、笑みを浮かべた。残酷な暗い色を秘めた笑み。
「妹を殺されたあんたが、どんな顔をするか見てみたかったんだよ」
ロバートはそのままボウタイを緩め、ベストも脱いでしまった。
ジョーは答えない。その顔は人形のように無表情を保ち、前に立つ男を真っ直に見つめていた。ロバートもその視線を受けたが、すぐに笑みを浮かべたまま肩をすくめてみせた。
「俺は満足したよ。あんたのそんな顔を見たのは初めてだし、あんたがそんな殺気立って俺の前に立ってるのも初めてだ」
ロバートも一歩足を踏み出した。
「さて、“黒星”さんよ。そろそろ聞いてもいいだろ? あんたは一体ここに何をしに来たんだい? その拳銃は一体何に使うんだ?」
「ロブ」
少し間があった。
「俺にはおまえの考えてることが分かる。おまえが俺を憎んでることも知ってる」
かみしめるような口調。
「だからこそおまえが俺を殺さずに、俺の回りの人間を殺したんだってことも分かる。俺は、おまえがそんなことをするのをやめさせにきた」
ジョーは銃を握り締めた手をゆっくり上げ、銃口をロバートに向ける。
「俺は、おまえを殺しにきた」
その言葉を聞いた途端、ロバートの顔が一瞬だけ凍りついた。が、すぐに唇にニヤッという笑みが戻る。
「へえ……。あんたの口からそんな言葉が聞けるとは思わなかったよ。本気で言ってんのか?」
「ああ」
短い返事。
急に、ロバートは銃口を向けられているにもかかわらず、プッと吹き出した。
「悪ぃな。にわかには信じられなくてよ。何しろ、あんたは二度も俺の命を助けてくれたんだからな」
そこまで言って、彼は一転して鋭い眼差しをジョーに向けた。
「もう偽善ごっこはやめるのかい? じゃあそれに付き合わされた俺はとんだ迷惑をこうむったってわけだ。ええ? そうだよな? ジョー?」
足を踏み出し、「あんたにとっちゃあ、全部道楽だったってわけだ」
「……」
「道楽で、あんたは家出して死にかけてるガキを拾ったんだ。そうだろ? そうじゃなきゃ、そいつが苦しみぬいてる時に見捨てるわけがねえ」
前にさらに踏み出す。まるで撃ってくださいと言わんばかりに。
「俺だってなあ、最近は、あんたと別れてよかったと思ってるんだぜ」
ロバートは石のように黙しているジョーに向かって言い続ける。
「今の俺のナリを見ろよ。あんたと一緒に街のゴミ貯めに住んでた時とは違う。これが結果さ。あんたは俺を弟みたいに思ってるなんて言ってたが、みんな嘘だったんだ。そうだろ? 俺はあやうくあんたに瞞まされるところだったんだ。ええ? どうなんだよ、ジョー!」
叫んで、ロバートは憎しみに満ちた眼差しをジョーに向けたまま、荒い息を吐いた。
対するジョーは微動だにせず、黒い瞳を相手に注いでいた。
間。
「ロブ。俺を誰だと思ってるんだ?」
そして彼は静かに撃鉄を起こす。弾倉がカチリと回転した。
「おまえが何を考えてるか分かるって言ったろ? あの時だって分かってたさ。おまえは死ぬことを望んでなんかいなかった。心のどこかで……まだ俺が助けてくれると信じてたんだ。俺はおまえを一人前の男にしてやりたかった。ただそれだけだったんだ」
「嘘だ!」
ロバートの身体がビクンと震える。
「嘘じゃない。聞け、俺は」
「ジョー、最後だ」
ジョーが何か言いかけたのを遮って、ロバートが言った。
「あんたとのこともこれで終わりだ。撃ってみろよ。先をあんたに譲ってやる」
ジョーは言おうとした言葉を飲み込んで、ロバートの目を見たまま、ゆっくり息を整えながら、左手を銃に添える。
ジョーは引き金を引いた。
銃声が玄関ホールにこだまし、ロバートはウッと腹部を押さえた。その白いシャツに赤い染みが広がっていく。
「銀の弾だと?」
そう言って見上げた瞳が金色に光っていた。ロバートはジョーに向かって走り出す。その顔が、足が、腕が、何か人間ではない異形の存在に変わっていく。
筋肉が盛り上がってシャツを破り、毛むくじゃらの上半身が顕になる。頭部は鼻がめきめきとせり出し、さながらそれは狼のように見えた。辺りには異様な匂いが満ち始める。
ジョーはその変わり果てた姿のロバートにもう一度撃とうとしたが、彼がそのまま突っ込んでくるのに気付いて、咄嗟に横に跳んでよけようとした。
が、間に合わない。
ロバートはそのままジョーの身体に体当りをした。にぶい音がして、二人はそのまま床に倒れ、ジョーの銃は床を転がっていった。
仰向けに倒れたジョーはそのままそれを拾おうと手を伸ばす。
だが、それを毛むくじゃらの腕ががしりと掴んで床に押しつけた。
「あばよ」
それは辛うじて聞き取れるような発音だった。ロバートは牙を剥きだし、ジョーの喉目がけて噛みつこうとした。
その一瞬、ジョーの身体もビクンと震えた。彼はロバートに押さえつけられたまま、激しく身をよじって足を外し、ロバートの傷口のあたりを蹴り上げた。
くぐもった悲鳴。ジョーはその隙に横に転がって、銃に手を伸ばす。その彼の身体も段々と異形のものに変化しようとしている。だが、その過程を止めるかのように、ロバートはジョーの背中に鉤爪を振り降ろした。
「ガッ」
身体をのけぞらせるジョー。シャツが破れ、血がにじむ。ただ、その傷もすぐに沢山の毛に覆われ見えなくなる。頭の形もロバートと同じように人間とは言えないものに変わっていた。変わっていないものと言えば彼本来の黒い瞳だけだ。
猛然として次の攻撃を繰り出すロバート。ジョーは振り返り、それをかろうじてかわして横に跳んだ。
その時。
「ジョー!」
玄関ホールに響いたのは女の声。
振り返るロバート。
ジョーはその一瞬の間を逃さなかった。
急に時間の進み方が何十倍にもなったような感覚。柱時計の音が直接心臓に響いてくるようだった。流れるような一連の動作で銃を手にする。その最後を締めくくるのは、一発の銃声。
ロバートの身体がふわりと宙に浮いたのがくっきりと目に焼きつく。瞬間。彼の身体はどさりと前のめりに倒れた。
時間の感覚がまだ元に戻ってくる。ジョーは手にしていた拳銃を降ろした。彼の身体はいつのまにか元の人間のものに戻っていた。
足音が近づいてくる。倒れているロバートの向こうから。
ジョーはそちらには顔を向けず、ロバートの元にそっと屈み込んだ。手を伸ばし首筋を、自分が撃ち抜いたところに触れる。
一人の影がそのそばに立った。
「ありがとよ」
相手が何か言う前に、ジョーは先に言った。
「こいつの気を引いてくれて」
「死んだの?」
ジョーを見下ろしているカナメはその礼には応じずに尋ねた。
うなづくジョー。ロバートの身体も段々と人間に戻りつつあった。
「ロブは……」
その目を閉じてやるジョー。
「ロブは自分の中に流れてる血に気付いてたんだ。俺にもそのことをしきりに言ってた。自分の身体には化物の血が流れてて、そうなるのが嫌だから家を出てきたってな。無論、当時の俺はそんなこと信じなかった。妙な妄想を親にでも言いつけられたんだろうと思ってた」
ジョーはロバートの死体を見つめたまま。
「でも、それが嘘でも何でもないって分かった時、ロブは化物になるんだったら死んだ方がましだって、俺に、自分を殺してくれって言ってきたんだ」
ロバートの横に両膝をついて、ジョーは続けた。
「だが俺は……こんなクソったれな目をもってるせいで、そんな時にもロブの心を読めちまったんだ。奴は俺を信頼しきってて、俺がどうにかして助けてくれるって思ってたんだ。あいつはそんな時でも俺に甘えてたんだ」
ジョーはギュッと目をつぶる。
「結局、俺はロブを撃たなかった。今なら何だって言えるが、本当はただ意気地がなかっただけなんだ。俺はそんなにも自分を慕ってくれる奴を、ただ、撃つことができなかったんだ。俺はどうしようもない奴だよ。どうしようもない意気地なしさ。自分のことしか考えてないクズなんだ」
「ジョー」
カナメは彼の肩に手を置いた。
「立って」
目を開け、ジョーはカナメを見上げた。
「レイモンド卿がみえたわ」
彼女はジョーの腕をとって立たせてやった。階段の上にいつの間にか車椅子に乗った、この館の主レイモンドと、その執事の姿があった。執事は階下の二人に深々と頭を下げ、足早に階段を下りてきた。
「後のことはわたしどもがやりますので」
「分かったわ」
カナメは抜けがらのような顔をしたジョーを連れ、階段をゆっくり登っていく。
伯爵の灰色の瞳は一心にロバートの死体に注がれていた。形だけの会釈を交わして、カナメはジョーを連れ部屋の方へ向かっていった。
「カナ」
突然ぼそりとジョーが口を開いた。
「うらやましいって、何だ?」
「え?」
「何が、うらやましいんだよ!」
ジョーは立ち止まり、カナメの手を引いて、顔を引き寄せた。黒い瞳で相手の顔がよく見えるように。
「ジョー。わたしの心を読んだの?」
カナメは冷静な顔でそれをじっと見つめる。
「勝手に伝わって来るんだよ」
「そう。分かったわ。話すから手を離して」
ジョーは手を放した。カナメはまたくるりと彼に背を向けて部屋の方にゆっくり歩き出す。
「わたしには誰もいないのよ。わたしには、貴方みたいに兄弟や友人なんて一人もいないから」
「……」
ジョーは沈黙し、立ち止まる。
カナメもそれで振り返って、二人を追いかけるようにこちらへやってくる執事の姿に気付いた。
「サレンダー様、スミス様」
彼は足を止め、「旦那様からお話があります。お怪我の手当もさせていただきますので、どうぞ、こちらへ」
カナメはジョーを見、執事に向かってうなづいてみせた。
2 斬った女
「ありがとうございました」
伯爵はまずそう言って、深々と頭を下げてきた。その相変わらず色のない表情に少しでも彩りを加えようと、暖炉からの明かりが彼のあたりでもゆらゆらと踊っている。
カナメとジョーは隣同志、ソファに腰掛け伯爵と面と向かい合っていた。夜中の静けさだけではない何かがこの部屋の中に満ちていた。
「あなた方のおかげで、もうこの館で人の命が失われることもなくなるでしょう」
と、ドアのノック。
「失礼します」
執事がティーセットを持って入ってくる。沈黙する三者のあいだのテーブルにそれを静かに並べていく。
「報酬は明日の朝、お渡ししましょう。今晩はゆっくりお休みになって下さい」
もぞもそとジョーが居心地悪そうに片膝を胸の前に引き寄せた。その様子はまるで、すねた子供のよう。
「旦那様、例の」
急に執事が手を止め、主の方を向いた。が、伯爵は前の二人を見たまま言う。
「ジェームズ、下がりなさい」
それは嗜めるような響きをもっていた。執事はうなだれ、空の盆を持って立ち上がる。
「では、失礼します」
「待って」
それを止めたのはカナメ。
「何なの? まだなにかあるの?」
「いえ、いいんです」
執事はカナメの言葉を遮って強く言った。
「気にしないで下さい。他愛のないことですから」
伯爵も言う。カナメはその両者の顔を反復して見る。沈黙。
「兄貴か」
が、その沈黙を破る声は意外なところからした。それはは先ほどから一言も喋ることのなかったジョーだった。
「ロバートの兄貴のことだな」
言って、執事の方を見る。執事は咄嗟に目を伏せた。
「本当なんですの?」
カナメは伯爵に尋ねた。聞かれた当人はかすかに困ったような顔をする。
「その者も、貴方の黄金律の血を求めて、やってくるのですね?」
彼女はさらにたたみかける様に尋ねた。伯爵はかぶりを振りつつその彼女の目を見た。
「しかし、あなた方にこれ以上、ご迷惑をかけるわけにはいかない」
「わたしが引受けますと申し上げたら、どうなさいます?」
カナメはすぐに言った。伯爵は額に手をやりしばらく黙り込む。
「よろしいのですか?」
うなづくカナメ。
「申し訳ありません。何と言ったらいいか」
「お気になさらないで下さい。わたしは“月狩人”です。そういった化物退治はわたしの生業なのですから」
と、そこまで言って彼女は傍らに視線を返した。そこにはぼうっと暖炉の炎を見つめる、ジョーの横顔がある。
「貴方はどうする?」
「俺は……俺はやらない」
返事は小さかった。
「俺、部屋に帰るよ」
言いながら、彼は立ち上がる。
「ジョー」
それに伯爵が声を掛けた。ジョーは、思わず振り返る。
「私も君とあれの話を少し聞いたよ」
見れば彼の灰色の瞳は、何かを言わんとしているかのようだった。
「私は、君に謝らなければならないのかもしれないな」
「……」
ジョーは彼から視線を床に落とした。
「おやすみ」
そしてただそれだけ言って、彼は部屋を出ていった。
誰もそれを止めなかった。
手当をしてもらった背中の傷はまだ痛かったが、ジョーは構わずベットに横になった。ランプの灯を消し、シーツを引き上げる。
雷鳴と雨の音はまだ終わらない。
彼は目を閉じる。
その暗闇に身を委ねて眠りがくるのを待とうとしたが、代わりにやってきたのは過去のいろいろな情景だった。そんなものが、彼の脳裏を駆け巡っていく。
ロンドンの下水道の中で倒れていた少年を助けて、家に連れ帰ったこと。
彼の妹とロバートが手をつないで歩いているのを見た時の暖かい気持ち。
そして年月が過ぎて、血の匂いをさせたロバートが、自分のところに来て……哀願する眼差しを向けて……。
ジョーは、がばっと跳ね起きた。
ためていた息をゆっくり吐く。
彼は頭に手をやって、今晩はなかなか寝付けそうにないなと思った。
同じ頃。隣の部屋で、眠りに落ちたカナメは夢を見ていた。
誰か見知らぬ紳士が彼女をエスコートして歩いている。彼女は最先端のドレスを身につけていた。そこはどこかのクラブでの夜会らしく、他にも着飾った貴婦人や紳士たちが、賑やかに談笑している。
と、その中の一人の貴婦人が、カナメの姿を見て急に目を細める。そしてとなりの婦人に何かひそひそと耳打ちする。
その声は聞こえなかったが、カナメには相手が何を言っているのか大体分かっていた。
夢の中の彼女は、急に胸が締めつけられるような思いがして、立ち止まる。
隣の紳士も合わせて立ち止まった。
“どうしたのかね?”
“気分が、悪くて……”
“それはいけない。外の空気にでもあたりに行こうか?”
カナメはうなづいた。紳士は心底心配そうな顔をして、カナメをバルコニーのところにまで連れていった。
カナメは手摺りに手袋をした手を着き、うつむいた。
“わたし、帰りたいです”
“どうして? まだ、ここへ来たばかりじゃないか”
“でも、帰りたいんです”
“……。君がそういうのなら、仕方がないがまさか回りの目を気にしてるんじゃあ、あるまいね?”
“男爵さま”
カナメは振り返って言った。
“わたしを連れて歩くのはおやめ下さい”
“おや? なぜだい?”
“わたしはあなたの品位を下げてしまいます。貴方は一流の方ですわ。日本人の娘など連れ歩くべきではありません”
言ってまたうつむく。
相手はふうと溜め息を着いたようだった。カナメの身体をそっと自分のほうに引き寄せて柔らかく抱き締めた。彼女は黒い瞳を見開く。
“聞き分けのない娘だな。君は本当に。私は君を愛してるんだよ。愛するものをそばにおくのは当然のことじゃないか”
“でも”
なにか言い掛けた彼女の言葉を封じるように紳士は彼女に唇を重ね合わせた。
それから彼はカナメの顔を見下ろしてにっこりしてみせる。
“外見なんて気にする必要ないじゃないか。君は十分綺麗なんだし、とやかく言う者には言わせておけばいいんだ”
“男爵さま……”
“だけど黒い瞳や肌の色を君が嫌がってると言うのなら、私が必ず何とかしてみせるよ。それに、言ったろ? 私を男爵さまなんて呼ぶなって。ファーストネームで呼んでくれればいいんだ。さあ、言ってごらん”
カナメは頬を赤らめてうつむいてしまう。
“まさか私の名前を忘れたわけじゃないだろう? 遠慮しなくていいんだ。さあ”
カナメは顔を上げ、その紳士の瞳をじっと見る。
そして……。
カナメはハッと目が覚めた。
起き上がり、辺りを見回す。薄暗いそこはカナメにあてがわれた寝室だった。レイモンド=カンタベリー邸の二階の寝室だ。決して華やかな社交会の場ではない。
頭の中が急速に現実に引き戻された。
嵐の音がまだ聞こえるほか、辺りは静まりかえっている。
カナメはうつむいて、彼女らしくない溜め息をつく。
あれは何度も何度も見続けている夢だった。いつも同じ情景から始まって、同じところで終わってしまう。そして目覚めたカナメはあの紳士の名前を一生懸命思い出そうとするのだが、思い出そうとすればするほど、あんなに鮮明だったイメージがみるみるうちにしぼんでいき、ついには彼の顔さえよく思い出せなくなってしまうのだ。
しかも不思議なことに、カナメはあの紳士に会った覚えもないのに、彼の夢を見ると懐かしさで胸が熱くなるのである。
今夜も例外ではなかった。
彼女は身体をまたベットに倒していった。
カナメが月狩人を始めてから約三年の月日が経っていた。その間にも、カナメの彼に対する思いはつのるばかりだった。
彼女は目を閉じた。もう一度眠れば、あの夢の続きを見ることができるかもしれない。望みは薄かったが、彼女は祈るような気持ちで、また夢の世界へと入り込んでいった。
ジョーは頭にやった手を膝の上に降ろし、深く息を吐いた。
辺りを見回し、やけに明るいなと思って、彼はすぐにその理由が分かって苦笑した。
辺りが明るいのではなかった。幸か不幸か人狼の体質を得たせいで、ジョーは夜目が利くようになってしまっていたのだ。今なら、彼は明かり一つないこの部屋を転ばずに歩き回ることができるだろう。
ジョーはふいに真顔に戻り、膝を立ててそこに腕を掛けた。無理やりロバートのことを頭の中から追い払おうとして、ふと、カナメの言っていたことを思い出したのだ。
友人も兄弟も誰もいない。
彼女はそう言っていた。街の“厄介事処理人”であるジョーは当然彼女の噂も耳にしたことがあった。
どんな泣き言にも耳を貸さない月狩人“冷酷女”。
それが彼女のはずだった。ジョーは思う。彼女が非情でいられるのは、彼女が孤独だからなのではないかと。
そこまで考えて、ジョーは後悔し始めていた。彼女に向かって声を荒げたこと。ロバートの本当の兄の話が出たときのこと。
「手伝ってやるべきなのか……?」
彼は思わず口に出し、言った。
だが、不安もある。ロバートの兄に会ったら、自分がどういう反応をしてしまうのか、ジョーにはまだ分からなかった。彼はその短い金髪をかきむしる。
「くそ、どうすりゃいい?」
“手伝うべきだよ”
その時、声がした。
ジョーはビクっとして、背筋を伸ばして辺りを見回した。今、小さな声が聞こえたような気がしたのだが。
「気のせいか?」
ジョーはもう一度首を巡らす。やはり誰もいない。そこにあるのは静けさのみ。
「気のせいか」
もう一度同じ言葉を繰り返し、ジョーはその顎を撫でた。
数分後。やはりカナメはベットの上に起き上がっていた。
眠りには落ちた。夢も見た。しかし、結末は同じ。
疲れているのだろうか。
彼女はそっとベットから這い出し、裸足で鏡の前まで歩いていった。そして薄暗い中、鏡に手を着いた。顔を近づけ、じっとそれを見つめる。
吐く息が、鏡面に丸い霜をつくる。
肩までの黒い髪が揺れて、彼女の首筋にある大きな傷が顕になる。それは、普段襟の中に隠れているものであった。
指でその上をゆっくりなぞっていく。それは刀傷だった。頸動脈の上をも含んでいる。
カナメは指を離した。
焦ることはない。ゆっくり思い出せばいい。そう思った。
そして、手櫛で髪をかきあげ、鏡から目を離そうとし、彼女はハッと目を見開いた。
彼女の後ろのベットの脇に、いつの間にか若い男が立っていたのだ。鏡の中でカナメと目が会ったので、男はにこりと会釈する。
「誰!?」
カナメは素早く振り向いた。
ジョーは目を閉じた。
やはり何かがいる。彼の鍛えられた感覚がそう告げていた。
“気にしないで”
するとまた声がした。今度は確実に聞こえるように。
「誰だ?」
ジョーは“黒星”と呼ばれる瞳を開いて、静かに言う。
“誰だっていいじゃない”
その声の調子は、本当に小さな男の子が喋り掛けてくるような感じだった。
“あの女の人のお手伝いをしてあげてよ”
「何でだよ」
とりあえずそう答えて、ジョーは相手の姿を捜すのを諦めた。夢。そう、これは夢かもしれないと思ったからだ。
“迷ってるんだね”
「ああ、そうだよ」
ぶっきらぼうに答える。
“後でくよくよするかもしれないって思ってるんでしょ?”
「うるせえな」
“やらなくて後でくよくよするんなら、やった方がましだって思わない?”
「……」
ジョーは黙りこんだ。誰だか分からないが、痛いところを突いてくる。
“黙ってるところを見ると、図星ってやつだね。すぐあの人のところに行ってあげなよ”
彼は無言のまま、枕元に手を伸ばして懐中時計を手に取った。時間を見る。
「こんな時間にか?」
確かに先ほど会った時からたいして経っていなかったが、それは決して女性の部屋を尋ねてよい時間ではなかった。
“すぐだよ、すぐ。相手はいつ現れるか分からないんだよ。今、あの人が襲われてたらどうするの?”
「一人でどうにかできるだろ? あいつは、“月狩人”なんだから」
そう言いつつも、相手の言葉にジョーは確かにそうだと思った。
「まあ、そうだな」
ジョーはベットから這い出した。
「小便ついでに寝顔を見にいくのも悪くはねえかな」
“そうこなくっちゃ”
声は嬉しそうに言った。
「そんな恐い顔をしないでくれないか」
相手の若い男は笑みを浮かべたまま言った。きちんとしたタキシード姿。まるで夜会にでもでかけるような服装をしている。
白い手袋をした手で茶色い髪をかきあげる。
「こんな夜中に女の部屋に入り込んでおいて言う科白とは思えないわね」
カナメは冷たく言い放ち、自分の愛刀の位置を目で素早く確認した。ベットのこちら側に立て掛けてある。彼女の脚力ならすぐに手にできる位置だ。
「確かに少し無礼かなとは思ったんだけど、君が僕に会いたがってるって聞いたんでね。挨拶は早いほうがいいと思って」
男は肩をすくめてみせた。
カナメは目を細める。
「貴方がローランドね」
すると、その男、ローランドは少し残念そうな顔をしてみせた。
「おや、名乗らせてもくれないのか。君は随分とせっかちらしいね」
「ええ。そうなの」
その一瞬、その身体が緊張する。
「……こんなところもね」
いきなりカナメは動いた。一歩で跳んで、刀の杷を手にすると、そのまま軸足で振り向きざまに刀を振って鞘を払い、返し刀で上段から相手に斬りつける。
ローランドは後ろに身を引き、それをすんでのところでかわした。カナメの刀は彼のしている白い手袋を斬り、そこにわずかな血をにじませた。
だがそこでカナメは攻撃を止めなかった。刃を横にし、続けてローランドに向かって斬りつけた。
跳び散る鮮血。手応えはあった。
が、顔を上げてみれば、そこに彼の姿はなく、カナメは血も浴びてはいなかった。
「まったく。本当にせっかちなんだから」声は鏡の前からした。見れば、手からにじむ血を押さえながら、ローランドが先ほどまでカナメがいたところに立っていた。
カナメはそれに刀を構え直す。
「“夢魔”の幻覚ね」
「そう、ご名答」
得意そうにローランド。「本当はね、こんな時間に挨拶しにきたのも、君があまりにも面白い夢を見ているんでね。いてもたってもいられなくなって出てきてしまったんだ」
カナメは答えなかった。
「夢の続きを見たくはないかい?」
「まやかしには用はないわ」
「おやおや、誤解だなあ」
ローランドは大げさに額に手をやってみせ、「僕にはいろいろな才能があるんだよ。例えば……ホラ、見てごらん」
彼は言いつつ、パチンと指を鳴らした。すると彼のとなりにある鏡が淡い光を放ち、そこに何か別の映像が写り出した。カナメはそれを見て、思わず息を飲んだ。それは彼女が見ていた夢の映像だったのだ。
だが、例の紳士の名を呼びかけようとするところで、映像はぷつりと切れてしまった。鏡はただ部屋の中とローランドを写しているだけ。カナメはすぐに元の冷たい青い色の瞳に戻り、視線をニヤニヤしているローランドに返した。
「僕は君にこの続きを見せてあげられる。まやかしじゃない真実をね」
「どうしてそう言いきれるの?」
「僕には人の願いをかなえる力がある。と、言えば君には分かるはずだけど?」
言われてカナメは沈黙した。
「……悪魔の力も使えるってわけね」
ローランドは肩をすくめながら、ゆっくり首を横に振る。
「心外だなあ。そんな下世話な呼び方をしないでくれよ。僕たちには“道化師”っていうちゃんとした呼び名があるんだから」
「このわたしがそんな誘いにのると思ってるの?」
彼女は素早く言った。
「わたしは“月狩人”よ。貴方たちのやり方は知ってるわ。わたしは自分の願いと自分の魂を引換にする気なんて、毛頭ないわ」
「どうかな」
ローランドは余裕の笑みを浮かべ、「僕は、君のことをよく知ってるんだ。僕に言わせれば君はまるで糸の切れた凧のようだよ。君はただ単に人を斬りたいから“月狩人”の仕事をしてるんだろ? 化物なら斬ったって文句は言われないからね。……まったく残念な事だよ。記憶を失った君はちまたで“冷酷女”なんて噂されてる。夢の中じゃああんなに優しげな女性だったのにね。個人的に言わせてもらえば、僕は君にああいう女性に戻ってもらいたいんだ。……見ちゃいられないんだよ。意味のないことを繰り返してるかわいそうな君をね」
そう言いながら彼は鏡によりかかる。
「過去がなければ未来は意味を持たない……と僕は思うんだよ。君だって知りたいだろ?そんな戦闘能力をどうして身につけているのか、その首筋の刀傷はいつどこで負ったのか、そして、なぜ今の自分が黒ではなく青い瞳を持っているのか……。僕は知ってるんだ。君が忘れてしまって覚えていないことをね」
カナメは何も答えなかった。……いや、何もいうこともできなかった。その問いが、彼女自身が先ほど鏡の前で考えていたことと一致していたからだった。
彼女自身、自分の身体が神秘学的な医学の技術によって造り変えられていることを意識していたが、なぜ、そんな身体になってしまったのかを思い出せずにいたのであった。日本からロンドンにやってきてから数年の空白期間。自分はどこで一体、何をしていたのか。
ローランドは満足げな笑みを浮かべる。そう、それこそが悪魔の笑み。
「言い方を変えたほうがいいな」
彼はその視線をカナメに注ぎながら続けた。
「僕が君の願いをかなえる。その後、君は僕を斬りすてる。それでいいじゃないか。自分の腕に自信があればいいんだ。そうすれば、君はまるまる得をすることになるからねえ。もっとも自信がないっていうなら、勧めはしないよ。まあ好きなほうを選べばいいんだ」
カナメは微動だにしなかった。が、彼女も気付いていなかったのだが、その刀の切っ先が段々と下がっていっていた。額には汗がにじむ。
カナメは迷い始めていた。
ジョーは靴を履き、部屋を出ていこうとした。カナメのことを考える。そのわずかな感情の感覚を思い出しながら、ドアのノブに手を掛けた。
が、彼はドアを開けなかった。
肩をすくめ、ベットのところまで戻る。
“どうしたんだよ”
案の上、声が言った。実はジョーはそろそろ声の正体に気付きつつあったのだが、気付いていない振りをしてベットに手をつく。
「明日にするよ」
照れ臭いから。というのはもちろんつけ加えなかった。
“でも”
「あいつもきっと、すやすや寝てるさ。起こしちゃ悪いだろ?」
ジョーはそのまま仰向けに身を倒した。
声もとくに何も言わなかった。
「いいわ」
そう答えるまでに何万秒もかけたような感覚がした。
「あなたの挑戦を受けてあげる」
カナメは構えを解き、刀を下げる。
「いい心がけだね」
にっこりするローランド。
「君の夢の続きをここに投射しよう。それで構わないね?」
コンコンと鏡を叩きながら言う。カナメはうなづいた。
ローランドは先ほどと同じように指をパチンと鳴らす。鏡が光り、そこにカナメとあの紳士の姿が現れた。
カナメの目は、もうそこしか見ていなかった。
突然ジョーは跳ね起きた。目を見開いて。
時計を見なくても分かった。何分も経っていない。ジョーはほんの数分眠りに落ち、そして夢を見たのだ。
ベットの上で苦しそうにうなされているカナメ。その上にのしかかる男の影。
それだけだったが、ジョーは自分自身の能力をよく理解していた。こういう時にみる夢こそよく当るのだ。
ジョーは足早に部屋を出た。扉を開けるときに大きな音がしたが気にしなかった。
大股に隣の部屋まで歩いていき、ドアをどんどん叩く。
「おい、おい、カナ。起きてるか?」
鏡の中で夢は同じように進行していった。
ドレスをまとった黒い瞳のカナメは、紳士の胸に飛び込む。桜色に染めた頬。
そして彼女は言った。
「クリストファー様……」
そこで、またぷつりと映像が途絶えた。
しかし鏡が元に戻ったというのに、カナメはまだそこをじっと見つめていた。
「クリストファーか。いやあ、残念」
ローランドの声がカナメの耳に突き刺さる。 「もっとめずらしい名前だったら、捜しやすかったのにねえ。残念、残念。でも、この人のフルネームさえ分かればどうにかなるかもしれないねえ。一体、何ていう男爵さまなのかなあ」
「ふざけないで」
その声は少しだけ震えていた。
「何が?」
ローランドはまったく動じず、「考えてみればさ、僕の力をフルに使えば、夢の続きを見るよりも確実にこの男爵の名前が分かると思うんだよね。忘れてたよ。ごめんごめん。さて、どうする?」
カナメの全感覚が、クリストファーという名に反応していた。その名前が同時にカナメの心の奥にあるものを沸き上がらせようとしている。それを止めるべきなのか、流れに任せるべきなのか……。
再度、彼女は迷っていた。
扉を叩いても返事はなかった。ジョーは、ドアノブに手を掛け、ガチャガチャやってみた。が、鍵がかかっていて開かない。
彼は手を放し、ふうと溜め息をついた。勘が鈍ったのかもしれない。
そう思い彼は自分の部屋に帰ろうとして、ハッと何かに気付いたように扉に耳を押しつけた。
そして叫ぶ。
「カナ!」
「迷ってるね」
「嘘よ」
それは小さな声だった。「あの人の名前はそんなんじゃないわ」
「なんだ、苦しまぎれに嘘をついてるのは君じゃないか。さっき、刀を振り回してた君は本当に恐い顔してたけど、もっと女性らしくした方がいいと思うよ。そうじゃなきゃこのクリストファー君にも嫌われるよ」
「黙りなさい!」
「だからそれが駄目なんだってば」
ローランドは、鏡に体重をかけるのをやめ、ゆっくりとカナメの方に歩き出した。
「ここに彼を呼び寄せたくはないかい?」
と、彼は立ち止まり、「ああ、できるとも。僕の神秘学の力を駆使すれば、この鏡の中から君の王子様を引っ張り出すことなんてわけないのさ」
そう言って、ねっとりとした微笑みを。またカナメの方に歩き始める。
「さあ、どうする?」
カナメは動けず、視線を彼からそらすこともできなかった。
ローランドは歩きながら、パチンとまた指を鳴らした。鏡にまた夢の映像が映し出される。カナメはそれとローランドの顔を交互に見た。
「どうする?」
彼女の視線が前の男に固定される。彼女は、意を決した青い瞳で、首を縦に。
「うわっ」
が、その時突然ローランドが声を上げ、そのこめかみ辺りから血がほとばしった。
彼は身を屈め、こめかみを押さえる。白い手袋がみるみるうちに赤く染まっていく。
何が起こったのかと、ハッとするカナメ。
だが彼女もなぜか頭がクラッとして、一瞬意識が遠くなるのを感じた。
必死に気を失わないようにしたが、できそうになかった。彼女にできたのは、愛刀の杷をしっかりと握り締めることだけであった。
「チッ」
ジョーは舌打ちして、拳銃を持ったまま窓ガラスを足で蹴破って、バルコニーから部屋の中へと躍り込んだ。
ベットの上から転げ落ちるようにして離れる夜会服姿の若い男が目に入る。
男はこめかみから流れ出る血で顔半分を染めながら、ジョーに憎しみを込めた目つきを向けた。
ジョーは拳銃をその男に向かって構えつつ、ちらりと横目をやってベットの上に横たわるカナメが特に怪我などをしていないことを確認した。
「野暮だとは思ったんだけどよ」
男にピタリと狙いをつける。
「邪魔させてもらうぜ。ローランド卿」
相手は答えなかった。ゆっくりとこめかみから手を離す。
「何とか言えよ。これからパーティに行くところだったんだろ? 良かったな。その顔で行けばみんながおまえに注目してくれるぜ」
「よくも」
ローランドは怒りのあまり言葉が見つからない様子。
「何から何まで……ぶち壊しだ……」
ニヤリとするジョー。
「だったらおまえも壊れてみたらどうだ?」
そう言われて、ローランドは急に真顔になった。ベットのカナメにちらりと横目をやり、素早く冷静さを取り戻して、かすかな笑みを口元に浮かべてみせる。
「そういうわけにはいかないよ」
赤く染まった手袋を脱ぎ捨てた。
「君には後で挨拶にいこうと思ってた。順番だったんだよ。ロバートが世話になったお礼もしなくちゃならないし」
彼はロバートの名を強く発音して言った。その試みは効を奏し、今度はジョーが真顔になる番だった。
「ロバートはねえ、君のことをいろいろ言ってたよ」
ローランドは言いながらじりっと横に動く。
「君のところから去った直後のことさ」
ジョーは相手の顔を伺っていた。引き金を引かずに。
「君の妹さんのことも話してたよ。彼、なんて言ってたと思う?」
含みのある笑みを浮かべるローランド。
「……なんて言ったんだ?」
思わずジョーがそう尋ねると、ローランドは少し間を開けてから続けた。
「ところでサレンダー君。僕はね、君と弟は誤解しあったままだったから、ああいう結末を迎えてしまったと思うんだよ。ロバートはさ……」
「話を聞いては駄目!」
突然ベットの方からカナメの声がした。
「カナ?」
ジョーは視線を彼女に移した。カナメはうつ伏せのまま日本刀を手にし、立ち上がろうとしているところだった。
と、ローランドが動いた。
ジョーは反射的にそちらへ銃を向ける。
ローランドは鏡の方に向かって走っていた。ジョーはその足を狙ってすかさず銃を撃つ。
彼が鏡に衝突するのと、銃が鏡にあたるのはほぼ同時だった。大きな音がし、鏡は割れガラスの破片があたりに跳び散った。
が、ローランドの姿はそこからかき消えていた。
「なんだって、おい?」
ジョーは鏡の近くまで行き辺りを見回した。確かに当ったはずなのにローランドの姿はそこにはなかった。
「鏡の中に消えたのよ」
パリ……と破片を裸足で踏みながら、カナメが言った。
「この館の神秘学者は彼だったってわけ」
鞘に入ったままの日本刀を持ったまま、彼女は顔に手をやる。
「わたしとしたことが、夢の中に入り込まれていたらしいの。貴方に助けられたってことになるわね」
「まあな。悪い予感かしたんでね。来てみれば案の上ってわけさ」
ジョーはそう言いつつカナメの下着姿を見て気を使って目をそらせた。そのまま割れた鏡を見る。
「じゃあ、鏡は割れてるから、奴はここからはもう現れないってことだな」
「たぶんね」
彼女も鏡にに近づいて、残っている面に手を伸ばす。
「おい、血が出てるぜ」
「え?」
「足だよ、足」
言いつつ、ジョーはさっと彼女の身体を抱き上げた。彼女の手から刀が落ちて床に落ちる。
「何、するの?」
その声にはいつもの鋭さがなかった。
「俺の部屋に行って寝ろよ。俺はここで寝るからさ」
彼は自分が割った窓の方を顎でをしゃくり、
「その格好じゃ、ここは寒いだろ?」
「分かったわ。でも、ジョー」
カナメは青い目を伏せ言った。
「話があるの。貴方の部屋でいいかしら?」
「ああ。じゃあこのまま連れていってやるよ」
ジョーはうなづいて、カナメを抱いたまま、鍵を彼女に開けてもらってドアを開けて、自分の部屋のベットに彼女を座らせてやった。
それから、ジョーがもう一度カナメの部屋へ行き、彼女の刀を手にして帰ってくると、彼女はベットに横になっていた。
「約束は覚えてるわね」
そのままだしぬけにカナメが言った。
「そろそろわたしの頼みを聞いてもらおうかと思って」
ジョーは刀をベットに立て掛けて、その隣にどっかりと腰掛ける。
「なんだ? どうしたんだよ。さっきからなんかこう……元気ないぜ、おまえ」
「ねえ、貴方、人の心が読めるのよね」
カナメは言いながら身を起こす。「だったら、わたしの心を読んで」
絹擦れの音をさせながらベットの上を這ってジョーに近づく。
「眠りたくないの。わたし夢を見たくないの……お願い」
ジョーは振り返った。そして彼女の瞳を見た。それは ほとんど感情を見せない彼女の中にあって、初めて見る色をしていた。
「カナ」
彼は腰を浮かせて立ち上がった。いつになく真剣な面持ちで、その黒い星が見つめるのは一人の女性。
女性らしいやわらかな線をした肩。その白い肌が妙にかぼそく見える。
ジョーは目を伏せた。
「分かったよ」
彼は、ただそれだけ言った。
しばし沈黙してからベットに膝をついて、そっとカナメの首に手を伸ばして自分の方に引き寄せる。彼女の唇はかすかに開いて震えていた。その震えを止めてやるようにジョーはそれに口付けした。
彼女が細い腕をからみつかせてくる。それはまるで、恐怖のあまり必死にしがみついてくる少女のようなか弱さを感じさせた。
ジョーは彼女を安心させるようにその身体をしっかりと抱き締めてやった。そのまま彼女の身体を後ろに倒していく。
そして一瞬、二人は見つめ合い、ジョーはカナメの首筋に顔を埋めていった。
3 鎖と絆
「わたし、記憶があやふやなところがあるの」
カナメは小さな声で言った。ジョーの胸の上で彼の心臓の音を聞きながら。
「月狩人になる前のこと、あんまり覚えてないの」
ジョーは彼女の背に手を回し天井を見つめていた。その黒い瞳をある一点から動かさずに。
「覚えてることといえば、家を出て、英国行きの船に乗り込んだこと。それから小さなアパートで暮らし始めたことぐらい」
「日本、か」
少し身動ぎするジョー。
「俺にとっちゃあ、神秘の国だな。すごく遠いんだろ?」
「ええ」
昔を懐かしむような声。
「でも、なんで国を出てきたんだ? 何か嫌なことでもあったのか?」
カナメは腕を曲げて、手をそっとジョーの胸の上に置いた。
「わたしの父親は名の知れた剣術家だったわ。わたしは一人娘で、ずっと自分が道場を継ぐものだと思ってたの。でも父は養子をとってその男とわたしを結婚させようとした。わたしはそれが嫌だったから、腹いせに家宝の刀を盗んで家を出たの。ただそれだけ」
「腹いせに、か。そいつは傑作だな」
ジョーはニヤリと微笑む。
「剣の腕には自信があったわ。でも日本では女じゃ何もできないの。だからどこか他の国に行けば、わたしは剣の道に生きていけるって、そう思ったの」
カナメは少し身を起こしてジョーの目を見た。片手で髪をかき上げ、首筋の大きな傷を顕にしてみせる。
「でも、きっと挫折したのね。覚えていないけど。これはたぶんわたしが自分でやったものだと思うの」
ジョーは眉をひそめ、そっと手を伸ばして彼女のその傷を指でなぞった。
「自決しようとしたのよ。でも、わたしはある人に助けられて、その少し前のことをすっかり忘れてしまっていたの。聞いても答えてもらえなかった。助けてくれた人はわたしに言ったわ。過去のことは忘れたままのほうがいいって」
カナメは青い瞳を曇らせる。
「そんなこと言われたからもちろん気になったわ。けど、その人がわたしの為だって言うから、わたしは今までそのことをあまり考えないようにしていたの……でも……」
「例の夢か」
ジョーはカナメの手をとって、こぼれる髪で首筋の傷をまた元のように隠した。
「人間、ひどいショックを受けると大事なことでも忘れちまうことがあるらしい。おまえも多分そうなんだよ」
と、彼は少し申し訳なさそうに続ける。
「その、俺には視れなかったけどよ。俺にはこの頭脳がある。焦ることはねえさ。必ずなんとかしてやるよ。だから……」
彼女の髪の中に手を差し入れ、頬に手を。
「いいか、カナ。今度あのローランドがおまえにそういう誘いをかけてきても乗るなよ。おまえの捜してる奴のファーストネームと身分はもう分かったんだ。あとは俺にまかせてくれ」
「……」
黙り込むカナメ。ジョーは彼女の頬からその首に手を回して、ぐっと自分の胸に引き寄せた。
「少し眠れよ」
そう言って、彼はカナメが身体をわずかにこわばらせるのを感じた。
「平気だよ。俺が見ててやるからアイツは来ないさ。それに、同じ夢を見たら少しでもその男爵のことを思い出す努力をしてくれよ。あとで捜すときに助かるからな」
「ジョー」
カナメは安心したようにジョーに身体を預けた。
「本当にいろいろしてくれるのね」
「ん? まあな」
「わたし……なにか貴方に返してあげなければならない気がしてきたわ」
「え? あー、そうだな」
ジョーは少し困ったように、片手で頭をぽりぽりとかいた。
「身体はもうもらっちまったしな。そうだな。まあ、いいよ。あとで男爵が見つかったら何か言ってくれればいいさ」
手でぽんとカナメの頭に触れながら続ける。
「“冷酷女”から礼を言われるだけでも、何かの価値にはなるかもしれねえ」
と、苦笑して、「……ならねえか」
「分かったわ」
カナメも微笑んだようだった。
「じゃあ、さしあたっては貴方の胸を遠慮なく借りるわよ」
「ああ、どうぞ、どうぞ。遠慮なく使ってくれ」
それきり、カナメは静かになった。目を閉じあらためて眠りの世界に入り込んでいったのだろう。
ジョーはふうと息をついて目を閉じ、また開く。部屋の外が段々白み始めていた。もう小一時間ほどで夜が明けるのだろう。
もう一度目を閉じる。
頭の中は妙にすっきりしていた。ローランドと会ったことが、ロバートの死から立ち直る何らかのきっかけとなったようだった。
今なら考え事をするいい時間になる。彼はこの館を訪れた時から見たもの、感じたものを順番に脳裏に思い浮かべていった。そうしてこれから自分がどう動くべきかを決めるのだ。
「あ、そうだ。忘れてた」
ふいにジョーは声を上げた。
カナメがそれに反応して、小さくうめいて寝返りを打とうとする。ジョーはそれを抱き止めてやろうとして、ふと思いついたように手を引っ込めた。
彼女の身体は仰向けにベットに横になる。
ジョーはそのカナメの顔を見降ろして彼女が眠っているのを確認してから、音を立てぬよう静かにベットから這い出した。ズボンを履いてからペタペタと壁際のソファに向かって歩いていく。
そこにはクッションと三十センチほどの熊のぬいぐるみが置いてあった。彼はそこに、どっかと腰掛けてからベットに目をやり、もう一度カナメが眠っていることを確認した。
「おい」
黒い瞳を横に向け、小さな声で。
「おまえだろ、分かってんだぜ」
そのジョーの視線の先には熊のぬいぐるみがあった。黒いビーズの目は前を見たまま動かない。
「水くせえな、返事ぐらいしろよ。さっき会話を交わした仲だろ」
それでも返事はない。ジョーは痺れをきらしたように、そのぬいぐるみをパッと手に取った。首を持って自分の目の前に持ってくる。
「おい、答えねえと綿出しちまうぞ」
“やめて、やめて”
するとジョーの頭の中に先ほどの声がやっと聞こえてきた。
「そうそう。それでいいんだ」
少し満足げにジョー。彼を膝の上に降ろしてやる。
“いじめないで。僕、何もしてない”
「何もしてない?」
ジョーはぬいぐるみの鼻を指でパチンと弾いた。
「したじゃねえか。俺にいろいろ話しかけてきただろう? ええ?」
“痛いよ。やめて”
ジョーは彼の鼻をつつくのをやめ、「ようしここから男同士の話をしようじゃねえか。俺はジョーだ。おまえは?」
“テディ。みんな僕のことをそう呼んでた”
「なんだ、セオリーどおりだな」
ジョーはそのテディの顔を覗き込むように、「じゃあテディ、お近づきのしるしに率直に聞かせてもらうぜ。おまえ何が目的だ? 俺に何をさせようとしやがったんだ?」
“えっ? えっ?”
テディはビーズの目をキョトキョトと動かした。ジョーはそれを見て、思わず天井を扇いだ。
「悪りい。もうちょっと簡単に言おう。俺はおまえが何をしたいのか知りたいんだ」
“僕?”
「ああ。それに何で俺に話しかけたのかもだ」
“ウーン……”
今度は彼にも話の内容が伝わったようだった。
“僕はみんなに昔みたいに仲よくなってほしかったんだ”
テディは言った。
「みんな?」
“この館に住んでる人たちさ。……君は外の世界でロバートと一緒にいたんでしょ。だから、みんなを助けてあげられるんじゃないかと思ったんだ”
「ふうん。まったくここの連中はみんな俺たちの話を聞いてやがるんだな」
ジョーは頭の後ろで手を組む。
「だけどよ、俺にはあまり助けを必要としているようには見えなかったぜ。とくにあのローランドって野郎はな」
“そんなことないよ。みんな傷付いてるのさ。サラがいなくなってから、みんな変わった。どんどん変わってった”
「サラ? ああ、レイモンド卿の奥方か」
“とっても仲が良かったのに、レイモンドが……”
テディはそこまで言い掛けて、ハッと口をつぐんだ。
「卿がどうしたんだ?」
“……”
急に黙り込んでしまうテディ。ジョーは彼の首を掴んだ。そこから感情を読もうとする。
「そうか、やっぱりそうなのか」
“え?”
と、ジョーは顔を上げ他。
「殺したんだな?」
テディは身を震わせる。
“ど、どうして?”
「みんなに同じ質問をしたんでな。大体読めたんだよ。……テディ。言えよ、どうして卿は奥方を殺したんだ?」
テディは目を上げる。気のせいかそれが許しを乞うているようにジョーの目に映る。
“駄目だ。言えないよ。言ったら僕は殺される。そういう決まりなんだ”
「ローランドにか」
ジョーはその名をゆっくりとかみしめるように言う。
「大丈夫だ。俺が何とかしてやるよ。だから教えてくれ」
ぬいぐるみは布製の身体をひねった。迷っているのだろう。ジョーは待った。彼が決心するまで。しばらくしてから彼は顔を上げた。
“サラは神秘学者だった。レイモンドは彼女が自分の黄金律の身体を利用しようとしていたことに気付いたんだ。彼はそれで……”
「……?」
眉をひそめるジョー。
“二人は愛しあってた。けど、サラはやらなくちゃならなかったんだ。生まれる前からそう決められてたから。彼女はローランドにも生まれる前のことを思い出させようとしたんだ。だから、レイモンドは彼女を……。でもローランドがその惨劇を見ちゃって、それで。レイモンドがまともに歩けなくなったのもその時からで”
「ジョー?」
突然、カナメの声。
「えっ? あっ?」
ジョーは顔を上げ、思わずテディを持ったまま立ち上がってしまった。
目をパチクリしていると、ベットの上に起き上がったカナメと目が合った。
彼女はジョーの手にしたぬいぐるみに目をとめる。一瞬だけの気まずい沈黙。
「いい年して人形遊び?」
彼女はシーツを胸まで引き上げ、言った。
「いや……その」
ジョーは答えに詰まり、「こういうの、なんか懐かしくてさ。つい……」
パッとテディをクッションの上に落として、照れ隠しの笑顔を浮かべて見せる。
カナメはそんなジョーをいぶかしげに見てから、自分の下着を拾って身につけ始めた。
その間にジョーはサッとテディに顔を近づけ小声で言う。
「あとで続きを聞かせろよ」
“ほんとにみんなを助けてくれるの?”
「ああ」
その頭の中の声にジョーはうなづいて、そこから離れ、カナメの方に歩いていった。
彼女はベットから降りて、その黒髪を手櫛でとかしながらジョーを振り向く。その顔色は相変わらず白い。
「少し眠ったおかげで、気分がよくなったわ」
「そりゃ良かった」
「ジョー。もう一つだけあったわ」
思案顔のカナメ。「ローランドのことなんだけど、貴方のその目が必要になるかもしれないの」
「おいおい、今さらなに言ってんだ?」
ジョーは肩をすくめ、「俺は面倒くさがりなんだぜ。乗りかかった船からいまさら降りるなんてこたあしねえよ」
と、彼女にウインクしてみせる。
カナメも微笑んだ。それは先ほどのような女性らしい弱々しさをほとんど感じさせない、芯の通った表情だった。
ジョーもそれを見て安心する。
カナメはそのまま彼の隣を通り過ぎてドアの前まで音もなく歩いて行き、振り返った。
「ずいぶん久しぶりな気がするわ」
「何がだ?」
「人にものを頼むのがね」
そう言い残して、彼女は部屋を出ていった。
後に残されたジョーは、溜め息一つ。
「あいにくと、俺は久しぶりじゃねえよ」ぽつりと言う。
「人にものを頼まれるのはな」
ギイィ……と嫌な音を立てて。
階段の裏にある地下への入口を執事が開けてくれた。すると何年も使われていないようなカビ臭い香りが流れ出してくる。
カナメとジョーはその中へと足を踏み入れた。ほこりのたまった階段に足跡をつけながら一歩ずつ降りていく。無言。辺りもしんと静まり返っている。
その短い階段を降りきってから執事が言った。
「下にはまず使っていないワインクーラーがあります。そこを曲がって先に行くと両側に倉庫があって、つきあたりが地下牢になります。たぶんそこに、彼が」
「分かったわ」
それにカナメは短く答え、先に立って歩き出した。ジョーは何も言わず、心ここにあらずといった具合で彼女についていく。
ジョーは先ほどの朝食の場での伯爵のことを思い出していた。
彼はいつものように淡々と語った。
ローランドが自分のところに現れ、二人を地下室で待ってるという伝言を伝えろと言われたことを。
ただ、彼は首と腕に怪我をしていた。ローランドと会って何もされずに済むはずがないのだ。ジョーは改めて伯爵の置かれている境遇というものを理解した。
ジョーはいたたまれなくなった。
彼の“黒星”が勝手に、伯爵の無表情の仮面の下を覗いてしまうからだ。彼の苦しみをジョーは直接感じてしまうのだ。
俺は本当に約束を守れるのだろうかと、彼は感じ始めていた。この館に住まうものみなを助けてやるなんて芸当が自分に可能なのかと。事実、彼はロバートを助けてやれなかった。
「なにを考えてるの?」
すると前を歩いていたカナメが振り返らずに言った。ジョーはふと我に返る。
「いや、肩の荷が重いな……と思ってさ」
それはこの地下室の暗さに似合う色をもった声だった。
「落ち込んでるの?」
その問いにはジョーは皮肉な笑みを浮かべただけですませた。
「だったら気を付けたほうがいいわ」
カナメは気にせず前を見たまま。
「相手は、貴方たちが呼ぶところの悪魔の力を持ってるの。彼等は人の弱みにつけ込んで、その者の魂と引換にその願いをかなえてやったりするのよ」
「ふうん」
ジョーは頭の後ろで手を組む。
「分かったよ。考え事はやめだ」
「それがいいわ」
それきり二人は黙り込んで、地下室の廊下を歩き続けた。
空の棚が並ぶワインクーラーの横を通り過ぎ角を曲がる。廊下は暗くまだ先に続いており、執事の言ったように両脇に倉庫に大きな扉があった。二人はそこを脇目も振らずに通り過ぎていく。
どこからか滴の音が聞こえてくる。それと二人の足音が重なるとなぜか陰気な旋律を造り出してしまう。
カナメは足を止めた。地下牢の壊れた檻の手前で。その隣にジョーも立つ。牢の中には見たところ誰もいなかった。
と、それを見計らったように後ろの方から足音が聞こえてきた。近づいてくる。
カナメとジョーは一瞬だけ視線を合わせ、二人同時に振り返った。
小さな明かりが、倉庫の前あたりに浮いていた。すぐにそれが小さな燭台をもった若い男だと分かる。蝋燭の明かりが下から煽るようにその男、ローランドのわずかな笑みを照らしだしていた。彼も足を止める。
「ようこそ……僕の遊び場へ」
カナメが日本刀の杷に手を掛け、身体をふっと緊張させる。
それを見るとローランドは何か呟きながらすぐ横の壁をトンと手で叩いて二、三歩しりぞいた。それから顔の目の前でなにかの印を結ぶような仕草をしてみせる。
構わずカナメは、そのまま一気に間合いを詰めようと走り出した。
だが、ローランドに向かって一直線に走って刀を抜き掛けたとき、その身体が何か目に見えない柔らかいものに阻まれて弾かれた。
彼女はなにが起こったのかと思いつつ、床できれいに回転して体制を整える。
と、それと同時に呻き声が聞こえた。それは彼女の相棒のもの。
「ジョー?」
素早く振り向くカナメ。牢の前にいるジョーの足元に、いつの間にか彼一人を取り囲む魔法陣らしきものが浮かび上がって、紫色の光を放っていた。彼はその中で、苦しげに身をよじり胸を押さえている。
「危ない、危ない。人の話はちゃんと聞いたほうがいいよ」
ローランドの声。カナメは再度、彼の方を振り向く。
「君はもうちょっとで彼の心臓を破裂させてしまうところだったんだよ」
腰に手をやり、楽な姿勢になって彼は言った。カナメとの距離は充分にある。
「君の目の前にある薄い膜が見えないかな?」
カナメは目を凝らした。確かに、何か透明に近い桃色じみた膜が壁のように張ってあるのが分かった。
「何の真似?」
「それは彼、サレンダー君の心臓の壁とつながってるのさ」
ローランドはニヤニヤしながら、「いやあ即席なんだけどね。あの魔法陣は、ジョー・ジェット=サレンダーという名前の人物だけを捕らえるようにできてるんだ。つまり、だ。君がその膜を刀で斬るのは勝手だけど、そうすると彼は心臓を破られて死んでしまうってわけさ」
カナメはジョーの方を見た。彼はもう苦しそうではなかったが、息はまだ荒く、その様子はローランドの言っていることが事実だということを裏づけていた。
彼女は刀を下げた。
「君達とゆっくり話がしたくてね。こうでもしないと、特に君は話を聞いてくれないと、思ったんだよ」
「馬鹿か、おまえは」
いきなりそう言ったのはジョー。「そんなの簡単に破れるさ。こうすりゃあいいんだ」彼は懐から銃を抜いて、真っ直ぐローランドに狙いをつける。
ローランドは肩をすくめた。
「話を聞いてなかったのかな? それで撃てば、弾は君の心臓を破ってしまうんだよ」
「だから馬鹿なんだよ、おまえは」
ジョーは不敵な笑みを。「俺の心臓が破れる前に、俺は銃を撃てるんだ。俺は絶対に狙いを外しやしねえ」
「……」
ローランドの顔から笑みが消えた。が、彼はすぐに元の笑顔に戻り、やれやれといった具合に肩をすくめる。
「君には敬服するよ。まったく。君のおかげで僕の計画は危うく潰れるところだった」
ローランドはコツコツと靴の音をさせながらその辺りをゆっくりと歩き回り、さりげなくカナメの陰に入る。
「……サレンダー君。君の存在はすべての面で予想外だった。僕は彼女しか来て欲しくなかったんだよ。つまり君は招かれざる客だったというわけさ」
「貴方が、あの手紙を?」
その言葉にカナメが反応する。
「その通り。僕があの男に書かせたのさ。君だけを招待したつもりだったのんだがね」
「どうして?」
ローランドはニヤニヤしてそれには答えず、
「ところでサレンダー君。どうだったかな? 彼女の味は?」
と、いきなりジョーに話しかけた。
カナメは思わず彼を振り返る。ジョーは銃を下げ、珍しく険しい目をしてみせた。
「覗き趣味か? ……貴族にあるまじき行為だな」
「興味があったんでね」
悪びれずにローランド。
「素晴らしかったろ? 何しろ彼女は、あの名高い神秘魔術家“空虚の守護者”の最高傑作なんだからね」
「何だって?」
「ねえ、君は分かってるのかな?」
彼は膜に近づきつつ今度はカナメに向かって言った。
「自分が人間じゃないってことをさ。君は人形なんだよ。“空虚の守護者”に造り変えられた日本人の小娘なんだ」
カナメは何も答えなかった。
「君の青い瞳も、その馬鹿力も、すべて彼の賜物さ。君は本当に素晴らしい芸術品だよ」
「言いたいことはそれだけ?」
ふいに彼女は刺すように言った。
「貴方に教えられなくても、自分の身体のことなら知ってたわ」
「でも、彼のことは覚えてないんだろ? 僕は知ってるよ。全部ね。なんといっても、僕は君を生き返らせた男に会って話を聞いたんだから」
膜に手を触れる。
「もう一度、君に聞きたい。男爵に会いたくはないかい?」
「聞くな! カナ!」
後ろでジョーが叫んだ。ローランドはそれに目をやり、カナメの顔も見た。
「サレンダー君は確かに小憎らしいほど有能だよ。でもね、彼じゃあ君の思い人を見つけることはできないよ。絶対にね」
彼は声高に言った。
「なぜなら、名立たる神秘学者“空虚の守護者”たるギルフォイル男爵は、君のために、月狩人に殺されたからさ」
カナメは目を見開いた。
「君のその綺麗な青い目や、絹みたいな白い肌がどこから調達されたんだと思ってたんだい? 全部他人のものさ」
彼は声をひそめて続ける。
「彼は君に与える身体の部品を得るために何十人もの人を殺していたんだよ。それに感付いた月狩人に彼は殺されたんだ。そこまで言えば思い出すんじゃないか。君はその月狩人を全員返り討ちにして、血の海の中で、自分の首にその刀を当てて……」
最後まで聞く必要はなかった。
カナメの目はもうローランドを見てはいなかった。彼女の目の前には代わりに過去の情景が広がっていた。
ドレスをまとった彼女は広いホールの中、そこにいた男達に刀を振るって、そのすべてを血祭りに上げた。それから倒れた椅子の先に横たわる瀕死の男爵の元へと駆けつける。男爵は力ない笑顔を浮かべ、彼女に自分の犯した罪のことを語った。
いつかこうなると思っていたと、彼は言った。カナメはすべてを、思い出していた。息絶えた彼の亡骸を抱いて彼女は涙を流し、同時に自分の身体に対する嫌悪感を抱きながら、刀を自分の首に当てたのだ。
「思い出したみたいだね」
ふと、ローランドの声でカナメは我に返る。
「君を助けた男は男爵の執事でね、君を哀れに思って生き返らせたけど、君が彼のことを忘れているのをいいことに、彼のことを思い出させないようにしたと言っていたよ」
「そう。それで?」
カナメはうつむいたまま、言った。
「貴方は何が言いたいの?」
「僕は死んだものでも甦らせることができるからさ。君の二つ目の願いをかなえてあげられるんだ」
「どうかしてるわ。貴方……本当に」
カナメは顔を上げた。その青い瞳を少しだけ潤ませて。
「わたしは全部思い出したわ。クリストファー様はあの時言ってたわ。彼は自分の死を受け入れたのよ。その彼を呼び戻す気はわたしにはないわ」
「君は嘘をつくのが好きだね。それに大義名分も」
ローランドの答えは素早かった。
「彼に会いたくないわけないだろ?」
「会いたいわ」
対するカナメもはっきりと言った。目の前の男をにらみつけて。
「会いたいから、ここで貴方の誘いに乗るわけにはいかないのよ、お馬鹿さん」
その顔は揺るぎない決意に満ちていた。
「わたしは生きて、生まれ変わったあの人を見つけるつもりよ」
それを見てローランドの表情が変わった。彼はあとずさり、眉間に皴を寄せる。
「面倒な手段を使わざるを得ないようだな」
彼は懐に手を入れ言う。
「男爵の執事と同じ手を使わせてもらうこととしよう。君にはもう一度死んでもらうとするか」
「やめろ、ローランド!」
その彼に魔法陣に足を取られたままのジョーが叫んだ。
「カナを使って何を企んでやがるんだか知らねえが、俺はおまえの事情を知ってるんだ」
彼に目をやるローランド。
「おまえは意固地になってるだけなんだ。おまえは……うっ」
突然ジョーは、くの字に身体を折って胸を押さえた。膜の前には片手で印を結びつつ、拳を握り締めたローランドの姿がある。
「それ以上言うと、また殴るよ」
彼はぎらりとした眼をジョーに向けたまま、「君には理解できるはずがないんだ。僕らのことをね。僕らはこの生を受ける前から崇高な目的のために血より濃い絆でつながっていたんだから」
「前世ってやつだな?」
対するジョーは胸をおさえたまま、目を上げる。
「なんでそんなものにこだわる必要があるんだ? 自分が今したいことをすればいいじゃねえか」
「だから君には理解できないって言ったろ」
少し落ち着いた声でローランド。
「僕たちは優れた力を持つ僕たちみたいな者たちが排斥されるこの世を正すための計画を進めているんだ。自分個人の感情に捕らわれるわけにはいかないんだよ」
「優れたものですって? 笑わせないでよ」
カナメも言った。
「他人を傷付けて得られる優れた力に価値なんかないわ。わたしはあの人のような過ちを繰り返させるわけにいかない」
「黙れ!」
叫ぶローランド。二人を……特にジョーを彼はにらみつける。しばしの静寂。それから、彼は急に無理に作ったような不敵な笑みを浮かべた。
「そうだ。思い出したよ。サレンダー君」
“助けて!”
その時ジョーとカナメの頭の中に、誰かの声が届いた。驚くジョー。見れば、いつの間にかローランドが熊のぬいぐるみ……テディを手にしていた。
「テディ! 隠れてろって言ったのに」
「あいにくね。僕の眼から逃れられる場所なんて、この館にはないのさ」
ちらりとテディに目を落とす。
「こいつにいろいろ聞いたから、僕のことを知ってるなんて言ったんだろ?」
“助けて、ごめん、許して、ローランド”
ローランドはその声を聞いて凄惨な笑みを見せた。
「サレンダー君。こいつに聞いたんだが、君は僕らを助けて見せると言ったそうだね?」
「ああ。言ったよ」
ジョーは答えた。すると、ローランドはくっくっと喉の奥で笑った。
「お笑い種だね。僕を助けるんだってよ。どうやって僕を助けてくれるんだい? 本当に僕を助けられるなんて思ってるのかい?」
「思ってるさ」
短く答えるジョー。
「簡単さ。ただ、おまえがこんなことをやめて上に行って、レイモンド卿に一言謝ればいいんだ。父さん、今まで済まなかったってな」
ローランドは動きを止めた。が、その顔色は変わらなかった。
彼はジョーの顔をじっと見つめながら、慎重に言葉を選ぶように言った。
「彼は、僕の現世のこの身体と力を生み出す力源となった人間にしか過ぎない。勘違いしないでもらいたい。僕は母親を殺されたことを恨んで彼に対して、こうした行動をとってるわけじゃない。彼は僕らの目的の為には必要不可欠な黄金律の身体を持った……」
「嘘つきはおまえだぜ。ローランド」
ジョーが鋭く口を挟む。その黒い瞳を光らせて。
「俺の眼から本当の心を隠しとおせる奴なんていやしねえんだ」
ローランドは眼を見開き、前触れもなくテディを床に放って片手で印を結びつつ、いきなり膜に拳を奮いだした。
ジョーが呻いて身をよじり、膝をついた。
「やめて!」
カナメが叫んだが、ローランドは無視して、しばらく膜を殴ったり蹴ったりを止めなかった。ジョーは両膝を着き、銃を落とした。そのままうずくまってしまう。その背中が不自然に躍動し始めた。それは、彼の中の“人狼”が沸き上がってくる前兆。
ジョーは胸の痛みと戦いつつ、自分の身体が変容しそうになるのを、意志の力で必死に押さえ込もうとした。頭の中が段々白くなっていくのを感じたが、ここで獣になって人間の意識を失うわけにはいかなかった。
そこでやっとローランドは息を切らしつつ膜から少し離れた。テディを拾って、その首をぐっと掴む。
「ロバートの言った通りだ。おまえは嘘つきの偽善者さ。こいつを助けられないのが、何よりの証拠だ」
「……や、やめろ……!」
脂汗を流したまま、ジョーが顔を上げる。
“やめてっ!”
そのテディの声が途中から悲鳴に変わった。ローランドはわざと時間を掛けて、ゆっくりゆっくりテディの首を引き抜き始めた。悲鳴を上げ続けるテディ。彼に痛覚があるのか、ジョーには分からなかったが、伝わってくる感情は本物だった。それが、ジョーの心の中に直接、激流のように流れ込んでくる。
「やめてくれ……」
プツン。と、その感情の波動が途切れて伝ってこなくなる。
ジョーはゆっくり顔を上げた。ローランドが引きちぎったぬいぐるみの首と胴体を無造作に投げ捨てるのが見えた。それが膜に当って跳ね返り、床に空しく転がる。
「ほら、どうだい。君は彼を助けられなかった……」
ジョーは答えなかった。うずくまったその身体から獣の匂いが漂ってくる。シャツが破れ獣の剛毛が彼の背中を覆い尽くす。
“人狼”の身体になったジョーは顔を上げ吠えた。が、それは声にならない叫びだった。
「やれやれ。言葉が通じなくなってしまったよ」
そのジョーの姿を目にとめて、ローランドは言った。それから、懐から術具らしき小さな紙切れを出した。
「君達とひまつぶし程度の話ができて良かったよ。そろそろお別れといこう。まずはそこのお人形さんからだ」
「……」
カナメは、振り返ってジョーの姿を見、ローランドの目の前に無言で立った。彼の視界にジョーが入らないように。
「おや、いさぎがいいね。最後に何か言い残す言葉でも考えたのか?」
「それを考えるのは貴方の方よ」
カナメは刀の杷から手を放し、「貴方の負けよ。ローランド」
言われて、ローランドは眉をひそめた。
「わたしに神秘学の知識もあるってことを知らなかったのが貴方の敗因ね。貴方が印を結んでるのを見て、これの構造が分かったの。わたしにはこれを解く印の結び方がもう分かってしまったのよ」
彼女は肩をすくめてみせた。
「終わりね。さようなら」
カナメは彼の目を正面から見たまま、印を結び始めた。
「なっ……」
慌てて、ローランドも似たような印を結び始めた。そして、目の前のカナメが勝利を確信したような笑みを浮かべるのを見て、まさかと思った。
が、時はすでに遅かった。
カナメはローランドの仕草を見て、ぱっと手を戻し右手で刀の杷を握った。刹那。足を踏み込み、刀を抜きざまに下から斬りつける。
膜は破れ、同時にローランドの胸からも血が吹き出していた。
その返り血を浴びたカナメは、続けて刀を上段から振りかぶった。しかし、ローランドの目を……驚愕の色を浮かべながらゆっくりと後ろに倒れていこうとする彼の目を見て、彼女はその一撃をやめた。
どうと音を立ててローランドの身体が倒れる。その前にカナメは立ちはだかって、それを見下ろす。彼は彼女を見、ごぼっと血を吐いた。そして神秘学の術具を手にしたまま何もせず、手をぱたんと床に落とした。
それきりだった。
カナメはふうと息をついて、ジョーのところへ歩いていった。半分獣の身体になった彼はまだうずくまっていた。彼女はその前に屈み込み、その名を呼ぶ。
「ジョー」
その返事は爪の一撃だった。
カナメはさっと後ろに跳んでそれをかわしたが、胸の上にわずかなかすり傷を負った。
彼女は顔を上げ、前に立つ“人狼”の目を見つめた。その黒い星を。
そしてゆっくりと近づいていく。
ジョーは動かなかった。
カナメは手を広げ、その彼の身体に手を回して優しく抱き締めた。
「カナ……」
ジョーが言った。それは弱々しい声。
「どうして俺は生きてるんだ? どうして俺は死なないんだ?」
もう魔法陣は消えていた。ジョーの身体も急速に元に戻りつつある。
カナメは彼から少し離れ、倒れたロバートにちらりと目をやった。
「彼も即席だったって言ってたでしょう? あれを貴方の心臓に直結させるためにはいちいち軽く印を結んで念を込めねばならなかったのよ。だから、それをする暇を彼に与えなかっただけ」
「俺は死んだって良かったんだ」
ジョーはよろよろと歩きながら言った。
「誰も助けてなんかやれなかった。誰一人」
「ジョー」
途端にカナメはその腕を強引に引いて自分の方を振り向かせた。
「貴方、思い上がってるんじゃないの?」
それは強い調子の声だった。
「自分が何でもできるって思い込んでるんでしょう? 仕方なかったとは言わないけど、貴方が落ち込んだっていまさら彼らがどうこうなるわけじゃないのよ。落ち込んだって、無駄なだけよ。そんなの合理的じゃないわ」
「……」
ジョーは彼女の顔を見下ろした。
「怒ってるのか? カナ?」
「ええ。たぶんね」
そこでローランドの死体の前まで来て、二人は足を止めた。
「分かったよ。俺は……」
ジョーは言いかけて、床に転がるぬいぐるみの身体に手を伸ばしてそれを手にした。
と、突然その黒い瞳を見開く。
彼の目の前には現実ではなく、セピア色の情景が広がっていた。
目の前にあるのは、プレゼントの包みの中から出された新しい熊のぬいぐるみ。それを小さな手が持ち上げる。と、その視線がそばに立つ男を見上げた。それは肖像画のレイモンドだった。彼はにっこり笑って、この情景の主の頭をくしゃくしゃと撫でた。そのまま身体が持ち上がり、彼がこの小さな手の持ち主を抱き上げているのが分かった。なにか暖かいものが視ている者……ジョーの心にも広がっていく。
ジョーはハッと我に返った。
そばにカナメがいて不思議そうに彼を見ていた。
「それで……何?」
「いや、なんでもねえよ」
彼はふっと微笑んで腰を屈め、ぬいぐるみの頭も拾った。それを子供を抱くように胸の前で両手で持つ。
「ただ、俺はなんとか立ち直れそうな気がしてきたよ」
「そう」
カナメも微笑む。ふと、ジョーはその彼女の表情に人間らしい豊かさが増しているのを感じた。それはいい傾向だった。
ローランドの目を閉じてやってから、二人は外へと向かった。
階段を上がると、伯爵と執事と女中の三人が二人を待っていた。静かだった。
玄関ホールの明かり取りの窓から、柔らかな朝日がさしこんできていた。ジョーはそれを見上げて目を細める。
「彼は?」
二人が黙っているので、伯爵がおずおずときりだした。ジョーは視線を彼に移した。
「手厚く葬ってやってくれよ」
ゆっくりとその車椅子に近づいていく。
「これも一緒にな。頼むよ」
言いながら、ジョーが伯爵に差し出したのは熊のぬいぐるみ。
「そ、それは?」
彼はその瞳を驚愕の色に染めて、ジョーの手から震える手でぬいぐるみを受け取った。しばらくそれを見つめてから、彼の顔を見上げる。
「これは、どこに?」
伯爵は愕然とした様子で、ぬいぐるみとジョーを交互に見た。
彼から目をそらしてしまうジョー。
「俺がいた部屋にあって、それからローランドが持ってた」
「……」
伯爵はそのぬいぐるみの残骸をぐっと握り締めてうつむいた。
「ローランド」
それは喉の奥から絞り出すような声だった。ぬいぐるみにぽたりぽたりと落ちる滴。
誰も何も喋らなかった。
朝の光がその伯爵の横顔を照らし始めていた。その姿はまるで急に何十年も年をとったように見えた。
その場にいる誰もが、そんな彼をずっと見つめ続けていた。
二人の兄弟の簡単な埋葬を済ませ、ジョーとカナメは手配してもらった馬車に乗り込んでいた。それは四人乗りで、暇をもらったという執事と女中も同乗していた。
空はいつものように雲っており、ジョーは窓から静まりかえった館をしばらく見て、カーテンを締める。
「気は済んだ?」
「ああ」
カナメが御者に馬車を出すように言う。馬車はゆっくり走りだし、山道を下っていく。
しばらく四人は無言だった。
「これからどうするの?」
その沈黙を破ったのはカナメ。ジョーにそっと問いかける。
ジョーは彼女の顔を見下ろし、皮肉な笑みを浮かべて肩をすくめてみせる。
「“厄介事処理人”に戻るんだろうな。だってそうだろ? カナ」
そのひとなつっこい瞳を彼女に向ける。
「さしあたって、おまえからの依頼を片付けなきゃならねえしな」
「……」
うつむくカナメ。少し恥ずかしそうな笑み。 「ジョー。ありがとう」
「! それだよ」
ジョーはがばっと身体を起こした。
「俺がおまえから聞きたかったのは、それなんだよ」
と、彼はにっこり笑う。
「それを聞いたからには、手を尽くさせてもらうとするぜ」
その笑みを見て、カナメは嬉しそうな……ぎこちない笑みを浮かべて、彼からまた顔をそらせた。
何分かしてから、ジョーは曲がり角のところでそっとカーテンを開けた。最後にあの館を見ておこう、そう思ったのだ。
が、彼は一目それを見てカーテンを閉じてしまった。
今、彼が見たのは、空を赤く染めて燃え上がる館の姿だったのだ。
突然、執事と女中が顔を伏せて、無言で涙を流し始めた。ジョーはそれを見て、ハタと気付いた。彼らが暇をもらうというのはこういう意味だったのかと。
ジョーは思わずうつむいてしまった。
「どうしたの?」
カナメが夫妻やジョーの態度を見て不思議そうに言った。
「なんでもねえ」
彼は咄嗟にそう答え、寂しげな笑みを彼女に向ける。
「俺さ、何をどうすりゃよかったのかなんてもう分からねえけどさ」
眉を上げて、「……あいつとの約束だけは守れた気がするんだ」
カナメは首をかしげた。
「あいつって?」
「決まってんだろ?」
ジョーは彼女から目をそらし、頭の後ろで手を組んで背もたれによりかかる。
それから彼は目を閉じた。馬車の揺れを感じ、それに身を委ねていく。
「俺の一番新しい友人だった奴さ」
─fin─
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