第三夜  〜ささやかな愛〜  著:遊鬼流人



「ささやかな愛」という名のカクテルが『紅熊亭』のメニューにある。だが、そのカクテルには値段が記 されていない。この酒場で長い間働いてきたリックもそれがどういうカクテルなのか、何故値段が付けられ ていないのか、その理由を知らなかった。


「ねぇ、おじさん。前から気になってたんだけどこの『ささやかな愛』ってカクテル、どうして値段がつ いてないの?」
そろそろこの『紅熊亭』にも客が入ってくる時間帯だった。『紅熊亭』唯一のウェイトレス、キャスは客 用の椅子に腰掛けて壁に掛けられたメニューを頬杖ついて眺めている。
「そういえば注文された記憶もないなぁ」
木製のグラスを洗っている、『紅熊亭』で雑用係として働いているリックにとってもこの話題は大いに気 になる事である。この店で働きはじめてしばらくして、リックも同じようにこのカクテルについて尋ねたの だが、満足できる答えはして貰えなかった。何か、言いたくないことがあるのかもしれない。そうリックは 自分を納得させて今までこの事には触れないようにしてきたのだ。
「…そうだな。そろそろこのカクテルの由来を知ってもいいかもしれんな」
ギムレットの呟きに思わずリックは手を止めて顔を上げた。
「リック、コップをよこせ。二つだ」
言われたままにリックは洗ったばかりの木のコップを渡す。ギムレットはコップを並べると注意深く複数 の酒をコップに注ぎ始める。
リックとキャスはそんなギムレットを緊張した面もちで眺めていた。普段からカクテルを作る時はギムレ ットはいつも真剣である。だが、今のギムレットは二人が今まで見たことないほど真剣な顔をしていた。
「できたぞ。これが『ささやかな愛』だ。飲んで見ろ」
そっけなく言ってギムレットはカウンターにコップを二つ並べた。そこには薄桃色のうまそうな液体が 八分目程まで入っていた。
「さあ、飲んで見ろ」
二人は顔を見合わせると恐る恐るコップを手に取った。ギムレットがあれほどまでに真剣になって作った カクテルである。いったいどれほどうまいのだろうか、二人はゆっくりとグラスに口を近付け、そして一 口、口に含んでみた。
「なにこれっ!」
さきに悲鳴を上げたのはキャスだった。続いてリックも、
「なんだぁ、このカクテルは!?」
思わず大声で叫んで口の中の物を洗い場に吐き出した。
それほどまでにこのカクテルはまずかったのである。まさしく言葉に出来ないという形容がふさわしいく らいに。
「おじさぁん、なんなのよ、これぇ」
「いったいこのカクテルは何なんですか」
青い顔をして情けない声を上げる二人をギムレットは豪快に笑った。
「こいつは俺が三日も寝ずに作ったカクテルだ。まずいだろう? どうして俺がこんなにカクテルをしか も三日寝ないで作らなければならなかったというとだな…」
それはギムレットが『紅熊亭』をまだ開いたばかりの頃、リックもキャスもまだ店にいないときの事だ った。いく種類かの酒を混ぜ合わせて新しい酒を作るカクテルが人気を呼び、『紅熊亭』は夕方になるとカ クテルを飲もうと言う酒好きが集まりにぎわっていた。その中に一人の男がいた。名はレオン。彼は常連の 中でも特にカクテルを気に入り、毎晩のようにやって来てはカクテルを何杯も空けてひどく酔って帰る。そ れは店をやっているギムレットの方が彼の体を心配するほどだった。
そんなある日。開店前の『紅熊亭』を尋ねてきた一人の若い、美しい女性がいた。その女性はレオンの妻 ミーシャだと名乗った。
彼女は真剣な顔をしてギムレットに、自分の夫を店に入れないようにしてくれないか、と頼んだ。
夫が毎晩のようにこの店に来てはカクテルという酒を飲んでいることは知っている、と。
レオンの家は裕福な商家であった。商売の方もうまくいっており毎晩の酒代に困るわけではなかった。だ が、毎晩のようにおいしいからと酒を飲んでいてはやがて体を壊す。
そうなると商売の方もうまくいかなくなるかもしれない。
「商売のことはいいんです。ただ、あの人が体を壊さないか、それだけが心配で」
うつむいて彼女はそう言った。
確かに彼女の気持ちは痛いほどギムレットには理解できた。かと言って、新しく店を開いたばかりでまだ 客が完全に定着しているわけではない。そんな時に客を店に入れないようにするというのはギムレットにと っても勇気のいることだった。
「…でもカクテルというのはよっぽどおいしいのでしょうね。そんなお酒なんてなければうちの人だっ て…」
うらめしげな口調で彼女はぽつりと呟いた。その時、ギムレットはいい考えを思いついた。
「一週間、いえ、三日待っていただけませんか。何とかレオンさんがこの店に来なくなるように、いや、 酒を飲まなくなるようにしますから」
その言葉を聞いてミーシャは深々と頭を下げ「よろしくお願いします」と言って帰った。


そして、三日後。いつものようにレオンは『紅熊亭』に現れた。
「親父さん、今日は『サンライズ』からにしようかな。よろしく」
陽気な口調でレオンはカクテルを注文する。ギムレットは黙って作業に取り掛かった。


ただし作るカクテルは「サンライズ」ではない。
しばらくしてギムレットは薄桃色の酒の注がれたグラスをレオンの前に置いた。
「おや? これは『サンライズ』じゃないじゃないか」
「今度新しく作ったカクテルなんだ。名前は…『ささやかな愛』だ。まだ誰にも味を見てもらってないん だ。レオンさんはいつもひいきにして貰ってるから特別に。代金は貰わなくていいから」
精一杯愛想よくギムレットは言った。「代金は貰わなくていい」という一言が効いたのかレオンは「仕方 ないなぁ」などと言いつつ嬉しそうに、一気にそのカクテルを飲み干した。
一瞬で顔が土色に変わった。
そしてそのまま椅子から転げ落ちた。
気絶したのである。
「みなさん。心配しなくていいです」
驚く他の客に対しギムレットは大きな声で言った。
「これはこの店のサービスですから」
ギムレットはにんまりと笑った。客達もわけの解らないまま納得してしまった。


「それで、どうなったんですか?」
「レオンはきっぱりと酒を止めたよ。あの日以来、酒なんか見るのも嫌になったそうだ。ミーシャさんが 次の日お礼を言いにきてくれたからな。ま、俺もまさかあんなに効果があるとは思わなかったがな」
「でも、何だか可愛そう…」
げんなりした表情でキャスが呟いた。あのカクテルを一気に飲み干すことを想像して気分が悪くなったら しい。
「確かにな。でもその後きっぱり酒を止めてレオンは自分の店を二倍にも三倍にも大きくしたんだ。一概 に可愛そうとも言えないさ」
「でも、何でその話をわざわざ俺達に隠していたんですか?」
リックが尋ねた。確かにもっともな疑問である。
「…リックには、こんなまずいカクテルをお客様に出すつもりか、って怒鳴った事もあったからな。その 俺があんなまずいカクテルを客に出したなんて事、そう簡単に言えるか」
今度は二人が笑う番だった。
「…何がおかしい」
「だって親父さんもつまらない事にこだわるんだなぁと思うと…」
ギムレットはわざとらしく咳払いをした。
「いいか。この話をおまえ達にしたのは酒の恐さを知ってほしかったからだ。酒というものは良薬にもな る。だが一歩間違えれば悪魔の薬にもなるんだ。おまえ達もこの事を肝に命じて働くんだぞ」
それだけ言ってギムレットはそそくさと厨房に姿を消した。そろそろお客がやってくる時間だ。
「悪魔の薬、か…」
自分はまだまだ未熟だな、そう思ってリックはコップの中の酒を流しに捨てると手早く洗う。
「いらっしゃいませ!」
キャスの声と扉の開く音が重なった。
『紅熊亭』の一日の始まりである。


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