Topiiics
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Comunication


The Woman Playing a piano
ピアノを弾く女

 


あの女、夜想曲か鎮魂曲しか弾かないんだとさ。
理由? 聞きたきゃ口説いてみろよ。
明日の朝日を拝めないかもしれないがな。

──イーストエンド在住、スリーペンス・ジョーンズ

 

 

 私はその夜、きっとどうかしていたのです。
 思えば……どことなく不吉な夜でした。空には雲一つありませんでしたが、そのお陰で、凶々しい色をした三日月が、我もの顔で橙色の光を放っていました。
 仕事を終えた私は一人で夜の街を歩いていました。
 その頃、ヘンリーが……私の友人で、同僚でもある……ヘンリー=アーヴィング卿が、いつものように彼の邸宅で夜会を開いているのは知っていました。及ばずながら、私もお声を掛けていただいたからです。もっとも……それを丁寧にお断りしたからこそ、私は夜の街をそうして一人で歩いていたわけです。
 それが……そもそもの間違いだったのでしょうか。
 あの時、彼の誘いを断らなければ、私も別の世界に関わらないで済んだのかと思うと、なんとも言えない気持ちになります。が、私としても理由もなく彼の誘いを断ったわけではなく、その日はどうしても気分がのらなかったのでした。
 仕事のことが気に掛かって、とてもそれどころではなかったのです。と、言っても、ヘンリーと二人でやっている演劇関係の仕事のことではなく、私個人の主たる成業となりつつある文芸のことでした。私としても片手間に書いていた小説が評判になるのは決して悪い気分ではありませんでした。
 しかし、読者の嗜好にうったえたものを書きつづけるのが、そんなに難しいことだとは知らなかったのです。
 つまり、私はその日少々疲れていたのです。
 街をぶらぶら歩いて、見知らぬパブにでも入って気晴らしをしたら、すぐに家へ帰って寝てしまうつもりでした。




 その……裏通りのパブに入ったのもそういった理由からでした。店内は私がヘンリーと行くようなパブとは違って、とても庶民的でした。ワインも食べ物もやや安物でしたし、なんてことはない店でした。しかし、一つだけ他とは違っていた点がありました。
 それは、小さなステージの脇で、静かにピアノを奏でている若い女性の存在でした。
 曲は悲壮感ただよう短調のものがほとんどで、その音色の小ささからか、私以外に彼女のピアノに目を向けているものはほとんど居ません。ですが、どう見ても古ぼけた安物のピアノなのに彼女がその指を鍵盤の上で滑らせると、胸に染み込むような音色となるのです。
 曲が終わった時、私は拍手をしました。回りの人間は自分のことなどに精一杯でそんなものは見てはいません。彼女の演奏を誉めたのは私だけでした。
 すると、彼女は私の方を振り返り、うっすらと微笑みました。癖のない長い黒髪、黒絹のシンプルなドレス、黒曜石のように落ち着いた輝きを放つ黒い瞳……。そんなものが私の目を捕らえました。彼女の顔立ちは少し涼しげ過ぎて、決して万人が美人だと認めるような容貌ではありませんでしたが、私は彼女を美しい人だと思いました。そして、同じ芸術を愛する者として少し話をしたくなってしまったのです。
 私は立ち上がり、真っ直ぐに彼女のもとまで歩いていきました。彼女も座ったまま、落ち着いた瞳で私を見つめています。
 私はピアノのすぐ隣にまで歩いて、彼女に会釈をしました。それから、言葉を選んで彼女に話 しかけました。

「……とても素敵な曲ですね。」
「まあ、有難うございます。」
彼女は髪をかきあげながら、微笑んで答えてくれました。その細い腕が……その白く繊細な指を黒髪に掛ける仕草を見て、私は思わず背筋が寒くなりました。彼女は痩せていて化粧も何もしていないのに、私の目にはその場にいる誰よりもその姿が艶めかしく写ったのです。私の人生の中でも、あんな神秘的な女性に会ったのは、あれが初めてでした。
「……どうなさったんですの?」
「あ、いえ……。」
私は彼女の言葉で我に返り、彼女に再度微笑みかけました。
「今の曲は一体どなたの曲なんですか?」
その問いに彼女はにっこりとして見せました。
「お恥ずかしながら、わたくしが書いたものですわ。」
「そうなんですか。」
私は感心してしまいました。「才能がおありなんですね。こんなところで演奏されるにはもったいないですよ。」
「まあ、お上手ですわね。」
彼女は囁くような小さな笑い声を上げながら、楽譜を集めて小脇に抱えました。
「お気に入ったのでしたら、また観にいらして下さい。この辺りのパブなら、他でも演奏させていただいてますの。」
言いながら彼女はステージを降り、軽く会釈をして、私の脇をすり抜けていきました。何となく引き留めようとして私は振り返り、彼女の目指す方向に一人の男性がたたずんでいるのを目にしました。きちんとスーツと山高帽を身につけた紳士風の男性でした。顔は薄暗い照明のおかげでよく見えませんでしたが、彼女の父親ぐらいの年齢であることは分かりました。
 彼女は彼に向かって何か言ったかと思うと、やはりその横をすり抜けて歩いていきました。その男性も彼女の方を見やります。彼女はそのままパブを出ていきました。男性はそのまま彼女を足早に追いかけるように外へ出て行きました。
 私は溜め息を着いて、もう一度ピアノの方を振り返りました。本当に何となくそうしただけでしたが、ふと、私は一枚の紙が床に落ちているのに気付いてしまいました。
 拾い上げると、それはやはり楽譜でした。彼女は私と話しながら楽譜を集めていたので、一枚抜け落ちてしまったことに気付かなかったのでしょう。
「すみません、お客様。」
それを見つめて立ち尽くしていると、誰かが私に声を掛けてきました。振り返るとそれはこのパブのボーイでした。
「……あの、エリーゼ嬢とお知り合いなんですか?」
「え?いや……そういうわけじゃあないんだが。」
「そうですか。いいのかなあ。」
ボーイは頭をかいてみせます。
「彼女、いつもお給料をもらわないで帰ってしまうんですよ。」
「君。」
私は彼とパブの入口を交互に見ながら、尋ねました。「その……エリーゼ嬢の住んでいる場所は 分かるかい?」
私の問いに彼は肩をすくめてみせました。知らないようです。
「……分かった。じゃあ私が彼女にそう伝えてあげよう。」
私はうなづくとポケットからシリング銀貨を2枚取り出し、彼に手渡しました。
「釣りはいらないから。」
そのまま、面喰らった顔をしているボーイを置いて、私は走りだしました。
 彼女の名前がエリーゼということが分かったのも収穫でした。どっちの方向に行ったのかなど私にはさっぱり分かりませんでしたが、私はとにかく彼女にもう一度会いたい一心で、夜の街を彷徨い続けました。

 今でも……あの時の夜のことははっきり覚えています。
 信じられないかもしれませんが、私はその後彼女に会うことができたのです。今にして思えば主の導きというよりは、悪魔の誘惑の罠に掛かったようなものだったのでしょう。




 それは、ただ闇雲に裏通りを歩き回っていた私が、疲れを感じて彼女を捜すのを諦めかけていた時でした。
 暗い路地の奥から、一組の男女の会話が聞こえてきたのです。私は角からそっとそちらの方を伺いました。それは思った通り、エリーゼ嬢と、パブで見かけた紳士風の男でした。
 会話の内容はよく聞こえませんでしたが、平和的な話し合いでないことは見ていて分かりました。男の方が執拗に何かを問いかけ、それを彼女は冷たい目つきで見ているだけです。
 そして、とうとう男は痺れをきらしたのか、彼女の細い腕を掴んで、自分の方へ引き寄せようとしました。しかし、アッと思ったときには彼女の平手が男の顔に飛んでいました。
 大きな音と、後には静寂が残りました。
 が、男はそのまま喉の奥で笑いだし、彼女の身体を自分の方へ引き寄せようとします。彼女は抵抗も空しく彼の腕の中に収まってしまいます。
 私はいてもたってもいられなくなって、思わず飛び出しました。

「君、彼女は嫌がっているじゃないか、その手を放したまえ。」
すると男はエリーゼ嬢を抱えたまま私の方を振り返りました。その冷ややかな視線が私の姿を捕らえた途端、馬鹿にしたように緩んでいくのが私にも分かりました。
「これは、これは……何の用かな?」
彼は気取った風に軽く肩をすくめてみせました。
「道に迷われたのなら、表通りまでお送りしましょう。君のような人なら、こんな単語を知っているだろう。……“野暮”という言葉をね。」
「ああ。知ってはいるよ。」
答えて私は前に足を踏み出しました。
「でも、私は他にこんな言葉も知ってる。……“乱暴”という言葉だ。君は知っているか?」
「……なるほど。」
彼は目を細め、私を睨らみつけました。私はその視線を正面から受けました。困っている女性を見捨てていく訳にはいかなかったからです。
 彼は無言でエリーゼ嬢の身体を放しました。彼女は彼の手から逃れ、振り返って私の顔を見、少し驚いたようでした。
「貴方、さっきの……。」
「エリーゼ。」
何か言いかけた彼女を手で制して、男はその山高帽をゆっくりと取って近くの箱の上に置きました。
「……いい機会だと思わないか。相手は男だから、私が四割で、君が六割でどうだろう? なかなか味は悪くなさそうだ。」
私は二人が何のことを言っているのか分からず、男とエリーゼ嬢の顔を交互に伺いました。
エリーゼ嬢は私の方を見て、その視線を男の方に返しました。
「それじゃあ足して十割になるわね。殺すつもり?」
「生かしておいて何になるんだ?」
「馬鹿ね、貴方。何度言ったら分かるの?」
彼女の言葉を聞き流し、男はニヤニヤしながら、ぽかんとしている私の方を向き直りました。
「……昔と全く変わらない姿のままなのに、君は随分弱気になったものだ。」
「やめなさい!」
その時、男の目が赤く光ったような気がして、私は何がなんだか分からないうちに、自分が一歩たりとも動けなくなっているのに気付きました。まるで蛇に睨まれたカエルのように、身体が麻痺したように動けないのです。
その時、どっと冷や汗が背筋を流れ落ちてきて初めて、私は自分が足を踏み入れてはいけない世界に関わってしまったことに気付いたのでした。



 しかし、もう遅すぎたのです。男は私の前までゆっくりと歩いてくると、動けない私の手を取って、何とそのまま手頚に噛みついたのです。痛みとともに感覚が帰ってきました。
 私は彼を振り払って手頚を押さえました。手からは血が流れ出していました。
そして後退りしながら、私が見たのは……人間のものとは思えない長い犬歯から鮮血を滴らせたあの男の顔でした。男は何と、私の血を吸っていたのです。
私は自分の足ががたがたと震え出すのを感じました。先程の会話の意味が段々と分かりかけてきたからです。信じがたいことでしたが、彼は私の血を吸い尽くそうとしているのです。
彼はそんな私を、獲物をもてあそぶ猫のように見つめながら、またゆっくりと間合いをつめてきていました。私は恐ろしさを必死に押さえ、彼の目から視線を逸らせて、ふと自分がポケットの中に護身用の拳銃を忍ばせていたことを思い出しました。
自分の身を守るためです。いた仕方ありません。私は咄嗟にそれを出し、近寄ってくる男に向けました。男は驚いたような顔をして立ち止まります
「それ以上近づいたら、撃つぞ。」
私は喉の奥から声を振り絞って、撃鉄を起こしながら言いました。ですが、男がひるんだのは一瞬だけでした。彼はやはりニヤニヤしながら答えました。
「撃ってみたらどうかね。」
私は目を見開きました。相手のその自信がどこからくるのか分からなかったからです。しかし、この至近距離です。かわせるはずがありません。私は思い切って引き金を引きました。
が、男は倒れませんでした。
銃声はしました。弾丸は発射されたはずです。それなのに男は立っているのです。
「残念だったな。君の弾は私には効かんのだよ。」
男は私の元までやってくるとそう言って、驚愕している私の手から拳銃を奪い取り、後方へ放り投げてしまいました。「自分の運命を呪いたまえ。そして……もう二度と朝を迎えられないことを嘆き悲しむんだな。」
男はその手を伸ばして私の首を捕まえると、そのまま勢いよく後ろの壁に叩きつけました。私は後頭部を強打し意識を失いかけました。そう、その時もう駄目かと思ったのです。
しかし突然、銃声がしました。立て続けに二発。
自分の首を捕まえている手の力が急速に弱まったので、私はうっすらと目を開けました。見ると男は、その口から自らの血を吐いていました。男はそのまま後ろを振り返ります。
「……エリー……ゼ……おまえ……」
その言葉の続きは、銃声が引き受けてくれました。仕立てのいいスーツに沢山の穴を開けて男が倒れると、その向こうに、エリーゼ嬢が私の拳銃を手にして立っているのが見えました。



「貴方……大丈夫?」
彼女は表情一つ変えず私の方に近づいてきました。私は口も利けずにうなづきます。彼女は私のそばまで来ると拳銃を私に返してくれました。かすかな笑みとともに。
「言っておくけど、それでわたしを撃っても無駄よ。……彼と同じだから。」
彼女はそう言うと男の死体を見下ろしました。しばらく。
「……彼は……一体?」
おずおずと私がそう尋ねると、彼女は冷ややかな視線を私に向けました。
「昔……貴方が生まれるより何十年も前に、わたしの恋人だった男よ。彼は……人間の血を吸わないと生きていけない吸血鬼だったの。」
そこで彼女は一瞬言葉を止め、囁くように付け加えました。「そして……私もね。」
私は驚いて息を呑み込みました。どうみても私より十才ほど若く見える彼女が私よりも何十年も年上だと言うのですから。にわかには信じがたい話でした。しかし私は彼女の言葉を本能的に信じました。何しろあんなに恐ろしい目にあったすぐ後でしたから。
「……彼は前世のことを思い出してしまったの。」
彼女はぽつりぽつりと続けます。「貴族の家に生まれ裕福な生活を営んでいた平凡な男が、突然自分の生まれる前のことを思い出してしまったのよ。自分が吸血鬼だったこと、自分が何をしてきたのか、自分が誰を愛していたのか……そんな、つまらないことをね。」
彼女はまた、あの艶めかしい仕草で髪をかきあげながら、そっと溜め息をつきます。
「本当に馬鹿な人、自分の心に秘めておけばよかったのよ。」
私はそんな彼女の横顔を見つめながら思い切って尋ねてみました。
「何故、貴女は彼を……その……撃ってしまったんですか?」
「どうせすぐ死ぬからよ。」
「え?」
その低い声での返事に私は眉をひそめてみせました。
「彼のような吸血鬼は長生きできないわ。昔と今は違うのよ。……それを彼は分かっていなかったし、分かろうともしなかったわ。だから私の手で殺してあげたまでよ。」
そう言うと彼女は振り向いて、柔らかい笑みを浮かべると、ゆっくりと近づいてきました。
「……貴方だってその方がよかったでしょう?……そうでなければ死んでいたのは貴方の方だものね。」
私はその視線から目をそらせず、力なくうなづいてみせました。すると、彼女も満足したように顔をほころばせます。
「そういえば、とうして私を追いかけてきたのか、まだ聞いていなかったわね。」
その言葉を聞いて私は、半ば慌てて懐から丁寧に折りたたんだ紙を取り出しました。彼女の楽譜です。思えば私はこれを届けるために彼女を追ってきたのでした。
「あら……ありがとう。」
彼女はそれを受け取って、私の労力を察してくれたようでした。身分の高い女性がするような優しげな目をして、私を見つめ返しました。
「わたしはエリーゼよ。貴方の名前をまだ……聞いてなかったわね。」
私は思わず襟に手をかけ、それを直しながら彼女の顔を見ました。
「アブラハム……いや……ブラム=ストーカーです。」
「まあ……」
彼女は喜ばしいことに私の名前に聞き覚えがあったようでした。感心したように私を見、私の手にそっと触れました。冷たい手でした。が、私にとってそんなことはどうでもいいことでした。 言葉はありませんでしたが、彼女はしばらく私の目を見つめ……最後に微笑むと、私に背を向け、去っていきました。
私はその場に立ち尽くしていました。
あたりはしんと静まりかえっています。
彼女が居なくなると、今までのことが全て夢だったような気がしてきました。想像力豊かな作家が白昼夢を見るのはよくあることではないでしょうか。目を閉じ、次に開くと、そこには自分の部屋の天井があり、作家は起き上がって恐ろしい夢に身震いするのです。
しかし、目を閉じて、また開いても、場面は変わりはしませんでした。その場には、はっきりとそんな考えを否定するものが二つ、残っていたからです。
それは……。
地面に倒れた吸血鬼の死体と……私の脳裏に焼きついた、エリーゼ嬢の後ろ姿でした。





……「吸血鬼ドラキュラ」が出版されたのは1897年。その9年後のことであった……。

 



 



 



   
   
     


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