エピソード521『望郷千里波涛下』
午前9時、松蔭堂。
店先のごもくたは綺麗に片づけられている。
引き戸の格子に「誠に勝手ながら本日休業させて頂きます」と墨書した紙を貼りつけて、訪雪が薄暗い店の中に消える。
いつもは伸ばし放題の髪を撫で付け、煤竹色の長着に共地の羽織を合わせた、彼にしては珍しくきちんとした格好をしている。
足袋の裏を気にしながら座敷に戻ったところで、蔵から出て来た十と顔を合わせる。
- 十
- 「その格好……何処かへ出掛けるんですか、若大家」
- 訪雪
- 「ちょっとばかし京都までね。大学時代の師匠に会いに」
- 十
- 「若大家って、確か大学は東京じゃ……」
- 訪雪
- 「展覧会の仕事で、週の半分だけ京都に来とるらしい。吹
利に来てから一度も会ってないんだが……お呼びがかかっちゃ行かざるを得まいよ。じゃ、行ってきます」
- 十
- 「行ってらっしゃい」
財布と手帳を袂に落とし込んで、訪雪は松蔭堂を出る。
京都のとある美術館の応接室。
小柄な童顔の男が息せき切って入って来るのを目にして、訪雪は待っていたソファから立ち上がる。
- 訪雪
- 「お久し振りです。浦上先生……小松です」
- 浦上
- 「やあ、これは……随分貫禄ついたじゃない、ユキちゃん。
ひょっとして僕より老けたんじゃないのかい?」
- 訪雪
- 「(苦笑) その綽名で呼ばれるのも4年ぶりですね。私は
少しも変わっちゃいませんよ。少なくとも、中身は」
- 浦上
- 「確かに。骨董屋になったと聞いたときは驚いたが、いま
こうして目の前にしてみると、なるほど君らしい職業選択だな……ま、とりあえずかけてよ」
訪雪の向かいに腰を下ろした浦上は、腕に抱えていた細長い桐箱をテーブルの上に置いた。長さ80cm弱。注意深く取った蓋の下に、紫色の布に包まれたものが入っている。
- 訪雪
- 「刀……ですね?」
- 浦上
- 「太刀だ。今度の特別展に出すために、個人蔵の品をお借
りした」
- 訪雪
- 「私以外に、判る人間は思い当たらなかったんですか?」
少なくとも大学にいる間、訪雪はそれほど成績優秀とはいえなかった。
- 浦上
- 「工芸品、特に刀剣を見る目に関しては、僕は君を評価し
てるよ。とにかくこれを見て」
早口にそう言って、浦上が布包みをテーブルに出し、手袋をはめた手で静かに広げる。
銀の透かし彫りが蛍光灯を反射して、金梨地の鞘に唐草の飾り金具をあしらった、ひと振りの太刀が現れる。
- 訪雪
- 「これは……見事ですね」
- 浦上
- 「美術史屋のはしくれが『見事』一言とは情けないな。持
ち主の話じゃ、鎌倉の頃作らせた品だそうだが?」
- 訪雪
- 「(首を傾げて)鎌倉? 私はてっきり平安初期か、下手す
ると……」
- 浦上・訪雪
- 「(同時に)『正倉院級』じゃないか、と」
二人は複雑な表情で顔を見合わせる。
短い沈黙。
- 訪雪
- 「先生にも……判りますか。しかし、時代を古く偽るなら
理解できますが、古くて由緒の正しいものを、わざわざ新しく胡麻化すことがあるんでしょうか」
- 浦上
- 「だろう? それに……こいつには、ちょっと僕らの手に
は負えない厄介ごとがあってね。君を呼んだのは、どっちかというとそのためだ」
- 訪雪
- 「厄介ごと、ですか。(溜息) やっぱり『あっち系』の」
- 浦上
- 「うん。刀剣をやってる知り合いなら他にいないでもない
が、退魔師にコネのある人間となると、さすがに君くらいしか思い当たらなかったからね」
胃が重い。
『あっち系』の世界に首を突っ込んでからこのかた、ろくなことがなかった。
自分には見えないものを扱わざるを得なくなって、一生見えない、知らないままでいられたならどんなに幸福だったろうと、幾度思ったことか。
- 訪雪
- 「よく……御存知で」
- 浦上
- 「この世界は、君が思うよりずっと狭いよ。で、厄介ごと
は引き受けてくれるよね?」
- 訪雪
- 「いきなりそう言われても……まずは話を聞きましょう」
運ばれたコーヒーを一口啜って、浦上は話しはじめる。
- 浦上
- 「所蔵者は、京都のとある旧家なんだが……」
- 訪雪
- 「訳あって名は明かせない、と」
- 浦上
- 「そう。かといって、この刀の存在がいままで知られてい
なかった訳ではない。だからこそ今回の出品をお願いした」
- 訪雪
- 「秘蔵されていなかったのなら、もっと早く何か起きてい
てもよさそうなものですが」
- 浦上
- 「今までは、確かになんともない普通の太刀だったそうだ。
いつも床に飾りっぱなしで、ろくな調査をしたことがないというので、今回の特別展を機会に調査して、記録を残すことにしたんだが」
- 訪雪
- 「屋敷から……出してから?」
- 浦上
- 「その時は大丈夫だった。抜いた途端に、だよ」
- 訪雪
- 「何が、起きたんです」
- 浦上
- 「調査開始から今日までの約2週間で、こいつは合計で11
回、盗難未遂に遭っているんだ。しかも、犯人は全員、調査に関わっていたここの学芸員」
- 訪雪
- 「11回……しかし、素人目にも結構いい仕事だからなあ」
- 浦上
- 「借り物をちょろまかすような学芸員なら、そもそも雇っ
ちゃおかないよ。それに、手を出したのは手伝い程度の、刀剣についてはまるで専門外の連中ばかりだ」
- 訪雪
- 「確かにそりゃ妙だ……それで」
- 浦上
- 「人目のないときに持ち出そうとするのはまあ判る。幸い、
いつも館から出る前に捕まってくれるんだが……当の犯人は自分のやったことを覚えてないんだ」
- 訪雪
- 「は?」
- 浦上
- 「誰もが誰も、持ち出そうとしたことはおろか、自分が太
刀を手にしたことさえ覚えていない。それを、人によっては二度三度と繰り返す」
- 訪雪
- 「で、この太刀自体が原因じゃないかと。そうだなあ……
すいませんが、ちょっと手に取って検分させて貰えますか」
- 浦上
- 「ううむ……まあ、僕の目があるから大丈夫だろう。次の
犯人になるなよ、ユキちゃん」
- 訪雪
- 「有難い。じゃ、手を洗ってきます」
石鹸、水、そして消毒液……汚れと皮脂とを執拗に落としながら、訪雪は荒れた指先に目を落とす。
- 訪雪
- 「また……読まにゃならんのだろうなぁ」
5分ほどして戻ると、待っていた浦上が心配そうな顔で立ち上がった。
刀は既に、部屋の隅のより広い机へと移されている。
- 浦上
- 「君にしてはえらく丁寧だな……まあ、慎重しすぎるとい
うことはないね。手袋は使うかい?」
- 訪雪
- 「……いえ、結構です」
- 浦上
- 「しかし……」
- 訪雪
- 「素手でないと判らんこともあるもんです。そのために、
念入りに手を洗ったんですから」
- 浦上
- 「まあ、君がそう言うなら大丈夫だろう。じゃあ頼むよ」
机の平面からなるべく離さないようにして包みを解き、太刀を手に取る。
懐の眼鏡を鼻の上に載せて、まずは骨董屋の目で全体をざっと検分する。
- 訪雪
- 「近くで見ると、塗りが大分傷んでますね。経時変化じゃ
なくて、ずっと前に水に浸かったかどうかしたみたいだな」
- 浦上
- 「手入れしたときにおおかた取ってしまったが、鞘の口に
塩らしい結晶が付着していたそうだ」
- 訪雪
- 「塩か……刀身は無事かな。抜いてみていいですね」
- 浦上
- 「確か無事だと言っていたが……構わんよ」
柄を持って静かに抜くと、鞘の下から銀色の光がこぼれた。
錆ひとつ浮いていない、片刃の刀身。刃文は……
- 訪雪
- 「……これを調べた連中、何か言っていませんでしたか」
- 浦上
- 「何か妙なことでも?」
- 訪雪
- 「研ぎが入ってない。悪い言い方をするなら、出来損ない
の未完成品ですよ。それにしては、焼きがしっかり入ってるのが気になるが……研ぎ出す前に拵えをつけるとも思えないしなぁ」
- 浦上
- 「そいつは変だな」
- 訪雪
- 「何か?」
浦上はポケットから大判に焼いた写真を出して、訪雪に差し出す。
- 浦上
- 「最初の盗難の直前に撮った写真だ。刃はちゃんとついて
いる」
- 訪雪
- 「確かに。色の悪いポジだが、刃の状態はよく判る」
- 浦上
- 「私が焼いたんだよ。悪かったね」
- 訪雪
- 「失礼。品物をすり替えた可能性はありませんね?」
- 浦上
- 「漆の干割れまでそっくり同じ偽物を、一昼夜で作れると
思うかね」
- 訪雪
- 「ふむ。こいつは確かに何かありそうだ……もっと集中し
て”調べ”たいので、しばらくお声をかけないで頂けますか」
- 浦上
- 「調査にノってくると、君はいつもそうだったね。判った」
柄と鞘を持った手をそのままに、指先の皮膚のもうひとつの感覚器から脳へとつながる神経を思い浮かべて、太刀の内側、物質自体に染み込んだ記憶に意識を開放する。
過去に起きた何かが要因ならば、幾人もの研究者を動かすほどの何かがあるならば、それは必ず見えてくるはず。
研究室の殺風景な白い壁。薄暗い屋敷の一室に澱んだ黴の臭い。
戦を避けて地方に移り、窮乏の一時期を伝統と自尊心でしのぐ。
それ以上の波乱を含むようなものはない。
そう思った、次の瞬間。
黒い水、泡立って膨れ上がる海水が、意識の中に雪崩れ込んできた。
雷鳴に浮かび上がる水面の向こうには、叩きつける雨と暗い空。
轟音の彼方、沈みゆく者の最後の一声。肺を満たす塩水の苦味。
現実の身体が、送り込まれたイメージに反応して激しく咳き込む。
呑まれる。思考の隅に浮かんだその文字に縋るようにして、記憶の奔流から自我を引き揚げる。渦巻く海水を、洗面所のシンクの水のイメージにすり替えて、意識の手で排水口の栓を抜く。
ヲレハ今応接室ニイテ、乾イタ机ノ上デ太刀ヲ手ニシテイル……
澄んだ水の渦が静まっていくに従って、身体感覚が戻ってくる。
- 浦上
- 「大丈夫かね、ユキ……小松君」
たまりかねた浦上の呼ぶ声で、現実世界をはっきりと再認識する。
額に浮いた脂汗が、太刀と包みの上に落ちないようにする程度には、身体のコントロールは戻ってきている。
強張った手で鞘を戻す瞬間、細く白い刃の輝きが見えた気がした。
- 訪雪
- 「私は大丈夫です。だがこの刀……相当やばい代物だ」
- 浦上
- 「君も……その、何か出来るのか? 今の反応といい……」
怪訝そうな眼差しに視線をぶつけて、頷いてみせる。
- 訪雪
- 「いくら目が利いたところで、『普通の』骨董屋が、こん
な稼業に首を突っ込めるわけがないでしょう」
浦上は深い溜息をひとつついて、それから穏やかに笑う。
- 浦上
- 「しかし、僕も珍しい教え子をもったもんだ……君の腕前
で、こいつを何とかできるかい?」
- 訪雪
- 「何とかすれば、何とかなるもんですよ。手に余るなら、
もっと腕のいい知人に頼む手もある。この太刀はお借りしていっていいですね?」
- 浦上
- 「僕は構わんが……所有者が何と言うか」
- 訪雪
- 「私の手元にある限り、持ち出せるのは私一人です。何か
起こせるのも私だけ……それだけ伝えてくれれば十分です」
- 浦上
- 「責任を取るというんだね」
- 訪雪
- 「起きたことの責任は取ります。しかし何が起こるかは、
今の私には保証できません……では、お借りします」
その晩、松蔭堂にて。
夕食に現れない訪雪を、先代が呼びに行く。
- 凍雲
- 「どうした訪雪、支度だけして、とっとと部屋に引っ込み
おって。お前が来んのでは一君も儂も食うに食えんぞ」
- 訪雪
- 「申し訳ない……お二人だけで食べて下さい」
文机の前に蹲った訪雪の腕の中には、見覚えのない細長い桐箱。
- 凍雲
- 「昼間の刀か……また、厄介なものを預かったな」
それ以上何も言わず、凍雲は部屋を出る。
深夜。
寝床からむくりと起き上がった訪雪が、枕許の桐箱を取り、スタンドの仄暗い灯りの下で太刀を取り出す。
眠りに落ちる前のとりとめのない思考の中で、もしかしたら、と思うことがあった。
鞘を右手に、柄を左手にして、そっと抜いてみる。
- 訪雪
- 「……やっぱり、な」
片刃の刀身には、研ぎ澄まされた刃だけが持ちうる、一筋の鋭い光が走っていた。刃の具合を確かめるために、刃に指先を当ててみる。
- 訪雪
- 「(刃は本物……肉眼で見間違うようなもんじゃないな)」
研ぎの良さを皮膚で感じた瞬間、手元が狂って、親指の腹に紅い線が走る。普段なら、絶対にありえないミスだった。
絆創膏の入った小引き出しに伸ばそうとした右手は、意思に逆らって刀の鞘を握ろうとする。
昼間体験した海水の味が、口の中に蘇ってくる。
- 訪雪
- 「(……来たな)」
肩の力を抜いて、正座した膝の上に太刀を横たえる。
外界への認識を絶たないために、瞼はうすく開けておく。
自分に霊感がない以上、太刀に憑いたものと双方向の交流をもつには、意識の内面まで呼び込んで擬人化するしかない。
- 訪雪
- 「ちょっと危険だが……どうにかせねば、どうにもなるま
いよ」
刀から流れ込んでくる力を、逆らわずに意識の中に導き、自我に取って代わろうとするそれを、自我と向かい合う、もうひとつの意志体としてイメージ化する。
人。海で死んだ。多分船乗り……
全身ずぶ濡れの若い男。袴姿らしい、と辛うじて判るところまでが、イメージを創る訪雪自身の造形語彙の限界。
息が声帯を震わせるのを意識しながら、はっきりと声に出して、相手に語りかける。
- 訪雪
- 「ようこそ、お客人……こんな招かれ方は不本意だろうが、
儂もあなたにいいように操られるつもりはないんでね」
水の中で喋るような、ごぼごぼ、という響きのある声で、男が何事か答える。
時折その姿が不安定に揺れるのは、まだ完全にはイメージが固まっていないからであろう。
- 訪雪
- 「どうして今頃起き出したのかは判らんが、学芸員を操っ
たのは、何処かへ行きたかったからだろう」
男が頷いて、返事の代わりに口からぽこり、と泡を吐き出す。
意志を示したことで、擬人像が成長し、憑き魂そのものの自己イメージ……衣冠帯刀して髭を蓄えた壮年の男へと変化する。
- 訪雪
- 「そうか。道理で刀が立派なはずだ。失礼……あなたの還
るべきところ、行き先を教えて欲しい。儂や誰かに害をなさない限り、そこへ連れていくと約束しよう」
衣冠の男が、重々しく頷いた。
奥の寝間の先代を起こさないように、訪雪は息を潜めて身支度をする。
太刀を抱えた腕を隠すようにして羽織を肩にかけ、素足に草履をつっかけて外に出る。
勝手口を出たところで集中を一部解くと、足は自然に表通りを目指して歩みはじめた。
- 十
- 「どうした? キノトもうダウンか?」
土蔵の十の下宿、床には万年床。その上に盆があり、一升瓶が載っている。
十は愛用の湯呑みにそそぎ、キノエとキノトは小さな杯からぺろぺろと酒を舐めている。
キノトの方はいい加減酔いが回ったらしい。こてんとひっくり返って、鼻先をぴくぴく言わせている。
- キノエ
- 「どーしたのよ、キノト! おねぇさんそんな風にアンタ
しつけた覚えないわよ!」
- 十
- 「お猪口一杯でそこまで酔えるか、お前ら安上がりでいい
ね」
微笑みながら、酒を口に含む。と、物音が聞こえた。
- 十
- 「ん?」
- キノエ
- 「ほぉら! キノト、おきなさい! まだ夜はこれからよぉ」
- 十
- 「キノエ、ちょっと黙ってろ」
- キノエ
- 「なによう、ミツル。せっかくいい気持ちなのにぃ」
- 十
- 「しょうがないな、こいつ。二階で何かが動いてる、音が
しないか?」
- キノト
- 「……た、たぶん……あの、(ヒック) 脇差しじゃない?」
- 十
- 「何か来たのか?」
十は戸を開け外をうかがう、すると勝手口の方に羽織の裾が見え、やがて戸の閉まる音。
- 十
- 「若大家に反応した? 今まであんなにうるさくなったこ
とはないぞ。怪しいな……」
十は部屋に戻るとコートと金剛杖をひっつかむ。キノエとキノトは完全にできあがってる。
- 十
- 「こいつらなしか、まぁなんとかなるだろう」
同時刻、表通りのあたりで。
とととと、と、走る音が響く。
- 花澄
- 「ゆーず。そんなに走ってると、転ぶわよ」
- 譲羽
- 『だって、退屈してたんだもん』
譲羽は、見てくれは只の人形である。昼日中、堂々と外を歩く訳にも行かない。が、もともと悪戯好きの木霊に『じっとしてろ』というのも酷な話である。
よって、このところ、夜の散歩がこの二人の日課になっている。
フェルトを二重張りにした靴を履いて、譲羽は道を走る。
と。
- 花澄
- 「?」
譲羽が、ぴたりと足を止めた。
- 花澄
- 「ゆず、どうしたの?」
てとと、と木霊は走りより、花澄の肩へとよじ登った。
- 譲羽
- 『何か、来る。恐いもの』
- 花澄
- 「恐いもの?」
そう聞いて後ろに下がるような性格ならば、周囲も迷惑しないだろうが、いかんせん、そこで前進するのが花澄である。
- 花澄
- 「何? 何が来るの?」
- 譲羽
- 『太刀』
- 花澄
- 「……? どちらから?」
風が軽く肩を押す。
木霊が警告の声を上げる。
構わず、花澄はそちらの方に進み、角から細い通りを覗いた。
- 花澄
- 「……あれ、大家さん?」
彼女のアパートの、ではない。十の住んでいる蔵の大家である。
何を隠しているのか、妙な具合に羽織を肩にかけている。
- 花澄
- 「情報を。何でもいいから。何で大家さんが太刀を持って
こんなところにいるの?」
どくん、と左手が大きく脈を打った。
- 花澄
- 「水に関わる……? ……ま、いいわ。大家さん!」
はっきり言って、不意打ちである。
- 花澄
- 「どこにいかれるんですか?」
早足気味の歩調を緩めぬままで、訪雪が振り返る。
羽織の下、体の右脇に沿って、抜き身の刀身が青白く光る。
- 訪雪
- 「ああ、こんばんは。花澄さん……」
常と代わらぬ物腰。
眠たげな濁り目の奥に、色の違う光が一瞬閃いて、消える。
- 訪雪
- 「(……まずいな。隙を見せたか」)
花澄に気を取られた瞬間、中途半端な状態で保っていた集中が、ほんの少しの間だけ途切れた。
崩れたバランスに反応したかのように、脳裏の憑き魂の像が大きく揺れる。
イメージの殻を突き破ろうとする相手の前に、擬人化した自我を向かい合わせて、もう一度語りかける。
- 訪雪
- 「さっき約束しただろう。あなたを、その望む場所まで連
れていくと。だから儂を操らんでくれ」
- 花澄
- 「大家さん……?」
訪雪は答えない。
- 訪雪
- 「あなたがそこで何を望むのかは知らん……だが、少なく
ともそこに着くまでの間は、誰にも危害を加えんでくれ。頼む……」
- 譲羽
- 『怖いもの……この人の、中。強くなってる』
花澄を無視して歩もうとする現実の身体。
声帯の振動する感覚も薄れはじめている。
投影像の額に脂汗が浮き出す。
見捨て給うな。儂は約束を守ろうとしている。この儂だけは。
縋るような目で見下ろす憑き魂の、背後から、内側から、周囲から、無数の不定形の幻像が湧いてくる。
形がないのは知らなかったから。今からイメージに閉じ込めるには、あまりにも数が多すぎる。
- 訪雪
- 「そうか。あなたも一人じゃなかったんだな。私をあなた
が頼ったように、あなたも彼らに頼られた……そういうことか」
これほどの太刀を持った貴人の乗る船。当時でも相当大きかったろう。
そしてその船が海の藻屑と消えたとき、運命を共にした者たちは……
- 花澄
- 「大家さんの話してる相手、その太刀なんですね? それ、
一体何なんですか?」
- 訪雪
- 「……困った『お客人』の皆様だよ」
途切れつつある外界との接触を、再び繋ごうとするかのように、花澄の問いに答えを返した、次の瞬間、自我の投影像は幻像の群れに押し包まれて崩れた。
- 譲羽
- 『呑まれた!』
- 花澄
- 「え?」
問い返した、その矢先。
すい、と太刀が動いた。
- 花澄
- 「!」
元々殆ど無かった間合いが詰まる。緩慢な動作で太刀が振りかぶられる。
- 花澄
- 「……そう言う事、か。……何か分かる?」
- 風
- ”水に関する呪い。ひどく古い”
- 花澄
- 「それ以上詳しいことは、わからないの?」
- 風
- ”太刀が乾いている以上”
- 花澄
- 「それならあれを濡らせばいいのね? じゃ、簡単だわ」
- 風
- ”おい”
- 花澄
- 「タイミングを、読んで」
やはり緩慢な動作で振り下ろされた太刀を、花澄は左肩一つ分遅れる形で避けた。
相手の動作を風が読み、水がそれを花澄に伝える。肩に食い込む筈の太刀は、何寸か皮膚を裂いただけに終わった。
左肩あたりの髪が一房、宙に舞う。
- 花澄
- 「……なんだかまた大勢で、取り付いているのね」
苦笑混じりの声がどう届いたのか、訪雪の体を借りた何者かは太刀を構え直した。
- 訪雪
- 「邪魔を、するか」
- 花澄
- 「この場合、するしかないでしょう」
それ以上の言葉はなかった。
振り下ろされる太刀筋を風が読み、到達地点を花澄に伝える。それを避けることは大して難しいことではない。
只、それ以上、何が出来る訳でもない。
- 花澄
- 「さて、どうやって逃げようか(苦笑)」
譲羽が悲鳴に似た声を上げた。
金剛杖を手にした十は、訪雪の後を追って木戸を潜った。
裏通りから表通りへと出る直前の路地で、前方に二つの人影を見いだす。
一人は訪雪。もう一人は。
- 十
- (花澄さん……?)
二人は低い声で挨拶を交わしていた。
花澄の態度にも、訪雪の受け答えにも、別に緊迫したところはない。
花澄の腕の中にいる譲羽だけが、何事かしきりに声を立てている。
- 十
- 「若大家も花澄さんも、別におかしいところはないようだ
な。ならばあの木霊、一体何に……」
声をかけるために、路地を足早に近寄ろうとしたとき、訪雪の羽織の下から銀色の輝きがこぼれて、覚えのある冷たい気配が、ぞくり、と背中を走った。
- 十
- 「あのオヤジ、やっぱり憑かれてやがったのか……!」
灰色の水の中にいるようだ。
水、という言葉を思い浮かべた途端に息苦しさを感じて、訪雪は慌ててその言葉を頭から追い払った。
いや、頭や息という感覚自体、いまは存在していなかった。
ものに憑かれたのは初めてではなかったが、感覚系まで絶たれたのは初めてだった。
自分は此処にいる。
多分、意識からも運動系からも切り放された自分の内側に。
意識を乗っ取られたはずの自分にそれが判るのは、恐らく意識以前の段階で自分を決める何かが残っているからだろう。
その領域に言語を持ち込めていること自体、不思議といえば不思議だったが。
ひょっとすると、今の自分は言葉だけの存在なのかも知れない。
- 訪雪
- 「(儂の身体はどうしとるんだろうな……花澄さんに怪我
でもさせてなければいいが)」
無い頭で思考した瞬間、無い鼻腔に血の臭いが流れ込む。
行き場のないはずの思考に、外の身体が反応している。
- 訪雪
- 「(儂……儂の身体が、ひとを傷つけているのか)」
一瞬蘇った外部との接続。恐らく当たっている嫌な予感。
関わっているのが自分だけなら、目的を果たした連中が身体を返してくれるまで、気長に待ちもしよう。
しかし。
自分を定義する言葉を軸に、崩された自我像を再構成する。
もう一度、意識の表面に這い上がるための、唯一の道具として。
現在の自我は彼らに敗れた。ならばもっと強い……外向きの力をもつ自我を。
まだ背中の伸びていた頃。両眼が疲労で濁る前。
声を上げさえすれば理解されると、努力さえすれば理解できると、無邪気に信じていた、7年前の自分を……
- 訪雪
- 『あんた方が花澄さんを傷つけた時点で、約束は破れた。
これ以上、儂の……ヲレの身体を、あんた方に貸してはおけねぇよ』
自己の内側に、記憶から創られた21歳の訪雪が立ったとき、無色の空間に初めて「上」という方向が生じた。
- 十
- 「何してるんですか、若大家!」
花澄に向かって次の太刀を振り上げた訪雪を、背後から羽交い締めにして、十が怒鳴る。
運動不足とは思えない力でそれを振り払おうとする訪雪が、濁り目にこの世のものならぬ光を湛えて振り返る。
- 訪雪
- 「貴様も……邪魔立てするか」
- 十
- 「当たり前だ。目的は知らんが、これを放っとけと言われ
たら、俺は断固拒否するぞ」
- 訪雪
- 「ならば……死ね。我等のように。我等の代わりに」
十の腕を軋ませて、訪雪が羽交から抜け出し、逆手に持ち直した太刀をアスファルトに突き立てる。
強い潮の香り。
幻影の海水が路面に渦巻いて、夜の商店街を急速に浸してゆく。
実体が無いはずの水が、確かな冷たさをもって花澄と十の足を濡らす。
- 花澄
- 「本物の……海水?」
- 風
- ”当事者にだけは、確実に”
- 十
- 「若大家……いや、こいつら、俺たちを溺死させるつもり
か」
水位はみるみるうちに上がって、既に花澄のスカートの半ばまでを浸しはじめていた。
周囲の建物は水没しているが、花澄と十、そして目の前の訪雪以外の何ひとつとして、海水をかぶっている様子はない。
- 風
- ”このままでは、溺死する”
- 花澄
- 「どうしたらいいのかは、まだ思いつかない。でも、私だ
けでは逃げられない」
- 十
- 「この様子じゃ、何処まで行っても俺たちが溺れるだけだ
ろうな。いや、花澄さんは何とか大丈夫だろうが、俺と若大家は……」
自分に守護はない。まして、霊的にはまるで一般人と変わりない訪雪は。
水しぶきのかかるリュックから、花澄の肩によじ登った譲羽が、不意に声を立てる。
- 譲羽
- 『……生きてる。大家さん』
- 花澄
- 「えっ?」
- 譲羽
- 『こっちに、出てこようとしてる』
訪雪は自分の意識を捜していた。
身体という殻に拘束されない想像力を使って、「上」を目指して、イメージの左腕を無限に伸ばしてゆく。
自己が生きているということは、間違いなく身体も生きているはず。
生きて、呼吸をして、動いているはず。
生命の感触を求めて伸ばした腕が、肺の外壁に触れる。無論自分の肺など触れたことがない。知識で創ったイメージの肺。
動く肺に手を当てているうちに、外部との接触の手段を思いつく。
擬人像の腕に力を込めて、肺を手繰り寄せる。
肺の次は気管へ。声帯、咽頭、顎関節、舌、そして唇……
イメージの身体の一部を、現実の肉体の同じ部分に溶け込ませる。
外からの音が聞こえぬまま、喉に伝わる振動だけを頼りに、取り戻した唇で声を、言葉を紡ぎ出す。
- 十
- 「やつらを倒せば、この水も消えるんだろうが……」
無音の町、彼らの耳だけに聞こえる海鳴り。
突き立てた太刀の柄頭にかるく右手を預けた訪雪は、無表情なまま立ち尽くしている。
- 十
- 「若大家の身体を傷つけたところで、奴等が消えるとは限
らないんだろうな。そのときは恐らく、俺たちのどっちかに憑き直すだけだろう……やっぱりキノエ達を連れてくるんだったか」
十がそう呟いたとき、訪雪の呼吸が不意に乱れた。
呼吸のしかたをまるで知らないかのように、胸郭が大きく波打って、痙攣する喉から、妙なアクセントを伴った、軋るような声が発せられる。
- 花澄
- 「大家さん……?」
- 訪雪
- 『鞘……松蔭堂の、ヲレの……部屋にある……』
その頃。
- ユラ
- 「あれ……?」
マヤと一緒に夜の散歩を楽しんでいたユラは、何か懐かしい感覚にふと立ち止まった。
どことも知れぬ路地。猫だけが知っている道。
マヤの機嫌がいいときには、ユラもこうして猫道をさまようことが許される。
塀の上、裏庭、軒の下、およそ道ではない道には、ときどき奇妙な夜のいきものがしなやかにゆきかったりして、少しばかり非日常の感覚がそこここに転がっている。
だが、今のそれは、そのどれとも違った。
- ユラ
- 「ねえマヤ、なんだか……ねえ、ちょっと待ってよ」
知らんふりして先を行くマヤに呼びかける。
- マヤ
- 「……厭」
マヤはくるりとふりむいて鼻をならした。
- マヤ
- 「あたしは何だか厭な感じがする。べたべたして、しょっ
ぱくて……」
- ユラ
- 「べたべたしてしょっぱくて……あ!!」
すい、と手を延ばし、マヤを抱きあげる。
懐かしい感覚が、はっきりと形をとった。
匂い。知っている。覚えている。これは、海の匂いだ。
ゆりあげる波、潮を巻き上げる風、海のないこの土地で、何故。
- ユラ
- 「えーと、こっち、ね!」
鋭敏な鼻が、風に混じる塩気をかぎわける。
海の気配。それだけで心が踊った。
散歩用の、足音のしない靴が、しなやかにはずむ。
闇色の、やわらかな長いワンピースが足首にまといつくのを軽くさばき、ユラは猫のように走り出した。
- マヤ
- 「やめてよ、やめなさいったら!」
腕のなかでマヤが暴れる。
- ユラ
- 「大丈夫よ……あれ、でも、風が……」
はた、と立ち止まる。
ゆったりとうねっていた海の気配が、急に黒くふくれあがってくる。
風がうなり、潮を陸の奥ふかくまで吹き飛ばす。
豊かな黒潮の流れが渦を巻き、波に触れるすべてを咀嚼し、飲み込む。
結った髪がばらりと解け、激しく顔を打った。
目が痛い。潮が肌をこすってゆく。
木々がひきちぎれ、地のそこを這うような風の重低音は、たちまちのうちにかんだかい悲鳴に変わる。
波が牙を剥く。空に向かって。届かずに怒り狂う。
風が波を拐う。そうしてごうごうと吠える。
- ユラ
- 「台風……?」
マヤが凄まじい声をあげて、ユラの腕から飛び出した。
その瞬間、急にあたりが静まり返った。
見渡せば、ただおだやかな夜。木の葉一枚、揺らぎもしない。
- ユラ
- 「さっきのは……」
しかし、意識を集中させれば、静かな夜気の奥底に、確かに潮をふくんだ水の気配。
- ユラ
- 「なにか、いるんだ……」
ほう、と息をついた。
強い風、潮のうねり、ほんのわずかな気の緩みのすきまから、あっさりと人の生活を、ときには命を、拐っていくもの。
だが、懐かしい、と思った。
それが、好奇心に拍車をかけた。
ユラは静かに立ち止まり、そっと手を延べた。
- ユラ
- 「どこにいるの、海のものたち……」
初めての鳥に声をかけるときのように、初めての樹の声に耳をすますときのように、すべての感覚を、"外”にひらいた。
遠くから、水の気配がかけてくる。
ユラはかすかに微笑んだ。
そのころ、たまたま夜の散歩をしていた緑は……
- 緑
- 「(ピッ)あら、センサーに何か変な反応がありますねぇ
こっち……かな?」
緑は反応のあった方へ歩き出した。
そしてこちらは、幻影の水に没しつつある商店街。
- 譲羽
- 『いまの声、本物の大家さん』
- 十
- 「鞘……?」
- 花澄
- 「大家さんは、始めから抜き身の刀を持っていた。その鞘
を家に置いてあるってことだわ」
- 十
- 「鞘があれば、憑いている奴を鎮められるかもしれない、
ということか。しかし……」
既に水面の下になって見えないが、訪雪の手元には、まだあの太刀があるのだろう。
何をするか判らない、しかも凶器を手にした訪雪と、傷を負った花澄を、残してゆくわけにはいかない。
- 花澄
- 「私なら大丈夫。多分今は、大家さんに憑いた奴等も動か
ない。それに……いざとなれば譲羽もいます。この子だって木霊だから」
- 譲羽
- 「ぢぃっ」
リュックから出た譲羽が、花澄の頭の上で十を見る。
- 十
- 「この水さえなければ、あなたに松蔭堂に行ってもらった
方が、俺としては安心なんだが……気をつけて待っていて、危なかったら躊躇わず逃げてください。行ってきます」
- 花澄
- 「急いで」
重い海水を掻き分けるようにして、十は松蔭堂を目指す。
勝手口は遠すぎる。ならば表から。
店先の雨戸を体重でぶち破り、靴のまま店の間の板敷に上がる。
雨戸の破れ目から雪崩れ込んだ水が、みるみるうちに店を、座敷を満たしてゆく。
目指すは鍵の手の廊下の先、混沌の支配する訪雪の四畳半。
障子を蹴り飛ばして四畳半に入る。
いつもと寸分違わぬ乱雑さの中央近く、文机の脇に、鞘は投げ出されたままになっていた。
水は胸の高さに達している。
大きく吸った息を止めて、重い海水に頭を突っ込む。
水中で目を開いて鞘に手を伸ばすが、見当が狂ってうまく掴めない。
右手が数回、空しく水をかいたあとで、漸く漆の感触が指先に触れた。
- 十
- 「(俺の身長でこの水嵩か……少しでも高いところへ逃げ
ていてくれればいいが)」
鞘をつかんだ手を水の上に翳すようにして、元の場所に泳ぎ戻ったときには、既に十の足は地面を踏めなくなっている。
花澄は、ビニール袋の中に入れた譲羽を近くの店の庇に上げて、自分は片手で軒の雨樋をつかみ、もう片手で訪雪の上腕をつかんで引き寄せようとしているところだった。
- 十
- 「花澄さん! あなたの力じゃ無理だ」
虚ろな目の訪雪は、だらりと脱力して水に漂ったまま、自分から動こうとはしない。
雨樋をたどって二人に近づいた十が、訪雪の腕を取ろうとするのを、花澄は首を振って制した。
- 花澄
- 「手伝わなくていい。あなたは早く、刀を鞘に戻して」
- 十
- 「しかし……」
- 花澄
- 「大丈夫。私も、この人も、まだ溺れはしない。溺れさせ
ない」
- 風
- ”お前だけでも、我等の守護を”
- 花澄
- 「要らない」
肩の傷口から流れ出した血が、周囲の水面を染めている。
傷ついた方の腕の力が緩んで、花澄は雨樋を放しそうになる。
- 譲羽
- 「ぢいいっ」
- 十
- 「肩怪我してるじゃないですか! 無理ですよ、力仕事な
ら俺が!」
- 花澄
- 「ならば鞘を貸して。私が潜って、刀を納めるから」
濡れて顔に貼りついた髪の間から、強い眼差しが十を見据える。
- 十
- 「……わかり、ました。鞘は俺が。若大家お願いします!」
- 花澄
- 「急いで……お願いします」
塩水は苦手だった。うねる水は黒く、底など見えようはずもない。
- 十
- 「(ちぃ、刀身はどこに!)」
十は式神を連れてこなかったことを改めて悔やんだ。この状況下でいかにしてあの太刀を捕捉するか。
- 十
- 「(落ち着け!)」
太刀そのものはこれほどの現象の結節点になっている以上、普段の十なら探し出すことはたやすいはずだった。問題はここが水の中だと言うことだ。
眼を閉じて、体の力を抜く。水上に顔を出し一度大きく息を吸い、呼吸を整える。そして、水中にそっと立つ。気息さえ整えさせられば五分は活動できる。
- 十
- 「(どこだ?)」
その時、十の目の前に白く膨れ上がり体毛の抜け失せた体がゆらりと現れた。輝きを失った瞳がくるりとひっくり返り、十の方を見つめる。
- 十
- 「(!?)」
とたんに足を引かれた。黒い水中に大小の気泡が浮く。
足を捉えたのは、藻のように揺らめく人の頭髪だった。海底、いや違う。商店街の路上に一群の人影がたむろしている。彼らは抜けかけたおのが頭髪を操り、十をたぐり寄せていた。
- 十
- 「(!!)」
もがいて離れようとする十。その体を傍らの屍が羽交い締めにする。
耳元で屍が何か囁いたようだった。膿崩れた唇から、ガスの気泡が細かく舞い上がる。
十は背後からの腕に自分の腕を絡め、脇の下で屍の肘を逆に取る。繋ぎ目の緩くなった肘はあっけなく折れた。
- 十
- 「(ありがたい! そっちから仕掛けてくれりゃ、何とかな
る!)」
水中で十の顔がかすかに笑った。折り取った腕の白く膨れた皮膚に爪で呪言を刻みつける。
そして、その肘に口を押しあて呪を口入れる。
一瞬唇に感じた不快な皮膚の感触は、すぐに鱗のそれへと変わっていった。
目の前で折り取られた肘は見る間に一匹の白蛇へと変わっていった。
- 十
- 「(式神返しの応用だ、残念ながら二倍返しってわけには
行かないがな)」
白蛇は水中で首をもたげると、十の足にからみついた毛髪を噛み切り、そしてそのまま水中を泳いで行く。
十はその後を追う。
やがて、水中にきらめく刀身が見え、白蛇はその刀身にからみつくと口を開けて切っ先を呑み込みはじめる。
- 十
- 「(無理はしないでいい、そこまでだ)」
十は腰に差した鞘を抜くと、太刀を取り刃を鞘に収めた。
十はまだ戻ってこない。
増した水嵩に押し上げられるように、花澄は軒の上に乗って、相変わらず動かない訪雪を引き上げようとしていた。
雨樋をつかむ必要がなくなったおかげで、左肩の傷の痛みは幾分和らいでいたが、大の男を右腕一本で持ち上げるのは、容易なことではなかった。
屋根に上げたビニール袋の中で、譲羽が声を立てた。
- 譲羽
- 『ゆずも、手伝う』
- 花澄
- 「そこから出たら駄目。体が溶けるわ」
木粉粘土の体は、雨に当たればひとたまりもない。
- 譲羽
- 『でも……花澄、怪我してるのに。痛いのに』
- 花澄
- 「私は大丈夫。でもこのひとは、私が手を放したら溺れて
しまう。ゆず、そこから大家さんの様子はわかる?」
- 譲羽
- 『少しずつ、出てこようとしてる。でも、怖いもの、いっ
ぱい……え?』
木霊が不意に口を噤む。
- 花澄
- 「どうしたの? ゆず」
- 譲羽
- 『怖いもの……』
急に右腕が重みを感じて、花澄は軒から滑り落ちそうになる。
華奢な手首を、訪雪の左手ががっしりと掴んでいた。
- 訪雪
- 「畜生ォォォヲレの体を返しゃアがれェェェッ!」
普段の物腰からは想像もつかない叫び。
花澄の腕を手繰るようにして、訪雪は軒の上に這い上がる。
- 花澄
- 「くっ……」
滑った体を左腕で支えようとして、花澄が抑えた呻き声を立てる。
- 譲羽
- 『大家さん……怖い』
袋の中で縮こまった譲羽を、凶暴な眼差しが睨み据える。
花澄に視線が移ると、その眼の光は薄れて見えなくなった。
- 訪雪
- 「花澄さん……」
- 花澄
- 「戻られたんですね。よかった」
- 譲羽
- 『怖いもの、ここには、もういない』
雨は小降りになっている。
肩の傷の、雨に洗われた血の痕に目をやって、訪雪の顔が泣きそうに歪む。
- 訪雪
- 「やっぱり……傷つけちまってたのか」
- 花澄
- 「この傷は、私がわざとやったんです(苦笑)。大家さん
が気になさること無いですよ」
- 訪雪
- 「傷つけたのはヲレの体。操らせたのはヲレの頭。弁解の
余地はない。あなたが、鞘を戻してくれたのか」
- 花澄
- 「いいえ。いま一さんが潜ってくれています」
近くの水面がしぶきを上げて、十が頭から浮かび上がる。
荒い息遣いに合わせて揺れる手には、鞘に納められた太刀が握られている。
軒の上の訪雪に目をやって、表情が厳しくなる。
- 十
- 「あんた……本物か」
- 訪雪
- 「多分な。今のヲレが、お前の知っている小松訪雪とは限
らんが。鞘を見つけて納めてくれたのは、お前だったのか……済まない」
差し伸べられた手を払って、十は軒の上に、ついで全員が屋根の上に登る。水の下……足元の家の人間が起きてくる気配はない。
- 十
- 「この刀について、若大家に聞きたいこと、言いたいこと
は山ほどあるが、(周りを見回す) 今はンなこと言ってられないみたいだ。鞘に収めれば、終わるのか?」
- 訪雪
- 「ある程度はな。だが完全にじゃない。太刀を貸せ」
- 十
- 「何をするかしらんが、次も呑まれたらこっちのやり方で
やらせてもらう。動けるかどうかはしらんぞ」
- 訪雪
- 「いいだろう。好きにしろ」
十から刀を受け取って、抑えた感覚で残った記憶を探る。
- 訪雪
- 「……畜生」
- 十
- 「どうした?」
- 訪雪
- 「道理で抜け出すのが楽なはずだよ。奴等他の誰かに引っ
越しゃあがった。もうじきここに、刀を取り返しに来るぞ」
潮の匂いを濃く含んだ風が、ごう、と渦巻いた。
- 花澄
- 「足音……屋根の上を?」
- 風
- ”新たな犠牲者……海を求めた者に憑いて、戻ってくる”
- 譲羽
- 『怖いもの、帰ってくる……ゆずの知ってる人と、一緒』
数軒先の屋根瓦を踏んで、軽やかな足音が近付いてくる。
- 十
- 「あれは……ユラ!」
連なる屋根を跳んで、彼らの前に立ったユラが、刀を持つ訪雪に向かって、広げた手を差し伸べる。
- ユラ
- 『我等に、その太刀を渡せ』
- 訪雪
- 「嫌だね。あんた方こそ、その体を返したらどうだ」
訪雪の声の調子は、いつものものに戻っている。
片手に太刀を無造作に引っ提げた、まるで緊張感のない姿勢で、訪雪はユラと向かい合う。
- 十
- 「吹利で船幽霊に会うとは思わなかったぜ(ため息) さす
がに柄杓は用意してないなぁ」
- 訪雪
- 「人を見る目がねぇやなぁ、ヲレ……いや、儂も。学芸員
を操ったのは、ただ故郷に帰りたかったからだと思っとったくらいだから。あんた方、自分が死んだのが判っとらんな? というよか、自分の死を信じられんで、死んだのは他の誰かだと思い込もうとして……そのために、死人を増やそうって魂胆だな? 無駄だよ。あの世には底なんてありゃせん。いくら死人が増えたって、定員オーバーで追ん出されることはないんだよ」
- ユラ
- 『貴様の御託など聞きとうないわ。太刀を、我等に。さも
なくば……』
再び強くなる雨足にも、動揺した表情は微塵も見せない。
- 訪雪
- 「脅しても無駄。弱点はこっちが握ってるんだから。その
体はあんた方のものじゃない。持ち主に返してあげなさい」
- ユラ
- 『千歳あまりの時を待って、漸く手に入れた我等が体……
己が肉体を貸すことを拒んだ貴様に、何を言う資格があろう』
己を差す指先に、訪雪は困ったような目を向ける。
- 訪雪
- 「ふぅん……やっぱり、嫌なの。それじゃ」
鞘のなかほどを握った左手を、ユラの……死者の群れのほうに突き出して。
- 訪雪
- 『塵になって失せろ』
昼下がりの雑談と変わらぬ調子で、呪いの言葉をぼそりと呟く。
太刀を奪おうと伸ばした手の中で、漆の鞘がぼろりと崩れる。
- ユラ
- 『……!』
- 十
- 「若大家、いま何を……」
一瞬にして錆の塊と化した刀身が、トタン屋根の上に降りそそぐ。
声をかけた十の方を振り返って、訪雪は口を開きかけたが、何も言わぬまま元のユラの方に向き直った。
- 花澄
- 「あの力は……」
- 風
- ”時を進めて、物質を土に還す”
- 十
- 「水音が消えてく? あの太刀が、溺れたあいつらを縛る
ものだったのか! 海すらも奴らの思いが作り出したものか!」
全身を濡らした海水が、塩の結晶ひとつ残さずに乾いてゆく。
渦巻く風の幻聴が、人の哭く声に聞こえた。
- 訪雪
- 「済まんなぁ、お客人……約束を守ろうとしてくれたあな
たを、道連れにしちまった」
脳裏に浮かんだ擬人像が薄れて消える。
次の瞬間には、どんな姿だったのかさえ、もう訪雪には思い出せない。
- ユラ
- 『やめろ……太刀に手を出すな』
- 訪雪
- 「もう遅いよ。儂にはモノの時を進めることは出来ても、
戻すことは出来ん。海を潜った刀がいままで保っていたことのほうが、むしろ奇跡だったんだよ……よっこらせっと」
胸倉をつかむ手を引きずって身を屈め、朽ち残った柄を拾い上げる。
- 訪雪
- 「あんた方は死んでいる。ずっと昔にね。そのことをいま
一度思い出して、太刀とともに時間に還るといい……永遠に、御機嫌よう」
訪雪の言葉に、ユラは烈しい怒りの表情を浮かべかけて、そのまま糸が切れたように崩折れた。
その体を受け止めようとした訪雪が、人の重みを支えかねて、トタンの上に膝をついた。
- 十
- 「ユラ!」
- 花澄
- 「大家さん!」
- 訪雪
- 「儂は何ともない。小滝さんも多分、休めば回復するよ。
うちへ引き上げて、花澄さんの傷の手当てを急ごう。それと……」
- 十
- 「まだ、何か?」
- 訪雪
- 「喉がからからだ。戻ったら茶でも淹れようか」
- 十
- 「茶って……全くあんたって人は、緊張感があるんだかな
いんだか」
苦笑する十にユラの体を預けて、訪雪は立ち上がった。
松蔭堂、訪雪の4畳半。
小さな文机と積み上げられた本の間に、3人の人間と1体の木霊が窮屈そうにひしめいている。
花澄の肩の傷には、応急処置のガーゼが貼られ、切れたブラウスの上から訪雪の羽織をかけている。
譲羽は壁の本棚に乗って、花澄の方を見ては心配そうに声を立てている。
一旦意識を取り戻したユラは、今は毛布にくるまって、隅で丸くなって眠っている。
文机の上には、冷めた茶の入った湯呑みが4つ載っている。
小さな風呂敷包みを抱えて戻ってきた訪雪が、文机の傍らに胡座をかいた十に、かるく頭を下げた。
- 訪雪
- 「ただいま……みんな落ち着いたかね」
- 十
- 「一応は。刀を回収してきたんですか」
- 訪雪
- 「うむ。一応預かり物だからね。拾える分は全部集めてき
たよ」
手の中の包みは、太刀を収めるには余りにも小さかった。
松蔭堂に戻る道すがら、訪雪はもう一度だけ、太刀の残骸の記憶を読んでみた。
掌の感覚を目一杯に開いても、最早何も見えなかったし、聞こえなかった。
- 十
- 「何故……自分で動く前に、俺に相談しなかったんです。
最初からプロに任せていれば、こんなことには……関係ない二人を巻き込んで傷つけるような事態には、ならなかったはずだ」
- 花澄
- 「一さん、私は……」
- 訪雪
- 「儂が取ったのは最低の解決方法だった」
疲れてはいるが、嘆いても悪びれてもいない、淡々とした口調で続ける。
- 訪雪
- 「依頼人の信用と、周囲の安全と。自分の精神力を過信し
たが故に、儂はどちらも守れなかった」
そして、いまでは顔すら忘れたあの人物との約束も。
- 訪雪
- 「許しは乞わない。乞う資格がない。いま出来るのは、起
きてしまったことの後始末だけだ。そのくらいは儂に……私に、やらせて下さい。花澄さん、一君、ゆずちゃん、それと、いまは寝ているようだが……小滝さん」
膝を揃え、擦り切れた畳に両手をついて、訪雪は深々と頭を下げた。
数日後の松蔭堂。
暑い蔵から脱出してきた十が、茶の間の障子を開けて入ってくる。
- 十
- 「あっちぃ……何か冷たいモンないすか」
- 訪雪
- 「麦茶でよければ。蔵住まいにこの陽気はこたえるとみえ
るね」
恐らく来ることを予想していたのだろう。
水滴のついた麦茶ポットの脇には、新しいグラスが用意されていた。
カットグラスのタンブラーに注がれた麦茶を、十は一気に飲み干した。
- 十
- 「蔵の二階ががらんとしているようだが、何か売れたんで
すか」
- 訪雪
- 「何だ、気がついたのか。ありゃ売れたんじゃない、売っ
たんだ」
- 十
- 「……この間の、賠償ですか」
訪雪は頷いて、自分の湯呑みからひとくち、麦茶を啜る。
- 訪雪
- 「本当なら、訴えられても文句は言えん立場だ。所有者も、
美術館も、菓子折りひとつで頭下げて済んだのは御の字だよ」
手を合わせる仕草をしてみせる訪雪の頬骨の辺りに、うっすらと打撲の痕が残っている。
麦茶を注いでもらうときから、十はそのことに気付いていたが、その原因については何も聞かなかった。
- 十
- 「菓子折り? そんなものに……」
- 訪雪
- 「この世界、菓子折りには熨斗袋がつきものでね。狩野の
屏風一双、高台寺蒔絵の嫁入り道具一式、それと備前の古刀をいく振りか。いろいろと姑息な真似はしたが、結局それだけは売らざるを得なかったよ」
- 十
- 「姑息な真似、というと」
- 訪雪
- 「鑑定書に、手を加えた。あれは早くとも桃山以降の新刀
だとね」
- 十
- 「それって……」
日本刀のことはよくは知らない。
しかし、何を言おうとしているかは判る。
- 訪雪
- 「うむ。大嘘だ。もしばれたら、下手すると一生、この商
売は出来んようになる」
- 十
- 「一生って、あんたそれでよかったんですか」
- 訪雪
- 「一君。この商売に必要なのは、よく利く目と、低い腰と、
分厚い面の皮だよ。あれ以上の被害者を出さずに済んだだけで、よしとしようじゃないか」
何事もなかったかのように笑って、訪雪は手の中の湯呑みを空けた。
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